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05_後は野となれ、山となれ

11 01 *2013 | Category 二次::ONE PIECE・ゾロサン


続き





 畜生、空が青い。
 身体を柔らかに押し包む雲の中にあおのいて、サンジは包帯とシャツの布の上から胸に手を当てた。有難いことに、そこにはしっかりとした脈拍がある。何度止まりかけたか分からない心臓だが、この島では流石にお終いかと思った。
 銀色と緑、渦巻く灰色の雷雲に覆われた空を、「神の舟」の上で仰ぐことになった時は、或る種の覚悟をしたのだ。ナミが無事に舟を下りられたならそれでもいいと思った。別に命を捨てて良いと思った訳ではない。だが、全てに始まりがあるのと同じで終りがある。彼は運命論者ではなく現実主義者だ。あの舟の甲板であおいだ雷雲は厚く高く、まさに人ならぬ者の手によって作られた禍々しい城のようだった。そしてそれは、ひびの入った骨、熱風で灼けた自分の皮膚同様、厳然とそこに存在する終末を暗示しているように見えた。
 実際にエネルの電撃は、一度彼の心臓を止めたのだった。幾ら強健なサンジの身体といえ、心臓や脳髄をあれほどの電流に見舞われては、ただの火傷では済まなかったのだ。


 雲の海に停泊したメリーのすぐ傍に、彼はのびのびと足を組んで寝転がっている。
 メリーの錨が打込まれた島雲の上に、おそろしく美しい青空が広がっている。
 昨晩の宴会で過ごした酒が身体に残っているせいか、まぶしすぎてくらくらと眩暈がした。沿面放電であちこちに雷紋を残した皮膚は、いまだに身体中に拍動する痛みをもたらし、胸には息をするとしめつけられるような感覚がある。まだ身体は回復していなかった。
 それにもかかわらず、身体中をゆるやかに巻き取られたような幸福感があった。彼は、目を細めて閉じた口元から、ゆるゆると煙草の煙をたなびかせた。忙しなく動いていなければ満足しない彼の身体も、今は、あたたかな島雲の中に寝転んで休むことに異議を唱えてはいなかった。
 空が青いということがこんなにゆったりと、甘く美しいことだとは思わなかった。
「こんなとこで何してやがる」
 不意に空がかげり、太陽の逆光を背にして彼を覗き込んだ男の、ぶっきらぼうな声が聞こえた。
 サンジは、自分の唇の片端がつり上がるのを自覚した。傲然と頭をもたげて立ったロロノア・ゾロの太い首筋や、包帯に覆われた肩を見上げた。目よりも大分性能のいい彼の耳は、ゾロが腰につけた三本の刀の柄が触れ合う、かすかな音を拾い上げた。
 彼は寝転がったままゾロに手を振った。
「よう、へそ」
「それァよせ」
 ゾロはかすかに口元を引きつらせた。
 この男の表情も見慣れたものだ、とサンジは思う。
 むっつりとした顔だが、ゾロが笑いそうになったことが分かったからだ。
「オレが魚釣りしてるように見えるか?」
 サンジは起き上がろうとして、思わず痛みに顔をしかめた。とらえどころのないやわらかな雲は、腕をつっぱらせて体重を支えることを許さず、起き上がるためには、したたかに傷めた背と腹の筋肉を使わなければならなかったからだ。その筋肉の下に横たわる骨も、筋肉を覆う皮膚も傷んでおり、全身に、ここといって痛まない場所はないくらいだった。
 にもかかわらず上機嫌で彼は起き上がって、雲の上に胡座をかいて座った。
「天国気分を謳歌してるんだ、包帯剣士」
 ひゅっと髪の先が風にさらわれて、頬を打った。日光の色の髪をかきあげたサンジの、胸元から指先にまで巻かれた白い布を、ゾロはあきれ顔で見下ろした。
「人のことが云えるかよ」
「そういうてめえは何しに来たんだ。まさかオレを探しに来たか?」
 ゾロはむっとしたように、手に提げたものを掲げて見せた。サンジは、ゾロのごつごつした手に握られた真っ青な瓶を眺めた。
「何だ?」
 陽光を受けてきらきらと輝く瓶にはラベルも貼られていなければ、コルクもつめられていない。蓋が開いたままだが、瓶はしんと冷えて細かい水滴を浮かべていた。
「昨夜、美味ぇって飲んでただろ」
 突きつけるように瓶を渡されて、サンジは瓶の口から立ち上る香をかいだ。
「ああ、これか」
 ノースブルーの地酒も真っ青なアルコール度数を誇る、空島の蒸留酒とパッションフルーツをカクテルしたドリンクだ。昨夜、樽に詰められそうなほど大量に作って、砕いた氷を混ぜて配られていた。口の中に入れると甘い粘り気の後から、アルコールがかっと白い火花を散らすようにして喉まで広がる。普段は控える酒を、その独特の香気に負けてつい飲み過ぎたのだ。
「つうかこれァカクテルだろ。瓶入りじゃなかったろ? 詰めてもらったのか?」
「あァ」
 なかなか核心に触れようとしないゾロは、島雲を怪しむように眺めてから、腰から抜き取った刀をそっとその上に置いた。隣り合わせると云うには微妙に離れた場所に座り込んだ。ゾロがもう一本、透明な酒の入った瓶を携えていることにサンジは気づいた。
(マジにオレを探して来たか?)
 その動機に思い当たるところのあるサンジは、面白いような、怖いような奇妙な気分になった。
「────まァ、景気付けってとこだ」
 ゾロはうっそりとつぶやいた。
「はァ? 何の」
「……」
 ゾロはちらりと彼の顔を眺めたが、何も云わずに酒をあおった。彼が飲んでいる酒には白いラベルが貼ってある。イーストブルーの白酒に似た、玉蜀黍と小麦の蒸留酒だ。とんでもなく強い酒で、宴会の乾杯用に使われるのだそうだ。もちろん瓶に口をつけて水のように飲む酒ではない。
 彼が何を思ってサンジの分まで酒を持ってくるという離れ業(それは無論、ゾロ限定の話だ)をやってのけたのかは分からないが、何か云い出すまでは、思い悩む必要はないだろう。
 サンジは沈黙する剣士のことを考えるのをやめて、甘く青々とした空とカクテルを楽しむことにした。一口飲むとやはり、果物の甘さの後から、細い火の川のようにアルコールが喉を通っていくのを感じる。体内に残った昨夜の酒と呼び合って、却ってそれは、気怠い幸福感に麻痺していたサンジの意識を明確にした。完全に迎え酒だ。そう思いながらもう一口飲む。
 冷気と熱を同時に身体に流し込む酒の味は、三日続いてもまだ醒めることのない、空島の宴の熱気と、喉を嗄らして笑う人々の顔を思い起こさせた。
 貝殻骨の位置に不可思議な羽根を生やした人と、そうでない者がいりまじって、笑いの小爆発が起こる。いがみあってきた者同士が、共通の敵を経て、共通の故郷を得た故に混じりあったのだ。
 黄金郷の上に鳴り響いた鐘の音は、空の上に、かつてない理想の混血を生み出そうとしていた。
「コニスちゃん、嬉しそうだったなァ」
 彼は、火傷を負った顔を、晴れ晴れと太陽にさらした。自分の襟が風にあおられて、首筋の火傷を擦って行ったが、一向に気にならなかった。
「ナミさんも、ロビンちゃんも、アイサちゃんも────あ、ラキさんもな」
 彼は、唇の端でひりつく酒を指先で拭い取った。
「すっげえ気分いいぜ」
 ゾロはくっきりと二重の線を刻んだ目を、気に入らぬげに伏せた。薄い唇を僅かに歪めた。
「……てめェは、とことん女の話ばっかだな」
 サンジの襟や髪を揺り動かす風は、ゾロの硬く短い髪をもかき乱していた。サンジは、その髪の中に自分の指をさしこみ、うなじごと引き寄せた感触を思い出す。
(何云ってやがるんだ、こいつは)
 長い髪も、ひんやりと柔らかい乳房も、甘い匂いの汗も持たないその身体で、サンジをあれほどに惹きつけ、散り散りになりやすい意識を縛り付けたのは、どこの男だと思っているのだろう。どんな女も出来なかったほど、不可解な色の目に釘付けにした張本人は。
 しかし、ゾロが面白くなさそうに目を伏せた様子は気に入った。こんなに眩しい光の中では、どうせ彼のあの吸い込まれるような目の色はよく見えないのだ。
「オレァな」
 サンジは、頭の中でばらばらに散らばるイメージをまとめるのに苦心しながら云った。
「美しいもんが好きなんだ」
 ゾロの、少し神経質そうな曲線の眉がぴくりと動いた。
 彼は伏せた目を上げ、妙なものを目にしたようにサンジを眺めた。
「何の話だ、詩人」
 何の話、はこっちの台詞だ。そう思いながら、ゾロの訳の分からない混ぜ返しは無視してサンジは云い募った。
「お前、海の中で鮫と向かい会ったことあるか? 鮫っても、アーロンみてえな化け物のことじゃねえ。本物の海の王者の話さ」
「海の王者? 鮫がか?」
 ゾロの気のない返事に、彼は思わず笑った。
「何だかんだ云ってもてめェは陸育ちだな。鮫ってのは俺ら人間が海からはい上がるよりはるか昔っから、少しも形が変わってないんだぜ。他の魚より水の抵抗が少ない、ざらざらした小せえ鱗で覆われてる。だからあいつらは海で一番早く泳げるんだ。古いくせに一番進化した形で、昔から海に棲んでやがったのさ」
 ゾロは眉をひそめて、鮫について熱弁をふるい始めたサンジを見ている。
「オレが初めて鮫を捌いたのは十の時だが、驚いたね。鮫の身体の中には小骨ってのが全くないんだ。他の魚とはまったく違う作りで。こう」
 彼は左右の手で、アーチを描いてみせた。
「背骨一本が身体の中を通ってやがる。しかもその背骨ってのは軟骨でゴムみてえによくしなる、柔らかい骨なんだ。硬い骨と云や、歯と顎だけだ」
 彼は、ほぼ空になった瓶を雲の上に置いた。瓶は雲の上で立っていられずに少し弾んで倒れた。瓶の中から一滴、カクテルが流れ出して雲に染みこんだ。
 勿体ねェことしちまった。そう思いながら、瓶を起こし、自分の組んだ膝に立てかけた。
「昔、朝早く海に潜った時、船のすぐ傍で、でかいホオジロザメに会ったことがある。ウソップの話に出てきそうなばかでかい奴だ。そいつは腹が一杯で、小さいガキのオレになんざ見向きもしなかった。あいつらは無駄なものは食わないんだ。見られた、と思ってすくみあがった瞬間、そいつはオレの身体の真横を泳いで通り過ぎて行っちまった。嘘みてえに速い、柔らかい動きだった」
 サンジは、その時身体中を通り抜けた、冷たく薄青い棘で身体中を刺されたような戦慄をまざまざと思い出した。
「あいつらは確かに殺し屋だが、あんな身体に生まれたら、他にどうしようもねえよ。泳いで食って生きるための、最高に無駄のねえ身体を持って生まれて来てるんだ。だから海の中の鮫ほど美しいもんはないのさ」
 彼は、返事のしようがないように黙り込んだゾロの肩の骨を軽く指先で衝いた。それは包帯の下に、筋肉の隆起と共に猛々しく浮かび上がっている。
「てめえの骨はクソ硬そうだけどな」
 彼はにやにやした。ゾロの戸惑った様子が可笑しかったからだ。今までその機能美や、不可解な神秘性のためにサンジを魅了したものが、目の前にいるこの男の身体の中に、ことごとくはめこまれているように思える。それとも、サンジの中に生まれた目新しい感情がゾロの姿に紗をかけ、今までになく興味を惹きつけているのだろうか。
 サンジにはどちらなのか分からない。
「オレが何の話してんのか、分かんねえか」
 すると、不意にゾロの左手が上がり、自分の肩先に触れたサンジの手を掴み取った。彼が包帯の上から巻き付けたバンダナの影が視界に黒くひらめく。抑えているようでいて、どこか獰猛な弧を描く腕の動きは、サンジが熱をこめて語った海の王者の動きにやはり似ていた。力を込めて引き寄せられる。男に腕を掴まれて引きずり寄せられるというのはどうしても抵抗がある。膝がはね上がりそうなのをサンジはかろうじて耐えた。
「てめェの────」
 云いかけて、ゾロは不意に顔をしかめた。火傷を浮かべた頬から額にかけて、視線が滑るのが触感に似て感じられる。尋常ではない距離に近づいたゾロの唇が動く。
「……随分、いい焼け具合だな」
「おかげさまで」
「てめェの話は相変らずさっぱりだが、てめェが焼け焦げてるのを見て、腹くくったんだ、オレは」
 かっさばかれた腹を今度はくくったか。
 軽口を叩く暇はなかった。
 何時の間にか空になった酒瓶を離し、右手がサンジの唇から煙草を取り去った。まだ薄く煙を上げる煙草をゾロが雲の上に投げ捨てたのがちらりと視界の隅によぎる。
(────ポイ捨ては、基本的にオレの主義に反するんだが)
 そんなことを考える頭を、大きなてのひらがそろりとなぞる。
 火傷を避けて頬を指が辿り、こめかみを通り過ぎて、耳のあたりで落ち着いた。
 夜の海の中でそうした時も、三日後にキッチンで他のクルーの目をはばかるようにして抱き合った時にも決して見せなかった、もの優しい圧力が唇に重なってきた。喧嘩なのか、食われているのか、それとも何らかの感情がそこにあるのか、おおよそ区別がつかなかったような唇が、今は、意味を間違えようのない真摯なキスをサンジの唇に落とし込んでいた。
 切れの長いゾロのまぶたは礼儀正しく閉じ、手首を握り取る力は柔らかかった。相手が女でないことになど文句をつけようのないしなやかさだった。
 唇の狭間をゆっくりと舐められる。甘い感覚が、ゾロにそっと触れられた耳元に、唇の間に、じわじわとこみ上げてきた。
 サンジは考えるのをやめ、味わい、喋り、呼吸する、唇の内側の領地を、ゾロに明け渡した。

 ゾロが首筋を逸らすようにして唇を離し、短い息をつくのを聞いて、サンジはそろそろと目を開けた。艶っぽい息だ、と思う。自分の中にゆるゆると沸き上がってくる征服欲を抑えるのは、抱きしめて引き寄せることに馴れたサンジには容易なことではなかった。
 だが、自らも包帯に巻かれたその腕で、サンジの火傷に触れないよう、骨を痛めた背中や胸に触れないように、力を抑えたこの男に、自分が譲るつもりなのははっきりしていた。
 腹をくくった、と云わせたのだ。
 それに、ゾロの中で、サンジに譲るという選択肢がそもそも存在するのかも分からなかった。
 自分が下か、と実感すると頭を抱える思いだったが、きっとそれも突き抜けてしまえばたいした問題ではなくなるのだろう。
「てめェにしちゃ上出来」
 そう囁いて、今度は自分から唇を近づけた。
 おそらく雲の上でキスをする機会はこの先二度とないだろうと思ったからだ。
 突き抜けてしまえばそこには、甘く青い空があるはずだった。
 その先どこに行くのかは、野となれ、山となれだ。
 彼の楽天的な思いを裏付けるように、一見頑なな剣士の薄い唇はほのかに温かく、柔らかかった。

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