お気楽探偵さんたち。
底が抜けたような青空だった。
天というものがさすがに、「天の神様」不在の場所だということは、幽助にとってあたり前のことだったけれど。しかし足許から地平線がくるりと一回転して、青い水たまりの底に落ちて行きそうに、神様にも手が届きそうに深い夏空だった。
真っ青な真昼をとうに越してもう七時近いのに、まだ空は完全に暮れずに、西の空には紅い薄明かりが燃え残っていた。
幽助は、隣街の花屋に向かって歩いていた。
今から仕事だ。その前に隣街に住む、こなれた狐をむかえに行く所である。
探偵業復活かなどとも云われたけれど、結局彼の今の職業は、ラーメン屋兼、便利屋兼、遊び人である。
今回は、温子の知り合いのやっている奥多摩の民宿に幽霊が出るというので、内心、またか、と思いながら出かけて行くところである。
あんまり蔵馬をこき使うのも申し訳ないし、しばらく桑原ともゆっくり会っていないしということで、今回は実のところ桑原を誘ってみたのだが、桑原は夏期講習の真っさかりで遊んでもらえなかった。
そこで、今はサラリーマンをやっている狐におそるおそる誘いをかけた。便利屋という意味ではこれ以上便利屋になりようのない、器用で面倒見のいい狐氏は苦笑して、
「オレ、またワトソン君ですか」
と云ったが、とりあえず不満でもないらしく、週末、奥多摩に一緒に行く事を承知した。
奥多摩はそれほど遠い場所ではない割には、行くのに時間がかかる。どうせそんなにたいした事件ではないだろうから、一人で行くのも退屈だったのだ。
面倒見のいい南野秀一こと妖狐蔵馬とは、もう四年の付き合いになる。四年もたてばいい加減お互いの性格にもなじんで、一緒にいて一番楽な人間の内の一人になった。
それで何故花屋なのかというと、蔵馬は毎週末、花屋でバイトしているのである。
(「どうして花屋なんだ?」)
蔵馬が義理のおやじさんの会社で経営の方を楽しそうに触っていることを知っていた幽助は目を丸くした。
(「学生時代、近所のよしみで何回か手伝ったことがあるんですけど、花の扱いが巧いって、奥さんに気にいられちゃって」)
蔵馬は腕組みして、考え込むように眉間にしわを寄せた。
(「誰かさんたちに散々こき使われたせいで、週末二日と云えど、身体をゆっくり空けておけない体質になっちゃったんですよね、これが」)
幽助は、蔵馬がまだ学生だった頃からしきりに引っぱり出していた記憶のある張本人であるだけに、さすがに言葉に詰まった。
そんな訳で、蔵馬は毎週、花屋のお兄さん(ちょっとお姉さんに見えている可能性はあるが)を兼ねているのである。そりゃもう、花の扱いは当然上手いだろう。蔵馬が水切りをすると、どうやら花の持ちが全然違うらしいのである。下手すると一週間、十日も違うらしい。
蔵馬目当ての女性客も(もしかしたら男性客も)増えて、どうやらその花屋では、彼がサラリーマンでもあることを知っていて恐縮しながらも、『南野君』のバイトを諦める気は全くないようだった。
幽助に比べればたぶん負けるかもしれないにしろ、普通の人間に比べたら底なしにタフな蔵馬は、別段問題なくこなしている。義理の親父さんは、彼が体を壊さないかと心配しているという話だったが、反対に元南野の御母堂は、何だかよく分からないけど息子は大丈夫、と思っているようで、彼女から特別なコメントはないらしい。
ちなみに再婚した親父さんの連れ子の弟クンがやっぱり秀一君という名前だということで、名字が重なってしまうため、蔵馬はそのまま南野秀一名を通している。(トガシさんうまい……)
幽助は、近くの喫茶店で待っているようにと云って地図をもらったのだが、喫茶店で花屋の行き方を聞いて、直接花屋に行こうとしている所である。
ちょっと蔵馬の仕事ぶりを見てみたくなったのだ。
花屋が閉まるのは七時半ということで、七時に上がらせてもらう約束をしたと云っていたから、まだ二十分以上残していれば、とっつきのいい蔵馬は絶対ぎりぎりまで働くつもりだろう。
まだ店の中で何やかやしているはずだ。
幽助は目印のスーパーの前を通り過ぎ、踏切の音が聞こえる方へ曲がった。
花屋は踏切のすぐ側で、探すまでもなく見つかった。
(いたいた)
店頭でかがんでいる髪の長い、背の高いのを見つけて、幽助はちょっと笑った。
蔵馬は、まつげの感じとか、女みたいに甘い綺麗な顔をしているから、一見してはそういう印象はないが、実はかなり背が高いのである。
手足が長くて特別に骨も細くない。あんまり肉がつかない体質だからほっそりして見えるけれど、確実に十五、六の頃よりしっかりした身体になっている。
幽助の身長はというと、十七の半ば位で、ぴたっと伸びなくなってしまった。
これは煙草のせいか酒のせいか、はたまた魔族として覚醒してしまったためかは判らない。だが、それでも中学生になったばかりの時、女の子と比べても小さかった頃に比べれば、百七十も越えたし、胸幅も肩幅も安定して、細目にしろ女の子には見えなくなった(と思う)。
蔵馬と、自分たちの髪が伸びるということについて話をしたことがある。とにかく十七、八くらいから二人とも老ける……というより、成長するのが異様に遅くなって、もしかして人間の身体の成長はここで止まってしまうんではないか、と二人とも思っていたのである。
しかし、スピードはかなり遅くなっているが、骨格も少しずつ変わり、髪も伸びて、明らかに自分たちの身体が新陳代謝していることが分かった。
(「飛影なんて、あれはどうなんだ? 全然見た目変わんねーけど」)
幽助が云うと、蔵馬は首をかしげた。
(「さあ。……たぶん、半分人間の俺たちと飛影はまた少し違うんじゃないかな。飛影は、妖怪の血で云えば、まさにサラブレッドだし。血がすごく濃いし、妖力も幽助とはまた違う意味で、純粋で強いでしょう」)
そういうことが肉体の成長に影響を及ぼさないとはいえない、と蔵馬は云った。
一年か二年くらい前に、女に間違えられて案外本気でつむじを曲げていた美貌のジジイ(笑)の蔵馬だが、さすがにここしばらくで、女顔だが女には見られなくなっているのでは、と幽助は思っている。
何しろ幾ら細くても身長が百八十はあるのだ。
女性だってスポーツ選手なら、そのくらいの身長のひともいるだろうけれど、色が白くて髪が長い蔵馬は、決してスポーツ選手タイプではなくて、その外見のせいでかえって女性には見えなかった。
それはさておき、幽助は声をかけずにこっそり近寄っていった。加工アルミの長缶にさされたピンクの百合の手入れをしていた蔵馬は、顔を上げずに不意にため息をついた。
「喫茶店で待ってろって云ったのに」
「分かってた?」
「キミのその妖気で分からないはずないでしょ。ダイエーの角曲がったあたりで、もうとっくに分かってましたよ」
多少妖気は殺しているつもりだが、この狐に通用するはずもないか。
「花屋サンっていうのも面白そうだと思って」
「冷やかしに来たんですね」
髪を後ろでカラーゴムでくくった蔵馬は、黒いエプロンをつけたまま立ち上がった。
「正直に云や、そうだな」
幽助はにやにやした。蔵馬は濡れた手で前髪をかき上げた。
「あと少しで終わるから、じゃあ待ってて下さい」
店の中には誰もいないようだった。店主は出ているか配達に行ったかそんな所らしい。
「お前、花屋で留守番もしてるの?」
「留守番もするし、花束も作るし、仕入れも行きますよ」
「仕入れ」
「そう。オレ、見た目じゃなくてイキのいいのが分かるんですよ。要するにクレームつけにね」
蔵馬は一瞬、人の悪い笑い方をした。
この享楽的な狐は、花屋のバイト一つにも、ささやかな喜びを見つけて伸び伸び働いているらしい。
実際、蔵馬はやたら色々なことに詳しいのだが、彼が興味を持たないことはないと云ってもよかった。表に出る態度が醒めた風に見えるので判りにくいかもしれないが、蔵馬は自分の興味を持ったことに対して精力的に勉強する。
反対に、興味を持つ対象が極端に偏っている幽助から見ると、化け物じみた興味対象の広さだった。
「南野君」
不意に女の子の声がして、蔵馬は顔を上げた。
「あ。いらっしゃい」
どうやらOLらしい女が二、三人、店先を覗き込んでいる。
どうも、雰囲気から云って蔵馬の元同級生か何からしかった。土日、蔵馬がこの店でバイトをしているのも見つけて、覗きに来ているらしかった。
「やっぱりまだバイトしてたんだ、麻美が嘘だって云うのよ、働きながらバイトなんか絶対出来ないって。だから一緒に来たんだけど」
「結構楽しいからね」
蔵馬は愛想よく笑った。幽助はわくわくした気分でその蔵馬の顔を見守った。蔵馬をからかう種の一つ二つも欲しかったのと、彼は昔から女と話す蔵馬を見るのが好きだった。さすがに蔵馬が人間らしく見えて面白かったからだ。
幽助の蔵馬への感情は四年前とほとんど変わっていなかった。だからなじんだ今もこんな風にして、強い好奇心が頭をもたげる瞬間がある。
「今日はあたしたち、ちゃんとお客だから」
一人の子が、蔵馬の足許の百合を見て、首をひねった。
「それ幾らくらい?」
「これは高いよ。一本千八百円。……どうしたの、百合が欲しいの?」
「あ、じゃなくて。宮田先生覚えてる?」
「覚えてるけど」
「宮田先生、結婚後十年目にして子供出来たんだって。それで、有志で遊びに行きがてら、お祝いのお花作って行こうってことになって」
「それで作るんだったら南野君とこがいいよねって」
「ああ、宮田先生のお祝いなのか」
担任か何か、とにかく好かれていた女教師らしい。蔵馬は店のガラスケースを覗き込んだ。
「なら、水切りが大変じゃなくて、豪華な奴がいいよね。……百合はやめた方がいいよ、色付きのでも縁起をかつぐ人もいるから」
そう云いながら、鮮やかなピンクの蕾をつけた茎の長い花を数本より出した。
「グラジオラスだけど、これなんかいいんじゃないかな。持ちがいいし。一本八百円。これか、こっちのハナカンザシか」
ピンクの小さな花をびっしりとつけた花を指さす。
「ええと、じゃあそっちの方で、予算五千円位で作って下さい」
思わず、花屋さんと話している気分になったらしい。グラジオラスを指さす女の子の声が少し改まった。
「じゃあ、ラッピングはおまけするよ」
蔵馬はそう云って、手際よくセロハンを切り始めた。
「あれ、お客さん待ってるんじゃないの?」
一人が幽助の方を向いて云った。
「ああ、それは友達。待たせてるだけだから平気」
後ろを向いたままの蔵馬が答えた。
「え、ほんと?」
女の子たちが、明らかに年下だと分かる幽助を意外そうに眺め、その視線をぶしつけだと思ったのか、きまり悪そうに会釈した。
(……それ?)
幽助はそう思ったが、仕方なく笑って少し頭を下げ返した。彼ももう十八で、目が合った人間を全部威嚇していた中学生ではなかった。最近では少し世界に対しての敵愾心が抜け過ぎたのではないかと思うくらいである。
歳にしては色々な経験をし過ぎてしまったから、周りの連中よりも早く抜けてしまったのかも知れない。桑原もそうだ。今年受験の桑原も相変わらずお調子者だが、すっかり大人になってしまって、気のいい、しかし重厚な男になってしまった。
その変化は、たぶん身体の中に非現実を飼っている幽助や蔵馬より大きいものだろう。
桑原は人間で、限られた数十年の人生を生きるしかないのだ。幽助より早く大人になるのは当たり前だった。
幽助も蔵馬も、魔界の昏い空の下で永遠を見てしまった。
晴れ空のわけのわからない広さに不安な永遠を見るのは人間の感覚だ。
「ちょっとごめんなさい」
蔵馬が店の奥に引っ込んで花を包んでいるのを眺めていた幽助に声をかけて、中年の女性が店に入って来た。
「ああ、秀一君、ぎりぎりまでごめんね」
「いえ、急ぎじゃありませんから」
蔵馬にそう声をかけた所を見ると、この店の店主だろう。
オレをここに待たせたままで云うか? そう思ったが、特別腹はたたなかった。彼等は何回も一緒に修羅場をくぐって、もう完全に馴れ合ってしまったのだ。
「それ作ったら上がってもらっていいわよ、うちの人ももうすぐ帰ってくるし」
「すみません」
奥で小声で話しているのが、幽助の耳にはよく聞こえてくる。女の子たちも、最初は蔵馬の話をしていたが、その内今から会いに行く宮田先生、だの同級生だのの話になった。
(そういやタケセンどうしてんだろな)
幽助はぼんやりとそう考えて、久しぶりに竹本のことなどを考えた反動で猛烈に恥ずかしくなった。竹本のことを考えると、不覚にもなつかしくて胸が痛くなってしまうこともあるくらいで、何だかたとえば螢子のことを考えているのと同じで、甘いような痛いような変な感じなのである。
「ハイ、四千円頂きます」
蔵馬が女の子たちに、そう云って花を手渡した。
「え、でもこれ十本入ってるよ。それに他の枝も」
手渡された子が、驚いたように花束の中身を数えて顔を上げた。
「残りの五本とグリーンはオレから宮田先生にね」
蔵馬は云いながらエプロンをはずした。
「おめでとうございますって伝えといて」
「じゃあそう云っておくね、ありがとう南野君」
……こりゃもてるだろうなあ。幽助はまたニヤニヤした。女の子たちがくちぐちに礼を云って賑やかに去ってゆくと、蔵馬は一回奥に入って荷物を持って裏口からすぐに出て来た。
「じゃあお先に。明日休んじゃってすみません」
「ああ、いいのよ。元々無理して来てくれてるんだし。羽伸ばして来なさいね」
声をかけると、向こうで店主がもうぼちぼち店の片づけを始めながら肩越しに振り返った。
「結構待たせちゃったね。ごめん、行きましょうか」
「ソレは待たせても平気って云ってたくせに。お前ほんと外面いいよな」
「身についてますかね」
特に否定もせず、蔵馬は笑って歩き出した。
数メートル歩いて、スーパーの方に曲がる手前の小さな信用金庫の前の道で、蔵馬は何かに引っかかったように足を止めた。足元を見ると、まだ若い、しっぽの長い茶トラが蔵馬の足許にまつわりついていて、蔵馬が見下ろすと甘えたようにニャアと泣いた。
「あれ、ひまわり」
蔵馬は、片手でその猫をすくい上げた。
「何だ、こいつどこの猫?」
「花屋の子」
蔵馬は茶トラの顎の下を指でくすぐった。猫は目を細めて顎をあげた。顎の下には白い柔毛が続いている。猫は喉を鳴らして蔵馬の手に頭をすりつけた。
「なつかれてんな」
「うん、そうですね」
蔵馬は微妙に嬉しそうな顔になって猫の耳の後ろを撫でてやった。
「どうしてひまわり?」
「さあ。毛並みがひまわりの種に色が似てるからじゃないですか?」
ひまわりは蔵馬の肩口に這い上って、耳元に鼻づらをつっこんだ。蔵馬がそれに笑う。
「もしかしてお前ネコ好きなのか?」
意外なことを聞かれたように蔵馬は目をみはった。
「ああ、猫? 好きですよ」
そう云ってからふと肩をすくめた。
「オレ犬科なのにね」
「犬科って……」
一瞬意味が判らず、幽助は聞き返した。
「もしかして狐がか?」
「そうそう」
「魔界の妖狐に犬科とかありかよ」
「まあ、猫の方が妖怪には近いよね」
そっと猫を降ろしてやる。
猫は不満そうに蔵馬のくるぶしのあたりに身体をすりつけていたが、蔵馬が軽く背中を叩いてやると、一度振り返って、ようやく銀行の裏手の方から店の方角に消えて行った。
「可愛いでしょう」
「可愛いけど……」
幽助は苦笑いした。
「猫はいいけど、お前彼女作んねーの?」
「……」
蔵馬は不意に奇妙にまじめな顔になった。
「……そこら辺はまだ分からないな」
しばらくしてゆっくりとそう云った。
「前は、オレと関わるとマズいからって思ってたけど。……今は単にオレの方が怖がってるのかも知れないって、思うね。……」
「怖い?」
「失くすのも怖いしね」
半ば笑ったようなかたちの唇で蔵馬はそっとつぶやいた。蔵馬は案外、外見より執着する気質が強い所があるから、これ以上執着の対象を増やすのが怖いという意味なのかも知れない。
「あの女の子たちとか、可愛いって思わねえの?」
「可愛いっていうより……強くて綺麗だと思うよ」
蔵馬に取っては、強くて綺麗な女たちも、人間に爪を出さない柔らかい猫も、ポジティブなエネルギーに変わり得るもの全て、彼が人間にこだわる理由になっているのだろう。
その後ほんのしばらく黙っていた蔵馬は、幽助を振り返ってニヤッと笑った。
「幽助こそ、螢子さんとまだプラトニックなんですか?」
「……うるせーな」
幽助は嫌な顔をした。螢子は、幽助にとってはまさしく弱点そのものである。特に、蔵馬が螢子を気にいっていて、螢子の話題をよく出すのには、もうどうしていいのか分からないような感じがあった。
「女神様にはまだ手が出せないのかな?」
そうつけ加えられるに及んでは、幽助はさすがに赤くなった。一年以上前に口に出したことを種に、まだぼたんにも桑原にも、そしてもちろん蔵馬にもしつこくからかわれ続けているのである。
「オレはてっきり、幽助はすごく手が早いのかと思ってたけど」
「……」
これには少し別のニュアンスがある。幽助はため息をついた。何しろ蔵馬にはそれを云う権利がある。幽助はかれこれ四年前、逢って二、三回目でしかなかった蔵馬が、寝込んでいる彼の見舞いに来た所に、いきなり手を出して今に至るのである。
その時、二人の間に「愛」などという美しいものも「恋」などという情熱的なものも存在しなかったと断言してもいい。
二人の間に、お互いに対する無意識の強烈な興味があったのは本当だが、それもいきなり手を出す云い訳になるようなものではなかった。蔵馬が幽助を手が早いと云うのは当然の話だった。
幽助はふと、恐ろしいことを思いついて、隣の蔵馬の顔を眺めた。
「?」
蔵馬は邪気のない顔で見返してくる。
「お前が彼女作んねえのって、オレとは関係ないよな?」
幽助は、あまりにもまさか、な思いつきで、まさしくその瞬間もまさか、と思いながら口にしたのだが、隣に立つ蔵馬があまりに露骨に驚いた顔になったのを見て、ほっとするのを通り越してわびしくなってしまった。
蔵馬は鳩が豆鉄砲をくらったような顔から、次に明らかに、うぬぼれなさんな、という顔になった。そしてもう一度、ニヤリ、とラインの綺麗な唇の片端を上げた。
「……だったらどうする?」
そうでないことが分かっている幽助は上空を仰いでまばたきした。
「ひとつ貸しにしといてくれ」
蔵馬は笑った。
「嘘ですよ、嘘」
そして案外もの優しい声でつけ加えた。
「オレは幽助に借りがたくさんあるから、お釣りが来るけどね」
「借り?」
「まあね」
彼は手に持ったバッグを揺り上げた。幽助はふと、それがいつか房総の方に二人で行った時蔵馬が持っていたのと同じものだということに気付いた。あれからもう三年たった。時間がたつのはあっという間だ。
「幽助、そういえば、前はそういうこと話すの駄目だったよね」
「そういうこと?」
「彼女とか、そういう話」
「お前もだろ」
返すと、蔵馬は首をかしげた。
「そうかなあ。……オレは幽助が行動と中身が合わないと思ってたくらいで、自分は特に」
「じゃあお前の場合、興味なかっただけか」
幽助は納得して頷いた。
実際、蔵馬はそういう話に特に興味を示すでもなく、反対に潔癖でもなかった。思い起こせば触れて来た幽助に対してもそれほどは驚かず、たださらさらと自然だった。
だが、蔵馬と女の話をするのは妙にくすぐったい。くすぐったいが不思議に気持ちがいい。
幽助にとって蔵馬は、寝ている相手なのに形が戦友の位置を動かないからだということにも薄々は思い当たっている。
近頃は蔵馬と寝る回数もずいぶん少なくなった。
一番蔵馬とよく寝たのは、魔界の穴の事件の前後だった。特に前、に関しては、色々と蔵馬にトラブルがあって、それに幽助が巻き込まれる形になったのだが、その件が片づくまでの間が一番頻繁だった。
その時は結構マズい状況だったにもかかわらず、日を置かなかったことさえあった。
ちなみに今さっき、蔵馬が借り、というような云い方をしたのは、たぶんその件だろう。幽助の中では全くそれは問題になっていなかったが、初対面に近い時から幽助には命を助けられる形になることの多かった蔵馬は、義理堅くそのことを頭に置いているのかも知れない。
夜の話に戻るのだが、その頃幽助は十代前半だったし、状態としてはもうトラブル続きで目茶苦茶だった。
だから何というか、こう。もしかしたら、二人ともブッちぎれていて抑えがきかなかった……としか考えようがなかった。
その証拠に、以来、あれほどしばしば、だったことはない。
二人とも何かせっぱ詰まらないとそっちの方面に頭が回りにくくなって来ているのかもしれない。これはいよいよ抜けてしまったかな、などと思うところでもある。もしくは、二人の中の好戦的な血が、トラブルに接すると興奮して、ことの運びになるのかも知れない。しかし今の時点で抜けてしまったのでは、千年以上実質生きて来た蔵馬はともかく、幽助の方ではちょっとマズい気がするのだが。
何にせよ、もう完全に妖化した、そして完全に人間の顔で暮らす蔵馬。
幽助もそうだ。
最近では、もうその事は彼等の中で当たり前になっている。疑問を感じることも、追いつめられることもない。
自分自身の性質が幽助の中でかすかな不安材料だったことが全くなかった訳ではなかったが、しかしそれに長いこと引っかかっていることは出来なかった。
何と云っても、どんなことを考えていても、どんなふうに悩んでいても、暮らして行けないと思いつめても、結局毎日は始まって暮れてしまう。
悩みごとに時間を費やすのは、彼等の主義ではなかった。
台風が近づいているとのことで、空は相変わらず晴れていたけれど、夕映えを残した空には、赤く染まったレンズ雲が見られ始めた。
空を高く横切る雲はじっと動かないようだったが、しばらくしてもう一度見上げると、柔らかくさらされたように薄れ始めた。
上空には風があるのだ。
「幽霊っていうかですね、問題は人魂なんだよね」
三十代後半くらいの若いご主人は、閉口したようにそう云った。彼らが訪ねて行った『ハウスオブ グリーン』は、温子は民宿なんて云っていたが完全に若い人対象のペンションだった。
建物はひのき造りでまだ新しい。奥多摩あたりではこういうタイプのペンションはほとんどないため、思ったより人気らしかった。
奥多摩には、山登りをする人や、お年寄り、家族連れなどは足を運ぶのだが、若い人はあんまり来ない。その中にこういうものをつくるのは冒険だったに違いない。それが思ったよりうまく行っていて胸を撫で下ろした矢先にこの幽霊騒ぎだったのだ。
オーナーの小杉さん夫婦は気分的にかなり参っているようだった。
夜中も十二時近くに奥多摩について、車で迎えに来てもらった後、ペンションでようやく夕食にありついた二人は顔を見合わせた。
もし本物だったら専門外なのである。
「人魂はもう何人見たか判らないくらいなんだけどね。他にも、買い物に行ったうちの従業員がバイクに乗ってたら、後ろから顔引っかかれたとか、車のバックミラーに青い顔が映ってるのを見たとか、お客さんも人魂を見たって大騒ぎで」
「場所は? 全部同じ場所なんですか?」
「いや、あちこち」
小杉はため息をついた。
蔵馬は難しい顔で眉を寄せた。
「そちらは何か見ましたか?」
「……」
小杉は嫌な顔をしてもう一度深いため息をついた。
「バックミラーに顔が映ってるのを見たのは私なんですよ」
「顔か。……」
それは非常に嫌な話だ。
と幽助は本気で考えた。妖怪と霊魂という奴は全然違う。妖怪がちょっかいを出しているなら彼らが何とか出来る可能性は高いが、浮かばれていない霊とかだったら、もうお手上げである。
幽助が一発死んで霊体と身体がバラバラだった時ならいざ知らず、今ではもう幽助も、そしてもちろん蔵馬もれっきとした生けるものであって、『彼ら』との間にははっきりとした線が引かれているからだ。
「君たち、ほんとに大丈夫?」
小杉はどこか不安そうな顔をした。それはそうだろう。この二人では見てくれはまったくもって女子供(笑)だ。とても、広い意味で荒仕事に向いているとは思えないに違いなかった。
「たぶん平気です。もし、この辺の地図があったら貸して下さい」
「ああ、今持って来ます」
一般の地図と、特に人魂の目撃者が多かったという川岸までの手書きの地図を渡して小杉が自分の仕事に戻っていった後、二人は食べる手を止めて地図に見入った。
「妖怪じゃなかったらどうする?」
「……まだ何とも云えないですよね。とにかく後で一回りして来ましょう。でも、霊とか、そういう話になったら、面倒なことになるな」
「オレらじゃ何にも出来ねえだろ。コエンマでも連れてくりゃ一発か」
「もしかして彼だとお偉方過ぎるんじゃないですか?」
「あいつも坊ちゃんだから、怨霊とか縁がなさそうだよな」
実際、コエンマは血筋が良過ぎてまともな仕事と書類整理しかしてこなかったから、下等霊とか地縛霊とかその類のあんまりたちの良くないのと、現場で接する機会は少なかったはずだ。
あのハンサムな霊界の王子様に対して、実は幽助と蔵馬はかなりよく似た見方をしている。
一番近いところが、抜けてるが可愛い奴、という感じである。
あの、綺麗な顔をして一見クールぶっているくせに、その実は情けなくて暑苦しい所が可愛いのである。
まあそれはともかくとして、とりあえず、何が何だか分からないうちに話をしても仕方ないので、食事を片づけてから、二人は外に出た。
ドアを押して外に出た瞬間、庭の方で不意に白い光がひらめいた。
「……何だ、おどかすんじゃねーよ」
幽助は笑った。外で、宿泊客らしい親子連れが花火に火をつけたのだ。
「こんな時間に花火ですか?」
蔵馬が近づくと父親の方が苦笑した。子供は小学校前らしく、本人もかなり若い。
「はあ、まあ。子供たちもどうも眠れないみたいなんで」
「違うんですよ。この人、幽霊見たいって云って出て来たんですよ」
奥さんが笑いながら口をはさんだ。
いつにない夜更かしで興奮している子供たちは、母親にしきりに花火を下に向けて、と云われながら、花火を手に走り回っている。
「そんなに幽霊の話、有名なんだ?」
幽助は思わず小杉に同情した。数年前にはぴんと来なかったかも知れないが、彼のやっている屋台も、繁華街の真ん中に据えたくせに、妖怪達の出入りが激しくなったおかげで、数回幽霊騒ぎがあって客足がとだえたことがある。
だからその手の噂がどんなに商売に響くか、今の彼はよく知っている。彼のその言葉に、父親が照れ笑いした。
「友達が人魂見たって云ってたもんで」
「あたし嫌だって云ったのに」
奥さんの口から、思わず、という感じで本音が飛び出した。もっともその話を気に病んでいるのは彼女一人のようで、子供たちは相変わらずはしゃいでいる。
「一つ上げようか」
上の子らしい男の子が幽助に花火を差し出した。
「お、やっていいのか?」
男の子が差し出した花火を幽助が受け取ったのを見て、三つくらいの女の子が、蔵馬にも花火を差し出した。たどたどしい口調で幽助の口真似をする。
「これ、やってもいいよ」
「ありがとう。……これは何の花火かな?」
とか何とか云って、蔵馬は花火を受け取った後、その女の子の方と会話し始めた。三つくらいの子というのは、結構会話の脈絡も今イチちゃんとしていなくて話すのが難しいものだが、保育園の保父さんよろしく、うまく調子を合わせて何とかまともな会話にしている。
(こなれた奴。……)
幽助もかなり子供のあつかいはうまい方だが、蔵馬が子供と話す姿というのは意外だった。真夜中に出て来た若い綺麗な兄ちゃん(失礼)が自分の子供の相手をしている様子を見て、母親の方が苦笑しながらライターを差し出した。
「風が強くなって来て蝋燭つかないんで、よろしかったらライターで」
花火などしたのは何年ぶりだろう。
小学校低学年の頃はかっぱらって来た花火で遊んだ覚えがあるが、それ以来だから、もう十年くらい花火など触ったこともなかった。
赤と白の縞もようの紙をよった点火口にライターで火をつけると、白い炎がほとばしった。
どこかなつかしい火薬の匂いと、名前通り花片のようなかたちの火花が散る様子を眺めながら幽助の思考はふと沈みかけた。
目を上げると、蔵馬が手に持った花火から、金色の火花があふれ出していた。蔵馬が子供の顔を見て笑う。
「綺麗だね」
子供がはにかんで笑い返す。
この限りなく猫体質な狐も、人間の身体の中に閉じ込められた二十年の間に、ずいぶん性格が丸くなって、人間の匂いが強くなった。
人間でないものだから、人間の形をこれだけ綺麗に模して来られたのかも知れない。
例えば、母親を愛すること。
例えば、未知のものに興味を示す性質。
例えば、己より小さいものを愛しいと思う気持ち、全てを含めてこれ以上ない形で、蔵馬は人間としての自分を形成して来た。南野秀一が蔵馬の介入なしに生まれた時、こんな風に育ったとは思えない。人間というものに対してしきりに試行錯誤して、理想に近い形を分析して、自分自身の情緒さえそこに近づけた蔵馬だったからこそ、こんな風に無防備な子供を傍らに笑っていられるのだ。
幽助の中では、相変わらず蔵馬に対しての自分の感情も、蔵馬についての彼の考えも形をはっきりと取らない。いつもそれは無意識に近い光の速度の脈動だ。ただ、膝をかがめた蔵馬を見ているその気持ちがかすかに痛い左胸の刺激になった。
幽助の鼓動しない左胸と、蔵馬の左胸に残った傷とが呼び合ったように蔵馬がふと顔を上げた。花火はあっという間に燃えつきて、彼らは少し笑って立ち上がった。
「ところで、人魂は見えました?」
蔵馬が花火の礼を云った後、男の顔を振り返った。
「それが、全然」
男は笑った。
「俺は見ない体質なのかも知れないなあ。……ああでも一回だけ、部屋の中から明け方にそれっぽいのを見たけど、判らないね」
「明け方?」
「そうそう。川の方にね。光ってるものが見えたような気がするんだけど、なにしろ遠かったし見間違いかも知れない。……もしかして君たちも幽霊を見に来たくち?」
「そうなんですよ、ちょっと面白いから」
蔵馬は話を合わせた。
「お友達が見たんでしたっけ?」
「うん、友達はね。人魂が浮いてるのを割とはっきり見たらしいよ」
「何色だったんでしょう」
蔵馬は不意にそんなことを聞いた。
「え?」
彼は戸惑ったように考え込んだ。
「緑色だったって云ってなかったかな。な?」
奥さんの方を振り返る。彼女は気味悪そうに頷いた。
「そういえばうすい緑色だったって云ってたね」
「緑。……」
蔵馬は不思議そうにつぶやいた。
「じゃあ、これから川の方にでも行ってきます」
辞去の挨拶をして、二人は連れ立って道を下り始めた。
「緑って何か変なのか?」
「もし燐だったら、炎の色は青白いはずなんだけど、緑色っていうのは何かな、と。……」
「じゃあどうして色を聞いたんだ?」
「いえ、この距離で窓から見えたっていうのも自然の鬼火だったら不自然だし、違うものが燃えてるっていうこともあるでしょう」
「違うものって」
「うーん、例えば妖怪の目、とか。……」
「ははあ」
「でも、どうかな。案外本当に幽霊が出るのかも知れないし。そうだとしたら、幽霊の色の法則なんて判らないから、結局お手上げです」
「幽霊ってもなあ。あれも案外はっきりしたもんなんだけどな」
「幽助は経験者だからね。しかも二回」
二回、という言葉にはかすかにトゲがあったかも知れない。幽助は二度目に死んだ時、蔵馬の目の前で死んで、胸のつぶれるような思いをさせているからである。
正体が分からないまま話しているから、どうしても下らない会話になる。
たあいない、気の入っていない言葉を交わしながら、蔵馬と幽助は川岸に下りていった。大体ペンションからここまでの距離はざっと七、八分。
川岸に下りてゆくと、気温がぐっと下がったように思えた。水際だから涼しいのだろう。
「何か感じるか、蔵馬」
自分が半分やる気のない声になっていることに気付いたが、幽助は一応そう尋ねて見た。
「いや、さっぱりですねえ」
蔵馬の声も似たようなものである。そのくらい、その夜の川は清涼で涼しく、いかにも何もいそうにもなかったのだ。
「話が広まると、何かしら感じたような気分になりますから、そんな所じゃないでしょうか」
一週間の疲れが急に出たように、蔵馬は云った。
「お前、何か期待してただろ。面白いものがあるかもって」
「バレましたか」
ちらっと笑って河原に腰かける。
河原の石は白く乾いている。この夏は降雨量が少なくて、こちらの源流の方まで、大分水が少なかった。
「しばらく様子を見て、少し山側を回って、とりあえず今日は帰りますか」
「もうちょっと出そうならともかくな」
川はかすかな水音をたてて流れている。やるぞやるぞ、と後ろで見ていた蔵馬が思っていると、幽助が案の定靴を脱いで川に入って行った。
少し向こうで、ヒュウッと口笛を吹いて、冷たそうに深い場所に入ってゆく音が聞こえる。蔵馬は、妖怪らしからぬ穏やかな気分で幽助の後ろ姿を見守った。
最近、妙にさかしげに物分かりの良さそうな顔をするようになってしまったので、あのダイヤのかけらみたいなお子様ランチも、ついに大人になってしまったか、と、幽助より優に千歳以上年をくった古い古い狐は思っていたのだけれども、あの後ろ姿はやはりどう見ても子供である。
彼は幽助とはどちらから見ても深く関わりあって、結びついてしまった。けれどそれは男同士の付き合いでも、幽助の思っているように戦友というのでもなく、むしろ母親の感情に似通ったものでもあった。
ハハオヤ。
蔵馬はおかしくなって、少し前まではよく彼の肩に額をつける癖のあった幽助、その幽助の、緑がかった美しい光沢のある、黒い髪のことを思い浮かべた。
幽助と寝て自分の方が女に近づくのは全然構わないのだが────その心理の変化は、むしろ蔵馬にとっては面白かった────それが母親になるとは。
蔵馬はふと、自分がどうかして棲みついた人間の身体はたまたま男のものだったけれど、もし自分が女の身体にあったらどんなふうだっただろうと思った。
自分が妖狐蔵馬の過去を持ち、いずれ妖化する妖怪であることに変わりはないだろう。しかしおそらく多少は心理に影響があるはずだ。
女の身体を持って霊界探偵の幽助と出合っていたら、幽助をどんなふうに見ただろうか。
(……案外、父親になってたりしてね)
あり得る。
幽助はしかし、女性ならあんなに簡単に自分に手を出して来なかっただろう。何回か繰り返して多少は行為の性質も変ってきたかも知れないが、三年前、自分に手を出した幽助のそれは、子犬か子猫が甘咬みしてくるのと、意味としてはどれほども変わらなかったように思う。
それにしちゃ馴れていたが。あのお子様は。誰に教えて貰ったのだか。
お子様は向こうまで川をさかのぼって、一人で涼んでいる。
蔵馬はようやく立ち上がった。ここで一緒に川に入ろうという気力はさすがにない。南野秀一の身体が中身について行ってしまっているようだ。
「……蔵馬……!」
向こうから幽助の、かすかに緊張した声が聞こえてきた。
(?)
伸び上がってみる。蔵馬はまばたきした。一瞬、それを螢かと思ったのだ。
それは、人魂という言葉から連想するようなこぶし程の大きさのものではなく、人差し指の先に灯をともしたくらいの小さな小さな明かりだった。
うす翠色の淡く透き通った小さな光が、一つ、ふたつと、幽助の周りを飛び始めた。飛ぶ様子も、それほど緊迫したものではなく、ほんの弱い風に吹かれたように柔らかくふわふわと漂っている感じである。
それは漂いながら数を増した。
一つずつ、幽助の肩や、腕や、髪の先に灯をともすように、蝶が花にでも止まるように、そっとそこここに光った。
「何だ……? これ」
乱暴に手で払ったりしたら傷つけてしまいそうに儚いその光に囲まれて、幽助は閉口したように蔵馬を見た。
「とっても人魂って感じには見えねーけど」
「そうですね、でも……」
蔵馬は、静かに幽助の肩口に手を伸ばした。
光に一瞬触れて、そっと口づけするような冷たさを指先に感じたかと思うと、光は蔵馬の周りにも集まり始めた。
「……」
鬼火というより、螢火としかいいようのないその光は、あっという間に数十、数百と群れ、彼らの周りを透き通ったひすい色のあかりで満たした。
「おいおい」
幽助がじゃれるように頬に揺れかかってくる光を見て、苦笑した。
「正体見たりっていっても、これじゃあ」
「そうですねえ、枯れ尾花でもないけど。本物とも云いにくいですね」
「報告しようがないよな、これじゃあ」
「螢でした、とでも」
「オフクロにぶっ飛ばされんぜ、オレ」
「それは覚悟しておいた方がいいかも。……」
足首を水につけたまま、彼らは緑色の光をいっぱいにつけてちょっとばかり途方に暮れた。
「こら、離れろ、おまえら」
幽助が言葉に比べて、それでもまだ優しいと云っていいくらいの動作で光を払った。
その手の動きにつれて少しは動くのだが、また元通りふわふわと戻ってくる。
「魂にしてもかけらくらいの大きさですね」
「しかも敵意が全くねーんだからよ」
始末が悪いぜ、とぶつぶつ云いながら幽助は幾度か同じようにしてそれを払ってみた。しかしさしたる効果はない。
彼は諦めたようにため息をつくと、何を思ったか、上空に向けて構えた。
「……何するんですか?」
「暗くて行き方が分かんねーかな、と。……」
半ば自分でも本気にしていないように笑いながら、幽助は暗く晴れた天を見据えて、おもむろに一発打ちこんだ。
頂度幻海が首縊島で戸愚呂と戦って一度逝った時、幽助がこんな風にしたのを知っている。あの時は真昼の晴天だったが、あの時は魔族として覚醒していなかった幽助の薄青く澄みわたった霊気は、塗りつぶしたように青い首縊島の上空の積み雲の中を明らかに貫いた。
今は、霊気から妖気へと性質を変えた彼の力だったが、あの時と同じように、少し空中の色を歪めながら、群れ寄ってくる光と少し似た緑色ににじんで燿きながら、夜空に高く深く走った。
あの時とは段違いに幽助の力は強くなっている。
どこまで届いたか判らない高さで、夜空と地表を光の筋がつないだ。
「一発無駄にしたかな。……」
少し笑うように幽助がつぶやいた。
「そうでもないかもしれませんよ」
蔵馬は、『彼ら』を驚かせないように低くささやいた。
幽助の妖気が走った後を追うように、頂度現れた時と似て、一つ、二つと、ゆっくりと光が浮かび上がった。
「……」
幽助と蔵馬は、全身に碧色の光をまといつけながら黙って立った。
光は、だんだんと速度を速めて、頂度妖気の帯が消えて行った方向に、吸い込まれるように浮かんで行った。
「……なあ」
「何だったんだ、っていう質問なら、オレにも分かりませんよ」
脱力したような気分で蔵馬が応えると、幽助が疲れたように頷いた。
それから五分もすると、光はすっかり上空へ昇り切り、いくつか残っていたものも、幽助が手で払ってやると、うっすらと迷うように、それでも上へ登って行った。
「……」
二人は黙って顔を見合わせていた。
「なんか。すげー疲れちまった。……」
「幽助もですか」
蔵馬は頷いた。実は彼も、何をした訳でもないのが、突然身体から力が抜けるほど疲労していた。危機感を感じるほどではなかったけれど、それなりに強い相手と手加減なしに一戦交えたくらいの疲労は残っている。
「吸われたかもね」
蔵馬は苦笑した。
「俺たちの妖気とそんなに変わらない感じだったから」
「持ってかれたか」
さほど悔しくもなさそうに幽助はあくびをした。
「今晩は帰って寝ようぜ、蔵馬」
「……何のために来たんでしょうね、オレたち」
云外に、巻き込んだ幽助に対して多少嫌味を含ませると、
「螢狩りだろ」
と、云って、幽助は川岸にたどり着き、脱いだ靴を手に持って歩き始めた。
蔵馬は後から追いついて、同じように片手に靴をぶら下げたまま幽助の隣を歩いた。
もう時間は一時をとうに過ぎていた。ペンションの前まで帰ると、さすがにあの親子連れはいなかった。
どろどろにくたびれてペンションに入ると、入口近くのロビーの椅子で、小杉が待っていた。
「幽助君」
立ち上がる。
「何か分かりましたか?」
「これが全然。少なくとも幽霊はいなかったんだけど」
幽助は申し訳程度に申し訳なさそうな顔を作って見せた。
「明日、明るい時にちょっと確かめたいこともあるんで。……続きはまた明日にします」
何となく不審そうな顔をされたのは分かったが、いざとなったら温子に一発張りとばされて、ここの宿代もおさめておけばいいだろう、くらいに考えて幽助は頭を下げて引っ込もうとした。
その時、何かを思い出したように蔵馬が後ろを振り返った。
「ところで、親子連れで来てる方、もうちゃんとお休みですか?」
「親子連れ?」
小杉はますます奇妙な顔になった。
「ご家族で御泊まりの方はいらっしゃいませんが」
「!」
幽助が弾かれたように振り返った。それを蔵馬が小さく片手で制する。
「ああ、そうですか。勘違いしたかな」
「あのう、何か?」
「いえ、ここら辺は家族連れが多いって聞いたもんですから。……お休みなさい」
幽助の背中を押すようにして蔵馬は部屋に入ってしまった。
「おい、それって」
「気がつかなかった? 幽助。花火の跡がなかったの」
「……」
幽助は絶句した。恐ろしかったとか、そういうのとはまた違う。ただ、あれほどはっきりと会話を交わして『幽霊』の話までした相手が────。
「たぶんこのペンション、他にも何かありますよ」
幽助は床に座り込んだ。軽く爪をかんで考え込む。奇妙な原因で疲労したせいだと思うが、クーラーがきき過ぎて恐ろしく寒かった。長袖を持って来ていなかった幽助も、しまいには蔵馬持参の長袖のシャツを着たくらいである。
「なあ、蔵馬。お前、月曜会社休めねえ?」
「うーん。……」
蔵馬は難しい顔をした。
「ちょっとマズいんだけどなあ、事前に云わないと」
「お前の会社、フレックスとかないの?」
「うちは親族会社だからフレックスなんてありませんよ。ついでにフレックスだって事前に取らなきゃいけないものなんですよ」
「それって建前だろ?」
幽助はため息をついた。蔵馬がくたくた、と隣に座ると、ちょっとなつかしいしぐさで蔵馬の肩にこめかみをつけた。
「とにかく、明日考えようぜ。……」
蔵馬は頷いた。
ふといたずら心を起こして幽助の顔を眺める。相変わらずまつげが長い。以前、人のことが云えた義理か、と云われたが、女の子みたいな顔の造作は、そう一年や二年では変わらない。
幽助の顔にかがみ込んで、唇に触れた。幽助はちょっと驚いたように目を開いたが、あまり気にもしないように応えてくる。
「珍しいじゃん、その気になった?」
百年ぶりじゃねェの、と幽助は云って体を起こした。
「百年とは行かなくても。……」
情けない話だが、思わず二人は指を折って数えてしまった。
「八か月ぶり、かな?」
「なんか、若くねえよなあ。……」
幽助の手が伸びて、熱い感触が頬をかすめる。
「どうする?」
聞かれて蔵馬は今日何度目かの苦笑いをして正直に云った。
「ごめん。でもやっぱり眠い。……」
幽助が笑いながら舌打ちした。
「オレも。ホント最近いけねーよな。ヤバいんじゃねーの?」
「生産的とは云えませんねえ。……」
どちらにしろ、男同士じゃ幾ら妖怪でも子供は作れないが。ああでも、産むならたぶん自分が産むハメになるに違いないが、幽助の子供を作るというのはちょっと面白いかもしれない。……
最近とみに、価値判断の基準が面白いかそうでないかに偏りつつある妖狐蔵馬は、とつとつと考えながら、冷えた床に寝転がった。
挙げ句の果て、疲れ切った彼らは、そこでそのまま眠り込んでしまった。
普段の彼らなら絶対に風邪をひかないだろうが、その日の彼らに翌日のさわやかな目覚めが約束されているかどうかは、これは確実ではなかった。