事件悪化。
心臓の近くから押し上げてくるようにして、傷んだ血が喉元を灼いた。
「それ」は思っていたよりもずっと早く、走るようにやってきた。その勢いは予想を裏切って激しかった。
(早過ぎる)
本当はこんな風に黙って耐えても、事態が好転することはない。身体の衰えのせいで進行が早まるばかりだ。一刻も早く方法を考える必要があった。
四月を越えても桜は咲かなかった。異常気象のせいでないのは明らかだった。異常気象なら、もっと日本の広範囲に広がる筈である。人間の今の科学力で発見出来ない、ウイルスによる伝染病であるとでも思わなければ説明がつかなかった。
科学や智恵の触れることの出来ない深い場所で、桜が咲かない理由にもっと鋭敏に気づいている者もいた。学者でもなく、気象の研究者でもない、ただ、普段から悪い夢にうなされ易い少女であったり、帰らない恋人を待ち過ぎて夜に敏感になった若い男。そういう人間たちが、暗い裸の桜の側を通り過ぎる時、早足になって、粟立つうなじを硬くすくめた。
魔の春の訪れだったのだ。
そしてしばらくして、訪れと同じようにゆるやかに、とうとう四つもの街に桜が咲かないままで春は去った。
雨が降っていた。
肌寒い午後だ。少し風が出始めて、冬のように冷たい雨になった。雨足は強くなかったが、充分に服の内側まで染みとおって来た。
「やってらんねえな」
幽助は肩をすくめて校門に向かって駆け出そうとした。
「おい、幽助」
後ろから深く低い声がかけられる。振り向いた。数学教師の竹本である。幽助を気に入っているのだ。始終彼を気にかけて構って来る。幽助にとっては有り難いような、閉口するような相手だった。玄関先で振り向いた幽助は一見不機嫌そうに眉をしかめてみせた。
「何だよ、フケてねえぞ」
「馬鹿。そうじゃない。お前、カサ持ってないのか?」
「今朝晴れてたしな。持ってきてねェよ」
「これを貸してやる」
竹本は手に持った黒いカサを、幽助にややぶっきらぼうに差し出した。幽助は目を丸くした。次に、小粒の歯を見せてひらめくように笑った。
「じじいのカサなんか借りられっかよ。自分でさしてけよ、タケセン」
「馬鹿もん。わしは自分のを持ってるから云ってるんだ。これは職員室の置き傘だ」
「へえ」
幽助は、片方の眉を上げて、また何か軽口を返そうとするように口を開いたが、ふと真面目な顔つきで手を伸ばした。
「ありがとよ、じゃあ借りてくわ」
竹本はその幽助の額を、その厚い手の甲の部分で軽くはたいた。
「有り難うございますと云えんのか」
憎まれ口を聞くかと思ったが、幽助は目を細めて笑った。
「アリガトウゴザイマース」
そう云って、彼は竹本の貸してくれた傘を広げて、雨の中に出て行った。
竹本の目が和んだ。何があったのか、幽助は変わった。暗い攻撃的な目をした少年だったが、しばらく気づかないでいる内に、驚く程おおらかになった。声を上げて笑うのも聞かれるようになった。
いい友人でも出来たのだろうか。環境が少し変わったのだろうか。それとも、きつい家庭環境の下で他の生徒より早く大人になりはじめているのだろうか。そう思って竹本は幽助を注意深く眺めている。彼は、ひどくすさんで荒れている頃から、幽助を不思議に気に入っていたのだ。
服装も髪型も以前のものとたいして変わらなかったが、顔付きはまるで違う。
こうして見ると、幽助の目はひどく光の強い目であることがわかる。攻撃的な表情をすると、そのせいでかえって冷えびえと暗くきつくなるが、笑った時は同じ強さで煌るく暉く。
彼はこの先も甘い菓子を噛み締めるようには生きていけないだろうから、このまま混沌とした十代を抜け出して欲しい。竹本はそう思っている。まだ正直に生きるのには遅くない。日常がシンプルで、好き嫌いも、自分がどうしたいか、どうしたくないかということについても分かり易い時期なのだ。
もっとも当の幽助は、そんな漠然とした大人たちの不安について、考えてはいない。
雨の中を正門に歩き、校外に出る。特に何か急ぐ訳ではなかったが、足早に家に向かった。
足下で跳ねが上がる。門の方角に、うなじをこするようにして何かが引っかかるような感じがあった。幽助は足を止めて門を振り返った。
見覚えのある背の高い細い姿が、塀に寄りかかって立っているのが見えた。
「!」
カサもさしていない。ずぶ濡れになっているようだった。
「蔵馬!」
蔵馬はうつむいていた。彼らしくもなく、幽助が隣を通り過ぎたことに気づかなかったのだ。その呼び声にようやく顔を上げる。ぼんやりと立つ彼の面持ちが一瞬ひどくうつろに見えて、幽助はぎくりと背中を震わせた。
蔵馬にそんな顔をさせるのは、彼の母親くらいしか思いつかなかったからだ。瞬間的に、蔵馬の母に何かあったのではないかと考えたのだ。
しかし、その表情は一瞬のことだった。雨で見間違えたのかも知れない。蔵馬はいつもの静かな、しかし微妙な光の灯った目で幽助を見た。笑った。
「幽助」
「誰か待ってんのか?」
そう云いながら、幽助は馬鹿なことを聞いたと思った。この学校の前で蔵馬が誰かを待っているとしたら、幽助か桑原しかいない。
「待ってたわけじゃないんだ。すぐ前を通りかかったから、顔でも見ようかと思って」
蔵馬は真顔でそう呟いた。蔵馬の髪が濡れて制服の肩にまつわっている。それを見て、彼の髪が案外長さがあることに幽助は気づいた。
「っ……」
幽助は面食らって蔵馬の顔を覗きこんだ。
「顔見ようかって、何……どうしたんだよ、お前熱でもあるんじゃないか」
「ひどいね」
苦笑した蔵馬の表情が、どこと云っていつもと変わらないのを見て、幽助はほっとした。
しかし疑問は強くなった。何か起こったに違いないと思った。蔵馬のいつもの行動ではなかった。蔵馬は無駄を嫌い、能率的に時間を費やすタイプだ。おそらくそれが彼にとっての自然体なのだ。感情も感傷もめったなことでは彼を動かさない。軽口はきくが、必要のない時のそれは好まなかった。
蔵馬は、人並みはずれて高い能力を持って、それを適当に発揮しながら、しかし、決して目立たないように、突出することのないように暮らしている。それは人間の中で暮らしてきて危ぶまれないようにするための彼の保身術だろう。分かりにくい形だが、身を護ることに全力を注げるということは、それだけ強いということだ。要領の良さでもある。
他人に要求はしないが、蔵馬は自分自身が要領の悪い生き方をするのを好まない。
幽助は蔵馬のそういった性質を、漠然とではあるが感じ取っている。
何が起こったのかは分からなかったが、いい状態でないのは分かった。
普通であれば、蔵馬が雨の中を傘もささずに人を持つような真似をする筈はなかった。健康にさしつかえるわけではなかったが、そんな風にわざわざ人の興味を引くすることはしないだろう。
「何かあったのかよ」
「いや。本当に特に何も」
「嘘つけよ。何もなくてお前が雨の中立ってたりするはずないじゃんか」
「……」
蔵馬は黙って笑った。特別にごまかそうとしているようでもなかった。
「お前よ、こないだの、あのでかい奴と会ってからおかしいぜ……」
蔵馬は雨で目の中に入りかけた前髪をかき上げた。
(いい勘だな…………)
「それか、まさか、オフクロさんに何かあったのか?」
彼にカサをさしかけながら、幽助は危ぶむように肩に触れた。
「何も……どうして?」
「何となくだけどよ」
幽助が自分に、警戒心を抱いていることに蔵馬は気づいた。おそらく無意識なのだろう。彼の中の緊張を読み取って、幽助はそれを刺激しないように触れて来る。
そのタイミングの読み方の絶妙さは、幽助独特のものだった。いつも彼は蔵馬をかき乱さなかった。元来波立つことの少ない性質であるから意識することは少なかったが、幽助のような人間は珍しかった。人間はたいがい、無神経で静寂をかき乱す。
蔵馬は、背筋が騒ぐような感覚に眉をひそめた。少しおかしくなっている。
こういうことになるのは分かっていた。彼自身も、手を打つために力を尽くしていたのだ。それが予定より早まってしまったのは計算外のことだった。
落ちつこうとしても、身体の中で狂いは厳然としてやって来る。
蔵馬は息を吐き出した。
息が熱かった。体中が炎のようだった。こんな感覚を味わうのは始めてだった。彼の肉体は病まない。傷つくことがあっても長くは苦しまない。内側から病むことがなかった。
このだるさ、南野秀一として生まれてきて以来、一度も味わったことがないような吐き気が、あの男の云ったことが嘘でないことを証明していた。
彼は、てのひらの中に用意した小さな植物の種を握りしめた。このままどこか幽助と出る。人気のないところで彼の記憶を消す。赤蝕にまつわる部分だ。このまま蔵馬が死ねば、赤蝕の興味はよそへうつり、幽助や蔵馬の周囲に害をなそうとは思わないだろう。幽助が赤蝕の記憶を残していれば別だ。口を封じるため、幽助の報復をおそれるため、赤蝕は幽助にターゲットを移すだろう。幽助の記憶を消し、そうしたことを何らかの方法で赤蝕に報せてやる必要がある。
蔵馬は眩暈を耐えた。しかし、目的を達するまでのほんの数十分の時間を耐えられそうになかった。とてもこのまま話し続けられない。日を改めるしかないだろう。不調を食い止める方法は必ずあるはずだ。
不審を抱かれることを承知で、この場を離れることで頭がいっぱいになる。
「じゃあ、もう帰るから…………また」
「え。もう帰るって……ほんとは用事があったんじゃねーの?」
幽助が目を丸くする。その目がふっと細められて、蔵馬を見据えた。
「蔵馬……」
何かが始まり始めている。蔵馬の身体の中だけではない。上空から襲って来る空気に混じって、今にも魔が顕現しそうな気配が満ちている。こんな時にこそ力をフルに使えなくて、いつ使うのだろう。自分自身の不調でそれが出来なくなっているということは、更に吐き気のするような事実だった。
額が熱い。
身体がひどい熱を持っているのだ。
「本当に通りかかっただけ」
蔵馬は幽助を避けるようにその場を離れようとした。
「幽助!」
その場を離れようとした蔵馬の視界に、制服のおだやかな色がひらめいた。幽助が差しかけたカサに当たらないよう、少し身体を低めて、柔らかい栗色の髪の少女が覗きこんできたのだ。幽助の幼馴染みの螢子だ。
「お前かよ」
「あたしで悪かったわね。……あ、蔵馬君」
螢子は蔵馬を見上げて嬉しそうに笑いかけて来た。こぼれ出しそうな目の中に無防備な信頼がある。螢子は、首縊島まで暗黒武術会を見に来ている。蔵馬が幽助と一緒に闘って来たのを見ている。螢子にとっては蔵馬は幽助の友人だ。
かすかに、良心が痛んだ。
「蔵馬君、顔色悪いよ。……」
螢子はゆっくりと云った。おしつけがましくない程度に、彼女の目に気づかわしげな色がひらめいた。幽助は螢子の言葉に驚いたようだった。蔵馬の顔色にまでは気持ちが回らなかったのだろう。蔵馬の力に対して信頼があるせいだ。仲間内であるからこそ探ってみることをしなくなる。
「具合悪ぃのか?」
「まさか、違いますよ」
云いながら、蔵馬はここに来てしまったことを後悔し始めた。
記憶操作のために、そろそろ幽助に会わなければならないと思ったのは本当だ。だが、不安定になって、幽助の顔が見たくなったのも本当だった。幽助の顔を見た瞬間、目的が吹き飛んで、口から意図しない本音が滑り出した。それが口にした以上に本音であることが蔵馬を動揺させた。
蔵馬は慄然とした。
しようとしていることがある。その前に幽助に会わなければならないと思った。そのくせ、ちょっと顔を見ようと思った、などという言葉が自分の口から飛びだした。本心が義務より鮮やかなのはあたりまえのことだが、こんな時、しなければならないことより感情を優先させているのは異常だ。
オレは狂い始めている。
しかし、幽助と会った以上は、なすべきことをしなければならない。
死ぬことになるかも知れないからだ。
「濡れてますよ、ほんとに大丈夫?」
螢子が、不意に蔵馬の頬に手を伸ばした。こんな過敏な状態で触れられたのだが、それは驚くほど蔵馬の神経を逆撫でしなかった。
螢子は、ハンカチで蔵馬の濡れた頬を押さえた。それは普通、ごく親しい男でなければしない仕草なのかも知れない。しかし螢子の指の感触はいかにも自然で、羽のように甘く柔らかかった。小柄で幼い面差しの螢子は、芯がぴんと通って、周りの少女たちとどこかしら違った所があった。幽助と同じで目が強い。蔵馬の中で、彼女には幽助とよく似た印象があった。
「こんなに濡れて、蔵馬君、カサ持ってなかったの?」
「うん。……来る途中に降られちゃったんで」
「あ、急ぎの用事だったんでしょ、幽助に。邪魔しちゃって御免なさい」
螢子は慌てたように一歩下がった。彼女はふと自分の手もとに視線を落とした。
「あの、良かったらこれ使いません?」
螢子はそう云いながら、折りたたみの紺色のカサを差し出した。
「え。……」
「螢子、お前、何でカサ二つ持って来てんだよ」
幽助が不思議そうに螢子を覗きこんだ。螢子はかすかに赤くなった。
「幽助に貸してやろうと思ったのよ。カサ持って来てなかったでしょ。あたし生徒会室にひとつおいといたから」
「ホントかよ」
幽助は一瞬目を見開いて視線を落としたが、仕方なげににやっと笑う。
「でも、オレ、タケセンに借りちまったからよ」
「知ってるわよ、馬鹿ね。ええと……だから蔵馬君にこれ貸してあげる。女物だけど制服と同じ色だからおかしくないし」
「あ……すみません。……」
蔵馬は一瞬受け取り辛い気分で言葉じりを濁した。
「これから幽助とどこかに行くんでしょ? 持ってって下さい」
「でも、もうかなり濡れちゃったから」
「そういう問題じゃないでしょ、風邪ひいたらどうするの!」
螢子は顔を近づけるようにして蔵馬を見上げた。螢子の視線が雨に光って射抜いて来る。
「蔵馬君、熱があるんじゃない? 熱かったよ。……」
瞬間、幽助がきつい目をして蔵馬を見たのが分かった。しまった、と思う。幽助に異状を気付かれてしまったかもしれない。幽助はふっと黙った。先刻動揺、目を細めて蔵馬をじっと見つめた。しばらくして、螢子の手からカサを取って、蔵馬の手に押しつけた。
「借りとけよ」
そう云いながら肩を開くようにして、ポケットに片手をつっこんだ。その間も蔵馬の青ざめた顔から視線をはずさなかった。有無を云わせない口調で続ける。
「早いとこ行こうぜ」
「じゃあお借りします。……」
半ば諦めて、彼はため息をついた。螢子を見下ろす。どこかこわばった彼等の雰囲気を察したように螢子の目が大きくなった。安心させるように蔵馬は笑った。
「螢子さん……ありがとう」
「いえ……」
螢子はほんの少し後悔したように呟いた。
「なるべく早く、どこかで着替えてね」
蔵馬は頷いた。
「じゃあ、オレら行くわ。サンキュな、螢子」
幽助が手を伸ばして、螢子の髪を軽くかき回すようにした。
「やめてよ、髪の毛濡れちゃうじゃない」
「濡れたってべっつに、たいしたことねえだろ」
憎まれ口を聞いて幽助は、先に立って歩き出した。蔵馬も、螢子に片手を上げて、その後を追った。身体が鉛のように重い。螢子が自分の後ろ姿を見送るのが分かった。螢子と深く話したことがある訳ではなかったが、聡い少女だ。幽助と似ているようで、正反対のタイプなのかも知れない。その聡さはきちんと整理されて、螢子の中で形の整った疑問になっている。幽助の漠然とした、直感とエネルギーに支配された感覚とはまた別のものだ。
蔵馬は、自分は人間ではないから、人間と恋愛の意味で交わることは出来ないと思っていた。そう思っていたから、それを諦めるのも早かった。
しかし幽助はまったくの人間だ。
それが、彼の持っている卓越した力のせいで、自分と同じ思いをするかも知れないと思ったことがあった。しかし螢子が側にいるならきっと大丈夫だ。きっと螢子は強靭で柔軟な順応力で、幽助の運命の暴走に耐えられるだろう。
そんなことを考える自分がおかしかった。明らかに熱が出ているようだ。熱くかすんだ頭の中で蔵馬はひそかに笑った。
あれは、決勝戦が終わった夜だったか、飛影が、幽助をずいぶん大事にしている、と蔵馬に皮肉った。その後で、母親の代わりにすがるものでも欲しくなったのかと続けた。
ある意味ではそうなのかも知れない。
蔵馬は命をつぐことのない生き物だ。
だからこそ自分が母に愛情を注がれたように、自分も何かに愛情を注ぎたいと思っているのかもしれなかった。唇が熱く乾く。こんなことを考えているのは、死期が近いせいかもしれない。
死期は近いが、打つ手はある。少なくともゼロではなかった。
だが、このままでは十中八九、後一週間もすれば蔵馬は死ぬ。霊界にすがらないのは妖怪である彼の意地でもあるが、しかし頼ったところで手の施しようがないだろう。狐聾石とはそういうものだ。
「蔵馬」
しばらくして、幽助は足を止めた。
「何ですか?」
蔵馬は、螢子が彼に貸してくれたカサの布地に当たる雨の音を聞きながら、これから幽助とする会話のことについて考えた蔵馬は、かすかに疲労した。
幽助はしばらく振り向かずに、足を止めてじっと立った。
「お前」
幽助は黒いカサを持って、天を仰いだ。うまく云い出せないようだった。
「お前、ちょっと卑怯なんじゃねえ?」
「卑怯って、何が?」
そう云いながら蔵馬は体を震わせた。身体に、雨が染みとおって来て皮膚が冷え始めた。これも彼には初めての経験だ。熱かったり寒かったりを、彼が普段まったく皮膚で感じない訳ではない。しかしそれで身体が冷えきってしまうようなことはなかった。吐き気は少しずつ続いている。それが何故なのかを知っているから、この数日で始まったこの不調も気にしないようにしていた。それよりも、これを打破する方法を探した。だが彼が思ったよりそれは難渋していた。
幽助がようやく振り向いた。苛立っていると思っていた幽助の目は、思ったより静かだった。ほっと気がゆるむ。
幽助は蔵馬を見つめ、ため息をついた。
「オレんちに寄ってけよ。……服乾かしてやる」
「幽助」
「云う通りにしねえと、何するか分かんねえぞ、オレ、今すげえアタマ来てっからよ」
幽助の目が光った。
「行かないよ」
蔵馬は静かにカサをたたんだ。さほど激しい雨ではなかったが、頬にまた大粒の雨が当たり始めた。
「悪いけど、これ、螢子さんに返しておいて下さい」
「蔵馬!」
「何するか分からないって、何をする気ですか?」
蔵馬は、息の乱れを隠すように、声を抑えた。大変な努力の末に、そこに微笑をまじえることに成功する。彼が幽助にそんな云い方をしたのは初めてだった。幽助には彼は特別な感情を持っている。彼の中には半ば、幽助の命があるのも同然だった。本当は暗黒鏡との契約の品として命を捨てる筈だった蔵馬が、幽助が自分の命を半分差し出してくれたおかげで、今こうして生きていられるからだ。
それ以来、何かあれば幽助の力になりたいと思っていた。なるべくそうしてもいた。
彼にとって母は特別だ。特別に幸福になって欲しい。
そして大切にしているものも、以前に比べれば信じられないほど多くなった。
けれど幽助の存在はそれに加えて、蔵馬の中にある、そう多いとは云えない感傷の還ってゆくところだ。
飛影に感じる、同族であるからこそなじんだ安定感とはまた別の、甘く痛い刺激だ。
幽助を傷つけまいとしてきた。
しかし、今突き放さなければ、突き放すことは出来ないかも知れない。
今日ここに来た。頂度いい。この場で、自分の中から幽助の存在を断ち去ってしまおう。
そして幽助の中からも自分の存在を断ってしまわなければならなかった。狂い始めているのは仕方がなかった。少しでも冷静にそれが出来る内に幽助を突き放してしまおう。
発熱と吐き気で、思考がまとまらなくなって来る。
「もう、飽き飽きだ」
蔵馬は喉の塞がるような痛みを飲み込んでそう云った。
幽助の目がこんな薄暗い雨の中でも煌めくのが見えた。真っ黒で硬い、宝石のような目だ。
オニキスか何か……よく光る、そのくせ透明な。
「……人間の真似ごとをするのはもうたくさんなんだ」
そう口に出した途端、蔵馬は、自分の言葉に刃物のように傷つけられた。しんと胸が冷えた。突然冷静になる。
こんな風に云ってもおそらく幽助はごまかされないだろう。云い方がマズ過ぎる。判断力が一分刻みに働かなくなって行く。あの石、の力はこれほどすさまじいものだったのか。
何と云えば、幽助を納得させられるのだろう。
「すみません」
低くつぶやく。視界がさだまらなくなる。
「蔵馬。……そんなにオレが信用出来ねーのかよ」
幽助の、カサを握った指が白くなった。悪夢を見るようにしてそれを蔵馬は見つめた。
彼は静かに近づいて来て、蔵馬の上にカサを差しかけた。幽助の目はまばたきもせず、刺し通すようにして彼の目を間近に見つめた。
「お前は頼りになる奴だよ。オレはそう思ってる。でもお前の方じゃ、オレは頼りにならねーのか。そんなに全部一人でやんねえとダメなのかよ」
幽助は、今まで度々そうしたように、蔵馬の肩に、うつむいた額をかすかに触れた。
「オレは使えねーか、蔵馬。……」
「っ……」
蔵馬は、幽助の身体を引き離して飛びのいた。
どうしていいのか分からなかった。どうしていいかわからない、などという馴れない感情を、蔵馬は黙って味わう。その不快感から、口の中に鉄錆のような味があった。
傷つけるにも上手に嘘をつくのにも、彼にとってはもう、幽助の存在は大きくなり過ぎていた。
蔵馬は、何から逃れたいのかもはっきりと判らないまま、半ば暗い雨の中に走り出した。
【2】
その春、幾つかの小さな街で桜が咲かなかったことは、ニュースでも小さく取り上げられた。専門家が首をひねった。幾千本からある桜は病気ではなかった。健康な若木ばかりだった。
今年はただ花芽がつかなかった、それだけのことのようだった。
枯れているのでもない。枝を切ってみればみずみずしく青い芯を持っていた。しかし、桜の枝は冬が通り過ぎるのを待つようにかたくなに黙り込んでいる。
何かが狂い始めていた。
桜の沈黙をよそに、街の中には春の気配があふれ、さらに無造作に去っていった。
狂いは蔵馬の中にも訪れていた。
彼の心臓の隣には今、ひとつの石が融けている。瑪瑙色の、小指の先ほどもない石である。
昔、彼が妖狐として魔界に住んでいた頃、拳程の大きさのそれと同じ石を見たことがある。
狐の耳をふさぐ石と呼ばれる通り、狐の性を持つ者にとっては、死につながるような毒を含んだ石なのである。手を触れなかったにもかかわらず、その石は吐き気のするように不快な妖気を送って来た。性質の違う妖怪なら何も感じないような、変哲もないただの石であった。
だが、狐聾石はそうそうたくさん取れる石ではない。だから彼等は、さほどその石の存在に危機感を覚える必要はなかった。その石が妖狐たちに害をなすなどと知っている者自体もごく少なかったからだ。
触れなければ、その石に害されることはなかった。
しかし、もしその石を砕いたかけらでも飲み込むようなことがあれば、まず助からないと思っていい。狐聾石は妖狐たちの内側に融けこんで食い荒らす。少しすると食物が摂れなくなり、歩くことさえ出来なくなる。末は狂い死にだ。
もってひとつきか、ひとつき半だ。
見つけてえぐり取ることが出来れば助かるのだが、かけらが取り出せないほど細かいと、もう助からない。
もっとも、妖怪の中でも、特に群れを作らず毒のある気質を持つ者の多い妖狐の身体の中に、楽に見つけてえぐれる程大きい狐聾石を埋め込める者がいようとは思えない。
いずれにせよ、狐聾石にかかわるということは、妖狐たちに取って致命傷になり得るのだ。
その狐聾石が、今、蔵馬の心臓に埋め込まれている。痛みはさほどない。最初は心臓の脇にあったその石は、おそらくもう、心臓の内側にまで食いいって融けているに違いなかった。
二十数年前、まだ人間界で南野秀一の身体に憑依するよりも更に以前、妖狐の姿で暮らしていた頃に、彼と組んで妖剣を盗んだ男がいる。
男が人間界にやってきたのは半月前の話である。
赤蝕という名のその男は、その仕事の時、妖狐蔵馬に裏切られているのだ。しかも、蔵馬が裏切ったのは妖剣が欲しかったからではなかった。赤蝕と行動を共にすることに、残酷で気まぐれな妖狐が倦んでしまった、それだけの理由だった。
妖剣を手に入れて躍り上がって喜ぶ男を、妖狐蔵馬は、その妖剣ごと魔界の障気の穴に突き落とした。そして、自分の生活にしばらくまじわって来たその男のことをそれきり忘れてしまったのである。
障気の穴に落ちてまず助かった者はないといわれているが、赤蝕というその男はそののち、七年もの歳月をかけて、執念で這い上がって来たのだ。
蔵馬に対する復讐の一念であった。
男は、片手の指を犠牲にして、攻撃する対象をセッティングすれば、いつまでもひそかに心臓にもぐり込む機会をねらい続ける、石に念を込めた刄虫を作った。刄虫自体は小さく力も弱いものだが、長い間生かしておかなければいけないこともあるため、大きな妖力を必要とする。妖力の低い男は、そのために、指を犠牲にしたのである。
そして、彼はその刄虫を、狐聾石で作った。
それをたずさえて、人間界にやってきたのである。
ハンターに追われて死んだと云われていた妖狐蔵馬が、人間界で南野秀一という名を持って生きているということを、暗黒武術会の中継で知ったからだ。
狐聾石で作った刄虫を、彼は、蔵馬の心臓を標的にして放したのだった。刄虫は小さい。かすかな点でしかない。しかし妖力がこめられている。蔵馬はほんの一瞬、かすかな痛みを感じただけだった。赤蝕の執念が実ったのだ。
狐聾石で作られたものである上に、男の術を解かなければ融けて決して取り出せないその石は、少なくともひとつきの間には、完全に蔵馬を葬り去るだろう。
そういう風に作られた武器だった。
確実なやり方だ。これはおそろしく原理の単純な、しかし単純だからこそどうしようもない術なのだ。魔界に渡って赤蝕を探し、哀願して術を解いてもらうか、狂い死ぬのを待つかである。
もうひとつ打つ手があるとすれば、赤蝕と一緒に盗んだ妖剣のかたわれを探すことだ。
それは赤蝕を障気の穴に落とした時、蔵馬の手もとに残った剣だ。その剣は妖力を切り裂く力を持った刃である。そのほんの小さなナイフだけが、おそらく彼の心臓に埋まって融合した狐聾石を切り取ることが出来る。現に赤蝕もそう云っていたのである。
その小さな一振りを、妖狐蔵馬は、赤蝕とのことがあった後数年は持っていた。
だが、二十年近く前に人間界に来た時に、気まぐれに埋めた。それきりだった。
埋めたのがどこなのか、今の蔵馬には分からない。
妖狐蔵馬は、それを取りに来るつもりはなかったのだ。たまたま魔界の穴のひずみを抜けて行き当たった場所にそれを埋め、地名も知らないまま魔界に帰った。もう、今となってはそれを埋めたのが日本のどこかであるという程度のことしか分からなくなっている。
今、蔵馬の身体は、狐聾石のせいで変調をきたしている。
このひとつき、自分の思い当たる場所に数か所行って、妖剣の行方を捜した。しかし、ここではないかと思った場所のどこにもナイフはなかった。身体の中に余計なものが埋め込まれているせいで、勘も鈍り始めていた。
そしてあきらかな変調が訪れ始めたのだった。
妖狐蔵馬の肉体であった時よりも、狐聾石の作用するスピードは遅い筈だと思っていたのが、思ったより十日近く早かったのである。
それは、妖化の進んだ南野秀一の肉体が、妖狐の肉体の性質に近づきつつあるということである。いつもの闘いならばそれは有利にはたらく。
しかし、今回ばかりはそれがあだになった。
食事を摂りにくくなり、時折、ひどい吐き気に悩まされるようになった。三日程前から時々発熱する。強い眩暈に悩まされる。人間がひどい風邪をひいたのとよく似た症状だった。蔵馬にはむろん初めての体験だ。妖力を持った肉体では考えられないことだった。
そして、今朝からついに、心臓に軽い痛みを感じ始めた。
後十日か、あるいは一週間。
間に合わなければ蔵馬は死ぬことになるだろう。
幽助は氷の塊を飲み込んだような気分になって、蔵馬の後ろ姿を見送った。
追わない方がいいだろうか。このまましばらく顔を合わせずにいた方がいいのかもしれない。しかし、喉につかえるような後味の悪さがあった。
彼と蔵馬ではあまりにも考え方も行動のタイプも違っている。彼にはほとんど蔵馬が何を思っているのか分からなかった。幽助の中に、ある意味では胸の悪くなるような執着が育ち始めていた。正体が分からないせいで吹き払いようのない、粘液質の感情だった。
幽助は蔵馬の置いて行った螢子の傘を握りしめた。
自分の傘もたたんだ。振り返って逆の方向に走り出した。それほど行かない内に彼は目的の後ろ姿を見つけた。彼が走って追いつくと、螢子は驚いたように目を大きくした。
「どうしたのよ、幽助」
「お前の傘。オレのも持っててくれ」
「蔵馬君どうしたの? だって……」
「オレも分かんねえっ」
語気が乱れた。彼もどうしていいのか、何が起こったのか、何が起こっているのかまるで分からなかった。分からなかったが、蔵馬のことを思うと警戒の赤い光が点滅した。
まぶたの裏で、赤い光の中を蔵馬が走っている。
蔵馬を一人にしてはいけないと思った。
「頼む、螢子、じゃな」
彼は乱暴に云い残すと、元来た道を走り出した。この赤い光がまぶたの裏にあふれ出して来るような感じは、以前にも一度味わったことがある。首縊島だ。幻海が戸愚呂と闘った時、眠りの中から押し出されるようにして、この恐慌がやってきた。
蔵馬に追いつかなければならない。
空気はだいぶ冷えていたが、雨の中を走る幽助の背中にはじっとりと汗がにじみ始めた。身体は熱かったが、意識のどこかが異様に冴え渡っていた。こういう時の幽助は恐ろしく勘がはたらく。自分でも理解の及ばない部分である。何を目指して走っているのかと聞かれても、目に見える、口で説明出来るものではなかった。
螢子と蔵馬の話をしたことがある。
ほんの少し前だ。暗黒武術会から帰って来た後のことだ。帰り道が一緒になった時、螢子の方から蔵馬の名前を出した。
雨が目に入って視界を一瞬ふさいだ。身体がどんどん熱くなる。発火するようだ。走りながら、蔵馬の話をする螢子の顔が、記憶の中で瞬間、大写しになった。
(「蔵馬君って盟王の一年なんだってね」)
(「そうなのか?」)
(「幽助知らなかったの?」)
(「まあ、云われてみれば盟王の制服か……」)
螢子に云われて見るまで、幽助は蔵馬がどこの高校に通っているのか考えて見たことがなかったのだ。盟王高校は、幽助が高校を受験するとしても、およそ守備範囲の高校ではない。かなりレベルが高い私立校だ。元より喧嘩して歩く余裕がある生徒はいない。だからケンカすることでしか他校の生徒と接することのない幽助は、正直チェックしたことがなかった。
(「不思議だよね。……」)
(「不思議って、何が?」)
(「男子校だからあたしも詳しくは知らないけど、盟王って凄くいいところじゃない? そういう高校に行ってて、普通に生活してて、人間……じゃないんだよね……」)
(「……」)
幽助はうなずいた。それは、自分自身普通の人間とは云いにくくなった幽助でさえ、感じたことのあることだ。
蔵馬は目立たない。街を歩いている姿を見ても、ふうっと融け込んで沈んでしまうような印象がある。彼の外見が決して目立たないものだとは思えないのだが。あれは蔵馬がそうしているのだ。抜きんでた能力を持つ者はそれだけ目立つものだが、おそらく蔵馬は目立たないように、意識的に自分を作っているのではないかと思っていた。
(「ほら、幽助の友達っていう感じじゃなかったから」)
(「友達…………」)
幽助は首をかしげた。自分の中でその言葉が蔵馬に相当するのか幽助には分からなかった。
蔵馬のあの人形のように整った顔、あの少女のように微笑う南野秀一を、その能力を知る前に見たとしたらどんな印象を持ったか、幽助には分からなかった。
もしくは、一度死ぬ前の自分が彼に出会っていたら、蔵馬の存在をそれほど簡単には受け入れられなかったかも知れない。
力が正義と思っている訳ではないが、力のある者を相手にした方が安心出来るのは、幽助の気質である。もろい者や弱い者の側にいると安らがないのだ。自分の荒々しさで壊してしまいそうな気がする。彼には微細なものにそっと触れる習慣がない。これでも最近はマシになった方だ。
(「蔵馬君のあの髪とか、不思議だなあ。……パワーアップのためなのかな。……」)
幽助はふと妙な気がして螢子の顔を眺めた。
(「珍しいじゃん、お前、そういうのあれこれ考えんの嫌いだろ。人のことだからってさ」)
(「あ、そうだね……」)
螢子も不思議そうに目をみはった。
(「どうしてかな、蔵馬君が凄く、こう…………」)
螢子は戸惑うように上空を見あげた。空は確か、鮮やかに晴れわたっていた。螢子の大きな目が光を反射した。
(「ガードしてるみたいな感じだからかなあ……」)
そして螢子はそれきり蔵馬のことは云わなかった。螢子と、蔵馬について話すのは奇妙な感じがした。最初はそれを、螢子に対しての後ろめたさかと思った。しかし、それは必ずしも後ろめたいというような、不快なものばかりではなかった。
正直なところそれが何を意味しているのか、幽助にも良く理解出来なかった。
それはむしろ甘いことさえあった。螢子の口から蔵馬の名が出る時、また、蔵馬が螢子の名を口にする時、幽助の中に奇妙な甘美さが染みとおった。背筋を吐息でくすぐられたような甘さだった。
そのことについて考え過ぎない方がいいのは分かっていた。
だから螢子の言葉にも努めて反応し過ぎないように、幽助なりに気を回しさえした。
ガードしてるみたい。
そう螢子が云ったことに、特別に反対も賛成もしなかった。
ただ、螢子が蔵馬のことを短期間によく見ていたものだと感心した。
ガードしてるみたい、と云った螢子の言葉と、自分に何も云おうとしない蔵馬と。走りながら幽助の中に、無意識に近い意識がうず巻いた。飲み込んだ氷の塊がそのままみぞおちに巣くってしまったようだった。
バス通りを抜けて、蔵馬の家の方角に曲がる。こちらに追ってきているのが正しいのか、一瞬分からなくなりかけて幽助は立ち止まった。
その途端、また赤い警戒信号が点滅した。幽助の目の前に、緑化公園の入口があった。この公園は公園とは云うが、中に幾つもの温室を抱えた大きな公園で、公園というよりは植物園に近い。表示をみると、もう入場時間は三十分程前に終了していた。
しばらくその表示を見て考え込む。幽助は意識をとぎ澄ませた。桑原と違ってかれには妖力を意識で探る能力はない。しかし蔵馬の気配なら分かる筈だと思った。
何よりも彼の中で激しく見え隠れする、赤い光の形を借りた危機感が、蔵馬が近くにいることを知らせている。
(蔵馬…………)
見失うのは怖かったが、これだけはっきりと引きずられているなら、自分の勘を信用してもいいだろう。たぶん蔵馬はこの中にいる。
幽助は、無人になった入場口にかけられたチェーンを乗り越えた。
自分の中の不調を紛らわせるために、植物に近いところにいようとしているのだ。
(ガードしてるみたい。……)
耳鳴りのように螢子の言葉が脳裏に繰り返された。蔵馬がそういう気質なのは知っている。幽助はうすずみ色に暮れた雨の公園の道の向こうを、目をすがめてみはるかした。
蔵馬は自分を隠す。気まぐれのように見せかけて本当のことを云わない蔵馬が作る壁は、安定して変化がなく、しかも強靭だった。結果的に出来た壁ではなく、彼自身が計算して作ったものだからだ。
その「ガード」が自分にまで及んでいるということについて、今まで特別な意識を持ったことがなかった。
もし感じても、今までならそれで当たり前だと思っただろう。
それが。幽助は唇を噛みしめた。彼は、蔵馬の気持ちをとらえる環境に嫉妬している。対象のない嫉妬だ。しかし、蔵馬が自分を鎧う必要のない全てのものに対して。
蔵馬の作った壁の向こうにしめ出された自分の姿を見た。
幽助の中で初めて、感情が明確な形の怒りになった。
幽助は追ってくるだろうか。
思わず走り出してしまってから、すぐに歩をゆるめた。みぞおちの上に激しい虚脱感があった。喉元に鈍い痛みが走った。
胸の痛みが一瞬強くなり、また消えた。
雨に降られて冷えきった身体に、わずかに熱が戻って来る。
蔵馬は、前髪からしたたるしずくを払って髪をかき上げた。熱で熱く濁った視界の中で、街の灯りや車のライトがぼんやりと放射するような星形に光った。
完全に逆効果になってしまった。
本来、こんな風に波立つことの少ない国に暮らしながら、人間たちの暮らしにドラマが入り込んで来る機会は少ない。
しかし、はっきりと記憶の中に、人間以外のものとして生きていた頃の経験を持つ彼は、人間としての生き方にも、妖異としての生き方にも徹することが出来ない。落ち着かない生活が続くことも当たり前だと思っていた。蔵馬は独特の不安定な価値観の上に、揺らがない情緒をきずこうとしていた。あくまで演ずるような気分で、人間としての暮らしを繰り返していた。
しかし、人間の身体を持って、まったく人間として生きないなどということが、自分にも出来る訳はなかったのだ。
本当は人間らしさなどまるで持っていない方が、どれだけ楽だったかしれない。
いっそこの身体を、妖狐として生きていた頃の自分に明け渡してしまえば、むしろ、彼を取り囲む物理的な状況は幾分マシになるだろう。
心の弱さから生まれる醜さを嫌うのは、昔の自分譲りでもある。
幽助は、妖怪としての力を持った蔵馬の目から見ても、ひときわ強烈な力の持ち主だ。だから自分が魅かれることについても疑ってみようとしなかった。
蔵馬は、点在する灯りをぼんやりと眺めながら、苦い微笑を漏らした。幽助は、彼にとってそんなに大きい存在だったのだろうか。
蔵馬はかつての自分にとらわれ過ぎていたのかも知れない。かつて、自分自身のためだけに生きるカラーがぎらぎらと強烈だった自分を覚えていて、それにとらわれ過ぎていたのだ。自分の中で、だから幽助がどんな存在なのかを測ってみようとしなかった。
幽助は彼に取って、人間としての生の強烈なよりどころになってしまっているようだ。
捨てたくない。
蔵馬は、吐き気と、生への欲求の強さに耐えかねて、大きく体を震わせて歩き始めた。
いますぐ家に帰るのは避けたかった。
実際に、すぐに家に帰る力はもう残っていなかった。
ふと、雨に濡れた植物の気配が頬をくすぐった。冷たい布を、発熱した額にあてがったように、それは心地よかった。
近くに緑化公園があるからだ。
家に帰るよりは休まるかもしれない。
幽助から連絡が入ったりしたら目も当てられない。
彼は震える身体をなだめて、頭上を見上げた。狂い始めても、それでも人間のそれとはだいぶ違う蔵馬の感覚は、雨の中にひそむ汚れを微妙に感じ取っている。
さびて凍りついたように凶々しい雨の夜だ。
この近くの並木通りを抜けて、緑化公園とは逆の方に行くと幽助のマンションの近くのバス通りに出る。そこで赤蝕に会ったのだ。背の高い、蛇のような目をした男だ。
赤蝕は何らかの方法で自分のこの様子を見ているだろうか。
だとすれば、さぞかし見ものだろう。
妖狐蔵馬が、狐聾石に悩まされて、まっすぐに歩き進めることも出来なくなっているようでは。
むしろ物足りなく思うかも知れない。
こんな時も、蔵馬の唇にはかすかに微笑の気配が残る。
どこかまっすぐに苦痛を受け入れられないその性質は、彼の敵方に回った者にすれば、もっとも暗い憎悪の対象になるに違いなかった。
蔵馬にはそれが理解出来る。
だからこそ、幽助のような人間が彼には不思議だった。自分自身を護る力が絶対というわけではないのに、それだけ揺らがないでいられるのが理解出来なかった。
面白い、と思って、その感情が変わるまでそれほど時間はかからなかったのだ。自分では気づかない間に変化が起こっていた。幽助と会ってわずかの間だ。それが、幽助は蔵馬の中にしっかりと自分を植え込み、逃れられなくなるほど根を張った。
蔵馬は笑った。
わずかに自嘲に近かったが、幽助のことを思うと、それも仕方がないと思った。魅かれなければ嘘だ。幽助は冷徹であろうとする彼の心臓に打ち込まれた、致命傷の石のようなものだ。
緑化公園の入口はもう閉まっていた。するりと入口の鎖の柵を越えて蔵馬は中に入り込んだ。公園内には、夜間の入場がないにもかかわらず、いくつも灯りが設けられている。今、勘の働きにくい蔵馬には正直有り難かった。
緑化公園に入ってすぐは普通の公園と同じようだが、奥の方に行くと木立の間に小植物園が設けられて、更に奥の方には、丈の高い温室が幾つも作られている。
温室には趣向が凝らされていて、園芸植物だけをおさめた温室や、亜熱帯植物の中にいっぱいに蝶を放したものや、中にはランだけを植えた温室もある。
蔵馬は温室の少し手前の植物園で立ち止まった。
回り込んで公園の中を抜けて行く道の両脇に植えられた桜は、やはり花をつけていなかった。
(最近は行き来し易くなってるんだよ)
赤蝕が、そういって勝ち誇ったような笑いをしたのを蔵馬は思い出した。
何が起こっているのだろう。
濡れたレンギョウの枝に触れた。レンギョウは盛り上がった茂みいっぱいに金色の花をつけている。少し枯らしてしまうかも知れない。可哀想だが、花をつけた枝の方が良かった。
彼は植物の中にひそむエネルギーをてのひらから取り込むことが出来る。無論、それほど大きなエネルギーではない。魔物である彼であれば、本当は同じ魔物を殺した血でもすすった方が効率はいいかも知れない。しかし、そうするつもりもなく、仮にしようとしても、おそらく、弱りきった今の蔵馬の力では無理だろう。
幸い彼と植物のエネルギーは相性がいい。自分の妖気に転換するのは少しまた力がいるが、確実に力になる。
彼はレンギョウの枝を握りしめて、目を閉じた。枝の中に流れる花の力の流れを探る。それを自分の力と同質のものに置き換えて握り取ろうとした。
(……?)
力の流れの変化はすぐには起きなかった。
気の転換をはかる力自体も弱まっているのかも知れない。わずかに力を高めて、枝の中の気を探ろうとした。
突然悪寒がした。今まで弱くくすぶっていただけの吐き気が蔵馬の喉を押しあげてきた。ひざを折りそうになってかれは喉元を押さえた。吐くものなど何もない筈だった。ここしばらくほとんど何も食べていない。
彼のてのひらの中に握り込んだ枝が突然大きくしなった。
ぐうっと弾力のある手ごたえが指の間を打ち、レンギョウの花枝は、彼に握られたまま、長く伸び始めた。
蔵馬は目を見開いた。彼が手を加えた訳でもないのに、そんなふうに枝が伸びるはずはなかった。元々レンギョウの枝は枝垂れるものではなく、さほど長く伸びるものでもない。それが、蔵馬の丈ほども長く、強く伸び始めた。金色の蝶のような花をいっぱいにつけたレンギョウは大きくうねって蔵馬の足許に波打った。
力が暴走しているのだ。
妖力をどう使うかの調節が出来なくなっているのだった。
蔵馬はレンギョウの枝から手を離した。しかし、枝は伸び止まなかった。しまいには狂気じみた長さに伸び、やはり華やかな黄の花をびっしりと咲かせ続けた。
足から力が抜ける。
使う筈でない妖力を使う形になっている。
そうなれば、蔵馬の妖力の影響を最も強く受け易い植物の只中にいるのは彼に取って自殺行為かもしれなかった。
蔵馬は息を吐いた。力を落ち着けて、暴走を止めようとした。喉の奥からまたなまぬるいものが押しあげて来る。唇が熱く乾いた。意識を集中しようとすると眩暈がした。それをおして意識を集める。無駄なエネルギーがあふれ出すのを抑えようとしたが、暴走は止まらなかった。
レンギョウは、彼が少し離れて初めて、ようやく伸びるのをやめた。花枝は、金色のまだら模様をほどこした茶の蛇のように長く伸び、蔵馬の触れた部分は、彼自身の背丈さえ越えて、数メートルも伸びて道にわだかまっていた。
蔵馬はあとずさってアスファルトの側にそれた。
吐き気は耐えがたい程になっていた。不意に喉に強い痛みがつき上げ、蔵馬は身体を折った。指の間に温かいものがあふれた。彼の良く知った匂いだった。この春、いくどとなく彼の傷口を染めて流れ出したものの、癖のある苦い匂いだった。
傷や、外気に荒れることのない細い指の間から、真っ赤なものがあふれ出した。彼の足許に打ち乱れたレンギョウの花の上に、大量の血がこぼれた。その上を雨が叩いて洗い流し、更に新しい血と混じって流れた。
血は、どこにひそんでいたのかと思うほど大量だった。
一度吐き出してもなかなか止まらず、蔵馬は呼吸を詰まらせてあえいだ。ようやく血が流れ出すのが止まった時、立っていられずに膝をついた。
ここを出なければならないと思うが、身体が云うことを聞かなかった。
植物に触れて逆効果になったことなど今まで一度もなかった。狐聾石の力はすさまじい。その威力を蔵馬は初めてかみしめた。
自分の喉からあふれ出した血だまりの中に膝をついて、勢いを弱めた雨に打たれながら、蔵馬は茫然と目を見開いた。
自由にならない以上、彼の持つ力はむしろ刃の形がはっきりしている分、はっきりと己を傷つける凶器になる。
足を踏みしめて立つ。木立の中を通っていくのを避けるなら、温室の間を抜けて、向こうの柵から出た方がいい。道を曲がればすぐに植物などほとんどないバス通りに出る筈だった。
なるべく土と植物に近づかないよう、アスファルトの敷かれた部分を歩く。濡れた服が身体に重くまつわりついた。
数メートル歩いただけで、四肢を鉛で作ったものにすげ替えたように疲労した。
温室の方角に歩く。歩く。ただ歩くということがこれほど力を使うものだとは思ってもみなかった。内側から病んでだるいこの煩わしさは、傷を負って痛みを耐えることとはまた違った、独特の苦痛だった。
温室の立ち並ぶ中に抜けた瞬間、ほっと息を吐き出した。わずか、力を振り絞るようにして数歩歩いた。
喉の奥でまたなまぬるいものが込み上げて来るのが分かった。喉にいっぱいになったむせ返る血の匂いにめまいがする。足下がおぼつかなくなって、蔵馬は温室の壁にもたれた。植物に触れなければ何も起こらないはずだと思った。
さっき、レンギョウの枝に触れていた時、蔵馬の喉を襲った痛みが、その瞬間また胃の奥から、灼けた鎖を引きずり出すようにわき上がってきた。
蔵馬は閉じていた目を開いた。
自分の虹彩がうつしたものが何なのか一瞬ぴんと来なかった。
その温室はおそらく、亜熱帯の植物の中に蝶を放し飼いにしているものなのだろう。蔵馬の目に、暗い温室の中に植えられたソテツの間で、アブチロンの枝がゆっくりと頭をもたげるのが見えた。慄然として温室の内側を見つめる蔵馬の喉から、再び血があふれた。
彼はせき込んだ。
心臓のような赤い脈の走ったアブチロンの花弁は、静かに咆哮するように、ガラスの向こうで伸び上がり、ソテツをくぐって、蔵馬に向かって伸びてきた。
蔵馬の立つすぐ前のガラスの際に植えられたソランドラの蔓にアブチロンが絡みついた。その間にはさまれた形で、一匹の黒いアゲハが、間に合わずに押しつぶされるのを蔵馬は見た。
膝が知らぬ間に折れた。
温室の内側の全ての植物が、大きくうねりながら一斉に蔵馬を見つめた。
【3】
幽助は、走るのをやめて立ち止まった。足下に踏みつけたものの正体が判らずに戸惑った。
かがみ込んで見てみると、幽助が踏んだものは黄色の花をつけた枝だった。彼はそれにそっと触れた。あきらかに妖気を放っていた。その根もとは、道の脇に植えられた茂みに続いている。枝は異様に伸びて、道の方にまで伸び出していた。触れたそれは蔓性の植物ではなかった。硬く節のある枝だった。こんなふうに硬い枝が、ここまで長く伸びているのを幽助は見たことがなかった。
首縊島で、蔵馬を一度外で抱きしめた時、緋色の花をつけた蔓の植物が突然伸び出したことを幽助は思い出した。こんなことが出来るのは蔵馬しかいない。
蔵馬は確かにここにいるようだった。
幽助は足を速めて奥に入った。彼が感じ取っているものは桑原の持っている能力とはまったく違って漠然としたものだったが、しかし蔵馬の気配はもうはっきりと判る。幽助は眉をひそめた。空を見上げる。
蔵馬の気配はあった。だが、感じられるのは蔵馬の気配ばかりではなかった。
何が存在するのかは分からない、異様に重くのしかかる気配が辺り一面に満ちていた。
暗い空と、雨と、そしてその冷たい雨の間を煤煙のように満たして、暗い緑色に濁った気配が幽助の息を詰まらせた。
(敵か?)
幽助の全身が引き絞るように緊張した。気配ははっきりしていた。暗黒武術会で勝って帰ったが、幽助は自分たちを無理やりにも闘わせる圧力が、武術会が終わっても消えてはいないことを知っていた。この間、蔵馬に会いに来た魔界の男もそうである。
男の、白に近い薄い金色の目を思い出して幽助は身震いした。男に麻酔を打ち込まれて昏倒した間、男と蔵馬の間で何があったのか幽助にははっきりとは分からなかった。しかし、男が蔵馬に激しい殺意を抱いているのだけははっきりと分かった。
蔵馬も過去を持つ。幽助にしても、霊界との関わりを持って以降に重ねた闘いが、これからは彼の「過去」になる。
過去を持てば持つほど敵は増える。
幽助はコースを抜けて歩道に出て、温室の方を見渡した。どちらに行けばいいのかすぐには分からなかった。しかし、また何かかすかなものが光って、幽助の反れかけた視線を引き戻した。
彼の目は、手前の温室の前にかがみ込んだ姿を、闇の中からようやく拾い出した。
「蔵馬!」
幽助は思わず声を上げていた。闇の空を覆うように広がった妙な気配のことも、一瞬で幽助の頭からかき消えてしまった。
温室の前に膝をついた髪の長い人影は、雨の中で幽助をゆっくりと振り返った。
「……幽助……」
蔵馬はかすれた声で幽助の名を呼んだ。幽助は夜目が利く方である。雨の中でも、蔵馬の濡れた唇を染めているものを見分けた。
「おいっ」
彼はぎょっとして叫んだ。蔵馬の傍らにかがみ込む。かすかに開いた唇の内側を赤く濡らしているものは雨滴ではない。確かに血だった。
「どうしたんだ……誰かにやられたって訳じゃ……」
混乱して口ごもる。
蔵馬が血を吐いたのは一目で判った。こんなふうに彼が血を吐く程傷つけることの出来る相手なら、蔵馬を生かしたまま一人残して行きはしないだろう。
螢子が、蔵馬が熱があるのではないかと云っていたのを、幽助は思い出した。
蔵馬は彼と視線を合わせようとせず、苦痛の吐息を漏らして目を閉じた。
その蔵馬の肩を無理に抱き取るように幽助は蔵馬の額に触れた。思わず指を引きそうになる。触れている指先に、皮膚のなめらかさが伝わってこなければ、それが人の額だとは信じられないほど熱かった。
燃えるように熱い蔵馬の身体を幽助は茫然と支えた。
「どうしたんだよ、お前……これ、何があったんだ?」
「……」
「お前、熱なんか出すのか?」
幽助はもう一度蔵馬の額のきわの髪をかき上げ、自分の額を押しつけた。額で触れると、蔵馬がどれだけすさまじい発熱に耐えているのかが判った。何度くらい熱があるのか想像もつかなかった。体温計に数字が出ないのではないかと思った。
「……いいから、帰ってください……」
蔵馬が肩をあえがせてようやく呟いた。目を開ける。目は薄く赤らんでいる。
「バカ云ってんな」
声がきつくなった。
「この熱、お前普通じゃねェよ、これ」
「帰れ」
蔵馬の喉から吐き出すような声が漏れた。幽助はひやりとして蔵馬の目を見た。彼が熱で正気を失っているのではないかと思ったのだ。
しかし、蔵馬の目は正気だった。発熱で朦朧としているようだったが、しかしひえびえと静かに濡れて、彼の中に、依然として動揺以上のものが残っているのが判った。
幽助は手を伸ばして蔵馬の唇に触れた。雨ですぐに洗い流されてしまったが、指先には確かに血がついた。
蔵馬の目が幽助をまっすぐに見据えた。どうしていいのか判らないように首を振った。
「幽助……すぐに治るからそっとしておいてくれないか……」
幽助は答えなかった。黙って蔵馬を見つめた。これだけ弱っているなら、いっそ気絶させてでも自分のマンションに連れて帰ってしまった方がいいのか、それをすると却ってまずいのか、それを判断しかねて考えこんでいたのだ。
この不調について、蔵馬自身が理由を知っているかどうかでもだいぶ違う。蔵馬自身も判らない不調なら、ぼたんかコエンマに相談して何とかしなければならないと思った。
風が吹いた。その風と一緒に凍るような悪寒が彼の背中を撫でた。
その時初めて、幽助は自分たちのすぐ横にある温室の中で、異変が起こっていることに気づいた。幽助の目では温室の中は灯りが少ないために暗く、それほど良くは見えなかったが、しかし、温室の青白い光の中で、熱帯植物の影が、異様な形にうねり狂っているのが判った。
蔵馬が妖力を通した時、植物が不自然に伸びたりする、それに似ていた。
しかし、影の動きは止まらず、今も何らかの力を加えられているように、まだ揺れながら伸び続けていた。温室の中が混乱してひどい状態になっているが見てとれた。
(何だ?)
幽助は、自分の足許で浅い息を吐く蔵馬を見下ろした。本来なら蔵馬の影響と思う所だが、蔵馬がこんなことをするとはとても思えなかった。敵が中にいるというのでもあればともかく、そんな気配はない。
「蔵馬、お前なのか?」
幽助は声の調子を低く殺した。
「そんな状態で力使ってて平気なのかよ」
蔵馬は視線を上げて幽助の顔を凝視した。答えなかった。温室の壁にすがるようにして立ち上がった。喉元を押さえるように彼のてのひらが、胸元の布を握りしめるのを幽助は見た。
「どうやらオレの力は狂ってるらしい……」
蔵馬は低くささやいた。
「だから帰れって云ってるんだ」
「帰れ、だ?……」
自分で怖れたようにカッとはしなかった。むしろもっと暗い怒りがわき上がった。蔵馬が、自分に手を触れさせないつもりなのがよく判ったからだ。
温室のガラスで囲った中で花を咲かせるように、蔵馬の精神は透明だが強靭な檻の中にあって幽助の指を拒んでいた。
決して触れさせないというようにはねつけているのだった。自分が彼の内側からしめ出されているのだという思いは、幽助の中に驚くほど鮮やかな掻き傷を作った。
「マジで云ってんのか、それ」
「そう…………」
蔵馬は濡れた髪をかき上げて、幽助をねめつけた。温室の中のうねりはますます大きくなった。蔵馬の、胸を押さえた指に力がこもった。青ざめた白い顔の中で発熱のせいか、血を吐いたせいなのか、濡れた唇だけが正に血のように赤かった。
それは幽助の見たことのない蔵馬だった。凶々しい魔物の気配を持っていた。ほんの一瞬、花が咲くように微笑する、南野秀一という人間の身体を持ったものとは、まったく違う生き物の匂いがあった。
それは、たとえば魔界の焔を召還して、てのひらの中に黒い炎の影を宿した時、飛影が見せるものと同じような色だ。
蔵馬はかすかに唇を開いて赤い唇から呼気を吐き出した。
「オレはおかしくなってる……幽助、君にだって、何をするか判らない……」
「何するってんだよ」
怒りを飲み込もうとして喉に痛みが走った。
蔵馬の背中でガラスが鳴った。何かが歪むような感じがしたかと思うと、鈍い音を立ててガラスが割れた。蔵馬は、まつげを上げてガラスの割れた温室の壁を一瞥した。眉をひそめて視線を落とす。濡れて髪の張りついた青白い顔に、殉教者めいた表情が浮かぶのを一瞬幽助は見た。
割れたガラスの間から、何かねばり気のあるものがあふれ出して来るように、緑が萌え伸びた。蔵馬の片腕にその緑は絡みつき、剣のように右腕から垂れ下がった。
蔵馬はその右手を伸ばした。幽助の頬に触れる。
「知らないよ、幽助」
蔵馬の赤い唇が近づいて来るのを、幽助は怒りが高まり過ぎたために、むしろ冷静な目で眺めた。蔵馬の指は熱かった。今まで幽助が一方的に触れてきた。彼の肌も指も、髪も、視線さえ、いつも超然と清らかに冷たかった。
笑っていてもどこか、自分と彼の間にへだたりをつくって、蔵馬は一歩切り離したように超然としていた。
蔵馬が感情をむき出しにしていることが、むしろ幽助を落ちつかせた。こんな彼を見たことがなかった。打ちのめされた彼を見ながら思うことではなかったが、自分の知らない蔵馬の顔を見ることが走るような歓喜になった。蔵馬の指のその熱さが、彼の内側に入り込む扉であるようにさえ感じた。
蔵馬の唇は、幽助の雨に打たれて冷えた唇に触れた。血の匂いのする、異様に官能的な口づけが、濃い緑の香りと一緒に幽助に触れてきた。
蔵馬の腕を武器のように飾った緑はしばらくして、幽助の肩にも伸びてきた。植物と結び合う蔵馬。幽助にはそれも彼に対する微妙な感情になっているのだった。蔵馬の身体に赤い血が流れているのは知っているのに、時々、彼のなめらかな皮膚を傷つけたら、淡く透き通る緑色をおびた、透明な冷たい液体が流れ出そうに感じることもあった。
幽助は少しの間静かに立ったまま、かがみ込んだ蔵馬が自分に触れるのに任せた。蔵馬の気配は、高熱をおびていつになく鮮やかだ。途中で彼が震えていることに幽助は気づいた。蔵馬の唇が離れる。彼のからだのひそかなふるえと呼び合うように、緑は細く優美な糸になって、蔵馬の右腕と幽助の心臓をつなぐようにして半身を足許まで流れ落ちた。
細かい緑の葉が蛇のように伸びて行く様は、蔵馬の異状を、彼の唇よりはるかに雄弁に語っていた。
緑は次々に涌き上がり、足許に伸びてゆくものと枝わかれして、一筋が幽助の首筋にやわらかく巻きついた。その一枝は、おびえるように優しい力で幽助のうなじをそっと巻きしめた。苦しさを感じる程の力ではなかった。
蔵馬が震えながら目を閉じた。唇をかみしめた。苦しんでいるのだ。
幽助は耐えきれなくなって、自分と同じようにずぶ濡れになった蔵馬を抱きしめた。腕に力を込めた。自分なら、苦しければ叫ぶと思う。蔵馬はそれが出来ない。
「震えてんじゃねェよ」
その言葉に刺激されたように蔵馬がまつげを薄く開いた。黒く深く濡れた虹彩が幽助を見た。
冷たい雨に全身を濡らされて、しかし中に小太陽を抱え込んだように熱い蔵馬の身体が、幽助にもたれるように急に重みを増した。
蔵馬の膝が折れるのが判って、幽助は慌てて彼の体を支えた。
「どうした?」
「ちょっと、……離して……」
蔵馬は幽助を引き離し、身体を折り曲げて膝をついた。
片手でようよう体を支え、もう片方の手で覆った唇の間から、鮮やかな赤いものがあふれて来るのを幽助は見た。
「蔵馬!」
彼がさっき血を吐いたらしいと知っていても、目の前で血を吐く蔵馬を見た訳ではなかった。
幽助は異様な衝撃を受けて総毛立った。
何が起きているのだろう。よほどのことでなければこんな風になる訳がない。蔵馬の妖化した身体は、並みはずれて自己回復の能力が高いはずだ。
いつだったか、蔵馬はもう風邪をひくようなこともないと彼自身が云っていたのを聞いたことがあるのだ。それが、こんなふうに血を吐くというのは。
蔵馬はひきつるように震えながら、息を詰まらせ、何回かに分けて鮮血を吐き出した。
彼の背中が緊張に硬くこわばるのを、幽助は慄然と見下ろした。蔵馬の吐き気がおさまると、幽助は抱きかかえるように蔵馬を立たせた。
「歩けるか?」
彼は蔵馬の背中を支えながら、唇の周りについた血の汚れを指でぬぐい取ってやった。
蔵馬は大きく目を開けていた。何かに茫然としているように見えた。彼の腕に巻きついた緑は伸び下がり、ほとんど小やみになった雨のしずくに静かに打たれている。
「駄目だ……温室の、植物をこのままにしておけない……」
処分しないと。
そう弱くつぶやいた。何度も血を吐いてひどく消耗したようだ。声がつぶれて重くしゃがれている。
「処分?」
幽助は、蔵馬の身体をやんわりと自分から引き離した。異常発達して妖気をいっぱいにはらんだ植物を残していくのは危険だと、蔵馬は云っているのだ。巻きついてきた柔らかい緑を引きはがす。幽助の手の支えをなくして、立っていられないようにゆっくりと片膝をつく蔵馬を横目で見て、彼は唇をかみしめた。
「処分すりゃいいんだろ」
いつもなら威力を高めるために指の一点に集中させる霊気を、てのひら一杯にためる。
てのひらが熱くなり、そこからわずかに発光するのが判った。
幽助の力をそのままぶつければ間違いなく温室は全壊してしまうに違いなかったが、もういずれにせよガラスは割れているし、それほどの違いはないだろう。
いささかやり過ぎになってしまいそうだ。だが、これだけ苦しんでいる蔵馬を待たせて、気長に草取りをしている気分的な余裕はなかった。
幽助のてのひらから、空間の歪みに良く似たものがほとばしった。最近、霊力の質の変化なのか、前はわずかに光って見えるだけだったそれが、最近では微妙な空気の捻じれを伴うようになった。
温室のガラスがたわみ、植物を巻き込んでこなごなに砕け散った。少し離れた所にある白い常夜灯に照らされて、ガラスのかけらが光りながら道に、緑にふりつもった。
激しかった雨はほぼやみ始め、雨音も聞こえなくなり始めている。水に洗われた夜の中で、ガラスの砕ける音は異様に激しく響き渡った。人が来るかも知れない。
雨の中で黒銀色に濡れて輝く破片の中に、無残に千切れた緑が散在した。
その中から、薄闇の中に蝶が数匹舞い出るのを幽助は見た。
温室の中で飼われていた蝶が、この冷たい雨の晩に迷い出たなら、おそらくすぐに死んでしまうだろう。
「蔵馬」
幽助は振り返った。
蔵馬の濡れた髪をかき上げて、頬に触れる。幽助はちらりと不思議に思ったが、蔵馬の頬は先刻ほど燃えるようではなく、かすかに冷え始めたようだった。
「オレのとこに来るだろ?……」
蔵馬はかすかに頷いた。ちらりと違和感がある。蔵馬の影響を受けたあの植物を吹き飛ばした途端、蔵馬の様子が明らかに少し楽にほどけたことに、幽助は気づいたのだ。
「歩けるか?」
「……歩けるよ」
蔵馬はだるそうに頭をもたげた。温室の残骸を見やる。ほんのわずか、痛ましげに長いまつげをふさいだ。
蔵馬に何が起こっているのか幽助には見当もつかなかった。それに、今回ばかりは、推し量ることが可能だったとしてもあえて自分から察してやるつもりはなかった。
自分が今何を望んでいるのか幽助には判っていた。
彼が詮索するのではなく、蔵馬から伝えて欲しいのだ。
蔵馬はいつも超然として、自分自身の内側には何も弱点のないように見せている。その彼が見せた動揺と、そして彼の安定をおびやかすほどの不調を目の当たりにして、幽助の中で疾るように高まって行くものがあった。
彼は蔵馬に魅かれているのだ。偶然の感情の高まりにつき合わせる相手としてではなく、目を開いて接する相手として、明らかに蔵馬を欲しがっているのだ。
彼と触れた。
それは最初カタチから始まった。そして何の確認もないままその形が出来上がって、固まってしまってからも、それが蔵馬を損なってしまうような気がして、幽助が自分の心の中で認められなかった感情だった。
しかしよく考えて見れば、幽助にとっての蔵馬が、そんなことで損なわれるはずはなかった。
彼は、絞れるほど濡れた袖で額をこすった。
幽助の額も発熱しているように熱かった。蔵馬の熱をうつして、彼も発熱していたのかも知れなかった。
途中、雨は止み、黒く濡れた雲の間に姿を現した上空の暗い月に、凶々しく美しい虹がかかった。
蔵馬は苦しそうだったが、静かに唇をとざして口をきかなかった。時折よろめくように足取りが頼りなくなったが、遅れず、幽助の隣を歩いた。
幽助は自分のてのひらを硬く握りしめて、初めてと云っていいほど全身で蔵馬を意識した。
蔵馬の意思がどうであっても、無理やり拘束してでも彼が欲しいと思った。
蔵馬の殻は固く、硬質で清らかだ。透明なイメージがいつも彼にはあったが、本当は殻の中にあるものをもろく透かす無垢の透明ではなく、何を隠しているのかをまるで見せようとしない、「白」なのかもしれない。
白だとすれば、厳然と人の手をはねつけるかたくなな蒼白だ。
身体に数度触れたからといって、その程度のことで手に入れたように錯覚出来る相手ではなかった。
結局は、その触れがたさはあの石の闘場の上で見た銀色の髪の妖狐と同じだった。
朱い血を持つ、ほの白い肌の魔物の隣を歩く。
夜は襲いかかるように雨と緑の香りがした。
了