log

S01_07_Strange night of stone・2

03 01 *2013 | Category 二次::幽遊・幽×蔵他(蔵馬中心)

事件悪化ピーク。

続き




【1】


 空はまぶしく晴れ渡った。
 この数日の東京は曇りがちだった。花曇りというにはそろそろ季節はずれだった。しかもこの春は何の異常気象か、この辺りの街には全く桜が咲かなかったのだ。
 蔵馬と幽助は、白浜に向かうために家を出た。妖狐であった頃の彼が、人間界にやってきた時気まぐれに埋めたというナイフを探し出すためだった。それが出来なければ蔵馬の命が助からないところまで事態は悪化していた。
 前の晩幽助の家に泊まった蔵馬は、朝早く家に必要なものを取りに帰った。幽助は蔵馬の家のすぐ近くまで彼と一緒に行った。何が起こるのか分からない以上、蔵馬の側を離れないつもりでいた。
 幽助は、『南野秀一』とその母親が十数年暮らしてきた家を、住宅街の道の角から見つめた。
 幽助と温子が暮らしているマンションとは対照的な、誠実で地道な暮らしを積み重ねてきた様子を思わせる、つつましやかな木造の二階建てだ。
 幽助は蔵馬の家を訪ねたことがなかった。蔵馬の母の入院先に訪ねて行った事はあったが、友人としてその後も訪ねていくには、南野秀一と幽助は異質な存在同士だった。霊界絡みのごたごたがなければ、一生知り合うことも道が交わることもなかったはずだ。
 ……荷物取りに行くなら、オレも行くぜ。……
 …………。
 ……一人で大丈夫なんて云うなよな。
 あの時の蔵馬の顔を、幽助はなるべく考えないようにしていた。
 一瞬、暗い目をした。とらえどころのない、しかし肯定的な目ではなかった。
 蔵馬にあんな顔をさせたのは幽助だ。幽助と蔵馬の付き合いは、霊界と蔵馬のそれのようにビジネスライクなものではない。幽助が蔵馬のためにしているのだと知って、蔵馬は尚更、それを苦々しく思っているのだ。
 だが正直に云えば、今の幽助にとって、自分に頼りたがらない蔵馬の心境を思いやる事は、二の次になっている。何よりまず生きていればこそのことだ。肉体が生きているから、そのプライドも収まる器を持つ。死んでしまったら誇りも何もあったものではない。
 自分の存在が蔵馬の生死に直接……それがほんの些細な事であるとはいえ……関っているのだと思うと不思議だった。蔵馬に彼の霊力をそそぎこむと、彼の身体の中に埋め込まれた狐聾石がもたらす痛みがやわらぐ。
 しばらく前から、自分の霊力の性質がかすかに変わったような気はしていた。
 暗黒武術界が終わってから、霊気の『色』が微妙に変わったような気がするのだ。幻海ならその変化に気づくかも知れない。その正体も判るだろう。
 幽助自身には、その性質の変化がどのようなものなのかは判断できなかった。桑原も何も判らないと云っていたし、今は幻海と会っている気持ちの余裕はなかった。
 蔵馬の異状で頭が一杯になっていた。
 自分の霊力の質の変化を気にしていられる時ではなかった。それが今回の事を解決するにあたって、不利な条件にさえならなければいいのだ。
 蔵馬の石の件が片づいたら、幻海の所に行って、霊気の質の変化について話そう。幽助は考えた。だがそれも、そんなにせっぱつまった話ではない。
 早朝の道のアスファルトがまばゆく日光を照り返している。幽助は目を細めた。
 誰が大切なのか、誰が彼に取って一番大切なのか。
 そんなことは彼には分からなかった。
 ただ、例えば虫笛に操られた人間たちに螢子とぼたんが殺されそうになっていた時、二人を救うために、幽助は危うく命を捨てかけた。そうすることにためらいなどなかった。今度はそれが蔵馬であったというだけのことだ。
 自分の大切な相手を傷つけられる事は許せなかった。それは相手を守る、などという感情ではなく──幽助はそれほど自分の力に盲目的な信頼を注いではいなかった──自分の力が状況を好転させるファクターの一つならば、そこに注ぐ力を惜しまないということだ。
 人を一人守るというのがどれほど難かしいのか、目の前で戸愚呂に幻海を殺された幽助は知っている。この歳でそれを知ってしまったのは幸運とばかりは云えない。自分がいくら強くなっても、人を救えるとは限らないというのは苦い認識だ。
 自分の霊気が蔵馬の苦痛をやわらげているのが、今はせめて幽助の救いになっていた。
 確実に、目に見える形で蔵馬の力になっているからだ。
 幽助の中で蔵馬はいつの間にか代えがたい大きな存在になっていた。幽助本人も気づかない内にそうなっていた。それを、ここしばらく蔵馬に起こった異変で気づかされたと云ってもいい。
 そうでなければ幽助は、他人に取っての自分が、また、自分に取っての他人がどういった存在であるかを意識して考える気質ではない。
 彼は蔵馬の家から視線を背けて足元を見た。傍らの塀に寄りかかる。
 今日の彼は、周囲とのいらない衝突を避けるために髪をおろしている。そうしていると大分彼の面差しは幼くなる。

 今朝、もっと早い時間に、幽助は蔵馬がまだ眠っている隣を抜け出した。蔵馬は目を覚まさなかった。以前なら考えられない事だ。蔵馬の眠りは浅い。幽助は彼の寝顔自体、ほとんど見た記憶がなかった。
 彼は複雑な思いで蔵馬の寝顔を見下ろしたが、そのまま家を出て桑原の家まで行った。五時前だ。未だ日の出にわずかに早く、朝の道はまだひっそりと青みがかっていた。
 桑原の部屋は道に面している。幽助は小石を拾って窓に軽く当てた。思ったより石は強くあたり、鋭い音で跳ね返った。幽助は自分のてのひらを眺めて苦笑した。以前より霊力だけでなく、力も何もかも、段違いに強くなってしまっている。
 もう一つ小石を拾って、窓を伺うと、ほんの少ししてから窓が開いた。
「朝っぱらからふざけてんじゃねェぞ」
 パジャマ姿の桑原が不機嫌そうに赤い髪をかき上げながら窓から顔を出した。彼は一瞬、幽助が立っている事に気づかなかったようで、ぐるりと窓下を見回した。
「どこ見てんだよ」
「てめえか」
 桑原は眉をしかめて見せた。だが、彼が不機嫌そうでなくなった事に幽助は気づいた。桑原は武術会から帰って以降は特に、幽助に開け広げた好意を示すようになった。それは身体ごと当たって来るように荒っぽく、一見して好意とわかるようなものではなかったが、彼はあきらかに幽助を自分の領域に迎え入れたようだ。
「どうしたんだよ」
 桑原は大柄な身体を割り込ませるようにして窓枠に座って幽助を見下ろした。
 思わず笑う。桑原は幽助にとって元々属していた世界の象徴のようなものだ。彼は無意識に額から前髪をかき上げた。髪を撫で上げていないと何となく落ち着かない。気合いが入りにくいのだ。
「朝のお散歩だよ」
「馬鹿云ってんじゃねえよ」
 桑原はあきれたように窓枠の上に立てた長い片膝に腕をかけた。
「コエンマから何か云って来たんか」
「今んとこは何にも」
「浦飯」
 桑原は不審げに幽助を見下ろした。頬がそげて彼の顔はここ数カ月、少年というよりは男に近いイメージになっている。いかつい顔にいぶかしげな色が浮かんだ。
「まさかてめえ、ホントに何となく起こしやがったんじゃねえだろうな」
「桑原」
 幽助はてのひらを見えるようにかかげて見せて、力をためた。
「何か感じねェか」
「……?」
 幽助のてのひらを桑原は見つめた。
 幽助には見えた。以前、幽助の霊気は肉眼でようやく見える程度のほの白い光を放っていた。
 しかし最近、霊力値が高まったせいなのか、螢の光のような奇妙な翆色をおびて、陽炎のようにかすかに空間をゆがめて見せるようになって来たのだ。最初は気のせいかと思ったその変化は、少しずつはっきりして来ている。
 霊気であることには間違いないのだが、飛影や戸愚呂に見るのと同じ、むしろ妖気にさえ近く感じられた。
「別に何も感じねェが」
 桑原は首を振った。
「何か変なのかよ」
「お前が何も見えねェのか。じゃあ、どってことねえかなあ。……」
 幽助は自分のてのひらにためた霊気を軽く散らした。かすかに冷えるような感触を残して、てのひらが軽くなった。半ば安堵の息をつく。これが霊力の低下であるとか、そういう事でなければいいのだ。これから蔵馬と一緒に出て、何のトラブルもないとは思えない。彼の霊力が衰えたら蔵馬も危なくなるかもしれない。今度ばかりは幻海の所で修業している暇はないのだ。
「何か気になるんだったら、今日にでもバアさんとこに行ってみりゃいいじゃねェか。頂度オレもちょっと見てもらいてえなと思ってた事があってよ」
 桑原は屈託なくそう云って伸びをした。腕の先が窓枠の上にぶつかりそうになる。
「ああ、そのことだけどよ。オレしばらく留守にするから」
「留守?」
「三日か四日くらい……一週間くらいはいねーかも」
「一週間って、ガッコはどうすんだよ、お前」
「休むに決まってんだろ」
 桑原は考え込むように幽助を見下ろした。
「お前よぅ。……」
 そうして、所在なげに長い指を前髪の中に突っ込んでかき回した。
「……お前、いつまでもそんな事してねえで、ちったァ普通の生活しろよ。どうすんだよ、来年とかよ」
 幽助は声を立てて笑った。最近、桑原の心境に変化があったことに、彼は薄々気づいている。
 暗黒武術会を経験して、桑原のようになるのが本当ではないかと思った。しかし、幽助の中には同様の変化はなかった。
 人間以外のものを拒絶して暮らす平穏な生活には興味が持てなかった。
「馬鹿かてめえ、ハハオヤみてえなこと云ってんじゃねえよ」
 自分でも何がおかしいのか、喉から繰り返し笑いが押し上がって来る。温子は一度も、受験の事など口に出した事はない。
「てめえこそ気色悪いコト云ってんじゃねえ」
 そういいながらもさして気を悪くした様子もなく、桑原は、明るくなり始めた空を目をすがめて見上げた。
「ま、何があんのか知らねえけどよ。さっさと済ませてバアさんとこでも行って来ようぜ」
「てめえ一人で行って来いよ」
 不意に甘い、感傷に似たものが胸を静かに刺した。理由は判らなかったが、それは彼が久しく味わった事のないような感情だった。幽助はポケットに手を突っ込んで、背中越しに手を振って見せた。元来た道を歩きだす。
「おい、浦飯! いつ帰って来んだよっ」
 後ろから桑原の声が追いかけて来る。
 幽助は半ば振り返れない思いで立ち止まった。
「っせーな、終わりゃすぐに帰って来るって」
「終わるって、てめえ、今何やってんだよ?」
「……」
 幽助はようやく一度振り返って、明るくなり始めた空を背景にした桑原の家、今思えば、じゃれ合いでしかなかった日常生活を共有していた桑原の姿を見た。理由のわからないまま、霊気を抑えて散らした瞬間に似て、胸がかすかに冷えた。
 彼は笑って片手を上げて見せると、桑原の家の前を歩き去った。桑原の視線を感じて背中がちりちりと灼ける思いだった。
 一瞬、桑原に蔵馬の事を話そうかという衝動に駆られて彼は振り向きかけた。しかし、それを蔵馬が望んでいない事も知っていた。だが、何故彼がそんなに黙したまま全てを片づけたいのか彼には判らなかった。蔵馬の今回のやり方は要領が悪い。
 しかし桑原も、話を聞かされてしまったら何もしない訳にはいかないだろう。
 幽助の中で、ちらりと桑原への罪悪感が動いた。
 だが、たぶん云わないでおいた方が親切なのに違いない。
 桑原は変った。それははっきりしている。
(そういやオレは変わんねェよな)
 ここのところ何があっても、変わってゆくのは幽助の力だけだ。自分が人間以外のものをこれほどたやすく受け入れてしまえるのは不思議だった。全くと云っていい程抵抗がない。
 その間にも、幽助の力は上昇し続けている。立っているだけで、周囲をとりかこむものに影響を及ぼしそうな程、幽助は強くなっている。
 幽助はその後は振り返らず、まっすぐに自分のマンションまで戻った。今日桑原の所に行ったのが、霊力の質の変化について桑原に見せようと思っただけなのか、彼にも判らなかった。
 彼が自分のマンションに帰ると蔵馬は目を覚ましていた。静かに目を開けて天井を凝視していた。幽助が入ってゆくと、ゆっくりと顔を振り向けて幽助を見た。瞳の色がいつもより深く昏く澄んでいるように思えた。
「……用事だった?」
 蔵馬は低く尋ねた。穏やかな声だった。静か過ぎて不安になった。
「済んだ」
 幽助は一瞬、神経に直接触れられたような思いで、蔵馬を見下ろした。思わず目を細くすがめた。なぜか涙腺を刺激された。
 ほんの子供の頃に、泣くのを我慢した時のように喉が熱く痛んだ。けれど彼には簡単に泣くという習慣はなかったし、今泣く理由もなかった。悠長に感傷に浸っている場合でもなかった。
 だが胸の中に何か、もやもやと理由の知れないものが眠っていた。
 朝のその時のもやもやをそのまま抱えて、蔵馬の家の近くで待っていた幽助の神経をかすかに逆撫でるようにして、人の話し声が入り込んで来た。
 幽助ははっと目を開けて、寄りかかっていた塀の壁から離れ、蔵馬の家を振り返った。
 家のドアが開いた。
 彼は塀の影から更にもう一歩身体を引いた。
「……気をつけてね。向こうから電話してね」
「なるべくね」
 すっかり南野秀一の顔で、蔵馬が母親に答えている様子を、幽助はぼんやりと眺めた。自分は人間だが、あんな風に不思議なほど一般的な暮らしの営みには縁がない。
 本来異質なものが意識して作り上げた、見事な「家庭」の形だ。
「ここでいいから」
 蔵馬が母親に笑顔を向けている。蔵馬の母が、その笑顔にわずかにいぶかしげな視線を注いでいるのが判った。どうやってつじつまを合わせたのかは知らないが、蔵馬の顔色が悪いのに気づいているのだろう。
「大丈夫。じゃあ」
 ここに来る前にあれほどふらついていた蔵馬は、そう云って、落ち着いた足取りで幽助の待つ曲がり角にさしかかった。
「……」
 蔵馬は、幽助の前で立ち止まった。
「行こう」
「お前、平気な顔してるけど。……」
 幽助が考え考えゆっくりとそう云うと、蔵馬は微笑した。
「やせ我慢だよ、さすがにね」
 笑いながらそんな風に云う蔵馬に幽助はあきれて肩をすくめた。蔵馬は朝から静かだった。しかし、何か思う所があったのか、昨日までのあの昏く沈むような感じは見られなくなった。むしろ、いつもの人を食ったような表情を取り戻しているように見えた。
「付き合わせて悪いね」
「……」
 幽助は答えなかった。平然としているようにも見えるが、こんなさらした紙のような顔色で気遣われるのは、彼は嫌だった。しかし、だからと云って蔵馬の気遣いをいちいち否定するほど今の彼等には余裕はなかった。幽助は先に立って歩き始めた。
「何て云ったんだ? オフクロさんに」
「……部の合宿」
「この時期にか?」
「まあ、そこは……」
 蔵馬は皮肉な表情で視線を落とした。
「……つじつま合わせの方法っていうのは、理屈以外にもありますから。……」
 何か植物の力を借りて、母親の記憶を入れ替えたのだろう。おそらく蔵馬はそうする事を不本意に思っているはずだ。彼は一切の意味で母を巻き込む事を好まない。記憶操作も彼のしたくない、母への背信の一つだろう。
 幽助は思わず蔵馬の肩に触れた。幽助のてのひらに触れた肩の感触は、少し痩せたようにも思うが、それでもさほどの変わりはなかった。人間がこれほどの不調を引きずっていたなら、今頃衰弱死しているだろう。
 ほそく優美だが、しかし鋼のように強靭な妖怪の身体を持った蔵馬であったからこそ、ここまで耐え抜くことが出来たのだ。
 幽助は手を離し、蔵馬の一歩後ろを歩いた。
 空は太陽を高くかかげ、投げ上げるように遠く青い。
 幽助は、眠りの足りない目を太陽に射られて目を細めた。
 隣を見ると、蔵馬もそんな風にして空をあおいでいるのが判った。
 蔵馬のまぶたの上に前髪が濃く影を落とした。鼻梁が細く通った白い横顔を幽助は見つめた。
 再び、何かを置いて来てしまったような痛みが胸に突き上げた。
 正体の知りようがない痛みだった。


【2】


 彼等はそのまま東京駅に向かった。
 ぎらぎらするほど晴れているように思えたが、しかし陽が高く昇る頃には日差しは落ち着いて、おだやかな春の日になった。
 黄金週間を前にした平日の東京駅は、それほど混んではいなかった。微妙にシーズンオフなのだ。特急の席も簡単に取れて、彼等はゆっくりと内房線のホームに向かった。気持ちは急いていたのだが、蔵馬は急ぎ足でゆける状態ではなかった。
 蔵馬の体調は、また少し変化を見せ始めていた。苦痛は、ひどくなったりおさまったりと、軽い発作のようにして訪れるようになっていた。
 彼等は、一度上野を経由して東京駅に出た。その上野に向かう常磐線の中のわずかな時間も我慢出来ないように、蔵馬はほんの数分だが、幽助の隣のシートで眠りこんでしまった。蔵馬がこんな風に眠ってしまうのを見たのは初めてだった。
 隣の席の蔵馬の身体が重みを増して、幽助にわずかにもたれかかって来る。幽助は驚かされて、自分の肩口にもたれかかってきた蔵馬を見た。まぶたは薄青く血を透かして、震えを含んでいるように見えた。
 幽助に身体を預けた蔵馬の様子はひどく無防備に見えた。
 何か胸を衝かれたような気分になる。
 彼はこぶしを固く握りしめた。
 ……早く何とかしてーよ。……
 心の中で云った云葉が口に出そうになった。蔵馬の弱みを見たくなかった。
 蔵馬は無口だった。時々、胸をしめつけられるような感じになるらしく、隣を歩きながら呼吸が浅くなった。
 彼等が内房線ホームに下りて行った時、頂度、千倉行きの特急がホームに滑り込んで来た。
 蔵馬の顔を見やる。さっきから、奇妙な感じで呼吸が乱れる回数がだんだんと多くなってきている。しかも、間隔がどんどんせばまっていた。
 白浜は、内房の奥に二時間ほど入り、千倉駅からバスに乗る。
 今の蔵馬の体力から云って、駅からタクシーを使った方が無事だろう。
 席におさまりながらそう考えて、幽助は不思議な気分になった。彼は今、蔵馬の代わりに考えている。
 いつも、蔵馬と行動する時、どれだけ蔵馬がことを切り回していたのか実感する。歳のせいもあって幽助は『子供』の立場と枠を越えた事がなかったのだ。
 窓際の席につくと、蔵馬は背もたれにもたれかかってぐったりと目を閉じた。口をきくのもだるいようだった。
 幽助は黙って立ち上がって、外の売店に唇を湿すものを買いに行った。蔵馬は食事が出来ない。甘みの少ないイオン水か、真水がようやく喉を通るだけだ。
 狐聾石。
 幽助はかすかに身震いした。彼は直接力で押して来るものは怖くなかった。あの戸愚呂でさえそうだった。彼は一瞬、何かなつかしく輝くものを思い出すように戸愚呂を想った。
 しかし、狐聾石のように中身から身体を蝕んでゆくもの、しかも特定の対象にしか効かないもの。そう思うとたまらなく気味が悪かった。あの男……赤蝕という、あの白っぽい目をした妖怪も気味が悪い。
 人がゆっくりとゆき交うホームを歩きながら幽助の目が険呑に光った。幽助は、ああいう陰湿さが身震いするほど嫌いだった。本能的に嫌悪感を感じる。目茶苦茶に叩きつぶして、目の前から消し去ってやりたくなる。
 蔵馬の身体の中の石。蔵馬をゆっくりと一歩ずつ死に押しやる石。その効力は幽助が想像していた以上だ。初めて話を聞いた時はこれほどとは思わなかった。
 あれから二日しかたっていないというのに、あの時はまだ笑う事も普通に歩く事も出来た蔵馬が、数時間ごとに、見る見る内に弱ってゆくのだ。
 ため息をついて、特急に戻る。
 彼は、アクエリアスの缶を握りしめたまま、特急の入口でふと迷った。
 本当に霊界には方法はないのだろうか。霊界のつてで手に入れられるような解毒剤がないかどうか、蔵馬はもう調べたと云っていた。蔵馬の情報収集能力は高い。普通に考えれば間違いないと思うところだ。しかし、今の蔵馬の判断力が本当に信用出来るのだろうか。
 蔵馬はもう狂い始めているのではないか。
 幽助は一瞬茫然とした。取り返しのつかない事をしているのではないだろうか。
 彼には珍しい迷いだ。
 幽助は、発車を待つ特急の入口のコーナー横で歯を食いしばった。だとしてももう仕方ない。
 蔵馬が動きにくいなら、彼が蔵馬の代わりに動くしかない。
「あの……通りたいんですけど」
 入口をふさぐ形で立ちつくしていた彼に、若い女性がいぶかしげに声をかけた。
「あ、……ああ」
 幽助は慌てて身体をどかして道を譲った。若い女の視線が彼のてのひらの中にそそがれて初めて、てのひらの中の缶が彼の握力で大きく歪んでいるのに気づいて、彼はようやく指の力をゆるめた。
 後は急いでもとの車両に戻った。
 席に帰ると蔵馬は目を閉じたままだった。眠っているのかもしれない。
 幽助は蔵馬の隣の席につこうとして、ふと蔵馬の身体の向こうの窓を見やった。
 ホームをちらほらと行きかう人波の向こうに目をやる。
 一瞬、嫌な感じに神経を逆撫でられた。視線をめぐらせて、ある一点に目が留まった瞬間、幽助は、自分の身体に、ドンと強く押されたような殺気が充満するのが分かった。
 髪が逆立ったような感じと共に、肌が堅く粟だった。
 背の高い男が立っていた。
 身長が二メートル近くある、背の高い痩せた男だ。
 その独特の目付きに覚えがあった。男は薄笑いを浮かべて、人間たちの向こうに頭一つ高い位置から彼等を見ていた。
(赤蝕!)
 間違いない。男は二週間ほど前、蔵馬と一緒だった時に出くわした男だ。あの冷たい蛇のような目をはっきりと覚えている。挑発された後、首筋に麻酔の針をくらったのだ。幽助には、あの時自分が易々とやられなければ蔵馬がこんな事になるのを防げたかもしれないという負い目がある。男の顔を忘れようがなかった。
 幽助は、椅子の背に手をかけたままで男の嘲笑的な顔を見返した。
 蔵馬をちらりと見る。蔵馬は目を閉じている。あの男の気配、この露骨なぬめりをおびた嘲笑に気づかないのだろうか。
 この場合、男に手を出しようがないのが悔しかった。
 場所も悪い。東京駅のホームだ。それに蔵馬は、あの男は力づくで締め上げても絶対に意志を曲げないと云っていた。
 赤蝕は蔵馬への復讐心と憎悪に凝り固まり、自分が死ぬのを恐れていない。自分が死んでも蔵馬への復讐を遂げる方を選ぶだろうと云っていた。
 始末の悪い相手だ。
 幽助は、そろそろと背中を伸ばした。発車の時間まで後十分もない。本当は途中で邪魔をされないように男を始末してしまいたかった。
(ただぶち殺すだけでも構わねえんだ)
 幽助と男の力の差はあきらかだった。幽助がその気になれば、それこそ指先一本で簡単に殺せる相手だ。
 楽しくてたまらないように薄い笑いで幽助の刺すような視線を受け止めていた男は、軽く手を上げて、ホームの階段の方へ歩き去って行った。一旦はああしていても、追って来るつもりなのは間違いない。蔵馬が何をしに行くかはおそらく知らないはずだが、蔵馬が魔界に行くつもりがないのを知って、彼が弱って行く様を、人間界で見届ける気になったらしい。
「……やめろ。幽助」
 思わず後を追いそうになった幽助の腕に、蔵馬の手が軽くかかった。眠っていたわけではなかったらしい。
「いいのか、逃がしても」
「ここで騒ぎを起こすよりマシだ。しかけて来たらそれに対応するしかない」
 幽助は、煮えきらない気分で、しかし、半ばほっとした気分で蔵馬の隣に座った。
 蔵馬が、あれほど挑発的な男の気配に気づかないほど弱っているのではないと知っただけでもわずかに安心する。
 幽助は実戦向きだが、本能で動ける闘いの場以外では、判断に苦しむ事が多い。それで始終、幻海にどやされるのだ。蔵馬はいつも、彼にとっては有り難い羅針盤だった。
 しばらくして特急はゆっくりと東京駅のホームを滑り出した。電車の中は空いている。平日の早い時間帯だという事も関係あるようだった。
 この間から、一向に事態の解決に近づいているという印象がない。白浜に行くという事で、確実に事は好転するのだろうか。
「蔵馬」
 幽助は、半ばまつげをふせて、窓の外に視線を当てた蔵馬の横顔を見やった。
「……何?」
「お前、保ちそうか」
「……判らない」
 蔵馬は、だるそうに答えた。
「とりあえず、行くだけなら」
「……」
 幽助はどこか爆発しそうな衝動を抱えたままシートに沈み込んだ。こういう、真綿で首を絞められるような状態は苦手だ。暗黒武術会の方が数倍楽だった。
 シートの上に軽く握って投げ出されていた蔵馬の手を探る。
 握りしめて、てのひらから霊気をそそぎ込んだ。頭の中に回路を作るような気分で、具体的に蔵馬の心臓をイメージして霊気をそそいだ。
 それは昨日、最初は無意識にやってみたことだったが、ただ触れて霊気の影響を待つよりも、どうやら効果があるようだった。
 隣に座った蔵馬が不意に喉の奥で笑った。
「どうした?」
「いや……」
 彼は、ちらりと手元に送った視線を、薄く笑いながら幽助の目に戻した。
「何だと思うだろうね……この手」
 幽助は不機嫌に眉をひそめた。自分が少し赤くなったのが判った。
「誰も気にしねーよ、そんな事」
「そうかなあ。……」
 くすぐるような喉声で笑って、蔵馬はまただるそうに視線を背けた。シートに重く身体を預ける。まぶたが引きずられるように落ちてきた。
 こんな時でも彼は自分の境遇をどこか冗談めかす所がある。
 幽助は、自分もシートにもたれて目を閉じた。まぶたの裏に赤蝕の顔を思い浮かべる。あの背の高さ、長い手足。しかし見かけ倒しだ。たいした妖気ではない。
 しかし赤蝕はおそらく、切り札を用意しておくのを忘れないタイプだ。目を閉じたまま、幽助はまた眉をしかめた。
 早く思いきり力を発散したい。
 今、蔵馬の身体を蝕む狐聾石の威力に比例して強い相手だというならそれでもいい。ただ、身体の中で暗く燃え盛る衝動を燃焼させたかった。
「幽助」
 蔵馬が呼んだ。
「オレがこんな事をいうのは、筋違いかも知れないが……あの男とは、まともにやり合おうと思わない方がいい。あまり、あの男の事は考えない方がいい。……」
「……」
「四聖獣と闘った時みたいに、まあ、全く同じ手とは限らなくても……つまり、ああいう手を使うタイプだから。……」
「わかってる。……」
 幽助は息を吐き出した。
「アタマでは解ってんだ。今はお前の事が先だけど、でもこのままじゃおさまらねェよ」
 蔵馬は数回まばたきした。幽助に手を預けてシートにもたれたまま、静かに視線を伏せた。
「……お前、それ、たぶん……」
 思わず口に出してしまった。そんな事を云っているなら蔵馬を休ませてやった方がいいと思いながら、つい云い継いでしまう。
「たぶん、わざとやってるんだよな?」
「何が?」
「話す時、時々わざと目、はずすだろ?」
 蔵馬はまつげを上げた。
「ああ、そういう事もある。……何て云っても目は、出やすいでしょう?」
 幽助はうなずいた。
 もっとも蔵馬は目にも感情が出にくい。蔵馬と直接闘った事がないから判らないが、蔵馬は攻撃欲が顔に出ない分、きっとやりにくい相手だろう。
 しかし、蔵馬の目を伏せる癖を幽助は嫌いではなかった。こういう風にしばしば目を伏せる相手で、信用出来ると思ったのは、蔵馬が初めてだったからだ。
 彼は、まっすぐに目を見て来る相手をより信用している。闘う相手としてさえそうだ。力を信頼出来る相手と戦いたいのが本音だ。
 相手の目の中に、鏡のように自分自身の力の姿がうつる。
 その中で、まつげを伏せて本心を隠す蔵馬は、本心が解らないままでしかし信頼出来る、幽助にとっては例外の存在になった。
「……人間界に来てしばらくは、やっぱり失望も大きくて、スケールが小さく見えて」
 しばらく黙っていた蔵馬が、何かを思い出したように低くつぶやいた。
「さっさと妖化して、魔界に帰ろうと思ってた。……まあ、魔界にも満足してた訳じゃないんですけどね。……」
 そう云った後、また少し黙った。呼吸が少し乱れた。幽助は彼にそそぐ力をわずかに強めた。
 やり過ぎるとたぶん力の性質の違いからかえってまずい事になるはずだ。
 呼吸が早まる。数秒してまたおさまってゆく。波のように苦痛が満ち欠けする。
「どこにもカリスマ性を見いだせないのが、こんなに苦痛だとは思わなくて……」
 幽助はその話をする蔵馬の真意を汲めなかった。
「強い相手とやりたいってのと違うのか?」
「似てるけど、違う。他人の力に圧倒されたいとか、賛美したいとか、そういう感じ。……」
 蔵馬は、また真意を隠したいように膝に視線を落として笑った。
「オレは、そういうのは判んねーけどな。……」
「そうだろうね。君にとって喧嘩に正義も美学もないんだろうから」
 蔵馬はふと、どこかうっとりと甘い目をした。
「人間界は、君とよく似てるかも知れない。そのものって云ってもいいくらい……もし君が妖怪だったら……」
 蔵馬の云葉は途中から独り云のように低くなった。
 幽助は、握りしめた手がひどく熱くなり始めた事に気づいてぎくりとした。低く、抑揚に乏しく継がれる云葉は、どこかうなされているようにも聞こえた。
「……オレが人間界に魅かれてる理由の何分の一かは、消えてしまうかも…………ああ、でも、かえって」
「蔵馬」
 嫌な感じがする。こんな話をするというのはいい兆候ではない。
 幽助は奇妙な胸騒ぎに襲われて蔵馬の名前を呼んだ。だが、蔵馬はそれには答えなかった。
「君が人間以外で、今の性質が、人間界で暮らしてたせいだったとしたら、この世界の影響力に改めて着目するかも…………」
「蔵馬!」
 幽助はきつい声で彼の云葉をさえぎった。
 蔵馬の頭を抱え寄せるようにして自分にもたれさせる。
「お前、寝てろ」
 蔵馬は浅い息を吐いた。服越しに感じた彼の頬は炎のように熱かった。あの男が埋め込んだ石が、蔵馬の身体を追い立てるように燃やしている。
 幽助の内側に火のような恐慌がともった。彼は初めて不安になった。蔵馬が助からないのではないかという思いが頭をもたげた。しかし彼はそれを無理に飲み下した。
「しみじみ昔話なんかしてんじゃねーよ」
 無愛想に云った。
 蔵馬もそれ以上は何も云わず、目を閉じて浅い息を吐き続けた。そしてしばらくして幽助にもたれかかったまま、息は多少なりとも深く、ゆっくりとしたものになった。
 眠ったのだ。
 それを確かめてから幽助は唇をかみしめた。堅く鳴るほど奥歯を食いしばった。蔵馬の身体の熱さに、胸がからからと寒くなった。


【3】


 千倉駅に降り立つと、ふわ、と頬を包むような温かい風が吹きつけてきた。
 隣県ではあったが、東京とはまるで気候が違う。内房の最南端であるのだから当然かも知れないが、この風のやわらかさ暖かさは、潮風を含んだ甘さだ。
 かすかに花の香りがした。濃厚なアブラナや芥子の香りだ。近くに栽培している場所があるのかも知れない。
 妙に光が目にしみて、腕で目をかばった。
 足許がふらついた。眠っている間に熱は下がったようだった。幽助が、電車を降りてすぐに、黙って蔵馬の手から荷物を取った。不機嫌というのでもなく、しかし難しい顔をしていた。
 正直に云うとボストン一つ持っているのも辛かったため、蔵馬は有り難く幽助に任せた。幽助が何も云わずにタクシーを拾いに行くのを、少し遅れて歩きながら、かすかに甘い気分で見守った。
 自分の判断力や、危機感も麻痺し始めている事がぼんやりと解った。
 熱のせいでぼうっとしている。もっとも、今となってはやれる事をやるだけなのだから、麻痺しているくらいの方が、恐慌状態に陥らずに済んでいいかもしれない。
 神経が痺れているようでもあり、不思議と気分が澄みきったような感じでもあった。焦りはなかった。もし死ぬなら死ぬでしかたがないとさえ思った。
(これも狐聾石の作用か?……)
 赤蝕が姿を見せた事も、予想していた事だった。今の蔵馬は赤蝕にすら勝てないだろう。赤蝕が妖剣の事を知っているとは思えない。おそらく赤蝕は蔵馬が狐聾石を中和するのに有効なものでも見つけてこちらに来たと思っているはずだ。
 間に合えばいい。間に合わなかったら死ぬだけの話だ。
 蔵馬の唇に微苦笑がたちのぼった。こんな風に思っていることを幽助が知ったらさぞ腹を立てるだろう。
 彼に危機感がない分、幽助がはりつめているようだ。
 気の毒に。
 こんな事に巻き込んでしまった。
 幽助はロータリーでタクシーを呼び止めている。
 特急の中でひどい高熱が出て、目も開けられない状態だったが、その間ずっと幽助の霊気がそれをやわらげた。幽助が同行してくれて助かった。そうでなければ、ここまで来るのも難しかった。不可能ではなかったが、かなりの苦しみだっただろう。
「蔵馬」
 タクシーの手前で幽助が呼んだ。
 髪をおろした彼は、そんなふうに声を抑えると、本当に普通の少年にしか見えない。
 蔵馬はタクシーに乗り込んだ。
「S……ホテルまでお願いします」
 そう云って目をつぶる。タクシーは運転が荒く、普段気になった事もない排気ガスの匂いと振動がいささか辛かった。
 ホテルは、野島崎灯台まで歩いて数分の場所だ。南端のホテルという事で少しばかり値の張るホテルだが、オフシーズンであるから値段も落ちているし、何より人が少ない。夜中に出入りしてもリゾート地のホテルは何も云われない所が有り難い。
 タクシーなら二十分もあればつくはずだ。
 蔵馬は胃に響いて来る振動に耐えて、シートに寄りかかった。
「……」
 不意に、運転席の後ろに座っていた幽助が、運転席のシートを、手の甲で軽く叩いた。
「……ちょっと静かに運転してもらえねェかな」
 その言葉がドライバーの神経に障ったようで、向こうがかすかに険呑な目をしたのが気配で解った。目を開けると、運転手の方でもバックミラーをちらりと覗きこむのが見える。
 ミラー越しに、幽助の目とドライバーの目が出会った。
 その瞬間、向こうがのみ込まれたようにひるんだ。幽助の目とまともに出会って普通の人間がひるまずにいられる訳もない。
「すみません、オレが具合悪いんで。……」
 蔵馬がおだやかにつけ加えると、運転手が口の中で何か云いながら、わずかに減速した。その前よりもあきらかにハンドルさばきが丁寧になった。蔵馬はほっとしてもう一度目を閉じた。
 もめ事になって通報でもされたらコトだ。
 内側がどうであろうと、彼等は高校生と中学生の二人連れだ。
 ホテルには二十分かからずについた。チェックインの時に怪しまれさえしなければ、後は問題ない。まずい事になったらどんな方法を使ってでも納得させてしまえばいいのだ。
 蔵馬は自分でも不思議なほど落ち着いていた。
 吐き気も、発熱も眩暈もここ数日と変わらなかったが、反対に疑問を感じるほど気分が透き通っている。
 タクシーを降りながら幽助を見た。
 幽助の横顔は緊張に青ざめていた。良い顔だ、と思う。彼を気の毒だと、申し訳ないと思いもするが、しかしトラブルに向き合って戦おうとする時の彼の顔には惚れ惚れする。
 ホテルでは何の支障もなかった。ホテル側では、よほど幼い子供であればともかく、つじつまさえ合っていれば、若いからと云って宿泊を拒むような事はない。特に身分証明書も必要なかった。引っかかったとしても、幾らでもごまかしようはある。
 蔵馬は無駄だと知ってはいたが、一応偽名を使った。
 赤蝕の事を考えたのだ。
 それにこのホテルに泊まった証拠を残したくなかった。いつ何時不利に働くか判らないからだ。それは日常生活レベルの細かい部分にでさえそうだ。特に母にここに泊まる事を云っていない以上、南野秀一の名前は使えなかった。幽助の名前も彼と名字を同じにした。兄弟同士で通した方が自然だろう。名前の方は字を変えて書き込む。何より幽助の名前は特徴があり過ぎる。
 フロントに立っていた二十代半ばくらいの女性が、一瞬蔵馬と幽助を見て不思議そうな顔をした。不審に思ったというよりは、わずかに気づかわしげな顔になった。
「お二人ですか?」
「はい」
 蔵馬は微笑して答えた。
 隣にいる幽助は、黙って足許に視線を落としていた。彼は自分の弟に見えるだろうか。少しおかしくなる。初めて彼に会った時は、こんな場面は想像もしなかった。
 フロントの女性はふっくりと柔らかい唇を開いて何かを云いたげにした。仕事が長ければ、勘も働くようになる。何か微妙になじまないものを感じたのかもしれない。しかし、仕事の範囲を超えると思ったのか、何も云わずに蔵馬にキーを手渡した。
 部屋は三階だった。
 エレベーターの上昇の感覚にさえ吐き気がする。もう、ぎりぎりにマズい状態になっているのがよく解った。
 だからこそもう、後は何とかするだけだ。
 構図が単純になって来た事に蔵馬は安堵していた。
 ツインで取った部屋は、思ったよりずっと広かった。蔵馬はバスルームを開けて中を確認した。もし今夜にでも妖剣を見つけることが出来たら、ここで狐聾石を切り取る事になる。
 ある程度の広さがある事と、大きめの鏡があれば充分だ。
 バスルームは奥行きのある広いタイプで、ホテルには珍しくユニットバスではなかった。手前のコーナーに排水溝があって水を流せる。一応予約の電話をした時に確認したのだ。数件のホテルの中でここを選んだのは、灯台に近いという理由だけではなかった。
 かなり血で汚す事になるだろうから、その事を考えるとあまり狭い部屋では都合が悪い。
「蔵馬、部屋代いいって云ってたけど、お前金どうしたんだ?」
 幽助が多少いぶかしげに蔵馬の後から声をかけて来る。
「ああ。……云ってませんでした? オレちょっと株を転がした事があって」
 幽助が面食らった顔になる。
「株?」
「そう。知り合いの父親の会社で、そのつてでちょっと。……本当はまずいんだけどね、情報付きでさわるのは。でも金を貸してもらったのもそっちからだから、損はさせたくないし」
 幽助が嘘をつけ、という顔になるのを蔵馬は笑って見つめた。
「その時のを元にね」
 他に手を出した、というところまでは云わなかった。
 遊びで手を出したら、歯ごたえもなくうまく行ったせいで、金を持ち過ぎているのもかえってまずいため、そこそこの所でやめたのだ。
 それでも、今でも数千万は自由になる。
 金で買える快楽に興味がない蔵馬には、今のところ使うあてのない金だった。
「だから、ここの費用は心配しなくていいですよ」
「くっついて来たから気が引けるんだよ」
「それは珍しいね」
 蔵馬は笑った。
「……」
 幽助は閉口したように肩をすくめた。蔵馬の云う通りだと思ったのだろう。
 それ以上云おうとせずに窓際に近寄る。深い赤のカーテンを引くと、幽助はじっと黙ってまばたきした。
「……灯台が見えますね。ここからも」
 タクシーでここに向かう途中、もう灯台は見えていた。思ったより古い、白い灯台だ。蔵馬はゆっくりと幽助の隣に並んだ。かすかに息が上がった。
「もう行くか?」
「いや。……せめて夕方になってから。……真昼間にあんなところを掘り返すのはまずい。それに、様子を見に行くのもやめた方がいい」
 幽助は頷いた。
「どこからあの野郎が見てるか解ったもんじゃねえからな」
「……そう。……」
 赤蝕の事はいざとなったら幽助に任せても大丈夫だろう。
 蔵馬は、それまで休もうと窓に背を向けた。その瞬間、また、ひどい眩暈と吐き気が襲って来た。
「……っ」
 思わず声が漏れる。喉の奥がぐっと鳴ったが、もう何も吐くものは残っていなかった。不快なえずきだけが何度か襲って来た。膝が折れた。
「……蔵馬!」
 それに返事も出来ず、蔵馬は倒れ込みそうになった。幽助が慌てて彼の腕を掴んで支えた。背筋に力が入らなかった。首を垂れて蔵馬は吐き気に耐えた。
 吐き気がおさまる前に、今度はひどい頭痛が襲って来た。
 唇をかみしめて耐えようとしたが、その頭痛のすさまじさに耐えかねて、彼は幽助の腕を振り解いた。座っていられずに立ち上がる。よろめいて、壁にすがった。
 吐き気をからめ捕るようにして、頭痛の発作は、強く殴るように彼のこめかみを打ちつけた。
 息を大きく吸い込もうとして、目の前がうっすりと赤くなる。
 息が継げなかった。
「っ…………」
 喉が詰まって、目の前に真っ赤なもやが立った。蔵馬は壁に寄りかかって立ったまま喉元を押さえた。まるで呼吸が出来なかった。
「蔵馬…………!」
 幽助が彼に手を伸ばして、彼の手をつかみ取ろうとした。瞬間猛烈に痛みに突き上げられて、蔵馬は壁にこぶしを叩きつけた。
「……ァ、ア……っ……」
 喉から切っ先のような痛みが突き上げて、呼吸の出来ない苦しみにその喉がふくれ上がったような感じになる。
 彼は、壁にぶつかるように背中をつけてあえいだ。
「蔵馬っ」
 幽助の腕が伸びて来て蔵馬の身体を強引に抱きすくめた。思わず押しのけようとした指の間に指を絡ませて、握りしめられる。
 呼吸の出来ない唇に幽助の唇が重なった。幽助の呼気が舌に触れ、肺の底にコトンと落ち込むように、空気が巡ってきた。
「……?」
 蔵馬は息を吐き出した。吸いこむ。気道が開き、肺に酸素を送り込んだ。幽助の指が、胸が触れた場所から痛みがやわらいで、こめかみの、狂ってしまいそうな痛みが遠のいた。
 蔵馬は荒い呼吸を吐きながら幽助にもたれかかった。
「夜まで待って平気なのかよ……っ」
 幽助が喉にからんだ声で蔵馬の耳元で叫んだ。
 蔵馬は答えられずに息を吐きながら、幽助の背中を抱きしめた。
 これほど激しい苦痛に襲われたのは初めてだった。
 おそろしく疲労して、壁ぎわにずるずると座り込む。幽助の力がなければ、今の発作は直接死につながったかも知れない。
「夜まで待つ。……」
 しばらく待って彼はようやく云った。声がまた低くしゃがれていた。
「もう、光が辛いんだ。目に痛い。…………勘が働かない」
 幽助がはっとしたように息を飲んだ。
「そうか。……」
 幽助に力を借りて、ベッドに横になる。
「これは本当に、すごいな…………」
 蔵馬はあおむけになって、独り云のようにつぶやいた。かがみ込んできた幽助がいぶかしげな顔付きになる。
「何がだ?」
「狐聾石の威力だ。自分で体験しないと判らない、この感じ。……絶対忘れない」
 その言葉を聞きながら、彼の真意を汲みかねたように幽助の目が静かに光った。
「……もう二度と尻尾を掴ませたくないからね」
 納得がいったように幽助はうなずいた。その、まだどちらかといえば幼く見える顔の眉間に、にがい苦痛がにじんだ。
「……オレも、二度とこういうのはごめんだぜ」
 それはこの事があってから、初めて幽助の吐き出した本音だった。爆発し易い、長く耐える習慣のない幽助が、三日間、手ごたえのないままよく耐えてくれたと思う。三日の間に蔵馬は、今まで幽助が見せた事のないような表情をするのを幾度も見た。
 自分が幽助を変えてしまったかも知れない。
 その変化は微弱なものであったかも知れなかったが、しかし、わずかでも自分の干渉で幽助を変えてしまったと思うと、その変化を惜しむような気持ちもあった。
 幽助の、奔放で、ある意味ではアナーキーな所が好きだ。
 蔵馬は額に汗をにじませながら横たわり、天井を見つめながらそんなふうに考えた。
 幽助の中に眠る、おそろしく厖大なエネルギー。
 どれだけ強くなっても、そのエネルギーに影響されずにやって来た幽助────。
「……」
 幽助は黙って蔵馬を見下ろしていたが、彼の胸の上に耳を伏せた。蔵馬の身体に幽助の腕がゆるく回された。腕を引き寄せて指を絡ませる。
「気分悪くねーのか?……」
「今は落ち着いてるよ」
 蔵馬は眠りそうになった。触れた部分から幽助のエネルギーが染み渡ってくる。それがひどく心地よかった。幽助の霊気のもたらすものは、熱い一方ではなく、いやすような冷たさも混じっていた。
 ふと、奇妙に思って彼は目を開けた。
「幽助、何か……」
「……?」
 幽助のエネルギーの性質が、数日前とは変わっているような気がするのだ。いつも幽助の霊力は火傷しそうな熱さで、その熱さに灼かれたようになる。その中から少しずつ染み出してくるようにいやされてゆく実感がある。
 それが今は、もっとストレートに、撫でるように柔らかく染み透ってくるのだ。
 何か幽助がやり方を変えたように思えた。
 もっとも幽助は人並みはずれて勘がいい。何回か同じ事を繰り返している内に、霊気を破壊以外の方向に向ける方法を覚えはじめたのかもしれない。
 蔵馬自身は触れたことのないものだから感覚的には理解出来ないが、霊光波動拳の影響がこういう部分にも出て来ているのかも知れなかった。
 しかしこの馴染み方は。
 蔵馬のまぶたが重く落ちて来た。疲労している。この状態で、片道四時間近い道中を来たのは辛かった。幽助に抱きしめられたまま再び眠りかける。
 この、身体になじむ感覚は。
 蔵馬は眠りに引き込まれながら最後にちらりと思った。ここ数日、合わないはずの幽助の霊気が自分の苦痛をやわらげる理由について不思議に思っていたが、何かが解った気がした。
 この感覚はむしろ。
 妖気に近い────。
 しかし、それはすぐに、深い疲労の中の眠りに飲み込まれてしまった。

 昼はあれほど晴れていたのが夜になって霧が出た。霧は案外に濃く、薄白く周囲を包んだ。蔵馬はほっとした。視界が良くない方が人が少なくて有り難い。
 オフシーズンでなければ、とても人に見られずに妖剣を探し出せるとは思えなかった。
 霧は彼の身体にも優しかった。乾燥してからからと晴れわたった夜よりも、薄く湿って体を包む夜の方が、今の蔵馬には有り難かった。水分を重く含んだ濃厚な大気を吸い込みながら、蔵馬はゆっくりと歩いた。五、六時間ほど眠って目を覚ましたのだが、不調はたいして変わっていなかった。この疲労は、眠りによって回復するようなものではなかったからだ。
 幽助は、湿り気に前髪が邪魔になるようで、しきりに前髪をかき上げながら、片手をポケットに突っ込んで歩いている。
 時計は九時を過ぎた。
 薄い霧に包まれた白浜に、ほとんど人の姿はなかった。フロントマンが云っていたが、この辺で霧が出るなどという事は滅多にないらしかった。
 蔵馬は昏い空を見上げた。
 灯台が至近距離にそびえている。
 高い。あの、蜜のような山吹色に染め上げられた夢の中で、白い光を放ってまばたいていた巨大な目、それがこの灯台のイメージだったのだという事はすぐに解った。
 よく似ている。妖狐であった自分は、ここの岬に降り立って、灯台を見た瞬間どんな感慨を抱いたのだったろうか。記憶の向こうに沈んでいたそれが少しずつよみがえってくる。
 あの頃の風景とは対照的に、コンクリートで舗装された道をゆっくりとたどって、灯台への道を歩いた。隣を歩く幽助が、何も云わないが恐ろしく緊張しているのが解った。
 赤蝕の存在を警戒しているのだ。
 そして今、幽助の神経を苛立たせているものが、ひどく鬱屈した怒りだという事に、少し前から蔵馬は気づいていた。
「……見当つきそうか?」
 蔵馬は、岬の向こうの昏い海をみはるかした。漠然とは覚えているが、もう地形も設備も変わっていて、昔の面影はほとんどない。妖剣を埋めた場所の上に、何か建造物が立っていないとも限らなかった。
「実は、それほどはっきりとは。……」
 しかし、その部分に沙をかけたように思い出せなかったのが、昨晩『ワスレナグサ』を使って記憶をたどって以来、わずかではあるがはっきりし始めていた。
 彼は、灯台のすぐ下にナイフを埋めたのではなかっただろうか。魔界に暮らして来た彼には、人間界のささやかな海の明かりが面白かった。こういうものが住民の共有物として存続するという、人間の群れとしての性質がほほえましくさえあった。少し裏側をつつけば妖怪顔負けの攻撃性を発揮する、人間の気質とその灯台というものの意味は、遠く在り方を異にしている。
 灯台の足許に歩み寄って、妖狐蔵馬は、その、背の高い白い建物を眺めた。
 そこまでは思い出せる。
 その後それほど長くとどまったのでないのなら、その付近にナイフを埋めたはずだ。
 彼等は十分近くかけて、厚く周囲を緑に囲まれた灯台の真下にたどり着いた。
 木立の中は霧に包まれ、暗く静まり返っていた。人の姿は全くない。
「蔵馬」
 先に立って歩いていた幽助が振り返った。多少なりともの焦燥と、発散する事の出来なかった怒りに、瞳が昏く煌めいた。
「どこだ?」
 蔵馬は一瞬目を射られたような気分でまばたいた。
 今、何か幽助の声に重なって、幽助以外の声を聞いたような錯覚があった。幻聴のように声が割れて重なって聞こえた。
 蔵馬は唇を湿した。
 頭上をふさぐようにして、闇の中をほの白い霧が、ゆっくり流れてゆく。頭をもたげてそれをぐるりと見回した。
 いつも感じた事もなかったが、霧の向こうの天が異様に高く思えた。そう云えば、蔵馬が白浜に関心を持ったきっかけは、ここら辺で、船舶が行方不明になる事が多いと幽助が話しているのを聞いた事からだった。
 おそらく空間のひずみの出来易い白浜。
 遠い天と、海、荒い波の気配。
 蔵馬はかがみ込んだ。建物の周りばかりを幾ら見回していてもらちがあかない。土の上にてのひらをあてがった。
 土の底に眠る樹の根の気配を探ろうとした。くらりと眩暈がする。自分が死にかけているのだという事を、今更のように、その力の弱り様に確かめる。
 本来ならすぐに感じ取れるはずのそれは、掴みかけるとするりと指の間を逃げる様にしてそれてしまう。
「蔵馬」
 幽助が隣にかがんだ。彼が何かを掴もうとしている事が解ったらしい。力を貸すために蔵馬が地につけた手に自分の手を重ねる。
 また、あのひやりとなめらかな力がすべりこんで来る。
 瞬間的にその構図に何かを思い出して、蔵馬ははっとした。唇を一瞬笑いがかすめた。幽助と会ったばかり、まだ三日目に、素姓も本音も知れない自分の手をかざした鏡の上に、やはり幽助がこんな風に自分の手をかざした。すでにあの時、暗黒鏡に自分の命を差し出すつもりだった蔵馬がここにこうしているのは、幽助のおかげだ。
 過去の映像は一瞬で薄れ、蔵馬は自分の力を浅い地下にもぐり込ませた。地面の下に無数に張った植物の、微生物の死骸を糧にする植物の意識の中に、土をわける様にして入り込む。
 幽助の力を自分の力の下に差し込む様にして、妖力を力任せに掘り起こした。
 網の目の様に自分の『目』が地下を這ってゆくのを感じる。
 灯台の周りに敷かれたコンクリートの下まで、ゆっくりと水を流し込む様にして、意識の糸で土の中を探った。
 閉じた目の中に、闇のイメージがある。闇とは云っても虚無の闇ではなく、無数の物質が濃厚に入り交じって構成された土の闇だ。闇の中で、土中の虫の命の気配がところどころで、ちらちらと明るい赤や黄に燿く。
 宝石の屑の様にばらまかれたそれをくぐって、蔵馬は探した。
 何かひずむような感触がある。空間のひずみと似た様な感触だ。
「……っ……」
 拒むようなエネルギー。
 地面に押しつけたてのひらが冷たく汗ばむのを感じた。疲労に指が震え始めて、幽助の手に力がこもる。寄せつけない様に黒く輝くそちらがわへ、蔵馬は意識を強引に近寄せた。
 その黒い塊は、確かに、ぎらぎらと光る妖気を放っていた。
「あっ…………」
 蔵馬の呼吸がかすかにひきつった。
「あった……たぶん、あれが…………」
「あったのか?」
 最近少しでも妖力を使うと、声が出ないほど疲労する。しゃがれた声でつぶやいた彼の背中を、無意識に幽助が支えた。
「こんなに簡単に見つかるとは思ってもみなかった。……掘り起こされて失くなっててもおかしくなかったのに。……」
「どの辺だ? 探してきてやる」
 幽助が立ち上がった。明るい表情になっている。
「とりあえず、行きますから」
 まだ妖剣の存在を確認した訳ではない。とはいえ、おそらくあの妖気は、以外の何物でもないだろう。あれだけ強烈な妖気を放つものがそうそう偶然に転がっているとは思えない。
 今まで妖怪達の手に渡らなかったのは、埋められていたせいだろう。土は妖気を覆い隠す性質がある。
「たぶん、コンクリートの下になってるんじゃないかと思う。……建物じゃないけど、通路の下か何かになってる。……」
 蔵馬がそう云うと、幽助は笑った。
「ブッ壊す。決まってんだろ」
 彼は右手をかかげて見せた。
「そのためにオレがいるんじゃねーか」
「灯台に人がいるかも」
「いたってどうって事ねェよ」
 それはもう幽助なら、百人いた所でどうという事はないだろう。
 蔵馬は苦笑して、幽助の後について、そろそろと足を運びはじめた。妖剣を見つけた時点で、次には狐聾石を切り取らなければならない。
(生きて終われるかな。……)
 蔵馬はぼんやりと考えた。途中で力が尽きてしまったらおしまいだ。こればかりは幽助に任せる訳には行かない。
 片手を預けたままで作業をする訳にも行かないのだ。
 灯台の塀の内側に入る。先刻妖気をたどったコースをそのまま進む。数メートル先にあったのは灯台の中庭だった。
「ほんと、コンクリの下になっちまってんな」
「そうですね」
 蔵馬は、さっきたどったコースを正確に覚えていた。
「……ここ、かな」
 脚で軽く地面を蹴った。意識的に探ってみると、かすかに妖気の気配があるのが判る。
「ほとんど間違いないと思う」
「解った。どいてろ、蔵馬」
 幽助はほっとしたように立った。彼の体が霊気をためるのが感じ取れる。指先に霊気の気配が発光し始めた。
「やり過ぎないでくれよ」
 そっと云うと、幽助は解ってる、という様に頷いた。足許に向かって、それでも軽く抑えている様に背中を丸めて一発打ち込んだ。
 抑えても、数カ月前までの彼の力とは段違いだ。霊丸の爆風で幽助の柔らかい髪がなびいた。コンクリートで固められた地面に大きくひびが入っている。割れた音は鈍く、思ったほど大きいものではなかった。幽助は破片の中のひとつ、大きなものに手をかけて力任せに引き起こした。縦にも大きくひびが入って、肘くらいの深さに黒っぽい土が現れた。
 彼等は息をひそめて灯台の方を伺った。
 数秒待ったが、人が音に気づいて出てくる様子はなかった。灯台は彼等の頭上で、静かに回り続けている。
「二十四時間体制で、誰かしらいるはずなんですけどね。……」
「たいした音じゃなかっただろ」
「まあ、国家機密を扱ってるって訳でもないですし。……」
 幽助は、土の上を覗き込んだ。
「ここでいいんだな?」
「そうですね。ほとんど真下だと思う」
 真下、と云われて幽助は難しい顔をした。
「お前、どのくらい深く埋めたんだよ」
「さあ。……」
 ため息をつく。
「まあ、手で埋めたんなら、一メートルって事はないだろ」
 袖を肘までまくり上げる。蔵馬は、自分は体を動かすのを諦めて、傍らに腰を下ろした。
「どうもすみません」
「いいけど、素手ってのはきついよな……」
 幽助は思いついた様に、コンクリートの破片を土に突き立てた。土は存外に堅そうだ。
 結局彼は十数センチ分をそれで掻き取った。
 しかしコンクリートのかけらはもろく、さほど長くはもたなかった。破片のふちががもろもろと欠け始めると、幽助はそれを放り出し、じれったくなった様に多少柔らかくなった黒土を、指で取りのけはじめた。
「大丈夫ですか?」
「平気だけどよ、何か……当たる感じで。……」
 幽助は、深さが増した分、身を乗り出す様にして穴の中に肩まで入れて土の中を探った。
「これじゃねえよな。……」
 幽助は、まさか、という顔で何かを掴み出した。黒っぽいものだった。黒っぽい金属で出来た細長いものだった。蔵馬はそれを見つめた。
「それじゃない……?」
「これなのか?」
 蔵馬は、幽助からそれを受け取って、その重みと感触を確かめた。実感が湧かずに握りしめる。これは、今彼が抱えているトラブルに、今のところは唯一と云っていい効果をもつものだ。
「幽助。……これだ」
 彼がその妖剣に以前触れた時は、その短剣は銀造りで青白い光を放っていたが、今は黄土色を帯びた黒にさびついている。
「本当に、それなのか?」
 幽助も、信じられないという様に目を丸くした。もう少し難行する事を予想していたのだろう。妖剣を埋めた場所が白浜だという事が分かったくだりから、あまりにも事が簡単に運び過ぎていて、何か仕組まれているような感じがする程だった。
 赤蝕の罠ではないかと疑った。
 しかし、そのナイフがそれである事は違いない。何よりも、錆び付いた鞘越しにも強烈に伝わってくる妖気が、それを証明する。
 幽助が、妖剣を手に取った。
「すげえ錆びてるけど、使えるのか?」
「鞘は錆びてても、刃先は錆びたりしないはずだ。たぶん中は大丈夫。……」
 受け取った妖剣を鞘から抜き取る。鞘の中で妙に引っかかるのが気になったが、蔵馬は構わずに抜き取った。
「!」
 瞬間、鳥肌が立った様に思った。
 妖剣は錆びていた。
 いや、錆びていたというよりは、変質していた。刃の上に薄く、しかしびっしりと黒ずんで固まりついているものがあった。奇妙な光沢を帯びて、それは生き物の様に濡れて黒く光っていた。刃の上を覆ったその黒いものは、よく見ると、人の唇や目のような模様を浮かせて、時折びくびくとふるえている様に見えた。
 幽助が横から覗き込んで、眉をしかめた。
「何だ、それ。……元々そういうヤツなのか?」
「いや……違う。これは人間界の障気だ」
 蔵馬は目の前に妖剣を置いてかがんだ。意識が遠のきそうになるのを必死に抑えた。
「……こんな。……」
 妖気を帯びた剣が、人間の障気を吸いよせているのだ。障気は長い間土の中にあって、実体を持って粘りついている。
 幽助は剣の上にかがみ込み、かすかに蠕動する刃の表面を眺めた。
「……使えねえのか 」
「判らない。案外平気かも知れない」
 蔵馬は剣の柄の部分を握りしめて、自分の腕に近づけた。刃の上で障気の塊が、風を受けた黒い水面の様にざわめいた。腕の表面に押し当てて軽く引くと、肉の切れる感触があって、血がにじみ出してきた。
「剣として使えない訳じゃない。……」
「そんなもんがついたまんまで平気なのかよ、こするとか何とかして落とせねえのか?」
 蔵馬は小石を掴んで刃の表面に近づけ、障気が黒く粘り着いた上を強くこすった。
 ……!!!
 叫びとも、哭き声ともつかない声が、妖剣から溶かしたばかりのアスファルトの様に粘って、障気の群れは長く伸びた。伸びながら小石の先に向けて、くるみ込む様な穴が開いた。そこに牙のような形のものがざらざらと生え揃う。蔵馬が小石を引くと、その、牙の生えた口のようなものは石を追って伸び、強く噛み合った。
「生きてんのか、それ」
「普通の意味での生き物じゃないけど、間違いなく生きてるね」
 蔵馬は浅い息を吐いた。鞘の中に、そろそろと妖剣をおさめる。鞘には特別に拒否反応を示さず、妖剣は大人しく収まって行った。
「切れ味は悪くなってるけど…………」
 蔵馬はため息をついた。
「切れない訳じゃない」
「そんなもんで切って、食いつかれたりしねェか?」
「無理やりに引きはがそうとしたりしなければ、平気だと思う」
 生きものの温かい血肉の中を移動するのなら居心地がいいはずだ。特に餌になるようなものではないから、食われる事もないだろう。
「とにかく、これを使う以外にないから」
 蔵馬は立ち上がった。今晩が限度だ。もう一日でも引き伸ばしたら、きっと彼は死ぬことになる。いずれにせよ死ぬならやるだけやろう。そう思うと気が楽になった。どこかさばさばした気分で彼は立ち上がった。吐き気はしたが、胸の中ですっきりと決まりがついたせいで、少し楽になった様にさえ思える。
 立ち上がった彼に、幽助は黙って従った。
 幽助が途中、はじかれた様に後方を振り返った。数瞬、闇の中を凝視していたが、しばらくして気のせいか、という風に首を振ってまた歩き始めた。
 蔵馬の方でも彼が振り返った方向に、ひどく背の高い男が立っているのが見えたような気がした。だがそれは気のせいだったかも知れない。
 彼は今、ほとんど夜目がきかないほど弱っている。
 こんな霧の混じった暗闇の中で、誰の姿も見分けられるはずがなかった。

「頼みがある」
 ホテルの部屋に帰ってから、蔵馬の様子はだいぶ落ち着いたように見えた。
 しかしそれが、落ち着いているのではなく、何らかの覚悟を決めてのことだ。彼の覚悟を幽助は明瞭に感じ取ることができる。
 光さえ目にしみる、限界なのだと云っていた蔵馬の辛さは変わっていないはずだったが、蔵馬は青ざめて、しかししっかりと光を宿した目でそう切り出した。
「オレが死んだら、すぐに霊界に連絡を取って、死体を処分する様にしてくれ」
「!」
 幽助は言葉に詰まった。そんな事態が起こり得るのは分かっていたが、しかし、あらかじめこういう風に切り出されると、どう反応していいのか判らなかった。
「もうオレの体はかなり妖化してるし、たぶん、死んでもそんなに簡単には腐らないと思う。解剖でもされたらまずい事になる。そうしたら君も面倒な立場になるし、なるべく早く霊界に処分を頼んで欲しい」
 幽助は、蔵馬の青白い顔、しかし彼らしく落ち着いて静かに沈んだ目を見た。ため息をつく。蔵馬はここしばらくずっと平静さを失っていて、何よりそれが幽助を不安定な気分にさせた。
 しかし蔵馬がこれほど冷静なのに、幽助の方で聞き分けないではいられない。
 何より蔵馬の足を引っ張りたくない。
「分かった。お前が死んだらそうする」
 蔵馬はほっとした様にうなずいた。幽助が動揺しても慰める余裕はもう彼にはないだろう。
「幽助」
 彼の目が面白がっている様にまたたいた。
「無事だったら殴っていいですよ」
「絶対だな」
 幽助は、針の様に痛い切っ先を飲み込んだ。
「ホント、一発殴らせろよ」
「一発とは云わず、好きなだけどうぞ」
 そう云いながら、蔵馬は千倉で買い込んだものを準備しはじめた。大判の浴用タオルを七、八枚と、酒、糸と針を取り出す。
「何だ? その糸」
「傷を縫う麻糸。これなら目茶苦茶に縫ってもオレの体に溶けるから。それとこれは布団針。本当は細い針の方がいいんだけど麻糸が通らないから」
 蔵馬は苦しそうに、しかし割り切れた表情で笑った。
「乱暴な話だよね」
 針に糸を通す。二本取りに引き出して結び目を作る。それを何本も用意した。
「悪いけど、血を拭くのに使うから、終わったらタオル捨ててきて下さい」
「……分かった」
 幽助は、内心叫び出しそうになった。バスルームにそれを運び込んだ蔵馬は、きまじめな顔で幽助に向き合った。
「じゃあ、ちょっとはずします」
「オレがいちゃ、ほんとにマズいのか」
「気が散るから」
 蔵馬は、幽助の顔を覗き込んだ。一瞬、何か云いたげに唇を開いた。しかしすぐに目を細めて笑うと、幽助の肩に軽く触れて、思い出した様にシャツを脱ぎ、バスルームに引っ込んだ。
 幽助は立ちすくんだまま、閉められたバスルームのドアを見つめた。
 苛々する。破壊衝動に似たものが肩や腕の筋肉の中を走り抜けた。
 相変わらず、叫び出したいような感じだ。しかし叫ぶことも走る事も今は意味がなかった。彼は部屋を出て行こうかどうしようかと迷い、結局、蔵馬がこもったバスルームのドアのすぐ外に座った。
 蔵馬は、せいぜい一時間で終わると云っていた。その間、どんな小さな妖気も逃さずにいなければならなかった。蔵馬はそれを望むような事は何も云っていなかったが、しかし、それを幽助がするのは知っているはずだ。
 蔵馬の胸の石を切り取る事は幽助には出来ない。
 彼に今出来るのは、こうして座っている事くらいだ。

 幽助は絨毯の上に、頭を抱え込んで座っていた。耳をふさぎたかったがふさがなかった。
 その晩は、たった十数年でしかなかったが、彼が生きてきた記憶の中で、最もつらい晩のうちの一つとなった。
 螢子とぼたんが狂った人間達に追われている様をスクリーンに見た時。首縊島で幻海を目の前で殺された時、また、桑原が戸愚呂に殺されたと思った瞬間。
 彼はもう二度とこんな思いはしたくないと思った。
 それが、暗黒武術会から帰って来てこの短期間に、またこんな思いをさせられるとは思ってみなかった。
 バスルームのドアはそれほど厚くはない。
 中にいる人の気配をほとんど正確に伝えてくる。
 幽助は、蔵馬が自分の胸をいつ切り開き始めたのか、手に取るように分かった。
 アルコールの匂いと、痛みの気配。
 幽助は体を硬くした。
 ドア越しに、蔵馬が声をかみ殺すのが伝わってきたのだ。あの、気味の悪い妖剣が蔵馬の胸を切り開く様を想像しただけで、幽助は身震いした。今まで悽惨な光景をいくつも目にしてきたが、今日のそれは今までのものとはまるで違った。彼は拳を握りしめた。
(アタマおかしくなりそうだぜ)
 彼は自分の腕の中に顔を埋めて、歯を食いしばった。
 バスルームの中から聞こえるかすかな水音と、そして蔵馬が時折漏らす極々低い呷きが、幽助の背中を焦がすようにしがみついてきた。
「……っ……」
 ドアの向こうから、蔵馬が漏らした苦痛の吐息が、今度は前のものよりもはっきりと聞こえてきた。
(蔵馬……!)
 蔵馬が死ぬはずがない、と思う気持ちと、この数日蔵馬に見た狐聾石の威力とが、希望と絶望で繰り返し彼の胸を咬んだ。
「……っくしょう……」
 この件が終わったら、あの赤蝕という男を追って、その分償わせるつもりだった。殺しただけでは飽きたらない。
 幽助という人間の中にひそんでいて、普段は滅多に顔を出さない部分、やや陰惨な復讐心が頭をもたげている。
 幽助は顔を上げた。握りしめて爪を立てたこぶしをほどく。
 片膝を立てて待つ体制になった。
 こんなふうに腕に顔など埋めて体をすくめている場合ではなかった。今幽助に目に見える形で動く事がないとしても、何も出来ない訳ではなかった。
 神経をとぎ澄ませて蔵馬が自分の事だけを考えていられる様にしなければならない。誰にも邪魔をさせない様に。
 深く息を吸い込む。背中に、蔵馬の苦痛の気配が吹きつけてくる。
 彼は、目を開いて部屋の一点を凝視した。
 目も耳も背中も、腕も脚も。フルに使える様にしておこう。
 気持ちは奥深くに澳火のような怒りを抱えてじりじりと燃えていたが、一歩離れたどこかで何か別のものが目を開いたような感覚があった。
 だんだん意識がクリアーになってゆく。
 部屋の中や周囲にあるものが異様に鮮明に目に飛び込んでくる。音も妙によく聞こえた。蔵馬の気配を、間近に耳をつけて聞いている様にはっきりと感じる。
 蔵馬の体が異質な苦痛に耐えているのが分かった。彼自体が持つ妖気と一緒に、あの凶々しい障気をこびりつかせた妖剣の気配が、幽助の背骨をつたい落ちる様にして伝わってくる。
 蔵馬。
 彼は目を見開いて中空をにらみつけた。頭の中で、祈る様に彼の名を唱えた。
 蔵馬。
 もう一度呼んだ。
 その時。
 蔵馬の妖気が突然とぎれた。
「!」
 幽助の過敏にとぎ澄まされた神経の中で、蔵馬の気配が途切れた様子は、聴覚さえも伴ったイメージになった。何かがぶつりと音を立てて切れる様に、蔵馬の妖気は突然彼の感覚の中からかき消えた。
 代わりに、炎を上げて燃え盛る様に、妖剣の持つ汚穢を含んだ妖気がぎらぎらと光った。
「蔵馬っ」
 幽助は頬を叩かれた様に立ち上がって、ドアを押し開けた。
 背筋が、しめ上げられた様に緊張する。思わず背中をドアにつけた。先刻から耐えてきた、叫びたくてたまらない衝動が、喉を突き破った。
「蔵馬………」
 上半身を完全にはだけて、左胸を血に染めた蔵馬が、バスルームの床に横たわっていた。
 彼の顔色は紙の様に白かった。どう見ても生命を持ったものの顔色ではなかった。蔵馬の肌は元々きめの細かい淡い象牙色で、特別に白人種めいて色白という訳ではない。
 さらした紙の様に青白い彼の顔、途切れた妖気に、冷たいものが背筋を這い上った。
 妖剣を握った手は投げ出されて、やや細い指は半ば力なく開かれていた。
「おい…………」
 幽助は呼びかけた。声が喉に絡んで、うまく舌に乗らなかった。
「……蔵馬。……」
 蔵馬の返事はなかった。
 まつげは硬く閉ざされたまま、ぴくりともしなかった。
 幽助は蔵馬の上にかがみ込んだ。蔵馬の手に握られた妖剣を取る。片手で蔵馬の頬に触った。
「!」
 彼は、氷に触れたような感触に思わず手を引いた。生き物の皮膚の感触ではなかった。
 無機物の様に蔵馬の頬は冷たかった。蔵馬の首筋を探る。手を這わせても脈はどこにも感じられなかった。幽助はそのてのひらを口元に持って行った。唇は硬く閉ざされたまま、呼吸は通っていない。
 みぞおちをふるえが満たして、ひざから力が抜けそうになった。昏い怒りと、衝撃と、絶望とで鳥肌が立った。
 彼は、相も変わらず蠕動し続ける妖剣を両手で握りしめた。
「……っ、蔵馬ッ……」
 分かっていた。おそらく、蔵馬は弱り過ぎていた。それで、途中で力尽きたのだ。
(……オレが死んだら、すぐに霊界と連絡を取って。……)
 蔵馬の言葉がよみがえった。
 あの言葉を聞いた瞬間ですら、幽助は、蔵馬が本当に死ぬとは思ってもいなかったのだ。
「この……っ」
 冷えたみぞおちが突然、破壊衝動に熱くなった。彼は、自分のてのひらの中の、黒い障気を一杯にまといつけた妖剣をねめつけた。
 それを握りしめた手さえも熱く熱を持ちはじめた様だった。霊丸を撃つ時と同じで、爆発しそうに指先に霊気がたまり始めた。
 てのひらが発光する。あの、最近色を変えはじめた、蛍の緑色を帯びた光だ。
「畜生……っ」
 彼は、今にも爆発しそうに気をはらんだ右手の爪で、妖剣の上の煩わしい障気をかきこそげた。
 ……唖・唖唖・唖・唖唖唖……!     
 その瞬間、耳障りな、声というよりはノイズに近い音が、凝り固まった念の汚穢の只中からあふれた。
 直接、鼓膜を刺激して来る音だ。障気はタール状に溶け伸びて散らばり、それぞれ牙の様になって幽助のてのひらに飛び込んできた。
 ジリジリと叫び立てて自分のてのひらの中でもがくそれを、幽助は力任せに握りつぶした。てのひらは一触即発に発光し続けている。こんな場所でヤケになって霊丸を打つ訳にも行かなかった。代わりに力をてのひらに向かって収束させるイメージを浮かべ、障気を自分の霊気でなするようにおしつぶす。
 唖唖唖 唖 唖唖・唖唖唖……!!!
 妖剣の上から幽助のてのひらに握りこまれた障気は、反り返り、はねあがる様にしてもがきながら、霊気の中で燃え出した様に見えた。
 唖唖    唖・唖  唖・唖唖唖…………────唖 唖 唖 唖唖唖……!
 ねっとりと黒い糸状に垂れ下がって、てのひらの中で左右に跳ね返っていた障気は、最後に肌の粟立つような音で叫び立てた。
 唖  唖    唖     唖唖唖…… 唖・唖……
 と、思うと、鞭の様にはじけ散って、その後にほんのわずか、細かい煤のようなものだけを残した。
 幽助は、肩で息をしながらてのひらの中に残った、青く濡れて澄みきった妖剣の刃を眺めた。刃の上の障気が灼きつくされると、それは静かにあおあおと濡れて、一点の曇りもなかった。
 彼はそれを、蔵馬の血に濡れたバスルームの床に投げ出した。
「……蔵馬。……」
 彼は茫然と、蔵馬にかがんだ。
 最初から妖剣に曇りがなく、この刃の切れ味がよければ、蔵馬は死なずに済んだだろうか。
 無理やりにでもついていれば良かった。直接傷口に触れてでも蔵馬の体に力をそそいでやるのだった。
 ひどく苦い後悔に襲われて幽助は唇をかみしめた。
 蔵馬の冷たい傷口に触れる。
 彼がこの数日、幾度となくそうした様に、そっと霊力をそそぎ込む。もう冷たくなった体だったが、暗い感傷に似た気分で胸の傷に力をそそいだ。
 疲労していた。自分の望みが何の結果も残さなかった事が、自分をひどく無力に思わせた。例えば、戸愚呂と戦った時の様に、それをぶつける相手もいなかった。
 その時、横たわった蔵馬の指がかすかに震えた様に思えた。
「……」
 幽助はふと手を止めた。人間でもショックを与えたり、心臓マッサージで息を吹き返す事がある。幽助の胸が大きく鳴った。
 手遅れではないかも知れない。蔵馬を助けられるかも知れない。
 幽助は蔵馬の手を握りしめた。やはり手を媒介にするのが一番うまくいくようだ。蔵馬の中に、焦って飽和状態にならないよう彼の力を注ぐ。
(蔵馬)
 怖くて呼びかけられなかった。
 死体の肌の冷たさを一度知ってしまっただけで、呼びかけに答えるもののいない虚しさをかすかにかいま見ただけで、おそろしくて呼びかけられなくなる。
 喉が詰まった。
「く。……」
 しかし押しあげてくるもの。生まれてこの方、彼を歩かせてきたもの。戦うにしても、楽しむにしても幽助が最も頼みにしていた「衝動」が、喉をついた。
「蔵馬……」
 押しつぶされた様にしゃがれた声が喉から漏れた。その時、握りしめた手の手首に、かすかに反応するものを感じた様に思って、幽助は胸に耳を押し当てた。
 大きな傷口を作った胸に、しばらくして、また一つ反応があった。今度ははっきりとしたものだった。幽助は唇をかみしめた。
 間違いなかった。
 おそろしくゆっくりとだが、蔵馬は再び鼓動し始めていた。心臓が止まったのも、あるいは一時的なものだったのかも知れない。
 しかし放っておけば再び止まってしまうに違いない。そして今度はおそらく、どんな衝撃を与えても再び心臓が動く事はないだろう。
 幽助は先刻放り出した妖剣を拾い上げた。
 今、それをするのが自分しかいないのだという事が信じられないような気がした。およそ自分の肩には荷が重過ぎると思った。
 戦う事ならまだしも、蔵馬の心臓から、指先でついた程もない大きさのものを探し出して、心臓と融合したそれを、蔵馬に傷をつけずに切り取るなどということが、とうてい出来る訳がないと思った。
 蔵馬が云ったように霊界と連絡を取る事も考えた。
 しかし、霊界から誰かが送られてきたと考えて、その数十分間を、蔵馬の体が耐えられるだろうか。きっと、今すぐそれをしなければならないのだろう。
 彼は、妖剣を握りしめて息をついた。
 彼がやるのだ。
 自分がやらなければ蔵馬は死ぬ。
 そう思うと目の前が暗くなるような気がした。
 彼は、汗を帯びた額を拳で拭った。冷水に手をさらして、真新しいタオルを酒で濡らした。傷口のあたりはもう、乾きかけた血で見分ける事も出来ない程だった。蔵馬の心臓が動き始めた証拠に、傷口からまた新しい血がにじみ始めていた。
 酒で濡らしたタオルで、胸をふき取る。
 胸はすでに切り開かれている。普通の人間なら、こんな風に乱暴なやり方をすれば、一も二もなく死んでしまうだろう。
 幽助は、縦に切り開かれた傷口にそっと指で触れた。傷口を探ると、蔵馬の体がかすかに震えた。確かに彼が生きている事を確認して安堵しながら、反対に幽助は蔵馬の苦痛の事を考えて身のすくむ思いをした。
 途中で目を覚ますような事があったら、自分が蔵馬の苦痛をながめ続けることに耐えられるか自信がなかったのだ。
 神経がむき出しになったように、今の幽助は過敏になっている。
 ゆっくりと胸の深くに指を差し入れると、指先が肋骨に当たって幽助は背筋をこわばらせた。外気に触れた傷口は冷たく冷えていたが、胸の深くは柔らかく、生々しく温かかった。
 たちまち吹き出してくる血で指が濡れた。
 ほんのわずか迷って骨を避けると、指先が温かいものに触れた。息を詰めた幽助は、その温かい塊が突然一つ鼓動して、飛び上がりそうになった。
 心臓だ。
 心臓は血管を浮かせて、ゆっくりと血を巡らせながら数秒間に一度ずつ鼓動していた。
「どこにあるんだ。……」
 思わず声に出す。
 神経が、ようやく正常に集中し始めた。心臓の上をそっと探る。傷つけてしまいそうで怖いのは変わらなかったが、しかし、手に触れていないものについて案じるより、触れていないものを傷つけないようにする方が多少はマシだった。
 幽助の爪は短く切っているため、心臓を傷つけるおそれはなかったが、一か所でわずかな引っかかりがあって、それに爪が当たった。
(……?)
 幽助は、そこを探ってみた。
 蔵馬の体がその途端大きくふるえた。意識を失ったままの蔵馬が眉をひそめるのが見えた。幽助の心臓が跳ね上がった。
(頼むから、目を覚ますなよ)
 それは、本当に爪の先ほどもない小さな硬いものだった。血管の節程度にしか思えずに逃してしまいそうだった。蚊か何か、ごく小さな虫くらいの大きさでしかない。
 しかし、確かにかすかな妖気を放っていた。
「おい、これかよ……?」
 幽助は左手で妖剣を引き寄せながら、絶望的な気分になった。
 小さ過ぎる。おまけに心臓の肉の中に食い込んでいて、どのくらいの深さで切ればいいのかも見当がつきにくい。
 このナイフは、妖化した蔵馬の肉体をひどく傷つける可能性もある。
 大きく息を吸い込んだ。
 右手の指で探り当てた位置を確かめる。汗が吹き出してきた。両手が血で濡れているため、腕の中程で汗をぬぐい取った。傷の内側は深く、支えるものもないためよく見えなかった。意識をしっかりさせようと頭を振った。
 蔵馬はこれを手探りでやろうとしていたのだ。
 しかし、幾ら鏡にうつしてとはいえ、あの障気のこびりついたナイフで手探りで切ったその傷口は、まっすぐ鮮やかに、綺麗に心臓に届いていた。もし、ナイフを見つけたのが、あと四、五日早かったら、彼は一人で、しかも涼しい顔でそれをやってのけただろう。
 蔵馬は痛みを耐える体質にかけては並みはずれている。さっき意識を失ったのも、弱りきって長い間全く食物を取れなかった体が、おそらく胸を切り開かれるショックに耐えられなかったのだ。
 心臓に触れる。傷口から流れ込んだ血で心臓の回りが埋まり、手元がすぐに危なくなる。血でてのひらがぬるぬると滑った。幽助は、新しいタオルに血を吸わせた。
 もし、石で作られたそれが、壊れてカケラになったらもうおしまいだ。
 刃先を押し当てる。尖った部分以外が触れないように細心の注意を払う。
 それでも刃先が狐聾石に触れた途端、蔵馬の様子が変わった。
 まぶたが震え、唇が開いた。苦しげに眉をひそめ、ゆっくりと数回首を振った。
 肺がふくらんで動くのが生々しく分かった。「蔵馬」が入り込む事で妖化されても、やはりこの体は人間の臓腑を持った南野秀一の柔らかい肉体だ。
 硬い小さな塊に刃先をかけて、ほんの少し手前に引く。心臓の肉は薄く、思ったほど弾力がなかった。
「うっ……」
 突然蔵馬がうめき声を上げた。体がすくむ。妖剣の刃先は、石の下にもぐりこんだように思えた。もしうまく入り込んでいれば、それをつまみ上げて切り取ることが出来る。
 しかし、刃先に目を近づけてみると、どうやら、石を二つに割ってしまったように見えた。
 妖気のこめられたものに、この刃先は特別に反応するらしい。
 汗が目の中に流れ込んでくる。幽助は今度は肩の布で額の汗を拭った。
 ……心臓と融合する。……
 蔵馬はそう云っていた。刺さっているのと違って引き抜けばいいという訳ではない。
 大きさはたぶん、本当に虫くらいのもの。
 幽助は歯を食いしばった。
 二分してしまったかけらの、その下の肉に刃先を入れた。
「……っ」
 本当にこれで間違いないのか。
 妖剣で心臓にナイフを入れられて、本当に蔵馬は死なないのか。
 自分がこれをするのは最初から無謀過ぎたのではないか。
 幽助の胸の中で、彼の心臓こそがはじけ切れて、ねじり取られるように、疑問や迷いが激しくせめぎあった。
「くそっ……」
 幽助は燃えるような目で蔵馬の胸の内側をにらみつけた。
 手に、力を入れた。
 手ごたえもなく、まるでバターにナイフを入れるように柔らかい感触だけを残して、妖剣の血に濡れた刃先の上に、蔵馬の心臓の肉の一部と、血と肉に埋もれた、小さな虫のようなものが乗ってきた。それは小さな羽のようなものを持ち、また今にも飛び立ちそうに、温かい血の中でかすかに動いていた。
 幽助はナイフの上のそれを指でつまみ取った。指先で力任せにつぶす。障気を握りつぶした時と同じように、指先に霊気を満たして、それは蔵馬の体の中にエネルギーを注ぎ込もうとする時とは逆に、破壊のためのエネルギーをこめた。指先からわずかに煙のようなものがわき上がるのが見える。
 幽助は、指の中でつぶれたそれを、念のため、床の蔵馬の血の中にひたして、肉片ごと妖剣の刃先で床のタイルの隙間に突き通した。もしそれが生きていて、蔵馬の血の中から取り出されたと知ったら、また蔵馬の体の中に戻ろうと動き始めるかも知れない。
 心臓から激しくあふれていた血潮が、止まり始めている。
 幽助の胸は、先刻から破裂しそうに打っていた。手が震えるのを自覚しながら、彼は、再び蔵馬の胸の血をぬぐい取った。
 さっき蔵馬が用意した、麻糸を通した針を手に取った。傷口を縫うというのが、どういう風にすればいいものなのか、幽助にはよく判らなかった。
 とにかく傷口を閉じなければならない。
 肌に針をつき通す感じは、妖剣を心臓に刺すこと自体よりよほど生々しかった。
 針を刺すたびに蔵馬のまぶたが震えるのを見ながら、幽助は目を背けたい衝動に耐えて、傷口を閉じた。糸の端をどうすればいいのか判らず、数度くぐらせて、端を噛み切った。
 彼は、血まみれになったバスルームの中で、蔵馬の姿を見おろして、茫然と座り込んだ。
 終わったというのが信じられないくらいだった。
 見落としたもの、し残したことへの不安でいっぱいだった。
「蔵馬…………」
 答えがあるとは思わなかったが呼んでみた。蔵馬の顔色はさっきと同じで、青ざめて奇妙に白かった。今、彼が閉じた胸の中で、まだ心臓は動いているのだろうか。
 幽助は蔵馬の手首にそっと触れた。手首の内側を親指で探ったが、脈の気配は感じられない。しばらく待ったが、脈は伝わって来なかった。
「……!」
 冷水を浴びせられたような気分で蔵馬を見る。さっきまで震えていたまつげも硬く閉じられていた。
「どうなってんだ。……」
 不快な動悸が沸き起こってくる。
「……間に合わなかったのかよ。……」
 突然、全身に鉛のような疲労感が襲ってきた。衝撃よりも疲労感の方が強かった。幽助は、浴槽に背をつけてもたれた。
「ウソだろ。……」
 何かが間違っていたのかも知れない。あれは狐聾石ではなかったのだろうか。
 額の汗を無意識に手でぬぐい取ると、まつげの端に赤いものがついた。幽助は自分の手を広げた。蔵馬の血だ。まだ洗い流していなかったのだ。
「蔵馬……」
 つぶやく。自分の声に触発されて、ようやく衝撃が胸に届いたような感じだった。幽助は体を起こした。蔵馬の静かな顔をのぞき込む。目を閉じた彼の眉間に、かすかに苦しそうな表情が残っている。
「これじゃ俺たち、すげえバカじゃんか。……」
 蔵馬の肩に額をつけて、幽助は荒い息を吐き出した。喉がふくれ上がったように痛くなった。
「蔵馬、ッ……」
 蔵馬の指をかき寄せるように握りしめた。
 その時彼は不意に、握りしめた指が冷たかったが冷えきっていない事に気づいた。
 まだ冷えきっていないだけなのか。それとも。
 幽助は息を吐いた。
 蔵馬の胸に耳をつけた。それは気のせいではなかった。
 鼓動が遅くなっているのだ。数秒間に一度ずつ打っていた蔵馬の心臓が、数十秒に一度しか打っていないせいで、脈を感じることが出来なかったのだ。
「おい。……」
 幽助は、再び座り込んだ。膝で、がくがく震える腕を支えた。血がつくのも構わず、腕に額を乗せた。
 助かるかも知れない。
「死ぬなよ、お前。……」
 凍っていたみぞおちが溶けて、今度は燃えるように安堵で熱くなった。
 幽助のまつげにこびりついた血が、汗以外のもので溶けて頬に落ちた。まばたきしてそれを払い落とし、彼は上を向いた。数回深呼吸する。
 バスルームの壁にはあちこちに血が点在し、シャワーカーテンにも浴槽にも血がかたまりついている。
 幽助は立ち上がった。
 手で視界の熱いくもりをぬぐい去った。てのひらを染めた乾いた血の中に、ぬぐい取ったものは長細く筋を残した。

 神経が冷たく冴えて、なかなか体を落ち着けて休むことが出来なかった。
 蔵馬の血のついた服を脱がせ、体の血の跡を拭い、着替えさせて寝かせるだけでもかなり時間がかかった。だがそれも、精神的な疲労でしかなかった。夜半近くなっても、幽助は眠れるほどの疲れを感じなかった。
 彼は、浴室一杯に飛び散った血を洗い流すのに数十分かけた。
 壁の乾いた血が染みになりかけたものを石鹸と濡らしたタオルで拭う。毎日ホテル側からのクリーニングがあるはずだから、浴室に人が入る前に血を洗い流しておかなければならなかった。
 そうでなければ大騒ぎになってしまう。
 壁を拭う雑巾代わりにしたため、数枚のタオルの血の跡は幸いほとんど流れてしまった。
 これなら、ホテルの外までわざわざ捨てに行かなくてもいい。今、長時間蔵馬の側を離れるのは気が進まなかった。幽助はホテルの備えつけのランドリーバッグにタオルを押し込んで、内心ホテルを出て行かずに済む事にほっとした。
 バスルームの血を洗う最中にも、彼は何度もベッドの側に戻り、蔵馬の鼓動を確認した。
 あまりゆっくりとしか打たないため、次の一回が聞こえるまでがひどく長く感じられる。もうこれきり止まってしまったら、と、何回不安に駆られたか判らなかった。
 だが蔵馬の胸は、一分間に三、四回ずつではあったが、確実な鼓動を伝えてきた。
 ここ数日、逼迫した不安に悩まされ続けていたため、そう簡単には安心できなかった。しかし数時間たつと、幽助はやっと落ち着いてきた。
 後は蔵馬の体力が持ちこたえるかどうかだ。
 そこは、ただの人間でない分、少しは安心出来る。
 ただ傷を治すという段階までこぎつければ。暗黒武術会で、あの鴉戦でのひどい怪我がほんの二日程度であっという間に治り始めたことを思い起こしても、充分に希望は持てる。
 幽助は自分が数度目に蔵馬の心音を確かめた時、思わず笑った。
 この様子を蔵馬が見ていたら、やはり笑うのではないかと思った。
 蔵馬の意識がなかなか戻らないのが気になった。
 きっと蔵馬の体は今、くたくたに疲れているのだろう。
 武術会に出る前、幻海の所にしばらくやっかいになっていたが、その後、一度眠ってしまった後、六遊怪戦も終わりかけるまで目を覚まさなかったのを思い出す。
(まあ、あれと似たようなもんか)
 苦笑した。
 それにこうして笑っていられるのだから、ずっとマシだ。
 それからようやく、彼は顔や手足を洗った。
 今晩だけはゆっくりシャワーを浴びてなどいられない。バスルームの戸を開け放したままで、顔を洗い、鏡に映った自分の前髪に血がこびりついているのを見て、頭から水をかぶった。
 もうバスルームにも、何の痕跡も残っていない。
 バスルームから出てきて、幽助は、向かいのベッドに座って、ようやくゆっくりと蔵馬の顔を見た。じっとしていられないような衝動がやっとおさまってくる。
「ほんと、お前って人が悪ィよな。……」
 彼はため息をついた。煙草が欲しくなる。
 蔵馬の顔を見下ろした。
 思えば、ここまで内側からじわじわと侵されるようなものは初めてだったが、しかし、こういう風に青ざめた顔の蔵馬を見る事はしばしばだ。
 特にこの数カ月は……。
 平穏な生活など望んではいなかったが、ムシのいい事に自分の周囲の人間は死んで欲しくないのだ。自分と、自分の回りの人間さえ無事ならいいというのは、とんでもないエゴだが。
 幽助はため息をついた。ライターも何もかも置いてきている事に今気づいた。蔵馬の呼吸が苦しそうだったから煙草を吸っていなかったのだ。
 買いに行くのもどことなく面倒だった。
 蔵馬の頬に手を伸ばした。頬は冷たい。ふと又不安になって首筋に手をすべらせた。恐ろしくゆっくりと、鼓動は確実にあった。
 そのまま手を伸ばして蔵馬の頬に触れる。
 彼の顔が綺麗に整っている事に気づいた。あまり考えた事がなかった。
(男なのに手、出したのはキレイだからだっけ……?)
 初めて彼と寝た時は、彼についてどう思っているかはっきり考えなかった。幽助は自分の衝動と向き合う事に違和感を感じない。寝たのも蔵馬が初めてではなかった。だから考えないでスルーしてしまった。初めて蔵馬と寝た時も、蔵馬からは深く考えなければならないほどのリアクションはなかった。
 しみじみと見下ろす。
 蔵馬は面白い存在だった。男でもなく、女でもない、人間でも妖怪でもない、ただ蔵馬独自の価価観だけが作りあげた、独特の生命だ。
 幽助に取って蔵馬は全く別の世界に属しているという漠然とした印象があった。その彼が思った以上に自分にこだわっている事が幽助には不可解だった。
 ……全部好きだ。……
 蔵馬は笑いながら、戯れかかるような口調で、しかし意外に真剣な目でそう云った。
 ……全部。……
 自分の感情にかすかにとまどって、幽助は蔵馬の頬に触れていた手を引っ込めた。
 その時彼が蔵馬に対して感じたものは所有欲に近かったが、しかし幽助自身には、その正体は判然としなかった。
 蔵馬と何回か寝て、彼とのつながりが深くなればなる程、幽助には蔵馬が分からなくなった。彼の戦い方を見れば、彼のプライドの高さは充分に理解出来る。
 どこまでも蔵馬は幽助に譲る。しかも、易々と譲ってしまう。いつも平然としていてつかみどころがない。
 もっとも、この狐聾石の一件で、今まで見た事のなかったような一面も垣間見た。彼の世界観に近いものを感じもした。
 そうして、身近にいる彼、自分の思う事について少しずつでも語る彼を見ていると、ますます分からなくなる。
 彼は妖狐蔵馬なのか、南野秀一なのか。
 幽助はそのどちらでも別段気にはしない。しかし、自分が彼に何を要求しているのか分かりにくくはなる。
 力なのか個人なのか。
 幽助の中で疑問はうまく形にならず、彼は肩をすくめて立ち上がった。
 煙草だけ買って来ようと思ったのだ。確か下のフロアに販売機があった。数分なら側を離れても特に支障はないだろう。
 幽助は一度振り返って部屋を出た。数日は、蔵馬のトラブルについてしか意識が向かなかった。一旦それを回避出来そうになった事で、感情が取りとめもない方向に流れがちだった。
 下のフロアでマイセを二箱買って、幽助は、人気のない二階のエレベーター前のロビーで一服した。
 さすがに蔵馬が気になって味が判らない。
 この場合彼は、蔵馬の調子がこれ以上悪くなる事を警戒しているのではなかった。
 あの、赤蝕という粘着質な男がこれで済ませるとは思えなかったからだ。数時間前、ナイフを見つけて帰った帰りに、途中の木立の中にあの男の姿を見かけたような気がしたのだ。
 幽助は結局一本吸い切らないまま、煙草をもみ消して上階に戻った。
 ふと嫌な感じがして、幽助は一瞬ドアの前で立ち止まった。中に気配がある。蔵馬のものではない妖気だ。荒っぽく鍵を開ける。
 部屋の窓が開いていた。
 窓は丈が高く、テラス式になっている。その窓がいっぱいに開け放たれて風が入っていた。
 ベッドに横たわった蔵馬の上にかがみ込んでいる男の姿を見た途端、ここしばらく発散しきれなかった怒りが、一気に吹き出して来た。
 赤蝕は、幽助が入って行った音に顔を上げた。
 浅い黄色の目が鬼火のように光っていた。
 終始薄笑いを浮かべている所をしか見た事がなかったが、男がそんなふうに憎悪を剥き出しにした顔になったのを幽助は始めて見た。
 男は、蔵馬が狐聾石を切り取った事に気づいたらしかった。蔵馬の胸がはだけられている。
 意識してためるまでもなく、指先に恐ろしい量の霊気がふくれ上がった。
「切り取ったのか?」
 男は、ざらざらとした声で云った。
「さすがだな、どうやってやった?」
「蔵馬から離れろ、ゲス野郎」
 声が喉に絡んだ。幽助の体から制御し切れずにあふれ出した霊気を見て男は嫌な表情で目を細めた。
「そうか。……」
「離れろ」
「こんな所で打つのか? ホテルがふっとぶぜ」
「別に構わねーよ」
 云い捨てて、幽助は男の頭に狙いをつけた。軽く一発吹き飛ばして、蔵馬から離れた所でとどめを刺せばいい。別に霊丸を使う必要はないのだ。
「お前、自分の霊気が変だと思わねえのか?」
 不意に赤蝕がそう云った。幽助はぎくりとして一瞬動きを止めた。それはここしばらく彼がいぶかしく思っていた事だ。
「……何?」
「わからねェのか、案外鼻がきかねえんだな」
「何が云いてーんだ、ごちゃごちゃ云ってんじゃねェよ」
 幽助は吐き出すように怒鳴った。何かが変化しているとしても、男に云ってもらう必要はなかった。
 男は窓側に一歩下がった。大きく後ろに飛ぶ。
「馬鹿野郎、逃がすかっ……!」
 男の脚が窓から離れるのを追って、幽助は左腕で反動を支え、男に遠慮のない力で打ち込んだ。力の大きさに、腕がびりびりと痺れるような感じがあった。霊丸は緑色に空気を震わせながら、夜の霧の中に抱え込むほどの光茫を放った。
「!」
 赤蝕はそれを間一髪避けて薄く笑った。
 暗い空中に浮かんだまま、意味ありげに幽助の背後の蔵馬を指さした。
「あれだけ弱ってるんじゃ、好都合に寄ってくる奴も多いだろう。側についててやるんだな。俺と遊んでる場合じゃないだろう、浦飯」
 嘲笑を声に含ませながら、しかし赤蝕の目の中では余裕のない光が燃えている。
 幽助は腕を上げて赤蝕に狙いをつけた。もう二回は撃てるはずだ。
「とにかくてめえはブッ殺すっ……」
 赤蝕が、弾かれたように地上に向けて下降し始めた。
 追って行きたいところをようやく抑えて、幽助は息をおさめながら狙いをつけた。十数メートルまでは有効だ。
 迷っている暇はない。
 思いきり力を解き放つ。左腕で支えられなかったせいで、背中が反動で弾かれる。
 だが今度は、至近距離で撃った時よりもはっきりとした手ごたえがあった。何か重いものが地表に叩きつけられる気配があった。
 一瞬、追ってゆくかどうかで迷う。その時、ホテルの外庭に車がすべりこんで来た。霧の中をヘッドライトが大きく撫で過ぎて入ってくる。泊まり客が帰って来たのだろう。
 幽助は舌打ちした。胸の中はまだ煮えくり返っていたが、あの逃げ足の早い男を、蔵馬の所へすぐに戻れない距離まで深追いしたあげくに見失ったら目も当てられなかった。
 蔵馬を振り返る。
 はずしたのが数分だったから良かったが、危なかったのだ。
 大きく息を吐き出して、窓を閉めた。
 今はいい。もう一度手を出して来て、その時蔵馬の意識が戻っていたら今度こそはただではおかない。

 その晩と翌日、更にその翌日の昼まで幽助はその部屋を出なかった。
 蔵馬の意識はまだ戻らなかった。
 しかし、傷は明らかに治り始め、鼓動は、三、四秒に一回ずつ規則正しく打つようになっていた。土気色に青ざめていた頬も翌日の夜あたりから少しずつ血の気が差し始めていた。蔵馬が助かるというのが、実感から確信に変わった。
 幽助は内心蔵馬に手を合わせるような気分で、苦笑しながら食事はルームサービスを取った。蔵馬はこの部屋を一週間抑えている。オフシーズンだからこそ出来る事だ。
 三日目にクリーニングに来た掃除婦が、目を覚まさない蔵馬を見ていぶかしい顔をした。
「お兄さん風邪なの?」
「あ。……まぁ……」
 幽助は、ひやひやしながら答えた。
「大丈夫なの? お医者さん呼んだ方がいいんじゃない?」
「いつもこんな感じなんで。……」
「いつもって?」
 幽助は困って目を反らした。向こうの親切心が負担になる。
「カラダ弱いんで」
「大変ねえ。もし悪くなったらすぐフロントに云わなきゃ駄目よ。……親御さんいついらっしゃるの?」
 向こうが好意から云っているのが分かっているだけに、幽助は閉口した。
「まだ連絡してこねーんだよな、ウチの親イイ加減だから」
 彼は仕方なく笑った。眉をひそめて笑った顔を見て、掃除婦はようやく悪い事をしたと思ったらしい。
「じゃあ、お大事にね」
 ランドリーバッグと、取り替えたシーツ類を抱えて、彼女は出て行った。これでさぞかし取り沙汰されるのではないかと思うと、幽助はため息をつきそうになった。どうやら蔵馬は、親が後から合流するという風にフロントに話を通していたらしい。
 だがそういう風になっているのだと聞いておけば、話をそこに合わせればいいのだから楽かも知れない。蔵馬の事を「お兄さん」と云われたのを思い出して、彼はニヤニヤした。
 しかし、二、三日ならともかく、蔵馬の意識がそれ以上戻らないようだと、ごまかせなくなってくる。
 蔵馬は静かな呼吸で昏々と眠り続けた。
 傷口は大分綺麗になって来て、包帯を替える度に、傷口の間が埋まってかさぶたになってゆくのが判る。
(麻糸は溶けるって云ってたんだっけな)
 幽助は、自分が乱暴に縫っただけの傷がどんどん埋まってゆく様子を見て舌を巻いた。彼の霊力は、どちらかと云うと圧倒的に破壊の方向に向いている、それに、狐聾石が心臓の中になくなった今、幽助の霊力を蔵馬に注いでいいものなのか判らなかった。
 妖剣も、蔵馬が目を覚まさない内には処分出来ない。
 あの後ホテルで何の騒ぎにもならなかった所を見ると、赤蝕の死体が見つかった様子はなかった。おそらく死んでいないのだろう。ああいった類の手合いは、元々持っている力が弱い代わり生命力に富んでいる場合が多い。
 赤蝕の事を考えると、未だに奇妙に暗い怒りが沸き起こる。
 蔵馬の傷の様子が段々に回復してくるのは良かったのだが、一向に意識が戻らない事は、原因が判らず彼を不安にさせた。
 三日目になったあたりの夕方には、さすがに幽助ものんびりした気分ではいられなくなった。
 今回の件で霊界を頼らなかった自分達が賢明ではなかったのを、幽助も知っていた。蔵馬もそういうような事を云っていた。
 蔵馬は最後の方では意地になっていた。
 意地になって最良の方法を選択出来ないという経験をしたことがなかった彼は苦笑していた。
 それがあだになったのではないかとひやりとする。その疑問は、この二、三日で、数十回繰り返して来た疑問だ。
 ホテルの予約は月曜までだ。もう土曜になっていた。
 今夜。
 昼を回った時、幽助はようやく決心した。もし今夜までに蔵馬の意識が戻らなければ、霊界と連絡を取ろう。桑原に電話すれば、コエンマに連絡がつくはずだ。
 幽助は蔵馬の寝顔が、窓から差しこんで来るおだやかな日差しに照らされるのを見ながら、彼の静かな息を聞いた。
(俺にはこれ以上何も出来ない)
 心底、そう思った。
 彼は、自分に向いていないと思われる事をここ数日あえてして来た。それは無論彼の望んだ事だったし、苦痛ではなかった。蔵馬の力になりたいと思っていた。しかし、反対に蔵馬にそうしてやりたい気持ちがマイナスになったら、必ず後悔する事になるだろう。
 これが引きぎわだと思った。
 唐突に部屋のチャイムが鳴った。
(?)
 幽助は眉をひそめた。何も頼んでいないし、清掃の時間でもない。真昼だったから、赤蝕がしかけてくるとは思えなかったが、だからといって何もないとは限らない。
「ハイ」
 ドア越しには妖気のようなものは感じない。硬い声で答えると、細い女性の声で蔵馬がチェックインの際に書類に書き込んだ名字で呼びかけるのが聞こえた。
 幽助はけげんな顔でドアを開けた。
「すみません、お休み中」
「あの。……」
 幽助は思い当たって目を丸くした。彼等がチェックインした時、ホテルのフロントにいた女性だ。彼女は、花瓶に入れた薄紫の切り花を持っていた。
「フラワーアレンジメントの方が、ロビー用に余ったお花をフロントに下さったんで。……おすそ分けしたいと思って」
「ああ。……どうも」
 幽助が不思議そうな顔をしたのだろう。
「お兄さん、風邪なんですって? クリーニングの人に聞いたんだけど」
 フロントの女性は云い訳するようにつぶやいた。
「はあ、まあ」
「今、勤務時間明けなんで、ほんとは半分個人的に持って来ちゃったんだけど。あ、ちゃんとうちの許可は取ったのよ」
 彼女は薄いピンクのブラウスで、よく見るとホテルの制服ではなかった。どう見ても温子より三、四歳は若い。何となく居心地悪げにするその様子に幽助は笑った。手を伸ばして花瓶を受け取る。
「ええと、スイマセン。……兄貴は寝てんですけど。起きたら云っときます」
「あ、そんな、いいのよ」
 女は一瞬頬を上気させて笑った。薄化粧の女は、笑うと少し螢子にも似ていた。
「キミは? 風邪は平気なの?」
「オレは全然。風邪とか引かないんで」
「……そうなの。色々大変だと思うけど、御両親がくるまで頑張ってね」
 女は好意的な微笑を残してドアを閉めた。幽助はおかしくなって声を立てて笑った。中学生と高校生二人でこんなシーズンに一週間も部屋を押さえたと思ったら、両親は一緒でない。歳上の方はずっと寝込んでいる。しかも食事は毎食ルームサービスを取る。で、案外二人は話題の客なのだろう。
 蔵馬に妙な影響を与えないか心配になって、幽助はその花瓶を、蔵馬とは反対側のサイドボードの上に置いた。
「蔵馬、早く目、冷ませよ。……笑える話してやるから」
 蔵馬の静かな寝顔に、幽助はそっと呼びかけた。無性に愛しい、せつない気分になって、彼のベッドの脚元に座った。
「他の人も心配してんじゃんかよ、早く起きろよ……」
 自分が一度死んで、長い間目を覚まさなかった時も回りはこんな気分だったのかとも思う。
「兄貴かよ、……」
 彼は喉の奥で低く笑った。蔵馬のベッドの裾の方であおむけに寝転がった。ふうっと糸を切ったように疲労が押し寄せて来た。
 幽助はそのまま眠り込んでしまった。

 陽は傾いて、斜めに蜜色の光が射した。それは蔵馬が自分の夢の中で見たものとよく似た、海辺の日没の光だった。カーテンを開け放した部屋の中にその光は差し込んで、部屋の中を燃えるような金色に染めた。
 サイドボードに置かれた透明なガラスの花瓶の中で、スターチスとトルコ桔梗の花が、光に撫でられたようにわずかに震えた。花は光に魅きよせられる。だが、甘い金色の斜陽以外のもの、目に見えない手が花茎を絡めて引いたように、惑乱するように、ひそかに震え始めた。
 スターチスの乾いた星のような紫の花が、またたいて揺れたかと思うと、どこか苦しむようによじれながら、花瓶の外に流れ落ちた。茎の堅いスターチスは元々は枝垂れる花ではないが、大きくうねって、サイドボードの下にまで伸びてあふれ始めた。
 少し遅れて、桔梗の柔らかい花が同じように揺れながらサイドボードの床へ向けて静かに伸び始めた。その重みに耐えられずにサイドボードの上で花瓶が倒れた。花瓶の水が静かに流れ落ちて絨毯の上に染みを作った。
 サイドボードの床からベッドへ、ベッドの下の床からベッドカバーへ、身動きもせずに眠っている蔵馬の手元に、桔梗とスターチスはだんだんに這いのぼった。オレンジ色に静かに燃える部屋の中で、紫にまたたきながら、いくつかの花を点在させて伸びた。
 右手の指にそっと巻きついて、軽く口づけるように、約束ごとの証しのように、指の周りに咲いた。
 眠る蔵馬の指がぴくりと震えた。
 その指は、スローモーションの画面のように開き、間をくぐった桔梗の茎とスターチスの枝を、かき寄せるようにして握りしめた。
 瞬間。
 指や手首に巻きついた緑が、蔵馬の指先の方から茎の方へ、突然乾いて枯れ始めた。
 それは瞬く間に根の方まで届き、先刻までみずみずしく咲いていた花は、たちまちもろい、乾いた土色の紐に変わった。
 元々乾燥した花で、枯れてもさほど色の変わらないスターチスの花が、色素まで奪われたように、朽ち葉色に変わっていた。指がゆっくりと開いた。
 ベッドの上で眠り続けて、長く目を覚まさなかった彼は、天井へあおのいた姿勢のまま、静かにまつげを開いた。腕をゆっくりと上げ、目の前にてのひらを持って来て開いてみた。左腕を上げた時、かすかに左胸に痛みがあるように眉をひそめ、しかし右側の肘をつっぱって、ゆっくりと、ゆっくりと起き上がった。
 金色の光が目を射て、彼はまぶしそうに目を細めた。又目を開けると、普段伏せられる事の多い暗い色の瞳が、蜜色の光に射し貫かれて透き通った。
 自分のてのひらの中に握られた枯れた枝を見つめる。
 そして、自分のベッドの足下で眠り込んだ幽助を見た。
 彼は、静かに襟元をはだけ、息をひそめるようにして包帯の巻かれた胸を見た。そして又、感情の表れにくい静かな目で幽助を見つめた。
「……」
 名前を呼ぼうとするように唇を開いた。
 眠り込んだ幽助の目元に、普段の彼らしくない疲れがにじんでいた。その彼の顔を見つめて、蔵馬はふと口をつぐみ、まぶたを伏せた。
 部屋は甘い眠りのような金色から、叫ぶような橙色に変わり始めた。
 楽な呼吸の通う胸と、痛みは残っても軽く動く腕や脚を確かめるように、彼は背中を伸ばした。眠る幽助の髪に手を伸ばしかける。
 そして又、わずかに笑ってやめた。
 白い額から前髪をかき上げ、座った姿勢で祈るように目を閉じた。
 再び夜に近い。
 目を開く。もう二度と見る事はないかも知れないと覚悟した世界を見る。幾度か、子供のようにそれを繰り返した。
 再び夜が近い。しかしやわらかな夜だ。石のかいなはもう無い。
 金と丹色の、夜と昼の境目に彼はしばらく動かなかった。動けなかった。いのちの手ごたえに酔いかけた。

 やがて夕日は、彼が数日流し続けた血に似て、濡れたような赤に変わった。

21: