アネモネ
街はずれの牧場で、同行した伯楽に金を預け、アイクとライは街に戻る道に出た。ライはいつものようにフードの付いた外套を着込んでいる。その格好に相応する季節なので違和感はない。彼の虹彩異色の目が人目を引けば別だが、その目はいつも、額から引き下ろした革の耳当ての影になっていてよく見えない。その重装備にふさわしい日だった。昨日の朝、雪が降り、一晩かけて凍りついた粉雪は、風に吹き散らされて、大気の中にダイヤモンドの粉を散りばめたようにきらきらと輝いていた。呼吸するだけで肺まで凍りついてしまいそうだ。
彼らは、昨日死んだティアマトの愛馬「アネモネ」の代わりの馬を探しに来た。この地方の馬は丈夫で、きつい戦場の生活でもよく働くと云う。とはいえ、アネモネはまだ八歳だった。軍馬の寿命はやはり短い。足を痛めて立てなくなり、ティアマトが最後まで付き添ったが、結局は薬殺するしかなかった。アネモネの好きな飼い葉の中に毒薬を混ぜながら、ティアマトはうちひしがれていた。グレイルが死んだときのようには感情を隠さず、涙をこぼして、アネモネの白い首筋に頬をあて、たてがみをまさぐって愛撫した。
真っ白でなくていいが、なるべく白い馬がいいと、アイクは牧場の主人に云った。ラグズは乗り物を必要としていないため、好奇心を感じたライは同行していた。アイクは馬の足や、太腿の光沢を確かめている。幼い頃から軍馬を見慣れているので、馬のよしあしを判断することが出来るのだろう。アイクが選んだのは、三歳の牝馬だった。たてがみに鈍い銀色の光沢があるが、他は殆ど白く、アネモネより少し大柄だった。「冷静で丈夫な馬ですよ。火事場だって走り抜けられる」そう云われたのが決め手だった。神経質な馬では軍馬はつとまらない。この馬場にはベグニオン貴族も馬を買いに来ると聞いた。軍馬として使える馬を育てるというのは、この国の環境では当たり前なのだろう。
「アネモネはいい馬だったな」ライはわずかに出た頬や鼻筋を凍りつかせるような風に身をすくめて云った。「オレを全然怖がらなかった」「ああ。ティアマトは馬の調教がうまいんだ。軍馬以外の馬に乗ったことはないらしいが」 そう云って、アイクはかすかに笑った。「そのくせ馬に花の名前をつける」ライは頷いた。「女ならではだよな。仕事場に女がいると華があるよ。それに、白い馬と鎧で、赤い髪をなびかせて走るティアマトは目立つだろ。旗印を持った勝利の女神だ。兵共の士気が上がる」「そうだな」アイクは素直に同意した。ライは、厚い手袋を脱いで、そのぬくもりで自分の頬を暖めた。鼻先も頬も凍るようだった。
「晩飯の時間にはちょっと早いな。これからどうする?」街で何か用事を片付けるか、あるいは拠点に引き返すか、という意味で問いかけて、隣に並んだアイクの顔を見やると、アイクも寒気に赤い頬をしていた。その時、アイクの手が僅かに、ほとんど見てとれないほど動き、手袋を脱いだばかりのライの手の甲に、そっと触れた。触れたのは人差し指だけだった。指はライの手の甲に触れたまま止まり、少し沈黙があった。二人の間に吐かれる息が白くまじりあった。冷たい指が冷たい手に触れているのに、そこに小さな火の点がともった。
「温まりたい」アイクはぽつりと云った。
「お前、ティアマトが好きだったんじゃない?」
宿の寝台に座ったライは、そう云いながら長靴から自分の足を抜き出した。爪先が冷えているが、これからひとしきり運動すれば温まるだろう。宿の主人が暖炉に火をおこしてくれた。しかしそれは部屋に行き渡っておらず、部屋はまだひどく冷え込んでいた。
無言で自分を見つめたアイクに、ライは補足した。
「ティアマトには何だか特別な思い入れがあるっぽいからさ。……あ、別に、詮索する気はないから」
ライの隣にアイクは並んで座った。腰に吊した剣をはずして、隣の寝台に置く。
「子供の頃から、俺が欲しいものはもう既に親父のものだった」
アイクは独白するように低くつぶやいた。
「でも、お前は違う」
ライはどうしてやればいいのか分からなかった。胸の中に火薬を仕掛けられた気分だった。ちょっとした火ではじけ飛びそうだ。抱きしめるか、年上の獣牙族の男を骨抜きにする、罪作りな若い唇にくちづけするか、髪に手をさしこんでぐしゃぐしゃにかき乱すのか。迷った末、ライは全て実行することにした。
痛みは少しあったが、血の匂いはしなかった。アイクとつながりあった部分が妙に濡れているような気がして、ライはアイクの腕の囲いから腕を抜き出し、一杯に広げた自分の脚の間にてのひらをさしこんだ。つながった部分と下腹は火のように熱く疼いているのに、太腿の外側は濡れて冷たくなっていた。ライは、そこをたどった自分の指が、ただ透明に光っているのを見た。自分のものかアイクのものか、目で見ただけでは判断はつかないが、汗には二人分の体臭がまじりあっていた。敷き込まれるかたちになった尾が、自分の身体を押し開いたものに抗うように、ぴくりと動く。突き入れられる度に、身体の中が熱く溶け、快感をより強く受け止め、与えるために、ライはきつく締め付けた。苦しそうにアイクが喘ぐ。まだ少年らしさを残したアイクの顔が表情をかすかにゆがめ、薄く開いた目は痛みに耐えるように潤んでいた。ぬかるんだ自分の中にアイクを深く受け入れながら、ライは、より密接に自分と触れ合うように、硬くひきしまったアイクの背中を引き寄せた。なるべく多くの汗と熱を共有できるように。
汗と血の共通点。
味。臭い。たやすくほとばしって、たやすく乾き、血は土に、汗は塩に還るところ。
何度も死の近くに共に往き、帰ってきた二つの身体だった。隣で闘うことばかりでなく、温め合うことさえ出来る相手。アイクとこうなるまで、ライにとって男との交合は、長く続く闘いの中で、女に負担をかけないための一つの手段に過ぎなかった。しかし、アイクの汗と熱を受け止めることができるのは、ひどく単純に嬉しいことだった。アイクの荒い呼吸が耳の傍を通る。いつも寂しそうな目をした、この年下のベオクと抱き合うことが、今までにない、特別な経験になっているのを自覚した。
(別に自覚なんてする必要なかったんだけどなぁ)
ライは内心そう思い、脈絡もなく、ティアマトはアイクの選んだ馬にも、花の名前をつけるのだろうか、と思った。
アネモネの花言葉:「儚い希望・恋の苦しみ・君を愛す・見放される・真実」
了