事件が解決したとなればそれはもう。
幽助は水音で目を覚ました。部屋の中は明るくなっていた。
昨日までは光から部屋を守って、世紀末じみて昏く赤い薄闇を作っていたカーテンは、開けはなたれて光を受け入れていた。どこか胸に穴が空いたように明るく平穏な昼下がりだった。
はっとした。隣のベッドに蔵馬がいなかったのだ。
水音がバスルームから聞こえるのに気付いて、幽助は飛び起きた。昨日眠ってしまった姿勢そのままで、しかし丁寧に上掛けがかけられていた。
「幽助? おはよう」
聞き慣れた声が聞こえてきた。幽助は信じられない気分で、かすれもせず苦しそうでもない、なめらかに落ちついた声を聞いた。歯磨き粉を歯ブラシに押し出しながら、蔵馬が顔を出した。
髪の先から水滴が滴り落ちている。シャワーを浴びたばかりらしい。濡れた髪をかき上げながら、片手に歯ブラシと歯磨き粉のチューブを持った蔵馬を見て、幽助は思わずベッドに座り込んだ。
「蔵馬ァ……」
彼は座り込んだ姿勢で頭を抱えた。安堵と驚きと、肩すかしをくらったような戸惑いとが入り乱れて、凶暴なほど幸福になった。
「フツー、風呂入るか? 胸の方どうなんだよ」
「おかげさまで」
蔵馬はパジャマの胸を開いて見せた。
そこには、三日前、幽助が縫い合わせた傷がまだ盛り上がっている。胸の傷の、いびつで鮮やかな紅に、一瞬幽助は片目をすがめた。眠りの足りない朝、太陽を弾いたアスファルトに目を射られた感じ、ただ幸福なのとも違う、ふとした拍子に不安のよみがえってくるような不安定な甘さが胸を噛んだ。
「久しぶり」
蔵馬は、ベッドに座った幽助を見下ろして笑った。
「久しぶりって……」
幽助はあきれて云いかけた。しかし突然おかしくなって笑った。考えてみれば武術会以来、何ごともなかったようにこうして笑う蔵馬と会うのは初めてだ。そういう意味では「久しぶり」かもしれない。彼が始めて赤蝕を見たあの日、まだ蔵馬は普通にしていたが、それも数時間の事だ。それよりは不調に苦しめられた彼の印象が、ここしばらくはずっと強い。
蔵馬は一度洗面所に引っ込んで、歯を磨き終って出て来た。
「すっきりした」
髪にまだ残る水滴をタオルでぬぐい取りながら幽助の向かいに座る。
「目を覚ました時は驚いた。覚悟してたからね。……これ」
そう云いながら蔵馬は、自分の胸を指さした。
「幽助がやってくれたんですか?」
幽助は、そう云われた拍子に蔵馬の心臓の柔らかさを指先に思い出して身震いした。むせかえるような血の匂いがよみがえってくる。
「こっちが死ぬかと思ったぜ」
ため息をついてそう云った彼の言葉に、蔵馬はふと手を止めた。
「本当に……とんでもないことに巻き込んでしまってすまなかった。……大変だったでしょう、色々……」
感情を抑えた低い声で云った。
「それはもういいって。……心臓が止まった時は、さすがに後悔したけどな」
「止まってましたか?」
「止まってた。そんなに長い間じゃねェけど。……二、三分か……?」
「そうか……」
蔵馬は考え込むようにまばたきした。
「約束通り、殴りますか?」
「お前がすっかり良くなったらな」
幽助は肩をすくめた。
「あいつ…………あの男、それ切った晩に、この部屋まで来やがった」
幽助は片手で蔵馬の胸を指した。
「一発くらわしてやったけど、死んでねーな、たぶん。……逃げ足の早え奴」
彼は右手のこぶしを握りしめた。怒りのやり場のない気分で親指の爪をかみしめた。
「まあお前が治ったんなら、後はお前がやるだろ?」
蔵馬が身動き出来ない時ならともかく、後は彼自身の問題だ。幽助は蔵馬が膝の上に軽く投げ出していたてのひらを軽く打った。
「後はタッチな」
少し考えてつけ加える。
「今度見かけたらホント、手加減なんかするなよな」
「本当にね」
蔵馬はもの柔らかに同意した。
ゆっくりまたたいた。大きな目に一瞬凍るような光が灯った。物騒な刃物めいた目になった。
「そのままにはしておけないな…………」
考え込むようにつぶやいた。こういう顔をすると蔵馬は魔物の気配が強くなる。はっとするような「蔵馬」と「南野秀一」のこの落差も、幽助は気にいっていた。
(ヤバい、こう…………麻薬とか取る、花)
瞬間的に見蕩れる。花、というイメージになったのは、蔵馬の能力が植物や花と切り離せないものだからだろう。幽助にとって花は元々縁のないものだ。芥子の名前すら瞬間的には出て来ない。しかし彼の目の前に座った一見可憐な「花」はあっという間に毒の気配をひそめて、のんびりと手足を伸ばして満足そうに目を細めた。
「体が軽い」
「痛くねーか、傷とか」
「少しだけ。でも本当に少し」
立ち上がった蔵馬の言葉に肩の荷が下りる。
本当にもう大丈夫なのだ。
彼等の身辺は慌ただしい。武術会から無事に帰って、しかしそのおかげで彼等の存在は有名になり過ぎてしまった。蔵馬の身辺に限らず、これからもこういう事はあるだろう。いつまでも蔵馬のことばかり考えてはいられない。
考えていられないだろうと思うなら、無事でいるという確信は欲しい。
(くっせー事考えてんな、オレ。……)
幽助は半ば笑いかけて、髪をかき上げた。前髪を上げたい。こうやって降ろしていると視界が曇ってやりづらい。
「どうしました?」
蔵馬が幽助の顔を覗き込んだ。
血の気の戻った蔵馬の顔。薄い微笑を含む、それでいてどこか生真面目な白い顔。当分飽きないだろうと思って幽助は笑った。一瞬、紙のように蒼白だった彼の顔を思い出した。ドキンと胸が鳴った。蔵馬の胸が襟元から覗いて、その皮膚の更に下の彼の心臓に、自分が素手で触れたのだという事を思い出した。
「!」
思い出してはいけないことを思い出した、何かまずいものを覗き見た気分で、幽助は思わず蔵馬から一歩後ずさった。それは蔵馬に対して抱いた好意とはまるで別の、幽助が本能的に持っている攻撃欲の一部だ。
「何?」
思わず喉が乾いた。
「おかしいですよ……どうしたんですか」
蔵馬は見透かしたような目をした。面白がるように、幽助が一歩引いた分近づく。
「お前の心臓に触った事思い出したら、コーフンした。……」
幽助はため息をついて白状した。
「心臓?」
蔵馬の目にはまだ面白がっているような光が宿っている。
「そう、今もアレが動いてるって思ったら、興奮する……」
半ば露悪的な気分で云い放つと、あきれるかと思った蔵馬は何も云わなかった。ふと口元から笑いが消えた。黙ってしまった蔵馬の顔を見る。何を思っているかやはり彼は読み取らせない。
自分より位置の高い蔵馬のうなじを引き寄せて、頬からずらすようにして唇を探った。軽く吸って離す。
「幾らオレでも、今日は何もしねェよ。そんな顔するなよ」
笑って流そうとすると、蔵馬は眉をひそめたまま、閉じていた目を薄く開けた。
「そうなんですか?」
幽助は蔵馬の湿った髪に触れた。耳元から後ろにかき上げると、そういえば意識して触れた事はなかったが、案外に細い柔らかい髪だ。
蔵馬の指が逆に幽助の頬に伸びてくる。顔が傾いて、自分の片手を添えた頬に唇で触れた。幽助の背中を長い腕がゆっくりと抱きしめる。
「幽助。オレも興奮したみたい…………」
耳元の声にくすぐられたように幽助は笑った。
「ずるいよな、お前」
「そう?」
「絶対自分から云わねえだろ」
蔵馬も笑い出した。声を立てて笑った。蔵馬の冷たい唇が重なってくる。じゃれつくような動きで彼は幽助の肩口に頬を寄せた。
「オレから云ったら、オレにさせてくれる?」
喉もとに笑いを残しながら云う。幽助はさすがに一瞬言葉に詰まった。
「別にいいけど、…………」
一瞬考え込む。
蔵馬の腕を引いて、ベッドに自分の体ごと倒れ込んだ。
「でも、何かつまんねーな、それだと」
自分の横に倒れ込んだ蔵馬の首筋に顔を埋めて、軽く歯を立てた。蔵馬の身体がかすかに揺れて、胸の下に敷き込んだ彼は、かすかに熱い息を吐いて幽助のうなじをゆるく抱いた。
「お前、そういえばどっちでもいいんだろ? だったらオレにさせろよ」
舌先で触れた首筋に脈を感じて、また幽助はゾクリと興奮した。
「オレはどっちかっていうとしたい」
「うん、まあ。……この際、本当にどっちでもいい方が譲るべきかなあ……」
そんな風に云いながら、しかしどちらもさしてそのこと自体を気にしてはいなかった。興奮したと云いながら、すぐに服も脱ごうとせずに、肩や胸が触れるのを楽しんで抱き合った。
「お前、オレがいいって云ったら、したか?」
笑いながら云うと、蔵馬は一瞬考え込んだ。まじめな顔でまばたきする。
「まあ、そうかも。……幽助、女の子みたいだしね」
「お前に人の顔の事が云えるかって」
まぶたにキスする。幽助のキスにあっさりと蔵馬は応えてくる。二人は、緊張感から解放された反動でいささかハイになっている。だが今日はハイになって悪い理由がない。
「オレの身体に関して云えば、向こう何年かくらいは、好きなことしていい権利が幽助にはあるかな。……」
服を脱ぐ布の擦れる音。蔵馬は天井を眺めたまま微笑して自分の胸のボタンをはずし始めた。
「何しろ、二度も助けてもらったし」
「そういうのは関係ねーだろ」
その蔵馬の手をどけて幽助は彼の胸をはだけた。傷。しかし明らかに治り始めている、人間のものでない、そのくせ温かく鼓動する胸。幽助の手の中でいくどか鼓動した心臓。
蔵馬に対して独占欲はなかったが、所有欲と執着はある。その幽助の感情はやや子供じみたものだったが、しかし子供じみている分面倒でなくシンプルだった。
「一応聞くけど、平気か?」
「さあ、それは試してみないと…………」
蔵馬の耳元に触れて、耳朶に歯を立てる。幽助の胸の下で蔵馬の胸がかすかに浮き上がって、胸が密着した。
裸の胸同士が触れて、傷の存在と、そしてやはり心臓の存在を意識する。
「当分、お前の胸見ると興奮しそう。……」
「TPOさえ考えてくれれば構わないよ」
幽助の台詞ごとに笑う蔵馬の胸から、まだ布の下に隠れた脚に手をすべらせる。反射的に震えて蔵馬が目を閉じた。手を這わせるとまつげがかすかに湿った。
やはり多少は痩せたようだった。普通なら衰弱死するはずが、多少痩せた、くらいで済むのだから、やはりこの、背は高いが優美で細い身体は、妖異のもの以外ではなかった。
「幽助……」
唇が開く。拍子に歯の間に色の淡い舌が覗いた。触れてみたくなって唇の中に人差し指を差し入れた。舌は指を拒まずに柔らかく絡んでくる。
舌がちらりと指に這った瞬間、幽助は我慢出来なくなって指を離し、自分の唇を押しつけた。
口づけのなまあたたかさが物足りなくなって、唇に歯を立てる。
愛撫を楽しむ余裕がなくなって来た。
顎に、首筋に歯を立てる。首筋を吸いあげると蔵馬は喉を鳴らした。水を飲み込むように喉が揺れて、その喉の形に蔵馬の男を意識する。
白い皮膚、薄い唇、女のように優美な微笑、けれど見違えようのない男の体。
それと同時に、ほとんど完全に妖化して、しかし人間と同じ形の心臓を持った体だ。
幽助は蔵馬の脚から服を引き下ろした。腿の内側に青白くなまめいた陰影がある。そこにも歯を立てた。ここのところ発熱しがちだった蔵馬の体だが、今日は初めて触れた時と同じで、うっすりと冷たかった。
「あっ……」
声と一緒に蔵馬の上身が揺れた。自分の両腕を上げて目の上を覆うようにして、蔵馬は幽助の前に完全に無防備な姿勢で横たわった。
その膝を開かせて、内側の柔らかくなめらかな皮膚を噛んだ。
「……っ……」
気分が乗って、そのまま彼は蔵馬に舌で触れた。シーツに片頬をつけた蔵馬が一瞬驚いたように目を開ける。幽助は構わずにやんわりと歯を立てた。愛撫しているというよりは獣じみた甘い衝動だった。
「っ、ア……ッ……」
珍しいほど乱れた蔵馬の声が幽助の背中を撫でる。蔵馬の手が彼の首筋にかかる。膝を折り曲げて幽助に任せたまま、シーツの上で背骨が浮いた。幽助は背中の下に指を差し入れた。背骨に沿って爪を立てる。ひきつるように背中を震わせた蔵馬から離れる。肩の横に手をついて体を重ねた。
蔵馬と寝たのはまだ数回で、片手の指がようやく埋まる程度だったが、彼の皮膚や四肢になじんでいる自分を発見する。
「幽助っ……」
体を割り込ませた瞬間、彼のうなじを抱いた蔵馬が、耐え切れないように甘い息を吐き出した。幽助は蔵馬の胸元に頬をつけた。
引きずり込むように、引きずり込まれるように蔵馬と快楽を共有した。
皮膚を上気させて蔵馬は横たわり、天井を見上げて汗に湿った髪をかき上げた。
「幽助、煙草持ってない?」
「……持ってるけど、吸うのか?」
「一本」
そう云って蔵馬は、いぶかしげな顔で幽助が火をつけてやった煙草を深く吸い込んだ。彼もやはりハイになっているようだ。蔵馬が煙草を吸っているのは今まで見た事ことがない。
「そういえば、しばらく吸ってないみたいだね?」
幽助は苦笑して口元を歪めた。キスすれば簡単に分かる事だ。
「お前が苦しそうだったから吸ってなかったんだぜ」
「本当に? 別に吸ってもよかったんだよ」
煙を吐き出しながら、蔵馬は起き上がり、胸の傷をそれでもわずかにかばいながら、服に袖を通した。
「もう一回シャワー浴びないと。……」
「帰るのか?」
「いえ、館山に結構有名な植物園があるから行って来ようと思って。びくびくせずにああいう所歩けるのも久しぶりだから。……幽助も行きますか?」
「植物園かよ……」
幽助は考え込んで、天井をあおいでため息をつく。
「ま、オレも行くかな」
「植物以外何もないですよ」
「お前が歩いてるトコ見たいんだよ」
憮然と返した彼の言葉に蔵馬は目を丸くした。
「歩いてるところ?」
「普通に、痛そうじゃなくて歩いてるとこだよ……ここんとこお前、ずっと死にそうだったじゃんか」
蔵馬はふと胸を衝かれたように黙った。しかしすぐにまた表情の薄い静かな顔に戻った。幽助が一本取り出してくわえた煙草に、今度は蔵馬が火をつける。
「じゃあ、行こうか……」
ライターの蓋を閉じ、目を細めて微笑する。こういう顔で笑われると、幽助はいつも自分が甘やかされているような気分になる。
しかしその気分は悪くない。
ほぼ半月ぶりのまともな食事を済ませて、その午後、彼等は蔵馬が云った通り館山の植物園に出かけた。
彼等の地元にある緑化公園とつくりのよく似た植物園だった。
植物も、南方系のものを主に取り扱っていて、二階建ての建物程も高さのある温室が二十個近くあった。温室の回りを、丈の高いニセアカシアやソテツの植えられた通りが長く続く。
まだ花の季節には早かったが、植物園の外側の街道沿いには夾竹桃がずっと向こうから植えられていた。
千倉からてっきりバスに乗るかと思ったのだが、蔵馬がそうすると云い出して、彼等は一時間以上かけて、館山まで歩いて来た。
体力的に問題はないようだった。でも帰りはバスにしよう、と云って蔵馬は笑った。その夾竹桃を植えている街道を伝って歩いて来たのだ。
幽助は蔵馬に、その道が房総フラワーラインというのだと教えられた。
楽しそうな蔵馬を彼は半ばあきれながら見ている。彼にあきれる事など滅多になかったから、それはそれで新鮮だった。
フラワーラインは途中から海添いの道になる。
遊泳禁止の海の側を通って、花であふれかえった房総の道を歩いた。蔵馬が風に吹かれながら微妙に幸福そうになるのを幽助は眺めた。
白浜にはずっと前、温子の友人達数人に連れられて車で来た。海は特に嫌いではなかったが、幽助の気質はアウトドアで発散出来るものではなかった。どこかつまらなそうにする彼を見て、元来享楽的な温子はあきれ顔になった。
一緒にいる相手が違うから感じが違うのだろうかと、フラワーライン沿いに延々と、ただ、ほとんど黙って歩きながら幽助は考えていたのだ。
友人関係は、幽助には物足りない。
友人という関係の甘さが、彼の荒っぽい手にはつかみ所のないふわふわとやわらかいものに思えるのだ。幽助の望むものは普通の社会では得にくいものだ。
彼が得たものの得難さを、幽助は意識するともなく意識していた。蔵馬や桑原や、それに、一般的な感情の対象にはならないが、飛影もそうだ。
一回は激しく憎んでも見たが、例えば戸愚呂のような男にも激しく引きつけられる。
植物園に入って行きながら、幽助は、自分と行動範囲の違う相手、違う楽しみを持って行動する相手と一緒にいて、こんなに居心地がいい理由を理解出来ずにいた。
「あの緑化公園、案外ここをモデルにしたのかもしれませんね」
ふと蔵馬が、温室の一つを見上げてそう云った。この温室は、蝶を放し飼いにしているというのが売りらしい。
あの市立の緑化公園で頂度、蔵馬が血を吐いた時に隣にあった温室がそうだった。蔵馬の影響で異常成長した植物を処分するために、幽助が温室を吹き飛ばした。その時、雨の中に蝶が舞い出たのを幽助も覚えている。
「すごい香だ」
細長い温室の中に入って行きながら、蔵馬はぐるりとあたりを見回した。
蘭科の花が植えてあるようだった。
それも向こうの温室と同じである。
蘭やカトレアの濃厚な香で温室の中はむせ返るようだった。
平日の夕方近く、閉園の一時間前に滑り込んで来た彼等の他には、客はほとんどいなかった。
人気のほとんどない植物園は、だんだんに呼吸を始める植物の群れで、幻のような陰影を作っている。
蔵馬は、夕刻の光に変わり始めた植物園のガラスの建物のただ中を足早に歩いた。幽助は途中でその足取りに気付かされて、彼の後ろでこっそりと笑った。
蔵馬は歩くのが早い。
しかも、他のものと一緒に歩いていてもあまり周りを気にしないで一人で歩いて行ってしまう方である。それが、この数日、幽助が支えなければ歩き続けられないような状態だったのだ。
今は元通り、幽助が後ろを歩いていて、ともすれば置いて行かれがちだ。
それは蔵馬が回復したいうことを幽助に実感させた。
この間、彼の見通しのつかない不調が、どれだけ自分を動揺させていたのかが腑に落ちたような気がした。
中ほどまで行って入った温室は、花の咲く低木が続いていた。
ほとんど会話もなく、確かめるようにして蔵馬は歩いた。
自分が生きて動いていることを確かめるように歩く彼の背中が、言葉を交わすよりむしろ、何かを語っているように思って、幽助は立ち止まった。
蔵馬にとって今回の赤蝕との接触は、当然大きな波紋を投げかけたはずだ。幽助だけが動揺し、こころを乱されたのでは当然ないだろう。
これが蔵馬にどんな影響を残したのか知りたい。
彼は突然、切迫した気持ちでそう思った。
その時、幽助の声が聞こえたように蔵馬が振り返った。振り返って笑った。甘えも馴れ合いもない、そのくせこころが通じ合わない相手には決して見せない微笑だ。
知りたかった。だが、幽助はそれをあえて知ろうとは思っていない。それが蔵馬と彼の間にあるバランスだ。知りたいと思い続けること、知ろうとはしないこと。そんなに簡単なことではない。
しかし短期間とはいえ、変わらないままてのひらの中であたため、双方の間に成立したバランスだった。
「……帰ったら、桜が咲かなかった場所について調べないと。……」
蔵馬が独り言のようにつぶやいた。
あの、桜の咲かなかった並木道で今回の事が始まった。
幽助の記憶にも苦く触るものがある。
「何かありそうなのか?」
「固まって四つ分の市に咲かなかったっていうのが気になるんです。武術会が終わったばっかりだしね。ただの気象異常ならいいんですけど」
蔵馬はその後、しかし、「ただの異常気象」などというものは案外に少ないのだと、そっとつけ加えた。
「魔界の影響は案外強いよ…………」
彼は、また斜めに傾いた太陽を見上げてそう云った。干渉を受けつけない、崩れない、蔵馬の顔になっている。
ほっとしたような、何か少し残念でもあるような、複雑に絡んだ気分を抱えて、幽助は蔵馬の言葉を聞いている。
温室の中と外は象徴的だ。
今の彼等の状態にもあてはまる。
ガラス越しの光の温かさにむしろ身震いして、幽助は蔵馬の腕をそっと引いた。周囲に人はいない。体が触れると、すでに蔵馬の「気」は温かな血の通ったものというより、透き通って冷たい緑に似た妖異のものに戻っているのが分かる。
幽助はそれに、より安堵するのだ。
本能的に奪い取りたい望みと、崩れない彼を望む気持ちとは、甘く相反する。
幽助が最初から特殊なのか、蔵馬や、他の異質なものが彼を変えたのかはもう判らない。
全ての矛盾の象徴のように蔵馬の鼓動は、幽助のてのひらの下であたたかい。
まさに温室の内側での日没だ。
────後はひっそりと、桜の咲かない夜がやって来る。
了