ほとんどヒカリちゃんなイオタケ。
「た、け、る、く、ん」
待ち合わせをした駅前の女性向けの雑貨ショップで、今年の女性陣へのクリスマスプレゼントを真剣に選んでいた岳に、しっくりと耳に馴染んだ、しかしいつもよりも若干テンションの高い、甘い声がかけられた。
「ヒカリちゃん」
岳は、クリスマスよりもバレンタイン向けか、という、金色とゴールドレッドの、ハート型のミニプレートのセットを手に振り返った。白いふわふわした襟が華奢な顎を埋めた、不思議に嫌みのないピンクのハーフコートが、本人よりも先に目に飛び込んでくる。ヒカリの右手中指にはまった、彼女自身の選んだ指輪に変わらず、小ぶりのインカローズがはまっていることに岳はほっとする。ヒカリのクリスマスプレゼントには、綺麗な涙型のインカローズのイヤリングを既に選んであるからだ。女性の好きな小物に詳しいとは云えなかった岳だが、昨年純文学の賞を貰って、担当氏に「高石先生はもうちょっと現代風俗も勉強して貰わないと。文章力と感性だけでやっていける純文学世界は終わりました」と云われた。
今年はそのご注進あってこその、気合いの入ったプレゼント選びとも云える。まずはヒカリの指輪の石をさりげなく聞き出すのに苦労した。自分とヒカリの間でそういう誤解はないだろう、と思いつつも、男が女性に指輪の石を聞き出すのは意味深長な行為と云える。
「それ、『ご自宅用』なの?」
ヒカリは綺麗に調った眉をちょっと寄せて、岳の手の中のプレートセットを眺めた。
「まさか。これはミミさんにクリスマスプレゼント。あとは京さんにクリスタルの星のオーナメントと、ヒカリちゃんには」
そこまで云ったとき、ヒカリの柔らかくあたたかいてのひらが、軽く岳の口元をふさいだ。
「こらこら、ショップでわたしへのプレゼント云ったらサプライズ感がなくなっちゃうでしょ」
「それもそうだね」
「男の子たちには?」
「なしなし」
岳は笑った。そもそも連中の欲しいものと云えば、とんでもなく高くて買えないものか、もうすでに持っているものが多い。
「クリスマスプレゼント交換なんてしたことないから。誕生日も知らないし」
「なのに、岳くんはシネマシティの一階の雑貨屋さんで、わたしたちにお買い物? 岳くんは女の子に優しいなぁ。優しいだけだけど」
「だけって何だよ」
髪の地色は真っ黒なのだが、少し栗色がかった色でショートへアを染めたヒカリは、その髪をさらさらさせ、ちょっと訳知り顔で黙った。
二人はこのあと、一緒に、このショップの入っているビルの上階で、リバイバル映画を見ることになっていた。
「いいの、岳くん。この映画二度目でしょ」
「DVDを買おうかと思ってたくらいだから。もう一度劇場で見られるの嬉しいよ」
「そっか、よかった」
二人が見ようとしている映画は、イギリスのベテラン作家が、医薬大企業の不正を訴えて書いた、厳しい社会派作品を情緒的に美しく撮った作品だった。雨雲の垂れ込めたイギリスから舞台はすぐにアフリカに移る。人々の金色の肌、汗、白く彩る目。埃っぽい道と痛いような高い青空、貧困と不正、ヒロインの美、社会のために抵抗する人の優しさと、忌まわしい現実とを、もの静かな脚本で、美しいバックグラウンドミュージックでえがいた映画だった。ヒカリが、最寄りの映画館の、リバイバルラインナップにそれが入っているので見たい、と云ったとき、岳は一も二もなく一緒に行く、と云った。
「そう、誕生日で思いだしたけど、八神ヒカリは今日をもって岳くんと同い年になりましたー」
自分でじゃーん、と効果音を入れて、白い丸顔で笑った。
「えっ、本当」
岳は、プレゼントがどうというより、この長い付き合いの女友達の誕生日を、今まで知らなかったことに、ちょっとした衝撃を受けた。
「おめでとう。そんな日なのに僕と一緒で良かったのかな」
「うん、よかったんだよ」
ヒカリは驚くほど睫毛の長い目をぱちっとさせた。
「だからね。今日は美容院にも行って、王子様みたいにハンサムな男の子と、素敵な映画と美味しい食事、っていう一日を自分にプレゼントしようと思ったんだ。学校は六限までびっしりだったけど」
「冴えない王子で申し訳ないなぁ」
岳はまったくもって普段通りの格好―――素地がよくなければ許されないようなアースカラーのダッフルコートとジーンズにスニーカー―――の自分をかえりみて苦笑した。
ヒカリは笑いながら人差し指を振る。
「知らぬは己のみなりけりってね」
そうだ、とヒカリは岳のコートの袖を軽く引いた。
「わたしね、ちゃんと伊織くんに了承もとったよ」
「え、ええ!?」
岳は、彼には珍しい大声を出して、慌てて声を落とした。
「どうして伊織くん?」
「今朝、一限からだったから、待ち合わせ場所確認の電話、結構朝早くにしちゃったのね。そしたらすごく寝ぼけた伊織くんが、岳くんの携帯とったの。伊織くん、気がついてすごく慌てて切ろうとしたから、ついでだし、今日岳くんを晩ご飯まで借りるけど、誤解しないでねって云っておいたの」
岳はできれば、ずきずき火照るこめかみを両手で覆い、その場で膝を折ってしまいたい気分になった。一瞬で頭蓋をいっぱいにした熱を何とかふりはらい、狼狽をふり落とそうと努力した。伊織本人に気持を打ち明けた時も、こんな風にはならなかった。あれは、自分一人が直面したことでなく、二人の間で起こった出来事で、岳は伊織とその経験を完全に共有していたからだ。
「い、い」
彼が言いよどむとヒカリは下から彼の顔をのぞき込んだ。
「伊織くんが?」
「いや、ええと」
「伊織くんは、今の岳くんとほぼ同じ反応でね。不意打ちだったのよくなかったかな? 別にそんなつもりじゃなかったんだけど。伊織くんが言葉にならなかったから、わたししか知らないよ、勝手に気付いただけだよって云っておいた」
それは、同時に、岳の狼狽への応えになっていた。
「岳くん、いつも笑ってるけど、そわそわしたり嬉しそうだったりするのって、意外と少ないもん。でもここ何ヶ月か、岳くんそう見えることが多くて、それって伊織くんが一緒だったり、伊織くんの話題が出る時が多かったから、ああそっか、って思ったの」
「ああ、そっか、ってヒカリちゃん」
岳はためいきをついた。
「ヒカリちゃん、ほんとにエスパーなんかじゃないね? もしそうだったら早めに云ってよ」
「違うよ」
ヒカリはにこにこして、岳の肩口をちょいと押した。
「忘れちゃだめだよ、ヒカリは昔から岳くんのヒカリで、岳くんは昔からヒカリの岳くんなんだから。隠せると思ったら大間違い」
「お見それしました……」
胸の奥がふわふわする。伊織と特別な関係になったことは、誰にも話すつもりはなかった。何か電流のようにお互いにそれが伝導した、あの晩までは伊織本人にさえ云うつもりなどなかったのだ。
だが、誰か一人気付くとすれば、ヒカリは一番有り難い相手だった。ヒカリはこのことで二人に気を遣いすぎたり、遣わずに困らせたり、周りに気付かせるようなあてこすりを云ったりしないだろう。ヒカリちゃんでよかった。岳はカームダウン、カームダウン、と胸の中で繰り返しながら深呼吸した。
この間ずっと岳の手にあった金色と赤のハートプレートをヒカリは覗き込んだ。
「それ、今日ミミさんに買うの?」
「ええと、プレゼント選びの気合いがちょっと抜けたから今日はこれでやめ」
「じゃあ映画館いこ。飲み物は映画館で買お」
ヒカリは笑いながらまた岳のコートの袖をちょっと引いた。
お前等ほんとに付き合ってないの?と、ヒカリとのことを大輔にしきりに云われたのは、ヒカリがいつも無防備に岳と手をつなぐからだった。二人の手は体温もほぼびったり同じくらいで、まるで自分と手を握り合っているようだった。
そのヒカリが岳の手に触れないのはきっと意味があると思った。
晩ご飯まで岳くんを借りるね。
不意にヒカリの言葉がよみがえってきた。
そうか、ヒカリは、岳が伊織のものになったと思っているのだ。頬が、首筋が、てのひらがふわっと熱くなった。自分もやはり、そう思っていると気付いたからだ。自分が伊織のものになる。なんとシュールで甘い響きだろう。
「じゃあ、上に行こうか」
岳はポケットを探って、ヒカリの手に、駅前で貰ったポケットティッシュをおしこんだ。
「はい、プレゼント。この映画たぶんラストで泣くから」
「えー。岳くんの分は?」
「僕は携帯済み」
そう云った後に岳ははっとしてヒカリの栗色のつむじを見下ろした。
「あ、僕ちゃんと誕生日おめでとうって云った?」
「云ってくれたよ。真っ先に」
ヒカリはくすっと笑った。
よほど慌ててるのね。
ヒカリのそんな言葉が聞こえて来るようだった。
いつどんな風にヒカリに気付かれたのかは分からないが、自分は伊織との新しい関係に、自分で思った以上に夢中になっているようだ。シネマへのエスカレーターを上りながら、岳ははつ冬の空気を頬に受けて羞恥を冷ます。これからは、殊に兄に知れないよう全力で頑張らないと。
映画館から、まるで自分の家に帰るように、自然に伊織の部屋にやってきた岳は、少しセットした髪に指を差し入れて崩した。着替えはひと揃い、いつもこの部屋に置いてある。
「ヒカリちゃんはそれ以上何も云わないし、もうどうしようかと思った」
「よく考えれば、ヒカリさんなら超能力なんてなくても気付きますよね……」
伊織は、珍しく進んだ様子のないレポートを座卓の上に広げたままで、その上に長い肘を投げだしてつぶやいた。
「うん、でもヒカリちゃんすごい!っていうだけじゃなくて自覚しないと」
岳はコートをハンガーにかけて、伊織のすぐ傍に座った。かろうじてもたれかかっていない、というくらいの。体温の感じられるくらいに近い位置に。
「僕たち、自分で思ってる以上に色ボケしてるのかなって」
「色ぼ……!」
岳の口から出た衝撃的な単語をリピートしながらも、二つの身体が放つ熱が触れあう位置に移った途端、伊織に何らかのスイッチが入るのが岳にははっきりと分かった。
知らぬは己のみなりけり。だ。
自分が伊織の唇にはたらきかけた短いキスが、たちまち熱く大きな波になってフィードバックしてくるのを、うっとりと受け止めながら、岳は、ヒカリのように自分の一部と紛うことのない、熱くかたいてのひらを、指を絡めてぐっと握りしめた。
今回の反省点:いくらヒカリちゃんメインの話とはいえエロがなかった。