山中には闇が忍び込み、頼りなげな陽がかすかに山の端に見え隠れした。
走りながら子供は泣き出した。
いつもなら云いつけを守らなかったことを、母親に叱られるのが怖かった。けれど、今日の闇はなめらかに深く暗く、いつもの夕暮れとは全く違うもののようだった。
隣村で娘が殺されたのだと、子供が寝入ったと思った両親が、夜、炉に新しく火を起こしながら、声をひそめて話していたのだ。
―――腰布一枚なしに……。
―――どこかの男かと思ったに、身体中の血を……、
―――魔物の仕業としか―――……。
両親の話していたことの半分ちかくは幼い子供には解らなかったけれど、村で評判の身持ちの悪い娘が、村の干し草納屋で身体中の血を抜き取られて死んでいたのだという話だった。子供には、身持ちが悪いということが、どういうことなのかまだ判らなかった。けれど、夕方になって帰ってこなくとも、村人が慌てて探しに出るような娘ではなかったのが、娘のむくろが見つかるのを遅らせたということが判った。
その夜はこの秋一番の寒さで、畑にも屋根にも冷え冷えと霜がおりた。
春に差した若い苗木に布をかぶせてやろうと、夜半過ぎに家を出た若者が、納屋の近くを通ったとき魔物を見たのだった。
納屋の戸が開いて、背の高い男が出てきた。背中が妙なかたちに盛り上がっている。自分と同じように苗にかぶせてやろうと干し草を取りに来た村の男かと、若者は目を凝らした。背中の盛り上がりは、頂度、村でつくる一番大きな麻袋に、何かものをいっぱいに詰め込んで背にかついだほどの大きさがあった。
若者はぎょっとして立ちすくんだ。
男の背の盛り上がりは袋ではなかった。白くこおる月の光に照らされた男の背中には、コウモリの羽のような固い節のついた、巨きな黒い羽根がついていたのだ。
見間違いか、と目をこすると、羽根の片方がぴくりと持ち上がり、その化け物じみて背の高い男は、若者を見た。
腰を越えるほどの長い黒い髪と、人一人の丈ほどの長く巨きな大きな黒い羽根は、人のものではなかった。
叫び声も上げられず若者は後ろを向いて逃げ出した。
追ってこないかとうしろを振り向いたときには、羽根のある丈の高い男の姿はなく、魔物は彼を追ってこなかった。
その干し草納屋から、明くる日の昼、死んだ娘が見つかったのだ。
娘は裸で、男と交わった後らしかった。白い首筋に小さな穴が開いて血がにじんでいた。娘のからだは蝋けつのように白く、刃物で傷つけても一しずくの血も出なかった。
身体中から血が抜き取られていたのだ。
畑仕事から帰ってきた父親がその話を母親にすっかり話して聞かせて、それを盗み聞いてから、二、三日、子供は陽がかげってからは、決して外に出ようとしなかった。
幾日かたって村人たちはそろそろとその話をしなくなった。話を聞いたばかりの頃は、刃物のような黒い翼をもった長い髪の男の姿は子供の夢に押し入って眠りと闇を苦しいものにしたけれど、それでも幼い子供の胸には、話に聞いただけの魔物は、長いこととどまりはしなかった。
娘が死んで七日ほどたった。
昼、まだ日の高いうち、子供は他の子供と取り替えるための木の実を探しに、『蛇山』に入った。
『蛇山』は、蛇の神が住むといわれて、母親たちが決して入ってはならないと子供たちに教える、険しい美しい山だ。
ほかの遠い山にくらべてずっと木の実も草も多いのに、村人が入らない訳のもうひとつは、その云いつたえともう一つ、この山の険しさと、毒虫や毒草の多さだ。
子供を危ないところに入らせまいとするなら怖がらせておくのが一番いい。
それでも子供は『蛇山』に入った。翼のある魔物のことをちらとは考えたが、魔物が出たのは隣村だ。自分たちの村の裏にある『蛇山』に、その魔物が出るはずはないと思ったのだ。
子供は、たずさえてきた小さな袋を、村の外れのまばらな林では見たこともないような、大きい、つやのある木の実で一杯にした。秋とはいえ、昼の日差しはまだしんと静かな
『蛇山』にも暖かく、つい夢中になって奥に入りすぎた。
日が斜めに傾いたのに気づいて帰ろうとしたとき、道に迷ったのに気づいたのだった。
いっとき近く歩き回ったけれど道はひらけなかった。太陽は回り込んで、木の葉がくれにはもう、金色の筋のようにしか見えなくなった。下ったつもりがいつの間に上り坂になったりした。脇道を探して下ればゆき止まり、引き返すとさっき辿った昇り道さえ判らなくなった。
涙がにじんで、暗くなりかけた道は、大きく覆いかぶさってくるようだ。いまにも血をすする魔物が牙を剥いて走り出して来そうだった。
走り出して道を下ると、そこはまた行き止まりだった。
足が痛くなってきて、子供はどうしようもなく、立ちすくんだ。擦りむけたかかとの痛みに、立って自分の重みを支えるのも耐えられなくなった。子供は座り込んだ。涙があふれてきた。
汗ばんだ首筋に夕刻の風がひやりとしみた。
「―――どうした」
座り込んだ子供は、後ろからかけられた声に、飛び上がりそうになった。
低くもの憂い、若い男の声だ。
「こんな遅くにここに入る者は誰も居ないぞ」
振り向いた子供は悲鳴を上げそうになって、それをやっと噛み殺した。
背の高い―――高い男だった。髪が長い。波打って膝近くまであった。それを縛りもせずに背中に、胸に長く伸ばしていた。西から差すわずかな光に濡れたように光る髪は黒い。
子供は男の背中を見た。
黒い衣に包まれていたが、男の背中はなだらかな線を描いているだけで、羽根も生えていなければ、羽根のようなものを隠している様子でもなかった。
ほっと息をついて男を見上げる。つめたそうな真っ白な肌の男の顔が、少し憂鬱そうではあったけれど、石を彫り上げたようにととのって美しいことに子供は気づいた。
男は黒く沈んだ瞳で子供を静かに見下ろしていたが、子供に長い腕をさしのべた。
「怪我をしたのか―――?」
子供は首を振った。
「道に迷ったのか」
子供を立たせてやると、男は、子供の涙を拭ってやり、乱れた上着を直してやった。長い白い指は、初め冷たそうに見えたが、ほのかに暖かく、魔物のようではなかった。
子供はようやく安心した。
「おいで、ふもとまで連れていってやろう」
男は先に立って二、三歩歩いたが、子供の歩幅が自分に到底追いつかないことに気づくと、足をゆるめて子供の手を取ってやった。
若い男は、年からいうと子供の若い父とそれほど変わらないように思えた。二十歳をいくらも越さないうちに母親と結婚した父は、まだ三十にならなかった。しかし、屈強な、村でも一、二を争う長身の父より、女のように整った顔のその男の方が、頭ひとつは背が高いように思えた。
「―――おじちゃんはこの山に住んでるの?」
「……そうだ」
「この山には蛇神様が住んでるんじゃなかったの?」
子供が聞き返すと、男は困ったようにかすかに険しい、細い眉を寄せて、逆に聞き返した。
「御前の母親はこの山に昇ってはいけないと云わなかったのか?」
「母ちゃんに云うの?」
もう一つの心配ごとを思い出して、にわかに慌てた風に云う子供に、男はゆっくり首を振った。
「私は村までは降りてゆかない」
「おじちゃんは山のどこに住んでるの」
男は少し思案げに黙った。
「私は山の一番奥にいるのさ―――」
男は子供から少し目を背けるようにした。暗いなかでも男のまつげが黒く長いのが判った。
「いつもはこんなにふもと近くまで降りてはこないから、今日御前と会ったのは運が良かった」
「ひとりで住んでるの? どうして村に降りないの?」
矢継ぎ早に聞く子供に、男は初めてちらりと笑みを見せた。
「私はあまり―――あまり人に会うのが好きでないからだよ。……疲れてしまうから」
「ふうん……」
子供は解ったような解らないような顔でうなずいた。
「蛇神様に会ったことがある?」
そう聞くと、男は少し黙って首を振った。
「―――神様などいない。少なくともこの山にはな」
男の顔はうっすりと冷たくなり、子供はそれ以上蛇神について、若い男に尋ねることはできなかった。
不思議と、その若い男に手を引かれていると、足の痛みは気にならなかった。男の指に花を模した、高価そうな銀色の指輪がはまっていることに気づく。この男はとても身分が高いのかもしれないと子供は思った。もしかすると王族かもしれない。母親が、子供を寝かしつけるとき、枕元でしてくれた物語のいくつかが頭をよぎった。
悪い魔物に追い出された身分の高い―――いや、本当の王様かもしれない。
だとしたら背が高いのも、こんなに美しいのに黒づくめの喪服のような衣を着て、『蛇山』にひとりで住んでいてもおかしくない。
子供の胸は何か秘密を垣間見たようにかすかに高鳴った。
母親の指も父親の指も畑仕事に荒れてがさがさしていたから、この若い男の指のように、大人の指がこんなになめらかで白いのを、子供は初めて見た。ほの白い長い爪も、磨かれたようになめらかに光っていた。
男はするすると道を少し登り、細い道を一つ抜けて、平らな下り道に出た。細い流れを渡る。流れを渡るとき、男は子供を軽々と抱き上げた。
六つになる子供が本当は決して軽いわけではなかったが、男の腕は驚くほど力が強かった。
男はこの山のことをよく知っているようだった。
四半時も行かないうちに、高い樹々の向こうに、村の明りが見えてきた。
それまで、どこか、男が突然人でない貌に変わって襲いかかってくるような恐怖を感じていた子供は、安堵で一杯になって、男の手を強く握りしめた。
「おじちゃんありがとう。もう少しでマモノに食べられちゃうかと思った」
子供が慣れぬげに云った魔物、という言葉に、男はひっかかったようだった。
「魔物―――? 蛇神のことか?」
「ううん。神様じゃないよ。だって神様はあんなことしないだろう? 血を吸うんだよ。背が高くて羽根があるんだ。それに髪が長いんだって」
子供は男をちらりと見上げた。
「血を吸う?」
男の目が不思議な色にゆらめいた。
「そう。だからおじちゃんの髪が長いから、ほんとは少し怖かったんだ」
「誰か血を吸われた者が居るのか?」
「うん」
子供はうなずいた。
「隣村の人だってさ。女の人だよ。背が高い、黒い長い髪の黒い羽根のある男の人が殺したんだって」
「……」
「だから母ちゃんが、髪の長い男の人は魔物だって」
男はそれには何も云わなかった。少し難しい顔になった。
また頬にくらい陰が差した。子供はそれをみて、男が気を悪くしたのかと思って後悔した。しかし男は何も云わず、顔からはすぐに厳しい色は消え去った。
更に道を下ると、道は二つに分かれ、突然ひらけて広い草地になった。その草地は、村からほんの少し入った入り口で、そこからは子供の知っている道だった。
子供は感謝を込めて男の手を握りしめ、無防備な子供らしい信頼を込めてその顔を見上げた。
「ありがとう―――。おじちゃんもマモノに気をつけてね」
子供は声をひそめた。
「父ちゃんが云ってたけど、マモノは女の人しか殺さないものなんだって。おじちゃんも髪が長いから女の人に間違えられちゃうよ」
男はさっきの、かすかなものよりはっきりと微笑した。
微笑した男の顔は驚くほど美しくなった。人というより、魔物にむしろ近かった。
「そうか―――気をつけよう……」
そう云って子供の手を離し、ゆっくりと身を引くようにした。
そのとき、男の銀の指輪の細工の花びらに、子供の髪が絡んで引っ掛かった。それを取ろうと男が腕を伸ばした拍子に、男の手首をぴっちりと包んでいた黒い布がほんのわずかにめくれた。
子供は息を呑んだ。
子供の目の前にかざされた男の大きな手の甲には、銀色のきらきら光る鱗がびっしりと生えていたのだ。
子供は男から飛びすさって、目を張り裂けそうに見開いた。子供の柔らかな髪が数本抜けて、男の指輪に残った。
男が何か云おうとするように手をさしのべた。
この男が自分を助けてくれたとか、その手がほのかに温かかったことだとか、そんなことは、恐怖にけしとんでしまった。
考えるより先に身体が動いた。
さしのべられた手を振り払った途端、子供の口から、自分で出そうとも思わない内に、悲鳴がほとばしった。
悲鳴は止まらず、大きな泣き声になった。
夕刻からずっと張り詰めていた魔物への恐怖が、一度に吹き出してきた。
子供は泣きながら、背の高い男の前から逃げだした。
あたりはもうとっぷりと暗くなり、男の姿はほとんど闇にとけこんだように黒く陰った。
男は一時、泣きながら走って行く子供の後ろ姿を見送った。そしてゆっくりとふりはらわれた腕を降ろし、めくれた袖口を引き下ろした。もう片方の手でそこを軽くさするようにして、男は、元来た道を引き返した。
ぬりこめたような暗闇であったが、足取りは来たときと変わらず、ゆるゆるとなめらかだった。
暗がりのなかでも頬は石のように白く冷たかった。男の顔は静かだ。寂しいとも悔しいとも。心の内を覗かせるような色はその暗い瞳に差しこまなかった。
やがて闇はなお濃くなり、木々にかくれて、道もないような道に足取りはまぎれた。
黒い衣の黒髪の男は山中の厚い影の群れに溶け込むように、道を登って蛇神の棲家に戻って行った。
山狩りがあるかと思ったが、丸一日たっても山はいつも通りしんと静かなままだった。
迷い込んでくる子供も居なかった。昨日の子供は、鱗のある腕の男のことを、村人に話さなかったのだろうか。
もう長いこと人と話すようなことはなかったから、自分たちが蛇神と呼ばれていたのも忘れていたほどだった。
彼は若く見えたが、本当は、昨日迷い込んできた子供の曾祖父ほどの年になっている。それでも母を持ち、この世に産みの苦しみとともに生まれてきた生き物ではあった。
母のつけた名は若島津と云った。
もっとも今は呼ぶものがないから、名があってもそれほど意味はない。
『神』だとか『魔物』だとか、短命な人間が自分たちを呼ぶのも解る気がする。それでもよい。魔物と信じて、この山に人が入ってこないことが、却って彼には有難かった。
もっとも、魔物という言葉はあながち間違いでもない。
彼は、この地方に住む、人間より一世代古い一族の子で、まだ『族』と云えるほどその数が多かったときは、己をもって『魔族』と自称した生き物たちの末裔だったからだ。
蛇神と云うとおり、蛇とは性質が似通っており、三年に一度の割合で、冬の間、地中に作った室の中で眠る。その眠りは深く、ひとつきに一度くらいしか目を覚まさない。その間は食事はほとんど取らなかった。
子供は銀色を帯びた白い卵から生まれる。長命で、大抵三百年以上生きた。傷も直りやすく、体躯は細身のものが多かったが、背が高く力も強かった。手の甲から二の腕まで腕の外側を銀色の鱗が覆う。それで、彼らの姿を見た昔の人たちは、畏怖を込めて彼らを蛇神様と呼んだのだった。
彼が生まれたとき、一族のものは三十人近くいた。しかしその大半は数百年生きて老いており、女が生まれにくく、子をはらみにくい一族の体質が、どんどん増えて繁栄する人間から隠れ住むために、よけい一族の数を減らしやすいことになった。
彼が三十年も生きないうちに、彼の母はなくなり、老人たちも、次々に過ごしにくい山中で息を引きとって、一族のものは七人に減ってしまった。
それから二十年のうちに五人が高熱の病でなくなり、そして、最後の一人の女が一昨年死んだ。
女は百二十歳にしかなっていなかった。彼よりほんの十歳しか年長でなく、まだ若かった。背が高く、狩りの腕にたけていたが、おそらく見た目より丈夫な女ではなかったのだ。
浅乃というその女と、彼の間には子供ができなかった。
血がうまく合わなかったらしい。
最後の五年ほどは浅野は伏せりがちで―――ついに冬眠しなかった。
温めた部屋で薄く目を開いたまま過ごした。浅乃が冬眠しない間は、若島津も眠らなかった。彼は若く強健で、病身の浅乃と違ってそれはたいした苦にはならなかった。
―――若島津、あんたの子供を生んであげられなくてごめんね。……
浅乃は最後の年には、もうほとんど目も見えなかった。
若島津の頬に触れながら一筋涙をこぼした。
―――本当は、別の土地を探して出ていったほうがいい。
そうすれば、一族の女が見つかるかもしれないもの。
―――浅乃。
―――あんたに子供を残してあげたかったわ。あんたはこんなに美しいのに、あんたの血が絶えてしまうなんてくやしい。
浅乃は若島津の髪を撫でた。
―――もう一度あんたの顔が見たい。……若島津、あんたはいつも一番綺麗だったわね―――いつも……。
―――浅乃……浅乃。
浅乃の手を握りしめると、浅乃は少し笑って、それから数時して息をひきとった。
若島津は、浅乃の死骸を抱きしめて数十年ぶりに泣いた。
そして一族の墓を作った草地に新しい墓を作った。彼の墓を作るものは誰もないだろうと思いながら、戯れに自分の名を刻んだ墓標を作った。浅乃の墓の横にそれを立てて、彼は少し満足した。
ばかげたことにも思えたが、それは彼を慰めた。彼の寿命は、妙な病さえ患わなければ、少なくともあと百年以上あるのだ。こうしておけば、浅乃の墓と一緒に墓標は古びて行くだろう。
自分の墓標が一番新しい物になると思うと寂しかったからだ。それに自分の名を刻む人がいないのも知っていた。
一族の女を探しに行く気にもなれなかった。それは彼の先達たちが散々試したことだ。長い年月のなかで彼らは一度とて近しい魔族の存在を見つけたことがなかったのだ。
それから二年たつ。
二年の間全く下に降りる事はなかったから、人と言葉を交わすのは二年ぶりだった。
彼らの感情表現は独特で、あまり解りやすいかたちで外に表われない。押さえて隠しているのではなく、もともと感情の動きが少ないうえ、表に出にくいのだった。
けれど誰かと言葉を交わすのは久し振りで嬉しかった。人間はさほど好きでなかったが、それでも幼い子供の手を取ったとき、ほんの少しあたたかな気持になった。
鱗を見た子供に拒まれたときは、さほど驚かなかった。それほどは大きく気持が揺るがないのだ。けれど心のそこに、針でつついたほどの穴が空いて、そこからかすかなわびしさが忍び込んできたような気がしていた。
狩りに行くのがどことなく面倒で、香花から作った酒を呑んで、一日それで済ませた。本当なら子供が迷い込んできた日、狩りをして数日分の食料を得ようと、山を半ば下ったのだ。
特に花酒ではほとんど酔えもしなかったけれど、ほの甘い花酒は身体をかすかにあたため、空腹感はなくなった。
寝台でとろとろと眠って半日過ごした。
夕刻、山のうえの空が一面血のような朱に染まった頃、彼はようやく起き出した。
身体がだるくあたたかい。
壁にもたれ、寝台のうえに片膝を立ててぼんやりと髪をすいた。狩りに行ったほうがいい。当分、ふもとに食料を求めに行くことはできないだろう。もとよりそんなことはほとんどしなかったけれど。
ぼんやりと考え込んでいた時だった。
彼の石造りの室の外で、何か大きなものを打ちつけるような大きな音がした。
木立ちからいっせいに鳥の飛びたったようだった。木立ちが揺れ、枝葉のざわめきのなかを鳥たちの鋭い泣き声が満たした。
山狩りかもしれない。
そう思って、さして慌てるでもなく彼は立ち上がった。魔族と自称するくらいであるから、多少のごまかしはきくのだ。まずいことになったら、さっさと闇に紛れて抜け出してしまえばいい。
彼は扉をゆっくりと押し開けて外へ出た。
鳥たちはまだ木立の闇のなかで騒いでいる。その様子がどうもおかしいことに若島津は気づいた。驚かされて飛び立ったというよりは、集まってきているようである。
そのうち何羽かが室のうえを、低く輪を描いて飛び続けている。
妙な感じがして若島津は目を細めた。こんなふうに闇のなかで鳥が飛ぶのを初めて見た。
「―――誰かいるのか」
低く呼ばわると、扉の近くに黒い影がかすかに動いた。
それは―――夜目の利く若島津でさえ、その黒いものが何なのか、すぐには判らなかった。
何か大きい黒いものだ。
―――羽根の生えたマモノが……。
―――女の人を殺しちゃったんだって。
子供の怯えた声がよみがえってきた。彼の石室の前にうずくまった黒い姿は、確かに、黒い衣の、ずば抜けて背の高い男の姿だった。男の背からは大きな、節のある黒い尖ったものが突き出していた。
翼のある男だ。
身体が弱っているようだ。
彼は黙ってその男を見下ろした。
男は、身の丈ほどもある黒い羽根をたたみ、膝に顔を埋めてうずくまっていた。己の膝でようやく身体を支えながら、ぴくりとも動かない。男の背から、長い黒い髪が流れ落ちている。
確かに子供の云っていた魔物の姿だ。
それではこの男がふもとの村のとなり村の娘を襲って血をすすった『魔物』なのだろうか。
「っ……」
怪我をしているのか、きしむような動きで男は頭を上げ、扉を背にして立った若島津を見た。
室のなかから漏れた燈りが男の顔を照らした。
男は浅黒く日に焼けてはいたが、ずっと北方の血を引くようで、冷たく通った高い鼻筋と、切れ上った恐ろしく光の強い黒い目を持っていた。明らかにここらへんの顔立ちではない。革を裂いて造ったようにしなやかでまっすぐな黒い髪が男の背中を覆っていた。男の髪が、若島津と同じようにおそらく、呪術的な意味で伸ばされたものだろうと、彼は見当をつけた。
若々しいが、威嚇的に男の匂いを放つ顔立ちだ。今はやや憔悴して見えた。顔が埃に汚れている。熱があるように唇が乾いて割れていた。
男は、若島津を見上げると、腕をかすかに上げた。指には、刃物のようにとがった長い爪が生えている。
「水をくれ―――」
「水場は近くだ。羽根があるなら造作もなかろう」
「……」
男は片膝を崩してもう片方の膝を立て、そのうえに額を伏せた。畳んだ羽根で隠れていても一目で分かる、筋の盛り上がった靭い背中が、ゆっくりと上下した。
「……頼む。おれは怪我をしている―――」
若島津はゆっくり腕を組んで、扉にもたれかかり、男を見下ろした。
「お前は女の血の他にも口にするのか?」
男は、力なく伏せていた目をカッと開いて若島津をねめつけた。額のつけねから伸びた長い髪の奥から、すさまじい視線を送ってきた。
「あれは、おれではない。―――女の血だと?」
男は吐き捨てた。
「そんな生臭いものを誰が……!」
若島津は腕をほどき、男のかたわらにかがみ込んだ。男の耳元に口を近づける。
「村では髪の長い男は魔物だと云って騒ぎでな。おれはしばらくは打ち物ひとつ求めにおりてゆけぬのよ。……」
そばにかがんでみると、男のからだが自分より大きいことに気づいた。しかし弱った男より自分が劣るとは思わなかった。
「いつも汲む水でなくとも、よそから飛んできて使い勝手のいい水場にされたのでは、ふもとに降る雨で暮らす山の住民も乾いて落ちる」
若島津は男のおとがいに己の長い指をやんわりと添えた。
「お前でないなら娘の血を汲んだのは誰だ―――」
男のかぎづめのついた指が不意に若島津の手を取ってぐいと握りしめた。
「くどい……っ、おれではないっ―――」
男の首がふらりと揺れた。若島津の手を握りしめたてのひらは炎のように熱かった。
若島津は、不思議な歓喜のなかで、自分の手首にかかった鉄のような力を味わった。仕掛けでしめつけたようなその力は、人のものではなかった。男は腕に傷を作っているようで、濃い血のかおりがした。魔族の匂いがした。
銀の鱗を男は持たず、彼は羽根を持たなかったが、彼らは明らかに同族だった。
同じ古い血を引くものの匂いを確かに感じ取って、若島津は警戒をゆるめた。
ふらつく男の身体を支えてやると、男は息を大きく吐いて、若島津にもたれかかった。
若島津は男の大きな身体をかつぎあげた。男は彼より更に背が高かった。村人たちが見たら魔物にしか見えなくて当たり前だった。
石室に運びいれて羽根を気づかって寝台に寝かせ、水を唇にあてがってやると、男はむさぼるように飲んだ。
石の器を三度空にして、ようやく安堵した吐息をつく。
「御前は蛇神なのだろう?」
「御前は?」
傷を見ようと男の衣をはがしてやりながら、若島津は尋ね返した。
「おれは神扱いされたことなどない。おれの土地では片腕の幅より大きな鳥は疫病神さ。穂のある草の穫り出で暮らす土地だったからな」
男は身体を起こした。見た目よりは弱っていないようだった。自分で衣を脱いだ。
若島津はさすがに驚いて言葉を失った。男の右腕はほとんどちぎれかけて血はもうどす黒く固まっていた。
「……どうした、これは」
「向こうの村の男にやられたのよ。殺された女の父親にな。
どうやって見つけたのだか、眠っているところを三叉でひとつき―――さすがにもう駄目かと思ったが」
男は傷口に顔を伏せ、傷口の上を嘗めた。眉を寄せる。
「おれは夜にさほど動き回れる目でないのでな」
傷口の無残さに若島津は目を背けた。
「その腕はもう駄目だ」
「いや」
男は首を振った。
「三日あればつながる。まったく動かさなければ二日だ」
「その傷でつくのか 」
「御前ならどうだ」
さっき若島津がそうしたように男は逆に聞き返してきた。
「御前の腕はこのくらいの傷でちぎれるか?」
「解らない―――ちぎれるような傷を作ったことは一度もない―――しかし」
若島津は傷口に巻いてやるための清潔な布を探して立ち上がった。
「おれの父は、落石に首をつぶされて、それでも半日生きていたらしい」
彼はそう云いながら、器に新しい水を満たして戻ってきた。傷の汚れをようよう浄めてやる。
新しい肉の切口は無残に乾き、どう見てもつながるようには見えなかった。
「薬草は要るか?」
「御前たちに効くものならば。あったほうが有難い」
男は傷口に布や指が触れるのを深い息を吐きながら、声もたてずに耐えていたが、すりつぶした薬草を若島津の指が傷に塗り付けると、さすがに低くうめいた。
「有難い―――その布をくれ」
男は歯を食いしばって、千切れかけた腕を掴み、肩の傷に強く押しつけた。眉根に酷い苦痛が走る。彼はそのうえから長く裂いた布を、血が通わないのではないかと思うほどきつく巻きつけた。
「……っ……」
更に布の端をきつく結びつけると、男は肩を落として引きつれた息を吐いた。
「腹は減っていないか」
「食える具合でなさそうだ」
男は笑った。笑うと意外になつこそうな顔になるのを見て若島津は驚いた。そしてその笑顔の心地よさにまたかすかに驚きの気持が動いた。
「なら少し眠れ―――」
「これは御前の寝台だろう」
「おれは夜は眠らない」
若島津は血にまみれた布を洗い、男の顔を拭ってやった。
男は傷ついていない左肩を下にしてそろそろと横になった。
「おれたちはどうやら同じような生き物らしいな―――」
「そうだろう―――だが」
若島津はかたわらに腰掛けて、男を見下ろした。唇の片端がわずかに吊り上がる。若島津は挑むようにささやいた。
「御前と違って、おれはきっと、女の生き血を生臭いとは思わないな」
何と続けたものか少し考える。
「自分と形の似たものを殺すのが、嫌なのでなければ����」
「―――フ、ン」
男は歯を見せて笑った。
「生肉も喰らうかよ」
「生肉も焼いた肉も、おれにはそれほど変わりはない」
肩をすくめてみせると、傷ついた男は、長い髪の奥から閉口したような溜息をついた。
「もしおれに肉を食わせてくれるなら、後生だから焼いて食わせてくれ。おれは生肉は食えない」
若島津は立ち上がった。楽な眠りをうながすために明りを消してやる。闇のなかで不意に、己自身も思いもかけず笑みがこぼれた。
「―――承った」
笑いながらそう答える。男は笑い返し、いくらもしないうちに深い寝息をたて始めた。
聞きたいことは何も聞いていなかったが、この怪我で死なないことも、ましてや笑いながら言葉を交わせるだけでも、男の力が並外れているのだ。それももう泉が尽きかけた頃だろう。
狩りに出よう。明日の朝、男に食べさせるものを獲ってこなければならない。
戸口に近づいて、若島津は、あれほど騒いでいた鳥たちが静まり返っていることに気づいた。あの、石室の上を飛んでいた鳥たちは、ならばこの男を気遣ってのことか。
彼も、蛇とは相性が悪くはない。どんなに気の荒い毒蛇も若島津にはなつき、彼の手から餌を取る。
若島津は耳を澄ませた。
山はいつもの眠りに入っている。彼の狩りの時間だった。
鳥をなるべく避けて、薬草と柔らかい小動物を獲ってこよう。
彼は磨いた銀色の小刀を取り出して、自分のためにでなく狩りに出ることのどれほど久し振りかを数えてみた。
そして音もなく、するすると夜闇のなかに出ていった。
男は夜半、高い熱を出して、数時苦しんだ。それでも明け方の幾時かを越すと、息遣いはまた安らかに深まり、静かな眠りの底に沈んだ。
若島津は男の汗を、冷たい水で絞った布で拭ってやりながら、一晩男のそばに居た。一時ほど狩りに出て、血の匂いのする手を洗い、男のかたわらに不思議な気持で座った。
浅乃が伏せっていたとき、浅乃の枕元に座ったことを思い出した。
男は羽根を少し苦しそうに畳み、さすがに力なく腕を投げ出している。男が上向けた方の肩は燃えるように熱かった。
しかし、その下に続く腕も同じように燃えていることに気づいて、若島津は内心舌を巻いた。
血が通っているのだ。骨も砕け、ほんの少しの筋と皮膚でつながっていただけの腕だったのに。さっき触ったときは氷のように冷たく、ただの肉の塊同様だったのだ。
この分なら男の云ったとおり、二日もすればつながるかもしれない。
夜目も昼とほとんど変わらずにものを見ることのできる彼は、男の背中のなめらかな黒い翼を見つめた。
翼は大きな節に二つ、三つに分けられていて、広げると扇を半分に割ったような形になるらしかった。コウモリの羽根に形は似ている。
圧巻であることにはそれは爪ほどの長さの、光沢のある微毛にびっしりと覆われ、なめしたように黒々と光っている。
髪を伸ばしているのは、おそらく彼同様、目や身の他の感覚を鋭く磨き上げるために違いなかった。
彼の一族のものも大抵髪を長く伸ばしていた。彼らにとって髪は、長ければ長いほど、見えないもの、聞こえないもの、遠いもの、隠されたものを鋭く拾いだして、鮮やかに届けてくる。
長い髪がもたらす感覚の豊かさは、人間たちには魔力そのものにうつっただろう。
まだ人間たちと交わることのあったずっと昔に、彼らとうまく共存されないことの一つにこの力があった。人間は己よりも数の少ないものたちが力勝っていることに臆病だ。
もともと心を開かない気質の、好戦的でない彼らは険しく毒草の多い山に引きこもった。人間たちは、鱗をもつ背の高い一族が自分たちの近くに、本当に住んでいたことを忘れて、母親たちの昔語りのなかにだけ、その影は蛇神として残った。
一族のものたちの数は年を追うにつれて少なくなり、ついには彼一人になった。
おそらく彼らは種としての力が弱かったのだ。だからこんな風に人間たちよりも鋭い感覚、大きな身体、強い腕の力、長い一生を持って生まれてきた。
その、人から見たら生き物として卓越した力をもってしても、血が滅びて行くのをどうすることもできなかった。
この男の種族はどうしたのだろう。
若島津はふと我に返って男を見つめた。この男も最後の生き残りだろうか。
事によると男の種族の女が生き残っているようなことがあるかもしれない。
こんなふうに生命力の強い種族の女なら、浅乃が云っていたように彼の子供を産むことができるのではないか。
若島津は苦笑した。
自分の種族同士でも合わなかった血が他種族の女と合うとは思えない。この男の方でも、他種族の男に女を渡す筈はないだろう。
それに浅乃が死んでまだ二年だ。
あと数年喪に服してから考えても充分だ。それまでに熱病で死ぬか、落石にでもつぶされるようなことがなければ。あと八十年以上は子を作るだけの若さはある。
(どのみち女が居なければどうしようもない)
少なくとも彼の前で眠っているのは女ではない。
ここしばらくは血を残すことなど考えなかったが、それでもこんな風に同じような血を持つものに会えば、そんなことに自然と考えが向く。自分の生きようとする力は思ったよりも強かったのだ。
若島津は朝まで男のそばにいた。日が、東の空から南へ登り始めた頃、彼は室の奥の部屋に入り、石床の上に横たわって眠った。
彼はいつも日の高いうちはゆっくりと長い時間をかけてまどろむ。さほど深い眠りではない。冬、長く篭って眠るかわり、彼の普段の眠りはむしろ浅く、ほんの少しの物音でも目覚める。こと、浅乃が死んで一人になってから深い眠りを眠ることは少なくなっていた。
普通であれば、だから人が家の近くに寄ってくるだけでも目を覚ますことができると思う。彼の長い髪はそういった役割も果たしている。
その日の眠りは不思議と温かく深かった。石の床のうえで眠ったのに、柔らかく湿ったものにくるまれるような深い眠りだった。
若島津は、頬に触れる熱いてのひらに驚かされて、突然深い厚い眠りの淵から引き戻された。動揺して飛び起きる。
「……!」
何か異様なものにおびやかされたようになって、彼は目を見開いた。眠りがひどく深く、珍しいことに一度も目を覚まさなかったせいで、窓の外の光が暗くなり始めていることに彼は戸惑った。
男が自分の前にかがみ込んで、自分の顔を覗き込んでいることに気づく。
彼の頬に触れたのは男のてのひらだった。
「何だ―――」
不機嫌な声を出すと、男は安堵したように笑った。固く閉じられた背中の羽根がかすかに動いた。
「息をしていないから―――こんなところに転がって……死んでいるのかと思った」
「息はしている」
苦笑して起き上がる。若島津は静かに気配を静めるようにして眠る。息は静かに遅くなり、肌は冷たくなる。死んでいるように見えても不思議ではなかった。男がそれを知らないなら、男と自分たちの種は、まったく同じ性をもったものという訳ではなさそうだった。
「もう動き回っていいのか。傷は」
「それほど痛まない」
かがみ込んでいた男は重そうに身体を起こした。さっき若島津の頬に触れた手のひらは、怪我をしたほうではなかったが、まだ燃えるように熱かった。
「まだ動くな。傷に障るぞ」
男はうなずいた。そうして、彼に薄く笑いかけ、傷ついた右腕をかすかに上げて見せた。
「もうすぐつながる」
若島津はうなずいた。
若島津は、男が寝床に戻るために身体を支えてやった。
「御前だけなのか―――?」
男は、彼の問いの意味がすぐには解らないように顔を振り向けた。
「御前だけしかいないのか?」
「おれの、エナのことか」
男は聞き返した。今度は若島津が意味を解らぬげにするのに気づいたようだった。
「そうか……エナ―――というのは、おれ達だけのする云い方なのだな。……ヒトではない、翼を持った同じかたちのものを、おれ達はエナと呼ぶのさ」
「エナ……」
若島津は味わうように口のなかでつぶやいた。
「エナか。―――おれ達はただ一族と云っていた」
「母親の腹のなかで子を包む袋をえなと云うだろう」
男の鋭い黒い瞳が僅かに暗く曇った。
「おれたちと同じ血を引くものは、おそらくもう、おれ一人だ」
男はかみしめるように云った。
「……」
若島津は、男の上体をゆっくりかしがせて寝台に横たわれるようにした。男のからだははりつめて重く熱く、久しく血の近いものに触れなかった若島津に、不思議な感慨を呼び起こした。
「三月前、おれの祖父を送った。―――他はみんなその前に死んだ。おれが本当の最後のひとりだったらしい」
この男もか。若島津はそれほど驚きもせず思った。自分たちで思うように増えて、満ちてゆくことのできない生き物は滅んでゆくしかないのだろう。
男は若島津の顔を見つめて深い息を吐いた。
「どうやら御前たちも同じだったようだな」
「最後の女が死んで二年になる」
そう云うと、男は目を見開いた。
「若い女がいたのか」
「そう。だがおれの子供は生めなかった。おれだけでなく、一族は精が薄いらしくてな。年毎に数が減って―――今では御前同様おれも一人きりだ」
「そうか」
男は低く云った。
男の声は気づいてみると、思いの他静かで深く低かった。
寝台の上に傷ついていないほうの肘を支え、少し考えているようだった。
「おれたちは全く同じというわけだな。―――御前たちも女が産まれにくかったか?」
「そうだな。二年前に死んだ女が一番若かった。―――もっと数が残っていたときも、おれが覚えているかぎりで五十年ちかく、女が一人も生れなかったこともあった。……そもそも、子ができないのだからな」
若島津は、新しい布を持ってきて男の腕の布を外した。
「御前たちはみんなこんなふうに傷が治りやすいのか?」
「おれは特にそうなのかもしれない」
男の腕は成程肉がつながり、赤黒い傷跡が取り巻いてはいたが、手首には強い脈があって、血が通っている様が見て取れた。
「おれでは多分こうは行かぬよ」
若島津は傷を洗ってやりながら、一人ごちるようにつぶやいた。
「まず気持が参ってしまう……」
「気持か」
男は、傷を水や布が触れる感触に眉を寄せた。
「しかしおれも今度ばかりは気落ちしてはいるな。……昨日、死んだ娘の事を云っていたが。―――まさか御前の知っている娘なのか」
「いや」
かすかに、そう―――ほんのかすかにではあったが、若島津の胸を痛みが刺した。逃げ去った子供の泣き声が、驚くほど鮮やかによみがえってきた。
「迷い込んできた子供に聞いた。娘が一人、黒い髪の、黒い羽根のある魔物に血を抜かれて死んだのだと、村では評判だとな」
「ああ―――成程」
男は、自分の長い髪のなかに指をさしこんでかきあげた。
「あの娘、御前たちの一族―――蛇神の血を引いていたのだぞ」
「―――何……?」
「血が混じっていたのよ。あの娘の父親が蛇神の女と交わって出来た子だぞ。知らなかったのか」
「知らぬ。そんな話は聞いたこともない」
それが本当なら、人の女とつがっても子が残せるということではないか。
「二十年ほど前に一度出て行って帰ってきたハルナという女がいなかったか?」
男が、愕然と黙った若島津の顔を覗き込んだ。
「ハルナ―――晴那のことか」
若島津は記憶を手繰りながら、晴那という女のことを思い出そうとした。確か晴那は白路という男の妻だった女だ。
「一人で一族を離れて出歩くこともあったかもしれない。それほど長い間になるかはともかく―――まさか」
「おれはその晴那の娘から聞いたのさ」
男は、布を綺麗に巻き終えた腕を伸ばし、羽根が邪魔になるようみじろいで身体を起こした。
「自分の父親は、晴那という、銀の鱗のある女と交わって、そうして自分が産まれたのだとな。おれも初めは本当だとは思わなかった。気だての良いとは云えない娘だったからな。
ひとの気を引くためならどんな嘘もつくような女だった」
「それをなぜ信じられた―――それより、御前はその娘とどうやって知りあったのだ?」
「村に入ったのさ、羽根をたたんでな」
男は羽根を動かして見せた。
「たたむ?」
「身体のひどくつかれている時でなかったら、少しの間たたんでおくことはできる」
「たたむ―――……」
それがどういうことなのか想像できずに、若島津はオウム返しにもう一度つぶやいた。しかし、晴那の娘だという女の話が気になって、それ以上はその話に触れなかった。
「おれは前から、何人か女を抱いた。身体の丈夫そうな女や子供の多い家の娘や―――どうにかして、おれの子を残したかった。お前もそれは解るだろう?」
若島津はうなずいた。彼には、男ほどの気持はなかった。
諦めの方が強かった。しかし、そう出来るものなら、人間の女と交わってでも、自分の血をつぎたい気持はあった。
「だが、どんなに丈夫な女もおれの血を受けつけない。幾つも村を変えて、何年も待った。そのうち祖父が死んだ」
男は苦い顔になった。
「おれの知っているかぎりで、同じ血の生き物はおれ一人になってしまった」
何か押しあげてくるものを耐えるように黙った。長い髪の間の目が鋭く光った。背中を、胸を長い髪が流れ落ちているのに、男の印象はまったく女めかない。その野生味の強さは、そんなふうにして己の血を残そうとする執念からも解るような、男の気性の激しさからでもあったかもしれない。
「この山のすぐ下に川名という村があるだろう」
「ああ」
「その村を東側に向かっていくと、すぐ近くに花延という村があるのを知っているか?」
「ハナノベ―――? いや」
「村の若いもの同士はこの花延と川名の間をよく行き来するんだ。おれが花延に入ったのが十日ほど前か。……その、ハルナという女の娘には、花延で会った。花延に男を物色しに来ていたところをな」
「……」
「向こうから声をかけてきた―――男を誘うときには誰にでもああ云うのではないかと思ったが……」
男は、苦々しい顔でつぶやいた。
「自分は蛇神の血を引いた女だから、自分と寝れば運が開けるのだと、そう云っていたな」
「云うだけなら何とでも云える話だな」
「まあそうだ。しかしあの娘、自分の腕を小刀で切って見せて―――、小さい傷ではあったがな。退屈しのぎに一緒に居た一時程の間にすっかり治りきった。血が濃いわけではないだろうが、しかし普通の―――というわけでもない」
「しかしそんな娘が……あの晴那の―――」
若島津は眉をひそめた。
「晴那は気は激しかったが、まっすぐな、慎みのある女だった。父親似としても、そんな男にあの厳しい女が」
「血が合わなかったのかもしれない」
男は天井を見上げて溜息をついた。
「そう思えばおさまりもしようさ。おれを探し当てた父親は特にだらしない風でもなかったぞ。―――……まあとにかくおれは、その娘と寝たのさ。蛇神の話が嘘でも、一時で小刀の傷が治るような女なら、おれの子を作れるかもしれないと思ってな」
「それで?」
「何日か花延にいて、もう帰らなければならないというから、二日後の夜にといって、川名の村はずれの納屋で約束した。そうしたらあの娘」
男は再び嘆息した。
「屍鬼にやられてしまったのよ」
「屍鬼だと?」
「西ではほとんど見ないから、御前は知らないかもしれないな。北のほうではよく出る化け物さ。屍鬼といっても、北の人間がそう呼ぶだけで、別に魔物だとかそんな大袈裟なものではない。木の芽ほどの大きさの虫で、人の首筋を食い破って中に入り込む。……入り込んだ人間に、他のものの血を吸わせて、胃の腑に溜った血のなかに卵を産みつけるのさ」
「―――……」
若島津はゆっくりとてのひらを広げて口元を覆った。ここらへんではそんなものが出たという話は聞かない。百年以上の間、話にも聞いたことがなかったのだから、ここらへんにはいない虫なのだろう。さすがに気味が悪かった。背筋にむずがゆいような嫌悪感があった。
「卵がかえった後は、屍肉でもいいが、産みつけるときは、極々新しい血でないといけないらしいな」
男は険しい目をした。
「あの娘、おれと会う前にもう一人男と会っていたのだ。その男がたぶん屍鬼に食われていたのだろうよ。もしかするとあの娘が持ち込んだのかもしれないがな。花延に、北の街へ足を伸ばす商人が里帰りしていたからな」
「御前が行ったときにはもう死んでいたのか」
「そうだ」
「その屍鬼とやらはどうした」
「仕方あるまいよ。追って殺したさ。御前も云っていただろう。甘い水の水場にされたのではおれにしてもたまったものではないからな」
「どうやったら死ぬのだ、それは」
「ああ、焼いてしまえばすぐ死ぬ。広がっていなければいいが、解らないぞ―――」
「若い男に取りついていたのか?」
「そうだな。顔は知らない男だったが―――その男の事で、川名では騒ぎにならなかったところを見ると、川名の人間ではなくて、流れものだったのかもしれない」
「……そうか」
魔族の血を引く生き残りの男たちは、しんと黙った。
違う血を引く男はともかく、若島津にすれば、娘が、本当に自分たちと同じ血を引いているなら、本当に血を残すことができたかもしれないのだ。
「それでも、屍鬼にやられてあっさり死んでしまったところを見ると、人の血のほうが濃く出たのだろうな」
若島津はうなずいた。
「それでその傷はどうしたのだ?」
「ああ―――これは、花延の宿に居るとき、な」
男は面目なげに苦笑した。
「親の執念というのはああいったものなのだろうな。髪の長い男が隣村に居ると聞いて探し当てて来たのよ。おれが、華姐と一緒に居るのを見たという者まで見つけて、夜―――眠っていたところをこう、……」
男は、三叉を逆手に握る格好を真似て見せた。
「刺されるまで御前、気づかなかったのか」
若島津の声のなかにあきれたような調子を汲み取って、男は腹を立てるでもなく首を振った。
「夜は、人並みでな。目も耳も、昼の半分もきかぬ」
「……―――その娘、カシャといったのか」
「そうだ。花のような女と書いてな」
若島津は、どこかほっとしたような寂しいような思いをした。同族の匂いのするその男が、人の血をすするような生き物でなくてよかったと思う気持もあり、その華姐という娘が、本当に一族の血を半ば分けたものであるのか、それを知るすべがもうないのが残念だった。
自分の子を産ませようという気持はそれほどない。むしろ、もしその話が本当なら、その娘は、自分の見知った、晴那の娘ということになる。懐かしい気持の方が強いようでもあった。
「御前―――」
思わず云って、若島津は特につぐ言葉もなく、自分が何を云おうとしたのか計りかねた。
「聞いていなかった。御前の名は何というのだ?」
「おれは日向」
驚いたように、しかし少し目が笑った。
「蛇神、御前は?」
「若島津」
そう答えて、人に名を聞いたことも、人に名を教えたことも、今まで一度もなかったことに、不意に彼は気づいた。今まで名を呼び合うもの同士は一族のもの同士であったし、物心ついた頃から数十年以上も一緒に居て、名を尋ねあった事などなかった。
その印象は鮮やかで、彼の心に強く触れた。
「若島津―――か」
男は深い低い声で、その鋭い目に不似合なように柔らかくつぶやいた。
誰かの声が自分の名を呼ぶのを聞くのも久方振りだ。男は北特有の、言葉尻をくっきりと切る喋り方で、声は柔らかくとも、浅乃が彼の名を呼ぶのとまた少し響きが違った。
若島津の気持のなかでまた何かが動きかけた。たとえ寂寥ですら、人と分けあえるということは、不思議に甘い痛みで彼の胸を刺した。
男の羽根に目を止めたとき、男が、羽根をたたむと云っていたことを思い出した。
「先刻、羽根をたたむと云っていたのは、どんなふうにすることを云うのだ? その大きな羽根を隠し切れるものではないだろう」
男は羽根を揺らした。
「やって見せようか」
「力を使うのではないのか」
押しとどめかけると首を振って、男は背中がよく見えるように少し前かがみになった。羽根が大きく持ち上がる。長いその節のある翼は、天井にあたりそうな高さでぴくりと動いた。
男はうつむいたままこぶしを握りしめた。裸の肩が盛り上がり、腕の肉が筋になって浮き上がった。
黒い羽根は初め引きつるように揺れたが、そのうち、内側に巻き込むようにねじれ始めた。
黒い羽根は、とてつもなく巨きな、節のある虫の足のような形になった。その、太い羽根の名残りは男の背の骨が大きく浮き上がり、その浮いた骨の間に出来た肉のくぼみに、引きつれながら少しずつ飲み込まれ始めた。
若島津は目を見はった。人の身体が泥の沼にはまり込むように、羽根は蠕動する肉の筋の間に、ひきつれて揺れながら呑みこまれて行った。
羽根の尖った先が貝殻骨の奥に消えて行くまで、それほど長い時間がかかったわけではなかった。
後に残った男の背中にはその名残さえなく、まったく羽根を呑み込みきって、ただの人の男の、広く強い背中が残っているばかりだった。
「こんなことができるのか―――痛みは? ないのか?」
「痛みはない。ただ力が要るからな。病気のときには使えない」
「たたんでおくのにも力は居るのか?」
「―――そうだな」
男はそろそろと身体を伸ばし、髪を払った。
「半日も保てばいい方か。あまり長い事こうしておくと、羽根が弱るし、ひどく疲れる」
「―――そうか」
不思議な驚きで言葉がつげない。同じように、例えば、蛇と性質が近しかったり、鳥と同じ翼を持っていたり、そんなところは似ているようでも、これだけ違う身体を持っているのだ。
しかし、やはり違う身体を持っていたとしても、彼の腕の銀に輝く鱗を見て、魔物と恐れることのない男は、彼を安らがせた。
浅乃が死ぬかもしれないと思ってから久しく、感じたことのない安らぎだった。
男―――日向の傷は、二日ほどして綺麗にふさがった。薄く白い筋が入っていなければ、とても、ほんの三日前にはちぎれかけていたなどということは解らない。やはり、若島津の一族よりも種としての力は強いようだった。
傷の治った日向は、よく動き、闊達で、喋りすぎることはなかったが、人なつこく陽気だった。よく笑った。
人に交われぬことから、自然に、余り感情の波のない沈んだ気質に変わっていった一族である若島津とは、外見同様性質がかけ離れている。
その潔さ、思いきりの良さには驚かされることもしばしばだった。例えば髪の事がそうであった。
髪のことでは困ったものだと、若島津があてつけるでもなく漏らしたとき、日向は暫く考え込んだ。
―――そうだな。この先、おれが動き回るのをどんなふうに、村の人間に見られないとは限らないしな。
自分の髪をすくいあげて眺める。
―――御前は動き回らないから、たまのことがあったときおれのことでとばっちりが行くのは避けたいところか。
―――まあおれとて、逃げることもできないわけではないが?
からかい半分に皮肉ると、日向は、少しまた何か思うように、髪を眺めた。
翌日自分の石室を出て、狩りに行った若島津は、帰ってきたとき、日向が、自分の髪を、首までざっくりとそぎ落としてしまったのを見て仰天した。
「どうした、まさか、おれが云ったから切ったのか 」
「そういうわけでもないが。……」
「髪があるとないとでは夜歩きの時まるで違うだろうに」
「まあ、村のほとぼりがさめる頃にはまた伸びるさ」
日向は笑って、剥き出しになった靭いうなじを撫でた。首筋は太い骨に支えられて、そうしてみると、背が少し高すぎるだけの、普通の人間の青年とまったく違ってはみえなかった。
「……無理に切らせたのではないか?」
「誰もおれに、髪を無理に切らせることなど出来ぬよ」
日向は屈託のない笑みを見せた。
「そうであろうな」
若島津は仕方なく笑った。
人間の男と違ってみえないというのは、それだけこの男の顔やしぐさに暗いところがないのだ。
自分と同じ一族のものを一人残らず亡くして、三月しかたっていないとはとても思えなかった。
(それともおれの諦めが悪いだけなのか)
そうであったかもしれないし、しかし、若島津には、日向のその煌るい気質は救いになった。日向の方でも、自分と同じようでいて思いのほか似通ったところのない若島津が面白いようだった。
日向は不意に、そう答えた若島津の顔をじっと見てこんなふうに云い出した。
「御前は、おれのエナが皆おれのような身体なのかと尋いたが、御前の一族は皆、御前のように美しいのか?」
そう聞いた。笑っていたが、案外真面目に聞いているようだった。
「……さあ、どうだか」
何を云い出すのだか。そう思って取り合わないでいると、日向は繰り返して云った。
「御前のように美しい男はエナにもヒトにも見たことがなかったぞ。女でも御前ほど美しい女がそうそういるとは思えぬしな」
「……」
二年前死んだ浅乃はしきりに若島津を賛美した。そのときは他のことを考えるのに精いっぱいで、自分の顔かたちのことなど気にしてはいなかった。ただ、浅乃が好きなような顔なのだろうと、思うでもなく思っていた。
美しいというのはどういうことなのだろう。悪い気がしたわけではなかったが、若島津はぼんやりとそう考えた。水かがみに映った自分の顔を見たことはあったが、自分の顔を、彼がさほどよくおぼえているのではなかった。
なよやかであるという事なのだろうか。
浅乃という女も美しかった。皮膚がなめらかで意志の強い目をしていた。
今こうして目の前にいる日向も、例えば浅乃の美しさとはまた違ったが、美しいと思った。硬い石を彫り上げたように完璧に作られた男の造形としての美である。
日向の云う意味はそのどちらに近いのだろう。
「御前たちの云う美しいということと、おれたちのそれと、どれほど意味が近いのだろうな。……」
彼は低くつぶやいた。
「おれには御前の翼が美しく見える。力の強い、太陽より少し暗いものが、讃えるに有難い」
「こんなものであるとか、こうでなくてはならないなどという事はあるまい?」
日向は驚いたように聞き返してきた。
「それはそうだが―――」
若島津は思いに沈みそうになった。
「……―――飛ぶというのはどんな気持のするものなのだろう。……」
一人ごちるような、聞かせるつもりのないような小さなつぶやきを聞きとがめて、日向は突然、若島津の腕を強く引いた。
「?」
戸の外に連れ出す。空は暮れかけて、もう夕映えというよりも薄青い闇に近づいている。
「飛んでみるか?」
「飛んでと云っても―――」
「連れていってやる。昼は辛いだろう?」
「日向」
「そのかわり、下りるときには少し力を貸してくれ。暗いと間違いやすい」
「日向、少し待て―――」
「おれの腕がどれだけ治ったか見せてやろう」
鉄のように強い、太い腕が彼の腰に巻き付き、足元が宙に浮いたかと思うと、耳元で、突然風が巻き起こった。
「待て―――日…向……ッ」
しかし彼の声は、巨きな羽根の、刃物で切りつけるような強い羽ばたきにかき消されてしまった。
「日向!」
若島津は、日向に向かい合った形で日向の胸に抱き込まれ、急な風に息をさらわれてあえいだ。
自分たちがぐんぐんと高くのぼってゆくのが判った。身体がつっぱったようになるほどそれは早かった。少し斜めに身体がかしぐたび、風が重く頬にかぶさって来て、臓腑がひっくりかえりそうになった。
日向の腕が外れないかと彼は身を固くしたが、その腕は鉄のたがをはめたようにがっしりと若島津の身体を支え、日向の身体に押しつけていた。
日向の笑いごえが聞こえる。自分がいつの間に固く目を閉じていたのを知って、若島津はそろそろと目を開けた。
耳を打つ羽ばたきや、髪を引く風になれてきて、彼はようやく、暗い中空を飛ぶ自分たちの姿を認めた。
「どうだ―――空は。風が軽いだろう?」
「どこが……っ」
暗い闇のなかを透き通す若島津の目は、あっという間に自分たちの遥か下方となった山と、そのふもとの、明りの点きはじめた村々を見分けた。そのかすかさに気が遠くなる。
「―――降ろして……降ろしてくれ」
若島津は、唇をかみしめてめまいに耐えたが、耐え切れずに日向の胸に顔を埋ずめた。
「気分が悪い……」
「御前、高いところに来たことがないんだろう?」
日向の背の羽根は、もうそれほど激しく羽ばたいてはいなかった。ゆるやかに時折風をあおるように動いて、それで充分にふたりの男の重みを支えていられるようだった。
「だからだ、下を見ないで上を見てみろ。御前の夜だぞ」
若島津は、あえぐように唇を開いて日向をとがめようとした。やっとの思いでもう一度目を開ける。そして上を見た。
上空はまだ果てしなく高かった。地に足をつけて見るより果てなく思えた。暗く吸い込むような黒いなめらかな空に、思いがけない近さで白い雲がさかまいている。
白い煙が渦を巻くようにして上を流れ去って行くのを若島津は茫然と眺めた。
昼の空とまったく違う、妖しい胸騒ぎのするような、しかし絢爛たる夜の空だった。
風の冷たい清冽さが頬によみがえってきた。その、身体を、髪を取り巻く風のなかで、触れあった日向のからだが燃えるように温かいことも。
彼は息を吐き出した。
「……本当だ。……―――」
ゆっくりと額を日向の肩に持たせかける。
「夜の空はいい。……」
日向の肩に触れると、肩の肉が、背中の翼の羽ばたきにつれて揺れるのが判った。
「―――……御前の翼は凄いな」
彼は日向の顔を見上げて微笑した。親しいものにしか見せない、湧き上って突然こぼれた微笑だった。
日向が答えないのをいぶかしんで、低く日向の名を呼ぶ。
日向は食い入るように若島津の顔を見つめている。
「……どうしたのだ?」
そう問い掛ける自分の声が穏やかに柔らかいのが若島津にはおかしいようにも思えた。
「何故―――……」
日向は黙って、若島津の顔の上に自分の顔を伏せた。唇が重なりあう。
「御前の顔だけがはっきり見えるというのも……」
日向はそう云いかけて、続きを云わないまま、若島津にもう一度口づけた。
「日向―――」
言葉を呑み込まれて、若島津は目を閉じた。熱い。顔を背けようとはしたが、唇は追ってくる。
「っ……」
自分が抗おうとしないのが、落ちることへの怖さからか、それとも別のわけがあるのか、若島津には判らなかった。目が熱くうるんだ。
背中から日向の片手が外れるのが判った。支えをひとつ失って身体を固くしたが、しかし片方だけの腕でも、若島津の身体はゆらりともせずに日向の身体に抱きしめられている。その支えの腕が、三日前千切れかけていた左腕であることが解ったとき、若島津のなかに強い感嘆の念が沸き起った。
この命は強い。
自分を決して置いて行かないほど。
日向の離れた右手が、若島津の足の間に忍び込んできた。
唇を覆われながら、その動きに息を荒げる。膝を伝って奥に忍び込んだ指は、若島津のそれに這って動き始めた。
「あっ―――」
夜の空、日向の翼が鳴る音。
腰を支えられただけの姿勢ではどうしようもなく、若島津は身動きできずにその指の掘り起こす熱い波に耐えた。
「日向、……」
「確かに同じ身体なのに、……」
日向の指が強く彼の上をあおった。
若島津は耐え切れずに腕を上げ、日向の首に巻きつけた。
「ン―――����……」
日向にすがりついたままの、不安定な姿勢に高ぶったことも、禁欲が長かったことも手伝って、若島津はあっという間に登りつめた。
抱き締められたまま身体を波打たせる。
汗ばんだ身体に風が強くあたった。
彼のはなったもので濡れた自分の指を日向は嘗め取った。
そんなみだらかな行為であるのに、不思議と獲物の血をすするような荒々しさにしか見えない。
興奮を押さえられないように日向は彼に口付け、大きく羽ばたいた。羽根が浅い角度に上がり、彼らの身体は元の地上に向けて下り始めた。
若島津は何も云えずに、息を乱したまま、日向の胸に抱かれている。日向は、彼の目を借りずとも、元の『蛇山』まで無事に舞い降りた。
ほぼ地上が近づいてきたとき、日向は若島津を少し強く抱きしめ直した。耳元に、昂奮を押さえるためかすれた声で、低くささやいた。
「御前を抱いてもいいか?」
「……」
若島津は震える足で地面を踏み、日向の腕を解いた。
「おれは子を産めぬぞ」
「あたりまえだ」
日向はせいているような声でいらいらと囁くと、若島津の腕を取って自分に引き寄せた。
荒々しく抱きしめ、唇をふさぐ。
抱き込んだ腕が、自分を落葉の積もった地面に抱き伏せようとするのを感じて、若島津は声を上げた。
「待て―――」
熱い唇が首筋に落ちる。彼は力を込めて日向の肩を押しのけた。
「待てといっているだろうッ―――性急な男だな。……部屋に戻るのも待てぬかよ」
「……」
日向は目を伏せて笑った。笑ったが、伏せた目のなかで金色の虹彩が燃えるように輝いているのが、若島津には見えた。日向が突然自分を欲しくなって、もうそれが止められない勢いをつけて転がっているのが判った。
「部屋に戻ったら抱かせてくれるか?」
その開け放した物言いに思わず若島津が赤くなったとき。
日向の背に、飛んできた固いものが当たった。
「―――?」
日向は振り向いた。
日向の肩に当たって下に落ちたものはさほど大きくない石つぶてだった。
「―――蛇神様に、触るなっ、マモノッ―――!」
もつれあうように横たわった日向と若島津の後ろに、小石を握りしめて真っ青な顔で立ちはだかっているのは、数日前、『蛇山』に迷い込んで若島津がふもとまで連れていってやった、あの子供だった。
子供の足はがたがたと震えて、まっすぐに立っていられないようであった。
それを必死に踏みしめて、日向をにらみつけている。
「蛇神様を離せっ……」
子供の細い声がかんだかく裏返った。
子供は必死の顔でまたひとつ、日向に石を投げつけた。
小石のつぶては日向の頬にあたった。日向が、目を守るために腕を上げた。
その獰猛なゆるやかな動きに、一瞬、若島津ははっとして日向を見た。
日向が立ち上がった。
子供をにらみつける。
片羽根がざわりと持ち上がった。
眉がけわしくさかだって、子供はびくりとすくみ上がった。
「っ……」
思わず日向、と呼びそうになったとき、日向は子供に見えないよう背を向けて若島津を見下ろした。
日向の目は笑っていた。無論冷笑ではない、温かい笑いの気配を含んでいた。
彼は子供のけなげな叫びに応えてやろうというのだ。それに気づいて若島津は安堵した。
日向は顔を上げて、忌々しそうな舌打ちをして見せると、子供の顔を、震え上がるような目でねめつけた。
その黒い長い翼を大きくかかげた。
後ろに二、三歩後ずさってみせると、日向は、広げた羽根を大きく羽ばたいて舞い上がった。
「去ねッ―――去んでしまえっ、マモノめ……っ!」
子供は震えながらこぶしを振りあげた。
親が鳥を追うときの掛け声をそのままたどたどしく真似た子供の声を、若島津は茫然と聞いた。
「御前……」
彼は思わず子供に腕をさしのべかけて、ふと気づいてその腕をおろした。
子供が怖がるのではないかと思ったのである。
子供はまだひとつ二つ握っていた石つぶてを取り落し、若島津の顔を見た。
顔がくしゃくしゃと歪む。
「蛇神様っ……」
子供は激しい勢いで若島津の胸に身を投げかけてきた。恐ろしかったことが溶け去って、強がりが崩れたように、子供は泣き出した。
「大丈夫―――魔物は行ってしまったから。御前のおかげだ……」
若島津はどうしてよいか解らずに、その柔らかい身体をそっと抱きしめて髪を撫でた。
「強い子だ―――」
ささやくと、子供は、彼の髪の間に顔をこすりつけた。
「……蛇神様、ごめんなさい……っ……ごめんなさい、ごめんなさ―――……」
言葉は最後まで続かず、子供は更に泣きじゃくった。
「どうして謝る。……御前は私を救けてくれたのに」
そうつぶやいて、しかし若島津の目頭は熱くなった。
「蛇神様はマモノじゃないのに、逃げてごめんなさい……」
「誰かにそう云われてきたのか?……」
子供は激しく首を振った。
「父ちゃんにも母ちゃんにも云ってないよ、云ったら会いに来たがるもん。いつもこの世に神様さえいたらって云ってるから―――だって蛇神様はあまり他の人と話すの好きじゃないって……」
若島津は目を見開いた。
「―――それで黙っていてくれたのか?」
うなずく子供の髪をなでながら、若島津は胸をつかれて言葉をとぎらせた。
「いい子だ―――」
どう云いつくれば、この気持が伝わりきるだろう。
「ありがとう―――来てくれて―――御前が来てくれて……どれだけ助かったか知れぬよ―――……」
若島津は子供を抱く腕に力を込めた。子供の柔らかな髪に顔を埋める。
「……強い子だ―――」
子供は、翼のある魔物の恐怖から解き放たれたことと、おそらく、数日前に、ふもとまで連れていった若島津の手を振りほどいて逃げたこと、夜への怯え―――そんなものに強くゆすぶられているのだろう。なかなか泣き止むことができなかった。しかし、しゃくりあげながら若島津の顔を見上げ、月明りに照らされた若島津の顔を見上げると、ようやく笑った。
若島津の目も光っていたようだ。
この子供が自分を例えば、神というような清麗なものに見るなら、それでもいい。子供の思うような威であることが、人よりずっと長く生きる自分には、できないことではないのだ。
こんどは、もし出来ることなら、この子供の力になってやろう。
この山を、この子供にとっては、魔物の山ではなく、神の山にしてやろう。
「おいで。この間と同じように、ふもとまで連れていってあげよう―――」
若島津は子供の手を引いた。
「もう魔物の夜だ……」
月明りは、若島津の顔と同じように腕の銀色の鱗もはっきりと照らし出した。
子供は眩しそうに目を細め、しかし手を振りほどこうとはしなかった。
後ろで大きな鳥が羽ばたくような音が聞こえて、子供が驚いたように若島津を見上げたが、若島津は首を振った。
「大丈夫―――」
甘くほほえんだ。
「魔物ならまた御前が追ってくれるだろう?―――」
大きな黒い鳥が自らの石室のほうへ大きく回って飛んでゆくのを、彼の目はとらえた。
子供は若島津の手を握る指に、ほんの少し怯えるように力を込めた。
そしてまた、待つ人のある家を思って、己に預けられた小さな手の温かさを感じて、蛇神は幸福そうに笑った。