ドアの前に誰かいる。若島津は目の中に滴ってきた汗を拭った。彼は今朝、一人きりの部屋で、胃の痛むような苛立ちと一緒に起き出して来た。早朝のぴりぴりと冷たい空気の中に走り出して行って、途中でようやく少し気分が晴れてきたのだ。彼にはなかなかランナーズハイの快楽が訪れない。脳内麻薬が分泌されて、頭の中が熱い空白に満たされるまで、かなりの時間を走らなければならなかった。ましてこの季節に、汗をびっしょりかくまで走るのは並大抵のことではない。
目の中に流れこんだ汗で一瞬曇った視界をクリアにしてみると、見間違えようのない、若島津に快感と不快感を運んでくる姿が、アパートのドアの前に所在なく立っている。
若島津が帰ってきたことに気づくと、日向はあきらかにほっとしたように、もたれていたドアから背中を離した。
「随分お早うございます」
彼の皮肉に、日向がうっと詰まったような表情になる。ため息が漏れそうになった。日向が何故ここにいるのか察しがついた。おそらく反町がここの住所を喋ったのだろう。反町は最近、妹の典子と付き合い始めた。その時点で、ここの住所が典子から反町へ、反町から日向へ流れるのは予想出来たことだった。しかし、こんなに早くやってくるとは思わなかった。
「お前……」
日向は大きく息を吸い込み、勢い込んで口をひらく。しかし、何と云っていいのか分からないように、珍しく弱気に語尾が消えた。
「何ですか?」
若島津はどいてくれ、というゼスチャーで手をふると、日向の前のドアの鍵を開けた。
彼としては正直、このまま日向にお帰り願って追い払いたい気分だったが、それで本気で怒らせるのも本意ではなかった。今まで何年も一応友達同士でいたのだから、ここで入れ、と云わないわけにはいかないだろう。
(面倒だな……)
ため息をつく。
「入ります?」
我ながら無愛想な声で、ドアの中を顎でしゃくる。その硬い声を聞いて、日向は憤懣やる方ない表情になったが、目を逸らして肯いた。若島津は憮然としていまだに馴染まないアパートの部屋に日向を招き入れた。寮費以上の部屋は借りない、と親と約束したので、そんなにいい部屋というわけではなかったが、それでも引っ越す前にすっかり手直しされて、壁紙も畳もはりかえてあった。まるで新築の家のように清潔な匂いがする。
「それで、何ですか? こんな時間に」
時間はほぼ分かっていたが、わざと壁にとりつけた小さな時計に目を遣る。午前六時半。特別親しい友人でなければ常識で訪問を許される時間ではなかった。きっとこの人はそんなことをしたってどうせ俺は許すと思ってるんだろう。そう思うと、それが間違っているとも云いきれないところに腹が立った。
「お前、どうして寮出たんだ?」
日向は、DKと部屋を区切ったドアに背中をもたせかけてつぶやいた。いつもこちらの居心地が悪くなるほど真っ直ぐ目を見て視線を釘付けにするくせに、目を上げなかった。若島津は少し冷ややかな気分で、日向のはっきりと刻まれた二重瞼のラインを見つめた。まぶたがあたたかそうだ、とふと思う。腕も頬も足も、金色の熱い皮膚で包まれた友人。猫のような色の薄い瞳、硬くなめらかな髪。自分自身の髪や目よりも、見つめる機会の遙かに多い日向の造作だった。
「一人暮らしがしたかったからですよ。他に理由なんてないでしょ」
益々声が素っ気なくなった。
彼は、この春大学に進学すると共に東邦の寮を出た。日向が大学部の寮の申請を出したことは分かっていたし、若島津が寮に入る筈だ、というのを疑ってもいなかったことは察せられる。彼は一言も、お前も寮に入るのか、と訊ねはしなかった。自分と違う進路を若島津が選んだり、自分とずっと暮らしてきた寮から出るなどと思ってもみないのだ。
東邦の寮は、大学部も基本的には二人部屋だった。スポーツ奨学生を含めて、高校時代に寮に入っていたものは、そのまま進学して入寮を申請すれば、基本的に高校時代のルームメイトとの同室を考慮される。入寮申請書には、以前のルームメイトとの同居を希望するかしないかを書く欄まであるのだ。きっと日向は無造作に、希望する、に丸をつけたのだろう。若島津もそうすると思っていたはずだ。
春休み前にコーヒーメーカーの話が出て、日向は無造作に、
(ああ、一緒に買ってもいいんじゃないか?)
そんな風に云った。彼らは昨年から突然コーヒー党になり、日向も若島津も、ブラックコーヒー無しには過ごせなくなった。コーヒーメーカーが欲しい。そういう話題になったのだ。
若島津はもうその時はアパートの契約も済ませていたところで、薄く笑って答えなかった。その微笑を日向はきっと肯定のしるしに取るだろう。そう思うと少し胸のすく思いだった。日向は少しでもそれを思い出すだろうか? そんなことを口に出して後悔するだろうか?
この春、彼は復讐心と自己嫌悪でいっぱいだった。好きな子ほど虐めたい、というのと、自分の今の日向への感情がどう違うのだろう、と思う。日向の責任ではないのに気の毒だとも思った。
昨日は入寮日だった。同室者が若島津だろうと思ってその日を迎えた日向が、多少ショックを受けるだろうとは思っていた。だが、昨日の今日で、朝のランニングの後に日向をドアの前に見いだすとは思わなかった。
一人暮らしをしたかった。そう言うと、それだけで日向が少し傷ついたような顔になるのが分かる。本質的には寂しがりで優しいところのある男なのだ。若島津は飲み物を出そうともせずに、台所に一脚だけ置いた椅子に座る。どうせカップは二人分はない。
「長いこと寮生活で息苦しい思いしましたしね。大学からは一人で住むって決めてたんです」
「お前、一言もそんな事云わなかったじゃねえか……」
「だってあんた、どうするのか、とか聞かなかったでしょう?」
若島津はテーブルに肘をついた。
「俺は聞きましたけど。でも、日向さんは聞き返さなかった。だから興味ないかな、と思いまして」
よくもまあ、日向相手にこんなに意地の悪い事をべらべらと口に出来るものだ。若島津は自分で自分に呆れる。この不器用で優しい、美しい男に対して。日向を美しいというのは、一般的な見方ではないかもしれない。しかし、強靱で伸びやかな身体が、小柄なプレイヤーにも負けない程鋭くフィールドを切り込んでゆくさま、その大型獣のような敏捷さを、彼は反対側のゴールでずっと見守ってきた。その身体がどれだけ機能的に動き、陽光の下で輝くのか。
他の連中がボールを追うのに精一杯の時、彼はいつも、味方が優勢であればあるほど取り残される。高三の夏から視力が落ちて、若島津は無意識に目を細めて視力を補正するようになった。まぶたとまぶたの間を狭めれば、熱気や砂煙にゆがんだ影像は多少はっきりとする。FWの日向を追えば、それは自然にボールを追う視線になる。
しかし、若島津は、自分が試合の進行よりも、時に日向に気を取られることがあるのを知っていた。
「お前、何怒ってるんだ、おれに」
日向は顔を上げた。
「別に怒ってませんよ」
しかし、今度は若島津の無愛想な声に、日向は怯まなかった。苛々したように眉をひそめた。
「怒ってるだろ。……そうじゃなきゃ、寮を出るって俺に一言くらい云っただろう」
「必要ないと思いましたんで」
若島津は本気で苛立ち始めた。これ以上日向の顔を見ていると、何を云ってしまうか知れたものではない。
「どうして必要ないんだよ!」
日向の方でも勿論苛立ちはあっただろう。彼はついに押し殺した声で怒鳴った。
「そんなに怒らないでくださいよ。俺だってちょっとくらい自由にやってもいいでしょう」
爆発しそうな感情を抑えているせいで、声が冷たくなる。日向がここまで食い下がって来るとは思わなかったのだ。腹は立てるだろうと思った。だが、いつもならこんな冷たい仕打ちをされたら、むっとしてだんまりに入るのが日向の行動パターンのように思えた。ここまで日向に煮詰まられてしまうと、決別することになるのではないかと、ひやっとした。
そんなことになったら、アパートを借りて寮を出た意味がない。
日向と駄目になりたくない一心で、彼は外に出たのだ。いろいろな意味で不便だったし、何よりも日向を間近に見ていられなくなる。そのリスクと引き替えにしたとしても、若島津は今回の「独立」は、ひとまず無難な解決方法だと思っていた。
「自由に、だ?」
日向の声が、苛立ちから怒りに変わった。怒りに輝く目の色はなおさら薄く透き通った。
「お前な────お前と俺の問題なのに何が『自由に』だ、ふざけてんのか」
「……」
若島津は愕然としてその言葉を聞いた。彼は日向を閉め出そうとすることをあきらめ、椅子から立ち上がった。触発されたように怒りの震えがてのひらの窪みの中にわだかまる。
「ちょっとお聞きしますけど、どうして俺が寮を出る出ないが、あんたと俺の二人の問題になるんですか?」
今度は実際、少し悪意の籠った声になった。
「……」
日向はいぶかしそうに目を細めた。それは、若島津がコンタクトを使い始める前、よく見えない視界に向けて目を凝らした、その目と似ていると云えないこともなかった。
「つまり、俺が嫌いになったって事か────?」
威嚇するように声が低くなった。噛みあわない会話に、若島津は頭に血が上りそうだった。
「だから、どうしてあんたの好き嫌いが……」
声が途切れた。日向の方も訳が分からないという目をしていた。
「お前、俺が好きなんじゃないのか?」
日向は落ち着こうとするように腕組みをして壁にもたれ、若島津を眺めた。
「まぁ、それは……嫌いなら友達なんてやってないですけど」
日向の眉間の縦皺は益々深くなった。
「お前……本当におれを莫迦だと思ってるだろう。朝の六時に押し掛けて来て、俺が友達云々、なんて話をしに来ると思ってんのかよ」
「……」
彼は、茫然とした若島津の顔をちらりと眺め、他の指を握りこんで、ぶっきらぼうに親指で自分の胸を指した。
「おれはお前が好きで」
そのこぶしをくるりと反転して、今度は若島津の胸を指す。
「お前はおれが好きだろ? おれたちがどこでどう住むかってのは、すげえ大事な事なんじゃねえの?」
「俺はあんたが────?」
それは無論、質問というわけではなかったが、どう考えてもそんな言葉をくちに出すとは思えなかった相手からそれを聞かされて、若島津は眩暈を起こしそうになった。自覚してかれこれ一、二年悩み抜いた。そんなことを告白できるはずもなく(と、彼の方では思っていた)、修行僧のように日向の側にいる毎日に、正直耐えられなくなった。それで黙ってアパートを借りることにした。寮を出る理由を聞かれたら、煮詰まってぶちまけてしまいそうだったし、そんなことで日向との親密な関係や、信頼や、最近になって理由もなく発生した微妙な心理的優位……そんなものを手放すくらいなら、日向と同じ部屋で暮らすことを諦めた方がマシだったからだ。
どうせ彼も自分も大学を出たらプロになる。日向は外国に出てしまう公算が高い。
それが四年ほど早く起こるだけだ。
そう思っていた。それに、自分だけが苦しんでいるのが業腹で、日向も少し悩めばいいのだ、というような子供っぽい復讐心もあった。
腹を立てるかもしれないが、少ししてご機嫌伺いをすれば、日向はきっとこの件に関心をなくすだろうと思っていたのだ。
「莫迦だとは思ってませんでしたけど────あんたは俺なんてどうでもいいんじゃないかと思ってたかも……」
日向は口惜しそうに目を伏せた。
「じゃねーかと思った…………ったく、俺以下じゃねーか、お前なんて……」
彼が頭の中で、必死に言葉を探しているのが分かる。
「まぁ、何かお互い云いそびれたけどよ。お前も分かってると思ってたんだ」
「俺が……っ」
若島津は思わずせき込むような口調になった。
「俺が、あんたに……そうだって、いつ分かったんですか?」
「高二の二学期」
考え込むと思った日向からは、呆れるほど明快な答が返ってきた。若島津は思わず青ざめた。それでは日向は、彼が自分の気持ちを自覚するのと、殆ど同じ時期から分かっていたのだ。
「……それで、あんたはいつ頃から……」
「俺は高三の一学期」
若島津が云いよどんでいる内に、日向は明確な答をどんどん打ち出して来る。若島津はゴール前で茫然として立ったままで、全く彼の殺人的なボールを止めることが出来ないでいる。
「お前が俺を好きだって気が付いたから、俺はどうかって結構考えたんだけどな。どう考えても俺もそうか、って思ったのが五月」
日向はそう云いながら怒ったようにあたりを見回した。自分たちの二人部屋に置いてあった荷物の移動された部屋、一脚しか椅子の置かれていないダイニングテーブルを無遠慮に眺めていたが、その光る目を若島津へ向けた。
「何だよこの部屋。客を入れようって気持ちが全然ねえじゃん。……お前、俺をここに呼ぶ気全然なかっただろ」
「はあ、まあなかったですね」
若島津は酷く脱力した気分で答えた。この場からすぐに逃げ出したかった。
「……」
日向はまた、いぶかしそうな、納得できないような顔で若島津を見つめた。
「お前、俺の気持ちに気が付いてなかったんなら、どうして寮出たんだよ。俺がお前にあんまり露骨だから逃げられたかと思ったんだけどよ」
「露骨?」
脱力しながら聞き返すと、日向は少し複雑な顔をした。
「こないだ見られただろ?」
「……ああ、……」
若島津は曖昧に答える。それはこの前の夜のことだろうか。それは、健康な男二人が顔をつきあわせて同じ部屋に何年も暮らしていれば、きわどくプライベートな場面に行き当たることも当然ある。退寮前の二月の晩もそうだった。ふっと目が覚めて寝返りをうつと、部屋の東側の壁につけた日向のベッドから、正体の知れた押し殺した息が聞えた。
自分の感情が感情だけに平静ではいられずに、若島津はもう一度そっと寝返りをうち、なるべくさりげなく布団を引き上げた。身体を折り曲げてその中に潜り込み、耳を塞いだ。
友人の事情のカーテンの後ろを覗き見する罪悪感、奇妙な興奮、そして日向の欲望を支配する何物かへの不快感がないまぜになって、若島津の頬をかたくなに熱くした。
かたくなさと熱さは同居しないもののようでいて、彼の中では渾然一体となっていた。
彼はだから、逃げ出すしかないと思ったのだ。
「見られたって……それで?」
自分が目を醒ましていたのに気づかれていたのか。そのことに後ろめたさを感じながら聞き返す。日向の顔はもう完全に落ち着き払っていた。それはゆとりがあるわけではなくて、まさしく確信犯の表情だった。
「だから、おれがお前の顔見ながらしてたの気がついたんだろ?」
若島津は思わずかっとした。今度こそ、自分が日向に気づかれる程赤くなったのが分かった。
「知るか、そんなこと!」
彼は、この場から逃げ出す口実を作ってくれるなら何でもいい、という気分であたりを見回した。今日はまだ大学の部活はない。春の休暇中でもあり、正式な顔合わせも、入学式ですらまだだった。どこにも逃げ出す先がない。
日向の手が伸び、突然若島津の髪に触れた。髪に指を絡ませて、自分の方へ引き寄せようとする。恐怖心に似たものさえ感じて、若島津は日向の手を引き離そうとした。
「何ですか?」
「お前があんまり物わかりが悪いからだ」
その声に、おさまりかけていたように見えていた怒りがちらりと顔を覗かせる。若島津はなぜだか、晴れた日の空を横切る航空機の遠い爆音を思いだした。
自分に近づこうとしない若島津に焦れて、日向は一歩踏み出して、彼の背中を引き寄せた。ふっとあたたかい息がかかり、日向の唇が首筋にかかった。若島津は電気を流されたように反応した。身体が跳ね上がる思いだった。別にそれは快感というわけではなく、むしろ不快感に近いものだった。だが、日向の唇が自分の鼓動に直接触れる、ということは、パニック状態を誘発するのに充分な刺激だった。
「何やって……」
ほんの少しの怒り、大部分を占める狼狽、それから不安を呼び起こす酩酊感。更にやわらかく濡れたものが首筋を這う感触に、真っ赤になって日向を引き離す。
「やめてくださいよ、走って汗かいてるのに……」
そんなことを口走った。今日は別人のように冴えていて若島津の本心に切り込んでくる日向は、案の定その言葉に反応して吹き出した。
「自分の汗の心配より、俺がやってることに怒れっての」
目を細める。剣呑な表情を浮かべると刃物のようになる榛色の瞳は、甘く光っている。
「……お前の汗の匂いなんて嗅ぎ馴れてるよ」
そうささやいて耳のすぐ下に食いつく。感覚と言葉の両方が中枢に甘く刺さる。とんでもなく目立つそんなところに歯を立てて、肌を吸っているのが分かった。跡が付くのは間違いない小さな痛みがある。
しかし若島津は身動き出来なかった。口もきけない。身体から力が抜けて、日向の云うこと全部を否定出来なくなっていた。
首筋や頬、耳元に繰り返し唇を押しつけて、しかし獲った獲物を食べ尽くさずに貯蓄する獣のように、日向は若島津の服を脱がせようともしなかったし、キスもしなかった。
台所の床にへたりこんだ若島津の横に座り込む。肩で息をする彼をなだめるように、背中を叩いた。
「俺、外出許可取らずに出たから」
彼はどこか平坦な声を出す。
「そろそろ帰らねえとまずいんだ。入寮日の次の火曜に外泊も出来ないしな。……だから土曜に来るから」
「……!」
若島津は何も云えずに、自分が惚れた相手の暴言に身体を硬くした。
「今日が火曜でなけりゃな」
少し忌々しそうに一人ごちると、日向は立ち上がった。
「じゃあ、またな」
若島津は答えなかった。首筋や耳元がまだ燃えるようだった。自分が思い詰めて、準備して、それを日向が全てひっくり返す、というのは、この件に限らずよくあることだった。だが、これほど酷くやられたのは初めてだった。
しかし、ランナーズハイに頼らなければならないほどの苛立ちが消えて、そこに胸苦しい甘さが取って代わったことに気づく。何も無くしていないことに気づくと腹が立った。
ドアが閉まり、彼は床から立ち上がる。部屋の様相までどこか変っているように思える。どうしようもない甘ったるい混乱の中で、せめて汗と日向の唇の感触を洗い落とそうと、最後のささやかな抵抗のように、若島津は浴室に逃げ込んだ。
了