事件深刻化。
強い風が吹き始めた。月の周りに虹色の光暈を作っていた雲は吹き払われ、しろじろと青ざめた春の月が残った。
蔵馬は窓の外に漠然とした視線を預けた。身体がゆっくりとあたたかくほどかれてゆく。背筋がそっととける。幽助のマンションについてしばらくたって、蔵馬はそれに気づいた。幽助に身体が触れると、その瞬間、発熱の呼び起こす身体の痛みや吐き気が、どういった訳かほのかにやわらぐのだった。
濡れた蔵馬を部屋に連れて帰った後の幽助は、いつになく口数が少なかった。
黙って蔵馬に着替えを渡し、彼の濡れた髪や頬を拭った。不機嫌そうにも見えた。
その頃には、幽助に触れていることと関係があるのかどうか判らなかったが、ひどいめまいも吐き気も少しずつおさまり始めていた。
彼の変調の原因である石を取り除いたわけではないから、もろもろの症状がすっかり消えるというわけにはいかなかったが、その不調にもやはり波というものがあるようだった。
蔵馬の気もちのありようのせいもあったかもしれない。幽助と一緒にいると、気持ちが間違いなく楽になった。自分にとって幽助がどれだけ大きな存在になっているのか、まざまざと見せつけられる思いだった。
まずいとは思った。よりどころを多くは持たないからこそ、今までは或る程度の強さを維持することが楽に出来ていたのだ。これだけ思い入れる相手がいるというのは。弱みを増やすことにほかならない。
(しかたがないか……)
蔵馬は苦笑する。
しかしわざわざ否定するまでもなく、これは成就の形を持ちようがない思いなのだ。何も無理に捨てることはない。それが自分の手元にある間、それをてのひらに握り混んでいとおしむくらいなら害は少ないだろう。
「蔵馬」
水を持った幽助が立っていた。くっきりした幽助の目を半ばまぶしい思いで見上げた。
この感情が害がない程度でおさまるものなのか、そうでないのか、実のところ蔵馬にも判らない。だが正直、捨てるには惜しいかがやきだった。
「何か他に飲めるか?」
蔵馬は首を振った。水以外のものを受けつけられるほど回復していなかった。
この消耗は狐聾石のためばかりではなく、植物の過剰反応への疲労でもある。おそろしいほど無駄に妖気を費やしてしまった。縛り付けられて体中の血を啜り取られたような気分だ。
彼は冷たい水を一口飲んだ。心配したような痛みも、強い吐き気も襲ってこなかった。狐聾石の影響が今日は特に強く出て、それが鎮静し始めているのだろうか。それともあの不調はこれからひどくなる一方なのだろうか。
だとすれば、幽助の霊気は、自分の妖気と、あの苦痛をいやすほど相性がいいということになる。
(そんな事があり得るのか?)
ひとの霊気が、妖怪の回復をうながしなどという話は聞いたこともない。
蔵馬はため息をついた。
これ以上幽助に頼らない方がいい。物理的にもそうだし、精神的な意味ならなおさらである。
「蔵馬、あれどけた方がいいか?」
幽助が部屋のすみに顎をしゃくった。この間来た時にはなかった鉢植えがある。君子蘭だ。豪奢な緋色の花を支えた茎の周りに、どっしりと厚みのある暗緑色の剣葉が光っている。
「手入れのいい鉢みたいだけど、どうしたんですか……?」
花を正視出来ないような思いで蔵馬は云った。声が自然と抑えられておだやかに低くなる。
「オフクロの知り合いが持ってきた」
幽助は肩をすくめた。
「ここんちあんまり殺風景だからってさ」
「悪いけど、なるべく遠い部屋に」
蔵馬はなるべく抑制してささやいた。先刻のような過剰反応はないが、背中がかすかに粟立つ。自分の植物を操るこの力が暴走するなどということが起こるとは思ってもみなかった。狐聾石で弱った身体が、突然上昇線を描いた妖力と折り合いをつけきれなくなったのだろう。
幽助の勘の良さも厄介だった。
むろんあの場をとりつくろうことが出来なかった蔵馬に今回の責任があったが、幽助も、何が起こっているかも知らずに、その危険を察してしまうのだ。幽助を相手には、以前から感情を隠しにくかったのだが、しかし最近の彼は一段と、ナイフのように切れ味がいい。
幽助は頷いて、ずっしりと重い鉢植えを片手で軽々と持ちあげた。蔵馬の横になったベッドの隣を通り過ぎる時、蔵馬の肩口を軽く叩いた。彼は一瞬身体を硬くした。さっきの事を思い出すと、植物とその距離を取ることだけでも、何かまずい事が起こりそうな気がしたのだった。
しかし肩に幽助のてのひらの温かさが一瞬かすめただけで、何も起こらなかった。
幽助は不思議だ。向こうの部屋に向かう幽助の後ろ姿を見送って蔵馬は思った。
それともこれは、蔵馬にとって不思議に思えるだけなのだろうか。
「蔵馬」
戻ってきた幽助は、蔵馬の足許に座った。どう云い出していいのか判らないように唇を一回湿した。
幽助の目が静かに光っているのが判った。彼はもう迷っていない。しばらく前から幽助は蔵馬の不調に気づいている。しかもそれが赤蝕と会った後からだということさえ。そして尋ねていいのか、それとも放っておいた方がいいのか考えあぐねていたのを蔵馬は知っていた。
しかし、幽助はこうなったら自分に話させるつもりだろう。
この期に及んでも、まだ彼は本当の事を云わずに済ませらたい気持ちがあった。彼は他人に依存する習慣がない。しかし今回の出来事は思いの外厄介で、それで思わず幽助に寄りかかってしまいそうだった。例え今日だけのことだったとしても、人に寄りかかるというのが自分にどんなふうに影響するのか蔵馬には判らない。寄りかかるのも、自分が相手を利用する気ならそれはそれで構わないのだ。しかし幽助を相手にしてはそうもいかない。
蔵馬はベッドの上に起き上がった。このベッドの上で彼は幽助と何度か抱き合った。つい二週間ほど前、赤蝕と会って狐聾石を埋めこまれた日にも、幽助と触れた。知らず苦笑した。
答えようとしない彼に幽助は眉をひそめた。
「話せよ、ただ放っといてそうなったわけじゃねェだろ」
彼の若い面差しは苛々したように尖った表情になった。
「話したくないなんて云うなよ」
「話したくない。本当はね」
蔵馬は諦めてため息をついた。何も聞かずにいてくれるはずはないと思ったが、幽助は案の定ストレートに打ち出して来る。
「お前が喋らないってんなら、オレの方でも勝手にするからな」
「……」
「コエンマでもぼたんでもいいけど、お前がすげえ熱だして、何回も血を吐いたってコト、全部バラしてもいいんだぜ。能力の方も制御出来てなかったってな」
「幽助」
蔵馬は肩を落とした。それは彼らしい荒っぽい、武骨な物云いだった。幽助の思いつめた目を見れば、その動揺が伝わって来る。あんな所を見られてしまったら、幽助の気が多少急いても仕方がなかった。幽助の記憶を消す事など、今の蔵馬にはとうてい出来ないだろう。
「話すよ」
蔵馬はゆっくり片膝を立て、その上に腕を乗せて胸を支えた。幽助がほっと安堵したような顔になった。彼としても強く問い詰めたくはないはずだ。
「嘘つくなよ」
「つかないよ」
蔵馬はかすかに笑った。
幽助の率直さは彼を傷つけなかった。むしろゆるやかにほどかれる感じがあった。
しみとおるように、幽助を好きだと思った。
喉の奥から、ふるえがわき上がって来た。
蔵馬のいるベッドの足許に座った幽助は、膝の上で組んだ手のふるえが激しくなるのを自覚した。背筋が頼りなくなって視界が白茶けた感じになった。
「あと……一週間か……もって十日」
蔵馬の疲れてかすれた声がうたうようにそういった。彼自身はもうこの事について考えつくしてしまったのだろう。まつげも唇も静かで、それは今感じている肉体的な苦痛以外を持たないように見えた。
幽助はてのひらに爪が食いいるほどきつく握りしめて、自分のその手元を凝視した。
彼は、そのことを自分に黙っていた蔵馬をもう責めようとは思わなかった。きっと自分が蔵馬でもこうしただろう。自分は蔵馬に比べて、霊的な事に対する知識量がまるで違うから、あるいは誰かに相談したかも知れないが、それも物理的な条件を解決するためでしかないだろう。
自分自身の手で何とか出来るのなら、きっと自分も蔵馬には云わない。
「あいつなんだな」
呼吸が乱れた。蔵馬は静かに頷いた。幽助が、半月ほど前に道で逢ったあの背の高い男の話をしているのが判ったのだろう。
幽助は唇を開いた。何を云おうとしているのか、何を云いたいのかも判らなかった。ただ、恐慌状態に似た怒りと、焦りがあった。
彼は痙攣するようにとぎれる息を吐き出した。
自分でも知らない内に腕が伸びていた。自分の拳が壁に打ちつけられているのを見て、ようやく自分が何をしたか知った。現実感がなく視界が妙に平面的な感じがした。
壁がわずかにめりこみ、指に、たいして感じない程度の痛みがあった。
それでも口にした事で少しは荷が軽くなるのか、蔵馬が割り切れた、すっきりした目をしているのに幽助は気づいた。幽助が壁を打ったこぶしを、彼の熱い手が伸びて静かに握り取った。
幽助は烈しい勢いでその手を取り戻して、膝の上で握りしめた。両手にいくら力を込めてもふるえを握りつぶす事は出来なかった。彼は身体を折るようにしてみぞおちに力を込めた。何とかして、この不快なふるえを飲み下そうとした。
「幽助?」
蔵馬の声に気づかわしげな色が混じるのを感じて、幽助のふるえはなおさら大きくなった。
こんな状態の彼に気づかわせている。
一刻も早く収集をつけて、傍観するなり協力するなり、自分の中の感情に解決をつけなければならなかった。蔵馬は彼自身のことで精一杯だろう。だが。食いしばった歯の間から呷きが漏れた。
「……っくしょう……」
「幽助…………」
蔵馬が静かに手を伸ばして幽助の腕に触れた。灼けた金属に触れられたように幽助の肩がびくりと反応した。
見開いた幽助の目の中に、蔵馬の暗く静かに沈んだ目が彼を見つめ返して映った。
「蔵馬」
幽助は蔵馬の両肩を掴んで自分に引き寄せた。このわずかな間に痩せたような気がする彼の身体を力任せに抱きしめた。怒りと衝撃で息が詰まった。蔵馬を抱きしめる手がふるえて力が抜けそうになるのを抑えて、幽助は乱れた息を押し殺した。抱きしめても足りず、更に力を込めた。
蔵馬は最初身動きせずに幽助に抱かれていたが、しばらくして、幽助の耳元を、ひそやかに優しいため息がくすぐった。蔵馬は自分を抱きしめる幽助の肩に頬をつけた。これは幽助が蔵馬にしばしばそうする癖だった。怖くて名前を呼ぶことも出来なかった。自分の荒々しい動悸が蔵馬に聞こえているだろうと思いながら、幽助は怒りにふるえる腕で蔵馬の身体を抱きしめた。
「ああ……やっぱり」
どういう訳か蔵馬の声から、かすれた、つらそうな響きが薄れていた。
「幽助に触ってると楽だ……」
「……?」
息を殺して蔵馬を抱いていた幽助は大きく呼気を吐き出して蔵馬の顔を眺めた。
「何だって?」
「たぶん、君の霊力のおかげだと思う、本当は、そんなにオレの体に合うとは思えないんだけどね。楽なんだ、幽助に触った所から軽くなる…………」
蔵馬は笑った。蔵馬の微笑をひどく長い間見ていない気がしていた幽助はわずかにほっとした。
「ホントかよ」
「オレも気のせいかと思ってたんですけどね、さっきよりだんだん楽になって来てる」
立っている事も出来なかったのだと、彼は静かに云い足した。
軽口をきくことも出来ずに幽助は、てのひらで蔵馬の頬に触れた。髪に触れた。愛撫する意味でなく人にそんなふうに触れたのは初めての事だった。
「ただでさえオレは力余ってるんだからよ、切り取って分けてやりてえよ」
蔵馬は笑って幽助の肩に額をつけた。蔵馬のこんな仕草を初めて見た幽助は、ふと胸を衝かれた。
「お前、そのナイフ探しに行くんだろ?……」
「そうだね。今のところ、探しに行こうにも、どこにあるのかまるで判らないけど」
確かに、少しずつだが蔵馬の声からかすれが取れて、呼吸が楽に静まってゆくのを感じとって幽助は逆に、叫びだしそうなたまらない気分になった。
「オレにも協力させろよ」
彼の動悸はおさまらなかった。ますます激しくなった。
蔵馬は黙った。やや否定的な沈黙だった。蔵馬がそれをよしとしていないのが判った。
「……オレ一人で解決しますから、って云っても、君は納得しないんだろうね」
蔵馬の唇にふわり、と意味のとらえがたい微笑が乗るのを幽助は見た。薄い唇に刷かれたその半ば苦い笑みは、しかし不快そうではなかった。
「ごめん、こんな云い方して」
幽助は仕方なく虚勢を張るように肩を揺すりあげ、首を振った。
「や。しかたねえよ、ホントの事だから」
「……」
「オレのこういうの、重てーか、蔵馬」
幽助の問いに蔵馬はわずかに迷うような色を見せた。今日は蔵馬の表情が良く変わる。感情を殺す必要をそれほど感じていないのだろう。植物に牙を剥かれて、血を吐いて、そして取り急いで考えることが多過ぎるからだろう。
生きるのに倦まないようにするのは、人間と比べものにならないほど長い寿命を持った妖怪達にとってはそれほど簡単ではないに違いなかった。そのせいか、妖怪達は自分の生などというものについて考えない本能があるように見える。
数十年にかぎられた寿命と、壊れ易くもろい身体を持った人間だからこそ、その短い生の間にそれ自体について考える習慣が出来るのだ。
人間の身体を持った蔵馬や、昔人間だった戸愚呂などは、その意味で妖怪達特有の一種の鈍感さを持ち合わせていない。
その分、身体と精神のバランスを取りにくくなるはずだ。
幽助自身も経験したように、生に執着する生理を持った人間にとって、誰かを憎まないままで自分の力を出しきるのはそれほど簡単なことではない。引っかかるものが多ければ多いほど、今の蔵馬の足かせになり得るかも知れない。
「重いね」
蔵馬は意外に思えるほどはっきりとそう云った。
「重いけど、でも、今のオレには必要かもしれない……」
憔悴したようなかげりの見える青白いまぶたが、戸惑ったように伏せられた。
「ごめん、わかりにくいね」
「お前、そんな風になんの珍しいだろ」
蔵馬は驚いたように目を開けた。ゆっくりと目をしばたたく。
「そうですね」
「普通は、みんなそうなんだよ。どうしたらいいか判んねえだろ。だから人に聞いて安心しようとするだろ……」
蔵馬は微笑んだ。
「答は判り切ってるのに、賛同が欲しいばかりに口に出すことだってある」
幽助は肩をすくめた。
「お前、アタマ良過ぎるんだ」
彼の様子を見て、蔵馬の目元にかすかな後悔の色がきざすのが判った。彼は普段、滅多なことでは辛辣な物云いをしない。必要以上に辛辣な云い方をするのは馬鹿らしいと思っている節もあった。
ムキになった自分を恥じるように蔵馬は沈黙した。
「そういうお前も面白いけど……」
幽助は苦笑した。最近少し伸び気味の前髪をかき上げた。
「とにかく手伝わせろよ。オレがいた方が楽なんだろ?」
「……そうだね」
蔵馬は静かに笑って肯定した。幽助の節の堅い手に、そっと蔵馬の手が触れた。蔵馬の手はきめが細かく皮膚が柔らかい。彼の肌は角質化しない。拳闘の方もかなり使うのに白くなめらかで、指は長いが細い。爪も幽助より小さかった。
幽助は初めて彼と出会った時のような気分で蔵馬の目を見返した。ふたつの顔を持って、その両方とうまくつき合いながら、ごく一瞬、蔵馬の目にはどこかここを見ているのでないような、遠く赤いゆらめきを持つ。
並みの人間以上に地に足のついた蔵馬に時々感じる違和感だった。それは幽助を、漠然と不安にさせる。
「幽助」
蔵馬が幽助に頬を寄せるようにして、背中に腕を巻きつけた。頬が触れた。蔵馬の唇が頬に触れるのを感じる。柔らかな息。血の匂いはもうなく、やはりいつものようにかすかに緑を思わせる冷たい吐息だった。白い柔らかな獣が柔美な身体を巻き付けて来たような印象があった。あるいは、白い花の咲いた柔らかい草の中に身を埋めても、こんな感じがするかも知れない。
「蔵馬」
幽助は蔵馬を引き離そうとした。蔵馬を抱きしめれば当然のように彼の中に沸き起こるものがあった。弱った蔵馬にそんなことを強制する訳には行かない。
「離れろって、お前が具合悪くても、オレには誘いになっちまうんだからさ……」
「誘ってるんだよ」
蔵馬の目が幾度かまばたいて、半ば冗談めかしたささやきが幽助の耳許を撫で過ぎた。間近に見えるまつげ。鼻筋、唇。蔵馬の不調に触発されて緊張していた幽助の気持ちは、突然熱を浴びて溶けた。
「お前、知らねーぞ」
蔵馬の唇に唇を押しつける。慣れない熱さがまだ残っている。知らない相手に触れるような気分もかすかに残る。
壊さないように。そんな風に思っていることに幽助は気づいた。壊れる訳ではない、しかし壊れ始めている身体、いくら幽助がそっと触れても変わらない狂い。抑えて触れようと思う側から、腕だけが身勝手に逸った。
シーツの上に蔵馬を押しつけて、胸をはだける。胸は驚くほど熱かった。
「まだ熱下がってないぜ、こんな状態でやったらヤバいんじゃねーの?」
「平気だよ」
蔵馬はおっとりと微笑する。薄い唇の奥にかすかに見える、舌の見慣れない赤さに誘われた。抑えていないのか、抑えられないのか、そのなまめかしさも見せたことのないものだった。彼の変調は幽助を不安にするくせ、煽情的に幽助の目に鮮やかだった。胸に歯を立てると、蔵馬はかすかにふるえて身をよじった。
唇で肩に触れる。普通の人間とは根本的に作りが違うのだろう。あんな力を持っているとは判らないほど彼の腕はなだらかに細い。服を脱がせて、熱い体を強く抱きすくめた。
蔵馬は幾度か声を上げた。汗ばみ、うわずった声をのみ込もうと唇をかみしめた。幽助の腰に長い足を絡ませ、もっと深く受け入れようとするように身体をうねらせた。彼を傷つけている石にもたらされた変調のせいかもしれない、そう思いながら、幽助は、何回も、見たことのない蔵馬の表情や声に理性を失いそうになった。
声は深いため息にまじったかすかなものから、だんだんと上擦った断続的なものに変わり、それは幽助をたまらなく熱くした。
その晩は、いつもの関係を持ち越すことの出来ない夜だった。抑えようと引く気持ちと身体と、夢中になり過ぎて幻惑される目と、抱きしめる腕と、髪やキスや汗のいりまじった、舌を刺す蜜のような数十分になった。
最後かも知れないと、一度も思わなかったと云ったら嘘になった。
多分それは幽助の方だけではなかった。
……そのメロディは神をたたえて歌う歌。己の目を通して出会う光の神を奉じて歌う歌。あなたは己の内なる力へ、内在する神に向かって語る。自らを保つことはすなわち、裏切りのない唯一神を奉じることにより近い。それを誰よりも知っているから。
眠りはすみやかに訪れた。
疲れた体をくるんで抱きしめた眠りは深く優しかった。ここ数日蔵馬はほとんど眠っていなかったのだ。眠る間際、幽助が彼の指を探って握りしめたのが判った。その仕草は恋人のように甘かったが、しかし甘い感傷以上の意味を含んでいた。幽助の不安が指から流れ込んで来る。不安はぎすぎすと尖って、しかし幽助らしい熱いエネルギーだった。
目覚める間際、蔵馬の意識は深い眠りの底をすべりだして、夢に流れ込んだ。
夢の中で彼は、目も開けられないほど明るい発光体でうずまった広い道の中央に立った。道は輝いて燃えながら蔵馬を抱きしめるように流動している。
その乱がわしいほどの光の群れは、しかし春草の香りにもにてあたたかく、上空から密集して音楽のようにふりそそいで来た。
彼は立ち、正体の判らない旋律の金色のウェーブに包まれて目を閉じた。
光はまぶたを通して尚、しきりに煌めいた。途中で優しいものが頬を撫でて目を開けると、蔵馬の周囲に散りひらく白いものは光ではなく、白い花びらだった。桜の花片によく似ていた。
……桜が咲いたのか。
そう思って辺りを見回した。一面に盛り上がった浄い白の小花はしかし桜ともまた少し違うようで、蔵馬の足許に蝶のように舞い降りてはふりつもった。
白と、金色に透き通った光だけがあった。
そして、苦しみを伴わない熱があった。てのひらや髪の先から細く炎がたなびいて、炎を上げた部分から金色の火の粉が散った。そこからまた白い花が咲くのだった。
このイメージ。
夢の中で蔵馬は微笑した。このイメージがどこから来たものなのか。
微笑した瞬間、白く光る花びらの雨の下から、強く腕を掴んで引き戻す力があった。
ひやりとした空気が頬を撫でて彼は目を覚ました。
夢の中で浮かべた微笑が唇に甘く残っていた。蔵馬は目を細めた。
すっかりあたりは明るくなっている。もう昼近い。
目を開けた蔵馬はしばらく動かなかった。目の前に、吐息の触れそうな至近距離に幽助が眠っていた。
軽く背中を丸めて眠っている幽助の、おろした前髪に日光が照りつけて、蔵馬の目の前に虹色の光の玉をびっしりと作っていた。片手を上げてその前髪に触れようとした蔵馬は、自分の指がまだ幽助の指とからめあったままだということに気づいた。
この瞬間も、明らかに幽助の指に、狐聾石の苦痛をやわらげられているのが判った。
はからずも幽助は、自分がいた方が楽だろう、と蔵馬に云ったが、確かに幽助の力を借りなければ、もうあの妖剣を見つけることは出来ないかも知れない。
シーツにつけた頬は温かかったが、不快なほどの熱さではなかった。
そろそろと指をはずし、起き上がる。
めまいが残っている。しばらく食物を摂っていなかったせいもあるのだろう。蔵馬は幽助の額に触れた。熱が身体に残っているせいで冷たく感じられる。幽助の顔は、目を閉じると子供のようにあどけない。
このイメージだ。蔵馬は、幽助という外部エネルギーが、切り離せない自分の血肉と同じような内在のエネルギーに変わっていることに気づいた。幽助をもう、痛み無しには切り離せない。
この先幽助は自分の弱点になるだろう。はっきりとそう思った。
蔵馬は彼の髪にそっと触れた。それでも彼にはもう判っていた。あれだけ強い光に象徴された幽助の存在だった。闇の中で瞬間、生き続けることに倦んだ時、幽助は自分の腕を無理やりにもとらえて生に執着させる光になる。
……その旋律を通して貴方は咲き、自己という名の神に語る。過剰な黄金のビジョンを望まず、眠りのような安息に身をゆだねるきもちになった時。耳を傾ける。目を閉じる。そのとき貴方は人に教えを乞うこともなく、賛美の声を待つこともない。ただ耳を傾けてその旋律を聴くことを始められるだろう。
蔵馬は幽助の隣をようよう抜け出して、水を飲んだ。関節をだるく温める熱に、グラスの冷たさが心地よかった。水に唇をつけ、ふと気づくと幽助がリビングの隅に君子蘭を置いてあるのを見つけた。彼は服の前をかき合わせ、あでやかな緋色の花の前に静かに立った。
てのひらをかざす。
花はわずかにふるえたように見えたが、何も起こらなかった。代わりに、淡いキスを残すように、花のエネルギーが彼のてのひらにあえかなぬくもりをもたらした。
幽助の力にいやされているのだ。
蔵馬は生気を吸ってしまわないよう、蘭の鉢の前から離れた。
彼の身体がもたなくなるまで後どのくらいあるのか判らなかった。唇をかみしめた。温室のガラスの残骸と、眠る幽助の面差しとが眼前をちらついた。
闇と光のように切り離せず胸に食い入った。
痛みに似た甘い旋律のように光は尽きず、静かに頭上からそそいだ。
気配を殺して部屋に戻り、子供のような幽助の寝顔を見下ろす。優しさだけでなく、情だけでなく、彼は蔵馬の中の光の形だ。
失いたくなかった。
そこにたどり着くまでの苦しみにまして、その想いは明るく輝いた。
光以外ではなかった。
……了