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蜂鳥春眠録(1988)

01 05 *2011 | Category 二次::C翼(後期)・日向×若島津


続き





 若島津が黒を着るようになった。黒と云ってもきらびやか
な黒とくすんだ黒がある。若島津の着るのは、そのくすんだ
黒であった。それは黒だけに限られている訳ではなく、くす
んだ色、まるで保護色のように溶け込み、彼の存在を目立た
なく包み隠すものなら何でもいいという風に、若島津はくす
んだ色に囲まれて静かであった。
 彼の髪の色が変わり始めたことに気づいたのは、やっと先
月のことであった。日に曝されたためだろう、しかしそれに
してはなめらかな茶に変わり始めている。肌も目も含めて、
全体的に色素が薄くなった印象がある。
 光をひどく通しやすくなった髪は、白く尖った顎の線の上
の耳にかき上げられることが多くなった。以前にも視覚的抵
抗はなかったが、羽根でも一つ加えたようなふわりとした柔
らかさが若島津の顔に加わった。目の色も同じように印象が
変わった。もともとこちらは綺麗に透きとおった褐色だっ
た。それが髪の色の変化で目立って来ている。
 大学の友人のなかには、彼が髪を染めたのではないかと
思っているものもいるようだった。実際、その髪の色の変わ
り方は極端な程だった。本人さえいぶかしんでいる変化だ。
以前には人よりも黒々と濡れた髪だったのが、いつごろから
そんなふうな変わり方をし始めたのか、若島津をも含めて、
誰もはっきりとは覚えていなかった。
 日向だけが漠然とあの頃からではないかと思っている。若
島津の容貌に変化が表われ始めたのは、全てあの時からだっ
た。変わり始めた若島津は、くすんだ黒い服の下に、どうし
ても耀いてしまう何かを押し込めているようだった。
 今日も若島津は黒を着ている。背の高い、どちらかと云え
ば痩せぎすな身体が切符売り場の自動精算機に銀色の硬貨を
押し込むのを日向は、改札口を出た斜めから見ている。最近
はいつもそうだったが、息を呑むようにして待っている。
 着ているのは黒っぽいジャケットである。洗いざらした
ジーンズの上にはやはり黒い半袖のTシャツを着ている。
 ジャケットの上に掛かった髪がはっきりと明るい色である
以外、全体的に地味なトーンで彼の身体は覆われている。
 新宿のような街の雑踏の中では不意にかき消えてしまいそ
うな姿であった。
 しかし、日向は彼が振り向く瞬間を待っている。このどこ
にでもいそうな後姿、まとめてしまうと艶が僅かにかき消さ
れる髪、けれど振り向いた瞬間に、彼の印象が恐ろしい程一
転してしまうのを日向は知っている。
 若島津はジャケットの中に財布を突っこんで振り向いた。
明るい髪と黒い服に囲まれた白い肌から、光が吹きこぼれる
ようにして輝くのを、日向は黙って見つめた。
 驚いたように男が一人振り向いたのをぞくりとして見守
る。一瞬男か女かを判断しかねたように若島津を盗み見て、
背の高さと、そしてやはり女のものではない容貌に、また頭
を少し振って離れてゆく。二人づれの女が、こちらへ歩いて
来る若島津を見て立ち止まった。目を見張って彼を見送る女
の視線が、彼の歩く先の自分へ止まる。
「若島津」
 日向は何か奇妙な喜びを覚えて、若島津に呼びかけた。
「すみませんね、あんた街中嫌いなのに」
 いっそつけている服を全部取り去った方が若島津にはい
い。溶け込むことを念頭に置かない時の彼の裸体が、どんな
にすさまじい力を持っているか、日向はよく知っている。
「いいから行こうぜ」
 そう云って彼は、このゼスチャーに込められたもの、許容
というよりむしろ奪うことを許されたものの―――彼はそれ
に馴れてもいた―――傲慢をちらりと見せて、しかし人との
接触の得手ではない彼が、日向相手とはいえ疎ましさを感じ
ない程度のタイミングで、若島津の肩を抱くように腕を触れ
た。これを若島津が殆どの者に許さないことも日向は知って
いる。
 彼らは改札口を出て右の、駅ビルのような造りで建てられ
たデパートへ入った。歩く最中にも、エスカレーターの側面
の鏡に映る彼の姿にも、必ず何人かは吸い寄せられて無遠慮
な程の視線を向けてくる。男も女も一瞬戸惑ったように彼を
見る。この街の埃っぽい喧騒のなかでひっそりと静まってい
るというのに、髪の色のことを除いても彼はひどく人目を引
きつけた。
「八階なんですよ」
 若島津は招待券を取り出して今の階数を確かめた。
「ずっと会ってない人なんだろ?」
「……そう、俺は小学校の二年の時会ったのが最後かな……
まあ今日は本人は来てないでしょうから。……」
 どことなく歯切れの悪い呟きを残して若島津は黙った。
 日向はさして気にするでもなく、若島津の後をついて八階
の催事場にはいった。『島田修一郎展』と大書された入り口
をくぐると、思ったより広いフロアに落ち着いた色彩の日本
画がたっぷりと間隔を見て展示してあった。
 入り口すぐに、招待券やちらしに刷り込まれたのと同じ、
おそらくそれが島田修一郎の代表作なのだろう、『鷺』とい
うタイトルのついた大きな絵が掲げられていた。白緑を基調
にして薄く青を塗り重ねたなかに、片羽根を不自然に広げた
鷺の姿が、暮がたの月のようにひそりと浮かんでいる。見回
していると、島田という画家は鳥を多く描く画家であるよう
だった。
 日向の前で暫く立ち止まって会場のなかを見ていた若島津
は、厚いグレーの敷物を踏んで、真面目な面持ちで会場に足
を踏み込んだ。彼が何か息を呑むような、探るような目に
なっていることに日向は気づいた。
 会場に居る者はものが日本画であるだけに若い人の姿が少
なく、初老の男女や、そして大きな画板のようなものを抱え
た、いかにも絵を描いているといった感じの女性の姿などが
ちらほらと見えた。
 全体的に静かな色合の絵に占められているとはいえ、大き
な絵の多い会場のなかは華やかであった。ヒワ若葉や群青、
時には牡丹色、古代紫、銀鼠色、珊瑚色の鳥たちが、白や灰
色の彩で抑えられて、それでも抑え切れないように飛び立つ
華やぎであった。
 闇の黒のなかに金銀の箔を精妙に組みあわせた、燃え立つ
花枝、その花に隠されるようにして目の醒めるような青い魚
が宙空を泳いでいるようなものもあった。若島津はいつもよ
り格段にゆっくりと足を運び、その一枚一枚を丁寧に眺めて
歩いた。
 彼の付きあいでここを訪れた日向も、若島津自身もこの会
場の雰囲気にそれほど似合っているとは云えなかった。殊、
若島津の華やかな茶の髪はこの会場の静謐に在って余計に際
立ってしまう感があった。
 それこそ目の前に並べられた絵の白や灰色のように、若島
津の色彩をすっかり包み隠してしまうなど無理なことになり
始めていた。
 そして若島津はひとつの絵の前に立ち止まった。
 その絵には『蜂鳥』という名がついていた。それはおそら
くこの会場に展示された中でただ一枚の人物画であった。
 長い髪の女が眠っている絵であった。結い上げた髪は奔放
な眠りにさらされてか、緩んで乱れている。乱れた幾筋かの
髪は画面いっぱいに絡んでいる。髪はその画面でただ一つの
黒であった。あおむけに目を閉じて横たわった女は白い腕を
差し伸べている。その女の顔と腕、髪の一部を残して、白い
花びらのようなものが一面を埋め尽くしている。
 雪のようでもあり、花びらのようでもあった。腕に這い上
るようにしてやはりびっしりとついたその白いものが、少し
離れて見るとほのかに紅色をしていて、それでその部分はお
そらく和服のたもとなのだろうと判るようになっている。
 白いものの水面に隠れた髪はしかしその下から透けてい
る。画面に巻き付くようにしてくっきりとその黒は見え隠れ
していた。そしてその、パール末でうろこのように微かに耀
く、白とも、透き通った花色ともはっきり云えないような花
びら、それにうずまった女の腕には細い筆致で描かれた極彩
色の線が幾重か巻きつけてある。
 糸のようでもあり、紐のようでもあった。要するに、眠る
女はその細い紐に腕を吊られて、白いものにあふれかえって
睡っていることになる。
 おそろしく手の込んだ美しい絵だった。
 その絵が日本画の世界でどういった評価を受けているか彼
は知らない。しかしその女の眠り顔は、見るものの視線と心
を殆ど同時に強く引きつけて離さないものがあった。
 画家の、そのモデルへの執着のようなものさえ伺えるよう
であった。
 若島津はその絵の前に長く立って動かなかった。後ろから
彼とその絵を見ていた日向は不意に、絵の中の女と若島津
の、それも昨今明らかに変わり始めた若島津との、異様な相
似を見つけてぎくりとした。
 何年か前までの若島津が確か似そうであったように、静か
に濡れた黒い髪の女と、茶の髪の若島津と、何処も似たとこ
ろはないようであるのに。その容貌、雰囲気、押し殺してぼ
やかした、しかし隠せない華の気配が、日向の思い込みであ
るという以上に共通している。
 何よりも、人の視線を呼ぶもの、それでいて寸前で笑って
扉を閉めるような、見るものを不安定に追い込む魅力、そん
なに多くの人の持つものではなかった。
 まず間違いがない。絵のなかの女と若島津は確かに似てい
た。これは偶然の相似というものではない。血の近しさを感
じさせた。
 このモデルは誰なのだろう。
 今日の島田修一郎展に何故若島津が彼を誘ったのか、日向
はそれまでさして気にしていなかった。特に詮索欲を刺激す
る話でもなかった。話したくなければ尋ねたところではぐら
かされるであろうし、彼が聞いてほしければ自分が問い質さ
なくとも話すだろうと思っている。
 しかし、絵のなかの女と若島津の気味の悪いほどの相似
は、さすがの彼にも好奇心を呼び起こした。
 この会場に入ってから初めて彼は若島津の隣に並んだ。栗
色の筋のなかの、細い顔の造作を確かめるつもりで若島津の
顔を覗き込んだ。
「―――……」
 驚いて彼は、もう一度ゆっくり若島津の後に退がった。
 若島津の目が薄く涙に潤んでいるのを見たためである。


 大学一年の夏の合宿は奥多摩で行われた。源流に近い山の
上の合宿所は東邦の持ちものである。学生達も気兼ねがな
い。真夏でも虫の少ない、からりと乾いた清涼な川べりは人
気があった。
 その頃の若島津はとりたてて身辺の事に気を配るでもな
く、やはり集団の中にすんなりと溶け込むその雰囲気だけは
変わらなかった。
 日向と若島津は幼なじみのようなもので、ほんの僅かばか
りを歩いた距離に実家同士があり、サッカーという媒体を得
て同じ私立校である東邦へ進学した後も、親しくはあった
が、その関係に異物が混ざりこむことはなかった。極不自然
でない程度に若島津は日向の側に居た。はたから見られる程
若島津は神経質ではなかったし、むしろ他の者の思惑に頓着
しないマイペースさは日向のそれと共通するものがあった。
 繊細そうな外見に反して物事に深く頓着しない。口数がそ
れほど多いわけでもなく、しかし真面目すぎるというわけで
もない。よく笑う。彼は付き合い易い男だった。
 自然というものは、結局意識しないという事につながる訳
である。日向は、幼なじみであってチームメイトである彼
を、殆ど意識したことがなかった。若島津の気質というもの
を分析する必要も彼にはなかったし、若島津の外見にも、殆
どこだわる事はなかった。
 若島津は中、高、大と日向と同じ東邦を進学した。若島津
の性質も日向の性質も、段々とアクが抜けて来ている。癖の
強い二人は集団生活で揉まれて、洗い流したようにゆがみが
正された。日向は他人に合わせることを覚え、若島津は愛想
の良い微笑を覚えた。
 それでも日向小次郎は、あいまいに感覚的な若い世代の中
でひときわ猛々しい生命力を持ち、異彩を放っていた。その
日向の親友などと呼ばれながら、若島津は保護色にうっすり
と染まる動植物のように目立たない、静かな顔で存在した。
 合宿の初日、日向と若島津は集合時間の前の僅かに余った
荷ほどきの間、合宿所を脱け出した。若島津が涼むのにいい
水辺を見つけたと云ったためである。
 若島津は夏場も袖のある服を脱がない。高校からの寮に
各々シャワー室をつけた東邦で暮らしていたため、日向はだ
から若島津の身体を殆ど見たことがなかった。
 高校の修学旅行には、彼等は行けなかった。高校二年の一
月に、冬休みにぶつけて組まれたスキー旅行は、選手権とぶ
つかった。修学旅行に行かなくとも、合宿や諸々で見たこと
がありそうなものだったが、施設に金をかける東邦では、大
浴場に行かなくても入浴をすませることくらいは出来るよう
になっている。
 若島津の身体を見たことが殆どないことに気付いたのは、
狭い道を下って川辺に降りてゆく時のことだった。白いシャ
ツと黒のジャージに包まれた身体は、夏場のこととて少しや
せて細くなっている。まだ日は高く、前方からあたる光は若
島津の身体を布から透かしてみせた。
 葉のみっしりとついた夏の枝を避けて腕を上げた拍子に、
Tシャツの中で腕から胸へのラインが透けて見えた。それを
見ながら、日向は、自分がこれだけ一緒にいながら、全くと
云っていい程若島津の裸身というものを見たことがないこと
に思い当たった。若島津が特に隠しているようの素振りを見
せるでもなかった。ただ居ずまいを正して動く彼が衣服を乱
すこともなかったことに気付いたのである。
 日向はTシャツとジャージの中の身体にふと興味をそそら
れて後姿をながめた。Tシャツの袖から伸びる腕と、若島津
の顔が、陽灼けせずに白い事も思った。では、外に出さない
身体は尚更白いだろう。一瞬脱がせて確かめてみたい衝動を
感じて、日向は赤くなった。裸を見るということならともか
く、脱がせるという考えには抵抗がある。
 ―――ほらここですよ。
 若島津は云って、降り立った。
 ―――すぐ水ですから、靴脱いだ方がいいですよ。
 上流特有の大石がごつごつと並んでいる中央に、丈の短い
下草の密生した中河原がある。水かさが減ったため、流れの
真ん中に細長い浮島のようになって剥き出している。しかし
折からの台風で水かさの増えた多摩川は、その下草をわずか
にひたして流れている。
 ―――ほら、草が水びたしでしょう。こういう時涼しいん
ですよ、夜。
 若島津は靴を脱いで流れに入り、流れにつからなかった大
石に腰かけた。
 ―――冷てェ。……
 足首の白さが、草の上を流れる、深さ十センチ足らずの流
れの中で、ひどく協調されて見えた。
 ―――夜死んでなければ涼みに来ない? ここ虫も少ない
んですよね。
 若島津がそう云って笑うのが、陽光にさらされて白い頬に
唇が赤く見えて、日向は眉をしかめた。どうも自分の連想が
おかしい気はしたが、その時はそれでさほど気にはとめな
かった。
 大学のサッカー部の練習は、ことに新入生にとっては厳し
い。
 その日は妙にむし暑い日で、奥多摩の方でこれだけむし暑
いということは、東京都心はクーラーの熱気でさぞ暑いので
はないかと思われた。体力を内側からむしばむような蒸暑に
部員達は疲れきり、たいてい初日にはまだ騒がしい合宿で、
十時前に早々と寝入ってしまった。
 日向も若島津も食事と風呂をすますなり、眠りについた。
さすがにクーラーまでは入れていない寝部屋は、七、八人の
若い男の熱気で余計に暑く感じられた。
 熟睡するには暑すぎる晩だった。
 一時頃日向は眼を醒ました。汗が粘りついて喉が乾いてい
る。顔でも洗って来ようと、彼は起き上がった。
 隣の布団に寝ていた筈の若島津がいない事に日向は気付い
た。眠る他の部員達を起こさないように足音を忍ばせて洗面
所を覗いてみるが、若島津は見当たらなかった。
(さっきの所に行ったな)
 日向はタオルを引っかけて玄関に向かった。冷たい水の感
触が恋しくなる。柔らかい草の上を充ちて流れている、源流
に近い澄んだ水は、暑さに飽いた身体に魅力的だった。
 若島津が行っていなかったとしても、手足くらいを浸して
戻ってくるのもいいだろう。
 月のさえざえと白い晩だった。緑も地面も月光を受けて
煌々と光っていた。月が明るい分影はくっきりと黒く、生物
の蠢めきのように微妙にざわめき続けている。
 昼間若島津に教えられた道をたどって、日向は深い緑をか
きわけるようにして川岸へ抜けた。
 川面が意外な程明るいことに彼は驚いた。水面という鏡一
杯に月光は広がり、流れに割られて燦然と煌めいている。
 若島津はいないのだろうか。彼はあたりを探して、靴を脱
ぎ、流れに入って行った。水はうっそりと濃い緑に守られて
痛い程冷たかった。
 若島津を探しあてられずに日向の視線はしばらく迷った。
どこかしことなくキラキラと眩惑する月に濡れた川岸は、気
怠い熱帯夜に曇った身体の芯に、妙な逸りを産んだ。
 大きな水音に彼は振り向いた。冷水につかった足首から、
すさまじい速度で寒気がかけ登り、日向は全身鳥肌立った。
 ―――……。
 若島津の衣服が大石にかけられていたことに気付かなかっ
たのは不思議だった。若島津は服を脱いで泳いでいたのだ。
ここら辺の流れは全体的には浅いが、地形のえぐれた所は意
外な程の緑色の深度を保っており、雨続きの後で水かさが増
している今は、充分に泳げる深さを持っている。昼間彼を
誘った深い緑のふちから、若島津は顔を出した。
 ―――日向さん。
 彼は、日向を見つけて笑った。濡れた髪をかき上げて、両
手で顔を拭う。
 ―――来たんですか。
 日向は凍りついたようになって若島津を見つめていた。こ
れはおそらく、月の光のせいだと彼は思った。しかし、同じ
ように月に照らされた自分の皮膚と、眼の前の男の皮膚がと
ても同じものだとは思えなかった。
 昼、彼の後姿を見ながら、彼の裸身について考えた事を日
向は思い出した。滅多に見たことのなかった若島津の肌は異
様な程白く思えた。男の身体でも女の身体でもなかった。
 若島津は何も云わない日向をいぶかしむような顔をして、
髪の先にしずくをしたたらせながら上がって来た。彼はタオ
ルまで持ち出していた。石の上に置いたタオルで髪を拭い、
Tシャツをかぶろうと腕を伸ばす。
 それに思わず触れてしまったのは、意識してのことではな
かった。
 ―――……。
 黙りこんだ日向の気配に奇妙なものを感じたのだろう、若
島津は黙って日向を見た。肩の線のなだらかな白に、水滴が
光っている。日向は触れた腕の内側から火照ったてのひらで
ゆっくりと彼を撫で上げ、肩に触れた。
 ―――日向さん。
 若島津の語尾が微かに震えたのを日向は聞いた。彼が少し
おびえたようなのも判った。彼がなぜおびえたのかも判っ
た。
 若島津は日向におびえたのだ。彼は思った。思いながら、
てのひらを胸まで動かした。肌はするりとなめらかで冷えて
いた。濡れているせいで妙にしなやかだった。
 ―――熱いですよ。
 彼は軽くいなすような口調で、やんわりと日向の手をほど
いた。ゆっくりと片腕を上げて自分の片方の肩口に触れ、胸
をかばうようにして視線をそらした。それはさりげない。普
段の日向の視線になら引っ掛かるようなところはどこにもな
かった。
 ―――あんたも泳いでくれば?
 片手のタオルで乱暴に顔をこする。
 ―――頭、冷えるよ。……
 若島津はそう云って日向の肩を軽く押すようにした。
 日向は若島津に再び手を伸ばした。手首をつかんで引き寄
せる。顔を近付けると若島津は息を呑んだ。急に溶けたよう
になる。
 その時の日向がおかしくなっていたことは、確かに間違い
はない。しかし、彼はもうずっと前からこうしたいと思って
いたような気がした。突然巻き起こった野獣めいた衝動は、
今まで自分の知らないままずっと体の中に眠っていて、たま
たまきっかけを与えられて躍り出してきたのだ。そう思うし
かない確かな感触だった。
 彼は迷っていなかった。何をしようとしているかはっきり
と判っていた。
 日向は腕を引いて、自分の方へ乱暴に若島津の身体を引き
ずった。若島津は抗うような素振りをちらりと見せたが、彼
は構わなかった。タオルが落ちる。ここまで突然たかまって
は、もうよほどのことがない限りやめられない。
 若島津にそれが向けられたということに、頭では不自然さ
を感じた。しかし彼をいましめようと動く腕には、何の違和
感もなかった。もう前から決まっていたシナリオのようだっ
た。
 裸の胸が自分の胸に当たった。その感触を味わおうと、日
向は自分のTシャツを脱ぎ捨てた。自分の肌と若島津の肌が
触れあった瞬間、彼は驚きに息をつめた。おそろしくなめら
かな肌が、呼気につれてゆっくりと動いている。
 若島津の身体を抱きこんで、唇をふさぐ。最初の一瞬だけ
で後の抵抗はなく、若島津の体はすぐに炎のようにうるん
だ。
 彼等は何かにとりつかれたようになって水の中に崩れこん
だ。若島津は服をかけておいた石に背をこすって草の上の流
れにとけこんだ。
 日向はそのままそこで若島津を抱いた。若島津もひどく高
揚していた。日向に触れられる度に、彼は火がついたように
喘いでのけぞった。流れの中で行われた行為だったが、火達
磨になった彼等にはさして苦にならなかった。
 三十分以上絡みあって彼等はようやく動きをやめた。
 罪悪感も狼狽も殆どなかった。昼までそんな要素の全くな
い関係が突然変質したことも気にならなかった。強いて云え
ば、お互いがどう思っているかという事程度である。日向は
荒い呼吸を収めようとしながら、若島津を見た。若島津も忙
しない息をつきながら、ぐったりと岩に頭を持たせかけてい
た。
 ―――大丈夫か、お前。
 その瞬間、若島津が眼を開けた。
 まつげが開き、深い瞳が日向を見つめ返した。光の粉を吹
きつけたような肌と、褐色の淵とが、又日向を絡め取った。
こんな眼を持っていたのかと、日向は衝撃を受けた。気付か
ずにいたのは、自分が若島津をまともに捉えていなかったせ
いだろうか。
 若島津はまばたきひとつせずに日向を見つめたまま。
 笑ったのだ。
 その艶然とあでやかな微笑、早い呼吸と濡れた頬と唇。乱
れた筋になって首やうなじに這う黒い髪、そしてひどく印象
的な瞳―――��。
 その一瞬のおそろしく魅惑的な微笑は日向の記憶を印画紙
にしてくっきりと灼きついた。
 その夜以来、日向は若島津にとりつかれた。

 若島津は日向と寝た夏から変り始めた。元々は陽に灼けな
いという程度の印象でしかなかった皮膚は、ひどくさえざえ
と美しく白くなり、元々端正な顔立ちは少しやせて陰影が強
調されて凄味さえ加わった。髪の色が変り始めたのもおそら
くその頃ではなかったかと、日向は思っている。
 彼が目立たない服を着るようになったのはそういった変化
が現れてしばらくしてからだった。
 それは柔らかい肉を隠した鳥や動物が自分の存在をカムフ
ラージュするために、地味な体毛や羽で身を護っている様を
思い起こさせた。黒い服、布地もデザインも平凡で若島津以
外が着れば泥臭い程地味なものだった。
 しかし幾ら隠してもあふれかえるように若島津の肌は白く
光って、体内に巨きな華を含んでいる。その地味で無骨な布
を押しのけるようにして、若島津の存在は甘美にくゆり始め
た。
 周囲もそれに気付き始めたことを日向は知った。若島津の
吸引力はしかし、ある面一歩のところでかわされるような掴
みどころの無さがある。
 社交的なタイプでないとは云えないにしろ、万遍なくとも
云えなかった彼が、少々近寄りがたくなってしまったという
声も聞かれた。
 しかし若島津は、日向に対しては驚く程自然にとけこん
だ。精神だけではない。彼の身体も同様だった。若島津は日
向に抱かれるということに初めとまどいを感じたようだった
が、嫌そうな素振りは見せなかった。いたずらに抵抗を口に
して見せて彼をあおるようなこともしなかった。
 日向にしろそうそう無理な要求はしていないつもりであ
る。行為と行為の間隔は適当にはかって保っていた。若島津
はじきに日向を全く拒まなくなり、それ程痛みも感じなく
なったようだった。
 若島津の服の胸を開く瞬間、日向はいつもあの川辺で立つ
若島津を見たのと同じたかまりを感じる。彼の身体はどんど
ん色彩を変えてゆき、どんどん冴えて綺麗になってゆくよう
だった。溺れこんで尚足りないようだった。
 しかしその行為は彼等の関係を何ひとつ変えなかった。
 日向が物足りなく思った程、若島津はくったくのない笑顔
を失くさなかった。彼等の関係は、その前と同じく全く自然
であり、それまでより微妙に親密になったように思われるこ
とと、日向が若島津の身体の細部を覚え始めたこと以外に
は、本当に何ひとつ。若島津の肌という肌に日向は執着し、
時に灯りを明るくつけたまま彼を抱きしめた。
 最初に明るい場所でその行為が始まったためか、若島津も
特に違和感を感じなかったようだった。
 ここまで心理的に変化のないまま、人と人が肉体関係を持
てるとは思わなかった。
 これはやはり若島津故のことなのだろうか。
 自分の身体の下で声を解放し、体を開いて甘い快楽を貪る
若島津、例えば学校で日向の姿を見つけて片手を上げ、親し
げな微笑で歩みよってくる若島津、きつい眼で歯を喰いしば
り、ゴール前でボールをにらみつける若島津、日向は何も失
わなかった。
 通りがかる人間が何人かにひとりかならず若島津をふり向
くようになっても、若島津は空気のようにすきとおって、呼
吸するように日向のそばに居た。
 以前、彼があまり他人と触れ合うのが好きではないと聞い
たことがあったのを思い出して、若島津に尋ねてみたことが
ある。
 ―――そういえば不思議ですねえ。
 若島津も初めて気づいたように首をかしげた。
 ―――嫌だと思ったことはありませんね。……あんたは湿
気の少ない人だし。
 湿気の少ないという表現に苦笑する。暗に情緒に欠けると
云われているようなものだ。しかし、自分との接触が生理的
嫌悪につながらないというならそれは望ましい。その可能性
を一度は考えてみない訳にゆかない程、その時の互いの生活
は密接だった。
 若島津は肉体の感触があざやかであるのに、妙に生活臭の
なまなましさのない男だった。汗さえあまり浮かべない。
 ひとつをとっても日向には、彼が自分とひどくかけ離れて
いるように思えた。その差が大きいと、対等でない匂いもす
る。時に羽目をはずして彼を痛めつけてしまう事もあった。
そういった事だけを自ら警戒している。
 これが自然なだけに、壊してしまう事への牽制が働く。
 襟元を着崩して過ごす姿も日向のまえでは見られるように
なった。彼はサイズの大きい、生成りの綿シャツを好んで着
る。そのシャツの袖を大きく捲り、胸元を楽にゆるめて、気
づくといつの間にか、日向の驚くほど側にゆったりと座っ
て、文庫本を広げているようなこともある。それは以前の彼
らの生活にはなかった、微弱な変化の一つだった。
 自分のそばに居る彼がひどく居心地よさそうにしているの
を、日向は意外な気持で自覚した。静かにまつげを伏せた横
顔のイメージが強くなったのは、彼が何かをするとき、向か
い合うよりもむしろ、無意識のように日向の隣の位置を選ぶ
ことが増えたからであることも自覚した。
 息がかかる距離にいてうとましさを感じない相手というも
のが、どれほど貴重であるかを、日向は若島津をもって実感
した。彼が若島津を抱き締めて以来の変化は、ためらってい
ぶかしむような、しかし不快でなくいつの間にか肌で馴染む
ものが多かったのだ。
 形は自然にできあがり、どちらにも押し付けがましさがな
かった。
 その全ての映像、視覚、聴覚、触覚、全ての部分で日向は
彼を覚え込もうとした。
 目を覚まして、若島津が自分と同じベッドに横になってい
るのを見たときの他愛ない安心感は、むしろ肉親へのそれに
さえ似ていた。
 自分ばかりが強いているのではないという事は、若島津が
彼に時折、他の者にはしない、ちょっとした誘いをかけるこ
とでも確かめることが出来た。身体の触れ合うような事ばか
りにではないこと、極々たまに休日、誘い合わせて出るよう
な時にも、それは感じられた。
 若島津はそういった時珍しくためらうように、視線を伏せ
がちな微笑を日向へ向ける。
 今日の外出もそのひとつだった。


 大学三年に進級して二、三日した日、葉書が一通届いた。
薄花色にかすんだ画面の中に、白い鳥がもがくように片羽を
広げている。静かな色彩の日本画を見て彼ははっとした。
 『島田修一郎展』と、白く染め抜いてあった。池袋のデ
パートの画廊で一週間あまり開かれるそれは、銀座の画廊で
もっと長期間に渡って開かれる個展にさきがけてのものだっ
た。島田修一郎展。静かで雅な青と白にくゆる画面と、その
白い文字を若島津は喰い入るように見つめた。頂度三年程前
にも同じ葉書が彼の許に舞い込んで来た事がある。その時若
島津は葉書の文面を全て見ることもせずに、それを屑箱に放
りこんでしまった覚えがある。
 しかし今度は彼は、その葉書を捨てずに机の上に出したま
まにしておいた。翌日、今度は封書が届き、封書の中には二
枚、招待券が入っていた。
 ―――お暇があったらどなたかとお運び下さい。
 達者な筆文字が、薄青い一筆書きにしたためられている。
それを読んだだけでは、誰が書いたのか判らないような文
だった。島田修一郎の文字を彼は知っているわけではなかっ
た。しかし、ひと目見て若島津はそれを島田修一郎本人の筆
だと思った。
 『島田修一郎展・代表作、鷺、蜂鳥他二十点余』
 券にはそう書いてあった。
 その蜂鳥という文字に彼は吸いよせられた。
 島田はこれを見せたくて、自分にこれを送って来たのだと
思った。
 島田修一郎は彼の叔父である。
 父の、歳の離れた末弟であった。本名を若島津修一郎とい
う。子だくさんであった若島津家の四男であった島田は、才
気に恵まれそれを我物と出来る男になるようにと、修一郎と
名付けられた。彼の親がどんな才気を末子に望んだかは判ら
ないが、島田は画の才を持っていた。
 若島津健の父である剛は長子であり、修一郎とは十三も年
長であった。生まれついての武道家である彼は、画家の末弟
と肌がなじみきらぬ側面もあったが、それでも天才肌の若い
弟を可愛がっていた。島田は二十五歳から二十七歳の二年
間特に、長兄夫婦の家に入りびたって過ごした。
 若島津は、記憶の中で未だ若い叔父をゆっくりと思い起こ
してみた。意外な程はっきりと面影は浮かび上がって来る。
彼は叔父を嫌いではなかった。叔父の手は白く、武道に荒れ
た父の手と比べてみて優しい印象を持っている。若島津は島
田に懐き、島田も彼を可愛がった。
 今から思えば島田があれ程彼の家にしげしげと足を運んだ
ことには他の理由があったのだ。厳格で融通のきかない長兄
の家が、考えても見ればさほど居心地の良いものである筈も
なかった。
 島田は五つ年上の義姉を想っていたのである。

 その春、若島津はまだ小学校の二年であった。
 春とは云っても二月の下旬だった。春という印象があるの
はおそらく桜が咲いていたためではないかと思う。二月半ば
から桜の蕾はふくらみ始め、早くも下旬には花をほころばせ
始めていた。予想したよりもずっと早い春の訪れに、若島津
の家では慌ただしく着物の寒干しを行った。
 例年ならば一月半ばに早々寒干しをするまめな母であった
が、その一月には妹の美枝が軽い肺炎を患い、それどころで
はなかったのだ。美枝の病状も落ちついて来たことである
し、この桜の開花の様子では、ずっと早く春の湿気がやって
来るかもしれない。かと云って土用干しの時期まで待つのも
暑さの苦手な母には煩わしかったのだろう。晴れ続きの暖か
な土曜日に、二十畳の座敷を解放し、とりあえず数の多い母
の着物を干したのである。
 若島津は学校を終えて、いつもより急いで家に戻った覚え
がある。
 寒干しの日が彼は好きだった。あまり身体の丈夫ではない
母がかいがいしく袖をからげてきらびやかな着物の中に立ち
はたらいている様子を眺めるのが好きだったのだ。普段から
口数の少ない女である。病弱であるためかやせていて、少女
のように白い頬の母が、着物の事をぽつりぽつりと説明して
聞かせる、その少し華やいだ様子に胸が騒いだ。
 母は青白い若さの、小柄で美しい女だった。その年もう三
十三になっていた筈だった。
 必ず晴れた日に行う寒干しの座敷に跳ねる光と、母の髪や
頬にさすつやを心地良く思い出して、若島津は表に回った。
開けはなたれた障子、午後の早い陽差しは斜めに着物の波に
さしこんでいた。
 母は衣装持ちで、父がふんだんに買い与えたものを大事に
手入れして身につけていた。着物を干すための専用のさおも
二十本近く持っていて、手入れの時には持ち出していっぱい
に並べた。
 流水模様の友禅染めの外出着、御所解きの描かれた訪問
着、からろう染め、江戸小紋、大島紬の渋い彩のものから、
ゆっくりとそれは溢れ返って、座敷の中は一度に華が咲いた
ようになっている。そこに帯や帯締めの金銀紅が絡みこん
で、普段子供の眼には殺風景な座敷は別の場所のようだっ
た。
 母の姿は見当たらなかった。
 若島津はいぶかしんで靴を脱ぎ、迷路のように着物のはり
めぐらされた中に入って行った。彼は物静かな子供であった
から、特にどこそこに入っていけないと云い渡されているよ
うなことはなかった。
 もうそろそろ着物を片付け始めている頃であるのに。座敷
のなかに直射日光が当たる時間であれば、いつもなら障子を
閉めて片付けに入っている頃である。いくら二月の太陽とは
云え、直射日光に着物を長時間曝しておく母ではなかった。
 肘でそっと布をかき分けると、着物や帯に縫い込まれた金
糸に、日光が当たってきらきらと光った。
 人の気配に若島津は足をとめた。
 それは押し殺した母の声であった。
 その日は着物の手入れをするつもりでいたためだろう、朝
彼を送り出した母は、紺色のスカートと白いブラウスを着て
いた。長い髪に、紅色の幅の広いビロードのリボンを結んで
いた。
 母の声は切なく苦しそうに、そのきらびやかな部屋の奥に
散らばっていた。追い詰められたように壁際で、義弟の描い
た掛け軸の掛かった下で、彼女は抱きすくめられていた。彼
女がつけていた衣服が散らばり、髪に結んでいたリボンと、
手入れのためのビロードの小布団や、ほう砂を入れたビニー
ル袋、歯ブラシなどが痛々しい乱雑さで散っていた。
 彼女を抱きすくめていたのは島田であった。島田の面影
は、若島津にとって未だ若い、二十七歳のままである。その
春を境に、島田は一切若島津の家に訪れなくなったからだ。
それが、義姉に突っぱねられてのものなのか、自分の意思に
よるものかは若島津に知るすべはなかった。
 若かった島田―――若島津修一郎は、長兄の妻を二度と離
すまいといった風に抱き締めていた。あのとき母が拒んでい
たのかは判らなかった。母はきつく目を閉じていた。官能の
ものとも、苦痛とも取れる表情だった。
 若島津は布の奥にそれを見つけて立ちすくんだ。その光景
の意味が彼にはまだよく判らなかった。しかし、見てはいけ
ないものを見てしまった恐怖で、固く息を殺した。
 足音を忍ばせて耳を塞ぎ、彼はそこから逃げ出した。叔父
と母が何かいけないことをしているのだということも判っ
た。息苦しかった。そっとそこを抜け出すまえ、彼の目に、
壁に掛かっていた叔父の描いた掛け軸が、恐ろしくくっきり
と飛び込んできた。その頃から鳥が好きだった叔父が、南米
に行ったとき見てきたという、蜂鳥の絵であった。
 桜の白い花びらが、表の樹に咲き始めていた。桜のために
春めいた二月であった。蜂鳥、張り巡らされたきらびやかな
布、まだ弱々しい桜、それでもむせるような春の気配、日差
し、若島津の小さかった掌に握りしめた冷たい汗、美しかっ
た母。そのとき殊に美しかった母の。閉じた瞳と寄せた眉、
濡れて開かれた唇。
 若島津は、そのことを誰にも云わなかった。そのことの意
味が判ってからは尚更であった。おそらく一生誰にも云わな
いであろうと思った。日向にも勿論云ったことはない。それ
は母のプライバシーだ。あるいは救われ難い傷であったかも
しれない。母をどういった形ででも傷つけることはできな
い。叔父はもう彼の家には来なくなったのだから。
 そのことがあってから一度だけ、叔父は若島津の家にやっ
て来た。
 ―――健。……
 その前に会ってからたった十日ほどしかたっていないとい
うのに、妙になつかしげに、義姉によく似た甥を彼は呼ん
だ。呼び掛けた叔父に、若島津はいらえを返さなかった。叔
父を見もしなかった。叔父に背を向けて駆け出すでもなく、
ただ叔父がそこに存在しないように、たった七つであった彼
が氷のように冷たく無視した。
 ―――……健?……
 叔父は彼の肩に触れた手をはっとしたように引っ込めた。
暫く叔父が彼を眺めていることが若島津には判った。叔父は
そのとき気づいたのだろう。
 叔父はうなだれたようだった。
 彼はそれきり訪ねてこなくなった。そのあとすぐに外国に
行ったと聞いた。もうかなり前のことで、何処の国であった
かも忘れてしまった。母も叔父の話題を出さなくなった。
 おそらく、叔父が禁を破ったのがあのとき初めてで、そし
てそれが一回きりだったのではないかと思う。
 彼は母親に懐かない子供になってしまった。そんなことも
あって、母も若島津が彼らのことを知っているのを気づいて
いたようだ。
 母は着物を滅多に着なくなった。手入れだけはしていたよ
うだが、父が好きだといった着物姿は殆ど見られなくなっ
た。手入れも、寒干しはしなくなった。夏の苦手な母が、汗
を流しながら土用干しをしているのを見ながら、若島津は着
物に触れる母に近付こうとしなくなった。
 蜂鳥の掛け軸は外されて、どこに仕舞い込まれたのだか、
それきり見かけなかった。
 それから十四年たった。
 三年前にはまだ彼は許していなかった。許していなかった
というと強い云い方になる。しかし、彼がそれほど彼らを憎
んでいたわけではなかった。ただ思い出したくないことの一
つに数えて、なるべく見るまいとしていた。
 一つそういう記憶があると、要らない疑いまでが沸き起こ
る。上の兄と姉は多少父の面影があるが、自分と妹は、コ
ピーしたように母にしか似ていない。一度きりだろうと思い
ながらそんな疑いが頭をもたげてくることを若島津は嫌っ
た。母に女を見たくない、そういった年齢をまだ彼は越え切
れていなかった。
 母親はあくまで母親で居てほしい。まだ親を自分と同じ、
過ちをも犯す人間であると認めるには、十七、八であった彼
には余裕がなかった。それだから叔父の個展の葉書を捨て
去って、耳を塞ぐようにして忘れてしまったのだ。
 今回出かける気になったのは、三年前と明らかに心境が変
わっているせいであった。
 結局日向と寝たことは悪いことではなかったのだ。そうで
なければ、今日こうやって出かけてくることもなかっただろ
う。ようやく彼が母と叔父を理解することが出来たのは日向
のおかげだったと云っていい。今彼は二人を憎んでいない。
それどころか同情の眼でさえながめられるようになってい
た。
 日向と寝たのはもう一年半前になる。合宿所で日向と抱き
合ったとき、こうやって流される瞬間、火が点いたような魔
力の時間の存在を、初めて彼は認めたのである。男同士とい
う禁忌があってさえ、それを逃れることはできなかった。
 日向が好きだ。
 友人であった日向に対する気持が途中からひどく激しいも
のになってしまったことは、以前から気づいていた。日向よ
りそれは早かった。ただそれ自体も、大きな声で口にするこ
とのできないものであったから、例えば叔父と母の抱き合っ
ていたことを忘れようとしたように、彼はそれを思い出すま
いとして暮していた。
 人は自分にないものに魅かれるというのはよく聞かれるこ
とである。若島津は、ナイフのようにシャープで、そのくせ
少年の顔で笑う日向に、胸を痛めるように魅かれた。日向は
圧倒的な向光性の気質で、若島津の性質の影の部分を凌駕し
た。彼と居ることは心地がいい。精神の底から暖められるよ
うな気がする。
 あの夏、抱き合った流れのなかで、気遣わしげに覗き込ん
だ日向を、こだわり無く好きだと思えたことが、ひどく嬉し
かったのを覚えている。彼とそんなふうに触れあってから、
むしろ、自分が彼を避ける心持ちになるのではないかという
思惑は外れた。溢れ出るように、何か凍り付いていたように
なっていた感情は日向にむけて開放された。
 その瞬間日向に笑いかけた。
 好きだという言葉が素直に自分のなかに生れたことが、そ
れほど嬉しかった。自分の微笑に戸惑ったような顔をした日
向が愛しかった。その感情は静かだった。
 そうしてようやく、彼は十年以上前に見た光景、自分が眠
らせようとして必死だったものを見詰め直した。大人たちも
傷ついていた恋、自分がたった一人の目撃者であった恋を、
ようやく真っ向から否定しないでいられる余裕ができたので
ある。
 彼は蜂鳥と名付けられた絵の前に立って、黙ってそれを見
つめた。不意に目が熱くなる。それでは叔父は本当に母を愛
していたのだ。
 何故その絵が蜂鳥なのか彼には判っていた。叔父が自分の
描いた掛け軸のまえで抱き締めた義姉、春の日差し、白い花
びら。友禅のような色合いで描かれたとりどりの紐は、あの
部屋に張り巡らされていた母の衣裳だろうか。
 あの一日しか彼の恋が実らなかったのは、この絵が示す通
り徹底的なものだった。それでも忘れずに、これだけ大切に
その短い時間を叔父は失くさずにいたのである。蜜に飢えた
小鳥のように、丁寧に丁寧にその絵を仕上げた叔父の筆は、
まだ特定の愛情に飢えている。
 彼は、そう前ではない日付を見つけてそっと息を吐き出し
た。叔父はまだ忘れていないのだ。
 蜂鳥。
 日向と抱き合ったことで戒めをほどかれたような思いをし
た。日向は、決して卑しく曇らない視線と、やはり卑しくな
らない欲望を自分に向けた。炎天のフィールドをゴールへ向
けて走るような歪みのない熱気を彼はまっすぐに叩き付けて
くる。
 疑心暗鬼やプライドが傷つけられることを危惧しなくても
いられた。この一年半で、若島津は随分変わったような気は
している。
 しかし重く縛り付けられていた鎖がもう一本、彼の胸を開
放するのを感じている。彼は目をしばたたいた。明るく柔ら
かくなった髪をかきあげた。
 自分の様子に日向は気づいただろうか。それは判らなかっ
たが、何も云わないでいてくれることが有難かった。日向の
そばにいるとまるで溶けるように楽になってゆく。人に知ら
れるということに嫌悪を感じない。
 絵のなかに写し取られた、夢見草のちりばめられたる春。
華やかな色の流れ。
 『蜂鳥』の中に眠る、間違いなく母である女は、あの日と
同じ程、ひらめくようにも美しかった。


 立ち入り禁止の鉄条網の中はまだ空き地だった。東邦から
歩いて二十分程度の場所である。日当たりのいいこの草地
に、日向と若島津は時々レポート用紙や本を抱えてやってく
る。反町などが一緒であることもあった。もっとも最近では
たまのオフはデートで忙しかったり、日向と若島津にしても
何かと忙しく、ここに訪れることは滅多になくなっていた。
 彼らが島田修一郎展から帰ってきたのは、まだ昼過ぎだっ
た。それで久し振りにここを思い出して陽にあたりにやって
来たのだ。練習は当然休みだった。
 人気のない草地の下草は強い春の日差しに温かく乾いてい
た。
 手を伸ばしたのがどちらからだったのか、よく覚えていな
い。彼らはその少し暑いくらいの午後、そこで抱き合った。
といっても、場所が場所であるから服をはだけただけで、濃
厚であっても触れるだけの愛撫で、日向も若島津を開放し
た。
 降り注ぐ日差しの下で若島津は紅潮し、抱き合っている間
中ひどく乱れて、日向の腕に爪を立てた。
 草からたちのぼる青く息詰る香り、そのせいか彼らは疲れ
て汗ばみ、あおのいて草のうえに横になった。若島津は腕を
上げて、草で切れた傷口をなめた。
 汗の浮かんだ額を拭い、若島津は日向を見た。草の写った
目に光が差した。知らない扉が開かれたような胸苦しさがい
つも若島津の目のなかにはある。緑色のつやをおびたこがね
色の虹彩は、まだ熱の名残りに潤んでいる。
「―――あ」
 彼は自分の胸許を探って笑った。
「ボタン飛んでるじゃないですか。……荒っぽい。……」
「……そうか?」
 そのつもりはなかったが、彼の胸を探ったとき焦って引き
ちぎったのだろう。上から二番目のボタンは飛び、三番目の
ものも取れかかっている。
「女には優しくしなきゃ―――……」
 そういって赤い唇で笑う彼に、日向は呆れた。
「誰が女だって?」
「似たようなもんでしょ……? 男のあんたの相手なんだか
ら」
 若島津は髪をかきあげた。眉をひそめた日向にむかって、
人の悪い表情で片方の唇の端を上げる。
「仕方ないじゃない、俺達男なんだから。……俺だって女の
子にするみたいにあんたに優しくしてるんだぜ?……」
 日向が彼にからかわれたことに気付くまでは少しかかっ
た。喉の奥で若島津は低く笑った。我慢できずに笑いだす。
明るい声だった。
「日向さん、湿気はないけど真面目ですねえ」
「……お前みたいに要領良くないんだよ」
 こんな他愛ない会話の最中も見とれている。日向だけでは
ない、若島津も同じである。要領のいい恋などまだある面ぎ
ごちない彼らに出来るはずもなかった。だが要領は良くなく
とも、病まない精神の明るさのようなものが健在である分い
い。
 笑う気配がおたがい変わりさえしなければ、秘めているこ
となど知らなくていい。
 日向は少しだるい身体を起こして若島津に口づけた。
 若島津は柔らかく霞む身体の芯の熱に任せて目を閉じた。
目を閉じる一瞬前、睫に半ば閉ざされた視界のなか、自分の
髪が散らばった向こうに、種が落ちたのかこんな乾いた草群
の中に、ひと塊の蓮華が咲いていることに気付いた。蓮華の
花を透かして色素の華やかに薄まった髪が光を含んだ。髪に
跳ねかえる虹色の滴。生命というもの。
 時に花の姿でそれを見ることがある。透明な花弁に炎の色
をひそませて、肉体の原子の螺旋のなかで咲きみだれてい
る。
 彼は自分が変わったことを知らなかった。楽になったとだ
け思っていた。あのとき、煌めく色のおりに囲まれて、逃げ
出せなかった母を理解できたことが、彼の気持を解き放して
いる。
 知っても、だから彼は自分が変わったことなど気にかけて
ないだろう。その間にも変化は彼を包み、保護色にくすんだ
生命を引き出そうと流れている。灰色の蜂鳥のなかの蜜へ感
応するいのちのように、もう旺盛な恋も何もかも、包み隠す
ことはできない。
 あれは半ば夢であったと、眠りの記憶のなかにむりやり閉
じ込めても、せめぎあって満ちてくるものは、今もきらびや
かに輝く布の奥にひしめいている。
 けれど、本能的に日向に引き寄せられる自分を隠そうとし
て、しかし日向からもう離れる必要のない彼には、それもも
う関わりがなかった。
 島田とは違う。彼には自由がある。彼を拘束するものは何
ひとつ無いのだ。
 横たわって触れあった、燃え立つような身体に春が満ちて
くる。体温に欠ける肌はもう一つの熱い肌にくるみ込まれ
て、草のなかで発火した。陽炎にも似た金色のゆらめきのな
かで、若い発光体は、再び高まりそうな口づけをむさぼり合
った。
 白い肌は、髪やくすんだ服に包まれて、その春の眠りのよ
うにけぶっている。やがて見え隠れするものはもっと鮮やか
に揺らいで、眠りを乱し始める。

 それは、宝石のようにきらめく波紋を投げて、むせ返る開
花の気配とともに睡る肌を突き破って躍り出す、蜜をすする
小さな鳥の姿だった。

                         了

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