頭上は口紅で描いたような赤い月だった。
とろりと柔らかく湿った雨上がりの闇をかきわけて、若島
津は月に濡れた歩道を歩きつづけていた。壊れたレコードの
ように同じ言葉ばかりがくり返されていた。どうしてもそれ
が耳について離れずに、小刀で深くえぐるようにして宣誓め
いたつぶやきを一歩ずつ繰り返した。
もうじき駄目になる。
他人の言葉をともすれば己のもののように抱え込んで、す
ぐに己を世界の中心に据えるのは悪い癖だ。人それぞれの苦
しみがある。他人のものにまで引きずられては生きて行けな
い。執行猶予で生かされているぬるい夢のなかで、こんなこ
とで苦しんでいる。嫌なら逃げ出せばよい。
それができないことは誰よりも自分がよく知っている。
彼は濁った月を一瞥して、寒気に顔をさらしたくない風に
またマフラーに顔を埋めた。この道をあの蜜のように煮える
部屋へ向かうことには恐怖があった。だんだんと自分の実態
というものが朧げに霞む恐怖だ。
自分が自分でなくなって彼の一部になってしまう錯覚はそ
のくせ甘美だった。バランスを崩して鋭敏に尖りすぎた神経
細胞を覆い隠すように、恐怖は透きとおった白い貝殻の形に
具象化されて、軽い音と一緒にさらさらと積もってきた。貝
殻は燃える紙切れのようによじれて頼りない羽根になり、羽
根は猛々しい灰色の翼になった。
肉体を脱ぎ捨てて仮想の翼をはやした精神は、禁忌の樹林
の棘をくぐって飛翔さえ成しとげそうだ。
野獣のように灰銀の翼をひらめかせて月の端に喰いつく想
念を彼は、ごそりと自分の胸の中で動くものに重ねている。
日向の為に開かれる身体、動きつづける細胞はひとつひとつ
ざわめきながらイメージの中で溶解した。そして彼の爪先へ
と流れてゆくのだ。
この病的なイメージ群に振り回されることに最近の若島津
は慣れていた。そしてそれを楽にほかの映像にすり替えるす
べも知っていた。現実よりも少なくとも、イメージや視覚的
に刷り込まれた光景のほうが美しい。それが逃避であろうと
無かろうと彼には構わなかった。
酒に溺れるよりも女にのめりこむよりも手軽である。頭の
なかにすり込んだ情景に心の視線を向けて、彼は考えないた
めの日課、例えばバイトのための下調べであったり、わざと
困難なテーマを選択したレポートであったりするそれに、厳
粛な面持ちでのめり込むのだ。
その不可抗の予感
―――わたしもうぢき駄目になる
こんな風に恋が始まるとは思わなかった。こんなふうに恋
を認めさせられるとは思わなかった。日向は迷う時間を与え
ようとはしなかった。全ては予想外だった。
だが無理矢理の行為にさえ受粉をとげて、若島津の胸のな
かには黒々とした執念が実った。溶けた血肉は地に含まれて
執念の種子を抱く華美な花になった。否定もできない、手に
入れたと瞬間思ったのは誰だ。
自分の気持だけはどんなに巧妙な嘘でも隠しおおせない。
彼はもどかしいような溜息をついた。
味気なく一日を生きるようになってしまった。今彼は夢を
見ている。熱い大地と高い風の夢を見ている。しかし夢のた
めに夢を見るのではなく、現実を塗り隠す嘘として夢を見る
ようになってしまった。ややもすればみぞおちに凍るような
現実をみて、それを夢で覆い隠すための呼吸を、静かな必死
さで重ねている。
彼はどんな気持でいるのだろうかと若島津は思ってみる。
辛いこともあるだろうか。彼に限ってはそんな風に迷うはず
がないように思われた。
恋かと問われれば間違いはない。砂を噛むような味気なさ
だが、確かに恋である。この理不尽に歪められた感情群は、
若島津の世界に濁ったフィルターをかぶせた。もう少し世界
というものは美しかったはずだ。
何か動物の体液のように今、彼の周囲に存在するものは半
透明に濁っている。これが胎児をくるむ羊水で、今しも産み
出されようというならまた眠りの一つも重ねて待つことがで
きるだろう。
しかし細胞は緩慢に崩れ、変質して、彼は不安定に傾いた
情念のなかで死滅の日をぼんやりと数えている。
二つに裂けて頂く磐梯山の裏山は
険しく八月の頭上の空に目をみはり
裾野とほく靡いて波打ち
芒ぼうぼうと人をうづめる
半ば狂える妻は草を藉いて坐し
わたくしの手に重くもたれて
泣きやまぬ童女のやうに慟哭する
―――わたしもうぢき駄目になる
意識を襲ふ宿命の鬼にさらはれて
のがれる途無き魂との別離
その不可抗の予感
―――わたしもうぢき駄目になる
涙にぬれた手に山風が冷たく触れる
わたくしは黙って妻の姿に見入る
意識の境から最後にふり返って
わたくしに縋る
この妻をとりもどすすべが今は世にない
わたくしの心はこの時二つに裂けて脱落し
闃として二人をつつむこの天地と一つになった
―――高村光太郎・山麓の二人
旅行というと、彼が今思いつめていることよりも、もっと
のんびりした、娯楽的な印象があるかもしれない。彼がそこ
を訪ねたがっているのは、もっと苦しくて寒い情念から来る
衝動だった。
そうやって必死に金を貯めても、実際その道行が実現する
かどうかは判らない。まず、そこへ行くには車を使うことが
必至である。しかし殆ど左腕の動かない彼が車を運転するこ
とは難しかった。特殊な免許を取るには取れたが、腕を傷め
て間もない彼にはそれは煩わしかった。運転手とガイドを兼
ねてくれる英語の堪能な人間を探すとなれば、人件費も計算
に入れなければならない。
そういった諸々のことが判っていても、若島津は何か憑か
れたようにして、実現の可能性の低い旅行の準備をし続け
た。そうする自分が何かバランスを欠いておかしくなりかけ
ているようではあったが、彼はこれさえ叶えば全てうまく行
くような気がしていた。
サッカーが出来なくなってから、彼を取り巻く世界も彼も
狂い始めたように思う。大義名分を奪われた苦しみが喪失の
苦痛の中にはあった。日向小次郎は、彼に側を離れる事を許
さなかった。狂気に近い束縛が若島津を待っていた。サッ
カーが出来なくなった原因の左肩に日向が歯をたてた瞬間を
若島津は忘れなかった。
東邦はやめるつもりであった。大学三年の夏、断末魔の僅
かなケイレンを残して左肩は永遠に動きを停止した。それは
車のエンジンが止まるのと似ていた。鉄クズのように冷たく
この身体の左側が沈黙するのを若島津は半年近くをかけて見
つめた。やはりそれは夏であった。故障の多いキーパーであ
る。おそらくリハビリした所で海外プロチームはおろか、実
業団入りすら望めまい。
天才と呼ばれつづけた。それは今でも変わっていない。か
ばねをさらすよりもむしろ死に花の色艶のあせぬ内に去りた
かった。その夏フィールドを去ったことで、彼の名も記憶も
泥に汚れぬまま残るだろう。自嘲に似て、二十歳の彼はそう
思った。
天才であったかどうかは自分でははかりかねた。それを知
るには正にこれからの時間が必要であったのだ。運の良さも
才能の一つだ。運でそれを計るなら、間違いなく若島津には
天賦の才はなかった。
しかし一度才能があると己を評価した世界から離れるのは
地獄だ。後に続く平凡で揺らがない日々をどうやって埋めて
いいのかを思って、彼は慄然とした。それでもその淵から自
分をすくいあげてくれるものは誰もいない。ひとりで乗り
きって、もう一度己を活かす場所を死に物狂いで探さねばな
らない。
傷ついた体にもう一度気力の炎をともすのは困難だった。
しかし若島津はしようとしたのだ。
東邦をやめると云った晩日向小次郎は、彼を力づくで自分
のものにした。あの日若島津は日向の、いつの間にか自分よ
り厚くなった胸の下ですすり泣きながら、ゆっくりと狂い始
めた。
自分の狂いが始まったのはあの瞬間だ。水中のように漠然
と歪んだ痛みと一緒に、若島津は繰り返した。
日向は噛んだ。肩だ。憎んでいるようだった。若島津が痛
みに喘ぎ、涙をにじませて押しのけようとしてもやめなかっ
た。
―――逃がすかよ。……
浅い息でそう云って、頬に唇をつけて笑った。彼らしくも
ない含み笑いに恐怖と陶酔が降って来た。この男がこれ程好
きだ。自分の全ての部分がこの残酷な男を要求している。手
酷い扱い、嘲笑、いなす戯言さえ養分に吸い取って、屈辱と
恋が競うように厚みを増した。その厚みと一緒に、彼自身が
育ててきたアイデンティティが風化して、もろもろと割れた
殻のなかから、いずれにせよ日向のために生きる自分が現わ
れてくる。
苦しみは甘くすきとおった痛みの牙でたえず彼を苛み、彼
は日向を恨んだ。手ひどく折り取られた植物の茎のように心
の傷口は怨念と恋情を吹き出した。殺してもあきたらない。
日向小次郎の一挙手一投足に引きずられて、それを見透か
されるのではないかと怯えた。緊張の連続に耐えられず、
自分にノイローゼの徴候があるのではないかという不安に苛
まれた。狂っているのか、ただ苦しんでいるために情緒が不
安定なのか、判断することは既に困難だった。叫び出したい
瞬間を幾つも呑みこみながら、東邦にとどまった彼は今日ま
で死に物狂いにそしらぬ顔を守ってきた。
苦しくて死にたいよ日向さん。
苦痛を感じない無に彼は変わりたい。けれども、それでも
焦がれる残酷さ、動かない、そのくり返しだ。
彼がチリ北部のアタカマ高地に行こうと思ったのは、昨年
九月に入ったばかりの頃であった。大学の友人が貸してくれ
たアタカマのルポのビデオを見たことがきっかけであった。
彼が苦しんでいることの多くは自分に還ってくる事柄がで
占められる、そのなかで最も大きいウェイトを占めるのは、
自分の懐、度量の狭さといったようなものであった。
自分の苦しみが全世界のそれに匹敵すると思い悩めるほど
彼は子供にはなれない。しかし、実際に個人個人の世界の中
心にあるのは己である。若島津は自分の苦しみに負けそうに
なっている。
頭で判っていても彼は自分の感覚が押し込められたよう
に、狭い枠の中にはまりきっていることに気づいていた。日
本を出たい。酸素を欲するようにしきりに彼はそう思うよう
になっていた。
日本という国土がたまらなく狭く見えてきたのがこの時期
であった。
呼吸すら満足にできない錯覚に落ち入る事もあった。
そんなときに、古代文明史の講義をきっかけにして友人は
そのビデオを彼に手渡したのだ。彼はたいして気もないま
ま、義務的に再生スイッチを入れた。
画像は衝撃であった。
太陽に赤く焼けたアタカマ砂漠、塗り潰したように濃厚な
空、焼けつく日差しに乾いた草、切り裂くような風、静かに
熱くそびえ立つ休火山の連なり。打ちのめすような茫漠たる
遥かな大地。
釘付けになって動けない彼をひときわ激しく引きつけたの
は、アタカマ砂漠からダメイコ山脈を越えたふもとに横たわ
る、百キロに渡る巨大な塩湖だった。
塩湖は曝すような日差しに照らされて青白く、力強く広
がっていた。波打つような紋をえがいて固まった乾期の塩湖
は、塩層の下にじくじくと乾きかけた水を隠して、雪のよう
なぶ厚い結晶で膨大な地表を覆い尽くしている。
若島津はアタカマの塩湖の映像のまえで、まだよく握るこ
とのできない左手に、清潔な塩を握りしめる幻覚を味わっ
た。アタカマの塩は彼の痛みを一時溶かし去り、代りに甘美
な解放感を運んできた。
暗い部屋に、静かな声のアナウンサーの解説と、かすかな
ビデオの再生音、印象的な風の音がわだかまって流れを作っ
た。若島津は呑まれたようにビデオの画面のまえで座り込ん
だまま、角度を変え高度を変えて映し出される清冽な塩湖の
全景を見つめた。
鳥肌立ったほほに、画面の光が写って動いた。ちらちらと
ぼやけて動き続けるその光は、みだらかに甘く息詰る、夭々
と青いものに包まれた黒土の国を抜け出して、若島津が向か
いたかった高い天地、空に近い大地の光だった。彼は袖を手
繰って冷えた左腕を無意識にさすった。かすかな痛みに耐え
てそれを右腕の力で持ちあげてやると、アタカマのきりきり
と白い塩の光は、その左腕にも写って泳ぐように跳ねた。
ここに行きたい。
若島津はかつてもっと自分のものらしく自分のために動い
た左手に、熱い額を押し当てて思った。ここだ。ここはまた
とない墓地に違いない。
それは何の脈絡も無しに突然閃いた思いであった。突然閃
いたものであっただけにそれは病的な程の純粋な力を持って
いた。彼には理性的な理由などさして必要なものではなかっ
たのだ。
ここに行ってどうするのだ。少し意地の悪いニュアンスで
ささやきかけてくる声に彼は泣き顔のような微笑を返した。
泣き顔のようではあったが、ここ暫く糸を段々と引き伸ばし
て張り詰めるようにして、他人に見せていた静かな微笑より
も彼の本心に近かった。
アタカマに行きたい。
もしもこの大地をこの足で踏むことができたら、そうした
らアタカマの塩湖の塩の下に、左手をうずめてこよう。それ
は今彼の左肩で冷たく固くなった左腕ではない。天才選手と
呼ばれて空気に切り込むようにして焦げるボールを受け止め
た、かつての左腕だ。日向が許そうとしなかった、自分にど
うしても必要な左腕の弔いを、彼は日向のいない場所で済ま
せてくるのだ。
それはこの日本では到底不可能だった。日本の空気はゆる
ゆると優しく濡れすぎている。埋めた肉は風化するまえに
腐ってしまう。空は昏く、水をたっぷりと含んだ草が密生す
る。風は哭き声のように低い空を吹く。
日本では果たせない。しまいには若島津は思いつめた。そ
ういった考えは理屈にならなくても、感覚的には極めて統一
が取れていて、追い詰められた精神には容易く逃げ道になっ
た。ビデオはダビングして擦り切れるほど見た。写真集を買
い求め、アタカマ関係の数少ない紀行文を買いあさった。幾
ら繰り返して見ても堪能するということはなく、焦がれる気
持ちは薄れずに尚更あおられる一方だった。
誰にも口に出しはしなかったが、若島津はふとした生活の
合間にもアタカマの幻想に心を奪われるようになった。
アタカマに行きたいと思った気持ちはすぐに、せっぱ詰
まった行かなければならないという思いに変わった。
彼はいっそう無口になり、ひっそりと白い皮膚の下で、ア
タカマの幻影に耽溺するようになった。日向も友人たちも彼
の能弁とはいえない沈黙を、左腕の機能を失った苦しみから
だと思っているようだった。
それはある意味では正しく、或る意味では間違いであっ
た。
日本では駄目なのだ。彼は絶望的に思った。日本には日向
がいる。自分の腕を弔っても、腕は無と隣り合わせの万象の
なかに還る前に、地脈を伝って日向に流れ着いてしまう。そ
うやってとろとろと溶けて日向に流れ込む。固体としての形
を保つことすら困難になり、いつか自分は日向の一部になっ
て消えてしまうだろう。
その前に自分の腕の埋葬を済ませなければならなかった。
若島津は秋からアルバイトに予備校の講師を加えた。英、
数、国の三課目で、学生アルバイトとしては破格に給料もい
い。頭を使うこのバイトは気も紛れた。やらなければならな
い事が少しでも増えるのは嬉しかった。日向や反町や島野、
小池、川辺。……思いつく限りの顔は太陽の下で、時には雨
に濡れた競技場の固い芝の上で、いつもボールを蹴ってい
るそれはもう当たり前で切り離せはしないイメージだった。
それが当たり前であればある程彼の抱え込む激痛は強くな
り、時には心臓にまで達する。
内ポケットにしまい込んだ障害者手帳を意識して、深く静
かな息を吐き出す。動いた記憶を持つ腕が冷ややかに沈黙し
ている事に慣れるにはもう少し時間がかかりそうだった。
彼は、バランス良い精神を持った子供と云われて幼い日を
過ごした。左腕の機能を失った時にもそれは変らなかった。
彼は絶望もしなかったし、それが右腕でなかった事に感謝も
した。痛みを忘れる為に何かに夢中になろうと決心もした。
決して己を甘やかすまいと深呼吸をくり返した。
もっと大きな不幸、もっと耐え難い痛みがこの世には幾ら
でも存在する。リハビリを根気よく重ねれば、指だけでも握
ることくらいは出来るようになる。そうすれば普通の生活に
支障はない。
何よりも、丈夫な二本の足と右腕が在る事に感謝すべき
だ。後に知人友人達をして、それは悲壮と云わしめたのだけ
れども―――。若島津のような男には、それはさほど悪い
つっぱりではなかった。
固く鎧った彼の殻(それは応急用のカプセルのようなもの
であった)を無理にもひきちぎり、日向小次郎は若島津の精
神に内在される自分が抹殺されることを拒んだ。
―――やめるって? ……
日向は視線を伏せて表情を見せぬまま喉の奥で笑い出し
た。それはようやく決心を固めて走り出そうとする彼に充分
な威嚇だった。
―――……俺から離れて?
傲岸な自信、これこそは若島津が友情と尊敬を傾けてやま
ない日向の特質であったが、しかしこの場合ばかりはそれは
いかにも残酷に響いた。刃のようなその静かな弾劾はしかも
的確であった。
紅潮して次いで青ざめた彼の、左腕をちぎるように握りし
めて、日向は易々と自分の言葉を証明した。物理的な意味合
いではなく日向は若島津を裸にした。彼が自分の心を鎧う、
人として当然の自衛策、精神をつつむ抗体としての嘘を完全
に剥ぎ取った。
むりやりに弾劾の大気に曝された皮膚は傷ついて血をにじ
ませ、若島津は日向を憎んだ。
あるいは、火中に更に憎しみの修羅を燃やす事は、若島津
の疲れた精神の力になっているかもしれない。非にせよ肯に
せよ、日向はもう彼の一部であって切り離せない。
その上、さかまいて彼と同化しようとする自分自身が厭わ
しかった。だからこそ彼と半年でも一年でも、せめてひと月
でも離れて、溶けかかった想像上の片腕に決別しようとして
いるのだ。
それは現状をなかなか信じようとしない自身への甘えとの
決別でもある。変化を許そうとしない日向から離れて孵化を
果たすことで、或は日向とまた血を流さずに共存できるので
はないかと思うところがある。なぜ日向は自分に時間を与え
ようとしないのだ。悲鳴を上げるように彼は思った。
自分が賭けていたものを失くして、そのことの上でいわば
戦友のようなものであった日向に抱かれて、淀んで、安らげ
るほど自分を強い人間とでも思っているのか。
時間が欲しい。
時間のかわりに彼は孤独な葬送の儀式に思い至った。憑か
れた面持ちで静かに、いつ達するか判らない遠路を歩き始め
た。ゆかなければと、声に出さずに繰り返している。
「先生!」
不意に呼びかけられて彼は背中を固くした。殊更にゆった
りと振り向いた彼に走り寄って来たのは、彼が今教えている
クラスの生徒だった。もう授業を終えて、彼はアパートへ帰
ろうと重い足を引きずっている。
「先生のうち、こっちなの?」
私立校の生徒らしいおとなしげな下げ髪の、黒いベルベッ
トのリボンを指先で手持ちぶさたに捻りながら、彼女は人な
つこく小粒の歯を見せた。
「ああ。―――……そう。森田―――さんもこっち?」
森田、雪美だったか雪子だったか。すぐには思い出せずに
若島津は一瞬とまどった。唇に、はりつけたような微笑が
登ってくるのを感じる。
「そう。何だ、先生とうち、御近所だったんだね」
森田というこの生徒は中学三年生で、高校受験である。塾
で見る時よりも活発な物言いをする。
「先生大学生でしょ? 大学生でも先生出来るって頭いいん
だねえ」
ふっくらとした顔の両脇の髪を爪で引いて、森田は羨まし
そうに溜息をついた。
「大学生になれば森田さんもできるよ」
若島津は笑った。邪気のない言葉に気持が和んだ。
「あたしは頭良くないから駄目」
森田は真剣な顔でかぶりを振った。
「でも先生の教え方好きだよ、あたし詩とか嫌いだったけど
高村光太郎好きになったもん。国語のこないだのとこ、光太
郎の詩だったでしょ? あれで本買ったんだ」
「そう?」
興味を引かれて若島津は森田雪子(そう。雪子だ)を見降
ろした。自分の教えた事で興味を持ったというならこんなに
やりがいのある事はない。
「山麓の二人、良かった?」
「うん、凄く良かったよ」
彼女は頬を赤くして眼をしばたたいた。その眼の奥に明る
くひらめくものがあった。
「あれいいよ、先生。あたし好きだなあ、あの、わたしもう
ぢき駄目になる、っていう所。ただのオバさんじゃないよ
ね。ああいう人奥さんで気が狂っちゃったら旦那さん可哀想
だよね、たまんないね」
「森田さんは光太郎に同情したの?」
「え、ううん」
幸子はセーラー服の上に着たコートのポケットに深く、ピ
ンクの手袋をはめた両手をつっこみ、一瞬瑞々しい遠い視線
をした。
「あたし、光太郎がいれば智恵子になりたいなァ。……」
そうして溜息のように云った。
「好きな人いるんだ。云ってないけど。……受験だから駄目
じゃん?……」
息が白く咲いた。
「駄目になっても、黙って見ててくれる人がいるなんて凄い
よね。駄目になったら誰も面倒見てくれなさそうなのにさ、
それでもうっとうしいって思わずに、引き止めたいって思っ
てくれるなんて、凄い。……」
鮮烈。
その瞬間に世界の色彩は変ったようだった。金色に澄んだ
空を朽葉色の雲が柔らかく走るように、その素直な呟きは優
しい震えを含んでいた。
「でも先生は光太郎の気持ちから見るよね?……男の人だも
んね」
光太郎がいれば智恵子になりたいと云う。
火の穂のような純粋さに、若島津はアタカマの塩湖を見た
時と似て、頬を打たれたように思った。恋がせめてこういっ
た風に訪れていれば、自分はこんな風に変質せずに済んだろ
うか。箱庭のように、自分は恋愛の精巧な偽物の道を踏襲し
ている。駄目になる女。
智恵子。
狂うということが妙な悪寒につながった。自分の精神状態
の安定を疑っているときだけに少々過敏な拒否反応を引き起
こす。
智恵子をこんなふうに優しく語る少女を教えたのは自身で
あったが、光太郎の立場に立つ権利を若島津は持たなかっ
た。逆に発狂の恐怖を感じても、いさぎよく狂ってしまう程
の強さも彼は持っていない。
その動揺を見せる素直さもなかった。自分のこの苦労知ら
ずな酩酊、悪寒を噛み締めると苦い後味が残る。
彼は機械的に物判りのよい笑みを作った。せいぜい自分に
あてはまるのは、安っぽい傾向小説だと彼は思った。あの激
しい列島のパノラマ、この狭い島国にあるいは面積以上の奥
行きを作り出す能力を持った、高村光太郎の詩を説く事など
出来たものではない。しかしそんな風に云ってきかせたとこ
ろで、彼女に判るとは思えなかった。
それに判らせてどうするということでもない、こんな悩み
ごとなど他人から見れば何程のことでもないではないか。そ
う、苦しんでいるのは自分だけだ。だからこれは酩酊だとい
うのだ。
「どっちかって云えばね……」
そう語尾をあいまいに濁しながら、若島津は仕方なく微笑
を完全なものにした。
―――絵葉書や切り花のような恋をするまいとして、うっ
かり古いシネマフィルムや地平線に樹木の霞さえ見
えない砂漠に迷い込む事がある。光景に溶けこんで
ふと気付けば自分は一枚の印画紙の中の砂に焼きつ
いたひとひらのセピア色の影になっていて、立って
いる自分は更にその陰だ。馬鹿げた妄想であるほど
熱心にのめり込んだ経験を持つ人も多いはずだ。そ
ういった瞬間の恋の自覚というのはひどくみだら
で、変質への願望までがついてくるから、好きな人
の胸や髪を、雨滴や湿り気や影になって撫で触れて
いるようなメランコリックな倒錯にすとんと落ち入
る。だいたいはっきりと口に出すか、てっとり早く
寝てしまいでもすることが一番判りよい近道である
のだけれど、そこらへんは妙に潔癖なものだから、
そういうことは精神的でないと拒否してしまって、
結局何も見付からなかった、などということもあ
る。いったい人というのは何故こうもバランスの悪
いメタフィジカルなものばかりに引きずられるのだ
ろうね。
Y・S
今日帰ったら日向がいる筈だ。摩耗した心を更にとがらせ
て若島津は考えた。熱を含んでいるようで、額はかさかさと
熱かった。
―――バイトなんですよ。
―――待ってる。
彼は若島津の性格をよく心得ていて、自身はそういったこ
とに特に頓着するでもないのだけれど、人前でこの関係を少
しでも臭わせるような行動や言動を決してとらない。それは
とりもなおさず若島津に拒む理由を与えないことでもあっ
た。
ただ若島津の肩を柔らかくはたき、少し声を低めた。
―――わざと待たせるなよ。
彼の部屋の合鍵を持つ日向は、平然とそう云って実験棟の
方角へすれ違って行った。彼にしろ若島津にしろ、後期のテ
ストに戦々恐々とせずにすむだけの余裕はある。この正月に
今期最後の大きな試合を終らせて、数度目かに日本一の座を
勝ち取ったFWは、又ひと回り大きく見えた。
日向には自分がどう見えているのか見当もつかなかった。
そんなことを口にする男でもない。日向が見ているのは髪
か、肌か、眼か。どれを取っても男であって、女に傾いてい
る。それをもう今更悪いとは思わない。自分を離せない日向
の方が、それを云うなら無様だと思う。しかし、そうやって
崩れた後の自分が果たしてもう一度再生を果たせるのか、そ
れが判らない。
日向はいい。
無様でも起き上がって走り出せばよい。それはいかにも容
易い。しかし、流動体になって流れたまま、倒れた日向の周
囲にわだかまる自分は、このままでは途を求め難い。
若島津の怪我は、日向も若島津も駄目にした。あの健やか
そうな日向の中にうごめくサディスティックな病塊が、今に
人目に触れる表層に姿を現わして、膿みよどんだ血を流し出
さないという保証はない。
若島津が彼の前から姿を消したとしたら、彼はあんなにも
安らかに暴君然としていられない筈だ。しかし若島津は少な
くとも今は彼から離れられない。これは元より日向も、若島
津も承知していたことだ。
駄目に。
ならずに済んだ方法はあった。若島津が肩を痛めた時、す
みやかに二人がお互いに離れればよかったのだ。
さもなくばたった今ここを離れて、あの乾いた塩の大地に
でかけることができれば、傷口の膿みを止めることもできる
気がする。しかしそれは今日明日というわけには行かない。
早く、と幾ら気だけをせかしても、膿んで溶け切ってしまう
まえに日本を離れて出発てる物理的条件が揃わない。
今は何も変えられなかった。
こうやって若島津は、手遅れになりそうな恐怖を抱え、日
向の待つ部屋に重い足を持て余しながらも帰ってゆく。
しらじらと道は濡れていた。現実味のない月夜だった。雲
が薄くかかって月は白くなった。若島津の眼には、上空の月
がにじんで巨きな真っ白い蛾が羽を広げて飛んでいるように
見えた。みずみずしく濡れて誘う大地。横たわってここへ還
れと呼ぶ大地。溶かされようと飢える左腕、浄らかに乾いた
高地に飛ぶ心、バランスをとれない心身はきしみ、悲鳴を上
げた。
最近多くなった溜息を自分では気づかぬままに若島津は吐
き出した。
九時半。腕時計を見て日向を待たせた時間を計算する。四
時間は待っている筈だ。もうそろそろ苛々し始めているだろ
う。アパートの窓には灯りがついている。
ここで上がってゆかなければ、事はひどく簡単なのだけれ
ど。日向にその意思は伝えられるだろう。もし彼がここで日
向との関係を断ち切りたいと、本気で思っているなら、日向
は馬鹿な男ではない。プライドを傷つけるという形で彼を突
き離せばいい。日向は彼に触れようとしなくなるだろう。た
とえばタブーを崩して征服するサディズムはあっても、日向
はまったく己を欲しがっていないものを欲しがる事はしな
い。それがただの暴力であることと、己にとって一片の価値
もないことをあの男は知っている。
だが、若島津に日向が仕かけた行為は暴力ではなく、征服
だった。この階段を登ってゆく彼だからこそ成立した征服
だった。
何も彼に告げてはいないのに、知り尽くされている恐怖が
ある。若島津が殊更に日向に何も云おうとしないのはそのた
めでもあった。日向が自分の事になるとひどく敏くなること
にも気づいていた。
たとえば日向は、若島津がアタカマにのめり込んだこと自
体には気づいている。そのことを知っているただ一人の人間
でもあった。考えてみれば互いのアパートの鍵をもって生活
しているなかで、絶対的なプライバシーなど保てるはずもな
かったのだが。
合鍵を渡してきたのは日向が先であった。彼が冷たい金属
片を自分の掌に落とし込んだとき、彼はすぐにはその意味が
判らなかった。
―――……これは?
―――俺の部屋の鍵。……
彼の眼が落ち着き払った笑いを含んでいる。目を細めるよ
うにして若島津の顔を覗き込む。
―――持っとけよ。
若島津は息を呑むように日向を見た。日向の束縛への執念
を見る思いがした。こんなことをする男ではなかったはず
だ。それともそれは若島津の思い込みか。日向が彼に鍵を渡
したなら、若島津も遠からず渡すことになるだろう。鍵を渡
すということに象徴されたことを、日向は決して自分に忘れ
させまいとしている。
寮を出て生活していても、夏までは鍵など渡すようなこと
はなかったのだ。日向が若島津に鍵を渡したのは、彼が若島
津を初めてねじ伏せたその一週間後だった。
関係が明らかに変わったことを覚悟しろと恫喝されている
ような気さえ彼にはした。
彼がぼんやりとアタカマのビデオを回しているとき、日向
が部屋にやって来たことが二度ある。二度目のときは彼は日
向のチャイムを聞いてビデオを止めた。
入ってきた日向は、ビデオのリモートコントロールボード
が転がっているのを見て、スイッチを入れた。
何か云われるかもしれないとも思いながら若島津は制止す
るのも面倒で、黙ってうつむいた。日向はそれを以前にも若
島津が見ていた事があるのを思い出したようだった。
暫く黙ってそれを流したままにしていたが、日向は短く舌
うちすると彼の髪を掴んで上向かせた。激しく口づけられて
若島津は狼狽した。
―――ビデオ、……消してくださいっ……
―――どうしてだよ、好きなんだろ。
彼は若島津が探ろうとしたリモコンを押しやった。服のな
かに手を滑り込ませる。その手を必死になって若島津は押し
退けた。
―――気が、散るから……っ……
―――お前がそんなに熱中したがってたとは知らなかった
ぜ?……
日向はかすかに笑った。
―――……っ……消せってばッ……
若島津はしぼり出すように叫んだ。
日向は驚いたように彼を見つめ、次にゆっくりと眉をひそ
めた。何かに気づいたような顔になった。黙ってスイッチを
切る。考え込んでいるような視線を若島津にちらりと向け、
何も云わないまま再びくちづけた。
その晩の行為は言葉数が少なく、代わりに温度が高く激し
かった。
若島津の部屋の書棚に高山や砂漠の関係の写真集や書物が
増えたことに日向は気づいているようで、時折めくってみて
いる風でもあった。相変わらず何も云いはしない。
効果的に傷つける科白を日向なら幾らでも思い付きそうな
のに、日向は何も云わなかった。
ただ何か後ろめたいものを知られてしまった印象が若島津
に残っただけだった。
一人で歩いていると、思い出したくないことばかりしきり
に思い出す。
若島津は溜息をついて自室のドアの前に立った。ドアを開
けると、日向は六畳間に寝転んで雑誌をめくっていた。若島
津が入ってゆくと彼は薄く笑って身体を起こした。
「よう」
「遅くなってすみません」
コートを壁にかけながら、若島津は日向を見降ろした。さ
ほど機嫌が悪くもないようだ。日向は肉食獣を思わせる動き
でゆっくりと身体を引いて壁にもたれた。日向の眼は昏い。
色素の濃いその眼は光がさし込んでも透ける事がなく黒々と
黙っている。もう五、六年前にはよく笑う少年であったの
に、今の寡黙な男にはその面影はなかった。その眼が今の日
向を余計に表情を読ませない男に仕上げている。
「夕飯どうしました?」
「外で済ませて来た。……お前はどうした」
「……済ませました」
覚悟を決める暇を与えるようなタイミングを計って、日向
の腕がさしのべられた。
そのとき若島津は突然、日向の膝元に空のビデオテープの
ケースが転がっていることに気づいた。今朝でかけるときに
は何も残していかなかったはずだ。ラベルでそれがアタカマ
のテープであることを確かめると若島津は戦慄した。
自分のかなりの数に上るビデオテープの中から日向がこれ
を選び出して見ていた理由は何だ。自分がこれにこだわって
いるという事以上に、それよりも一歩踏み込んだものに日向
は気づいているのだろうか。
アタカマのテープについて一言も云わない日向が恐ろし
かった。どこまで何を知っているのか、何も云ってはいな
い、知る者も日向にそれを告げる者も居るはずがない。しか
し自分を待っているこの部屋で日向がこのテープを抜き出し
て再生していたということを考えると、もう何がどうなって
いるのか判らなくなった。
アタカマにこだわっていたのは実は自分でなかったような
奇妙な錯覚まで沸き起こってくる。
「若島津」
若島津は自分の四肢の筋肉のなかに細かい震えが刻み込ま
れるのを感じながら、手を差し伸べてくる日向からゆっくり
と後ずさった。
「どうしたんだ、来いよ」
日向の眼が黒く沈み込む。しかし内側で昏い赤に光り始め
たものが読み取れた。これは日向の危険信号だ。
「……やっぱり調子が今イチなんですよ」
日向が立ち上がる。この瞬間の優美とすら云っていい獰猛
さにいつも若島津は捕まるのである。日向の静けさにすくむ
程おびえている自分を若島津は知っている。我慢強くねらっ
て来る静かな四肢の、指の肉の間に光る爪の鋭さを、彼は
たっぷりと自分の身体で知らされている。
顔を背けかけた所をまるで手玉に取るように、日向は若島
津を背後から抱きしめた。なのにこれだけ甘い、これが日向
だ。最近では何をしていても、すぐにあの白々と広がる塩湖
に心をさらわれる若島津も、日向に触れられるときばかりは
何も考えられなくなる。また、それが日向の恐ろしさでも
あった。
「調子悪い時、いいな、お前」
日向の声が甘くささやきかけて来る。
「頼りねえ顔するからさ、可愛いぜ」
炎が吹き付けられたように頬が熱くなった。耳の近くにそ
れを聞いて、体温が疾るように上がり始めた。
日向は彼をゆったり抱きしめて、頬に唇をつけている。温
かい息、日向の微かな体臭が若島津を包み込んだ。
またあの狂ったような陶酔が始まる。
指先からぐずぐずと溶けて虹色の流動体になる。それはい
つも日向だけを目指してのろのろと流れている。
「……こうなってから半年だぜ……?」
日向の広げた指がゆっくりと胸の上を撫でる。頬に触れた
ままで低められた声に若島津はひくりと身体を震わせて眼を
閉じた。周りがゆるゆると霞み始める。自分の部屋の気配も
何もかもが消え去って日向と自分だけが残る。そうやって
残った自分さえも溶けて日向の周囲にわだかまる。
「まだ馴れねえのかよ。……」
胸を服の上から押しつけるように撫でる掌。頬で言葉につ
れてわずかに動く唇。膝が強く畳に当たって、彼は自分が
立っていられなくなった事を他人ごとのように知った。
低められて官能の効果を上げたささやきが、耳許に丁寧に
繰り返された。若島津は身をよじった。こうする事が日向を
余計に興奮させると知っていても、もう日向の思い通りにな
るしかなかった。
初めての暴力に近い行為にも若島津は感じたのだ。日向に
身体を折り曲げられて抱きすくめられながら、痛みよりも悦
楽が勝った。立てられた歯にも、身体の中で暴力的に動く激
痛の塊にも、痛みを訴えようとした声が喘ぎに変り、たか
まったすすり泣きになった時。もう駄目だと思った。日向が
相手ではとても逃れられない。
身をもがくようにする若島津のうなじに日向は唇をすべら
せた。
「……っ」
若島津は畳に手をついた。その彼の身体を巻きしめるよう
にして日向はうなじに歯を立てた。ビクンと反り返った彼の
下肢に指を忍ばせる。ファスナーを押し下げて指が忍びこん
だ。指は信じ難い淫らな震えを送り込んできた。
「あ……!」
溶けて。
若島津は首を振って畳に爪を立てた。針のように突き刺し
て来る甘い痛みに喘いだ。この荒々しい男が、どこでこんな
手管を覚えて来たのか、それとも若島津が日向の指に答えす
ぎるのか。
あえぎを堪えられなくなると、そのあえぎのせいで呼吸は
いっそう苦しくなった。真冬の乾燥した空気に開放された口
の中が乾いてざらつく。乾きは引きつるような軽い痛みに
なって喉まで届いた。
身体がつっぱって背中の筋肉が反り返った。背後から抱き
締める日向の身体に自分の身体を押しつける形になる。その
瞬間日向の熱い昂まりに気付く。
日向は手を伸ばして明りを消した。部屋のなかの空気は冷
たい。冷たい部屋の畳に、若島津が着ていたコートを敷き込
むようにして彼らはもつれてからみあった。服の中に動く日
向の親指は丹念に熱い薄い皮膚を探り、こすりあげた。その
たびに内臓と下腹の皮膚に微妙な痙攣が走る。背の筋肉に
篭った力は抜けなくなり、背筋が張って、後頭部が荒く畳に
こすられた。
のけぞった首に斜めに唇が落ちて来る。生々しく喉許の肌
にたっぷりと濡れた舌が這っている事と、肌をなぶる熱の指
以外には、何も感じなくなった。
何も判らなくなった。
これは狂うという事とどう違うのだ。
時々、何も判らないまま散々に翻弄された後、日向が泣い
ている夢を見る事がある。
最近では砂漠と塩湖の夢しか殆ど見ないのに、日向に抱か
れた晩には殆どといっていいほど、その現実味がないくせに
生々しい色合いの、リアルなその夢を視るのだ。
実際に泣いている訳ではなく、日向がどこか辛そうに眉を
ひそめて自分を見降ろしている夢だ。まるで人を殺しでもし
てしまったように、罪悪感か、痛みを感じている眼だ。彼が
そんな顔をしているところなど見たこともなかった。
あんたが何故そんな眼をするんです。
呼びかけようとして声も出ない疲労に、まぶたが引きずら
れるように落ちてくる。
これは夢だ―――。
そう思って泥のような眠りに落ちてゆく事がくり返されて
いる。もう四、五回も同じ夢を見ている。
日向が泣いていると思ったのが何故だかは判らない。白く
青ざめた闇の中には死人のような自分が静謐の棺の中に横た
わっている。これも弔いだ。若島津は薄く睫をふさぎ、無感
動な視線を幻影にあてて、自身の死の姿を見すえた。青く浮
かび上がった自分の傍らに膝をついて、その膝の上に拳を握
りしめて頭を垂れる日向。荒れた髪と、日向の乾いて青ざめ
た唇と、そそけ立ったような頬。そして痛みを含んだ眼。
夢を見るたびに、いつもその夢を見るのが初めてではない
ことを思い出すのだ。昼の間は忘れている。そうして日向の
目のなかに深く覗くものが痛みであること、なぜ痛みである
かの答えを、自分が前に同じ夢を見たとき得ていたことをも
思い出す。
その痛みは悼みである。また、悼みとともに共存するもの
がある。
泣かないで下さい。
狂気によく似たものできしむほど一杯になった部屋に一条
の光をもたらす、それがキーワードだった。なまぬるく濁っ
た空間がわっと風をはらみ、光の粒子を含んで勢いよく吹き
込んでくる。
しかし優しい言葉を口にしようとする舌は乾いて言葉はう
まく乗らずに滑り落ちる。そしてさしのべる手は固く死んで
動かない。
しかし日向も動こうとはしない。
石で刻んだように構図は止まって凍りついた。自分は日向
の中に流れ込んだまま、再度の変質が許されなくなる。これ
が狂い始めているのではないと証してくれる者がいる訳もな
い。
思うままに狂う事がどんな事だか、まだ狂った恋におびえ
るしか方法のない若島津には怯えの象徴としてしか伝わって
来ない。
日向にもそれは当てはまるかもしれない。
動かなくなった自分達。
そして、火先に近づけられた蝋のようにとろとろと溶けて
若島津は日向へ流れ込む。
ただ日向と歩いたり話したりしているときにさえ、胸のな
かで動くもの、あこがれにも未知への恐怖へもとれそうなも
のがある。
灰銀に輝く翼を持って蠢くものだ。それはアタカマの大地
を照らす月に喰らいつき、きしむようにちりちりと笑いなが
ら、慟哭の山の端に帰ってくる。その夜もつまりは等しい天
体に照らされるものであることを見せつけて、あこがれのな
かの逃避を嘲笑しながら帰ってくる。
逃れられなくなった自分に何らかの宣告が下されて、まさ
かそれを悼むでもないだろう日向が青ざめた唇ですくんでい
る。日向にはいささかも似合わない光景が、繰り返して現わ
れるのだ。
若島津はふと眼を開けた。
そこにも真っ青な闇と見降ろす日向がいた。
これも夢だ。
日向の覗き込む眼のなかには、彼が夢のなかでだけ見つけ
る、ひどくおぼつかない―――それは彼自身が抱えているも
のと酷似した―――鋭く尖った不安があった。
「日向さん」
彼は右腕をさしのべた。左腕を上げようとして、やはり夢
の中でも左腕は動かないようだった。仕方なく右手をさしの
べる。真っ青な闇の中で、日向は眼を見ひらいた。日向の頬
にかろうじて触れた若島津の手に、ためらうようにあたたか
い掌が重なって来た。
「泣かないで下さい。……」
そう呟いて若島津はほっと息をついた。これを口に出せる
夢は珍しい。若島津は苦し気な日向に微笑した。この夢でな
らこの左腕も動くかもしれない。もう一度この腕さえ動いた
ら砂漠に焦がれることも、はるかに照らす遠い塩の地平に焦
がれることもなく、自分に対しても日向にも優しくなれるよ
うに思う。
そう考えて彼は日向が自分に対して優しさを持たなかった
ように、自分も日向に対して優しみなど見せたことがなかっ
たことに思い当たった。若島津は拒否の言葉さえ彼に与えな
かった。黙って眉を寄せ、拷問に耐えるように声を殺す努力
ばかりをした。
日向の意図、動機、日向の思いを知ろうとしたことがあっ
ただろうか。
日向を意識的に無視しようともしていたところがある。
日向が彼のビデオを選び出したこと、そこに日向の僅かな
譲歩がある事に、彼は突然気づいた。遠くそれた若島津の視
線の行方を知ろうとしたとも考えられる。けれど今の彼は日
向の行動に、自分にも理解のできる共通項があると認めるこ
とを嫌がっていた。
でもそういえば、自分たちは友人だったのだ。こんなこと
が起こるまえは自分たちは特に何かを口に出さなくとも微細
なものを感じ取るだけの、細くはあったがつながりを持って
いたはずだったのだ。
半年間、若島津は日向を見なかった。日向が救いを必要と
しているなどと考えたことはなかった。自分はいつも日向を
憎んでいたから。
草が吹かれて頬を叩いた。風が頬を切った。冷たい金色の
空をすさまじい早さで走る濃茶の雲と、爪で掻いたような月
が在った。細く哭く童女のような狂った智恵子。そうして智
恵子のようになりたいと赤く唇で呟く、あんなに幼い頬で既
に胎内に女を持った少女がいる。若島津の上で泣く日向も、
昏い宵の山並みも鮮やかに若島津の世界にわっと押し寄せて
来た。
それはアタカマの砂も塩も押し流すほどの息詰る強烈さを
持っていた。しかしその鮮やかなイマージュは、高地の幻影
を拒みはせずに巻き込んで抱き締めるように溶けあった。
それでも若島津はアタカマへ向かおうとするのを止めはし
ないだろう。狂ってゆこうとする精神を繋ぐと信じてしまっ
たら、藁にすがる気持で歩き出し、ついに走り出したこの加
速は誰にも止められない。
しかしただリアルな夢であると彼が信じる光景は、ゆっく
りと浸透してくる。重ねて焼きつけた写真のように、アタカ
マの空を負い、ヒトというものの排斥された世界に、自分以
外の存在がやはり息づいていることを知らしめられる、それ
は侵略でも侵蝕でもなしに。二つのからだが存続してこそ成
り立つ相という形だ。
思うより身近に救いが眠ることもある。
薄い詩集のなかのぶつかってくるような言葉のなかにも、
広々と落ちてくる高地の風景にも、もしくは枯れ草のうえに
座る狂女を恐れることにすら。加害者の役割を引き受けた男
の腕のなかにも探すことさえすれば思わぬものが眠っている
かもしれない。
「……じゃあ、お前も泣くな。……」
思わぬ間を置いて、先刻の彼の呟きへのかすれた答えが
帰ってくる。若島津は自分の頬に触れてみた。頬にも眼にも
涙の気配はなかった。不思議に思う、何故日向は自分が泣い
ていると思うのだろうか。
何故自分は日向が泣いていると思ったのだろうか。
それを口にして問いはしなかった。
代わりに若島津は、ぎごちない掌で半ば意識を失いかけな
がら日向の頬を包んだ。
「……寒くないですか……?」
妙に日常的な言葉がするりと唇を割って、若島津はおかし
くなった。しかし笑いについやす力がもう無い。掌が日向の
肩を伝って落ちかけた。
「馬鹿。……」
力の抜けた腕をやんわりと支え、似つかわしくないおだや
かさで日向は彼の上身を抱き起こした。日向の指は温かく乾
いていた。
その感触は、彼がここ数カ月飢え渇くように求めていた何
物かを思わせた。
肩口に顔を埋め、背を支えた姿勢のまま日向は若島津を抱
き締めた。日向の肩が震えているのを感じる。
彼はやはり泣いてはいなかったが、とぎれかけた意識のな
かで若島津は、いつもの夢のように、日向に泣かないでほし
いと思った。
まもなく押し寄せた熱い眠りに浮かされながら釈然としな
いような罪悪感が残った。
狂いのゆるやかな苦しみは去らず、しかし静かに、若島津
と日向を閉じこめた。波だってもがき苦しんだ胸が静まって
みれば、苦しみは救いにすら似ていた。
まだ何が狂いか現実か判らない。
その不可抗の予感
―――わたしもうぢき駄目になる
駄目になる、狂うこと、形を変えること、己を保ち切ろう
としてそれを果たしえないこと、崩れること、不本意なほど
圧倒的にとかされ、とり込まれること。そののち二つであっ
た存在の残骸から、新しい肉体が生まれて来るかを誰も知り
えずに、だからこそ怯えて傷つける、器用に自分の意思を伝
えるにはまだ熟しきらない彼らである。
日向の肌の温かさが現実である事は、微熱と怯えにくる
まって眠る若島津には、死化粧の夢のようにうっすりと遠
かった。
さらさら、さらさら、と積もってくる。
合わせ鏡の真実。
了