きっと三浦に貰うものなら何でも嬉しい。
マンションの駐車場の、なるべく目立たない片隅に原付を止めると、石井は壁をずっとなぞるようにして、灯のまばらに灯った建物を見上げた。中程の、東向きの一室が三浦の部屋だ。
そこに灯は灯っていなかった。朝日で目が醒めないよう、三浦の部屋には厚い遮光カーテンがかかっている。だが、灯がついていれば薄く窓の輪郭が浮かぶ筈だった。石井は不安な気分になって、向こうの空に浮かぶ、色の薄い、ぼんやりした月を見上げた。
部活が終って、家で夕飯を食べた後、三浦に電話をした。石井は用事がなければ三浦に電話をしなかったし、用件は一つしかなかったから、云い出す前から三浦はそれが何か分かっている筈だった。明日から東京に移動して、インターハイの開幕を迎えるのだ。もし彼等が望み通りに勝ち進めば六日間は地元に帰ってこない。三浦と二人きりになる機会もないだろう。試合を前にして、三浦に負担をかける気はない。だが、少しでも会っておきたかったのだ。
もう少し、もう少し、と蒸し風呂のような体育館で粘ろうとする彼等を、コーチの氷室はきっかり五時に追い払った。
(「少しは体力温存しなさい! 今日は寄り道しないで真っ直ぐ帰るんだよ!」)
腰に手をあてて、真っ赤な口紅を塗った唇を歪めてみせた。だが、彼女こそ熱気を押し隠しているようにきらきらと輝いて見えた。部員達に負けず劣らずヒートアップした証拠に、ぎょっとするほど盛り上がった胸が大きく上下している。
(「とにかくもぉっ、今日は解散!」)
そう云われて、彼等は不完全燃焼で体育館を引き上げた。夏至前の空はまだ薄明るい。気の早い星が幾つか輝いていたが、空はようやく傾き始めたような明るい薄紫だった。
汗で湿った髪をかきあげながら大きな溜め息をつく三浦を、着替えながら石井はちらちらと眺めたが、視線は噛みあわなかった。インターハイを目前に、コートに入った途端に頭はバスケ一色になる。だが、ロッカーの前で制服に袖を通し、髪をとかしている三浦を見る度に我に帰る。毎日飽きもせずに軽い電流を流されたような気分になるのだ。三浦とこうなってから五ヶ月近くになるのに、まだ彼はこの新しい関係に馴れていなかった。
電話するかどうかを家に帰った後もぐずぐずと悩み、食卓で大会のことを聞かれてもろくに返事もしなかった。夕飯の後に健二が訪ねてきた時はほっとした。健二と一緒にいる最中は三浦のことを考えずに済むからだった。春休みに三浦に打明けて散々もめた時、三浦に、健二にも決して自分達の話をするな、と釘を差されていた。思い浮かんだことをストレートに漏らしてしまう自分の性格を鑑みて、石井は、健二と一緒にいるときは三浦のことを考えないように、彼なりに訓練を積んだのだった。
結局彼が部屋で自分一人になり、携帯の電源を入れたのは八時をだいぶ回った頃だった。
(「……ヨ、俺」)
石井がそう云うと向こうから、僅かな沈黙が返ってくる。その沈黙の間に、石井は三浦が部屋に座っているところを思い浮かべる。
装飾のない三浦の部屋。男が住んでいるなんて信じられないような、匂いのない、片づいた部屋だ。フローリングとぴったり同じ色の小さな本棚に、文庫本が少しだけ並んでいる。文庫サイズ以外の本はなかったし、冊数も増えなかった。あれだけ読んでいる本はどこにやっているのだろう。その疑問を口に出すと、三浦は一定の数しか置かないようにしてるんだ、と答えた。余った本をどうしているのか、古書店にでも持っていくのか、捨てているのか、誰かに譲っているのか、それについては口にしなかった。そもそも、三浦は尋ねないことをあれこれ喋ったりはしない。石井が三浦についての知識をだいぶためこんだのは、根ほり葉ほり尋ねたからだ。時間と意欲を費やして。そうして、三浦の口から漏れた言葉を、自分の心の中に、コレクションするように仕舞い込む。
(「……今日は、早めに帰るって云われてるんだけど」)
誰が、とは云わない。
こころの表面を、冷たいてのひらで撫でられるような、いつもの三浦の声だった。ひやっとする彼の言葉は、口の中に氷の粒でも含んでいるようだ。石井はそれにすっかり馴れて、その声のせいで背中を冷やしたり、かっと赤くなったりせずに受け止められるようになった。そうなってみると、三浦の声を自分がとても好きなのが分かる。
いい気分になりやすい石井に、三浦はいい気分になりそうなことを殆ど云ってくれない。でも彼の声を聞くと気分がいい。「好き」のエッセンスが加わっているからだ。そのエッセンスは奇妙に甘く、快感の中枢に直接つながっている。
(「ちょっと顔見るだけ」)
(「……」)
短い沈黙から、三浦がそれを信じていないことが伝わってくる。普段の素行のせいで、まるで信用されていない。
(「九時頃行くからさ」)
(「……そう」)
……そう、ってお前さぁ、少しは嬉しそうにしろっての。
いつもなら返すはずの軽口を石井は呑み込んでしまう。
誰も間にまじえずに電話で話すとき、石井はなかなか普段通りに振る舞えなかった。
三浦と二人でいると、いつも少し卑屈になってしまうのはどうしてだろう。だが、あのほっそりとした、手入れのいい猫のような身体の前で、自分の大きな身体を持て余して、手も足も出ないような思いをするのは、やはり甘い感じがするのだった。バスケ部の連中にまじって三浦と話すときと、二人きりになったときの感覚はだいぶん違った。円錐形のうす甘い痛みが胸を刺す────何故円錐形なのか自分でも分からない。
てのひらで囲い込んだように円形を描く線と、尖った角が同時に存在するような感じなのだ。
駐車場から表に回り込んだ時、石井の心臓は少し跳ねた。マンションの植栽を囲んだ煉瓦塀に、エントランスの灯を逆光にして、よりかかっている人影が見えたからだ。覚えのある細い輪郭が夜の中に黒く沈み、髪だけがかすかに光を弾いていた。
近づいて行くと、彼の姿がだんだんはっきりと見えてくる。いつもの、どこか退屈したような醒めた表情も、形のいい耳から伸びたヘッドフォンのコードも。着ているのはうす緑色のパーカーで、それが襟元まできっちりつまっているのもいつも通りだった。涼しそうな顔をしていたが、それでも暑さがこたえているのか、片手に水の入ったミニペットボトルを持っている。
音楽を聴いているせいで、石井の足音が聞こえないのだろう。近づいていっても、三浦は目を上げなかった。
「三浦」
気づかせようとして声を張り上げると、必要以上に大きな声が出てしまった。学校には持ってこないタイプのヘッドフォンをつけて、音楽に埋もれた三浦は、驚いたように顔を上げた。そして、かすかに息を弾ませて自分を見下ろす、大きな身体を眺めて、薄く苦笑した。もっともそれが、本当に苦笑だったのかは分からない。三浦は笑うとき、困ったように眉をひそめる癖があり、それは周りのどんな人間を相手にする時も平等だった。
「お前、何────もしかして、俺のこと待ってた?」
三浦は、すぐにそれを認めたくないように一瞬沈黙した。軽く首をねじってヘッドフォンを外すと、ふっと溜め息をついた。
「今日はもう帰ってきたから……母が」
「あっ。……そう」
石井は落胆して背中を丸めた。それじゃキスも出来ない。正直な声が胸の中でつぶやいた。こんな日に三浦と寝たいと思っていた訳ではない。だが、キスはしようと思っていた。少し骨っぽい三浦の身体を、腕とてのひらで包みたかった。自分とは長さも曲線も違うが、かっちりと鍛え上げた三浦の細い身体が好きだった。体臭の薄い三浦の身体の中で、かすかにペパーミントの香を残す髪に顔を埋めるのが好きだ。身体だけが好きな訳ではないが、身体がなければ感じられないもの。三浦の繊細さと強さを顕わした姿に腕を巻き付け、鼻先を擦りつけ、感覚から入ってくる彼とゆっくり溶け合うのはひどく気持がいい。
「……今日は特別って感じでしょ。君のうちもそうだったんじゃない?」
「まぁな。親父が前祝いするとか云ってうるさくてさ」
「だろうね」
三浦は可笑しそうにちらっと目を細めた。
「何だよ、じゃあお前もゆっくりしてられないじゃん」
口を尖らせて文句を云うと、三浦は怪訝そうな顔をした。
「ゆっくりするつもりだったの?」
「いや、だってよ……」
思わず口ごもった。今日は特別、と云ったのは三浦のくせに、会いに来たいと思った石井の気持には気づかないのだ。彼はふと、小さな痛みを飲み下した。健二に云われたことを思い出したのだった。健二は、高校卒業後は家業をついで、バスケットはやめることになるだろう、とやんわり云い出した。それは、このインターハイに賭ける、彼の意気込みを語る前振りとして付け加えられたものだ。
(「────高校卒業したら」)
(「俺の分もバスケット続けてくれよな」)
いつも石井をなだめる、おだやかな健二の声が、今日ばかりは彼のみぞおちに冷水を浴びせた。高校を卒業するのは理屈では分かっていた。だがまだ季節は夏の盛りで、来年の春のことははるかな霞の向こうにぼやけていた。インターハイが終っても、きつい、汗と焦燥にまみれた部活が永遠に続くような気がしていた。健二がバスケットを続けることはない、と聞いてもまだそれはうまく石井の中で浸透せず、作り事のようだった。
「……だってさ……」
一瞬、三浦に全てぶちまけてしまいたい、と思った。自分が抱えるもやもやした藤原への葛藤のこと、それを打明けた後の健二の答に至るまで。だが、両親にしかまだ話していない、と云った健二の言葉を思い出すと、ここで三浦に話してしまってもいいのかどうか確信が持てなかった。
それに、三浦は今まで、石井にとってこういった打明け話を共有する相手ではなかったのだ。その役目は今までずっと健二が務めてきた。
春に三浦への気持を自覚して以来、健二にも話せないこと、というのが初めて発生した。それはひどく馴れない、居心地の悪い秘密だった。そして健二の告白もまた、三浦に話して聞かせることの出来ないものだった。石井は秘密を抱えているのが苦手だった。人に話したくないことは少しはあったが、それは「話してはいけない」ものとは違う。秘密は胸の中で落ち着きなくカタカタと音をたて、石井の喉にかすかな棘になって引っかかった。
(「勝ち残っていけば、まだ一緒にいられる」)
健二は静かに云って、やがて吹っ切れたような顔で振り向いた。いかつい顎の周りに、いつも通りのおだやかな笑いがただよっていた。
言葉にならないように云い淀む石井を、三浦は興味深げに見守っていた。
「石井くん」
それひとつをとっても、三浦そのもののような、すらっと整った左手が不意に石井の右手を掴んで引き寄せた。
「何だよ」
三浦は石井の骨張った手首をひっぱって、自分のものよりも一回り大きなてのひらを上向かせる。そして、手に握っていたものを石井の手の中に落とし込んだ。かすかに三浦の体温が移っているものの、硬く冷たい金属の感触が手に触れた。
「?」
石井は夜の中で白っぽくきらめくものを凝視した。そして、奇妙な気分でそこにあるものから目を上げた。三浦が石井に渡したものは、つや消ししたステンレスと黒い革を組み合わせた、男物のキーホルダーだった。銀色の丸いロゴが浮き出すように彫ってある。石井は訳が分からないまま、空のキーホルダーと、そこに彫られたブランドロゴをもう一度見つめた。
「くれんの?」
「そう。あげるよ」
三浦は澄ました顔で云った。
「あっ」
石井は大声を出した。彼とは三年近い付き合いになるが、一度も自分達の間でこの件が話題になったことがないので、まさか三浦が知っているとは思わなかったのだ。丁度マンションに入っていこうとした人が、石井の出した大声に驚いて振り向いた。三浦はきまりが悪そうにその人に軽く頭を下げた。
「もしかして誕生日プレゼントかよ!」
三浦は答えるように目を瞬いた。
そして、肯定する代わりにゆっくりとそう云った。
「君は鍵なんて持ち歩かないんじゃない? いつも家に誰かいるだろ?」
石井は一瞬言葉に詰まる。確かにいつも母が家にいて、夫や息子達の帰りを待つ石井の家では、鍵は必要なかった。それでも年に何回かは母が留守にする時もあって、鍵を渡されたのだが、一度ゲームセンターでそれを無くして以来、両親は彼にスペアキーを持たせないことにしたのだった。
「や、原チャリのキーとかつければいいし……」
彼は混乱して言い訳するような口調になった。
「ってえか、じゃ、どうしてこれにしたんだよ?」
色の透き通るように淡い、だが、決して軽薄に見えることのない目が石井を見ていた。石井が何かに気づくのを待っているようだった。そして、石井が自力で答えにたどり着けないことが分かると、三浦はまた眉をひそめて微笑った。
「……それを持ってれば、この先、そこにつける鍵を渡すこともあるかもしれないだろ?」
石井は、彼が驚いた時に大抵そうするように、真っ黒な、勝ち気な目を大きく見開いて、うっというような声を漏らした。血が彼の頬を駆け上り、背中や首筋や胸元に熱い糸のように巻き付いてきた。夜に入ってようやく気温が下がり始めた街路がまた急に暑くなり、困ったように苦笑している三浦の顔はほの白く光って見えた。
「俺っ、ぜってえこれ無くさねえから!」
彼は力を込めて云った。一瞬で、ひどく高く舞い上がってしまった。大会前の最後の部活で少し疲れを残した脹ら脛や肩が、突然羽根を生やしたように軽々とあたたまった。
「……そ」
必ず言葉の一部分を、力を抜いたように発音するせいで、素っ気なく聞こえる三浦の言葉が、冷たい気分から出るものではないことも、今では知っている。今すぐところ構わず唇にキスするか、両肩をつかまえて揺すってやりたい気分だった。
そうする代わりに、石井はキーホルダーを握るこぶしに力を入れた。革と金属が吸った静かな三浦の体温に、自分のてのひらの温度が混ざっている。他の誰の、全開の笑いよりも、三浦のほんの僅かな微笑が自分を幸せにすることを強く意識した。
そして、こみ上げてくる笑いを押し殺し切れず、晴れ晴れした気分で、夜空に向かって大きく伸びをした。三浦がつられて、同じように空を見た。星が幾つか光っている。校門を出た時に見たのと同じ星のように見えた。
星空は大きく円く広がり、心の中で、すっきりとした切っ先に繋がっている。
今まで、学校の授業以外に星座なんて眺めたことはなかったが、彼はこの星の位置をきっと、ずっと覚えておけると思った。