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忘却白書(1991年)

01 05 *2011 | Category 二次::C翼(後期)・日向×若島津


続き





 クーラーのきき過ぎた室内の濁った空気に、こめかみにじれったいような痛みが燃えていた。
 日向は寮の窓を開けた。熱い風が吹き込んでくる。その風に顔をさらしながら、太陽のぎらぎらと照りつける外の道を見晴らした。
 一瞬目を光らせる。
 タイミング良く若島津が帰って来た。
 朝帰りどころか、もう、とうに昼を過ぎていた。
 背の高い彼は目を引く。
 夕べ彼がどこに行っていたのか日向は知っている。
 身体の底から震えがわき上がってくるような衝動と怒りがあった。
 彼は一度開けかけた窓を閉め、廊下の奥のつき当たりの、若島津の部屋に向かった。

 若島津が寮に戻って来たのは、大学三年の夏になってからだった。
 彼は大学に入ってから寮を出た。実家の父親が体を壊したため、家に男手が必要になったのである。
 無論、今更空手に戻れ、ということではない。
 ただ、何かあった時に、やはり若い男手があった方が、彼の母も妹も安心出来るのだろう。
 彼の兄は結婚して他に新居を構えたばかりであったし、姉も結婚して県外に住んでいた。学生である次男の若島津が、父の体調が安定するまで家にいるのが一番いい解決策だったのだろう。
 東邦の大学部の校舎の移転で、実家と大学との距離が、通える範囲のものになったということもある。
 前の校舎では、通うのに片道二時間以上かかった。とても部活をこなしながらでは無理だっただろう。
 それがこの夏、彼の兄が結局マンションを処分して両親と同居する事になったといって、寮に戻って来られる事になったのである。
 大学をやめる事になった男の部屋が丁度空いて、若島津はそこに入る事になった。
 その部屋は元々二人部屋だった。春にはちゃんと塞がっていた所を今年の五月、一人が出て行った。そして更に六月末に一人出る事になって、空になった部屋なのである。
 日向と同じ階の端だ。
 若島津は、その二人部屋に一人で入る事になったのだった。もう一人がやめなければ、その男と少なくとも半年間は同室で過ごす事になっただろう。
 若島津は、七月最初の日曜、少ない荷物を持って引っ越して来た。
 寮の部屋のドアを狭そうにくぐった。
 彼は背が高い。
 高校を卒業してから更に伸びた。
 高校に入ったばかりの頃、まず日向の背がかなりの勢いで伸びて、一度は若島津の背を追い越したことがある。高校生活前半の一時期は二人の身長差は五センチ近かった。
 その日向の身長をすり抜けるようにして、若島津が伸びたのは大学に入る前あたりからの事だ。
 結局、日向より若島津の方が僅か一、二センチ高いというところで落ち着いた。二十歳を越したから、さすがに二人とももう伸びないだろう。
 日向がだいたい百八十六、七くらいであるから、若島津が八か九、というところだろう。
 彼ら二人が並んで歩くと、独特の空気が生まれる。人を寄せつけない。日向と若島津本人達には判らなかったが、周りは苦笑交じりにそう言った。
 俺のせいかも知れない。そう思ったのは日向だ。
 若島津の周りに人を寄せつけたくないと思っているのは日向だからだ。
 若島津が寮に帰ってくると言った時、同室者のいない部屋に入った事に胸を撫で下ろしたほどだ。
 彼は、こんな風な子供じみた独占欲に覚えがなかった。
 最初は馬鹿らしいと思った。
 一時的なものだとも思った。そうでなかったらなお始末が悪いとも。
 しかし、若島津にはそれだけの価値があった。
 背の伸びた若島津は豪華な生き物だった。近寄り難い、冷たい、美しい男になった。骨格のしっかりした長い手足に残る傷さえ飾りのようで、彼の印象を損ないはしなかった。
 体格にしては顎の尖った見事なラインのうりざね顔と、醜くならない程度に盛り上がった肩と、しっかりと張った腿から続く長い足とは、似合わないようでいて、不思議に中性的な彼を惨めに見せないよう、バランスを保つ役割をしていた。
 中性的な男はどうしても未熟な印象を与えてしまいがちだ。だが、若島津は見事な成獣の形をとった、伸びやかで豪華な野生でもあった。マネキンめいた所はない。
 彼の魅力は無論外見の美しさだけではなかったが、その背の高さと相まって、彼の容姿の華やかさは彼の存在を強く印象づける要素になった。
 彼のその近寄りがたい容姿、日向のきつく激しい存在感に加えて、日向が彼に誰も近づけたくないそれが、彼ら二人を、周りから薄い膜を張ったようにして遠ざけた。
 その傾向はここしばらくでますます強くなった。
 日向はまだ、自分の独占欲の正体を完全には知らない。
 怖くて考えられないようでもあった。
 本当は若島津には見せられない部分だった。見せてしまったら、若島津が彼にそれを許してしまうのではないかという恐怖感があった。
 許されたからといって、感情が静かに勢いを弱めるかどうか、その場になってみなければ判らないからだ。際限なくエスカレートするのではないかという恐怖なのだった。
 それは欲望を伴っていた。
 独占欲が、それが感情だけのものであったなら、さほど問題はなかった。
 日向の全身が征服欲にきしむように揺れている。それを若島津を前にすると実感する。
 それに何という名前をつけても日向自身は構わないのである。そんな事は彼の気持ちには関わりがないからだ。
 しかし、名前が何であれ、その衝動は危険な賭けをするには強烈過ぎた。若島津を目にすると、まるで、全身がひとつの欲望の器官に変わってしまったような錯覚さえあった。
 これは危険だ。
 度を越している。
 そう思うのだった。
 若島津を傷つけてしまいそうだ。傷つけるというより、引き裂いてしまいそうな感じさえする。
 日向は、自分の近しいものを守ろうという気質が強い。
家族にも、友人にもそうであった。しかし、大切にしようという気持ちが若島津にだけ働かないことが、日向のためらいだ。
 自分の中の感情のどうしようもない高まりに気付きながら踏み込めない部分であった。
 日向の感情の正体が何であるにせよ、まともなものではなかった。
 男同士だからノーマルでないとか、そういうことではない。
 若島津は男で、自分も男だが、自分が若島津をゆるやかに愛せるのなら、その事自体は構わないと思っている。
 あまりに鮮やかで、獣じみた、血の匂いのする衝動、壊してしまいたい衝動、若島津自身に対しては友人としての感情を残しながら、若島津の肉体に強烈に反応する自分の体。
 それら全てが、日向を、彼らしくないためらいに押しやっていた。
 美しい女が周囲にいない訳ではない。外見の美しさというものだけについて思うならそうだ。
 近しい存在としての感情のエスカレートだというなら、日向がその気になれば、彼を一番大切にしてくれる女も何人かはいるだろう。
 それが、なぜ、若島津に一番強く反応してしまうのか判らなかった。
 女なら傷つかない。女の身体なら日向の暴走を受け止めるだろう。
 それがなぜ男の身体を持った若島津になのか。残酷な征服欲と独占欲と、快楽を求めているというよりは、引き裂いて歯を立てたいような血なまぐさい感情を呼び起こすもの。
 若島津は、彼の行為を許すかも知れない。
 しかし、許されてのちにも静まらないかも知れない。むしろ、しまいには若島津を殺してしまいそうだ。
 そんな恐怖が、最近の日向をいつも揺さぶっている。衝動のつき上げてくる回数は増え、日向の毎日をたまらなくした。
 若島津はそんなことには気付かないように、日向に親密だ。
 知っているのに知らない振りをしているのか、それとも本当に無防備なのかは、欲望に曇った日向には判らなかった。
 もう若島津の意思は関係ない、日向一人の内側の苦しみなのだった。

 若島津は彼の気持ちを知っている。
 何かの拍子に若島津に触れて、勝手に身体が高まってしまったことが何回かあるからだ。
 最近も一度、そんなことがあった。
 若島津が寮に戻って来てから数日して、真夜中に飲んでいた時のことだった。
 なぜその場に誰もいなかったのか、とにかく、部の他の連中も、周りの部屋の人間もいなかった。珍しく若島津と日向の二人きりであった。
 若島津が自分を拒まないのだと知ったのは、その時だった。
 その時は、向かい合わせて寮の畳の上に座って、自分の膝が若島津の膝に触れただけでそうなった。
 何かを取ろうと若島津が膝立ちになり、彼の裸の片膝が、するりと日向の膝の間に入り込んだのである。
 熱い痛みが走った。
 日向は息を詰めた。
 ―――日向さん……?
 若島津が目を見開くようにした。切れの長い目が彼を見すえた。
 若島津が男でなければ、反対に隠せたことだったかも知れない。しかし、同じ身体、同じ男の生理を持った若島津相手には隠しようがなかった。
 日向が自分と触れてどんな状態になったのかに、明らかに気付いた若島津と、彼は気まずい思いで黙り込んだ。日向は、自分がこの沈黙を破るためだけにとんでもないことを言ってしまいそうでひやりとした。
 ―――あんた、最近、……。
 若島津が喉の奥で絡んだ声を出した。
 ―――何だよ。
 ―――俺に、……何て言うか……変、じゃない?
 彼は、足下に視線を落として言った。予期していた言葉に、日向は苦い顔をした。自分の視線や態度が露骨であるから、周囲はともかく、本人の若島津には気付かれてしまうかも知れないとは思っていたのだ。
 特にこんなふうになってしまっては。
 ―――……さあな。
 日向は荒っぽく立ち上がった。
 ―――日向さん?
 ―――便所。
 彼を引き止めようと腕を掴んだ若島津のてのひらの感触に日向は総毛立った。
 それは紛れもなくなじんだ若島津のてのひらだった。
 見慣れた友人のものでもあるし、キーパーとしての若島津の、かけがえのないてのひらでもある。
 その節の固い指が、熱いてのひらの意味が、ちがったものになって日向の皮膚を痺れさせた。
 ―――触るなよ。
 彼はその手を上げて、若島津の指を振りほどこうとした。
 ―――待って……待ってくれよ、日向さん。何か変じゃないか、こんなの……。
 若島津の握りしめる力は強く、彼は必死の顔をして日向を見上げた。
 切れの長い、間近かに見るとまつげの長い瞳が、不安定に揺れた。彼は不安そうに唇を湿した。唇のほんのかすかな赤味を舐めあげるその動きだけでもたまらずに、日向は顔を背けた。
 ―――離せって。……
 ―――だって何か、こんなの気分悪い、日向さん……。
 ―――それは俺も同じだよ。
 無愛想に言って若島津を突き放そうとした。下肢にわだかまった熱は、痛みを伴って彼を衝動で揺すった。衝動は甘美で烈しかった。
 ―――日向さん!
 若島津の、微かに苛立ったような呼び声が、結局はきっかけになった。
 彼は、自分の腕をとらえた彼を逆に引き寄せた。
 若島津の身体が日向の身体に当たる。その感覚に日向は身震いした。剥き出しになった膝が絡むのが生々しい。
 一瞬驚いたように後ろに逃れようとした若島津を、壁際に押しつけた。
 若島津の膝を深く割る。ファスナーを引き下ろして、内側に手を滑り込ませた。
 ―――あ!……
 若島津ははじかれたように体を震わせた。背中を丸める。腹筋が固くはりつめるのが判った。
 その若島津の腰に重なった日向の、隠しようのない高まりに若島津は顔を紅潮させた。
 日向は驚かされて、若島津が顔を背けるようにしながら日向のそれに触れるのを茫然と見た。
 ―――俺、も……。
 若島津は吐息のように日向の耳元に囁いた。
 ―――日向さん。……
 幾度か日向の名を呼んだ。日向は若島津の耳元や首筋や、肩、顎、唇―――今まで触れたくて触れられなかった場所に、唇で、指で触れた。自分の欲望の上で動く若島津の指の感触に、若島津を押し伏せて乱暴に侵したくなる気持ちを必死に抑えた。
 そういうふうに触れるのは危険だという思いがあった。
 欲望を一方的に満たしてしまうのは簡単だが、それにはリスクが大きい。
 彼の望むものは、ゆるゆると確かめ合うようなおだやかなものではない。
 若島津のてのひらの中で彼が、彼の指に若島津が熱をとぎらせて、若島津が答を求めるように、日向を濡れた目で覗き込んだ時も、彼の気持ちは割り切れていなかった。
 若島津に自分の感情をただ叩きつけるようにして交わってしまってはいけないと思った。
 自分がどうしたいのかがはっきりと判るまでは触れられないと思った。
 こうまで愛しいと思って、こうまで傷つけたい衝動に駆られるのは始めてだった。
 その病的な強烈さに、そしてその欲望が半ば病的であるということを、若島津に気付かれるのが怖かった。
 ―――悪い。待ってくれ……。
 そう口走って、何を待ってくれと言うのか、それも説明出来なかった。
 しかしそうとしか言えなかった。
 傷つけたくない気持ちも、傷つきたくない気持ちも本当だった。


「そろそろ帰った方がいいんじゃない? 午後は部に出なきゃいけないんでしょう」
「まあね」
 若島津はそろそろと伸びをした。
 もう昼近いのだろう。陽は高い角度から、ブラインド越しに差し込んで来ている。
 彼の隣から抜け出してシャワーを使って帰って来た女は、バスローブの腕を組んでベッドの上の若島津を見下ろした。
「まさか乗って来てくれるとは思わなかったわ」
「君から誘って断られた事、今まであったの……?」
 そう返すと、田中瑞恵は笑った。まだ湿った長い髪をゆすった。
「その科白、そっくりあなたに返すわよ。あなただって女の子誘って断られた事なんかないでしょ?」
「そんな事ないよ。俺はもてないから」
 若島津は、横たわっていた自分にやんわりとかぶさって来た、瑞恵のあたたかい背中を抱きしめた。
「コツが判ってないのかなあ……。ずっと前から、特に本命には相手にされない事が多かった」
「そうなの? じゃあ、あなたが綺麗過ぎるのかもね。誰だって自分より綺麗な男なんて嫌だと思うわ、私」
 瑞恵は甘く掠れた声で耳元に囁いた。
 誘うような声だったが、今はもう、会話を楽しんでいるだけで、特に作為はないのだと、若島津にも判っている。
「まさか、俺の事そう思ってる訳じゃないだろう?」
 そう聞き返す。
 瑞恵はにっと唇をゆがめて、彼の裸の肩を平手で軽く叩いた。その所作には、どこか愛撫するような気安さが込められている。
「当たり前じゃない。私より綺麗な男なんていたら、半径十キロ以内には近寄らせないわよ」
 そう言いながら若島津に頬をすり寄せた瑞恵は、化粧気なしでも赤い唇を若島津の頬につけた。
「あら、何? 髭……?」
 彼の顔を覗き込んで瑞恵は彼の頬をてのひらでつつんだ。てのひらに僅かに当たる感触がある。
「あなたも髭生えるのね?……」
「当たり前だろ」
 若島津はさすがに憮然とした。
「俺の事女だと思ってるんじゃないだろう」
「女の子はあんな風じゃないわねえ」
 瑞恵は赤い爪の、細い指で彼の顎を撫でた。
「そうね、凄く、男だったわよ―――」
 舌で上唇を舐めるようにした。
「……なんてね、ごめんね、帰してあげなくちゃ」
 思わず反応しかねるようにした若島津からゆっくりと身を離す。
「洗面台の棚の中に、新品の剃刀と、クリームあるから使っていいわよ。他の男のだけど」
「言うなあ」
「何言ってるのよ、本命にはもてないとか、他の女のいる前で平気で言うくせに」
 それはそういう意味ではない、と言いかけた若島津を、瑞恵は有無を言わさずに、本命によろしくね、と言って、シャワー室に押し込んだ。

 田中瑞恵は大学で、彼と同じクラスの紅一点である。元々女性の少ない学部なのだが、今年は例年にもまして少ないのだそうだ。どこかきちきちと固いような男の集まった中で、華やかな彼女の存在は、一般教養の頃から評判になっていた。
 成績はいい。
 いつも平均よりも高い評価を得ている。女の匂いが強く、その容姿を利用してかなり積極的に遊びの恋愛を楽しむ方であった。
 いつも取り巻きに不自由したことはないようだし、多少不実でも恨まれない。頭が切れるのと、美し過ぎて、周りの男は扱いかねるような所があった。
 瑞恵が若島津を気にいっているのは誰でも知っていることだった。
 しかし、瑞恵は不思議と、彼をそれほど積極的に誘って来ようとしたことは、今まで一度もなかった。プライドがどうこうという問題ではなさそうだった。
 彼女の普段の行動を見れば、彼女のプライドのありかが、どちらから先に誘うかなどという所にはないのは判りきったことであった。
 それが突然、先日から、友人として距離を保とうという感じではなくなったのである。
 男と女の距離を詰めるために、意識的に誘ってきた。何のきっかけもないようだっただけに、若島津も不思議だった。
 無論、悪い気はしない。瑞恵は美しかったし、それに何よりも一緒にいて退屈しない女だ。
 瑞恵が突然、彼を積極的に誘うようになった時期と、日向が彼を痛いように意識するようになった時期とは、偶然には違いないが、重なり合っていた。
 若島津は、起き上がって洗面所に入った。部屋で瑞恵がドライヤーを使う音が微かに聞こえてくる。
 土曜の夜、偶然外で顔を合わせて、それから突然瑞恵のマンションに来ることになったのだが、洗面所も部屋も掃除は綺麗に行き届いていた。
 瑞恵は不思議な女だ。
 あれほど奔放なのに、生活の基本的な所を押さえておかないと気が済まない所があるらしかった。
 完全主義なのかも知れない。
 彼は髭をあたりながら考えた。
 完全主義の人間は、恋愛をするのが難しいだろう。すぐに相手の欠点ばかり見えてしまうに違いない。だから瑞恵のアヴァンチュールは恋愛になりきらないのだろう。
 瑞恵が彼に興味を持っているのが判ったが、夕べ肌を合わせて一晩一緒に過ごしてみて、それが明らかに『興味』であることに気付いて、彼はどこかおかしいような、意外な所を発見したような不思議な気分になっていた。
 瑞恵が、若島津の中に、他の男と違う所がないかと、浮き立つようにして探ってみているのが判ったからだ。
 子供のような純粋な好奇心だ。
 しかし、あれは周りに理解されにくいだろう。
 日向もそういう所がある。
 彼は、すっかり跡の目立たなくなった顔を鏡の中に見て静かに考えこんだ。
 日向も、完全主義なのだ。
 どこか足りない所があるうちは、自分一人で抱えて、人に触れさせようとしない。
 それが自分一人の問題ではない恋愛ですらそうなのだと、若島津は今、思い知らされていた。
 若島津の意思を確かめるよりも、日向は自分の内側に巣くうものの正体を見極めることに精一杯だ。
 不器用な完全主義。
 完全であることなど難しいから、どうせなら捨ててしまえばいい。
 若島津はそう思っていた。
 しかし、完全でない部分をドライに次々切り捨てていくと、瑞恵のようなことになるのだろう。
 いずれにせよ、影響力の強い人間が安定していないと周りは振り回されるばかりだ。
 若島津自身もそれほど影響力の弱い人間ではなかったが、日向とはキャラクター性の違いがはっきりとあった。
 日向のように、陽性の華やかさはなかった。
 そして、全体に陽性だとばかり思っていた日向が、恋愛絡みになると、ふと、昏い鬱屈した部分を見せることにも驚かされていた。
 ―――あなたも男だったのね。
 まるで、瑞恵の言ったのはそういうニュアンスだ。
 男のカタチは確かに持っている。それほど濃い訳ではなかったが、とりあえず毎日髭を当たる必要のある顎、筋肉の盛り上がった手足、男として女を楽しませることも充分に出来る身体だ。
 日向がためらっているのは、自分が男だからだろうか?
 あれだけ欲望の形がはっきりしていても。
 男であるというのは、それほど決断力を鈍らせる要素なのだろうか。
「若島津君……?」
 向こうから、瑞恵の声が聞こえた。彼が出て来ないのを不思議に思ったらしい。
「御免、すぐ行くから」
 彼はそう答えて、顔を洗い始めた。

 若島津が階段を上ってくるのを、彼は若島津の部屋の外で待っていた。
 若島津は、日向が自分の部屋の前で待っているのに気付くと、ぎくりとしたように身を固くした。
 しかし、一瞬のその表情も、又ゆるやかな静かな色にのみ込まれた。
 夕べ、若島津が同じ学部の女と連れ立って、おそらくその女の部屋に行ったのは知っている。
 反町と、他にもう一人、若島津と同じ学部の男が、夕べ若島津と途中までは一緒だったのである。
 用事がてら外出して、街中でばったり会ったらしい。
 彼女が若島津を誘った。
 若島津は反町に、外泊届けの代理を頼んで、彼女と連れ立って行ってしまった。
 反町は憤慨してそう言った。最も彼の憤慨は本気ではなく、若島津を誘った女を彼も知っていて、興味を持っていたからだったらしい。
「どうしたんですか?」
 若島津が努めて何気ない風を装って話しかけてきた。日向がドアを背にして立っているのを見て立ち止まる。
「ちょっと、通して下さいよ」
 反町に口止めもしなかったのである。
 彼は、日向に女とのことが知れていることは当然考えているだろう。
 どういうつもりだ。
 日向の喉までその言葉が出かかった。
 しかし彼は若島津を拘束出来ない。拘束するための切り札など何一つ持っていなかった。彼は若島津が自分をどう思っているのかすら知らないのだ。
 彼と若島津の間にあるのは、ただ、気まぐれのように触れ合った一晩だけだ。
 男同士だから、なまじ知り過ぎた生理のせいで判断しづらくなっている。若島津にしても、日向が自分と触れて高まったことを、ただの偶然に起きた身体の気まぐれだったと思っている可能性がないとは言えなかった。
 若島津は、暑そうに胸もとをくつろげ、隅に置いた冷蔵庫から、ミネラルウォーターの瓶を取り出した。
「あんたも飲む?」
「……俺はいい」
 若島津は、瓶に直接口をつけようとしてやめ、面倒そうに紙コップを取り出してきて水を注いだ。
 日向は部屋の入口に立って、若島津が部屋の壁にもたれて、畳の上にじかに座り込むのを見た。
 寝不足らしい。寝の足りない顔をしている。座った姿勢で水を飲んだ。
 薄赤い目を見ているとカッと怒りが込み上げてくる。復讐心にも少し似た怒りを、どういう形で出せばいいのか判らずに、日向は戸口に寄りかかって、ぼんやりと彼を見ていた。
「何か話があるの?……」
 若島津はだるそうに壁にもたれて座ったまま、優しげなゆるやかな声を出した。
 内側の怒りに微かに曇ったようになった目に、突然、鮮やかに飛び込んできたものがあった。
 若島津の顎の下に薄赤くひらいたものがあった。
 一瞬全身が熱くなった。
 若島津の顎の下に、小さくつけられた花片のような跡は、明らかにキスマークだった。
 ―――美人なんですよ。
 反町が、若島津と連れ立って行った女の事を言った言葉を思い出した。
 ―――学部一って評判なんだから。結局いい女は、顔がいい奴に持ってかれちゃうんだな。
 そう言った。
 日向は、女が若島津の喉元に口づける様子を思い浮かべた。それほど綺麗な女と若島津となら、さぞかし、煽情的で映像的な光景になるだろう。
 彼は、ようやく入り口から離れて、若島津のそばに近寄った。自分でも何をしようとしているのか、本当には判らないまま、若島津の喉元に手を伸ばす。
 若島津の顎に手をかけて持ち上げると、どうやら若島津は、そこに跡が残っているのに気付いていないようで、いぶかしげな顔になった。
「日向さん……?」
 若島津が静かに呼んだ。
 彼のその理解出来ない屈託のなさに日向は苛立った。自分を拒むならそれでもいい、拒まなかったなら意味のひとつも考えようとは思わないのだろうか。
 女と寝て帰ってきて、自分に対して後ろめたいとさえ思わないのだろうか。
「跡ついてるぞ」
 顎を持ち上げたままそう言うと、若島津の目に初めて、微かな動揺が走った。
 彼は押し殺した息を吐き出した。
「そう……?」
「……それだけか?……」
「他に何かありますか?」
 若島津がそう言った瞬間、日向の胸はしんと冷えた。
 怒りと嫉妬、そしていつも若島津を前にした時彼が抑えかねて苦しむ嫉妬心が、痛いほど込み上げてきた。
 込み上げたそれの烈しさに、逆に細胞の一つ一つが凍ってしまったようだった。
 日向は、若島津が手に握っていた紙コップを静かに取りあげた。
「……」
 若島津が彼を見上げる。その若島津の顔に、彼は、コップの水を浴びせた。
 若島津は、黙って日向を見た。
「何の真似?……」
 日向は、若島津の肩口から上着を引き下ろした。ランニングの中にまで水はしみとおって、若島津の胸の隆起のかたちをそのまま浮き上がらせていた。
 その若島津を見て欲望より怒りが勝っているのが不思議なようでもあった。
「言いたいことがあるならはっきり言ったら?」
 若島津が低く言った。
 日向は何も答えようとしなかった。食い違った怒りが、はけ口を求めて暴走しかけている。
「あんたにこんなことされる覚えはないんだけどね」
 若島津は髪をかき上げた。
「用がないならどいてくれませんか」
 そう言って、日向のかがむ前から抜け出そうとした。日向は手を上げた。自分でもそうしようと思っていないうちにその手に反射的な力が加わった。
 彼は胸に抱えた黒いもやの分、かえって落ち着き払って若島津の頬を打った。
「……」
 若島津は、その姿勢のまま日向に視線を流した。
 日向はゆっくりと立ち上がった。何かが決定的に変わったような気がしていた。
 もう、とうに判っていた、どうしたいか、という事が、どうするべきか、と思う気持ちと重なって、そして理性で制止していたものまで、黒いもの、黒く這い上がってくるエネルギーに食いつぶされる瞬間を、日向はまざまざと見た。
 日向は、黙って部屋を出た。
 突然明快に透き通ったものにまだ慣れず、しかし、その慣れない部分が、妙な快楽の波になって彼の内側に押し寄せてきた。
 殺してやっても足りない。
 日向はそう思った。
 笑い出しそうになった。
 こんなに簡単な事だったのか。
 彼に足りなかったものは、ただ、嫉妬や怒りの、背中の一押しだったのだ。

 部が終わったのは、もう暗くなってからだった。
 八時を過ぎて、足下がようやく暗くなりきってから、後片づけに入った。
 フェンスの外に、ほの白い人影を見つけたのは、少なくとも日向でも、若島津でもなかった。
 誰ともなくその姿を見つけ、羨望とからかい混じりの声で、突然その場は一杯になった。
 田中瑞恵がフェンスの外で、部が終わるのを待っていたのだった。
 もう、夕べ若島津が瑞恵と一緒だった事は、瑞恵を知る部員は全員知っていたと思っていい。
 若島津は、悪びれる様子もなく、フェンスの内鍵を開いて瑞恵の側に行った。
 日向は初めて田中瑞恵を見た。日向と若島津は学部が違う。その女を見るのも初めてだった。
 背が高い。甘い艶気のある、かなり綺麗な女である。確かに、若島津の隣に並べてもいいくらいには綺麗だ。日向は、妙に冷静に考えた。
「忘れ物」
 瑞恵は、バッグの中から腕時計を取り出した。
「部屋に忘れてたわ」
 瑞恵の声は綺麗なアルトだった。癇にさわらない声だ。
うるさい感じがしない。若島津が田中瑞恵を気にいったとしても、それは日向にも理解出来るような気がした。
 さすがに田中瑞恵を前にしては、それほどからかう事も出来ず、部員たちはそれぞれ散って行った。瑞恵が腕時計を出した途端、誰だったかが、大げさな溜め息をついただけだった。
「気がつかなかった」
「嫌ね、今まで見なかったの?」
 瑞恵の呆れたような笑い声が耳をくすぐった。
 日向もその場を離れようとすると、彼は部長に呼び止められた。
「若島津とお前は、俺等と小ミーティングだ、今日は。残れるだろ?」
「若島津」
 部長への返事の代わりに日向は呼んだ。
「今日残れるかってさ」
「……」
 若島津は一瞬、田中瑞恵と顔を見合わせるようにして、肩をすくめた。
「残れます」
「……残念だわ」
 瑞恵がそっと、低く呟いたのが聞こえた。それは、部長たちには聞こえないように言った言葉だった。
 日向にだけ、かろうじて聞こえたのだろう。
「わざわざ来てくれたのに、悪い」
「いいの」
 瑞恵は赤い唇で吐息のように笑って見せた。
「昨日の今日だから。いかにも手に入れましたって顔で見せつけたかったのかも、私―――」
 日向はその言葉に反応して、一瞬、田中瑞恵を振り返った。そして、彼女を見た視線が、頂度瑞恵が彼を見ていた視線とぶつかった事に驚かされた。
 今、そう言いながら、田中瑞恵が日向を見ていたという事になる。
 なぜ、瑞恵が日向を意識するのだろう。
 何を知っているのだ。若島津が彼との事を言ったとはとても思えないが、女絡みだと、男はいくらでも変わってしまう。若島津が例外だという保証はどこにもない。
 その言葉に反応したのは日向だけではなかった。
 一瞬、若島津が瑞恵をぎくりとしたように見下ろすのも、日向は、その夜目の利く目で見てとった。
「部長、待たせるなよ」
 日向は、そう言いながら、笑って若島津の背にやんわりと触れた。いかにも親密な友人の顔をした。
 若島津の目の中に読み取りにくい感情を動くのを、何度目かに確かめながら、彼は、部長が待っている方へ歩き出した。
 若島津と瑞恵は、ある意味では通じあっているのではなさそうだ。
 あるいは双方が言葉遊びめいたものを楽しんでいるのかも知れない。
「じゃあ、私帰るわね。頑張って」
 田中瑞恵は、引きぎわ良く一歩下がり、そっと手を上げて歩き去った。
 背が高い女の白のタイトの内側で、足の柔らかい曲線が動くのが判った。
 確かに、大抵の男なら欲しくなる女だろう。
「ミーティングだって?」
 追いついてきた若島津が、髪をまとめていたひもをほどく。
「俺たちだけらしいけどな」
「ふうん……」
「昨日、あの女と寝たのか?」
 日向は唐突に切り出した。
 いつまでも、持って回った会話を繰り返すのが面倒になったのである。若島津はほんの僅か眉をひそめて、真意を探るように日向を見た。
「そうです。……」
 若島津は歌うようにつぶやいた。
「綺麗な人でしょ……?」
「―――��……」
 日向は、自分でも険呑な目をしたのが判った。
 若島津もはっとしたようだった。それは失敗したというよりは、日向の反応にただ驚いたように見えた。
 挑発されているのではないのか。
 日向は妙に冷静に考えた。
「どうして寝た?」
 そう聞くと、若島津は困ったように目を背けた。
「そりゃ―――……欲しかったからね。あんただってそうだろう? こういう時は」
「欲しかったから……」
 日向は囁くように繰り返した。
「欲しかったって言うのは、あの女が? それとも、単に足りなかったっていう話か?」
「日向さん」
 若島津はとがめるような視線を投げた。それに日向が応じないのを知ると、彼はしばらく黙った。
 葛藤するように眉をひそめたまま考えていたが、仕方なげに目を上げた。
「お互い承知でしたけど、……今更最低なんて言えたもんじゃないけど、足りなかったって言うのに、近い。……」
「お前、馬鹿じゃないか?」
 日向は足を止めた。
「俺は?」
 若島津の襟元に手を伸ばす。
「え……?」
 若島津が、彼の言葉の意味が分からないように目を上げた。自分の襟にかかった日向の手に、肩を引くようにした。
「俺は欲しくなかったか?」
 よくも自分はそんな聞き方を出来たものだ。
 若島津が欲しくてどうにかなりそうだったのは自分だ。
それを若島津の問題にすり替えようとしているのか。
 しかし、若島津は、触れられたくないものに触れられたように表情を固くした。別にどうということのない問いかけだったつもりが、どうも彼の痛い所に触れてしまったらしかった。
 若島津は整った顔を険しくして日向を睨めつけた。握りしめた手が微かに震えていた。
 自分の襟元にかかった日向の手を彼ははねのけて、吐き捨てた。
「放っといたのはあんたでしょう。……そりゃ、普通だったら、俺だって男なんだから、自分で―――……」
 歩きながら気がさしたように言葉をきって、彼は唇をかみしめた。
「俺がどんなふうに思ってたかなんて、あんたは気にしてなかったんでしょ?」
 日向は苦笑した。彼の言う通りだ。
 日向が考えていたのは、それが許される事か許されない事か、そんなふうな問題ばかりで、一度触れ合ってしまった後に若島津が特にどう感じていたか、若島津の方でも日向を欲しいのではないかとか、そんなふうには考えてみなかった。
 あるいはそれについて考えてみるのを、意識的に避けていたのかも知れない。
 寮で長年一緒に暮らしていて、極近年の二年間を別々に過ごしたことで、自分たちが確認するだけの時間がなかったこと、感覚の食い違いがあることを無視してしまっていたのだ。
 彼について判っている筈だ、と思い込んでいたのだろう。
 若島津も欲求を持った男の身体を持っている。
 日向がそれを判ってはいたなら、女を抱いたからと言って若島津を責められない。自分たちの間には何の約束も、告白もなかった。
 守るべきものもないのに、誠実でありようがない。
「ミーティングの後にな」
 部室のある棟についてしまった。日向は話を区切り取った。
 黒いものが動いている。汚れた雨の降る前の雲のように、黒いもやが胸を動いている。
 これは強風の前兆だ。

 消灯後しばらくして、日向は自分の部屋を抜け出した。
 高校の寮と違って、それほどうるさくはないが、ばれると色々と面倒だ。
 若島津には何も言っておかなかったから、眠っているかも知れない。それならそれで構わなかった。
 日向は、夏期休暇中で、運動部の連中が少し残っているだけの寮の昏い廊下を歩いた。
 運動部の連中は今更はしゃぐでもなく、練習のきつさに早く眠ってしまう者が多い。
 特にこの階は三年しかいない。もう寮の雰囲気にも夏期休暇中の解放感にも馴れきっている者ばかりなのだった。
 外は雨が降り出していた。
 雨の音以外は寮の中はほとんど静かだと言っていい。雨の音は正直有り難かった。
 一番端の若島津の部屋のドアを開ける。
 部屋の明かりは消えていた。日向は、静かに部屋に滑り込むと、施錠して振り返った。
 眠っているかと思った若島津は眠っていなかった。目が馴れるとすぐに、ベッドの下段に座っている彼がぼんやりと見えた。
「寝てなかったのか」
 声をかけると、若島津は微かにうなずいたようだった。
「眠れなくて……」
 若島津はそう呟いた。
「……どうして?」
 唇に笑いが押し上がってきた。もうこの衝動を押さえることは出来ないだろう。
「……さあ。……」
「若島津」
 日向は呼んだ。彼の名前を呼ぶのが久しぶりだということにふと思い当たった。甘い衝動につき上げられそうな彼の名前だ。特別な響き、ただ自分が執着しているが故の、特別な響きを持っている。
 だからしばらく唇に載せることのなかった名前だ。
 彼は明かりをつけた。蛍光灯の明かりに照らされた若島津がまぶしそうに目をすがめた。
「若島津―――……」
 日向は、爪の間に獲物を捕らえたような気分でもう一度呼びかけた。
「お前も欲しいのか?」
 若島津が目を上げた。
「もう判ってるだろうけど、俺はもう、お前のこと考えてると所かまわずだ―――……部にいる時だろうが、飯食ってる最中だろうが、もう、生活自体やばくなるんじゃねえかって思うくらい」
「日向さん」
「お前は?」
 若島津が救いを求めるような目になるのを見ない振りで日向は言いついだ。
「お前は、俺が欲しくないのか?」
「……」
 若島津はまつげを伏せた。整った鼻梁の線を日向は陶然と眺めた。
 こんなふうに、征服欲も、賛美の気持ちも、彼が他の人間には持ち得ない感情を一度に満足させてくれる相手が、若島津以外にいる筈がなかった。
 なら、若島津を少々傷つけるリスクを負うことが何だというのだろう。若島津に憎まれても、そのデメリットより、若島津を手に入れることで得るものの方が遥かに大きいに違いなかった。
「あんたが欲しいよ。でも―――……」
 若島津は一度言いよどんだ。
「でも?」
「男としてじゃない」
 日向は笑い出した。そんなことは判っていた。若島津が男として自分を欲しいなどと思う筈がなかった。彼はそんな気質ではない。
 若島津はいつも感情が受け身の人間だ。服従することに快感を感じる類の人間だ。それにどんな屈辱が伴っても、その事自体は変わらなかった。
 若島津のそういった気質、許してしまう気質を知っているからこそ日向はためらっていた。今まで、若島津を抱くことで、彼を幾重にも傷つけはしまいかと、それを怖れていた。
 しかしそれは長く続かなかった。もう耐えられそうになかった。
 若島津の無意識の誘いのせいでもあった。全てではない。どちらかが全てなどということはない。
「全部俺のせいにするか?」
 若島津のことを口にする代わりにそういうと、若島津は顔を上げた。眉をひそめた。
「そういう意味じゃないですよ」
 日向は、若島津を、無遠慮な視線で撫でまわした。それに気付いて、若島津は気まずい表情で顔を背けた。
「じゃあ見せてみな。……」
「……?」
「俺のこと考えて、してみろよ」
 日向は片手で、空中を撫であげるような動作をして見せた。
「どっちにしたって、俺もお前も男だってことには変わらないんだから。……俺が一方的じゃないって、お前の方も欲しいんだって、見せてみろよ」
「―――そんな」
 意味を悟った若島津の目の中に、一瞬羞恥と怒りがひらめいた。
「そこで、俺に見せろよ」
 日向は、笑っている自分を意識した。水滴にうずまった外と、切り離されて二人きりの自分たちを意識した。
 ドアにもたれた日向の方を一瞥すると、若島津は視線を落として、ジーンズのファスナーを下ろした。自分の片手を滑り込ませる。
 その指が彼に触れて、ぴくりと背筋をふるわせた。大きく息を吐き出した。
 日光に灼けて茶気た彼の長い髪が肩から滑り落ちた。
「……」
 ベッドに座った若島津はかすかに息を乱しながら、指を動かした。目を硬く閉じる。
 そのうち、湿った息を吐き出した彼は、又救いを求めるような視線を日向に投げた。日向が、ドアにもたれて自分を眺めたまま動こうとしないことに気付いて、彼は紅潮した。
「……ン―――……」
 彼は息を詰まらせた。高まってきたようで、背中に力がこもるのが、ランニングの上からでも良く判る。
 たまりかねたように若島津は、日向の視線を避けるようにしてベッドの上にうつぶせた。腰の下で動く手のために片足を僅かに浮かせる。
 額に薄く汗が浮かんだ。唇を結んで、たまらずに呼気を吐き出して、かみしめる。
 その彼の扇情的な姿を、日向は、むさぼるようにして自分の視線の中にからめ取った。
「……っ」
 若島津は首を振った。まつげが薄く濡れて涙が滲み出した。
「日向、さん―――……」
 彼は細く呼んだ。
「……」
 日向は答えなかった。ただ、撫で回すようにして彼を見た。
「日向さん……っ」
 若島津の唇から、歯ぎしりするようにして声が漏れた。
 日向は、組んでいた腕をほどき、若島津へ近づいた。昂奮で背中が氷のように冷たかった。
 このまま殺してしまったら、彼の欲望は満たされるだろうか。そう思うと、それさえも誘惑になった。
 彼は、うつぶせた若島津のうなじに唇を埋めた。そこに両てのひらを回して絞めつけたい衝動を押さえるのに苦心する。
 若島津の身体が彼の下で微かにこわばった。
 若島津の欲望に触れていた片手を日向はつかみ取った。
息を詰めて眉根を寄せる彼を背中から抱き込んで、日向は彼のその指に舌をはわせた。
「……!」
 若島津が冷水を浴びせられたように目を開いた。
「ちょっと―――……やめて下さい」
「うるせえな」
 日向は若島津をあおむかせると、唇を塞いだ。嫌悪に駆られたように顔を背けるのに笑って見せると、そうしながらジーンズを引き下ろした。
 若島津が自分で高めた部分が手に触れた。軽くなぞる。
若島津の表情が甘くゆるんだ。
 まだ潤んで乾かない目をしばたたいて、若島津は日向の手に任せた。
 もう苦しい所まで高まった部分に、日向は、しかしそれ以上は手を触れなかった。ジーンズを足から抜き取り、剥き出した下肢をひらかせて、彼は自分の腰を割り込ませた。
 ベルトをはずす音に若島津は日向を見上げた。熱く浅い息が唇を抜けている。日向のために乱れた息だ。彼は、日向に主導権をゆだねている。
 そして、又残酷な衝動が襲ってくる。
 日向は自分の唾液を絡めた指を若島津に含ませた。若島津のからだがこわばる。痛みがあるのだろう。性急であることは判っていた。若島津が自分に任せているということをそしてまた確認して、彼は安心するのだった。
 彼に取って特別であることを確かめなければいられない小心な自分を見いだした。
 それに対して特別な嫌悪はなかった。
 ただ若島津を手に入れられればいいと思った。
 若島津は低くうめいた。日向が動き始めると、喉で押し殺し切れずに叫びになった。
 まだランニングに包まれたままの若島津の胸をたくし上げてはだけ、日向は舌をはわせた。
 あたたかい首筋に顔を埋める。
 若島津の鼓動が、彼が動く度に早まって行った。自分と若島津のどちらが欠けてもあり得なかった形だ。
「―――お前。……」
 日向は彼の中に深く重なり合って、身じろぎして逃れようとする若島津を抱き込んだ。
「みんなの見てる前で犯してやりてえよ。……」
「……え……?」
 若島津は朦朧とした声で、日向が何を言っているか判らないように彼を見返した。
「道端とか―――フィールドとか。……」
「馬鹿か、あんた。……」
 若島津の顔に血の気がさした。その顔を背ける。
「俺以外に触らせたくない。……」
「……」
 若島津は唇を噛んだ。日向に引きずり出される、彼も慣れないだろう感覚に耐えた。
「俺だって、あんたを手に入れたい。……」
 若島津は吐息と一緒に漏らした。
「手に入らないなら、いらないくらい。……」
 日向は答えずに、首筋にきつく歯を立てた。女が跡を残したのと同じ場所だった。
 それ以上の会話はなかった。

 雨の音を微かに聞いた。
 日向の執着のように背中を叩き続けた。
 忘れようとしても忘れられない、衝動と欲望のリズムを刻んだ。
 途中でそれは若島津の呼吸と、自分の呼吸とにのみ込まれた。
 それでもどこか深くで鳴り続けている。
 お互いを殺しでもしなければ、決して止まらないリズムなのだった。

                       了

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