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プロミス

11 01 *2013 | Category 二次::ONE PIECE・ゾロサン


続き





「何か食い物か、酒寄越せ」
 絢爛豪華な日光に凪いだ昼、ゾロがそう云ってキッチンに入ってきたとき、サンジは反射的に嫌な顔をした。食事時間まではまだもう少しある。彼はその準備に忙しかった。GM号の船員達の、その時々の食欲に答えていたら食料庫が早晩空になるのは目に見えていたし、たとえリトルガーデンで船が呻くほど食料を積み込んだ後でも、不足の事態に備えてなるべく食材は惜しんでゆきたい。それに加えて、サンジは「狩り勝負」でゾロに一歩譲ったことで、多少頭に来ているのだ。
「てめェらの腹が鳴るたびに、いちいち食い物が出てくると思ったら大間違いだぜ」
 彼はそう云いながら振り返った。そして、ゾロの足音に水音が混じっていることに気づく。
「濡れた足で入ってくるんじゃねェよ。オレ様の職場の衛生環境が悪くなるだろうが」
 刺々しくそう云いかけて、彼は、ゾロの足許から、赤い靴跡が続いていることに気づいた。朱色に擦れて、男の靴の中で濡れた音を立てているものは、ただの水ではなかった。
「てめェ……足から血ィ出てんぞ」
 ゾロの血液が、極めて固まりやすい成分に富んだものだということは、ミホークとの一戦からアーロンパークでの戦いまでの一連の流れで証明済みだった。ゾロの傷を診た医者が首を振り、こんな身体を診るのは初めてだと云った。
(「手当をする先から治ってゆくようだからな。儂の助けもそうは必要ないだろう」)
 ロロノア・ゾロの名前はバラティエのように情報の飛び交う船にいれば、当然のように耳に入ってくる。その正体については、いささか誇張されたものだったにしろ。その誇張された部分は、主にロロノア・ゾロの人間性にまつわるものだった。海賊狩りとして名を上げることになったのは、罪を問われることなく人を斬れるからなのだ、と、風評を持ち込んで来た相手はまことしやかに語ったものだ。
(「儂も遠目にしか見たことはないが、あれは人間と云うよりは野獣だな。体つきも目つきも、もう人間の枠を踏み越えとるよ。あんな男が跳梁跋扈しているとはおそろしい話だ」)
 いったいロロノア・ゾロというのはどんな男なのか、それで興味が湧かないと云えば嘘だった。その噂の主が、バラティエで、仲間数人とテーブルを囲んで談笑していた若い男だと知った時は拍子抜けしたものだった。だが、ココヤシ村の医者がゾロの体力を呆れつつ誉めあげた時、ミホークに負わされた深手をものともせずに彼がナミの後を追ったことを知ったとき、ようやくロロノア・ゾロという男の人となり、並はずれた体力の一端を理解したように思う。
 そのゾロが、血にまみれて歩いて来るのだ。足裏に怪我でもしたか。しかし、頬や腕にかすかに火傷を負っている以外には、上半身は綺麗なものだった。
(何で足なんだ?)
 彼はいぶかしんでゾロの足許を覗き込んだ。すると、それを嫌うようにゾロは一歩下がり、着ていたズボンの裾を僅かにめくりあげた。
「あァ、傷が開いたな」
「ナミさんやビビちゃんが無傷だったってのに、てめェ一人でどんな傷負って来やがったんだ? ちょっと見せてみろよ」
「うるせえな。手当ならしてる」
 その時、くるぶしから数センチ上に、血に濡れた糸の端が覗いて、サンジは奇妙な気分になった。凧糸のような太い糸が、ジグザグな模様を描いてズボンの裾から見えている。
「見せてみろっての」
「てめェに見せる必要はねェ」
「あの、サンジさん」
 ゾロの後から、控えめな声がした。登場の時の印象とはまるで変ってしまった少女の声だ。ミス・ウェンズデーと名乗り、バロックワークスの一員として彼等の前に現われた時、ビビは相当にあくが強く思えたものだ。だが、彼女もまた拍子抜けするほど初印象を裏切る素顔を持っていた。芯が強くおだやかで、王女としての帝王学を授けられて育った少女だ。その育ちの良さを、メリー号のクルーも徐々に理解し始めていた。だからと云って気取ることも驕ることもないビビは、既に彼等の中にとけ込み、馴染みつつある。
「余計なこと云うんじゃねェぞ」
 血の跡のついた足跡を残しながら、ゾロは云い捨ててキッチンを出て行く。どうやら酒と食物は諦めたようだった。
「約束は出来ないわ、ミスター・ブシドー」
 ビビがそう云うと、ゾロは肩をすくめた。
「勝手にしろ」
 足音が遠ざかって行く。足音だけ聞けば、それは強健で力強く、彼が怪我をしていることなどまるで感じられなかった。
「ミスター・ブシドーは、リトル・ガーデンで自分の足を切ったんです。ミスター5の能力で、ロウで足を固められてしまって……ナミさんと、わたしと、みんなが脱出できなくなって。ミスター・ブシドーは自分の両脚を切って、戦おうとしたんです」
 サンジは、晩に焼く肉をビールに漬け込んでいた手を止めた。
「両脚を?」
「そこにルフィさんが割って入って……わたしたち、おかげで助かったの。ミスター・ブシドーは『半分で済んだ』って云ってました。でも、だからと云って小さい怪我じゃないわ。さっき、自分で縫ってたのを見たの。とても……とても大きな傷だった」
 ビビは細い身体をぶるりと震わせた。
「普通に歩いたり、動いたり出来るような傷じゃないはずなのに、いったいあの人は何者なのかしら?」
「オレにあいつの噂を初めて聞かせた男は、『ロロノア・ゾロは、人間というより野獣だ』って云ってたぜ、ビビちゃん。つまりはそういうことなんだろ。野生動物はやたらに自分の傷を痛がってみせたりはしないもんさ」
 そう答えると、ビビは考え込むようにつややかな唇を噛んだ。
「でも、心配なことには変りはないわ。それに、痛むことにも」
「心配いらねェよ。普通に歩いてただろ?」
「でも、縫った後もこんなに血が出てるのよ?」
 ビビは、ゾロが歩いた痕跡をそのまま示して散らばった、血染めの靴跡を指差した。サンジはため息をついた。胸の奥で、不穏な火が燃え始めていた。それは怒りとも、不安とも取れるものだった。心臓の中に一つ、炎で細工した針が突き刺さったような感じだった。
「血ならオレが掃除しとくよ、ビビちゃん。リトルガーデンの疲れが、ビビちゃんも抜けてねェんだ。ちょっと休んだ方がいい」
 彼がそう云うと、ビビは傷ついたような表情になった。
「あなたとミスター・ブシドーは犬猿の仲だものね。でも……少し冷たいような気がするわ」
 そう云って、ゾロの血の跡を避けて、静かにキッチンを出て行った。
「そりゃァないぜ、ビビちゃん」
 サンジは一人ごちた。ビビはどこに行ったのか。ゾロの後を追うのだろう。そしておそらく傷を気遣って、煙たがられるに違いない。ゾロは、他のクルーがそうするようには、ビビを特別扱いしなかった。自分に厳しいところのあるビビにとっては、それが快いのかもしれなかった。
 冷たいどころではない。
 心臓の中で、ずきずきと拍動する細い火を抱えてサンジは思う。手足から力が抜けて、座り込んでしまいそうだった。だが、彼は手を止め、台所の火を絶やすわけにはいかなかった。精神的に不安定になったからといって、休息する時間は彼にはない。そしてその必要性も感じなかった。クルーの夕食を用意するために決めた手順を忠実に追ってゆく。肉を柔らかく漬け込み、野菜を多く摂らせるために、サラダの代わりにコンソメで煮た温野菜にする。料理の一品を一つの楽器の音に喩えるなら、オーケストラを編成出来るほど、一品でも多く、豊かに、バリエーションを加えて。
 栄養が不足すれば、全員の健康状態に影響してくる。士気にかかわる。命を落とすことになることになるかもしれない。サンジは全員の命の鍵を預けられているのだ。
 半分で済んだ。
 ゾロは、気負って傷を大きく云うタイプではない。むしろ傷を隠す方のタイプの人間と云えた。だから彼が半分足を切ったというならその通りなのだろう。
 猛烈に胸がむかついて、その火の棘はサンジの平静な息を荒らした。その度に彼はゆっくりと深呼吸を繰返し、手元の料理に集中する努力をしなければならなかった。料理は常に彼の最大の関心事であり、意識を集中するのに苦労する必要のないものの筈だった。意識が最もクリアーになる筈の時間に「彼」が入り込んでくるというのが、ひどく不快だった。
 彼は思わず額の際をかきむしり、料理中に髪に触れたことに気づいて、手を洗った。ゾロ本人にあたるしかない不快感だが、それをどうやって表現すればいいのか、胸の中がもやがかったようで、はっきりしなかった。ゾロに、心配をかけるな、などと云えるものなら苦労はない。自分のこれが「心配」なのかも、定かではないのだ。
 彼はため息をつき、大鍋で煮込んでいるシチューの他に、小鍋の料理を一つ作り始めた。普通なら数人前調理出来るパエジェーラを使うところを、敢えて小さな鉄のフライパンにする。砂を吐かせた貝は、明日の献立に使うつもりだったが、思い切って放出することにした。オリーブ油でニンニクを炒め、香が出たところを鳥肉と玉葱を合わせる。そこに米を加え、米が充分に熱したら、サフランを溶かし入れたコンソメスープを注ぎ、貝とキノコ類を載せて蓋をする。このまま十五分も火にかければ、単純な手順で、ちょっとしたパエリア風のものが出来上がるのだ。
 この料理は怪我人のところへ持って行ってやるつもりだった。夕食まではまだ少し時間がある。そしてあの男は、歩けば出血するような体力で、凝りもせずに重りを振っていることだろう。目に見えるようだった。サンジは医者ではない。傷のことはほとんど分からないが、せめて栄養補給をさせてやることなら出来る。
 足を半分切った傷に、栄養のある食事がどれだけの効力を持つものなのかは分からないが。
(ないよりゃマシだろ)
 彼は料理の火を止め、他のクルーの目につかないよう、そっとキッチンを抜け出した。


 船尾に行くと、思った通りゾロはシャツを脱ぎ捨てて重りを振っていた。大粒の汗が背中に浮かんでいる。体調が悪い証拠だった。体調がベストの時には、もっと霧を吹いたようなさらさらとした汗が出るのだ。このトレーニング莫迦ほどではないが、サンジも身体を鍛えている。汗や皮膚の調子が訴えるサインは、おろそかに出来ないことを知っていた。
「仕事を増やしやがって。キッチンの床がべたべたになったぞ」
「そりゃ悪かったな」
 素っ気ない返事が返ってくる。
「メリーは古いボロ船じゃねえんだ。大事に扱え」
 サンジはそう云って、船尾の手すりの縁に皿を置いてやった。
「喰え。うめェから」
 傷のことを考えて、酒は添えなかった。本人は物足りないだろうが、傷や病気で周囲を騒がせた者は、それなりのリスクを払わなければならない。真っ先にグラスを手にとって、中身が水なのを知ったゾロは、
「何だこりゃ」
 と、案の定不満を漏らした。その素直な不満を半ば可笑しく思って、サンジはニヤッとした。
「そう云うだろうと思ってたけどよ。傷からどばどば血が出てる奴に酒はやれねェよ。しかも、お前は強い酒しか飲まねェだろ? だったらいっそ水飲んどけ」
 もっと云いつのりたかったところかもしれないが、ゾロは、サンジの携えてきた料理に気を惹かれたようで、皿を引き寄せた。特に礼も云わずに、静かに食べ始める。トレーニングで上気したのかもしれないが、彼の皮膚が全体に赤みを帯びているのにサンジは気づいた。ゾロの皮膚は、クルーの中でもどちらかと云えば白い方だ。不自然に血色がいいと目立ちやすい。
「おい、てめェ」
 傍らに寄り掛かって、自分の作ったものをゾロがかきこんでいるのを見ていたが、サンジは我慢出来ずに声をかけた。座ったゾロは口いっぱいに料理を頬張って口を動かしながら、視線だけでサンジを見上げる。
「熱があるんじゃねェの」
 ゾロの返事までは一瞬間があった。口の中が一杯だったからだ。
「あったらどうした?」
「休めっつって休むとは思ってねェけど」
 サンジは、また胸の中でちりちりと不快な火傷を作る棘の存在を感じた。彼は、心の内側に溜め込んだものを呑み込むことにはちょっとした自信があった。ゼフとの関係が彼に、その土壌を形成したのである。ゼフが片足を無くした理由について、泣き暮らすようでは、とてもあの厳しい老人の傍にいることは出来なかった。
 だが、同時に、自分の気持ちを押し隠すことに飽き飽きもしていた。GM号。この小さな船には、オールブルーへの手がかりがある、と信じて乗り込んだ。夢の桟橋を渡って飛び込んだ空間なのだ。まるで子供のような、麦藁帽子の船長は、今まで鬱屈していたものを全て解き放ってもいいという、自由のシンボルのように見えた。
 またここでも、皮肉と、煙草の煙と、虚勢とを煙幕にして、自分の味わう小さな痛みを我慢するのだろうか。
 思ったことを口に出すのも、また一つの新しい方法論なのではないだろうか。
「足、切って戦うつもりだったんだってな」
「あァ」
 簡潔な答が返ってくる。
「足切ってどう戦うのか、具体的に考えてたのかよ」
「そこまでは考えてねェ」
 またしても簡潔な答だ。
「何とでもなる」
「何とでもならねェことだって世の中にはあんだろ」
 自分が激して来ないように、サンジは呼吸をまた少し整えなければならなかった。腹の中に怒りからなる震えが沸き起こってきた。かっとなると言葉を失うどころか、辺りが見えなくなり、暴力に訴えかねない自分の性癖を知っているからだ。たかだか十九年とは云え、自分との付き合い方は多少学んできた。
「足を切るってのがどんなことなのか、オレはいやというほど知ってる。それは今まで出来たことが出来なくなることだ。届いた筈の場所に急に届かなくなることだ。でかい夢だったことを諦めて、別の夢に置き換えることをしなきゃならねェってことだ。そういうことを、全部考えて自分の足を斬ろうと思ったのかよ」
 ゾロは、少し困惑した風に食べる手を止めた。サンジが絡むのではなく、真面目に自分の行為を咎めているのに気づいて、いぶかしく思ったのだろう。健啖家で、いつも食べ始めたら最後、皿が空になるまでスプーンを離すことのないゾロが、珍しく手を止めている。それで、サンジは自分の言葉がまともに相手に届いていることを知った。
「生まれつき足が不自由な奴も、手が不自由な奴もいる。そういう奴は、その身体に合わせて自分の道を選べばいい。普通の奴より険しい道を選ぶことになるけどな。だけど、てめェはそうじゃない。持って生まれたものを、本当のギリギリになるまで護るのが、まともなアタマの人間のすることだろうが」
 すると、ゾロは、フンと鼻で笑うような声を出した。サンジを相手にしたときに限るが、莫迦にしたようにせせら笑うのは、ゾロの得意技だった。
「そういう意味じゃ、オレはまともな人間じゃねェってことじゃねェのか?」
「オレぁな」
 サンジは、すっかり云いたいことが腹に決まっているせいで、心が安らかだと云ってもいいくらいだった。もう興奮して震えてはいなかった。
「そういうまともじゃねェ奴が、大っ嫌ェなんだ。それだけは云っとこうと思ってな。別にてめェは、オレがどう思おうと知ったことじゃないだろうけどよ」
 すると、ゾロは離さなかったスプーンを皿の上に置き、ぎょっとしたような顔になった。その表情に、逆にサンジが驚かされて、感情が鎮静した。
「どうした?」
「メシが」
 ゾロは、皿を床の上に置いた。それは妙に静かな仕種で、この男らしくなかった。食卓で食事を終える時も、放り投げるように箸やスプーンを置くのが、いつもの流儀だったからだ。
「急にまずくなった」
「何だと?」
 気色ばむサンジを、ゾロは苦々しい表情で押しとどめた。
「うるせェな。てめェに大っ嫌ェって云われた瞬間に、胸がつかえたんだ。どう考えてもてめェのせいだろ」
 サンジは、どう解釈していいのか分からず、ゾロの顔を眺めた。ゾロを相手にした時は、今までは大抵感情にまかせてまくし立て、そのまま引き上げればよかったのであって、こんな微妙な空気が生まれることはなかった。
「嫌な気分になったかよ」
「何でかは分かんねェけどな」
 ゾロは即答する。サンジにもその理由は分からなかった。だが、云いたいことをもう一言云うチャンスだとは思った。
「オレもさっき、血だらけで入って来られた時、嫌な気分になったんだ。あれもてめェのせいだ。これでおあいこだろ」
「……そうか?」
 心外そうな声を出すゾロの、変った色の髪が夕陽を跳ね返していることにサンジは気づいた。冬島が近くなって日が短くなっているとは云え、夕闇が迫ってきている。キッチンで火を止められたまま調理が途中の夕食のことを思い出す。
「それ、夕メシのつなぎに喰っとけよ。まずいなんて抜かすんじゃねェ」
 そう云い捨て、皿とグラスとゾロをその場に取り残して、サンジは、先刻よりはせいせいした気分で船尾を離れた。そろそろ、夕食を待てないルフィやウソップがつまみ食いに現われる頃合いだ。
 だが、自分の胸の内側を探ってみると、あの不快な火の棘はまだそこに居座っているようだった。
(何だってんだ、いったい)
 ゾロの見せた、彼らしくない表情は、一瞬彼の胸をすっきりさせたようにも思えたが、すぐに火の棘に熱さを加える一因となった。
(クソッ)
 サンジは胸の中で毒づいた。これは、サンジがうまく自己分析が出来ていないことの証拠だった。そして、サンジは今まで、その日その日を暮らしてくることに精一杯で、自分の言動や心理を深く掘り下げて自己分析する習慣をつけてこなかった。
 せいせいしたような、後味が悪いような、妙な気分を抱えて、彼は火と油、香と味で建造した自分の王城へと戻ることになった。

 その日の夕食にゾロはやってきた。先刻のやり取りなど知らぬ気に、サンジの持っていった皿を流しに下げ、食卓についた。腹を空かせた連中の大騒ぎに紛れて、ゾロの静かさは目立たなかった。元々、食事の時にそう口数の多いタイプではない。ゾロが口をきかなくとも、ウソップとルフィが数人分は優に喋るのだ。ナミもそう口数が少ないタイプではない。アラバスタへ先を急ぐビビでさえも、ナミが喋ってさえいれば調子を合わせて何かしら朗らかに受け答えしていた。
 だが、給仕に立つサンジは、ゾロが殆ど喋らないことに気づいていた。笑顔もなく、美味かった皿をもう一皿、と差し出す訳でもなく、黙々と自分の分を平らげて、うっそりと大騒ぎの食堂から出て行った。
 てめェに大っ嫌ェって云われた瞬間に、胸がつかえたんだ。
 さっきはそう云ったが、持っていった皿は空で帰ってきた。夕食を残した様子もない。少なくとも胸がつかえてはいないようだ。サンジは皮肉な気分でそう考えた。そもそも、あの男が、サンジの言動に感情をそう左右されるとは思えない。一瞬不快になった程度のものだろう。それに引き替え、自分の胸に、ほぼ、熱した硝子のように紅く照り輝いて横たわる棘の存在は、いったい何なのだろう。時間がたつにつれて、ゾロが静まりかえっているのにつれて、どんどん大きくなってゆくようだった。
 今日は妙に疲れたな。
 夕食の後はデザートを賑やかに食べて、もう一杯寄越せ、と騒ぐ面々をようやく満足させると、気の遠くなるような後片付けが待っている。通常の彼なら、それさえも勿論、やり甲斐の一つだ。自分の作ったものの皿が空になって積み重なっているというのは、料理人の快感原則にとってなくてはならない風景だった。
 こういう時こそ、仕事をおざなりにしないよう、徹底的にやるべきだ。サンジは最後の一人までを彼等のささやかなダイニングから追い出し、腕まくりをした。皿を洗い、鍋肌を磨きあげる。シンク周りを貴重な洗剤で擦り、水や食べかすのこぼれた床を拭き上げた。ゾロの血のついた床の入り口は、改めて念入りに擦る。漂白剤を染みこませた布で力を込めて擦ると、床にはほぼ何の痕跡も残らなかった。床のオイルを剥がしてしまったので、天気の良い日に、ルフィとウソップを食べ物で釣って、ワックスかけに駆りださなければならない。
 台所の清掃が一通り終ると、さしもの彼もぐったりした。少しやりすぎたかと思わないでもない。給仕するときのお仕着せであるダークスーツをもう一度羽織り、キッチンのテーブルの前に座る。脱力するまいとして、かえって身体に力が入っていたのを感じる。四肢の関節からゆっくり力を抜き、テーブルにもたれかかる。この時間帯になると、朝早いクルーは殆どが寝ている。今日の見張りはウソップだ。おそらく見張り台の上でも、自分の小さな研究に勤しんでいるに違いない。タイミングを見て、彼に夜食を持っていってやれば、サンジの今日の仕事は終る。
 その前に少しだけ。目を瞑ろう。
 リトルガーデンでは、サンジは一人で楽をした格好になっているが、彼もまた働かなかった訳ではない。エルバフの巨人族やナンバー3とこそ渡り合わなかったが、ゾロと彼が獲ってきた獲物の必要な肉の切り出しから保存に至るまで、作業は殆ど彼一人で行ったのだ。他のクルーは、獲物の栄養のある部位など知らないし、非常識な大きさの獲物を切り分けられるのはサンジ一人だった。全身を血まみれにして、一日がかりで肉を切り出した。その後もその後始末と、クルー達の食事でろくに休んではいない。船の男の役割として、当然寝ずの見張りも務めていた。
 とろとろと眠りがやってくる。昼間、ゾロの傷を見かけた時に生まれた痛みは、もはや明確な不快感としてサンジの中に居座っていた。その痛みを抱え込んだままで、サンジはキッチンのテーブルの上で、浅い眠りに引き込まれて行った。
 眠っていたのがほんの数分だったのか、それとももう少し時間がたっていたのかは、時計を見ていなかったサンジには分からない。
 自分を覗き込んでいる者が居る。
 この船には、基本的には「仲間」と呼べる相手しかいない筈だった。だが、無防備に居眠りをしている姿を見られるのは、誰であれ気分のいいものではなかった。
「てめェか……」
 彼は、船の中で最も背の高い、伸びやかな男の姿を見出して深いため息をついた。
「ビビちゃんかナミさんかと思ったぜ」
「そうでなくて悪かったな」
「まったくだ。寝起きにてめェの顔を見るなんざ願い下げだ」
「それァ何だ」
 ふと、ゾロに真顔でそう訊ねられて、質問の意図を汲みきれなかったサンジは、剣呑な声で聞き返した。
「あァ?」
「てめェの前のとこ、白くなってんぞ」
 そう云ってゾロは、自分の短い前髪の部分を指でつまんで引く真似をして見せた。
「何?」
 サンジは、自分の前髪をたぐって見た。金色の前髪にまじって、左目の上にかぶさった部分に、確かに少し白いものが見える。彼は慌ただしく席を立ち、バスルームに駆け込んだ。バスルームの灯りを点し、余り映りのよくない鏡に自分の顔を映してみると、ごく細い一筋、確かに真っ白になった部分がある。サンジの金髪はプラチナではなく、ごく黄に近い、ハニーブロンドだ。その中に一筋混じる髪は、金作りの街に立った塩の柱のように目立つことこの上なかった。
「何だ……?」
 茫然として呟くと、ふっと背後に人の気配を感じた。後からゾロがついてきているのだ。
「だから云ったろ。白くなってんだ」
 ゾロは勝ち誇ったように宣言した。
 給仕をしている時には、誰にも何も云われなかった。気づかれないでいるには目立ちすぎる位置だ。一人きりで胸の中に鬱々と怒りを籠らせて掃除をしている間か、居眠りをしている間に白くなったとしか思えなかった。
「何でこんな」
 サンジが再び呟くと、不意に、熱いものが彼の肩を掴んだ。
「嫌な気分になったからじゃねェのか」
「何の話をしてやがるんだ?」
 前髪の中に白い一房を見つけた衝撃から回復しない内に、次の一打を受けて、サンジは、自分の肩を後から掴んだ男の顔を、鏡越しに眺めた。ゾロは、拗ねたような、それでいてふてぶてしい表情で鏡の中のサンジを見つめ返していた。
「さっき、云ってやがっただろう。オレの怪我で嫌な気分になったってよ。それ以外に思い当たることでもあるか? 今日は朝飯の時からてめェはずっと機嫌良くしてやがったし、リトルガーデンに入る前も、女共に囲まれて気分好さそうだったじゃねェか」
「そりゃ、そうだが……」
 サンジは、肩にかかった手をはずそうとして荒っぽく身を捩った。
「離せってんだよ。オレのこれと、てめェがここにいるのと何の関係があんだよ」
「関係ねェ訳ねェだろうがよ」
 ゾロは憎々しげに吐き出した。
「てめェに、嫌ェだって云われたくらいで、何でオレがあそこまでショック受けなきゃいけねえんだ」
「あそこまでって」
「てめェに分かるかよ」
 そう云って、ゾロはサンジの骨張った肩を力任せに掴んで、自分に向き直させた。薄暗いバスルームの灯りの中でも、ゾロの目が今までに見たことの無いような色を浮べているのが見て取れた。いつもの嘲笑的な表情ではなく、腹を立てているようなつり上がった目でもなく、ただ、見たことのないものを見つめるようにサンジを見つめている。それは、曇って、硝子の後に貼った銀がざらざらになった鏡越しに見るよりも、はるかにはっきりしていた。
「分かるわけねェだろ……」
 思わず声が弱くなる。
「てめェは気にしてないのかと思ったが、これを見て」
 ゾロは、白くなかった髪の筋をすくい上げた。
「そうでもねェのが分かった」
「自惚れてんじゃねェぞ!」
 サンジはゾロの胸ぐらを掴み上げた。とろとろと仮眠を取ったことで少し鎮静していた棘が、火のように燃え始めるのを感じた。ゾロの云う通り、自分の身体(それがたとえ髪の一房だとしてもだ)に異変が起きるとすれば、昼にあのなまなましい傷口を見たことが原因としか考えられなかった。
 まるで子供の玩具のほつれを縫い合わせるように、無造作に太い糸で縫い合わされた深い傷。
 それは、この男が自分自身を護ることにまるきり無頓着であることの象徴のように思えた。それがサンジにはたまらなく不快だった。その不快さをゾロに知られても構わなかった。むしろ、突き付けてやりたかった。
 だが、それで身体に変調を起こすとすれば、それはサンジの弱味だ。
 それを、あろうことかゾロ本人に看破されるのは我慢がならなかった。
「自惚れてるわけじゃねェ」
 ゾロは不機嫌そうに、自分の胸ぐらを掴んだサンジの手を払いのけた。
「てめェはさっきおあいこだと云ったが、そりゃ違うだろ。オレは、もう自分の足を斬るような真似はしねェ。鉄を斬っても、斬らなきゃいけねえ相手を斬っても、自分の手足を斬るような真似だけはしねェ」
 サンジは、幾らか興味深い気分で、自分に向かって必死に云いつのる剣士の姿を眺めた。自分の肩にかかった手が、どういった訳か汗に濡れているのを不意に知る。
 ゾロは緊張しているのだ。
 それに気づくと、不意に胸の中でちりちりと心臓を焦がしていた棘がすいと楽になるのを感じた。ゾロは、自分自身を傷つけたことについて、遠回しにサンジに詫びようとしているのだ。他でもない自分に。
 そして、それを分からせようとして、緊張の汗をにじませているのだ。
「だから、てめェもオレに云った言葉を取り消せ。それで初めておあいこだろ?」
「云った言葉ってのは────」
 サンジは繰り返そうとしたが、ゾロに恥をかかせるだけのことだと気づいてやめた。
「取り消してやるよ」
 彼は息を大きく吸った。
「オレァ、てめェが、あいつに今度会うまで二度と負けねェって云った言葉を、簡単に覆すのかと思ってむかっ腹が立ったんだ」
「髪が白くなるくれェか?」
 肩を掴んでいたゾロの手が、そっと白く変った前髪の一房を辿った。
「おいおい、てめェ、何か誤解してんじゃねェか?」
 サンジは、狭いバスルームの中で、自分達がとんでもなく密着しているのを突然意識した。船の中は静まりかえっている。もう男部屋でも女部屋でも人が起きている気配は感じない。船は凪いた海の上で微妙に揺れているが、船底のきしみも殆ど伝わって来ず、居心地が悪いほど静かだった。
「誤解かよ?」
 ゾロの声に、耳に馴染んだ、嘲笑するような色が加わった。それでいて、そんな声を出しながら、ゾロの手はサンジの髪から肩へ、背中を無骨に辿った。その荒々しさの中には、紛れもない、一抹の優しさと熱があった。
「莫迦じゃねーか、てめェ……」
 その言葉をすっかり云い終らない内に、乱暴な唇が重なってきた。莫迦じゃねェのか、こいつは。頭の中でもう一度その言葉を繰り返したが、サンジはそれを拒もうとは思わなかった。本当は唇を噛みきってやりたかったが、ただでさえ出血した剣士に、これ以上僅かとは云え血を流させたくなかった。
 そして、それは、やがて自分も莫迦ではないのか、という結論に辿り着いた。
 息を荒げて自分の唇に貪り着く男の背中を、自分が引き離すどころか、腕を回していることに気づいたからだった。


「……って、いってェよ、バカ!」
 大きくはだけたシャツが肌にはりついてくるのがたまらなく不快だった。すっかり剥き出しになった足の片方は、ゾロの筋肉のみっしりと張った肩の上に押し上げられている。バスルームの、殆ど隙間と云っていいような空間にはまりこんで、二人は重なり合っていた。
 ゾロが自分を抱こうとしているのだ、という衝撃からようやく回復したサンジは、現実問題として、酷い痛みに耐えなければならなかった。思いあまって石鹸のぬめりを借りたが、それも完全に彼を楽にした訳ではなかった。ゆっくり慣らすなどという手順を踏むことも出来ず、他のクルーが入ってくる可能性のある場所で抱き合うというのは、ひどく忙しない、熱だけの先行する行為になった。
「やめるか?」
 滅多なことでは息を乱すこともないゾロが、焦っているのを感じる。背中に汗が噴き出している。そう云いながら、抱え上げたサンジの足を掴む腕が緩む様子はない。怪我人のくせに、この力は何だ。
「誰がやめるっつった」
 サンジは腹立ち紛れにゾロの頭を殴りつけた。
「てっ」
 至極まっとうな、しかしイーストブルーにその人有りとして知られた海賊狩りから出る言葉にしてはいささか情けない呻きがゾロの唇から漏れる。
「それで少しァ、オレが味わってる感じを、……思い知りやがれ」
 何か云い返すと思ったが、ゾロは何も云わなかった。一番敏感な部分が入り口を通りすぎようとしている。口がきけなかったのだろう。
 しかし、ようやく広く押し広げる部分がおさまって、二人は同時にため息をついた。ゾロの体重が徐々に重くのし掛かってきて深さを増す。
「、……壊すなよ」
 痛みに強いことには自負のある自分が、その部分の過敏さに負けそうになっているのを感じる。鍛えられない場所なのだから仕方がない。きしむようにゾロが深く入ってくる。石鹸のぬめりも不快に思えるくらいだった。完全にはおさまらないまま、ゆっくりとゾロが背中を揺らす。ゾロが身体を揺らすと、胸から腹へ縦に刻まれた、ぞっとするような傷痕も共に揺れ動いた。
 その時、彼の身体の一部分が、サンジの内側の熱い凝りのような部分に触れた。
「うッ……」
 サンジは背中を強張らせてゾロを締めつけた。締めつけると、そこから放射する、濡れるような感覚は更に激しくなった。意地のようになって始めた行為の中に、初めて甘さが加わった。
「いてェだけかよ……?」
 荒い息の中から、サンジの感覚にはまだ気づかないゾロが、苦しげに耳元に囁いた。このまま続けていればいずれはサンジの身体の反応で、「それ」に気づくこともあるだろう。だが、言葉でわざわざ云ってやる気はなかった。
「いいから、集中しやがれ」
 彼は、ひどく広く、猛々しく思える背中を抱きしめた。まるで自分の身体が弱々しいものに変ってしまったような感覚が腹立たしかった。
「……だが、壊すなよ?」
 もう一度念を押す。その語尾が甘く掠れたことに、ゾロが気づいているのかどうか。


 身支度をする場面になってみると、場所がバスルームだったのは幸いだった。
 ゾロに先にシャワーを浴びさせておき、その隙に新しいシャツを取りに行く。男部屋に降りて行くときに身体のあちこちが痛んだが、それは我慢出来ないほどの痛みではなかった。何よりも、胸の中に刺さっていた棘が抜けている。それがゾロの言葉によるものか、後に付加してきた行為によるものかは分からない。両方かもしれないが、おそらくは前者によるものだろう。
(「オレは、もう自分の足を斬るような真似はしねェ」)
 その言葉が、どれだけ自分の心を溶かしたのか、おそらくゾロに完全に分かる時は来ないだろう。それでいいし、完全に分かって欲しいなどと思ってはいない。
 彼はゾロの仲間でいたいのかもしれない。或いはそれ以上の存在にもなりたいのかもしれない。だが同時に、力を張り合う男同士の関係も保っておきたかった。親しみを持った敵、という位置に立っていたかった。
 サンジは、看板に出て、月明かりで前髪の白い一房を切り取った。だいぶ傾いた黄色い月は、笑うような顔を小さなキャラベルに向けている。更に、その上で小さな悩みを抱え込んだ一人の男を、ゆったりと眺めていた。海の上には水平線の果てまで月の小道が延び、凪いだ海面を見ていると、自分が苛ついていたことも、ゾロと息を切らして貪り合ったことも、たいしたことではないように思えてくる。その内、不可解な理由で白くなった髪の房も元通りになるだろう。奇妙に楽天的な気分がこみ上げてくる。
「おい、身体洗わねェのか」
 どうやら真水を浴びたらしいゾロが、髪を濡らしたまま、珍しく抑えた声で云いながら顔を出した。
「目立つか? これ」
 切った前髪の部分を指し示すと、ゾロは眉をひそめた。
「ここじゃわかんねェよ、中入れ。まだランプの方がよく見える」
 そう云われて見れば月の光は、サンジの金髪を明るく輝かせ、切り残しの白い髪があってもその光の粉の中に紛れ込ませてしまうようだった。
 サンジは、シャツとハサミを持ってバスルームに入った。
 そして、幾ばくかの責任を感じているのか、神妙な顔で自分の前髪を点検し、そっとハサミを入れるロロノア・ゾロという、珍妙な光景を見物することになったのだった。

                    了

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