……自分の内側に降りて行くしかないような、深いふかい夜だ……。
ホテルの室内は静まり返っている。二つ向こうの部屋では、死と闘いの緊張から解かれた幽助たちが、幻海への追悼の意味をも込めて、無理にもにぎわっているはずだった。蔵馬は、部屋の窓辺に座って島を見晴らした。
島は所どころに火が焚かれて、山火事が起こったように明るい。安堵と鬱憤に騒がしい。この島に今いる者は、全て、暗黒武術会を見に来た者ばかりだ。今日、危うく全員が戸愚呂の妖力の巻き添えになって死ぬ所だった。
それを、幽助の勝利で命を救われた形になっている。今この島に生き残っている者のほとんどがそうだと云ってもいい。皮肉にも、全員が幽助たちの死を望んで咆哮した者ばかりだ。
灯りをつけない部屋にひっそりと立って、蔵馬はガラスにかすかに映る自分の顔を見た。
南野秀一の顔である。
この顔に、身体に、蔵馬は馴染んでいた。妖狐であった頃の記憶は、このまったく性質の違う身体の中にゆっくりとのみ込まれてしまった。記憶は残っても、皮膚感覚も情緒も半ば人間のものに近かった。トキタダレの力を借りて妖狐に戻った途端、南野秀一としての彼が逆にのみ込まれてしまうのと一緒だ。
蔵馬は視線を伏せた。
そうして自分が闘場の上で妖狐に変わった瞬間の、あの、蒼くゆらめく視界を思い起こした。妖狐として生きていた頃の自分が引きずり出される。意識を支配する。その意識の水底に沈んで行くように自分の意識がある。
普通なら味わおうとしても味わうことの出来ない二重感覚だ。
静かな酩酊感があった。アルコールではほとんど酔うことのない彼の身体に、不思議な高揚をもたらした。
洗い放しの髪の湿り気がふと意識された。うなじや胸許に甘い冷たさがある。
……髪が傷んでいる。……
嘲笑的に耳をくすぐるなめらかな声と、彼の首筋を一瞬ゆるやかに巻きしめた冷たい指の感触もよみがえってくる。暗黒武術会は、彼の中に痛みばかりではない掻き傷を多く残した。その傷もろとも、ゆるく蒼い波がうねってのみ込んで行く。
静かに青く燃える酒のような酩酊を、微かな気配がかき乱した。
幽助だ。
「何でお前、一人でこんなとこにいるんだよ」
そう云いながら、幽助は細く開けたドアからするりとすべりこんで来た。捜しに来たのかもしれない。しかし、急いで連れ立ってゆこうという訳でもなさそうだった。ドアを閉めて部屋に入ってくる。そうしながら額を軽くこすった。傷はもうほとんど目立たなくなっているが、これは、酎と闘った時に額に傷を作った時からついた一時的な癖だ。
幽助はまだ気が張っているらしい。髪を綺麗に撫であげて、新しい服に着替えていたが、目の中にまだ刃物のような光がひそんでいる。
小柄な今日の勝利者は、笑って答えない蔵馬をそれ以上問い詰めようとするでもなく、窓際に立つ彼の隣に並んだ。幽助もやはり、そこかしこに灯りのついた島を眺めた。
「奴ら大騒ぎだな」
「最後の晩だからね」
「……結局春休みいっぱい闘っちまったんだよな」
唇のきわや頬に細かい傷を残した幽助は、苦笑してまた、てのひらで顔をこすった。
「あっという間だったけどな」
そう云って天井に視線を上げた。考え込むようにまばたきした。
「蔵馬」
呼んでちらりと彼を眺める。
「見たぜ、妖狐のお前」
蔵馬は何と答えたものかを測りかねて、黙って幽助を見返した。
それは勿論そうだ。最初に彼が妖狐の姿に戻った時、幽助はその場にいなかった。だが、決勝には全員でのぞんだのだ。鴉と闘った時、数分だったが妖狐の姿に戻った蔵馬を幽助が見ていないはずはない。
しかし、その話をわざわざ振ってくる所を見ると、何か思う所があるのだろう。
「お前ってさ。……だんだん妖化するわけだろ……?」
「そうですね。今でもかなり進んでると思いますけど…………」
「そうすると、もしかして、ずっとあの妖狐の格好のまんまになるのか?」
蔵馬は首を振った。
それは実の所、彼にも判らない所だ。妖化が進むということが具体的にどういう形で表れるのか、彼にも正確には判らない。しかし、あれはトキタダレの果肉から抽出した薬の作用で不自然に引き戻された姿だ。進化ではなく退化だ。
「多分、南野秀一のままだと思う。……あれは今のオレとはまったく違うものなんじゃないかな。中身まで入れ替わるワケだし……」
幽助は意外そうに目を見はった。好奇心が動いたように黒い虹彩が一瞬煌めいた。
「っていうと、あの時、お前の意識はどこに行っちまってるんだ?」
「何て説明すればいいのかな。……」
蔵馬は夜景に視線を据えたままゆっくりと言葉を探した。
「映画でも見てるみたいな…………はっきり見えるのに切り離されてる。……こちら側と向こう側が別の世界みたいに非現実的な感じなんだ。そうだな、凄くリアルな夢を見てる時にも似てる気がしますね……」
それが思いのほか心地よいのだ。しみるように蒼く透きとおった視界の上に、フィルターをかぶせるように、更に妖狐の視点が重なる。
いっそこの瞬間に支配されてもいいと思うような微妙な陶酔があるのだった。
妖狐の身体を持って生きていた頃、彼は夢というものを、自分の身体で知ることがなかった。
眠りはふかく暗く、しかし、己に害意を持つ者の気配を逃さぬように、いつもとぎ澄まされていた。夢というものを視たのは、人間の身体を持った後のことだった。
無論、概念としての夢は知っていた。夢を呼ぶ植物を操って敵を葬ったこともあった。しかし自分で夢を見たことはなかった。
自分の力では食を得られない、人間の乳児の身体に閉じ込められて、永い生を生きて来た妖狐は初めて夢というものを見た。
「オレと妖狐はもう、本当に違うものらしい。……」
彼は再びそう云いついだ。
蔵馬の言葉を幽助は黙って聞いていたが、その内、ほっとしたように笑った。
「それで安心したぜ。あのお前もすげえと思うけど…………でも」
幽助は眉をひそめた。
「ええと……別にあれがいけねえってんじゃないんだけどよ」
困ったように片手で自分の頬の傷を撫でる。
「ああ、つまり……あいつはオレの知り合いじゃねえだろ?」
蔵馬は、その率直な物云いに触発されて思わず笑った。幽助らしい云い方だ。
しかし、それは本当だった。自分が完全に妖狐の姿に変わってしまったら、今度こそ南野秀一にとっては真実の死が訪れる。妖狐である自分は、南野の母から、完全に息子を奪い去ることになるだろう。
「ここ半年くらいさ……いろんな奴と知り合ったけど、あんまりあっという間だろ」
この大会で、幽助は幻海師範を亡くしたのだった。
それを改めて思い出して、蔵馬はわずかに痛ましい思いで幽助を眺めた。本当は、自分が彼の痛みについて必要以上に考える必要は勿論ない。幽助はいつも自分自身で昇華するだろう。
けれども、そのあまりの生命力の輝かしさと、目を見張る程の強さ、めざましさにまぎれてつい忘れそうになるが、彼はまだ十四歳の少年でしかない。
蔵馬の器になっている南野秀一も、年齢的にはまだ高校生だ。幼いこと、未熟なことに変わりはなかったが、しかし、内側に妖狐としての過去を隠し持っていることを考えれば、時間と有機体のうつろいに耐える力は比べようがないはずだった。
「笑うなよ」
幽助はそう云いながら自分も笑った。照れたように、かきあげずに少し額に残した前髪を荒っぽくかき回した。彼が多少感傷的になっているのが判った。仕方のないことだった。
「おちつかない?」
蔵馬は窓際に持たれて、笑みを残したまま幽助を見た。
「そうでもないんだけどよ」
「螢子さんを置いてきちゃったんでしょ」
「あいつはそんなこと気にしねェよ」
オレがいなくなったことも気がついてるかどうか。そう云って幽助はわずかに嬉しそうに目を細めた。
螢子の話をする時、幽助はいつもこんな顔になる。おびただしいエネルギーをはらんで立つ幽助も好ましかったが、蔵馬は、螢子の話をしながらふと相応の子供っぽい顔になる幽助が好きだ。何とかしてこの笑顔を彼が失くさないでいられたらと思う。
自分がそのために力を貸せたらとさえ思う。
蔵馬らしくない感情と云っても良かった。
しかし、蔵馬を見ていた幽助は不意に、かすかに不機嫌な顔になった。
「お前は、いちいちケイコケイコってよ」
「……何?」
幽助の表情はいつも豊かだ。特に目の映す表情は目まぐるしいほど鮮やかにうつり変わる。落ち着きがないというのではなく、人一倍光の強い目をしているのだ。
蔵馬を見る目の中に複雑な怒りをきらめかせて、しかし、やがて幽助は仕方なげに肩をすくめて笑った。
「まあ、お前はそうだよな…………」
幽助の怒りを理解出来ないわけではない。
しかし、その怒りは蔵馬に縁のないものだ。彼は人の感情を計算に入れて動こうという気持ちが薄い。人の感情だけは計算では測れない。判っていると決めかかって油断すれば、いつ何が起こるか判らない。彼は今までそういう環境に生きてきた。
他人の感情は理解しがたいもの、理解出来ていないものとして、動く癖がついている。
幽助が腹を立てていることは判っても、自分の中でその理由をあえて考えずに終わらせようとする無意識の制止が働くのだ。
蔵馬自身の感情がどんなものであるかということは、また別の問題になるのだった。
暫く前、幾度か蔵馬に触れた幽助が、それをまったく気にかけない彼を理解出来ずにいるのを知っていた。幽助の中に戸惑いと、かすかな苛立ちがあるのも、薄々は感じ取っていた。
しかし、幽助の気質から云って、それを自分に要求することはないだろう。蔵馬はそれを知っていた。切り札に近かった。蔵馬の沈黙は、幽助の、年齢に似合わない寛容さに乗じてのものだ。
「妖狐のお前が、お前とあんまり似てねェから、びっくりした。……」
幽助が考え込むようにそう云った。
「そうかな。自分では見たことないから」
「えっ」
「あ、いや。正確に云うと、今のオレの目ではね。もう自分の姿を見たのもかなり前のことだし、ほとんどどんな顔をしてたかも覚えてない……」
「ああ。そうか……」
幽助が不思議そうに呟いた。
「自分の顔なんて、そんなもんか……」
「そう。だから、本当はもう今更、妖狐の自分に戻ることにはあんまり興味はないな」
そう云って彼は薄く笑んだ。自分でも意外に思われたが、それは本音だった。
「興味はないな…………」
蔵馬はそう低く云うと、幽助から目を背けてまた窓の外に視線を戻した。また何かを云わずにごまかされたような気分になる。ガードの堅い彼。超然と静かな、死の淵にいてさえ決して崩れない彼だ。それでも柔らかく他人を受け入れる印象はあった。
幽助は、彼をどんなふうに受け止めていいのか判らずに戸惑っていた。
蔵馬は、螢子のように無条件に守ってやりたい対象では勿論ない。かと云って、彼を相手に、闘いへの純粋な高揚を呼び起こされるわけでもなかった。「友人」という言葉ですら、ストレートに当てはめていいのかどうか判らなかった。
蔵馬を見ていると気分がいい。
強いて云えば、幽助の中にそういった感情があった。
蔵馬は崩れず、超然としている。無様な所がまるでなく、一種の気取りを感じるほど自分を変えない。そのくせ、それが幽助にとって嫌味にならないのは、おそらく、母親のために、無造作に命を捨てようとした蔵馬を見ているせいに違いなかった。
蔵馬に取っては、彼自身が妖狐であっても、南野秀一であっても、母親へのこだわり以外では、たいした問題ではないのだろう。蔵馬が無意識にも人間の形を取っておこうと思っているのは彼の母親のためだろうと幽助は思っている。
それ以外のものには、彼をこの世界につなぎ止める力はないように思えた。
何も悪いことはない。
いつもは、それで当たり前だと思っている。幽助にとっても温子は特別だ。普段は親子喧嘩ばかりだが、温子の危機には、やはり蔵馬がそうしようとしたように、命を捨ててしまえることもあるかも知れない。
だから、蔵馬が母親にだけ特別に価値を置くのだとしても、それで当たり前なのだ。
幽助は奇妙な感覚を味わった。
彼は、南野秀一の姿をした蔵馬にこだわっているのだ。
たった今までそんなことは考えて見たこともなかった。
南野秀一としての姿に執着していないように見える蔵馬に腹を立てた自分を見て、初めてそれが判った。
「いっそすっぱり妖狐に戻れたら、いろいろと楽なんだろうけどね」
窓の外を眺めていた蔵馬が、幽助の考えていることを見透かしたようにそう云った。
「実感したよ。闘うなら、あの姿は……妖力も段違いだし……」
彼は夢を視るようにけぶる、黒い瞳を上げて幽助を見た。夢を見ているような、と思って、先刻の云ったことを思い出す。妖狐と意識を入れ替わることは、頂度夢を見ているような感じだと蔵馬は云った。
蔵馬にとって、南野秀一としての視点と、妖狐としての視点は、どちらがより現実に近いのだろうか。
幽助の目の前に、蛇の腹のようにぬめりをおびた妖狐蔵馬の白い皮膚と、つややかな銀色になびく髪が鮮やかによみがえった。鬼火のように燃える瞳の奥に揺れる、残忍な歓喜を思い浮かべた。確かにあれは、彼の知っている蔵馬とはまるで別の生き物だった。
「幽助…………?」
蔵馬がいぶかしげに幽助を見た。
闘いが終わったこと、桑原をむざむざ死なせたと思ったこと、幻海を亡くしたこと、そんなものが全部幽助の中でじりじりと不快な炎を上げて燃え盛っている。
「何かすっきりしねえんだよ。……」
幽助は蔵馬の目に引きずられそうになって視線を反らした。
「おふくろが留守で、オレはまだ身体に戻れなくてうちのぼろい布団で寝てて、戻ったらタケセンの説教くらって、岩本にぶん殴られて…………」
途中から自分の言葉が独り云に変わってしまったことに幽助は気づかなかった。
「そんな中で夢見てて、バアさんと会ったのも、お前も飛影も、酎も陣も戸愚呂も、全部夢なんじゃないかって……」
幽助は疲れていた。自分ではそれと判らないような疲れだ。理屈の上の疲れではない。
最近ではずっと荒れることもなかった彼だからこそ、感情は無防備に開かれて、良くも悪くも鋭敏に刺激を受け入れ易くなっている。
「すっきりしねえ。……」
瞳の光がわずかに弱まった。
優しい、暗闇のようなものが幽助の目の前をふっとかすめた。
傷だらけになった頬に冷たいものが触れた。
その暗闇に似たものは蔵馬の髪だった。
蔵馬は幽助の両頬に、自分の冷たいてのひらをあてがった。幽助よりだいぶ背の高い彼は、ゆるやかに顔を傾けた。
癒すようにして、てのひらで包んだ幽助の頬に蔵馬は唇で触れた。冷たい、なめらかな唇の感触が頬にあった。
蔵馬は半ばふさいだまつげを上げ、深い昏い色の目を上げて幽助の目を間近に覗き込んだ。
「夢?……」
低く、歌うようにつぶやいた。
また顔を傾け、冷たく柔らかいそれは、今度は唇に重なってきた。
幽助はジーンズのポケットに手を突っ込んだまま、身じろぎもせずに、自分に触れる蔵馬を意識した。駆け登るようにして羞恥が湧き起こった。
蔵馬が自分をなだめようとしているのが判ったからだ。
あやされることへの恥ずかしさが込み上げた。
幽助の頂度首筋に蔵馬の髪がかかった。
髪が幽助の鎖骨の上をするりと滑って、蔵馬はわずかに背中を伸ばし、唇で、幽助の目の横の小さな傷に触れる。そしてまた羽の触れるような感触は幽助の唇に戻ってきた。
「蔵馬……っ」
幽助は蔵馬の両肩を掴んで、自分から引き離した。
蔵馬の大きな目が彼を見つめ返す。目は透き通って暗く濡れている。
「お前」
幽助は歯を食いしばった。割り切ったつもりの全部がうまくいっているわけではないのだ。大抵は忘れているのに、蔵馬のおだやかさはそれをよみがえらせた。
「お前、人がいいぞっ……」
蔵馬の着ている黒いシャツの襟元を掴んで、自分に引きずり寄せた。引かれて、蔵馬の胸がぶつかってくる。
「痛……ッ」
蔵馬は目を閉じて眉根を寄せ、小さく苦痛の呷きを漏らした。鴉との闘いで、彼の身体はあちこちが散々に傷ついている。全身が、本当の人間であれば生きていられない程の裂傷になっているはずだった。それを思い出して手をゆるめ、かろうじて傷ついていないうなじに腕を伸ばして巻きつけた。
改めて彼を引き寄せる。
まず吐息が絡んで、それを追って唇を押しつける。蔵馬は一瞬困惑したように目を見開いた。だが、じきにまぶたを閉ざして、幽助のしかける荒い口づけに応じた。
体温の低い、だがほのかに温かい彼の身体を全身で感じる。
「蔵馬…………」
キスの合間に呼ぶと、蔵馬は眉をひそめた。
「蔵馬……」
唇をちらりと舌先でなめてまた名前を呼ぶと、今度は確かにその名前に反応して、蔵馬の肩に力がこもった。胸が浮き上がる。
幽助の中で胸苦しいような緊張感が込み上げた。蔵馬の身体を傍らのベッドに押しふせる。
「幽助」
蔵馬が濡れたまつげを開いて、あきれたように体を起こそうとした。その肩をベッドカバーの上にやんわりと押しつける。
誰かが蔵馬を探しに来たきりの自分を、また呼びに来るかもしれない。さすがに幽助もそう考えた。蔵馬もおそらく同じようなことを考えたのだろう。幽助の胸に片手をかけて軽く押し戻そうとした。その唇がもう一度動く前に塞ぐ。柔らかい下唇に歯を立てた。
「幽助……!」
蔵馬の手が幽助の顎にかかる。
その手を振り払う。数回、噛みつくようなキスを繰り返した。それでも幽助を止めようとしていた蔵馬の手から力が抜けた。幽助は視界の隅で、ベッドの上に投げ出された蔵馬の指がぴくりと跳ねるように折れ曲がるのを捉えた。
シャツの中にそっとてのひらを滑り込ませると、二度触れたことのあるあたたかいなめらかな胸の代わりに、肩から胸へくまなく巻かれた包帯のざらつく感触が伝わって来た。
はっとした幽助は、彼の肩の両側に手をついて体を起こした。荒れた息をつく。
「悪ぃ……」
やっとの思いでそろそろと起き上がる。
蔵馬が目を開いた。とがめる様子はない。ただため息をついた。笑う。それでも屈託のない笑みだった。蔵馬にはいつも余裕がある、それは悔しいほど確かなことだった。視線が合った瞬間、幽助も思わずにやりとした。
「馬鹿みてえな、オレ」
自嘲というのではない。ふと、自分の激情が滑稽に思えたのだ。ようやく自然に口元に笑いが込み上げてきた。
「ここんとこ苛々してたからよ。大会のやり方なんかでもバッカ野郎、ってのがあったしな」
「オレは…………」
体を起こしてゆっくりと襟元を整えながら、蔵馬は、髪をかき上げて言葉を選ぶように声のトーンを落とした。
「自分がこれと決めたもののためにしか動けない」
そう云った。彼があえて、動かない、ではなく動けないという表現を選んだことに幽助は気づいた。彼には、その厳密な違いは判らなかった。ただ蔵馬の読みにくい感情がかすかにその言葉の微妙さから伝わって来た。
彼は赤くなりかけて蔵馬に手を振った。
「もういい。オレが悪かったから。それ以上云うな」
立ち上がる。
「ちょっと頭冷やしてくる。目は醒めたけどな」
幽助は半ばいたたまれない、しかし甘いような、痛みのような感傷を握りしめて、来た時と同じように、今晩限りの部屋から静かに抜け出した。
自分がひどく未熟だという気持ちになった。しかしそれは自己嫌悪まではゆきつかず、むしろ自分の未熟さを許す周りへの感謝に入れ替わった。
彼は、元いた部屋に戻りかけて、ホテルの外に出ようとエレベーターに向かった。
蔵馬は少ししてから、幽助達の部屋に顔を出そうと立ち上がった。
優しさの入り交じったため息をついて、自分の傷ついた左腕をさすった。
その瞬間、彼は自分自身にあきれたように目を伏せ、またその視線を部屋の隅に投げた。
「悪趣味ですよ」
おそらく、外に通じたテラスから入って来たのだろう。テラスの窓近くに座った暗い人影を、ようやく見つけたのだった。
「今頃気づいたのか」
「弱ってましてね。……こういうのはオレの専売特許かと思ってたんですけど」
「それだけ云えれば心配もないな」
飛影は抱えていた長剣に身体の重みをかけるようにして立ち上がった。月光が、闇の中にひそんでいた彼の目の中に差し込んだ。
光は水晶体を差し通して、かえって、虹彩の昏い赤を際立たせて照らし出した。
「ずいぶん幽助を大事にしてるじゃないか。母親の代わりにすがる相手が欲しくなったか」
蔵馬は静かに笑った。
「確かに。支えは人間のほしがるモノだな……」
飛影の瞳は何の感情も映してはいなかったが、その瞳の虹彩の色は刃のように燃えている。蠍の尾のように静かにゆらめく紅蓮の炎だ。
「判らんな」
飛影は低く吐き捨てた。
あんな姿を併せ持ちながら、何故蔵馬が人間としての形、母親との関係、そんなものに固執するのか。それが理解出来ないと云いたかったのだろう。
例えば母親を殺して食うような、そういう類の妖異でないのは、飛影も同じだ。飛影は外見も習慣もほぼ人間に近い。しかしありようが根本的に違うのは仕方がない。
人間と妖怪達の違う所は命の永さに始まるからだ。人間にとって生とは、必ずゴールのある限られたものだ。確実に老いて行く儚いものなのだ。だからこそ、その生を潔くも生きられるのだと蔵馬は思っている。蔵馬にとって、人間の潔さは一種、賛美の対象ですらあった。
老いと早い死から解放された妖怪とはおのずから生き方が違って当然だった。
生への感覚の違いは、生き物のありようを変える。殺されなければ半永久的に続く永い生の中で、妖怪たちは、欲望を純化した『我』の塊になった。
「貴方だってそうでしょう。雪菜さんのことを考えれば……」
そう返すと、飛影は関心もなさそうに皮肉に唇を歪めた。
「比べたこともないからな」
「絡むんですね」
飛影の開けた窓から、今日は珍しく冷たい風が吹き込んで来た。蔵馬は飛影に近寄った。ベッドの上に座った飛影の顔を覗き込む。白い頬に風が髪を吹きつけた。
「血の匂いがするぜ」
飛影の右手が伸びて蔵馬の顎に触れた。そのすぐ下には、まだ治り切らない小さな傷がある。その上を指が確かめるように触れる。
今やはっきりと武器の意味を持った右腕には、てのひら近くまであの凶々しい包帯が巻かれたままだ。おそらくこの先はずされたままになることはないだろう。その手が、蔵馬の首筋に動いた。ここまで指先に意図を持たせずに触れて来られる者は他にいないだろう。蔵馬はそう思った。それが飛影という妖怪の特性だ。
闘いを基盤にした独特の情緒。攻撃欲と、からからと乾いた興味。子供のように幼い顔の裏には形の歪んだ美意識が眠っている。
「傷を見せてみろ」
何を思ったのか飛影は不意にそう云った。蔵馬はベッドの上に座った彼を見下ろした。幽助と接する時とまた違う、大きな瞳が無機的な硬質に透き通った。人間でないのは彼も同じだ。肩をすくめて蔵馬はシャツのボタンをはずした。
薄闇に包まれた部屋の中で、蔵馬の腕や胸に巻かれた包帯が白く浮かび上がった。
腕の包帯を取る。
切られたものでも、えぐられたものでもない、鴉の引き起こした爆発にはじけた無残な傷跡がそこから現れた。人間ならば塞がるかどうかも判らない傷だ。これだけひどい傷を負ったなら、その衝撃だけで命を失ってしまうかも知れない。
飛影の指がそこに触れた。力を抑えたようでもなく、力がこもっている訳でもなかった。ただそれに軽く触れて戻って行く。飛影の指は乾いていて、意外にも熱いと云っていい程だった。
「……お前には苛々する」
その飛影の言葉に、陶酔にも似たカタチで甘く、南野秀一の身体を持った蔵馬の唇は笑んだ。
「まさか、幽助と同じことをしたいわけじゃないでしょ……?」
飛影は肩をすくめた。
「確かに」
くっきりと切れ上がった猫のような瞳がまたたいた。
「オレの欲しいものはそんなものじゃない…………」
そうしながらも、飛影はそんな言葉を交わすことにも飽きてしまったようだった。興味をなくしたように気まぐれな視線を反らして、再び窓に近寄った。
「……盗む気にもなれんな」
歪んだ笑みを残して、彼は再び影のように夜闇の中に溶け込んだ。
蔵馬はその華奢な後姿を見送って、静かにこめかみを窓に持たせかけた。喉の奥に不快な痛みがあった。
つじつまの合わない肉体と精神に、疲労を感じていないわけではなかったのだ。しかし、それは幸福でないことと同義語ではなかった。
失えないもののある幸福に、身体を裂かれるようだった。
裂かれる痛みを耐える強さが自分にあると、彼は知っている。
安らぐことよりも痛みを選べるのはそのおかげだ。少なくとも幽助にはその意味は判らないだろう。彼が蔵馬の瞳の奥にあるものを見透かすことはおそらくないはずだ。
飛影ですら、幽助よりはそれを解するかも知れない。己が人間の情という異質なものにおかされて染まって行くその感覚の、戦慄するような甘さを、飛影なら理解するだろう。
人間界で生きてはいても、今の自分よりも更に異質な彼の『我』ならば。
幽助の混じりけのない濾過された感情の燿きは、いつも目を射るように鮮やかだ。決して蔵馬の裏側を覗き見ようとはしない彼だ。
その彼にだからこそ、さらけ出せるものがあるのだった。
島いっぱいに広がった空を、木立を塗りつぶして、喧騒ものみ込むように深い、自分の内側に降りてゆくしかないような夜だ。
蔵馬の生来の気質から、氷のように冷たい焔につつまれて立つ。
肌にしみとおるその冷たさにかかわらず、それはやはり焔だった。
了