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02_間違いだった数が解ける

11 01 *2013 | Category 二次::ONE PIECE・ゾロサン


続き





 太陽が激しく照りつけている。メリーの片隅で、船の下に横たわる凪の感触を味わいながら、ゾロは座っている。ずっと日にさらしていても不思議に日に灼けない瞼を軽く閉じている。クルーの誰が見てもゾロはいつも通り眠っていると思うだろう。
 だが、ゾロは眠ってはいなかった。
 何日か前の嵐の後、自分が海の中でしたことについて考えていた。
 したくないことをしたと思っている訳ではない。ロロノア・ゾロはいつもしたいように振る舞い、望まないことに関しては、首ひとつ縦に振ることのない男だったからだ。生きるためには泥のまじった握り飯でも食う。たとえそれが饐えていようと、使われる筈でない調味料が入っていようと。それを自分に食わせようとした幼い心意気が含まれているならば尚更だ。
 だが、自分の覚えている限りでは、目的のために他人に媚びたこともないし、仲間によくそれをからかいの種にされる方向音痴でさえ、行きたくない方に行ったことはなかった。最短距離ではないかもしれないが、結局彼は大抵自分の行きたいところに行き、会うべき人間に出会っている。ミホークもそうだ。この小さな船の船長ともそうだった。
 人を斬ることにも、彼には彼なりの理由がある。海賊狩りなどと呼ばれるようになったのも、海賊は斬る相手として適当だと思ったからだ。女子供を斬るのは気が進まないが、それは彼らが自分より弱いからなのかどうか。ゾロには解らなかった。女を弱い生き物だと思ってしまうのにも彼には抵抗があった。
 人間を見分けるのにも、それほど自分の目に自信はない。彼は自分が心を許した相手は別格に置くが、基本的には性善説ではないのだ。人となりが解るまで彼は他人を信用しない。それは、相手が子供であれ、女であれ同じことだった。
 信頼への回路がふと開くのは、期間の長さ、短さに関わりがあるわけではない。ただ一言の言葉や、必死になって汗を浮かべた顔や、破天荒な笑い声がそのきっかけを作ることもある。長年腹の底で石のように抱えてきた思い出とつながることによって、突然道が開くこともある。
 だが、その性悪説のロロノア・ゾロとあの男との間に、道が開いていたのかどうか定かではなかった。ゾロが彼について何か思ったり感じたりするよりも先に、事は起こった。


 あの薄い肉を口の中に入れて噛んだ。
 食うためではなかった。薄い肉。鎖骨の上を包んだ、細かい傷を多く残した皮膚。濡れてもつれた髪の中にぼうっと浮かんで見えた耳朶の肉。そして、唇と、歯列の奥にある柔軟な肉だ。海水にぐっしょりと重くなった自分たちの身体の中で、そこは唯一違う液体で濡れた肉だった。自分のそれと擦り合わせている内にじれったくなり、歯で挟んで吸い上げると、煙草の苦みをかすかに残した舌は、どこか嬉しそうに、楽しそうに震えた。絡みついて来るその技巧は流石といったところで、興味の沸かないものには一切血を熱くすることのないゾロの胸の芯に火をつけた。
 ───あいつの肉を。
 口に入れて噛んだ。
 栄養を摂取する以外の目的で、生き物の肉を口にするということがどんな意味を持つのか、ゾロにもそれは分かる。捕食しない以上、人間の肉は毒にも等しいものだ。それの唯一の例外が何であるのか。それが分からないほど鈍感ではない。
 熱い熱が腰にわだかまって、背中を汗で冷やすとき、そうして、食いちぎって飲み込む以外の目的で肉を歯の間に挟み込んだ経験はある。それが攻撃ではなく愛撫という名のつく、あの不可思議な時間。一瞬で熱が冷め、自分の左側に燃えていた衝動の炎から解放される瞬間。
 元々ゾロはその意味での欲望は薄い方だ。性欲処理をするために苦しむ必要は殆どなかった。金を出して女を買ったことは一度もない。どこの街に行っても、不可解なことに、ゾロのような男を好む女が必ず一人はいた。ゾロの刀や、剣呑な目つき、闘うために発達した体は、大抵の女に忌避の気持を抱かせるようだった。だが、並はずれて好戦的で気のきつい女が、まるでナイフを握るようにしてゾロを誘う。彼の目の冷たさと、気のない様子に惹かれるのだと云った女もいた。
 断れば斬る、とでもいうようなその女たちの気迫にゾロは苦笑するばかりだった。彼に構う女のみなぎらせる気迫が、深刻であることが分かるからだ。
 きつく睨むようにして彼を誘う女の深刻さに応じるやり方は単純そのもので、その気になれれば寝る。その気になれなければ寝ない。率直に理由も云うようにしていた。外見が好みでないというだけの理由もあれば(彼は、黒髪の小柄な女とは決して寝なかった)、ただ生理的にそれを求めていないこともあった。
 よく刺されないものだと誰だったかに苦笑された記憶がある。幸い、今まで様々な獣や人間に傷つけられてきたロロノア・ゾロの身体に、色恋沙汰でつけられた傷は一つもなかった。蛇足だが、ゾロが色恋で人を傷つけたこともまた無い。
 彼には恋というものが分からないからだ。そういった意味でゾロには欠けた部分があり、彼の屈強な身体の中でも処理できない感情があるのだ。淡水下では浸透圧調節が出来ない海水魚のように、愛や恋などという感情を突きつけられれば、環境水の急激な濃度の変化についてゆけずに、中毒を起こしたようになるだろう。
 もし恋情を感じたことがあるとすれば、彼は長い間、強くなることに恋をして来たと云ってもいいだろう。それは烈しい恋だった。強くなるためには生き残らなければならない。食いつないでゆくことも大事だ。食って眠り、また目を醒ますこと。
 彼の人生に必要最低限以上のエッセンスを加えているものがあるとすれば、酒のもたらす酩酊だった。彼の身体は大量の酒を水のように飲み下してしまうが、それでもアルコールの通り抜けた後は楽天的な気分になり、眠りも深くなる。酒が入っている時とそうでない時では見る夢も少し違うようだ。
 ゾロは悪夢を見ることの酷く多い男だが、酒が入ればその色調は多少は変わってくる。
(───そういや、少し似てたか)
 そう思う。あの、海水の中で、柔らかくもない男の身体に夢中になってむしゃぶりついていた感覚の話だ。それを飲めば確実に心身に変化が起こることを知って酒を呷るように、幾ら流し込んでも足りないアルコールのように、執拗に、凪のおだやかなしぶきに濡れた身体を抱き込み、その薄い肉を噛んで舌で舐め、その動きに添って、腕の中の身体がぎくりとしたようにもがくのを楽しんだ。
 それが異常事態だということは分かっていた。
 殊に相手があのコックとあっては。

 そもそもあの夜、あの男はおかしかった。あの男というのは、ゾロの閉じたまぶたの裏で彼を考え込ませている、好戦的なコックだ。喧嘩腰なのはいつもの話だったが、わざわざ料理を携えてやってきて、食べているゾロを待っていた。そんなことは今まで一度もなかった。
 ゴーイングメリー号の料理人は酷く短気なのだ。ゾロを起こしに来たり、見張り台まで夜食を持ってきたりするのも、おそらく、自分の作ったものを食べに来るまで待つのが苦痛だからだ。それは、呼びながら、或いは彼の腹の上にかかとをうち下ろしながら、ぶつぶつと文句を云う言葉の端々から容易に察することがことが出来る。細いがよくしなる銀のロープのような身体で見張り台をよじ登り、皿を置いて、食え、と云い残すとさっさと降りてゆく。それが自然な成り行きだった。新しい仕事を探しに行くのだ。彼がじっと黙って座っているところなど見たことがなかった。食事中でさえ殆どがクルーの給仕に明け暮れ、その後は膨大な後かたづけと掃除が待っている。しかもそれを決して他人に手伝わせようとしない。
 それは、料理人云うところのレディファーストなどとは関係なく、男連中にさえ、料理人は自分の労働を分け与えようとはしなかった。
 皿の洗い方、重ね方、それを乾かし、グラスを磨き、次の日の仕込みをするまで、キッチンは料理人にとっての侵すべからざる聖域になるようだった。
 たまにウソップあたりが手伝ってやろうなどとすれば、あれこれと注文をつけられて、しまいには怒鳴られ、よく動く足でキッチンを追い出されるのが落ちだった。
 そんなコックが、わざわざゾロが食べ終わるのを待っているというのは、妙に居心地が悪かった。何かをもくろんでいるのではないかとさえ思った。
 しかも、皿をそろそろ空にし終えたゾロに、料理人は手に持っていたランプを突きつけ、胸ぐらを掴んで、
(「ちょっとそのツラ見せてみろ」)
 そう、刺々しい声でささやいたのだ。
 何か後ろめたい事があるように、料理人のなめらかな低い声がひそめられている。この男は美声だ。それは彼への好悪の情のあるなしに拘わらず、ゾロの耳も認めるところだった。いかにも女を口説くのに向いた、語尾の甘く上がる声だった。
 だが、その時、コックの声の中には、どんな風に受け止めても甘さも友好的な雰囲気もなかった。思わず腕を払いのけると、
(「いいから見せろっつってんだよ」)
 そう喧嘩腰につめよられた。料理人の喧嘩腰にはつくづく慣れたゾロだったが、その中でも一流の荒々しさだった。その後のことを考えれば、別のニュアンスがあったとも考えられるが、あいにくゾロには想像もつかなかった。
 彼の作る料理は旨い。
 食い物は、生きていける程度のものを食えればそれでいいゾロだったが、海上レストランの副料理長だった男が船にやって来てから、旨い飯というものはなるほどこういうものか、と腑に落ちる気持だった。
 コックとして彼らのささやかなキャラヴェルに乗り込んできたのは、染めてでもいるような、華やかな金髪の若い男で、後からナミに、自分と同い年なのだと聞かされた。半ば病的と云ってもいいくらい女好きで、男と女を差別する事をはばからなかった。
 料理人の作った料理を食べるより先に一緒に闘った。そのせいで、正直、料理の腕前よりも闘いの技量に関心を持った。筋肉がついているのかいないのか、着込んだダークスーツの上からでは分からないような細い身体でも、彼はおそろしくねばり強く、腕がたったからだ。
 だが、彼の作った食事を何度も食べない内に、その男が料理に全身全霊を傾けていることが分かった。彼の作るものは旨かった。最初は洗練されて、いささかよそよそしい味だった料理が、やがて着慣れた服のように舌になじむ味に変わった。それぞれの皿に好みの一口を付け加える術も、すぐに会得した。
 彼。サンジ。姓なのかファーストネームなのか。名はそれだけらしい。
 その短い名前さえ、随分後になって覚えた。最初は彼が仲間になるとはにわかに信じられなかったので、覚える必要を感じなかったのだ。思えばまだその名前を自分の舌に載せたことはない。料理人が同い年だったということのせいか、彼らには最初から、特に理由のない敵愾心がお互いにあった。はっきりとそれぞれの顔に矢印を設定した敵愾心だった。
 それはたぶん向こうもそうだった。女たちやウソップと他愛ないことを喋っている時の料理人はいつも笑ってばかりで、その顔だけを見るなら気のよさそうであかるい、線の細い男に見える。だが、ゾロに接するときの彼は違った。敵を睨む時のような険のある目をした。
(───俺が何をしたってんだ)
 そうも思うが、しかし人間同士には相性というものがある。誰にでも大抵愛想の良いあの男が、自分を嫌っているというなら仕方がないだろう。
 だが、この料理の味は、自分を嫌っている人間の作り出したものだろうか。そう思うと、かすかに不思議になる。一緒に船に乗って数ヶ月でしかないのに、料理人はゾロの好みを覚え込んでいた。時々しつこくどんな味のものが好みなのかを聞いてくるところを見れば、ゾロの好みのものを作ってやろうという気持もないではないらしい。自分はこんな味が好きで、こういうものが食べたいのだ、といちいち応じるのも莫迦莫迦しく、特に答えた覚えはなかったが、それでも食卓には彼の好みのものが載るようになった。よく箸をつけるかどうか、どの料理なら皿を何枚重ねるか、そこら辺から情報収集しているのだろう。
 一度だけ失敗したことがある。
 やはり料理人に、どんなものが食べたいのかを訪ねられた時のことだ。
(「別に俺はこのメシで構わないけど」)
 そんなようなことを云った。
 今、食卓に並ぶ料理に不満はないが、自分が子供の頃に食べた郷土料理を彼が作ったら旨いだろう。ふとそう思ったのだ。それで、構わないけど、と云って切った。何と云って続ければいいのか。俺の故郷の料理を作ってくれ、とでも云うのか。御免だ。彼が言葉を濁したことに、料理人が不満そうになったのは分かった。自分の胸の中に沸いた気持をやましく思って、ゾロはそのまま鴎の声を聞きに甲板に出て行ってしまった。何だか妙なことを云いそうになった、と思って後悔した。
 サンジの笑った顔には特に感慨はない。いつも笑っているからだ。それよりも、食卓を囲むクルーの表情を見つめる、彼の油断のない目が気になった。自分も観られているのを意識する。あの男が自分の仕事を確かめている。自分も彼の仕事の一部なのだと思うと奇妙な気分になった。
 ───プロって奴か。
 そう思う。そう考えれば当たり前のようにも思うが、彼がやってきてから船の上の食糧事情はにわかによくなり、それぞれの体調も整ってきたことが分かる。こんな小さな船にでも、ルフィが料理人を船に乗せることに拘泥したのは、理由のないことではないと思った。
 彼の、執拗な自分への構い方や、それなのにふいと突然興味を無くしてしまうような、胸の底からむかつくところ。
 そういったことも、あの男のカラーとしていい加減慣れはじめた頃に、数日前の「事」が起こったのだ。


 目の前で、白いワイシャツに包まれた背中が先に浮かび上がってゆくのが、自分たちの身体を包む、激しい気泡の中で透けて見えた。灯りをつきつけられて顔を見せろ、と云われたことと、その後夜中の見張り台でやらかした、およそ莫迦げた醜態に、ゾロは火がついたように腹をたてていた。脇腹には、海面に叩きつけられた瞬間の衝撃がずきずきと不快な光の信号を放っていた。胸や腹の付近に受けた衝撃は、そのままミホークに傷つけられた傷に響くのだ。ミホークの芸術的とも云える刃につけられた傷は、内臓まで断ち切られた傷としては、望みうる限り綺麗に治っていた。チョッパーがゾロの腹の傷を見た時、感嘆の声を上げたほどだった。
(「もの凄く腕のいい外科医が切った傷みたいだ」)
 チョッパーは興奮しながら筋肉の間を通し、腹膜を切り開いた傷を眺めながら云った。
 それを聞いた瞬間、またゾロの中に、牙を剥くようにして嫉妬の感情が沸いた。力任せに切るだけではいけないのだ。隙間を通り抜けるようにして切らなければいけないのだ。無言で身体を鍛えながら、ゾロはいつもそんなことをぐるぐると考えている。
 もっともその見事な傷も、のちの手当が悪かったこと、上から繰り返して傷つけたことによってだいぶ傷口を汚され、いびつな傷になっている。
 サンジに云われもなく売られた喧嘩を避けようと海に落ちた夜、また彼は繰り返し、その傷の深さを思い知らされることになった。
(「ぶった斬るぞ」)
 海水を吐き出しながら怒鳴ると、料理人は振り向いて、気障な髪型に伸ばした金髪をかき上げた。薄い闇の中で、あれほど煙草を吸うにも拘わらず白い歯列が覗いた。笑ってやがる。そう思うとひどく腹が立った。口元にいつも加えている煙草をむしり取ってやろうと思ったが、それはとっくに海の中に消えてしまったようだった。
 嵐を抜けて、散々働いた後に酒を抱えて見張り台に上り、彼にしてはゆるやかな気分で座っていたのが、面倒なことに巻き込まれて腹が立っていた。こんな日にも料理人がちょっかいをかけてくるのにも腹を立てていたし、自分たちが海に落ちる原因を作った張本人が笑っているのも腹が立った。
 とにかく、夜の海の上でこの男と二人きりでいるのはまっぴらだった。彼は一言二言悪態をつき、船に戻るべくゆっくりと水をかいた。始終嵐やトラブルの絶えることがない彼らの小さな船の見張り台が空なのも気になった。アラバスタを離れて何日も航海していないのに、突然冷たくなった塩水が服を通して彼の傷痕を洗っているのも不快だった。
 波に紛れて、料理人が背後から、待て、と声をかけるのが聞こえた。水をかく音が聞こえてきて、それはゾロを上回るスピードで自分に近づいてきた。海から離れたことのないサンジは、それこそ魚のように泳ぐのだった。
 この上何の用だ。
 そう思いながらメリーのすぐ手前で止まると、ぶつかってくるようにして細長い身体が彼に追いついてきた。
 そこは流石に暗く、細かい表情まで見分けることは出来なかった。だが、数ヶ月付き合っても何を考えているのか殆ど理解出来ない同い年のコックが、またしても怒ったような、威嚇的な雰囲気を漂わせているのが分かった。メリーに戻る前に決着をつけようとでもいうのだろうか。
 刀は三本とも見張り台に取り残されているが、拳の一発くらいは入れてやる。
 そう思ってゾロは振り返った。
 その瞬間、細かいふるえを含んだ腕がゾロの両腕に触れた。そこには、ゾロが想像したような暴力的なニュアンスはなく、女にでも触れるようなもの優しい熱が含まれていた。驚かされたゾロは動きを止めた。自分のごつごつとした腕を掴んだ指は、海に映った月に触れるように冷たかった。海の中は確かに気温はそれほど高くはなかったが、頑丈な料理人の身体をふるわせるほどとは思えなかった。
 シャツをはりつかせた細い腕は、ゾロの広い肩をゆっくりと囲い込み、そしてやはり女への愛撫を連想させるような抑えた力で、彼の硬い髪の中を探った。
 その後に波の味を載せた唇が重なってきたのだった。
 薄く冷たい肉が自分の唇を覆った時、それがいつも煙草をくわえて半ば皮肉な微笑を浮かべるあの口だということが分かったとき、ゾロの中で何かの針が振り切れたような感覚があった。今まで水に浸かった彼の身体を活性化させていた怒りはおさまり、激しく打っていた心臓の動悸もおさまってきた。何をやっているんだ、こいつは。そう思いながら、自分を抱きしめる、濡れた布の中の腕の細さを実感した。闘うために、料理をするために、忙しなく雑用をこなすために、毎日休ませることなどない筈の腕だったが、ゾロとは根本的に筋肉の付き方が違っているのだ。あれほどの凶器になり得る足も細かった。海の中で絡んだ料理人の膝の骨があたって、ゾロは奇妙な気分になった。
 この男が何を考えて自分にこんなことをしているのかは知らないが、この男が限りなく愛する女たちの持つ、柔らかさも、曲線も、なめらかな触れ心地もゾロの身体にはない。唇が動く度にふれあう顎は、明け方近いことを考えると、かすかに髭が伸びかけていてもおかしくない。
 前世にどんな業を背負ったのか、と思うほど女を好きなサンジが、こんな必死な顔をして自分を抱きしめているのだから、それにはそれなりの理由があるのだろう。
 そう思った瞬間、急に周囲の水が沸騰したような感触があった。
 唇は柔らかく自分に忍び込み、薄く器用な舌がゾロの内側で動いている。
 自分がひどく興奮していることをゾロは知った。


 あの男の肉を噛んだ。
 まぶたを閉じていても、そのまぶたの内側を覆う毛細血管の赤を通り越し、更に青が透けてきそうな、晴れ空の冴え渡った午後。
 船尾にほど近い、あたたまった明るい片隅で目を閉じて、ゾロはその感触について思い返す。
 ゾロの唇が、唇以外の場所に触れ始めると、料理人はくすぐったそうに、波の中で笑い声を漏らした。耳や舌を、鎖骨の上の肉を、脈拍をおさめた首筋を歯で軽く噛み、舌で舐める。自分の匂いをつけてやっても、すぐに波が洗い流してしまう。水を抱いているようだった。
 だが、ゾロと身体を絡ませたものは水ではなかった。
 コックは次第に笑わなくなり、冷え冷えとしていた身体が、波とゾロの胸の間でふらふらと揺れる内にだんだん熱くなってきた。水の中で人の体温を感じ取るというのがもの珍しい。海に落ちたルフィをしばしば拾い上げてメリーの脇腹をよじ登るが、水に落ちたばかりでも人の身体はあっという間に冷たくなる。それが、白熱灯を灯したように自分の唇の動きに添って、体温が上がるのを胸で感じるのは面白かった。それは欲望とは微妙に違っていて、心臓を細い針で刺されたような、甘い好奇心に近いものだった。濡れた布二枚を介して胸がぴったり合わさると、あばら骨でもあたりそうだと思っていた料理人の胸に、彼の修練と労働の証とも云える、薄くともはりつめた筋肉がついているのをゾロは感じ取った。薄い胸の中で驚くほど早く鼓動が鳴り続けているのは悪い感覚ではなかった。
 海の中で若い男二人の力が、主導権を握ろうとせめぎあった。自分の顎や頬に擦れる柔らかいものが何なのか、理解するまで一瞬時間がかかった。それはサンジの髪だった。女の髪質のように柔らかい。ざらついて海の中で、水温と興奮にそそけだつゾロの頬の上で、そのやわらかな髪は誘惑するようにまつわりついてきた。
 だが、ずれては離れ、ゾロの唇の中で動き回る舌の強引な甘さは、女のようだとはとても云えなかった。それは完全にリードを自分の手にすることに慣れきった唇であり、ゾロに身を任せようなどと微塵も思っていなかった。
 熱が下半身に流れ込むのに、特に時間はかからなかった。ゾロはその段階になって、初めて閉口した。唇を触れ合わせて、コックの整った皮膚に歯をたてているところまでは、彼の中で歪んだ喧嘩の延長のような感覚でいられないこともなかった。
 だが、ゾロの腰を熱くした衝動は、今自分と触れ合って揺れている手応えのある身体から、衣服を引き毟って自分をねじこみたいということだった。だが、相手は女ではない。男を迎え入れる器官を持っていないのだ。代用できる部分があることは薄々とは知っているが、この、気の荒い男が自分にそんなことを許すとは思えなかった。そして、ゾロも同じ船に乗って闘い、一緒に飲み食いする相手にそんなことを無理強いする主義もない。
 自分に妙に絡んで、あげくの果てにこの莫迦げた、甘い接触をしかけてきた料理人がどういうつもりなのかも分からない。元々欲望がそう強いとは云えないゾロは、自分の胸から右側のこめかみにかけて疼く衝動を持て余していた。男の身体を相手にこんな気分になっているのが不思議だった。相手がこいつだというのは、そうたいしたことではないと思った。全く知らない男、気の許せない、強いのか弱いのかも分からない相手には、指先一本でも触れようとは思わなかっただろう。
 だが、自分の衝動を引きずり出したからには、ある程度責任をとってもらわなければならない。仕掛けたのはゾロではなく、向こうなのだ。
 とけるような髪の合間から先を覗かせた耳、彼自身の技巧でゾロとの間に線を引いておこうとするような舌も、力を抑えて噛んでやると、何か知らなかった道筋が見えてくるような感覚があった。それは見たこともない場所に出て、道に迷った時の感覚とも少し似ていた。
(「なァ」)
 心なしかかすれた声でそうささやいて、男は髪をかきあげ、顔を濡らした海水のしぶきを拭った。彼等が理由もきっかけも定かではないじゃれ合いを始めて、いい加減時間が経っていた。
(「もういい加減にしねえか」)
 そう云われて彼は初めて、夜が明けかけていることに気づいた。嵐後の異常な凪のおかげで、船はほとんど動かずにすぐ側にあり、ログの指針と見当違いの方向に流された様子もなく、彼等を害するものが近づいている気配もなかった。波の音はあくまで静かで、メリーの小さな船体を覆ったつぎはぎだらけの木材が、小さくきしんでいる音しか聞こえなかった。だが、戦闘要員が二人、船に戻らずに海の中にいて、見張りも何もかも放り出していたのは確かだった。言葉に詰まると、料理人はゾロのささやかな罪悪感を知ってか知らずか、
(「全身ふやけそうだぜ」)
 そうのんびりと云って笑った。さっき、見張り台の上で灯りをつきつけてきた時とは別人のようにリラックスした顔になっていた。
 結局お前はどうしておれに絡んで来たんだ。
 今晩したかったのは喧嘩か。何かの憂さ晴らしか。
 幾つか疑問が浮かんだが、ゾロはそれについては何も云わなかった。とりとめのない会話を交わして、二人して、朝日に照らされかけた船をよじ登った。
 ゾロのすぐ後から上ってきた料理人は相変わらず正体のしれない、明るいおだやかな顔。
 そしてゾロは濡れたシャツを脱いで絞りながら、自分の歯の間に残った、きめの細かい、丈夫な冷たい肌の感触に苦しめられることになった。

 ゾロは悪夢を見る。一晩に大抵一つ。眠りかけの時が多い。おおむね分かりやすい夢だった。夢の中でも、現実とたいして変わらないことばかりしていた。
 ロロノア・ゾロの見る夢は驚くような美しい総天然色であり、ことに赤を鮮やかに映し出した。
 ミホークの夢もよく見る。くいなの夢も、正直しばしば見る。死なせたくなかった相手の夢を見たかと思えば、もっといっそ惨く斬ってやればよかった、などと思う相手も登場した。
 夢の中の自分は大抵刀を握っていた。そして、他人の血か、自分の血かどちらかで汚れていた。ミホークの斬った傷から血があふれ出して止まらず、波間を赤潮のように染めるような────そういった抽象的な夢も見るかと思えば、停泊した島で、つい先日ミホークが立ち寄っていったのだそうだ、という話を聞かされ、総毛立つような失望と震えを生唾と共に飲み下すようなこともあった。くいなの記憶は、幼かった頃のこと故に、それほどふんだんにある訳ではない。ただ、ひたすらに泣き顔と、幼い剣をふるう伸びやかな少女の腕の残像と、布をかけられて顔も見えなかった小さな死体が、彼の夢の中で淡々とリピートするだけだった。
 夢は、比較的よく覚えている方だと思う。苛つく、心楽しいとは云えない夢ばかりだったが、自分が何を気にしているのかよく分かって、それはそれでいいとゾロは思っていた。
 気にもしていないことを何故か夢に見る、ということは経験上なかった。
 夢は不快だが、理不尽ではない。ミホークに恐怖を感じているなら、感じなくなるまで身体を鍛えればいい。顔にかけられた布からかいま見えた、くいなの華奢な顎の青黒さも、彼女との約束をはたすか、ゾロが死ぬかすれば消えるだろう。
 今はゾロは眠っていなかった。
 頭上とまぶたをあたためる日差しの中で、自分の歯と、はりのある肉の感触について考えている。決して飲み込まない、ゾロの糧になることのない肉だ。ある意味では無駄なだけの、しかし別の方向から見れば酷く暗示的な。
(……悪夢以下じゃねーか)
 ゾロは考えるのをやめ、目を開けた。丁度近くを通りかかったウソップが奇妙な表情で彼を見る。ゾロの形相がよほど穏やかではなかったのだろう。
 夢なら結構。自分の深層意識の中から浮かび出てきて、眠り際の世界に警鐘を鳴らし、濁った赤でゾロの眠りを侵食すればいい。だが、今彼の悩まされているものは、夢というところまでおさまりがついていないものだった。
 しかも相手は生きてこの船の上におり、この数日間実に晴れやかな顔で、機嫌良く立ち働いているのだった。
「すっきりしねえ」
 歯ぎしりするようにそうつぶやくと、ウソップの背中がおびえたようにびくりと跳ねるのが見えた。彼は臆病な男だ。それがいいところでもある。少なくともゾロはそう思っていた。時には臆病になることも必要なのだ。今、全員の分の昼食の後かたづけをしているあの男に比べれば、よほどウソップは健全だ。そのくせ怯えながらも腹を立てるとゾロの足を遠慮なく蹴りつけてくるようなところもあって、ゾロはそこが気に入っている。
 彼は立ち上がった。夢でも見るならまだしも、眠れもせずにあの男の肌の感触のことばかり考えているのも不健康なことこの上ない。
(───話をつけてやる)
 彼はうっそりと立ち上がった。あの男が今の時間帯にキッチンにいるのは分かっている。いつも余計なことを絶えず喋っているくせに、夜の海から這い上って以来、三日間も彼は何も云わなかった。あれが喧嘩の延長だったなどと云い出したら、今度こそ思い切り殴ってやる。
 そんな莫迦な話があるか。
 とにかく普通なら、ゾロは、栄養を摂取するため以外に肉を口に入れたりしない。それだけは確かだ。自分の感覚を混乱させた責任をとらせてやらなければならないと思った。
 彼は腰に刀を帯びたまま、剣呑な気分で相手のテリトリーに向かった。

「よう、クソ剣豪。酒か?」
 昼食の後片付けに携わるコックは、泡だらけの手を止めて機嫌良く振り向いた。お決まりの文句だが、心なしか妙に調子がいい。ゾロの険悪な表情をものともしない。この料理人が嘗て、ゾロにこんな愛想のいい顔をしてみせたことなどなかったような気がする。他のクルーに見せる顔とある種似ているとも云えた。
 つかみ所がない男の顔に、無性に胸がむかむかした。こいつだって、あの暗い海の中で胸を高鳴らせていたのだ。身体を冷やす海水の中で、布越しに艶っぽく火照った身体を押しつけて来たのだ。少しはいつもと違うところを見せてみろ。狼狽えるとか────苛々するとか。落ち着かぬげに目を逸らしてみせるとか。当のゾロも、たいしていつもと違った風にはふるまっていないのだが、それは彼本人は気づいていなかった。しかし恥じらわれても困る。それを想像して、ゾロは思わずその広い背中をぶるっとふるわせた。この男が自分を相手に恥じらうような様子を見せたら、きっと肌が粟立つだろう。
 自分でも、料理人にどう振舞わせたいのか分からない。責任を取らせるというのがどういったことなのかも、はっきりとは形になっていない。
「上段のワイン以外なら持ってけ。他のは構わねェから」
「酒じゃねェよ」
 ゾロは吐き出すように云った。さっき、夜の海の中での一時を、自分が酒を流し込むことに似ている、と思ったことを頭の片隅で思い出す。だが、用事は確かに酒ではなかった。
「じゃあ、何だよ」
 機嫌のいい料理人は、初めていぶかしそうな顔になって手を止めた。手についた泡を、水を無駄にしないよう最大限の注意をはらって洗い流す。そして、対照的に機嫌の悪い顔をしてやってきた剣豪に向き直った。
「てめェ、酔ってたんじゃねェだろうな」
 ゾロは、自分の喉から、ウソップを怯えさせた、篭った、陰湿な声が出るのを聞いた。
「はァ?」
 料理人は目を見ひらいてゾロの顔を見た。真面目な顔をしていれば多少端整なこの男の顔が、目を丸くして見開くと間の抜けた顔になる。ゾロが何を云っているのか理解出来ないのか、理解出来ない振りをしているのか、呆気なく目を瞬いて見せる。
「青カビが脳に回ったか。俺がいつ酔ってたってんだよ」
 ゾロは、自分の額に幾筋か血管が浮かぶのを感じた。かっとうなじが熱くなって背中が冷たくなる。これは、彼が興奮した時の、身体の癖といったようなものだった。アラバスタでバロックワークスのNO.1と相対した時、自分の剣が、鉄の息づかいを聴き、柔らかい果物の果肉に滑り込んで行くように鉄を斬った時も、これを増幅したような感覚があった。うなじや手足が熱くなり、背中が冷える。どうしてそうなるのかは分からない。どことなく、戦うための部位に血が集まっているような気がしないこともなかった。
「三日前、てめェのせいで海に落ちたろうが!」
 彼は忌々しい気分で、涼しい顔をした料理人を声を抑えて罵った。
「その後、海の中に日が昇るまでいた間中何してたのか、てめぇ、酔っぱらって忘れてんじゃねぇだろうな?」
 料理人の片手が落ち着かぬげに動いていると思えば、彼はマッチを探しているのだ。彼は胸ポケットに仕舞い込んだ煙草の箱から一本歯で引き出して銜え、わざとらしく長い脚を折り曲げて、靴の裏でマッチを擦った。そしてことさら、美味そうに、ゆっくりと煙を吸い込んで吐き出した。
「────むしろ、してたのは、俺よりお前の方だったような気がするんだが」
 どうでもいいようなことを返されて、ゾロの額にもう一筋血管が浮かんだ。腰に手が伸びそうになる。鞘付きの刀でいいから、こいつを思い切り殴ってやったらどんなにすっきりすることだろうと思う。
「てめェの、喧嘩を売ってるとしか思えない言葉を、寛容にも質問ってことにしといてやるが」
 彼は、煙草を銜えたまま、髪をかきあげた。その派手な蜂蜜色の髪が左側の目に殆どかぶさっていることにゾロは気づいた。見た目にはたいして悪くないが、戦うにしても、料理をする時にも邪魔ではないのだろうか。
「あの日は、俺は嵐の後は次の日のてめェらの朝飯の仕込で働きづめ、二時間ちょっと寝ててめェの夜食を作って見張り台に行った。その後、海に」
 彼は親指以外の指を握り込み、親指を真っ直ぐ下に向けて、落ちる仕種をしてみせる。
「ドボン」
 よく動く口は、指の動作だけでは満足出来なかったようで、もう一言付け加えた。
「酒なんか一滴でも飲んでる暇があったと思うか? 寝てるとき以外は、見張り台でも酒瓶を離さない誰かと違って。ええ?」
「脳にカビが生えてんのはてめェだろうが」
 ゾロはかっとなって云いつのった。
「それじゃどうして、そんな平気そうな面してやがんだ。それともお前にとっちゃ、あれは誰にでもやらせる普通のことか。男だろうが女だろうがみんな一緒か」
「おいおい」
 コックは細身の身体を反らせるようにして、声をたてて笑った。笑い声と一緒に唇から細く煙がたなびいた。また笑いやがって。ゾロの気分はどんどん鬱積した方向へ暴走し、ますます腕が疼き出すのを感じた。怒りで殴ってやりたくてたまらないからだ。ただ問題が問題だけに、自分の腕も流石に、斬ってやりたいとまでは感じていないようだった。
「何、思い詰めた顔してんだよ。────ま、当たらずとも遠からずというか」
 彼は考え込むように、靴の踵で、かつかつと床を叩いた。
「あれから三日かよ……」
 独り言のようにつぶやいた。相変らずゾロとの会話は成り立っていない。しかし、かろうじて彼が何かを云おうとしているのを感じて、ゾロはじりじりと苛立ちながら腕を組んで、ほぼ目線の同じ男の顔を眺めた。つくづく顔の小さい男だ。料理人がどうやら何か考えているらしいので、ゾロはどうでもいい、そんなことを思って手持ちぶさたに彼の顔を眺めた。
「まぁ、三日間酔っぱらってたって云えねぇことも……」
 男が口にするのはまた独り言だ。
「俺に解るように喋れ。そうでなくてもてめェの行動も言動も訳が分かんねーんだよ」
 威嚇してやると、料理人は髪とほぼ同じ色の眉をひそめた。
「気の短けェ奴だな」
「お前にだけは云われたくねェよ」
「────お、そうだ、ゾロ」
 突然気が逸れたように、料理人は勢い込んで云い出した。目がぱっと興味を示したように明るくなり、明るい青い目にランプが灯ったように見える。
「お前、自分の目が何色か知ってるか?」
「────はァ?」
 今度は間の抜けたような顔をしたのは自分の方だろう。と、ゾロは思った。
「いいから云ってみろって。目だよ目。白い部分のことじゃねェぞ」
「……灰色だろ」
 そう答えた瞬間、髪の房を振り乱さんばかりの勢いで、料理人は笑い出した。それは何かが弾けるような、突き抜けるようなあかるい笑いだった。もう怒ることも忘れ、ゾロは茫然として料理人が身体をよじって笑う様子を見守っていた。やはりこいつは頭のどこかがおかしくなっているのではないだろうか。そう思う。料理人の笑いの発作は数秒続き、ゾロを凍り付かせた後、ようやくゆっくりと引いて行った。料理人は青い目ににじんだ涙を拭きながら、片手で流しのふちに腕をつき、顎を引いて莫迦にしたようにゾロの顔を眺めた。
「話にならねぇな」
「何だって?」
「まぁ、メリーの暗い鏡じゃわかんねーか。それとも、鏡にはうつんねーのか?」
「目がどうしたって」
 痺れを切らした彼が云いかけたのを、サンジは片手を上げて制した。目のふちについた涙を拭いた手だった。
「今まで、お前がろくな恋もしてこなかったってことがよく解ったぜ」
 彼はふうっと煙を吐き出した。
「普通、相手に云って聞かせられる機会があるもんだと思うけどな」
 ゾロの言葉を遮った指は不意にゾロの首筋に伸びた。急所に触れられて、何故その手を振り払わなかったのか、彼には解らない。とにかくゾロは、思い切り笑って一人ですっきりした料理人が、自分のうなじに手を巻き付けて、引き寄せるのに、またしても唖然として身を任せていた。
「俺が解ってることをお前が知らねェってのも、不幸な話だよなァ」
 煙草の煙の匂いを乗せた声が、息と一緒に口元にかかるが、理解しがたいことに不愉快ではなかった。
 唇の、今日はお互いに乾いた表面が触れかけた時、ゾロの頭が不意にすっきりした。
 相変らず、目の前の男が何を云いたいのか、さっぱり解らなかった。自分の目が灰色なのがどうしたというのか、その目が料理人にある種の行動を促しているらしいが、その理由も、勝手にべらべら喋っている言葉が不快などころか、その低い声が、今はかすかにゾロの快感中枢に訴えかけてくることの理由も分からない。
 だが、自分は三日前に勝手な振る舞いをしたあげく、知らぬふりで上機嫌な空間に篭ってしまったこの男に、思い知らせてやろうとして、ここにやってきたのだ。
 ここで引き寄せられてキスして、その気になって何かそれ以上のことをするかもしれないが、それではこの前とまるで同じパターンだ。ゾロはきっともやもやとした欲望と、間違った数のように割りきれないものを胸に抱えてここを去り、結局は同じ思いをさせられる。火を見るより明らかだった。
 そんなことをさせてたまるか。
 敵地に乗り込んだからには、自分から斬り掛からないことには話にならない。
 彼は首をぐいとねじって自分より幾分細く、長い料理人の指から逃れた。反対に男のうなじの柔らかな後ろ髪をがつっと握りしめて後に引く。
「いてっ」
 およそ情緒のない声が漏れるが、自分の目的を果たそうと思うゾロは気にしなかった。
 てのひらに握りしめた髪の感触は、毎日潮風にさらされているくせに細く柔らかく、ゾロのごつごつした指の上で絹糸の束のようだった。海の中でも髪の柔らかさは感じたが、あの時は髪が塩水で濡れて多少ごわついていたせいで、これほど柔らかいとは思わなかったのだ。それは思わずゾロを甘い気分にさせるような感触だった。
 思えば、この男がゾロに訴えかけてくるものは触感が多い。歯の間にはさみこんだ、骨と肉の歯ごたえ。舌に馴染む料理の優しさ────それはこんな荒くれた男の手から作り出されたものだとは信じられないような────や、そして指の間でもつれて切れてしまいそうな、上質のなめらかな髪。
 ゾロは、その髪をどうしたいのか自分でも悩みながら掴んだ指の力を緩めなかった。後ろに引くと顎が上がる。上向かせた顎に、自分の唇を噛み合わせた。キッチンのすぐ傍を誰かが通って行く足音が聞こえる。だが、それも構わなかった。
「────て、め、何……」
 はずれかけた唇から抗議の声が挙がるのをゾロは楽しんだ。勿論こうあるべきだ。あの海の中で、自分がどんな気分になったか思い知ればいい。
 一瞬、歯の間にねじこんだ舌で、料理人の舌の感触を見つけた時、彼はここ数日の鬱憤の腹いせとして、その肉を噛んで傷つけてやろうかと思った。だが、相手の商売道具に傷をつけるのと同じ行為だと気づいて、それだけは思いとどまった。何しろこの男は、戦う時も、料理をするための手を一切使わない、というほど、料理と女に関してだけは殉教者的なのだ。
 流しと自分の間に細い身体を挟み込み、更に後ろ髪を掴んだ手で、凶暴なコックを拘束したゾロはいい気分だった。勿論彼を本気で封じ込められているなどとは思ってもみない。彼の強さはゾロも認めるところだった。これは云うなれば一つの形式のようなものだと、彼も解っていた。
 こんなに煙草ばかり吸っていて、どうしてあんな料理の味が分かるのか、と不思議に思う。隙間がないほどぴったりと唇を塞いでやると、喉で軟骨がかすかに唾液を嚥下するのを感じた。
 今、自分がしているのが、あの晩の意趣返しなのか、それとも愛撫というやつなのか判断出来ない。それがどっちだったとしても、ゾロにとって快感なのは間違いなかった。
 頭に血を昇らせて唇を貪る。その勢いに耐えかねて舌が差し出されるのを、付け根まで取り込もうとするように強く吸い上げた。
「……っ、てめェ……」
 喘ぐような声を出して、ゾロの膝に、サンジの膝が強烈にぶつかってきた。足を払われる。リトルガーデンで切り落としかけた古傷の上にそれはヒットして、一瞬鈍く痛んだ。
「そんな風にキスすんな」
 それでは、この男もこの接触を、意趣返しではなく愛撫だと受け取っているらしい。
「……てめーは何でも喧嘩か」
 青い目をとろっと薄い涙の膜で覆って、料理人はささやく。吸い込まれ、舐められ、甘咬みされて、その勢いで涙が滲んだのだろう。
「あの晩のは違ったってのか」
「わかんなかったかよ」
 イヤだね、重りを振ってるだけの体力莫迦は。口の中で無礼なことをつぶやきながら、サンジは後ろに手を伸ばし、自分の髪を掴んでいるゾロの指の中にそろっと指を滑り込ませて、そこに加えた力をくつろがせた。そして、自分の髪に絡みついた無骨な指をかきよせるように絡め取る。そして、その指先を目の前に持ってきたかと思うと、僅かに唇をかすらせた。
 ────この女誑し。
 今度は手足でなく、顔にかっと血が昇った。自分が顔色を変えたことに気づかれたくなかったが、料理人は早速気づいたようににやりとした。
「あの時、俺はこうしたろ?」
 ゾロに向けるにしては破格と云ってもいい、柔らかい、掠れたような声を出して、コックは両腕を伸ばす。そして、今度はゾロの身体を引き寄せた。それはきっと、この男が女にする時にはいつもこうなのだろう、と思わせるような、とろかすような柔らかな動きだった。今は凪いだ夜の波の干渉もない。ただ、純粋に料理人の腕の力だけがゾロの背筋の上にあった。
 背中を抱きしめられるかと思ったが、その腕は背中には回らず、ゾロの、ほんの僅か彼よりも位置の高い顔に伸びた。両頬をそろりとてのひらが撫でて包み込む。今日は、その手はふるえてはいなかった。額や鼻先を先ず摺り合わせるようにして、焦らすようにゆっくりと唇が近づいてくる。
 料理をした油の匂い、煙草の煙や汗、そんなものの中から、ゾロはふと、海水の中でも感じたこの男の肌特有の匂いをかぎ分けた。そしてそれに付随する味と感触も。
「お前の流儀に従う義理はねェよ」
 彼は唇が触れる寸前、今度は自分から料理人の肩を引きはがし、逆に自分にぐいと引き寄せた。
 キスのことでごたごたと云われるのがもう鬱陶しい。それよりもゾロの指が、歯が求めているのはもっとはっきりしたものだった。咬みごたえ。挟み込んで舐める触感。海に邪魔されずにこの男の肉を口に入れてみたい。
 こんな時でもきっちりとネクタイを締めた胸元に内心毒づきながら、ゾロはタイの結び目に指をねじこんでむしり取った。
「なァに」
 やってんだ、と多少苛立ったような声が頭上から聞こえてくるのを余所に、ゾロは一番上のシャツのボタンを弾いた。そして、今まで隠されていた料理人の首筋に顔を埋めた。一日中男が火を使って立ち働けば、当然身体にしみつく匂いの中から、サンジの体臭を拾い上げ、そこに歯を立てた。この数日、どうしても食いたくて食えなかったものを口にしたような、無性に叫びたいような充実感があった。
 肌の上を舌で押し、そこをまた歯で挟む。流し台にもたれたコックの身体から不意にがくんと力が抜けるのを感じる。
 いっそ食いちぎりたい程だった。
 だが、そうしたら今度は、この男の肉と皮膚の感触だけでなく、今度は血の味に悩まされるだろう。賢明にもそう考えた剣士は目を閉じ、鮫の歯列のように揃った自分の丈夫な歯で、男を味わうことだけに集中した。

 喉元から胸元にかけて、歯と舌で触れることに執着する男の頭を、料理人のしっかりした指が押しのけた。息が上がっている。すぐ傍にある心臓の鼓動が走るように速くなっている。
「あん時も思ったけど、てめーはしつけーんだよ!」
 乱れた息のまじった声でそんなことを云われても、痛くも痒くもなかった。しつこくこんなことをさせておいたのは誰だ。そう思う。そして早晩、自分がこんなことでは満足出来なくなるだろうとゾロは思った。キスの跡こそつけていないが、料理人の胸元や首筋は、歯形で埋まっていた。そこを中心に赤味が広がり、ノースブルー生まれの皮膚のきめの細かさと、奥に血の筋を隠し持った皮膚の白さを際だたせている。
 彼は頭を振り上げた。自分の唇の片端がつり上がるのを感じた。この三日間味わった焦燥が消えていた。おさまるべきところに何かがおさまった感覚があった。
「もう今日はいい。充分食った」
 彼はそう云い捨てて、足早にキッチンを出た。後ろで、多弁で苛立ちやすい料理人が何か低く罵っている声が聞こえたが、彼は意にも介さずに、まだ高い日差しの中で海に浮かぶ小さな船の上でのびをした。飢えを満たされた実感に、初めて飢えがあったことに気づいた。腕にも唇にも、肌の匂いを感じていた鼻腔にも、いささか淫らな快い後味が残り、ゾロは自分が欲望を持つ男なのを久し振りに思い出した。
 そして、充足したロロノア・ゾロは、ふと思いたち、自分の灰色の目をあの男が何故笑ったのかを確かめるために、風呂場の鏡の前へと足を向けた。


                                       了

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