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01_裸で夜の海に浮けば

03 03 *2013 | Category 二次::ONE PIECE・ゾロサン


続き





 青の味。それは分からない。赤なら肉。緑なら野菜。黄色なら南方の柑橘類。白はワイン。紫は葡萄。しかし、青い食物となると代表すべきイメージが思い浮かばない。青と云えば水か空だろう。空を切り取って調理するわけにはいかない。水は無味か塩味だ。
(塩ってのは、だけど白のイメージなんだよな……)
 彼はハンモックに身体を沈ませて天井を見つめている。ランプ一つ灯さない部屋の天井は黒。黒い食材は案外多い。黒色の食材は口当たりが柔らかく、美味いものも多い。だが、青いもので美味いもの、と云っても想像がつかなかった。青い色をつけた酒や菓子はあるが、あれは生まれながらの色ではない。
 この寝床には少々長すぎる脚を伸ばしてあおのいた若いコックは、ようやく眠りの入り口の夢の水内際に辿り着き、あたたかな浅瀬をさまよい始めていた。
 両親のどちらがその骨格をくれたものか、丸く形よくまとまった頭蓋の中では、とりとめのない考えが泳いでいる。彼の夢見る無二の青い海に泳ぐ、色彩鮮やかな魚たちの鱗のように、さんざめいて無軌道に動き回っている。
 元来、彼は一つのことについて深く考え続ける習慣がなかった。考え続ける能力がない、と云ってもいいかもしれない。幼かった頃から彼は落ち着きのない子供だと云われた。絶えず足踏みをし、視線をさまよわせ、長いことじっと座っていることが出来なかった。頭の中も推してはかるべしだ。
 料理を覚えてから、彼のその落ち着きのない癖はおさまった。だが、一つのことについてじっと思いを巡らせることが苦手なのは、背が伸びて男の姿になり、スーツを着込むようになった今も変らない。だから未だに、彼は考え事をする時は手を動かすことにしていた。口に食べ物が入っていない時は常に煙草を銜えているのも、きっかけはともあれ、何もしないでいることへの恐怖症的な性格からかもしれない。
 食材を調理するということは、世界と彼をまともな脈絡で繋ぐ、強大な金色の架け橋のようなものだった。料理が彼に向いているのは、形を変えて味をつける、という過程がいつも猛烈な短距離戦だからであり、彼にとっては全く忍耐を強いないものだからだ。それが誰かの口に入り、表情なり、言葉なり、空の皿というかたちで報いられるまでの過程なら、彼は足踏みせずに待っていられる。懲りない、諦めない、という点に於いては、彼は希有な忍耐力を発揮出来るのだ。刻む、煮る、焼く、色を眺め、香をかぎ、何十回となく同じ手順を忙しなく繰り返すことは、彼を退屈させない。その果てしない繰返しの中から微妙な違いが顔を出し、やがて自分の技術として身に付いて行く。運動を繰り返した手足に、熱と力を発する筋肉が静かについてゆくように。
(青ってな、どんな味なんだ────?)
 甘いのか、塩辛いのか、粘りけがあるのか、口の中で溶けるのか。
 いつか、未知の海域同様、自分の握る包丁の前に、青を屈服させてやりたい。
 万華鏡のようにきらきらと様相を変える、夢の断片の中で彼は思う。
 部屋の中には、幾つかの深い寝息だけが聞こえている。嵐の後の明け方。彼等はべたつく海水の飛沫で全身を濡らしながら立ち働き、戦いへの報償としてこの眠りを受け取っていた。
 寝付きが悪く、眠りの浅い青年だけが、狭い部屋の中で熟睡から暫く取り残されていた。砂漠の国にいる間中、彼の奇跡の海への夢は暫く取り残されていた。
「青」への執着を久し振りに思い出した。
 あの国では、はりつめた痛みのような光に満たされた青いドームの下を歩き続けた。砂漠で観る空は光と熱の屈折で燃えるようにゆらめき、海の湿度を通して観るのびやかな青さとは違っていた。あの刃のような青がまだ頭の芯に突き刺さるようだ。海に戻ってきてよかった。彼はどこよりも海の上の空にそそられる。切り分けて指を差し入れ、骨ごとあの青い内部をくつろげてやりたい。
 強情でとりとめのない気性に反して、しなやかに、柔らかく輝く髪に包まれた彼の頭は、ハンモックの不揃いな編み目を逃れて、安らかな闇の中にようやく沈み始めていた。

 不意に目が醒めた。
 体内時計が、眠るべき時間が持続していることを告げていた。だが、一度目を醒ますと、再び眠りに入れることは経験上ほとんどなかった。いつもは三時間半眠る。だが今は、たぶん夜中の嵐のあとようやく眠りについてから、二時間も経っていないと思われた。
 サンジは諦めて起き上がった。目が醒めているのに横になっていることほど、彼にとって身にこたえることはない。クルーはいつもより休む時間が遅くなった。夜食をたっぷりあてがわれて眠りについた彼等は、いつもより遅くまで眠る筈だった。朝食まではまだ時間に余裕があるだろう。キッチンで出来ることがあったかどうかどうか考えながら、彼は組んだ足をほどいて床に下りた。
 ────あいつに何か持っていってやるか。
 ふとそんな気分になった。
 昨夜の嵐の後で見張り台に座ることになった、運の無い男はロロノア・ゾロだ。日に照らされている時と、剣を握っている時以外はいつも眠っているように見えるが、彼は不思議に見張りの時は眠らない。見張り台にくつろいだ様子でもたれて、黒い波と空をじっと観ている。大抵、剣豪の見張りの供は三ふりの美しい刃と、たちのぼるアルコールだけで息が詰まるような強い酒だ。だが、あの男の目は濁るわけでもなく、いつも夜の海を静かに眺めていた。
 サンジは、静かに部屋の跳ね上げの戸蓋を開け、外に身を乗り出した。野郎を起こしてもさほど気の毒とは思わないが、壁一つへだてた部屋では、ナミとロビンが眠っている。美女二人の安眠を妨げるのは彼の主義に悖ることだ。
 甲板を踏んでキッチンへ向かう。狭い船の床が柔らかい木のように靴の下でうねる感覚にもすっかり馴れた。バラティエはこれほど頼りなく波に抱かれる船ではなかった。ゴーイングメリー号は、海という巨きな身体の男に押し揉まれる小柄な女のような船だった。そう喩えてみると、この船の不安定さも脆さも、あの間の抜けた船首も可愛く思えてくる。この船をくれたという、ウソップの憧れの女とメリー号を、サンジはだぶらせて考えているのかも知れない。硝子細工のような、臈たけた少女だということだった。あの嘘つきの話を真に受けるなら、の話だが。もっとも彼がその少女について熱弁をふるっているのを聞きながら、船長もゾロも特に異論のある様子ではなかったから、案外彼女についての話は本当なのかもしれない。
 ウソップの黒い目が輝く様子をぼんやり思い浮かべながら、サンジは足を止めた。どうでもいいようなことが喉にひっかかったのだ。
 ────ゾロの奴の目は何色だったっけ?
 ウソップとルフィの目は黒だ。ナミの目は、光が射し込むと緑がかって透ける明るい茶色。アラバスタを出た後にメリー号のクルーとして加わった考古学者の虹彩もそれに似た榛色だった。赤い帽子のひさしの下で影になりがちなチョッパーの目は案外に明るい、黄色に近い色だ。だが、ゾロはどうだっただろう。彼の目を意識して眺めたことはない。
 そもそもサンジは、ひどく強い刺激を受けた時以外は集中してものを観たり、考えたりすることが少ない。他のクルーの瞳の色は、たまたま近くで覗き込む機会があったり、その造形美故に注意を喚起されて見つめたので覚えているのだ。殊にナミの美しさは彼の注意を促しやすい。象牙のような皮膚も、緋色の光沢を帯びた髪も、ごく細かいところまでよく覚えている。だが、ゾロのことで思い出すのは、彼が眠っている姿、鞘から刀を抜き出すときに、手入れの行き届いた刃が濡れたかがやきを放つこと、嫉妬を覚えるほど見事な筋肉を浮かべた身体が飽きることなく鍛錬を繰り返すところ。そして、がっしりと形の揃った歯がものをかみ砕く様子だ。そうだ。何よりもゾロの歯の形をよく覚えている。歯を食いしばることの多い者に多いが、犬歯が削れて先が平らになっているせいで、余計に歯並びが均一に見える、あの大粒の丈夫な歯の白さを。
 あいつの目が何色かなんて知るか。
 そう思う。だが、分からないパズルがあると気分が悪いように、知らないことに気づくと気になり始める。ゾロの目が何色なのか、どうしても確かめたくなってきた。
(────まァ、待て)
 自分の短気さを戒める。何かつまみでも作って持っていってやったついでに、目の色を確かめればいい。何も持たずに見張り台によじ登って行って、お前の目を見せろ、などと、薄気味悪くて云えるものではない。何も料理せずに近づくのは、何の武器も持たずに徒手空拳で敵に近づくのと同じ事だ。そうと決まったら武器を用意しなければならない。
 見張り台を見上げる。そこに座っている人の影が黒くかすかに見える。彼は余り視力に恵まれている方ではない。たとえば自分にナミの視力があれば、あの姿も夜の中ではっきり見分けられるだろうか。そんなことを考えながら暗いキッチンへ向かった。


「よォ」
 ランプを持ってきて正解だ。うだるような暑い見張り台の上で、足を投げ出して座ったゾロの顔を、持参した灯がかすかに照らした。サンジの骨張った手に握られたランプは微妙に揺れ、一目でゾロの目の色を見分けることは出来なかった。瞳の色を観るのは先ず食わせてからだ。とはいえ、彼はそろそろ自分の好奇心に付き合うのに疲れ始めていた。特に、料理を始めると何もかも忘れてしまうことが多く、自分の目的を見失わないように、彼はコンロの前で、ゾロの目、ゾロの目の色、と、何度も繰返してつぶやかなければならなかった。はたから見ればどんなに馬鹿馬鹿しい姿かと思う。
「そろそろ腹減らねェか」
 ゾロの、切れの長い、薄い瞼の下で目が動く。その瞳がちらっとサンジを見る。この光源では灰色にしか見えなかった。瞼同様、薄い唇が少し開いた。
「あー、……そう云えば減ったな」
「じゃあ食えよ」
 皿の上から覆いを取り去る。今日ゾロがセラーから持ち出した酒が何なのかは知っていた。夜食というより、朝までのつなぎとして作ったつまみはその酒に合わせた。自分の料理が、ゾロの郷土料理と少し味がずれているのは知っていた。だが、料理を口にする本人から嗜好を聞き出そうとしても、さっぱり要領を得ない。別に俺はこのメシで構わねェけど、などというはなはだしく頼りない言葉が返ってくるだけだった。だったらそこで何故「けど」と付け加えるんだ、と、心底胸をむかつかせてサンジは思う。「けど」の続きは何だ。
 それでいつか、彼はゾロの故郷の料理のレシピを入手して、ぐうの音も出ないようなうまいものを作ってやろうと思う。この男が瞠目するような美味いものを作ってやる。見ていろ。そう思っていた。ただし今は、料理のことと同じ程度にゾロの目の色のことが気になっている。彼の瞳の色が何色なのかを見届けたら、朝までぐっすり眠れそうな気がしていた。
 ゾロは、一瞬前にサンジに向けた視線をふいと外した。そして皿を受け取る。
「────頂きます」
 どのくらい前だったのか、とにかく初めてこの男に食事をさせた時と、同じ言葉がゾロの唇から漏れる。
「おう。食え」
 サンジは、気が急くのを抑えようと、煙草に火をつけた。マッチを擦る自分の手に、洗っても取れない料理用の油の匂いがかすかに残っている。
 食べ始める前には挨拶をするものだと、この男に教えたのはいったい誰だろうか。親か、教師か、それとも女か。この時ほど、サンジの中に、誰へともない優越感がこみ上げてくる瞬間はない。ロロノア・ゾロに食事の前の挨拶をさせている。イーストブルーで、首に途轍もない値段をつけられた人斬りが、自分の作ったものを夢中になってかきこんでいる。刀を腰にしてうっそりと薄闇の中で黙っている時のゾロは、海の中を音もなく泳ぐ、青白い巨きな鮫を思わせる。だが、生真面目に挨拶をして自分の料理を食い、他の連中と同じようにデザートを頬張って子供のように笑う。
 ゾロが箸を手に取るさまをサンジは見守る。レシピは思うようにならないにしても、せめて道具だけでも何とかしてやろうと、アラバスタの市場で箸を仕入れた。食事時には使わない長い箸も買ってみた。自腹だ。皿のセッティングや弁当を詰めてやるときに重宝していた。
 ────箸ってな、使い勝手のいいもんだな。
 別にこの男に媚びるつもりはなかったのだが、そう漏らすと、ゾロは珍しく嬉しそうな顔をした。故郷にまつわるものを褒められたからなのだろう。
 実のところ、「海賊狩りのゾロ」は、出逢う前にサンジが噂で聞き知っていた人物像とは少し違った。
 無論奴は人斬りだ。
 海賊を斬って賞金稼ぎをしていた過去に加えて、遂に自分がその海賊になった。文字に書き記した上では、経歴に綺麗な部分は何一つないと云っていいだろう。だが、それでもこの、玩具のような船に乗る他のクルー同様、その経歴の背負うイメージと噛みあわない部分があった。子供や獣に荒っぽい情をかけ、思い出を尊び、仲間の為に刀を抜ける奴だ。よく笑い、怒り、眠る。食いぶりもサンジを満足させる。同じ年の男にこんなことを思っているとは、決して口に出せないが、思ったよりもずっと可愛気があった。ひそかに仲間だと思っていても抵抗のない相手だと、バラティエを出てからの幾ばくかの航海で分かっていた。
 何事も突き詰めて考えることの少ない彼にとって、ゾロへの興味はそこで終っていた。彼の過去の話をいちいち詮索するつもりもないし、これからのことも分からない。バラティエから強引にサンジを連れ出した子供のような船長も、橙色の細い焔のような髪を潮風にさらす彼の女神も、同じ海賊の父親を自分の理想にかかげる若い狙撃手も、悪魔の実を食ったデリケートなトナカイも、暗殺稼業に精を出していたロマンティストの考古学者も────これからどこまで行くのか、いつまで一緒にいるのか、そんなことは分かるはずはない。問題は今日彼等と一緒にいることだ。そして、たぶん明日も一緒にいるだろうということ。おそらくはその次の日も、或いは次の港まで。サンジに考えられる限界はその辺までだった。「今日」が膨大に積み重なって数年や数十年になるならいいが、それは結果論だ。
 目の色が何色か、などと、単純なのか複雑なのかはかりかねる興味をゾロに持ったことは不思議だった。
 彼は、湿った風の中に何度か煙を送り出しながら、奇跡的に辛抱強く、ゾロが自分の作ったものを食べ終えるのを待っていた。ゾロの目は皿の上に集中していて伏せられている。見張り台の上で、ゾロは座っていて、サンジはランプを台の手すりに置いて立っている。前に座り込めば目の色が見えるかもしれない。だが、何故だかそのために彼の前に座るのは抵抗があった。嵐の後の濡れた黒い空には、もう斜めに傾いた「射手の膝」────アルファ星のアル・ラミが薄赤く輝いている。一転して機嫌を直した海にあやされるように船は揺れている。
「クソ剣士、もうちょっと早く食えよ」
 ゾロがのんびりと酒をあおりながら皿を空にしてゆくのに声をかける。
「あ? ────だいたいお前、何でそこにいるんだよ」
 ゾロが目を上げる。見えるか、と思ったが、虹彩の色が薄めなのが分かっただけで、色までは見て取れなかった。
「いちゃ悪いかよ。お前が食い終わったら皿持って帰ってやる。だから早く食え」
「何云ってやがる。いつも自分で持ってこいってうるせえだろうが」
「今日はオレ様がそういう気分なんだよ」
「見てられると鬱陶しい。皿なら持って行くから消えろ」
 そう云われてカチンと来る。
「あァ? てめえなんかの為にわざわざつまみまで作ってやってるオレに向かって、その云い草は何だよ?」
「オレのためじゃねェだろうが」
 心の中を読まれたような気分でぎくりとする。
「────何云ってやがんだ?」
 ゾロはまたちらりとサンジの顔を見た。唇の片側がかすかにつり上がる。
「モノ作って食わすのはてめえの趣味もあるだろ。嫌々やってるみたいな云い方すんな」
 そういう意味か。サンジはほっとした。どうしても、自分の今の目的にこの男に知られたくなかった。だが、同時にこれ以上待たされるのが耐えられない気分にもなってくる。今なら、喧嘩の勢いに任せて胸ぐらの一つも掴んでも不自然ではないかもしれない。
「クソ生意気なこと抜かすとオロすぞ」
 云い慣れた憎まれ口がほろりと口から出る。それと同時に、彼は見張り台のへりに置いてあったランプを掴んだ。逆の手でゾロのシャツの胸元を掴もうとする。突発的な動きだったが、ゾロは捕まらなかった。たいして苦労する様子もなく、身体を捻ってサンジの手を避ける。もう半ば腰を浮かせて、彼が臨戦態勢になったのが分かる。
「何だってんだ、いったい」
 彼の左手が、傍らに置いた剣を探りたげにぴくりと動くのが見える。
 莫迦野郎。ただ目の色をちょっと見せろって云ってるんだ。
 そう云えれば簡単だが、あいにく彼はそんなことを男相手に云うつもりはなかった。
「てめえはそこでじっとしてろっての」
 逆効果だとは思ったが、つい威嚇するような声を出した。煙草を銜えたまま喋るせいで、サンジの声はいつも柄の悪い、皮肉な響きになる。
「何だ、気味悪ぃな」
 じっとしてろ、と云われたゾロが、嘆息してそう云った。ゾロの声は腹の底にひびくような低い掠れ声だ。その声にあきれたようにそう云われて、再び頭に来る。
「うるせえっつってんだよ」
 彼は、ゾロの顔に打ち当てる勢いで手を伸ばし、形のいい、広い顎の骨を掴んだ。サンジの指にあたった頬の皮膚の上にざっと鳥肌が立ち、ゾロが驚いたのが感触で分かった。ランプを強引に突き付け、顔を近づける。
「てめ……」
 サンジの作った料理を今まで咀嚼していた歯の間から、怒りと当惑の篭った声が漏れ、ゾロはぐいと首を反らして、サンジの手をもぎ離した。
「だからてめえは何がしてえんだ!」
 苛々したように怒鳴られる。
「────……」
 だが、目的を達した筈のサンジはにわかには口がきけなかった。
 ランプのゆらめく灯の中で、間近に見おろした剣豪の目は一瞬灰色に見えた。だが、更に顔を近づけたせいで、それが間違いだったことに気づいた。急に光を突き付けられて驚かされた男の瞳孔は極端に収縮して、その不可思議な色の虹彩を最大限にサンジの目の前にさらけ出した。
 男の目は灰色ではなかった。透明な涙液で覆われた虹彩はベースがうっすりと冷たい青で、灰色や金色、碧、緑色の複雑なインクルージョンに覆われていた。いっけん灰色に見えてしまいそうだが、その瞳は考えられないほど多色のいりまじった、アンティークの硝子のような光沢を持っていた。彼は手に持ったランプを落としそうになっているのに気づいて、かすかに震える手で、それをもう一度見張り台のへりに置いた。むち打たれたような痛みを伴う賛美の念が、自分の心臓を高鳴らせているのが分かった。
 自分が、その瞳の贅沢な冷たさに呑み込まれたことが、サンジにはなかなか理解出来なかった。自分の胸の左側でおそろしい勢いで早鐘を打つ心臓が何を意味しているのか、それが腑に落ちなかった。
(────何だ? こいつの目)
 彼は自分の驚愕のただ中にぽかんと取り残されて、腹をたてている男の顔を眺めた。
 こんな色の目は見たことがなかった。青い目は今まで幾らでも見たことがある。主に美しい女の顔にはめこまれていてこそ、その目は威力を持つとも云えるが、青い目を持った人間が少ないわけではない。自分自身の目も呆気ない晴れ空のような青だった。だが、こんな形容しがたい色の目は初めてだ。
(違うな、一度────)
 動悸がおさまらないまま、彼は思い出した。
 バラティエに、猫を連れた女が立ち寄ったことがある。素晴らしい艶のあるセーブルの毛皮のコートと、金糸を織り込んだドレスを身につけて、女の小指よりも細い踵の靴を履いていた。高級旅客船とすれ違った時、気まぐれに会場レストランに立ち寄ったのだ。周囲を屈強なダークスーツの男が十人も守っていた。コートを脱ぐと、細い肩の上に豪奢な金髪が渦巻いた。その女の肩に灰青色の毛並みの猫がしがみついていた。サンジが、女をエスコートしようとすると、警戒したようにあおい目を円く見開いてサンジをねめつけた。
 あの猫の目が、丁度、今目の前にいる男と同じような色をしていた。眼底に夢の結晶構造を透かし見せるような色だ。最悪の過去も、未来の海も、世界の情景を丸ごとひっくるめて細かい疵で覆い、その合間を金と宝石で埋めたような色だ。
 サンジは声も出せずに、ロロノア・ゾロの、愛想のない、冷たく整った顔を眺めた。笑うと別人のような印象になるのを知っている。その笑顔が自分に向けられたことは殆どなかったが。サンジの気分の異変に気づいたのか、ゾロも妙な表情になった。
「てめえ、熱でもあるんじゃねえか?」
 耳に馴染んだ、莫迦にしたような口調でそう云われた。いつもなら、その一言で怒りのスイッチが入るところなのだが、今日は違った。瞳の濡れた表面に触れられるほど間近に見た、吸い込まれるような目の印象が彼の息を詰まらせていた。
 一瞬手に持った灯の中に見出した、夢の淵のようなあの目の色を、彼は受け入れることが出来なかった。こいつの目があんな色をしてるなんてことがあるか? あの蒼い猫の眼窩に見出した蒼い煌めきと、目の前の傲然とした男の目を、記憶の中ですり替えているのではないか? 
 だが、彼が気づいていないのは、男の目がどんな色をしているか、ということよりも、むしろ、それを見つめた瞬間に自分の中で何が起こったのか、ということだった。いつも散漫でちらちらと泳ぎ回る彼の心は、幾千本の小さなナイフのような矢印でゾロに引き付けられて、強硬な鎖でつながれたように視野を狭めていた。それは今までサンジが味わった気分の中では、敵と向かい合った時の気分に限りなく似通っていた。
「……てめえ」
 サンジは歯ぎしりせんばかりの気分で呟いた。
「もう一度その面見せてみろ」
「はァ?」
 彼の手が伸びるのを、今度は、邪険な左手の力がはらいのけた。
「ふざけんのも大概にしとけ。下りてさっさと寝ろ」
「いいから見せてみろって」
 もう一度はらいのけられる手をどけようとして、破裂しそうに心臓を高鳴らせながら、彼は手を伸ばした。ゾロの中にも苛立ちと怒りがぎりぎりとはりつめる感触が伝わってきて、余計に興奮した。
 完全に立ちあがったゾロが思わず刀に手を伸ばそうとして屈んだ動きと、サンジが身を乗り出した力が重なった。勢い余って伸ばした手が空を掴み、ゾロの背中ごと、手応えのない空間の中にぐらりと傾いた。
 二人分の身体が甲板の上の空に浮いた瞬間、サンジはゾロの腕を掴んで、見張り台の外側の壁を蹴った。

 先に海上に顔を出したのはサンジだった。力任せに見張り台を蹴って飛距離をかせいだため、二人の身体は船から少し離れた海面に叩き付けられたのだ。彼とゾロなら、甲板の上に落ちても或いは無事だったかもしれないが、むしろ、彼等の落下を受け止めるメリー号の方が心配だった。斜めに叩き付けられた海面は、分厚い板のような感触で彼等を迎えた。水面で背中を思い切り打って息が止まりそうな痛みを味わう。そうでなくともサンジは度々肋骨にダメージを受けている。治りは早いほうだが、新たな衝撃をらくらくと受け止められる程ではなかった。
 激しく咳込んでいると、すぐ傍に小さな水しぶきを立ててゾロが浮かんできた。殆ど光源のない海上でさえ、ロロノア・ゾロがカンカンに腹を立てているのが分かった。
「一度ぶった斬るぞ、てめえ」
 ゾロは、目の中に入る海水の滴を手で拭いながら吠えた。
「刀も無しで、どうやって斬るよ」
 サンジは逆に頭から水を浴び、真っ暗な海上で剣豪の目の呪縛から解き放たれて、少し落ち着いていた。だが、身体の芯にどこか熱い、小さい火のような敵愾心────少なくともそれに似たもの────が燃え残っている。
「クソ、覚えてろ」
 ゾロは右手で顔を拭いながら、ゆっくり左手で水をかき、メリー号の方へ泳いで行こうとした。メリー号に波がぶつかる小さな音がしている。海水で貼りついたシャツ越しに、ゾロの肩が盛り上がるのが、かすかに白く見える。
「クソ剣士、待て!」
 思わず叫んだ。遮二無二水をかいてゾロに追いつく。泳ぐのはサンジの方が遙かに上手い。ここで逃がしたら、自分の気持の正体を一生見極められないような気がした。
 ────こいつ。
 ぞくぞくと背中が震えた。夜の海の中に放り出されるのは、幼かった頃、嵐の中でゼフと一緒に漂流した日のことを思い起こさせて不快だった。だが、胸の中で燃えているもののインパクトはそれどころの話ではなかった。
 ────あの店に来た客の中で、一番美しかったレディが抱いてた猫と、同じ目の色をしてやがる。
 ────運命の女みたいな蒼い目をしてやがる。
 そう思った瞬間、パズルピースがかちっとはまったような感覚があった。自分が何を問題にしているのか、振り向いたゾロの顔を闇の中に透かして見た瞬間にようやく察しがついたような気がした。元々色素の薄いゾロの皮膚は、暗い海上で青白く見えた。きっとその顔の中で、訳の分からないあの目が自分を見ているのだろう。一見灰色に見える瞳に入りまじった多色の皹の上で、瞳孔が収縮と拡散を繰返しているのだ。
 ゾロが女だったとしたら、彼の肺まで侵食して溺れさせるような勢いで入り込んできた、先刻の感情が何なのか、サンジにもすぐ分かった筈だ。
(つくづくオレも鈍いぜ……)
 辟易とした気分で思う。さっと血の気が引き、もう一度登ってくる。ゾロにそんな感情を抱いたことの異常さには目を瞑った。思い悩むのには飽き飽きしていた。
 彼はぐっしょり濡れたシャツの腕を伸ばし、ゾロの身体を引き寄せた。冷たい波の中で男の身体が温かく感じる。自分がかすかに震えているのが、さっき背中を強打したせいなのか、感情のせいか、海水の冷たさのせいなのか分からない。それをした後にゾロがどんな反応を示すかも、もうどうでもいいような気がした。
 彼は、ゾロの濡れた髪の中に手を差込み、茫然としたように動きを止めた男の唇に自分の唇を押し当てた。濡れた唇は塩辛い。これが剣豪の味か、と思うと少し可笑しくなった。歯列を舐める。このエナメルの感触を味にたとえるなら白。そして、赤を思わせる熱い、柔らかい感触に触れた。ほぼ肩まで水につかったまま、彼は硬い肩を更に深く抱き込もうとした。
(────何でこいつ、何も云わねェんだ)
 短気だが小心な彼は、男の沈黙にふと不安になる。だが、もう後に引くことは出来なかった。白を通り抜けて赤へ。さっきから発作的な感情の爆発に痛めつけられた心臓は酷く強く打って、彼の手足に血を送り出している。そのせいか、少し眩暈に似た感覚がある。てのひらの下で静まりかえっていたゾロの肩がふっと熱くなったような気がした。
 その腕が唐突に上がって、自分に巻き付いた時、サンジは思わず沈みそうになった。
 何をしてるんだ、こいつは。そう思って目を白黒させた。
 歯ががつっと擦れて、塩味の舌が入り込んでくる。その弾力の中から、甘い無味がじわっと染みて来た。ゾロの唾液が自分の舌に乗っていることに気づくまで一瞬インターバルがあった。
 ゾロからキスが返ってきたことへの驚きは、今日味わった幾つもの混乱の中でもとびきりだった。
 脳髄で熱が膨らんだ。つかっている水が突然ぬるく感じられるほど、全身が熱く火照った。夢を見ているときに似て、思考がきらきらと飛散してとりとめのない方向へ飛び散った。白を装った自分の皮膚の下で、にわかに赤が動き始める。
 高揚で血を熱くするのが、何も今夜この場所で初めて、というわけではなかった。だが、老人が片足を失った理由を知った時、彼が海上にレストランを開いた時、そこに、麦藁帽子をかぶった晴れやかな若い海賊がやってきた時、彼の仲間が涙にまみれた顔で天を仰いだとき、美しい少女のために料理をする時、彼はいつも一人だった。
 こんな風に、感覚が粉々になるほど高揚して、挙げ句の果てに相手と自分が滅茶苦茶にまじり合うような錯覚を感じたのはおそらく初めてだった。
「何のつもりだ、クソ剣士」
 唇が一瞬離れた隙に、息を荒げてつぶやく。もっとふさわしい言葉はあったかもしれないが、出てきたのは憎まれ口だった。
「てめえが云うな」
 唇が触れて以来、初めて返ってきたゾロの言葉はそれだった。大抵飄々とした調子の彼の声は、戸惑ったように掠れてがさがさになっている。
 動揺してやがる。そう思うと無性に可笑しくなった。自分だけが散り散りになっているのではないことが分かるとほっとした。声をたてて笑うと、ゾロが腹を立てたのが分かる。こんな暗がりで、目の色も表情も、唇が動いたことさえよくは見えないような場所でも、いつの間にかゾロの気配を読めるほど、自分が彼に馴染んでいることを痛感した。
「笑うんじゃねェよ、むかつく」
 案外に素直な言葉が聞こえてきて、サンジはにやついた。たぶん挑発に乗るだろう、と思いながら口を開いた。
「黙らせてみろよ」
 ゾロの輪郭の影が動き、頬にはっと短い息がかかった。背中をぞくぞくと痺れが駆け抜ける。これ以上はめをはずすと自分たちは沈むかもしれない。そう思いながら彼は男の隆起するような筋肉を浮かべた肩を掴んだ。うなじにぐいと引くような力が加わって、彼はそのかすかな痛みを快く味わった。あの目を覗き込むまでは、想像もしなかった感覚が自分の中に発生していることを思う。痛みが少しでも甘く感じられる異常事態。ゾロの指が彼の項にさしこまれて、髪を握りしめていた。濡れた柔らかい髪はもつれ、ゾロの指に絡みついて溶けてしまいそうだった。
 抗議する間もなく唇を塞がれた。下唇を噛まれる感触に、彼は苦笑する。ゾロが相手では、甘さと苦痛はいつもどちらつかずの位置で共存することになりそうだった。煙草を、そして左足に履いていた靴を海の中で失ったことが頭の隅をかすめ、次には口の中を満たしたゾロで、それらが全て消し飛んだ。


「────なァ、そろそろあがんねーか。全身ふやけそうだぜ」
 彼は、飽きずに自分の口元や、耳に歯を立てる男の身体を引き離した。あたりが薄明るくなりかけている。興奮したせいで身体はさほど冷えていないが、日が昇るまでここでじゃれている訳にはいかない。薄明るくなってきた空気の中で、ゾロが目を擦った。
「そういや、夜が明けるか」
「見張りさぼってちゃまずいだろ」
「誰のせいだよ」
 自分たちの口数が多いことを意識する。暗闇の中では衝動に任せても、日が昇れば日常と現実が戻ってくる。サンジは、自分の髪が金色の光を弾くのを意識して振り返った。水平線の向こうに太陽の破片が覗いている。
「やべェ、ナミさんが起きてくるかもしれねぇな。ぐずぐずしてねぇで早く登れ」
 勢いをつけて船の修繕痕の板に手をかけたゾロが振り返った。何か云いかけるが、唇の端がゆがみ、彼は何も云わずにメリーの脇腹をよじ登った。無遠慮に跳ね返る光の矢を受け取っても、少し距離のあるサンジには、やはりゾロの目は灰色にしか見えなかった。あの独特の色は、おそらく相当近づいて目を凝らさなければ見えないのだろう。満足した彼はゾロの後をよじ登った。今度またあの色をゆっくり味わってやる。視線で切り開き、味を確かめ、やわらぐまで仕込んでやる。向こうにも相当食わせてやらなければならないかもしれないが、それはたいしたことではなかった。
 探していたものの断片が見つかったような気がして、胸のどこかが熱く痛んだ。
 上方で甲板がきしみ、先に登っていった男がメインマストの方へ歩いていく音が聞こえた。まだ、船にとりついている彼には空しか見えていない。
 明るくなりかけた空をうつして、自分の目がどんな色に輝いているのか、それは意識していなかった。

02: