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陽の水銀(妖狐×蔵馬?)

03 01 *2013 | Category 二次::幽遊・幽×蔵他(蔵馬中心)


続き





 その瞬間、世界はあざやかな青に染まった。
 陽光にさらけ出された海の青だ。それがふっと沈んで灰銀色を帯びた蒼色に変わった。
 何の苦痛もなく起こったことだった。
 ほんの一瞬眩暈を伴っただけである。
 蔵馬には、自分の足が柔らかい下草を踏みしめるのを確かに感じ取ることが出来た。彼の髪を風が巻き取って過ぎて行くのも、頬を撫でて行く大気のなま温かさも、彼の感覚の中に確かに伝わってきた。
 しかしそれは、眼の前を染めた、沙のような青を通して、ぼんやりと遠く伝わって来るのだった。手足が痺れたように感覚が遠い。そのくせ最近には感じた事がないほど、四肢全体に力がみなぎっているのが分かった。
 彼は自分の腕を上げてみた。
 白い。見慣れた皮膚ではなかった。南野秀一の肉体は東洋人特有の、卵色のきめの細かい皮膚である。
 彼が上げた長い腕は、さらした紙のように青ざめた、ぬめりのある皮膚に覆われていた。
 指もなじんだそれよりもずっと長い。
 自分の唇が自分の意志とは関係なく吊り上がって来るのが判る。
 その意図はないのに、自分が笑っているのが分かった。
 妖狐の意思が肉体の表層を支配し始めているのだ。今日鈴木に渡されたトキタダレの花の果肉が、自分の肉体を、間違いなく妖狐のものと入れ替えたのだ。
 妖狐としての自分の意思は静かに空をあおいで哄笑しているようだった。くびきからときはなたれた歓喜に吠え狂っていた。
 南野秀一と完全に融合して意識の形さえ元のものとは違ってきた今の彼には、妖狐蔵馬の意思がどれだけ毒気の強いものであったのか、外側から覗き見るようにしてようやく理解することが出来た。
 自分自身の頬にも吹きつけて焦がして来るような、凶々しい毒のある妖気なのである。
 これが本当にオレ自身か。
 蔵馬は驚きを込めて思った。静かに立つ。髪がなびく。視界に混じってまた吹き散らされる髪は、なめらかな銀色だった。彼は今、人間界の孤島の草の上に、妖狐の姿で立っている。
 これがオレ自身か。
 何故忘れていられたのだろう。こんな風な残忍な歓びと、身を震わせる破壊衝動。これはかつて自分のものだった。そしてそれに従わなかった事などなかった。不思議だ。しかし、その自分への独特な嫌悪も間違いなく存在する。
 今、彼は前世の自分自身の姿を目で追っている。おそらく、同じように過去の妖狐蔵馬も小さな人間の姿の中に閉じ込められた自分自身を見つめているだろう。
「御前がおれか」
 声も、十数年聞き慣れた今の自分の声ではない。甘く絡みつくような声が、唇を割ってそうささやいた。
 妖狐が、自分に話しかけているのだと知った時、彼は細い甘美な刃につらぬかれたように思った。裏表を返したように内側にある自分にそそがれた、妖狐のひややかな視線を感じた。
 ひとつの肉体という舞台の上で向かい合ったまったく異質な役者のように、彼等の無言劇は続いた。
 これがおれか、と。
 妖狐は彼と同じ事を問うていた。
 妖狐蔵馬と自分はすでに引き裂かれて別のものだ。そして切り離されてなお離れられない異様な関係を結んでいる。
 妖狐は自分の肩に触れた。腕の内側に触れた。髪に触れた。そして蠱惑的に笑った。その様子を妖狐の内側から、そして外側に一歩それた視線で南野秀一と融合した蔵馬は見た。感じた、と言った方が正確であったかも知れない。
 恋人同士でも決して結び合えない深さだ。
 まったく違っていながら同じ肉体を共有している証しのように、トキタダレ花の果肉のほのかな苦さが妖狐の舌に残っていた。


 決勝戦前夜である。
 幽助の師範である幻海は帰って来なかった。
 準決勝に参加せずに戻ってきた時、幽助の目は強くとぎ澄まされて、別人のような印象になっていた。彼の小柄な身体にあふれかえる膨大な霊気が、幽助が乗り越えたものを象徴していた。
 何が起こったかを、ぼんやりとではあるがうかがわせた。
 戸愚呂チームの、あの髪の長い男……。鴉と言った。あの男は、彼らの中の一人が、決勝を待たずして死ぬ事になると言った。
 おそらく幻海は今晩、戸愚呂兄弟の弟に殺されたのだ。
 幻海と戸愚呂の間にある確執を、彼は薄々理解していた。
 その確執が幻海を殺したのだ。
 幽助はそれを口に出さなかった。誰にも言わなかった。動揺を避けるためか、彼自身が話題にしたくないのか。妙に吹っ切った明るい目をしていた。気づいた者の目から見れば、その明るさがむしろ痛ましいほどだった。
 蔵馬は横になった。
 鴉の長い細い指や、トキタダレに呼ばれた自身の昔の姿が目の前にちらついた。珍しく少し興奮しているようだった。昼、妖狐に戻ったなごりかも知れない。妖狐の姿でいたのは十五分くらいの間だった。その十五分間に、血管の中に、強い麻薬でもそそぎこまれたようだった。
 眠らなければならない。疲れが残っていて勝てるような相手ではない。鴉は強かった。女のように優美な身体と指、髪を持つ、しかし途方もなく強い男だ。何よりも闘いへの執念と残忍さで彼は今の蔵馬を上回る。蔵馬は闘いに陶酔することが出来ない。いつも早く終わらせたいと願っている。ある意味ではそれが彼の力の発現を弱めているのだった。
 眠る。その位のコントロールは出来る。シーツに沈みこんで目を閉じた。同室に眠るはずの飛影は、一度戻ってきたが、その後また姿を消していた。
 気まぐれのように一緒にいる事はあっても、彼は自分の休息の時間を他の者と共有することを好まないらしい。彼がこのホテルで眠っているのを見た事がなかった。
 目を閉じたまま身体の力をゆるめると、ふと影のような闇が訪れて、蔵馬は酔いのような眠りに抱き取られた。


 遠く黒みがかった薄闇だ。
 うずくまっていた蔵馬は頬をひたした薄蒼い霧にゆっくりと抱きしめられて目を開けた。
「ここは……」
 思わず口をついて出る。
 青黒い空をたたえた平野だ。中天には、黒い染みのようなものが燃えている。太陽のように見えるが、それは昏く黒かった。遠くに地平線がかすむ。がさがさと乾いた黒っぽい土の上に、青黒い枯れ草が密に生えている。
 蔵馬は立ち上がった。
(敵の罠にはまったのか?)
 ここはどこなのか見当がつかない。抽象的な形に歪められた黒い恒星の下で、どこが光源なのか、足もとに青黒い影が伸びた。光はあるのだった。しかしそれがどちらから差しかかっているのか分からない。
 そんな事があるのだろうか。
 蔵馬は自分の腕にも青ざめた光が差すのを眺めた。
 誰がここに自分を連れてきたのだろう。何の目的で。彼は、攻撃に備える時の癖で、静かに立って両腕を垂れた。
「まだ気づかないのか」
 その時、不意に彼のうなじから甘いささやきが吹き込まれて、彼は身体をすくませた。振り向きざま飛びのく。
「……お前は……!」
「おれだ、『蔵馬』」
 するりと滑りこむようにして長い指が蔵馬の顎をとらえた。いつの間に近づいたのか、蔵馬にはまるで分からなかった。なめらかで優美な動きだった。顎に触れられたまま、身動きも出来ずにその男を見つめる。面長の、おそろしく美しい銀髪の男だ。
 今この男は、おれだ、と言った。
 そうだ。
 無論。彼が蔵馬に、自分の素姓をわざわざ明かす必要があるわけはなかった。
 目の前の男は、似ても似つかぬ、しかし蔵馬自身の姿だったからだ。
 背の高い銀色の男。かつて魔界で名を馳せた蔵馬という名の妖狐だった。
「ここは夢の中だ」
 妖狐は彼の顎をとらえた冷たい手をゆっくりと離した。端正に整った唇を曲げてにいっと笑った。
「夢というのは面白いものだな。……人間の中で暮らしていても、こんな夢を見るのか。魔界の情景そのままだ。荒れて、魔物の死骸の匂いがする……人間ならこんな夢は見ないだろう」
「お前は誰だ」
 蔵馬は唇を強くかみしめた。痛みがある。ただの夢という訳ではなさそうだった。
 知らない内に幻影を操るものの奸計に陥ったのではないかという思いがあった。
 これが誰かの作り出した幻影だとするなら、それから醒めるのにはどんな力が必要になるのか。痛みか。それとも闘いか。それにしても性質が分からな過ぎるのでは闘いようがなかった。
 しかし。この凶々しい光景をただ夢だと言われても信じようがない。
「夢だと言っているだろう。まぎれもない『御前』の夢だ…………」
 蔵馬は、妖狐の姿をした男の顔をふりあおいだ。
「何故オレがこんな夢を」
「夢……よりはお前の意識深くかも知れないな」
 豪奢な銀の男は、長い腕を上げ、蒼くかすむ地平線を指した。
「ずいぶん枯れたものだな。『御前』の内は。……」
 そう言いながら、あめ色の瞳の妖狐は、人間と融合した自分自身の姿を見下ろした。甘い、くすぐるような低い声で、長い髪に半ば隠れた耳元にくぐらせるようにささやいた。
「疲れたか、『蔵馬』……?」
「何のためにオレにこんなものを見せる」
「『御前』らしくもない……物分かりの悪い振りをする事はないだろうに」
 蔵馬は、妖狐の顔を見上げた。気味の悪い既視感があった。鏡の外に自分の姿を見つける気味の悪さは、思った以上だった。
 その銀色の髪の男は、彼の言う通り自分自身だった。蔵馬自身であるからこそたがえようがない。男の言う事に嘘がない事、そして妖狐が自分の内側の全てを共有しているのだという事を、蔵馬は悟った。
 いつの間にこんな事になったのか。妖狐である自分が、南野秀一と融け合って変化したのは知っていた。しかし、トキタダレの力を借りて妖狐の姿に戻る事によって、内側で自己が二つに分かたれるような事があるとは思わなかった。
 この妖狐は、自分自身である事に間違いはなかったが、完全に今の彼とは違う人格を持って、蔵馬の目の前に存在した。
「何か……おれに望むものがあるのか」
 彼は用心深く声を低めた。
 その言葉を聞いて妖狐は彼を眺めた。唇がまたゆっくりとつり上がった。
「御前がおれだったらどうだ? こういう時、何を望む……?
 外に出る術もなく閉じ込められて、自分が夢の一歩外では、ただの観念の塊でしかないと思ったら……」
 蔵馬はゆっくりと後ずさった。
 妖狐は、彼の中にしか存在しない、実態のないものだ。それは害がないようで、しかし、自分自身が存在するかぎり、決して消せないものだ。自分自身が死ぬ事のない限り、決して死なず、闘いようのない相手だ。
 意思が存在するのに、実態の存在しないものは一番始末の悪いものなのだ。
 普通に考えてもそれほど不思議な事ではない。思考して生きるものにとって敵となり得る一番大きなものは、いつも自分自身だ。
 実体を持たない妖狐が何かを望むとしたら、それは実体としての「蔵馬」を支配すること以外ではないだろう。
「誤解するな」
 男は薄笑いで彼を見下ろした。
「入れ替わるつもりなどない」
 彼の首筋にてのひらをあてがった。
「ただ、満足させて欲しいだけだ。御前の人間臭い感情につき合わされて、たった一日で、おれは飽き飽きした。どうせ人間として生きる事など出来るはずがなかろう」
「人間として生きる事を意識しているつもりはない」
「心構えの話をしているのではない。ただ、やり方の話をしているのさ」
 その姿を眺めている内に、妖狐の顔は彼の記憶となじみ始めた。南野秀一の顔を今の彼が見慣れているように、新たに自分自身の記憶に組み込まれた存在として、その視界の中に刷り込まれ始めた。
 胸の悪くなるような懐かしさを感じ始める。
 かつて自分もこんなふうに生きたことがあった。護りたいもののない人生は、畏怖するものも己をおびやかすものもなく、楽で、毎日が気が遠くなるように退屈だった。盗みと殺戮はほんのわずかその退屈をいやしたが、それも長い事ではなかった。
「どちらにしろ、御前はおれのように生きざるを得なくなるさ」
 妖狐は両腕を伸ばした。蔵馬の腕をとらえて、ゆるやかに自分の胸の中にかいこむ。蔵馬のほっそりした姿は、男の胸の中にそっくりと抱き込まれた。
「それが重荷ならそのカラダをおれに寄越せ」
 そうして妖狐は彼の耳元に唇を寄せた。
「寄越さないなら、おれも満足させるつもりでいろ。二度も外を見せて、後はおとなしくしていろというのは虫が好いぞ……」
「お前が満足出来るようにはオレは出来ない。殺す事も盗む事も、もう必要がなければしない」
 彼は、自分を抱きしめる鉄のような腕を、強く押しのけようとした。
「このおれが欲しがっていても、必要ではないと?」
 妖狐の片手が愛撫するように彼の頬を撫であげた。瞬間そそけだった頬に唇を近づけてささやいた。
「猛獣を飼うなら餌をやれ、『蔵馬』」
「断る。オレは今まで通りにしかしない」
「これはまた強情を張る……」
 妖狐は笑った。戦慄するほど甘美に蔵馬を抱きしめる。
「取り引きにも応じないのか……形は変わっても、御前はやはりおれなのだな……まあ、それでは仕方がない…………」
 笑う唇の間に、人間のものではない、尖った犬歯がわずかに覗いた。
「ならば、無理にでもおれは、御前と一緒になろうさ…………」
 首筋の皮膚に妖狐の犬歯が当たった。それと一緒に熱い呼気がそこを撫でて、蔵馬は総毛立った。
「何をする気だ……?」
 妖狐は、青黒く叫び立てるような形に枯れた草の上に、彼の身体を抱き降ろした。蔵馬の髪が波のように巻き上がって妖狐の腕に絡みついた。
 彼の髪は彼の四肢と同じだ。害意を持つものから彼の身体を護ろうとする意思が働いている。
 妖気を満たした鋼線のように巻きついて妖狐の腕を締め上げた。
「ふざけるな」
 蔵馬は静かにそう言った。彼の手首を握って草の上に縫い止めた妖狐をあおいだ。髪が、更に男の白い腕をきつく締めつける。
「お前の無聊を慰める余裕はオレにはない」
「馬鹿な事を」
 含み笑う妖狐の銀色の髪が蔵馬の頬を撫でた。
「……慰めが欲しくて女を抱く者が魔界にいるか?」
 そう言いざま、彼ののどぶえに歯を立てる。
「まあ、確かに退屈しのぎにはなるだろうからな……」
 喉に、不思議にひやりと冷たい、濡れたものが触れた。かすかに濡れた呼気と尖った歯の感触がある。
「御前にも、オレの妖気が心地悪い筈がなかろう? こんなにあたり中枯らして……あの幽助の霊気と触れても御前は足りないのだろう?」
 男の含み笑いと、絹のように冷たく柔らかな髪が彼の頬を撫でる。蔵馬は身体を堅くこわばらせた。幽助の名が妖狐の口から出るとは思わなかったのだ。
「執心だな。……」
 耳元に笑うようにそうささやく男を彼はあおいだ。切りつけるようにねめつけた。彼は己とこの男の違いを、その皮膚で、そのまぎれもない忌避感によってはっきりと感じ取った。
 南野秀一の中に元々、妖狐蔵馬と、南野秀一と言う名をつけられた少年との融合体が在った。
 そこに、トキタダレの呼び起こした秀一と混じり合う前の妖狐が忍び込んできたのだった。
 トキタダレの効果が消えても、『昔の自分』という名の、見知らぬ他人は去らなかったのだ。
 それが副作用と言っても良かったかも知れない。
 今、蔵馬の中では『意』が飽和状態となってうず巻いている。蔵馬の中で保たれていた絶妙のバランスを崩した。柱の折れたもろい構築物に似た精神は、二人の妖狐をとても受け入れきらない。
 そして今や妖狐は、彼の精神世界の中で、ぎらぎらと輝く異物だ。
「女の腹から生まれて情をうつし、あんな子供に抱かれてまた情をうつしたか……オレのゆくすえとしては誠、他愛のないことだな」
 妖狐の瞳の中に、怒りや哀れみ、嫌悪が入り組んで絡んだ暗い光がひらめいた。
「御前とそんな事について話しても埓があかない。それよりこの手を離せ」
 蔵馬は吐きだした。
「抗え。構わんぞ……」
 妖狐はけぶるように薄笑んだ。ゆっくりと言いついだ。
「貞操を守るという柄でもあるまいに……」
 蔵馬の目が瞬間的に強く煌めいた。
 髪が、妖狐の青白い皮膚に強く食い込んだ。
 妖狐の腕に幾条か血がにじみだした。その冷たい血は、南野秀一の身体に流れるものと同じ、あざやかな赤だった。
 しかしそうして妖狐を傷つけてなお、獣の歯の間にくわえられた柔らかい小鳩のように、南野秀一の「意」を持つ彼は、身動きも出来ず戒められている。妖狐を傷つける事がどんな結果になるのか分からない内は、妖狐に本気でしかけるつもりはなかった。
 ただそうやって抗う内に、気まぐれな妖狐が、自分に対しての興味を失うことを期待してはいた。
 何よりも、力の差は、己自身と向かい合っているにもかかわらず圧倒的だった。
「おれに抗って殺すもいいさ。……お前は自由にはなれるだろう。そうすれば、今度はどんな薬を使っても、おれがお前の内からみちびき出される事はない……」
 妖狐蔵馬は唄うようにそう言った。金色の瞳を細めて、その言葉の意味に愕然とする、若い少年の姿の自分を見下ろした。そろりとその胸元に指を這い込ませた。
「自分を傷つける覚悟でやれ」
 昔、自分がその姿を持って過ごしていたとは信じられなかった。何か自分の知らない力が働いて妖狐を見知らぬ生き物に作り替えたように、妖狐は美しかった。
 破壊欲によく似た意念のほの見える、かすれた声で妖狐はふと視線を落として呟いた。
「おれは御前の中の殺戮の血なのだからな」
 呟いた。
 今、この己の内側で、妖狐である自分と触れ合う事は、過去の自分の殺戮の夢を再び体内に呼び戻す事も同じだ。


 喉を熱い息が衝いてあふれた。
 更に妖狐の唇に塞がれて、呼吸が混じりあった。柔らかい舌が絡んで来る。妖狐のつめたい呼気は不思議に獣の生臭さがなく、ほのかな緑に香った。その香りが肺へ溶けて、かえって侵食される感触がある。
 舌をかみ切りたい衝動に駆られた。苦痛だった。南野秀一の自我と融合しているからこその苦痛だった。
 蔵馬は、耐えられない烈しい快楽に貫かれていた。
 彼は今、まさしく侵されていた。
 歳の若い南野秀一はこんな快楽を経験した事がない。幽助と触れ合うのは、快感の共有より、他の意味合いが彼にとっては強い。彼自身は肉体的な快楽にそれほど興味がない。いつもは、どうしてもそれを追うことはおろそかになった。
 幽助は何故か、手慣れた仕草でいつも触れて来るが、だから彼と触れ合う事はさほど生臭い行為にならなかった。
 蔵馬が幽助に感じている好意がそうさせているのかも知れなかった。
 それに、あるいはこれは実体では味わえない快楽であるのかもしれない。肉体はいろいろなものを封じこめて限りを作る。
 深く届いた指が彼から悲鳴を上げそうな熱を引きずり出した。
「…………ア」
 妖狐が片手の親指を喉のくぼみに強く押しつけた。かみしめていた唇をたまらずにほどくと、身体の奥で長い爪が甘い痛みをつき起こした。
「御前もまだ子供なのだな…………応え方も忘れたか」
 肉体の死が、妖狐蔵馬の全てをいったん封印した。
 南野秀一の肉体は最初、蔵馬にとって檻だった。しかし溶け合うにつれ、その肉体は無理に縛りつけられたものではなく、そこを立ち去りがたい懐かしさになった。
 しかし、それは今の彼だからこそ知り得たことだ。過去の時間軸を歪めて呼び戻された妖狐が彼の中に新たにとどまった時、人間と融合して満ちている見知らぬ己自身を、逆に気味悪く思うのはむしろ当たり前だ。それは南野秀一としての蔵馬にも充分理解出来た。
「もう、オレはお前じゃない……お前の力を、オレに求めるな。……」
 息が荒いだ。下肢からわき昇って来る鞭のような快美を耐えながら、彼は汗に濡れた腕で自分の目を覆った。
「何もかも、昔のようには行かない。……」
 喉を押えつけた手を離して、妖狐はなぶるような微笑に唇を歪めて、彼の額の生えぎわから、湿った髪をかき上げてやった。熱に潤んだ目をさらすために腕をどかした。南野秀一の深い黒い瞳と、男の金の瞳の二つの視線が結びあった。
「なじむだろう? おれの指も、肌も……。御前が何と言おうと、御前はおれだ」
 妖狐の金色の目の中に、ふと強い光が射し加わった。
「何故に」
 蔵馬の片足を引き上げて、折り曲げた上に、妖狐は己の重みをかけた。
「おれたちは裂かれたのだ?」
「あ、あ……あッ……」
 衝撃に、彼はついに声を上げた。彼をひらいた痛みはすぐに押しのけられて息の止まりそうな快楽に変わった。体を包んだ筋肉は、耐えかねて細く痙攣し始めた。
 すがるものを求めて蔵馬の指は地を這った。枯れた草を握りしめる。妖狐の背や腕に触れたくなかった。ほんの少しでもいい、凶々しい己自身と触れ合う部分を少なくしたかった。
 草はからからと枯れてもろく、彼を支える程の強さはなかった。指の間で千切れた草の根本を探ると、案外に硬い土の感触が指先にあった。
 蔵馬は土をかいた。
 かきむしるように、青黒く硬い土に爪を立てた。悔しかった。これはとりもなおさず、己を律することが出来ない自分を、克明に映しだす鏡なのだ。
 爪に痛みが走った。
 左手の爪に激痛が走って、爪が指からはがれかけて浮き上がるのが分かった。その傷口から土が入り込んで来るのが判る。
 その手を、不意に強い力で妖狐が掴みあげた。
 指の間に蔵馬を護ろうとするかのように張りついた黒ずんだ枯れ草を取り除き、妖狐の冷たい唇が、いやすように蔵馬の熱い指に触れた。
 そうして妖狐は己の指を彼の指に絡めて握りしめた。
 もう片方の手を膝の間に伸ばし、快楽を追いきれない蔵馬に愛撫を加えた。ビロードに触れるようになめらかに、ゆっくりと彼を追いつめた。
 蔵馬はびくりと身体をすくめた。まつげが濡れた。甘い痛みに、身体中が絞り上がるように緊張した。
 長いかぎづめの指は、巧みに、粟だつ肌の上にみだらかな波を作り出した。とてもこれが、肉体を介さずに意識の中だけで行われている事だとは信じられないほど生々しく熱かった。身体の深くに、耐えきれないような沸点が生まれた。
 唇がひらいた。呼気だけではおさまらなかった。
 自分の歯と舌の間から漏れ出る声に耳をふさぎたかった。自身の指に鳴かされる己の姿が、おそろしく無様で滑稽に思えた。
 反り上がって妖狐の腰をはさみつけた足が震える。汗と吐息で身体中が溶けてしまいそうだった。
 妖狐の白い頬に銀の髪が張りついて筋を作っていた。かすかにその顔が上気する。妖狐は彼の頬に己の頬を寄せるようにして、彼を力を込めて抱きしめた。
 まるで、そこに情熱が存在するとでもいったような仕草だった。
 そんな筈はなかった。疲れた精神の作り出した歪んだ幻だ。しかし、覆うように重なり合ってきた唇は、南野秀一の肉体の熱がうつりでもしたのか、ようやく温かく溶けて、人間にも似た体温を作り出していた。
 蔵馬は、指を上げた。
 自分に覆いかぶさった男の銀の髪をすくい上げてみた。
 懐かしいような、まるで知らないような不思議な感触だった。
 彼は目を閉じて、湿った髪のひと房を指の間に堅く握りしめた。
 己自身とすら闘わなければならない。
 立ちふさがるものを全て倒すだけの覚悟、そしてそれを己のためだけにしない自制を、自分に求めなければならない。
 まず、自分を殺す事だ。
 そう、誰よりもまず、自分だ。
 強く貫かれて彼は喉の奥で悲鳴をかみ殺した。目を見開く。
 その瞬間、彼の目の中に、上空の蒼く燃える太陽が飛びこんできた、太陽は、内側に黒い点を浮かべてほとんど黒に近い藍色にさかまいている。
 一瞬、彼はそれを気のせいかと思った。しかし気のせいではなかった、太陽の中にあきらかに銀色の染みが広がり始めた。
 かすんだ視線で草地の向こうをみはるかす。
 草地には一面の青黒い枯れ草が生えている。その中に、丈の高いみずみずしい銀色の一群れがたけだけしく伸び始めているのが見えた。
 ……これはれっきとした御前の心の深くさ。
 妖狐のあの言葉だ。
 彼の中で、呼び起こしてしまったかつての自分と交わる部分が多くなればそれだけ、彼の内側の色は確実に変わってゆくのだった。彼自身の生命力が弱くなればなおさらだ。空け渡せないのなら、彼自身が支配しなければならない。
 蔵馬は手を握りしめた。はがれかけた爪が痛んだ。
 自分に伏せられた肩の上に彼はその指を広げて重ね、そして、力を込めて、幾条かの爪痕を刻んだ。妖狐は低く声を漏らして彼を覗き込んだ。美しく邪悪な、あめ色の視線が彼をからめ捕った。しかしそれに任せる訳には行かなかった。
 オレはこの妖狐すらも、オレのものにしなければならないのだ。
 気の遠くなるような思いで彼はそれを理解した。
 人であり、妖異であるという事の苦しみに耐えることだ。
 そしてまず、自分だ。

 窓が風で鳴る音に、彼は突然眠りから引き戻された。
 全身に鉛のような疲労があった。
(夢?)
 疲労はあったが、彼の全身には快楽の名残はなかった。残り香さえなかった。ただの夢なら、むしろその気配をとどめている筈だった。
 妖狐の肌の、吸いつくようななめらかさがよみがえって来る。
「夢……」
 口に出す。声が叫びに嗄らしたようにしゃがれていた。
 そして、左手に走る痛みに、彼はその手をゆっくりと目の前に掲げた。
 何かを誓った印のように、左手の薬指の爪は剥がれかけて黒ずんだ血をにじませていた。
「!」
 宣戦を布告するように、その爪の中に混じった泥。そして血……。
 彼はその乾きかけた血を透かして、慄然と己の指を見つめた。唇で触れてみる。
 これは妖狐蔵馬の血の味だ。
 彼は自分に深く、確実に内在する。
 数時間後には、彼はまたトキタダレの実を使って、今やはっきりと己の内側に在ると知っている銀色の獣を呼び戻す。
 そして、またあの青黒く疲弊した心象風景の土には、天まで届く勢いで、銀の刃物のような草が伸びるだろう。あの世界が何故荒れているのか、蔵馬は知っている。もう、努力しなければ人でいられなくなりつつある自分。人であろうとする自分を嘲笑する理性。人でなければならないとしがみつく情。
 忍び込んだ妖狐に染められるまでもなく、すでに彼は侵されている。
 妖怪である自分を否定するのでもなく、しかし人としてもとどまり続けようと力を払う事が、彼を疲れさせ、彼の内側を荒らしていた。それが彼の夢を、蒼く、ただ静寂ばかりが豊かな空間に変えているのだ。しかしそれを彼が選んだ。選び、拒まなかった方法だ。
 太陽がすっかり銀色の影に侵されきる前に、反対に彼が妖狐を統べなければならなかった。
 彼は祈った。今ここにこうして座る己に向かって祈る。
 どうか力を。
 自分以外に祈れるものはなかった。
 救いを求めているのではなかったからだ。
 どうか。
 どうか、力を。


 ……了

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