蘭ちゃんお誕生日SS。
「円錐形の星空」の双子話。
「じゃあ、それ、三十三本」
一ヶ月ぶりに会った石井は、花屋のケースを覗き込んで、そう云ったのだった。
「申し訳ありません、お客様」
石井の前にいると人形のように小柄に見える店員が、気の毒そうに小首をかしげた。
「こちらのお花は三十三本はご用意しておりません」
「え……じゃ、十三……いや、三本」
「どうして三にこだわってるの?」
尋ねると石井は言葉につまった。
彼は困ると怒ったような顔になる。マイナスの方向でさえ彼は能動的なのだ。
「うっせーな、オレは三って数字が好きなんだよ」
「へえ、初耳」
背の高い二人の会話を、清潔な布のヘアバンドで髪を覆った店員が、微笑しながら見上げていた。特に詮索するようでもなく、贈り物ですか、と尋ねて客を困らせるでもなく、薄くメイクした小さな顔に、温厚な微笑みをはりつけて立っている。
三本! ともう一度繰り返し、グリーンさえ断って、ただ、ストレリチアの花を包ませた石井は、不意に誰かが見ていないかとでもいうように、逞しい背中をびくりと揺らした。
「うわ、オレこんな風に花とか買ったことねえよ。それ、お前持ってろよ、三浦。お前ならおかしくねぇだろ、花持ってても」
「は?」
三浦は透明なセロハンと薄赤い紙にくるまれた、おおよそ一メートルほどの背の高い花の束を押しつけられて、眉をひそめた。
確かに彼はこの花の前で先刻立ち止まった。
それは彼が今までに見たことのない花だったからだ。
三浦の母は、何だかんだと理由をつけられて、誰からとなく花を贈られる女だった。たぶんそれは並以上に美しい女で、並以上に親しまれているからだろう。主に薔薇が多かった。それで三浦は、薔薇なら比較的身近に接したことがあった。彼等と親しんでいたと云ってもいい。うすみどりいろに透き通り、身体の芯に染みこんでくるような、その独特の香にも馴染んでいた。ミルクティーの香の薔薇などというものが存在するのも知っている。
壮行会帰りで酔った母が、どうやって咲かせたものか、淡い薄紫色の薔薇をあふれるほど持って帰ったこともあった。三浦は化粧も落とさずに眠りこんだ母の代わりに、真夜中の洗面所でその薔薇の水切りをした。あれは母の部署が変った時。栄転だったが、母も同僚も寂しがっていた。
三浦は、別れも、仕事上の誉れも、花も一つにひっくるめて、うすく軽侮していた。その頃の彼は、綿にくるんだ針のような少年だったのだ。
母の薄紫の薔薇を一人で洗面台の水に浸け、ヘンケルスのキッチン用のハサミで────それは、母が彼のために買ってきた、右利きの人間も、左利きの人間も、同じように使えるユニバーサルデザインのハサミだった────水切りをしてから数年経ち、彼は少年とは云えなくなった。
もうあの頃のように、さまざまなものに敵意を抱いてはいなかった。別れにも、出会いにも、ある種のタイミングのもたらす栄光にも価値があることを知っていた。高校の三年間とバスケットがそれを教えた。親友の藤原が半ば強制的にもたらした、汗と高揚と失意、期待のいりまじった三年間は、三浦に恋すらも投げ与えたのだった。
三浦がまだそれを恋と呼ぶことに積極的ではなく、その感情と行為を自分と共有した人間に冷ややかに接することをやめられなくとも、すでにそう呼ぶしかないものにそれは姿を整えつつあった。
人に云い難い目的で石井と街路を歩いているとき、花屋のショーケースの中に三浦がそれを見出したのは全く偶然だった。花とは思えない形だったので、一瞬鳥かと思ったのだ。何故、淡い銀色の霜のついたガラスケースの中に、鳥が閉じこめられているのか、それを目で確かめようと思ってケースに近寄ったのだった。花を差した黒い容器に、白い立て札が一緒に差し込まれている。札には、「ストレリチア」と名がしるしてあった。これは花なのか。三浦は奇妙な気分でそれを見つめた。
「あれ、花に見える?」
連れに顎をしゃくった。
「え?」
ショーケースに引き寄せられるように近づいていった三浦を、興味深げに見守っていた石井は、慌てたように自分もそこに顔を寄せる。彼の髪を整えた整髪料の香、そして寒い日にも薄着の彼の襟元から、少し熱くわずらわしいような香が漂ってくる。アイロンを押し当てたような匂いだ、と三浦は思う。彼の身につけたブルゾンは、どうやらクリーニングから戻ってきたばかりらしい。
「お前、ああいうの好きなのか?」
花に見えるのか、という質問にそんな言葉で返されて、三浦は戸惑った。あざやかな黄、赤、紫────さまざまな色のいりまじったその花。一つの花が持つには少々強欲なのではないかと思うほど、それは色彩豊かだった。嫌いかと問われれば嫌いではない。母の数多く持ち帰った繊細な薔薇や蘭よりも、ふてぶてしいほどの生命力と彩りに恵まれたその花は、三浦の目を惹きつける物珍しさがあった。
「あの、ゴクラクチョウカって云うんですよ」
ほっそりした店員が、桃の花枝や、チューリップの小さな鉢を店先に出す手を止めて、二人に話しかけた。控えめな低い声で、会話に割り込まれたという感じはしなかった。
「この────ストレリチア?」
三浦が聞き返すと、黒いエプロンをつけた店員はうなずいた。小さな手の指が寒そうに赤くなっていた。三月に入ったとはいえ、まだ外気に接する店先は寒いのだ。
「パラダイスバードって呼ばれることもあるんです。それで、ゴクラクチョウカ」
「天国の鳥ですか?」
「そうです。そんな色でしょう?」
「そんな色ですね」
店員と三浦が話しているのを、怖いほど切れの長い目でじっと眺めていた石井は、不意に、
「じゃあ、それ、三十三本」
そう云い出したのだった。
三浦は覚えている限りで、自分が最高に間の抜けた顔をしたと思った。一本二千円の切り花を三十三本も買って、石井はそれをどうするつもりなのだろう。無論、石井がもう万年欠食児童で、金食い虫のバイクや食欲に泣かされていた高校生でないのは分かっている。だが、花に六万六千円というのは非常識な金額だった。しかも並の量ではない筈だ。
店員が、そこばかりはマニュアルのように丁寧な口調で、三十三本はない、と断ったとき、三浦は正直助かったと思った。
ここは横浜の雑踏の中で、彼等は今から適当なホテルを探して、暫く会えずに乾ききった、率直な身体を充たそうとしているのだ。一本だけでもこんなボリュームのある花を、三十本も買われてはたまらない。十本でもごめんだった。
結局石井は六千円払って極楽鳥のかたちの花を三本買った。そしてそれを同行者である三浦に押しつけた。三浦は更に胸を撫で下ろした。
石井が三という数字にこだわったことに。
そして花屋がストレリチアをそんなに多くは準備していなかったことに。
どう考えても、彼が自分にその花を贈るつもりだったのはあきらかだったからだ。
一昨年の真夏、三浦は石井にキーホルダーを贈った。ステンレススティールと黒革を組み合わせたがっしりしたデザインで、石井によく似合うと思ったのだ。妙に仰々しくブランド名をしるした専用箱がついてきたので、それは捨てた。そして、キーホルダーだけを石井の熱いてのひらの中に押し込んだのだった。
石井はそれが自分の誕生日に寄せたものだと気づいた瞬間、ぱっと輝くように嬉しそうな顔をした。余り嬉しそうにされたので、三浦は、目の前でフラッシュを焚かれたような気分になった。
目が眩む。
何故彼はこんなに感情表現を厭わないのだろう?
半年後、三浦の誕生日がやってきて、思った通り石井は彼へのプレゼントを思いつかなかった。その代わり、卒業式に出られなくなるのではないかと思うような熱烈な夜をプレゼントされて、三浦は、自分達の間にアニヴァーサリーを割り込ませたことを、ひそかに後悔した。
そして、次の石井の誕生日は、ひどくクーラーの効いたファミリーレストランで、兼ねてからの自分の中の計画通り、三浦はキーホルダーにつける鍵を渡した。直後の秋口から一人暮らしをすることはもう決めていて、契約が済み、大家から鍵を渡されていたのだ。石井は大学の寮に入り、三浦とはなかなか会えなくなったが、それでもその鍵をひどく大事にして、使う機会があればそれを握って飛んできた。
彼の百九十センチ近い身体を支えるのはもう原付ではなく、六五〇CCの大型二輪だ。止めるのにも乗るにも大きすぎるそのバイクに、三浦は正直たじろいだが、彼の借りたマンションの管理組合は幸い、ゲスト用の駐車スペースに、その大きなバイクが止まることを許してくれた。石井は多忙だったので、それは迷惑なほど頻繁ではなかったのだ。
今日、石井は彼の家にやってくるのかと思えば、外に誘い出した。お互い目立つので、余り外で会うことはないのだが、泊るほどの時間はないのだと云う。そこで、横浜で二人は何ヶ月ぶりかの待ち合わせをした。
そして運の悪い三浦が花屋の前で足を止めることになった。
それをお前にやる、とは石井は云わない。結果的に三浦の誕生日に花を贈ることになっても、そうとは云えないのが石井だった。そして、三浦も彼の言葉を誘い出すようなことはしなかった。何故石井が三という数字にこだわったか知っている。おそらく今日が三月三日だからだ。吉凶や約束事に不器用な石井が、必死に考え、うまく表現出来なかった最大のアプローチが、その鮮やかな花の中に閉じこめられている。三浦は実のところ、石井が自分と逢おうと必死になる姿を見ているだけで満足だった。何の言葉も、約束も求めてはいなかった。
石井がどんな生活をしているのか知っている。三浦達が高校の二年間に送った生活を、更に濾過して、純化した生活だ。自分が知る以上の、汗と士気とがそこに蔓延り、ぎらついていることだろう。だが、飽きっぽく、気まぐれに見えた石井はそんな生活の中でも三浦を忘れなかった。暫く連絡が取れなくなると、必死に電話もかけてきた。中古で六五〇CCを買うと、一番に三浦に見せに来た。
────オレ、今までバイクには遊びで乗ってたけど。マジでこいつは足にする。
ほんの少し顔を上気させて宣言した。
────足使ってここまで来るから。
彼の大学からも、自分の大学からもさほど近いとは云えない場所に部屋を借りた三浦は、その時ばかりはかすかな罪悪感を覚えた。彼は共依存していた母と離れようと思ったのであって、今までの生活を全て切り離そうと思った訳ではない。だが、石井は石井なりに、三浦が自分の生活圏から遠ざかったことについて必死に考えていたのだと思う。
────夜中に走って事故なんて起こさないでよ。
三浦はただそう云い、石井は自信ありげに笑った。その笑顔がまたフラッシュのように三浦の網膜に灼きついた。何という自己主張の強い、子供のような、何とてらいもなく彩り豊かな。
彼はまたしても腹の立つほどあざやかな、消えない光を三浦に刻み込んだ。
そして、二人の関係を、一度も言葉で恋だと確認し合ったことのない二人は、鍵をかけた部屋の中で服を脱ぐ。セックスもそうだが、三浦はキスに飢えていた。物理的な飢えを感じていた。身長差のせいでぐっと伸び上がり、三浦が自分のうなじを強く引き寄せるのに気づいた石井は、すぐに目を閉じて薄い唇にかじりついた。彼もオードブルとしてのキスに異論はなさそうだった。買われたストレリチアの三本の束は、湿した綿でくるまれたままの姿で、テーブルの上に置き去られた。
石井とキスするのは、彼と寝ることそのものより好きだった。もっともそのことを本人に云ったことはない。それがどんなに彼のテンションを上げるか分かり切っているからだ。石井の舌が三浦の中に入り込んできて、自分のそれとぶつかり合い、滑る。なめらかな侵略が二カ所で同時に起こる。煙草を吸わない舌。よく磨かれる歯。形は違うが整ったエナメル質同士が一瞬あたり、離れてまた舌の接触に戻る。唾液の匂い以外のない口の中へ。お互いに絡めて押し入れる。
禁欲を強いられた分はとても取り返せない。それを分かっていても、中へ、中へ。
「やられた……」
掠れた声で三浦はつぶやく。
あの寝汚い石井が、自分より先に目を醒まして部屋を出て行くとは思わなかったのだ。行為が終った後二人はやっとの思いでシャワーを浴び、汚れていない方のベッドに折り重なって転がり込んだ。
────ちょっとだけ寝るか。
そう云われて思わず肯いた。眠いからと云うより、はなれ難かったからだった。シーツの上に頬をつけていた石井は、大きな片目を見開いて三浦の顔を眺めていたが、やがてそのまぶたがうっとりと閉じ始めた。石井はひどく気分良く寝る男なので、三浦も彼を眺めていると眠くなる。眠る獣は見ていると眠りを誘われることが多い。そのうち、三浦も清潔なシーツの上で、濡れた髪のままでゆっくりと眠りに吸い込まれていった。
そして、目を醒ましてみれば、走り書きのメモと、ホテル代の半額と、テーブルの上のストレリチアの花束、そして室温二十四度のホテルの中で快適に眠っている自分がとり残されていたというわけだ。
ラッピングされたストレリチアの花束を見ている内に、可笑しいような、腹立たしいような気分がこみあげてくる。自分はここを一人で出て行かなければいけないのだ。そしてここから南区までの市営地下鉄に、行為の後の身体で、花束を抱えて二十分も乗ってゆかなければならない。その気分は、石井に想像がつくだろうか。
時間を見れば、確かに石井が出ると云っていた時間をとうに過ぎていて、三浦は自分が深く眠り込んでいたことを知る。
彼は、自分以外に誰もいない、空のシーツを眺めた。妙に白く見える。つい先刻までそこに横たわっていた、日焼けの跡を残した広い背中を眺める。そして、そんなことをしている自分にも、思い出させる石井にも、何とはなくだるい気分になった。何も描かれていないカンバスのようなシーツの上に、先刻目に焼き付けた、ストレリチアの花のイメージを重ねてみる。イメージの中の花は、代用品になるのはお断りだ、とでも云いたげに所在なげにシーツの上に横たわっていた。それで三浦は仕方なく、そこにいて欲しい男のイメージをもう一度シーツの上に描いた。
どんな花や鳥よりも図々しく鮮やかに彼の心に入り込んできて同衾する、元はと云えば友人だった男の姿。大胆不敵にも彼の中に根付いた、どうあっても枯らせない花。
『ストレリチア。Strelitzia。ゴクラクチョウカ。高さは一メートル余り。葉は根生し、 長楕円状卵形。葉柄は長く頑丈である。花茎はほぼ葉と同じ長さに伸び、仏炎包は長さ約十五センチ。ふちはあざやかな紅色、基部は昏い紅紫を帯び、五、六輪の花を順次開花する。花は三枚の萼片が橙黄色、舌状の花弁が紫碧色で、数花の咲いた様子は羽を広げた鳥を思わせ、美しい』
The source:GENRE JAPONICA-19
どんな花の美も、恋心の前では勝者を牽制することさえ虚しい。
三浦は、花束と一緒に取り残された部屋で目を閉じた。
眠りのためでなく、余韻と名残を惜しむためだけに。
およそ理性的でない、石井と自分の昼夜を育んできた眠りの中に、もう一度意識を埋め込もうとしていた。