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死せる若木に寄せるバラード(1992年)

01 05 *2011 | Category 二次::C翼(後期)・日向×若島津


続き





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 地平線は突然とろとろととろけた。朱の煙にあふれた地上は油を塗ったようにゆがんで光った。大地のうえの全てが愉悦の模様に変化しながら身をよじり始めた。
 この一帯の気候、土地柄は清潔で厳しい。しかし夕日の数時間は毎日のように、この巨大な土地をなだらかな球状の、胸の悪くなるほど華美な幻想のドームに作り替える。
 地平線も樹々も、赤く胎内のように温かく生々しく脈打つ。景観は悠々と広大だが、血しぶきを浴びたような日没は毒々しさが勝って、煙のなかでむしろ地獄絵図に近かった。
 その自然の厳しさは、確かに個体としての力の弱い人にとっては地獄に近いものであるかもしれない。植物の萌芽であれば、乾いて砂の多い大地であっても、くるまれてひそんでいたが、熱にも寒さにも弱い人間にはここは厳しすぎた。
 人の手の届かない大きさである。人の手が加えられないため、これほど大きいのだ。
 彼は、火の球が黒い染みを浮かべてねじれるように傾いてゆくのを静かな目で見守っていた。唇はゆるやかに結ばれて、しかし銃を握り締めた指はつめたい。守らなければならないものがあるときと、己ひとりを生かしている時とでは、自然の残酷な清冽さの度合いが違う。
 息を殺して周囲の気配を伺いながら、日没から完全な夜までの長い時間を胸のなかで計ってみる。
 失ってはならないものを傍らにして、生き延びることの難しさを彼は初めてかみしめていた。


            #
 それは自分のなかに内在するはずのない、分かりにくい記憶だった。一つの思考があり、己という個から、もう一つの個へとその思考の焦点が合わせられていることは解った。その『思っていた』というそれが憎しみなのか、愛情なのか、もしくは感情性を帯びたものではなかったのかということさえ判然としなかった。
 しかし『自分』である個は、確かに想う存在を持っていた。その世界では、自分は相手を思うことによって位置付けられ、相手のために生きることで充足した。
 憎しみという感情と愛情という感情の構成成分は同じである。その感情によって自分が相手にどういった接し方をするかの時間軸の性質(色彩)が、感情の名前を決定する。それが感情であるということも、自分の肉体が直接その想念を感知し得ることによって決定される。
 それは理論ではありえない。紙に書き写して法則性を持たせることのできないものだ。金属で作りあげることのできないものだ。生きている人間の肉体も同じ様に法則性を持たない。全く同じものを作り出すことは理論的に可能でも、それが人間自身の手によって成功する確立はきわめて低い。非法則的に作られた一個の物体である人間の肉体は、またそれ一個として絶対の存在ではなく、その形態に、外的要因に依る変化があっても、それが生体としての維持のうえで許容される範囲のものであれば、その存在意義を変化させることなく存在を持続する。肉体的形状が変化したあとも、またひとつの非法則性のものである認識としての内在性質、感情、自己認識が変化しなければ、外部からの認識も変化することは基本的にない。
 それではそれを一個として認識せしめているものは何か。
 感情は大きい固体認識のパルスを発する。感情のその瞬間の波が、個体の存在証明をどんな情報システムよりも正確に多方面から分析し、きわめて短時間での確認を可能にする。
視覚、聴覚、触覚、加えて新たな感情の触発によって記憶と感情は対象物を分解する。解析リストによって作動するコンピュータと比較するなら、脆い有機体の細胞に潜む記憶力は、随時存在する情報バンクの役割以上を果たすコンピュータ以上の奇跡的な確かさを持っている。しかしその感情は一個として確立されたもののなかにのみ存在する。感情という認識が個別存在することが出来ない限り、それは徹底した認識要素には成りえない。
 個を個として徹底的に位置付けるための手段が何かということの解答は不可能、したがって最も確実に近いものは、別個の個体からの認識のパルスである。別個の個体を認識する自分が存在しなければ別個の個体は存在しない。矛盾しながら自己の意識の存在が証明される。意識は個別に存在しえないため、存在というものの存在が同時に証明される。紙に書いた証明を必要としない感情は自己確認によって安定し、疑問をもつことを止める。疑問を持たない安定要素が強くなればなる程自己は強く確立される。確立された自己のなかには感情が含有され、また感情無しに自己の確定的な成立はありえない。
『彼』はその感情の波のなかに泳ぎながら、確かに彼のなかに内在していた、しかし彼が今の認識のなかで持ちえたはずのない、その有機個体以前の記憶を辿っている。『前世』。
貯蓄された言語記憶は該当する言葉を持っているが、しかしそれは今の彼の個体としての情報に組み込まれたことのない、いわば架空の過去であることの認識を同時に情報として送り込んでくる。
 その感情には正確な記憶が当てはまらない。記憶を入力するために、その感情に該当する対象を探さなければならなかった。『相手』が必要だ。その感情は、相手の実在をもって初めて成立する。
 彼は、彼として自己を認識し、彼である自分の感情の対象になる個体を探していた。


            ##
 夢を見ていたようだ。夢のなかで自分は何かを探していた。それが何か、もしくは誰か、ははっきり判らなかった。
 日向は誰かの名前を読んでいたように思った。
 家族の名前だったかもしれない。このところ家族のことばかり思い出していたから。
 朦朧とした夢のなかで目を覚ますと、空気はうっすりと明るみ、夜が明けかけているように見えた。頭を上げるのもだるかった。どうやら傷から熱を出しているようだった。
 視界もはっきりとしない。
 日向は、左の込め髪を地につけて横たわったまま、空にむかって、僅かに手を差し伸べるような仕草をした。
 右の脇腹に負った傷は深かった。死ぬかもしれないと思った瞬間、空へ向かって手を差し伸べていた自分が不意におかしくなった。
 救いを信じているわけでもない。救いが欲しいわけでもなかった。こんなところで死ぬことになるかもしれないと思うと悔しくはあったが、しかしここで死ぬことになるのは当り前であるような気もした。
 あれだけの人を殺して、また郷里に帰って何事もなかったように医者を続けることなど出来ない。出来るとすれば自分は狂っているのだ。もうすでにここでこんなことを狂った自覚も無しに考えている自体、狂っているということも考えられた。
 彼は父を早くに亡くした。父が存命であった頃から特に裕福だったわけではない。その彼が中央に出て医師の資格を取るのは並々ならぬことであった。
 それが出来たのは、郷里の領主が金を貸して中央に送り出してくれたことと、中央に出てまもなく、彼の常人離れした知能が認められて、少額の金が中央の医療機関から金が支払われたためである。
 彼はひどく知能が高く、数十年に一度の傑出した知能の持ち主といわれた。実際に、彼は一緒に医療機関で学んだ間にも、自分に勝る学力をもつものがいないことを驚きと失望とともに認めないわけには行かなかった。それはある種孤独に近い。無力を分けあうことは時に人間にとって親近感を生んだり、もしくは闘争心や諸々の意欲を掻き立てることにもなるのである。
 日向は寡黙な男だった。争い事を避けた。彼にとっては周囲の世界は、夢を抱くには寒々しく空疎で、世界を空疎に感じていることが、彼にとっては一つの負い目となった。見下しているつもりはなかった。しかし自分の中の虚無感がおごった侮蔑からのものではないかと恐れる気持が彼自身を傷つけた。
 彼には理解者がなく、理解とは少々ずれた場所に向けられる好意が時にはわずらわしかった。しかしそれを煩わしいということが人間として最低限してはならないことだということも解っていた。子供の頃からそれほど無口だったかどうかは自分ではもう覚えていない。
 郷里に帰って医師をつとめて五年目に、隣国との戦いが始まった。
 彼の国である東都と、隣国、亜須迦との間には、大きくふたまたに別れて、Y字形に流れる二本の大きな川がある。
 その間に横たわる虹泉という小国の国土は、地こそ荒れて人は住みにくかったが、しかし貴重な鉱物の産出地で、東都と亜須迦はその虹泉というさほど広くはない土地を、喉から手が出るほど欲しがっていた。
 この戦争も、虹泉の所有権を争ってのものだった。虹泉の所有権を争って、東都と亜須迦が戦うのはすでに三回目を数えている。今度は長引きそうだった。前回の戦いで、虹泉の所有権は殆ど亜須迦の手に渡ったかのように見えた。それを奪回しようとしての、東都からしかけた戦いである。
 東都と亜須迦の兵は、今およそ虹泉に各二万ずつ流れ込んでいる。今のところ、どう見ても、虹泉での植民期間が長く、軍事施設を蓄えた亜須迦が優勢であった。
 このたびの戦争が、今までの二回と違うところは、以前から高まっていた虹泉の独立運動勢力が、飛躍的に力を強めた事であった。
 最初労働者のなかから興ったそのゲリラ軍は、ついに数カ月前から正規の軍の様相を整え、真っ向から東都と亜須迦へ反旗を翻した形になったのだ。
 現在虹泉の、東都、亜須迦両国の約三分の一足らずの国土のうえでは、三つの勢力が覇権を争って戦っていることになる。亜須迦が優勢であることに加えて、虹泉の解放勢力の勢いは日を追って強まっている。
 しかも亜須迦が、解放勢力にしきりにコンタクトを取ろうとしているという情報も流れていた。ここで解放勢力が亜須迦と手を組むことになれば、まず東都に勝ち目はなかった。
 東都にしろ亜須迦にしろ、古い文明と新しい文明の少々不安定に入り交じった国柄で、数百年前になる古い戦争で、国土がひどく荒れた痛手からまだ回復してはいなかった。第三戦争と呼ばれる戦争のことを覚えている者はすでにもう無い。その戦争がどんなものであったかの文献すら殆ど残ってはいなかった。
 何もかもいったん灰になってしまった今となっては、それほどの力をもつ物を再び作り出すことは、今の人間の力では殆ど不可能であるが、その第三戦争で、人が作り出した武器は海や空を回復もまま成らないほど汚染し、地上に生き残ったものが極少なかったことは確かだ。
 二百五十年以上地上には殆ど人は住まず、人間はセルターと呼ばれる地下都市に暮らした。
 虹泉の持つ鉱物を手に入れれば、遺伝子を汚さないエネルギー源になる。
 人間がセルターからはい出すようにして地上で暮し始めて数百年、そのために再び、また戦争の時代になったのだ。


 戦いが始まったとき、日向は中央に召還され、研究所に入るように指示された。そこで彼は、人以外には害のない薬品を作ってほしいと云われた。云いかえれば、人だけに作用する細菌、そういったものは幾つかもう発見されている。それを武器に仕立てる研究をしろと云われたのである。
 ―――とんでもないことです……!
 彼は怒りで真っ青になった。
 ―――わたしは医者です、人殺しの道具など作れません。
 ―――君は中央の医療機関に随分世話になった。多少君の力で返してもいいのではないかね。
 中央の軍の研究所の所長は、もの柔らかにそういった。目が嫌な光り方をする男だった。義眼だったかもしれない。第三戦争が空気を汚したおかげで、生まれ付き視力のないものが多く生れた。そのなかで富んだものは、人造の眼球を埋め込み、人工の視神経を作った。
 しかしその男の目の妙に嫌な感じは、それが天然のものでないせいではないようだった。
 ―――君は妹さんが中央に働いているだろう。妹さんのためにも少し頑張ってみようという気分にはなりませんか。……それとも、国家への義務を果たすために、実戦の戦場に出たほうがいいとでも?
 日向は、血の気が引くような思いで拳を握りしめた。
 彼がその仕事を引き受けなかったおかげで、妹の直子は中央のセクレタリシステムで働けなくなった。しかし、直子は兄さんがそうしてくれて嬉しいと云った。
 ―――でも兄さんが死ぬのは嫌だわ。
 戦場は虹泉だった。虹泉は彼の住む地方から云っても、隣国ながら決して近くはない。戦場に出ようとする彼を見送りながら、直子は疲れた顔で唇を噛んだ。
 ―――生きて帰ってきてね。こんな馬鹿げた戦争で死なないで。一緒に行けないけど、病院とうちはわたしが守るから、必ず帰ってきて。
 ふたりきりの兄妹だったから、彼らはいつも仲が良かった。ふたりともが、暮らしを支えているという切迫した義務感をいつも持っていた。妹は鏡で映したように彼に気性が似ている。よくきつい女だといわれては苦笑しているのを、彼は知っていた。
 約束を守れないかもしれない。
 彼は疲れた額を冷やすために、空へかかげた腕をゆっくりと下ろした。
 母と妹に申し訳ないと思った。しかしもう生きては帰れないような気もしている。戦争は負けだ。生き残っても、その後どんなことになるかは判らない。
 日向は今日まで戦った間に、実際に自分が手を下して殺した人間の数を数えていた。もう今日までの間に、彼は六十二人殺している。彼の稀有な才能は学問にだけ発揮されるものではなかった。彼の反射神経はやはり人並みの水準を遥かに越え、彼がその手に持った性能の低い銃で狙った的を外さなかった。
 彼は夜明け近い空をちらりと見て苦しい息を殺した。澄んだ空だった。人の肉眼では汚れてゆがんだ大気の成分を見極めることはできない。虹泉の夜明けは美しかった。
 彼が殺した人間のうち三分の一近くが、おそらくゲリラ軍ではないかと思われた。彼らは皆若く、時には二十七歳になる日向より十才以上も若いような少年もいた。日向の異常な程の記憶力は、彼に忘れること、雰囲気に酔って理性を麻痺させることを許さなかった。
 彼はいつも、火のついたような嫌悪とともに引き金を引き、しかも殺した人間の顔を容易に忘れられなかった。彼は自分が殺した人間の顔を、十八人目まで、髪や目の色、顔の造作まではっきりと思い出せた。それ以降は意識的に見るまいとした。彼の明晰すぎる頭脳と理性は、彼に発狂する安らぎすら与えなかった。
 一昨日の解放軍の奇襲によって、日向の部隊は全滅した。
 薬一つ、傷口に巻いてやる布も持たずに、自分も深い傷を負った日向は昨日の昼過ぎ、最後の一人を送ったのだ。
 これで傷口がふさがっても、仲間の兵が来るまえに、解放軍、亜須迦軍どちらに見つかっても命はなかった。日向が彼らにしたようにあっさりととどめをさされておしまいだろう。それでもいいのではないかと思い始めている。この気候では、傷口もすぐに膿むだろう。
 結局こんな場で、個人の持つ力など何の役にもたたない。
 夜が明けたら、すぐにここは、あの燃えるような太陽に真っ向からさらされることになる。少しでも日陰になるところに移動したほうがいい。
 彼は、歯を食いしばって、身体を起こそうとした。
「動かないほうがいい」
 不意に、頭上から冷たくなめらかな声が降ってきた。
「……傷を悪くしたくなかったら動かないことだ」
 彼はぎょっとして顔を上げた。
 声を出した者がどこにいるかが解らずに、日向は反射的に銃を握りしめた。
「あなたの傷は深い。……悪くすれば死にます」
 それを制して、声は近づき、彼にかがみ込んだ。
 長い髪がまず目についた。
 腰までありそうだ。
 かがみ込んだ男の赤い唇が次に目に付き、その次に、男が額につけた幅の広い銅色の金属の輪が夜明けの弱い日光に鈍く光るのを見た。
 それと一緒に、日向は、自分が横たわっている場所が、昨日の夜眠った場所と違うことにようやく気づいた。猛々しい緑を茂らせた低木の一群の、頂度影になる根本の部分に横たわっている。近くに水の気配がある。
 それではこの男が自分をここまで運んだのだろうか。昨日いた場所とかなり離れているのではないか。こんなところまで運ばれても気づかなかったことも不思議だったし、それに目の前の男の決して筋骨たくましいとは云えない身体で、自分を長い距離運んでこられたということも、そしてそんな苦労をわざわざしようとしたことも不思議だった。
 自分の具合が自分で思ったよりも悪いことにも気づいた。
目を覚まして暫くたっているのに、場所が変わっていることにも、人の気配があることにも気づかなかったのだ。熱と傷の痛みで感覚が侵され始めているらしい。
 日向は、痛みにやや霞んだようになった目で男をもう一度見つめた。
 男は腕に赤い月の縫い取りのある服を着ている。
 解放軍の兵士だった。
 日向は息を飲んだ。何かの間違いではないかと思った。ことに東都の人間である自分を、解放軍の兵士が生かしておくはずがない。
 それにこの男にはどこかしら違和感があった。
 解放軍の兵士は山ほど見たが、こんな男は初めてだった。
男は、血に染まった軍服の襟を止め、無造作に肩に熱線銃を下げている。その広口径の銃は撃った際の反動がひどく大きいものである。日向の部隊でもそれを持っている男がいたが、その男は体重が百キロ近くもあるような大男だった。この銃が背は高いがやや細身の男に、到底扱えるようなものだとは思えなかった。
 男は重い銃を棒切れのように軽々と左肩に下げ、日向を静かに見下ろしていた。
「……殺すなら早くしろ……」
 日向はゆっくりと首を反対へ傾けて、男から顔を背けた。
「―――……わたしは昨晩からあなたと一緒にいたのに?」
 男は落ち着きはらってそう答えた。
「昨晩から?」
「そう。あなたは眠っていた」
 思わず振り向いた日向に、男は眉一つ動かさずに、銃を、これも無造作に下ろすと、彼のそばに座った。腰から銀色の筒を外す。
「水を汲んできた。少しだけ飲んで」
 日向は、いぶかしむように男の顔を見上げた。喉は乾いている。今までさほど意識はしなかったが、水と聞いた途端にたちまち乾きに気づく。しかし、この解放軍の軍服を来た男がなぜ自分に水を差し出すのだ。
「毒が入ってるんじゃないかと思っているような目だな」
 男は筒の蓋を外すと、一口飲んで、そのあと蓋に中の水を注いだ。
「……一度に飲むと身体に障る。少しにしておきなさい」
 日向は信じられないような顔つきで男の顔を見守っていたが、男から水筒の蓋を受け取った。一口含む。新しい水だった。まだ冷たい。
「……なぜ俺に?」
 蓋を返しながらそう聞くと、男は眉をひそめた。彼の軍服を染めた血が、彼自身のものらしいということを日向は気づいた。傷だらけだ。頬にも新しそうな傷が一つある。その頬が女のようになめらかで、傷に似つかわしいものではない。
 男はゆっくりと自分の肩口の傷に手をあてがった。
「生き残り同士殺しあっても馬鹿らしい」
「生き残り? ……あんたは解放軍だろう」
 日向は、ぼんやりと彼の腕の赤い月の縫い取りを見つめた。よく見ると縫い取りは埃に汚れてほつれかけている。
「解放軍は亜須迦と手を結んで優勢じゃなかったのか」
「昨日まではそのはずだった」
 男は強くなり始めた日から目を守るように睫を伏せた。
「亜須迦は裏切った。もとより我々と手を結ぶ気など無かった。……東部の戦力は壊滅状態に近い」
「その情報をどこで知った……?」
「昨日殺した亜須迦軍の男から聞きましたよ」
 男はやはり表情を動かさなかった。どうやら感情を抑えることを習慣にしているらしい。虹泉の人間にはそういう人間が多い。義侠心にかられて熱くなった風には見えない解放軍の若い男たちに、日向は幾度か違和感を感じたものだった。
いっそ憎しみをもっと剥き出しにしてくれたほうが、彼自身どれだけ楽だったか解らないようなところもあった。
 それだからこそ、ひとり一人を標的にすることに異様な程の苦しみがあったのだ。
「……どうしてもそうなるな。……」
 日向は、草の上で、少しでも傷の痛まない姿勢を取ろうとして息を吐いた。
「どれだけ平気で汚くなれるかの勝負だ。……無能な指揮官に当たると、だからおれ達は死ぬしかなくなる」
「わたしたちには少なくとも罪悪感はない」
 男は白い鼻梁の脇にこびりついた、乾いた血を指でぬぐい取った。
「……それは何よりだな」
 日向は目を閉じた。これ以上話したくはなかった。相手が亜須迦の人間ならばともかく、解放軍の男とあっては。
 なぜ彼が自分を殺さないのかそればかりが気になった。そしてあわよくば他人の手で楽になろうという気持が生れかけていることに気づいてうんざりした。小さいものだがまだ銃を持っている。解放軍の男は、それを自分から取り上げていなかった。こんなふうにことごとしく考えているくらいならばいっそ自殺すればよい。
 自分に水を差し出した男にその銃を向ける気は勿論ない。
 こういうのはやはり損な性質とでも云うのだろうか。
「もうすぐ雨が来る」
 男がぽつりといった。
「……雨……?」
「そう。土地の者ならばすぐに分かる。南に雨雲がある。南風に乗って一刻もすれば雨が降ります。雨が降ればここらへんは一日以上カザの煙の中になるから―――……」
 男は自分自身に確認するようにゆっくりと噛み締めるように呟いた。
「そのときに移動できたらそれが一番いい」
「カザ? ああ、まだ見たことはないが。……」
「知っていますか」
 日向はうなずいた。カザというのは、ここらへんの山岳の多い地方の、呆れるほどそこかしこに群生する潅木で、雨に濡れると、赤い煙を吹く。一度雨に濡れると一日半から二日以上、人には無害な煙を吐き出し続ける。雨の少ない地方だから、日向はまだそれを見たことはないが、カザの煙がわだかまり始めると何も見えなくなるという話は知っている。
 低空飛行船の調子が悪くなるという話も聞いた。
「人の作ったものにだけ害になるんですよ、カザは」
 不意に男は黙り込んだ日向にそう云った。心を読まれたような的確さだった。日向はぎくりとして男の顔をまじまじと見つめた。
「ああ―――……失礼」
 男は、気が付いたように眉を上げ、視線を微妙にそらした。
「感応者か?」
「……そういう云い方もできるかもしれないな」
 男は、日向の肩の革紐のベルトをはずして、水筒の水で首筋の血を拭い始めた。
「……そういえば聞いたことがある。……解放軍のなかに、感応者の兵士が一人いて……あまり強くて、気違いと呼ばれていた―――……」
 日向は、記憶をたどって眉を寄せた。
「そう、長い、髪―――……」
 思わず手を伸ばしていた。掌に、意外な程なめらかな冷たい髪の感触があった。
「―――あんたか……?」
「そうかもしれない」
 男は日向の肩口を拭う手を止めて、日向をまっすぐに見つめた。
「なぜ、助けて―――こんな風に……」
「わからない」
 男は言い淀んだ日向に首を振った。埃と血で汚れた顔が静かで美しかった。鼻梁の高い、白い顔が甘い。日向は横たわったまま男の視線を不自然に安らかな気分で受け止めた。
「名前をきいても仕方がないか……?」
 なぜかまた、無意識に神にすがる気持ちになった。そういう声を出した。その自覚があって、自身の精神が弱っていることに腹を立てるより、日向にはその男にそんな声を自分が出せたことが解せなかった。
 男は、膝を崩して自分の胸に引き寄せ、指で地面に字を記した。
「若島津」
 静かだが明るい。虹泉の月のようなまなざしだった。冴えざえと冷たくもあった。
 瞬間、日向に息の詰まるような既視感が訪れた。こんな感じは初めてだった。
 若島津という名前が自分のなかに何かを呼び起こしたようだった。しかしこんな感情を呼び起こすような記憶が、この男と自分の間に共通してあるわけはなかった。この男と自分は全くの初対面だ。感応力をもつという若い男はそれに気づいたようだった。
 男は不思議そうにちらりと彼をみて、呟いた。
「不思議だ。わたしも同じです」
 感情の波。
「だからあなたを殺せなかったのかもしれない」


            #
 ―――Wが食事をしない。
 ―――なぜだ。
 ―――まだあのことを悔やんでいるらしい。
 ―――あのことか。なぜだ、彼とWは全く階級が違う。
 ―――Kは同性だったからだ。同性を配偶者に選ぶことは許されていない。
 ―――同性では子孫を残せない。
 ―――外界はどうなっているだろう。
 ―――我々はここにいる、我々の階級はすっかり助かったのだ。外界のことなど考える必要はない。シェルターは完璧だ。冷凍睡眠措置を取れば、我々の代で地上に帰ることも可能だ。
 ―――このままではWは死んでしまう。
 ―――彼は本気でKのことを愛していたのか。馬鹿な。考えられない。Kは優秀な科学者だったが、我々とは階級が違いすぎる。
 ―――しかしWはKのために死のうとしている。
 ―――彼をシェルターに迎えればよかったのか。そんなわけには行かなかった。シェルターの定員は多くはなかった。
階級の低いものまでを受け入れる余裕はなかった。
 ―――Wは食物を受け付けない。
 ―――感傷だ。
 ―――しかし感傷の力は強い。
 ―――Wの血は優秀だ。記憶を消してMにWの子を生ませればいい。
 ―――すぐに処置をしなければならないぞ。そのまえにWが気づいたらおしまいだ。
 ―――Wを失うわけには行かない。
 ―――Kを忘れさせることができるのか。
 ―――出来る。
 ―――そんなことは本当にできるのか。
 ―――出来る。
 ―――Wの感応力は高いぞ。機械の処理を受け付けないかもしれない。
 ―――もしそうなったらWの脳を破壊する。脳死状態でもWの身体から精子を摂取すれば彼の子孫は残せる。
 ―――……。
 ―――未来のためにWはKの事を忘れなければならない。
それがWの義務だ。
 ―――……。

            2
 男はまた眠った。昼の間、雨がくるまで眠っていたほうがいい。
 自分も本当は眠らなければならない。
 若島津は、眠る日向という男のそばで座りながら、すっかり高くなった日差しの影の部分に僅かに身体をずらした。こんなふうにしていると疲れるのが早いのは解り切っていた。
昨日の晩も眠れなかったのだ。
 この男のせいといっていい。
 若島津は、眠る、背の高い男の顔を見下ろした。確かにこの男の顔を見るのは初めてだった。この男が自分を見たときに見せた反応と、自分がこの男を見つけたときにした反応はそっくりだった。
 彼は生まれ付き高い感応力を持っていた。それは、かなり純粋に能力として身体に定着したものである。汚染された空気で身体が弱く生まれ付いたものが持つ感応力とは、かなり性質を異にしている。
 障害者の持つ感応力は、言語まではっきりと伝えられる優秀なものだ。しかし若島津はきわめて健康であり、その力は感情や意識の抽象的な色合いを読み取ることはできても、複雑な単語の伝達や具体的な言語の伝達は不可能だった。
 しかもそれは、人によって強く作用したりしなかったりでかなり変則的である。
 むしろ彼の持つ能力は感応力よりも手を触れずにものを動かしたり、内側からものの質量に変化を持たせて破壊したりする力のほうが強かった。
 彼は神官の家系に生れた。
 彼自身も神官の務めを行なってきた。十歳のときからであるから、もう十七年にもなる。本当なら、戦いに出なくとも許される立場だ。彼のその能力は神官の家系に伝わったものだった。彼が戦いに出るということを知った信徒たちは、顔色を変えて彼を止めた。
 ―――あなたがなぜ戦われるのですか!
 ―――そんなことをなさる必要はありません、わたしらが行って亜須迦や東都の奴等と戦います、いけません……!
 ―――奴等のためにその清いお手を汚してはなりません、神官様……!
 ―――あなた様にもしものことがあったら、わたしらはどうすればいいのです。
 しかし彼は笑って首を振った。ならば少しでも安全な司令部にという彼らの望みも聞かずに、若島津は銃を取って最前線に出た。
 清いお手をと彼らは云った。
 しかし若島津は知っている。文献を読んだのだ。神官の家系は、神につかえてきた家系などではない。
 昔この世界を巻き込んだ巨大な戦争の際に、核シェルターを独占して生き延びた、一部の特権階級の子孫が、この神官の家系なのだ。人の歴史のなかで、人に階級がなかった時代はない。いつも強いもの、優秀なものが、階級の玉座に敷きつめた権力の敷物のうえで甘い蜜をすすった。弱肉強食を最も効率よく行なった生き物が人間だった。
 その最終(今の時点では少なくとも最終となった)大戦の頃、超自然的な感応力を持った者が、社会の上層部を占めていた。シェルターへの優先権も彼らが占めた。その子孫が若島津なのである。
 清いお手とは。
 何と皮肉なことだろうと、彼は唇を噛んだ。しかし、それでも彼は神官職を落としめるつもりはない。少なくとも神殿は民の心に救いと安らぎを与え、紛れもない依りどころとなっていた。それがたとえどんな汚れた経路を持っていたとしても、それを殊更に、神殿と神官に救いを求める者たちに告げて、絶望させようとは思わなかった。
 しかし彼は健康だった。きわめて丈夫な肉体を持っている。解放軍に加わった大部分の若者たちよりも、彼は遺伝子に核の影響を持たない分、より丈夫であったかもしれない。
それに加えて彼の家系は、常識外に強靭な筋力を持っている。やっと少年になったばかりのような若い男たちが、慣れない手つきで銃を持ち、出かけてゆくなかで、自分一人神殿に座ってはいられなかった。
 虹泉が、二大国の争いの対象になっていることで、自分の国の民がいかに苦しんでいるかを彼は知っている。
 苦しむ民が多いからこそ神殿は強く、彼らの苦しみの依りどころとなってきた。
 解放軍がようやくまともな力をつけたことは望ましかった。もし今回勝利を手に入れることができたなら、これ以降も大国の干渉を受けない独立国家としての体裁を保つことができる様になれるかもしれなかった。
 貧しさに苦しんで耐えかねて、神殿にやって来るものは多かった。
 宗教を悪いとは思っていない。それが救いになるならそれを取りあげてはならなかった。宗教にはよくも悪くも人間の原始的な本質に基づくモラルが存在する。しかし、神官などといいながら、若島津自身は神を信じてはいなかった。
 彼は懺悔を聞くものであり、神の名において許しを与えてやるものである。神の名をもって彼はモラルの代表者でなければならなかった。彼の持つ超自然の力は、だから彼自身のために使ってはならなかった。それは彼らの信じる神からの借り物である。
 自分が、核シェルターを独り占めしたエリート階級の生き残りの子孫であることを知ったとき、若島津はそう思った。
決してこの力を自分のためには使わない。これは、神を信じなければならない苦しい暮らしの民の、信仰心からの借り物なのだと思った。
 決して。
 この戦場に出るまえ、彼はしきりに夢を見た。虚空に自己の意識が独立して漂っている夢である。自分を抜け出したその意識は、誰かを探していることを知りながら、誰を探しているのかを知らずにいる。
 そうして、自己の存在意義を繰り返し繰り返し問うていた。
 奇妙な夢だった。夢というより、その内容を幾晩も繰り返す正確さには、自分以外の存在の執念めいた意志を感じもした。存在意義たるものを探さねばならないと思い始めたのは、その夢をみてからであった。己の存在意義を神官として生きることであると思うには、彼はあまりにも現実にたいしての認識が冷静で正確過ぎた。民衆の心を傾ける熱さを受け止めるのが、正直辛いことも度々だった。
 それまで、自分自身が何ゆえに存在しているかなどと問うて見たことはなかった。しかし一度そのことに思いが及ぶと、自分がその答えを痛切に欲していることが解った。
 そこへ行けば見つかる。
 そこでも力は使わない。紛れもなく、自分は一個の存在として生きることになる。
 そういった奇妙な思い込みと一緒に彼は銃を取ったのだ。
 戦いの最中も不思議に気持は澄んでいた。これは浮世離れしたということなのかもしれないと思って苦笑することもあった。
 尤も、もともと彼の国の人間は感情があまり顔に出にくいということもあって、感情の激しい亜須迦人や、厳格で国粋主義的観念に狂信的な熱狂ぶりを見せる東都人に、昔から嫌がられているようなところがあった。
 忍従を強いられることの多い歴史を持っているからだ。侵略に対して力を持たない歴史ばかりを積み重ねてきたからだ。シェルターから出たあとの歴史までは、予測しえなかっただろうエリート達がこれを知ったらどのような顔をするだろうと、若島津は皮肉な笑いをしたこともあった。
 弱肉強食の歴史を繰り返す人間は馬鹿だ。知能を持たない原始的な動物ですら欠かさない、学習能力を失ってしまったのだ。
 亜須迦に裏切られることを予測せずに、うかうかと亜須迦の誘いに乗った解放軍の指令に腹が立った。軍隊を拡張してもこれでは、兵法も無しに戦う過激派と何も変りはしない。
ゲリラにしても、地下活動をする者にはする者の、慎重さや知恵があるのだ。安心感というものは人の判断力を駄目にする。
 何が軍だ。体裁など気にせずに地下活動を続けるべきだった。すぐに旗揚げをしたがる愚かしさが解放を妨げる。そしてそういった人間の引き入る軍が時の運を得て勝利しても、また民衆のことなど御構いなしの独裁政権を作る。人間の歴史はたまらなく愚かしいその繰り返しだ。
 彼は深い傷を幾つか負っていたが、しかしそれは生命にかかわるほどのものではなかった。地理や気風に明るい土地の人間である。生き延びる機会は幾らでもあった。
 神殿を出て人を殺すために銃を取ったのだ。
 無駄死にはすまい。
 彼はまだ若い。死ぬことを恐れるほど彼は自分自身の暮らしを確固として持ってはいなかった。むしろ生よりも自分の誇りを大切にできる若さを持っている。死よりも、無駄死にすることを恐れた。
 国のために犠牲になろうとする犠牲精神ともまた違う。犠牲にしたくないといったほうが正しい。犬死にで終らせるのでなければ、それは犠牲ではない。それに自分はここに何かを探しに来た。求めたものに出会った感触はない。それが人であるのか、具体的な事物であるのかも判らない。彼には予見の能力はなかった。
 逸ることはしていない。焦ってもいない。
 若島津は滅多に激することのない男だ。笑うことも声を荒げることもあまりしない。ただ、そのひっそりと静かな表情の裏側で考えている。生れてからこちら、ずっとそのように考え続けてきたような気がする。現実は何か手ごたえがなくたやすい。もっと重みのある、それに振り回されるような激しさを欲しがっているのかもしれなかった。
 何か一枚幕をかけたように、義侠心も、義務感も、怒りも、戦場に出て傷を負った痛みでさえ判然としない。現実感のないまま生きてきた。
 若島津にとっての現実がこの戦場にあるような気がしたのは、これは一種の予見なのだろうか。戦場、といって正しいかどうかは解らない。ここ、なのである。
 確かに何かがここにあるはずなのだ。何かがここで起こるはずだと云ってもいい。
 仲間を失って、傷の手当てをしたあと、陽が沈んだ。夜の間に、東の街道に出て、崖を伝って行けば、亜須迦軍にも東都軍にも見つからずに中心地の洋庚に行けるはずだった。そこで解放軍と合流すればよい。
 不慣れな亜須迦の人間や、東都の人間には虹泉の夜歩きは危険だったが、彼は大丈夫だ。夜目がきく体質であるし、感もいい。
 東の街道に出るために、慎重に場所を選びながら彼は岩場の間を歩き続けた。
 満月だった。
 新月なら有難かったのだが。
 そう思いながら彼は金属製の水筒に黒い布を被せた。額の輪だけは外すわけには行かない。この下には神官の印である天紋が掘り込まれている。万が一敵に見つかって殺されても、この天紋だけは見られないようにしなければならない。
略奪の対象にならないように、だからわざと錆びて価値のない金属の輪を選んだのだ。
 歩き始めたとき、まだ中天に傾いていた月が、やや東側の空に高く登ったころ、若島津は、彼を見つけた。
 男は、うつぶせに倒れていた。軍服をみてすぐに、東都の人間だと解った。その感じでは死体なのか傷ついて倒れているのかすぐには判らなかった。
 男は生きていた。どうやら脇腹に負った傷が深いらしい。
悪い状態であるようだった。
 東都は今回負け戦だ。自分からしかけた戦いだ。充分に準備はしたのかもしれないが、しかし虹泉の土地から吸い上げた余力を多く持つ亜須迦に適わなかった。
 若島津は、静かに立って、うつぶせて浅いかすかな息をする男を見下ろした。
(生き残り同士というわけだな)
 彼はどこか冷静にそう考えた。尤も、この男の東都の軍は、亜須迦ではなく、自分たちの解放軍にやられた可能性が高い。
 とどめをさしてやったほうがこの場合親切だろう。自分たちならまだしも、東都軍ではこの傷で生きて帰れる見込みはまず無い。
 彼は、男を仰向かせた。満月の光が、青ざめた顔をはっきりと照らし出した。
 思わず彼は跪いた。
「……!」
 名前を呼ぼうとして、しかし自分がその男の名を知らないことにすぐに気づいた。
 倒れて死にかけた男のかたわらで膝を付いたまま、彼はその男の顔を食い入るように見つめた。
 これは、誰だ。
 この男を彼は知らない。
 しかし、この、驚きは何だ。
 思わず彼の名を呼ぼうとした自分の唇を彼は覚えている。
 確かに自分は彼を知っているのだ。
 彼は男の顔を見つめたまま座り込んだ。銃を握りしめた手が震えた。胸が激しく高鳴り始める。彼は覚えのない懐かしさに胸がいっぱいになって、息苦しくなった。
 男の頬に触れた。胸が締めつけられるほど懐かしい。
(―――……懐かしい?)
 自分のなかの恐ろしく鮮烈な感情に戸惑いながら、彼は注意深くその感情をはかってみた。懐かしいとは。確かに、自分はこの男を知らないのに。
 燦燦とふりそそぐ冷ややかな月光の下で、若島津はすくんだようになって男を見下ろした。
 陽に灼けた男の匂いの強い貌、血、傷口、固く閉じたまぶた、東都の軍服―――。
 彼は大きく呼吸した。
 東都の軍服だ。
 間違いはないが、それでもいい。これは自分自身が許すのだ。
 この東都の男を助けなければならない。
 死なせてはいけない。胸に顔を伏せた。心臓の鼓動は落ち着いている。明日には雨が来る。ここら辺一帯はカザという雨にあたると発煙する植物の群生地で、雨が降れば、カザの吐き出す煙で一日は動きやすくなる。
 何とか助けられるかもしれない。
 この男を安全な場所に運ぼう、この傷で昼の炎天下にさらしたら死んでしまう。東都の人間は、概して暑さに弱い。若島津は、気温が摂氏五十度以上になっても耐えられる。東都の人間は、三十九度になればもう殆ど動けなくなってしまうのだ。
 自分の傷などたいしたことはない。
 不意に燃え上がるような歓喜が沸き起った。
 彼は見いだしたのだ。
 今まで闇のように彼の記憶や情熱をとざしていた黒々としたもの、そのなかに赤い鮮烈な色を塗り添えるように、生れ出た、うぶ声を上げる、鮮烈に、熱く、若島津の身体に今まで知らなかった火をつけた。身体の深くから揺りあげるように喜びを生みつけた。
 若島津は、胸の高なりに目をすがめるようにして男の顔を見つめた。目を開けてほしい。声が聞きたかった。名前を呼びたかった。確かに彼を知っている。間違いはなかった。
 神官は、男を自力で水辺まで運んだ。
 自分の力の強さが有難かった。彼の家系には大柄な人間は少ない。背が伸びても骨太なものは殆ど居なかった。その姿に不似合いなように力が強かった。
 男の傷の手当てをして、男が目覚めるのを待った。
 男は朝方一度目を覚ました。
 幸福感と既視感はますます強くなり、経験したことのない感情の高まりにゆられて困惑しながら、習慣となった感情を殺すことを止められなかった。
 男と言葉を交わしながら、それをじれったく感じたほどだった。もっと叩きつけるような激しさがあるのに、彼は自分の醒めた声を聞きながら、それでも彼を揺する幸福に酔った。高まる既視感と懐かしさに押しつぶされそうになって、若島津は男の名を尋ねることもできなかった。
 それも自分でおかしいようだったし、そんなことをある面冷静に見つめていられる自分もおかしかった。
 男が眠ったあとも、気持の高まった彼は眠れなかった。
 そろそろ気温が高くなり始める。昼過ぎには雨が降る。雨が降るまえに亜須迦軍が来たら終りだ。
 気違いと、東都軍の兵士が自分をそう呼んでいることは知っていた。眉一つ動かさずに引き金を引き続ける姿が恐れられる所以も解るような気持はした。
 特にそれで感情を動かされはしなかった。確かに義に酔う東都人から見れば、義務的に着々と計算して戦う若島津の姿は、ある意味で気が狂っているように感じられるかもしれなかった。
 虹泉の人間は、プライドが高く感情の激しい東都人にくらべて発狂するものが少ない。これは民族性だ。全体的に醒めていてつかみ所のない傾向があるように見えるらしい。そういった意味では若島津は、実に虹泉の人間らしい男で、感情の発露が少ない。虹泉人のなかでもそれは群を抜いていた。
 だから常人離れして強く、冷ややかな顔をした彼が気違いと呼ばれていたのだ。気違いという呼び名の真偽は退けておいても、彼が恐ろしくつよく、敵軍を怯えさせる存在だったことは間違いはない。彼の存在は知れ渡っていた。畏怖に近い目でも見られた。誰も、しかしその狂戦士が、信仰の根深い虹泉の神官だとは思いもよらないだろう。
 しかし、いかな若島津といえども、今の傷の具合ではそう多くを相手にはできない。
 彼は男のかたわらに膝を抱えて座りながら、殺した溜息をついた。
 蒸しあげるような大気のなかでふと意識がぼんやりしかけたとき、ふと彼は髪が引かれたことに気づいた。
「……何ですか」
 男が目を開けている。昏い目だ。
 傷ついた目をしている。若島津はその目を見下ろして胸に痛い塊が込みあげるのを堪えた。会いたかったという想念が巻き起こるのを繰り返し不思議に思う。
 あまりそのエネルギーが激しいため、人の感情に侵されているのではないかと、己の感能力―――それはどちらにせよ微弱なものであったのだが―――ゆえに疑うほどだった。
 それの激しさに怯えるような気持にさえなって、先刻男の名を聞くことができなかったのだから。名前を聞いてしまったらもう逃れられないような恐怖さえあった。楽しみを引き伸ばすような妙な気持ちもあった。
「どうしましたか」
 驚くほど冷静な声が出た。そう聞いて、彼は男がひどく発熱していることに気づいて、胸を焦がすほど不安になった。
 男の顔は熱の赤味を通り越して蒼白になっている。土気色に乾いた唇はしかし動かなかった。それでもうなされているようでも、意識を混濁させているようでもなく、彼は若島津を静かに見上げている。
 この男も自分と違った意味で、耐えることになれた様子だ。苦しみも痛みも、その不可抗の顔色や息遣い以外に男の表情には現われていない。
 男は肘をまげて腕を上げ、若島津の髪をひと房握りしめていた。正体の判らないもので、自分が、溢れそうに満たされていることに不安を覚えながら、若島津は男の顔を覗き込んだ。
 男の指に、驚くほどはっきりした力が不意にこもった。指に握り込まれた髪が手繰られ、若島津は男に引き寄せられた。
「っ……」
 一瞬喉を詰まらせるようにして短くあえぐ。男の熱さが顔を近寄せると伝わってくる。
 男の意図を悟って、拒まないばかりか、痛いような震えに心臓を掴まれて、若島津は男に唇を塞がれるままに、彼の自由になった。
 男の唇も自分の唇も熱く乾いていたが、どんな甘い水も届かないようだった。この唇も知っているような気がする。その複雑な記憶が喉の奥から込みあげてくる。いぶかしんだ。
 しかしどうでも良いと思う気持もあった。
 知っている。
 それさえ確かであれば後は捨て去ることさえ惜しくない気がする。ほのじろく胸の奥に光が灯ったようだった。

             #
 ―――K。
 ―――K。
 ―――いないのか。もう終ってしまったのか。わたしの声はもうお前には届かないのか。お前の命は終ってしまったのか。
 ―――ひどい。
 ―――ひどい。
 ―――K。
 ―――答えてくれ、K。
 ―――K。
 ―――お前はどこにもいない。いない。いない。
 ―――K。
 ―――どこにもいない。
 ―――どこにもいない。


            ##
「それでは行きます、老先生」
 長い髪をしっかりと結んで、若い男は、老人に向き合った。
「お前が行く必要は本当にないのだ」
「それがわたしに要求されないことは知っています」
 若い男は老人にそう答えて、珍しく少し微笑した。背の高い男だった。まだ二十代の後半に差し掛かったばかりという顔だ。よい意味で暮らしの苦労を知らない目をしている。虹彩が綺麗に透きとおっている。静かでつめたい、明るい光が、黒い虹彩のなかに潜んでいる。
「老先生。この間も申し上げました。わたしは地下室の文献を読んで、自分のルーツを知りました。…………」
 男は、色の白い指を握りしめた。
 白い指の先が、血の気を失ってもっと追いつめられた白さになった。しかし、男の顔は、そのような激情を持っているようには見えない静かさだった。
「……虹泉は美しい国ですね? 先生」
 男は、窓の外を見つめた。虹泉はもうすぐ夏を迎える。ごつごつと山岳の多い国であったし、南の砂漠地帯は厳しかったが、しかし古い戦争で人の手によって汚され切らなかった虹泉の土地は、猛々しい自然の顔を取り戻して、地表も緑も、空もぎらぎらと鮮やかだった。
「……美しい国だな」
「美しい国です」
 男はゆっくりとそう繰り返した。
「老先生、わたしは二度と自分の特権によって身を守ろうとは思いません」
 男は囁くように静かに云った。
「それはお前のしたことではない」
 老人がそう云うと、若い男は穏やかに首を振った。
「いいえ」
 そしてもう一度確かめるように呟いた。
「わたしがしたのです」
 老人は、力なく腕を垂れて、ぎごちなく椅子にかけた。彼は若い男と同じ役割を、二代前に務めていた。男の、また男の父の相談役となって久しい。老先生と呼ばれる彼は若い男の祖父であった。
 きっとこのまだ若い孫は、生きては帰ってこないだろう。
行かせたくはなかった。しかしその決心が強固で動かし難いのも知っていた。
「お前は、自分の役割が他にあるとは思わないのか」
「一度定められたことが絶対などということはありません」
 老人の孫は、二年前から、彼を決して祖父とは呼ばなくなった。ただ老先生と呼んだ。彼の息子を先生と呼んで、血のつながりを認めまいとしているように見えた。静かな気質であったのが、殆ど笑わなくなったのもその頃であったように思う。
 いぶかしんだ変化は、男が読んだ文献の、ルーツ、から始まった。男はそれを、戦いに出ることを決めたとき、老人にだけ打ち明けた。
「行きます」
 孫の顔は晴れやかだった。
「帰ってきます、老先生」
 こんな晴れやかな顔は久しく見なかった。孫は、この血筋を自ら絶とうとしているのではないかと思った。
「祈っている」
 それならそれでも良いのかもしれない。戦いに出ることはすでに適わない老いた男はそう思って、戦いに出ようとする現神官の手を握った。
「わたしも毎日祈ります。祈るために髪は切りません」
 そしてもう一言何か言いかけるように若い男は老人を見たが、何も云わないまま、また少し微笑して手を上げ、戸を押してそろそろ陽炎のたつ虹泉の道へ出ていった。見送りも要らないと、老人以外には出立の日取りを黙ったままだった。
 帰ってきます。
 そう云ったではないか。
 老人は立ち上がらなかった。孫の後ろ姿を探すこともしなかった。若い男は今まで、一度も彼に嘘をついたことはなかったのだ。

            3
 間違いはなかった。
 日向は、若島津と名乗った男の顔をぼんやりと見上げた。
彼の記憶力である。まず間違えることはない。
 若島津はゆったりと座って何か考えているようだった。その超然とした顔は、こんな気候の土地であるのに、殆ど日に焼けていない。皮膚がかなり丈夫なのだろう。東都の人間にこれほどの適応力があれば、と考えて苦笑する。やはりつい医者の思考になる。
 苦笑したと思ったが、自分の唇は動いていない。傷はやはり、思ったよりずっと悪いようだった。
 若島津は自分が目を覚ましたことに気づいていなかった。
 日向は、あまり明ら様な視線を向けて感応者である彼が気づかないように、彼を静かに見つめた。
 戦いの最中、彼の話を、日向は自分の仲間から幾度か聞かされた。解放軍に、気違いと呼ばれる男が居ること。
 髪の長いその男は、非常識な程強いと聞いた。
 ―――面みたいに動かない顔でぶっぱなすからな、それで変に綺麗ときてるから、おっかねえ。……
 ―――まともな感じじゃねえな。……
 名前など勿論知らなかったし、彼らの行動は地下活動である。こんなふうに顔を合わせることがあるとは思わなかった。この男が何を考えて自分を生かしておいているのか彼には判らなかった。人質にするつもりでもなさそうだった。
 尤も、解放軍の兵士の名簿を持っているわけではない。彼が確かに日向が噂を聞いたその兵士であるという確証はなかったが、亜須迦の裏切りののちに生き残っているということはよほどの強運の持ち主であるか、並み以上の腕を持っていなければいずれにせよ無理な話である。
 間違いはない。
 それなのに自分はこの男に懐かしさを感じている。
 しめつける懐かしさと微弱な征服欲と、今更ながらにそんなものが自分に今残っていたことをいぶかしむような、甘い感情である。
 この男に征服浴を抱くだけなら解る気はする。―――日向は発熱に僅かに曇った目で、男を見守った。
 座って何事か考えている男。美しい男ではあったが、それは男娼のなよやかさとは全く別のものであった。むしろその落ち着いて静かな様子は、聖職についたものを連想させる。
日向は弱々しいものにひかれるよりも明るく光を放つものに引かれるところがあった。女に対してでさえそうだった。
 しかしこの男の強さというのは、表面上はっきりと表われたものではない。凪いだ水のように静かで、それが懐かしかった。
 ずっと熱を出している自覚はある。どうも少しおかしくなっているのかもしれない。
 日向は胸のなかで解放軍、と、彼らが自称するのと同じようにそう呼んだが、東都軍も亜須迦軍も、解放軍のことを反乱軍と呼んだ。薄汚い戦争だ。吐き気がする。解放戦線を潜ってきた若島津という男の顔はみずみずしく美しかった。
この美しさは、己を薄汚いと思わずに済むものの美しさであるかもしれない。
 若島津が、彼の視線に気づいたように背中を揺らした。どことなく気遣わしげに覗き込んできた。
 髪に触れたい。髪はきっと冷たいだろう。気温も身体も熱くて発火しそうだった。
 死ぬのだ。そう思った。死ぬかもしれないと確信に近いように考えているのに気持が静かで、日向にはそれが判らなかった。この男の静けさに引かれて自分も落ち着いているのかもしれない。彼は腕を曲げて持ち上げ、男の髪に触れた。
髪の先は思った通りひやりとさめていて日向の掌を鎮めた。
 若島津が目を見開いた。まなざしの濁りなさが印象的だった。
「どうかしましたか」
 日向は、髪を引き寄せた。そうすることに何かひどく大きな意味があるように思われた。
 たった―――それはたった唇を触れあわせる、水を与えることでもなくむしろ何か奪い取るようにそうする、ただそれだけのことだ。
 それだけのそれに愛を打ち明けるような重々しささえあることが自分で滑稽な程だった。女に触れるときよりもこわばる自分の腕の筋肉を意識しながら、日向は若島津を引き寄せた。目まいさえなかったら、起き上がって若島津を抱き締めたかった。自分の腕の幅と胸の平らな厚み全部を使って、このひやりと静かな男を抱き締めたかった。彼の胸の皮膚が、男のじかの肌を味わいたがってうずいた。
 男は驚きの表情をちらりと見せて、懺悔に出会ったようにひそめた眉と哀しいようなまなざしで彼にゆっくり倒れ込んだ。男が何かに突かれたようにびくりと目を閉じるのを、日向は唇が触れあう寸前に見た。
「あなたの名前は……?」
 男は目を閉じて、唇が再び触れそうに近づいたままでそう聞いた。声は少しふるえているようだった。
「日向―――太陽の日に向くと書いて、日向だ……」
 日向はまた唇に触れるために、答えるのももどかしいという動きで若島津のうなじを抱いた。
 抱え寄せた身体はしなやかで日向の飢えを裏切らなかった。これはもう決まっていたことに違いない。彼らを、瞬く間に引きずり出して容易く陶酔させた甘さは偶然にしてはできすぎていた。
 雨が近いのか少し気温は下がったようだ。生暖かい風が、重なりあった身体に吹き付けてくる。身体の内側から、しかし熱は昇ってきている。
 胸も熱い。
 酩酊感にみぞおちが焼かれた。この瞬間を待っていたことを、彼らの身体を作った遺伝子が知っていた。間違いのないそれには、確認は必要なかった。
 若島津の肌はやはりさめて冷ややかだったが、するすると指を迎え入れるなめらかさも持っていた。うなじに忍ばせた指をゆっくりと撫で下ろし、日向は彼の背中に触れて、次に若島津に対して自分のなかで沸き起ったものに戸惑って黙り込んだ。
「俺の周りにいつも人はいたのに―――……」
 そう云いかけて云いよどむと、若島津は微笑した。何かつらそうな微笑だった。
「一人のような気がしていた?」
「……誰にも云えることじゃない」
 若島津は、長身を日向の脇に投げ出すようにかがめて日向の腕に己の胸を預けながら、まぶたの熱くなるような優しいまなざしでまた笑った。
「……わたしはあなたに会って満たされたけれど……?」
 日向は生温かく湿った風邪に呼吸が止まるように思った。
彼の着た服の赤い月の縫い取りが痛かった。素直には喜べない、自分の手は並外れて思えるほど血に汚れているから。
 それなのに、その軍服を着た若島津は、傷ついた自分の身体に重みをかけないように気づかっている。
 彼の背骨に篭った力と緊張が日向の掌に、あたたかいふるえに変わって伝わってくる。
「……俺は侵略者だぞ。……」
 呼吸が詰まるのは、傷のせいだろうか、それとも、吹き付けて段々と激しくなってくる風のせいだろうか。そうでなければ、自分が殺した、ひどく若いゲリラの男たちの苦痛に歪んだ死に顔の記憶のせいだろうか。
 若島津は、眉をひそめた。
 そういう表情をすると、冷利な顔つきが際立った。おそろしく整った顔はしかし、今はつめたくはなかった。
「……傷ついたひと……―――」
 若島津は、囁くように口にした。
 この男はどういう男なのだろう。なぜこれほど人を安らがせる口調を持っているのだろう。まるで彼自身は一つも罪などもっていないように、しかしそれは人を糾弾する潔癖さにはつながらない。こんなふうに人を許せる人間がいようとは彼には思えなかった。
「何か望みは……?」
 若島津が彼の頬を包んだ。
「―――……」
 日向は、若島津をゆっくりと自分のうえに引き寄せた。
与えられるというなら、この男が欲しい。水よりも、命の保証よりもみずみずしい。この男を手に入れられれば、もうそれでよかった。
 いったいなぜそんな気になったものかいぶかしんだ。少しも不自然な感触のない感情が奇妙だった。
 彼は若島津の髪に触れて、次に自分の頬に触れたてのひらに触れてみた。
「……お前に触れさせてくれ。……」
 そうささやくと、若島津は、抱き締める腕のなかで浅い息をした。優しい呼吸だった。溜息のようでもあった。
 若島津は身を起こすと、髪を止めた紐を解いた。そうして服のボタンをためらうようにゆっくりとはずし、肩から片方を滑り落とした。日向の目から肌を避けるように、視線を僅かにそらした。
 日向は男を抱きしめた。
 雨がぽつりと頬をなめた。
 弱い雨のなかで抱き合ったまま、段々と辛そうにふるえる若島津の熱い息をくりかえしふさいで、幾度か目頭が熱くなった。
 別に感傷を覚える理由はなかった。なのになぜこんなふうに苦しいのだろう。その苦しさは哀しみに似ていたが、日向にはその理由が判らなかった。
 触れることはそれだけでみたされない。触れると触れただけ乾いた。発熱する己のからだと、木立の重なりあった緑を抜けてふる雨と、どんどん雨さえ感じなくなる自分の貪欲さを日向は思った。傷ついた体の痛みにもやまない貪欲さは、獣めいているけれど熱くて素直で、汚れたもののような気はしなかった。
 男は、日向に抱かれながら、それでも彼の怪我を気遣って、しきりに身体を引こうとした。そのたびにのがすまいとして腕に力を込める日向に、男は怯えたような表情をした。
男がそんなふうに日向の死に怯えているのも不思議だった。
 日向はそれでもそう簡単には生命力がついえるものではないとは思っている。ただ、戦況を考えれば自分が結果的には死ぬのではないかと考えている。
 亜須迦は勝ち、東都軍もゲリラも根刮そぎにされるだろう。自分が国へ帰れることはあるまい。
 そんなことを静かにおもっている。触れている男にも伝わっているだろう。
 男は彼の胸に手をついてうなだれ、しだれ落ちた長い髪の奥に表情を隠している。てのひらは冷たい汗にぬれている。
 声は上げなかった。爪さえたてなかった。痛みを耐えているのはしかし冷たい指先の含んだふるえと、とぎれとぎれの息で解った。
 日向が腕を伸ばして、自分を見下ろす形になった男の髪をかきあげると、男は顔を背け、かすかに赤くなったまぶたをきつく閉じた。
 だんだんとあたりは、カザの吐き出す赤い気体でけぶってきた。雨に濡れた若島津の身体は冷たい。不自然な姿勢になるのも構わず彼を抱き寄せると、痛みに若島津は今にも声を上げそうに唇を開いた。誘うような表情だったが、それでも若島津は誘いも痛みも見せなかった。
 日向はその唇を、また自分の荒いだ息でふさいだ。


            ##
 ―――もう助からない。Wは我々が彼の身体だけを生かそうとしていたことを知っていた。Wのこれは自殺だ。
 ―――馬鹿な。
 ―――生命反応は完全に停止した。Wを助ける方法はもう無い。
 ―――彼はあまりにも弱かったのだ。
 ―――……彼を悲しみに任せてやればよかったのだ。不安定になることを我々は許してやるべきだった。Wを殺したのは我々だ。我々が傷を致命傷にしたのだ。
 ―――彼は弱かった。
 ―――……。
 ―――彼は生まれ付き精神が未開だったからだ。
 ―――だとすれば、<A>、君の遺伝子が悪かったのだ。
Wが君の息子だということを忘れたのか。
 ―――彼はもうわたしには関係ない。
 ―――<A>、それを否定するのは人間として最低のことだ。
 ―――……。
 ―――<A>。それでは誰もついて行けない。
 ―――……ついてこられないものは未熟なのだ。
 ―――<A>!


 寝物語に、言葉少なにふたりは自分のことを語った。
 雨はやみ、代わりに視界を高くカザの煙の壁が満たした。
日向は、カザが煙を吐くのを実際に見るのは初めてだった。
カザの煙は濃厚な朱だ。血煙のように見えないこともない。
雨を含んだ温かい無害な煙に巻かれて、彼らはつかの間警戒心を解いた。
 若島津が額の環を外してみせると、日向は最高神官の印である青い紋を見て、息を飲んだ。虹泉の人間の信仰の深さというのは、周囲の国々に知れ渡っている。長期にわたって虐げられた国の常で、宗教の力の強さは、幾ら亜須迦や東都の侵入の歴史が繰り返されても人心をそれより凌ぐことはできなかった。
「なぜ戦いに出たんだ―――……」
 日向は、触れてはならないものに触れるような手つきで、に若島津の額に掘られた青い印をそっと指で撫でた。
「神官なら、戦いに出ろとは云われなかっただろう」
「出ろといわれて出たのではないから」
 彼はあっさりと答えて、また額にその古ぼけた金属の環をはめた。
「守られたい気質でもないし」
 それは彼がかたわらに置いた、よく使い込まれた熱線銃に表われている。日向にもそれは解るはずだった。守られる立場に立つよりも、自分の手を汚さぬことにこだわるよりも、神官の座を下りてもいい、自分で戦うことを選ぼうとする男であること。
「そんなものを使えるようには見えないぞ」
 そういわれて、若島津は苦笑した。
「だとしたらそれがわたしの強みだ」
 若島津は、それに答えるように日向の姿を心の目でなぞった。日向の姿が懐かしかった。彼がよく知っているような懐かしい、しかもひどく暖かい気を発散していた。肉親というものに、あまり愛情を持てずに育ったせいか、彼はそういった懐かしさを今まで知らなかった。
 いつも心を極めて澄んだ状態に保っておけたのもそのためであるかもしれなかった。失って、己の存在意義の崩壊につながるほど大切な存在に出会ったことがなかったのだ。
 いわばそれは今まで彼の一つの不幸でもあった。ただ命をつなぐうえでは幸運とも云えた。
 カザの赤いくゆりのなかで、日向は若島津の姿を見つめた。大きく溜息をついた。
 若島津は、不意に目を見開いた。日向をまっすぐに見つめ返す。はっとしたようにきつい目になった。
 日向は、日向自身を卑怯だと考えている。
 疲れているからだ。
 若島津を死なせたくないが、しかし日向自身は疲れている。これは卑怯だろうかと考えているのだ。
 置いて行けといったらどんな顔をするかということを想像している。
 確かに若島津だけなら助かるのだ。
 日向の疲れは深い。体がひどく弱っていた、それは今すぐ命を奪うほどのものではかろうじてなかったが、自分を足手まといだと、若島津を死なせるのではないかと思いながら、彼と行動を共にする気力は、今の日向にはないようだった。
 ―――置いていってほしい。
 ―――とどめをさして行けとまでは云わない。
 若島津と一緒に居れば、日向はいつ自分のせいで彼が死ぬかを絶えず慮りながら神経をとがらせなければならないだろう。
 それを恐れている。そしてそれは卑怯だろうかと繰り返し考えている。
「何を考えている……?」
 ゆっくりと銃を引き寄せた。銃にもたれるようにして身体を引き起こす。
「わたしにどうしろというつもりだ?」
 彼は言葉を吐き出そうとして、そのいくつかの言葉の激しさに、むりやりにそれを一度飲み込んでしまった。詰問の口調になっていることが解った。
「……わたしに何をさせるつもりだ?」
 突然感情が高まった。鋭い刃でえぐられたように胸が痛み、気持がつのってくる。唇を噛み締めた。
 あんなふうに―――抱きしめて。
 置いて行けというのか。
 激しないように言葉をつなぐことが難しかった。
「ならなぜわたしに名前を教えた……?」
 日向が苦笑した。
 これだから感応者相手というのは始末が悪い。
 そう思っているのが手に取るように解った。若島津の感応能力は日向相手であると高まるようだ。彼の感応能力はむしろこんなふうではなく、もっと感情の波に似たものしか感じられない微弱なものであるはずだった。
「ふたりとも死ぬぞ」
 そう云う日向を見下ろして、若島津は立ち上がった。ひどく腹が立って、きりきりとはりつめた静かな目つきになっていることに自分でも気づいた。
「わたしが死なせない」
 こんなふうに激しく感情が動くというのも珍しい経験だ。
日向もそう思っているのかもしれない。何かまた不思議なものを見るような目付きで若島津を見上げる。
「わたしがいれば生き残れる」
「どうするつもりだ……?」
 日向は笑った。無理だと考えていることが解った。
 この男は死ぬ気でいる。
「亜須迦の軍に、捕まるぞ。……」
 その静かな笑いに腹が立った。死ぬ大義名分を与えられたと云わんばかりのその態度だ。ひどく残酷な冷静さだ。
 それはおそらく、ある意味では全くその男らしくない、しかしある意味では、この男らしい科白であるのだろうと若島津は思った。
 この男が死ぬつもりでいるこれをどうすればいい。
 若島津は、まるで愛をささやくようなしぐさで男のかたわらにかがんで身を寄せた。
「日向……」
 名を呼んだのは初めてだった。彼はささやいた。名を呼びたいと思ったのではなかったか。
「……日向……」
 幾度呼んでも足りない。
 終らせてたまるものか。
「日向……!」
 銃を右手に持ち替える。
 そして彼は、口付けるよりも慎重に、日向を傷つけないように計算しながら、みぞおちに利き手の左の拳を打ち込んだ。
 一瞬の衝撃に日向が息を詰め、次に若島津を見つめた。昏く静かな哀しみのようなものが、ちらりとその目をかすめた。
「お、まえは、馬鹿だ―――……」
 日向はわずかに苦しそうに咳込んで、背中をかがめた。まぶたがゆっくりと閉ざされ、日向の首はがくりと揺れた。
 馬鹿でもいい。若島津は、銃を握りしめて息をついた。この男が途中で馬鹿なことを考えないでいてくれるものなら。
 老先生。
 わたしは二度と自分の特権によって身を守ろうとは思いません。
 若島津は銃を頼りの左肩にかけ直した。
 ―――亜須迦軍に捕まるぞ。……
 どこか笑いを含むように、しかし、あのときの日向の憂慮は真剣だった。
 日向も気づいていたのかもしれなかった。体力的に弱っている人間が異常に気配に敏感になることがある。あのときの日向の目はそういった感じであった。暫く前から二十数人の気配が近づいている。まだ少し離れている。しかし彼らは真直こちらへ向かっていた。
 気づかないかもしれない。
 彼は、熱線銃の目盛りを確かめた。しかし気づかれる可能性は高い。
 彼の力は、感応力だけではない。もしこの力を。
 彼らを殺すことに使ったなら。日向も自分も助かるだろう。自分の仲間を助けることにすら、自分を狙い打つ銃のまえですら使わなかったこの力を、日向のために使ったとしたら助かるかもしれない。。
 自分一人ならこの場を逃れることができても、いかなカザの煙のなかとはいえ、日向を抱えて少しでも無器用に進んでいれば、彼らに行き当たってしまうことは充分にあり得ることだった。 死んでいった若いゲリラの男たちの姿を思い浮かべた。彼らは最初三十人だった。一人一人の名前を覚えていた。
 藤施、宮雅、朔名、架菜倉、柚木埜谷、白路……―――。
 彼らが死んで行くことに身を切られる思いをしながらも、彼はその力を使うことはしなかった。全員をその力で救ってやることはできなかったし、それにその力を決して戦いに使うまいという決心をして、そしてその決心をしたことによって戦いに出て来られたようなものだからである。
 これがいったいどういった力なのか、若島津にはよく判らなかった。五年前、この力にはっきりとした禁忌を作る前、熊を一頭殺したことがある。これは、昔の発達する以前の研究資料でテレキネシスと呼ばれていた力である。念じて物質を原子から破壊する力。
 彼は自分の力のこと―――それを信者たちは神の力と呼んだが―――を、己の一族の出生を知った文献で知った。今、そんなふうな研究をする余力はまだ人にはない。はっきりと形で残っているものを、例えば熱線銃や、低空飛行用の小型船などを大量生産することはできたが、それでも小さな国にはまだ経済的技術的な進歩は望めない。
 ましてやESPの研究などは論外であった。
 これで人を殺せることは知っている。熊に襲われたとき、思わずそれを使っていた。山中に住んでいるはずのものが、腹をすかして町外れまで下りてきた、気のたった熊だった。
 金属のように鋭い爪を持っていた。重く大きい熊のからだが、軽い念を浴びせただけで、あっけないほど簡単に、ぐずぐずに崩れた肉塊に変わってしまったことに衝撃を受けて、彼は気分が悪くなった。この力を生き物には使うまいと思った覚えがある。
 それを使えば。
 彼は唇を噛み締めた。
 どれだけの人数に通用するものだか判らないが、おそらくは銃一つに頼るより心強いものであるはずだった。
 彼らに見つからないように移動できればそれが一番いいのだが。彼の感応力で、兵士たちの感情の波が伝わってくるほど、彼らは近づいてきている。
 赤い光が頬をぬらした。もうすぐ日没だ。日没が始まってから闇につつまれるまでの時間が、虹泉では長い。若島津は掌の汗を乱暴に拭い取った。
 彼は息を殺した。
 刃物のようにあおあおととぎ澄まされて、冷たくすきとおった面持ちになった。
 これは賭だった。


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 過去を清算しようとしての行為は崇高だが、過去を清算するために作りあげた感情を、言葉によって伝達することは愚劣である。しかし、それを愚劣なものから引き上げるというプロセスにおいて、過去の遺物であり、現実の異物であるへその緒を切って如何に現実の奔流に裸の精神をさらすかが問題の焦点となる。
 感情の奔流は個と個の間に固着され、全く同じ性質の感情成分はその認識された個以外には生じなくなる。そして、その個以外に反応しない感情の原点が自分という個である。
 しかし、自己と他己の関係において留意しなければならない事は多い。言語で表面を糊塗した伝達は、己が個であるということに対する凍結するデラシネ感覚を薄らがせはしない。言語はむしろ理屈に近い。それは作り上げられたハリボテの感情、救済を計算するエセヒロイズムを他己に意識させるものになりかねない。そこには『わたしはあなたである』といったような強引な理論の展開がある。
 むしろ他己へ向けた感情の結果を、その個の存在しない場においてどんな具象の行動で表わすかに関わってくる。
 繰り返される失意を自治し、成すべきこと(それを義務という言葉に置き換えることはナンセンスである)のみを濾過し、抽出する事によって、自身も初めて精神世界の中空に位置し、見極めることの難渋であったものに出会うだろう。
 死命の輪転地点を覆った濃霧を透過して、一つの自己が滅びたあと、責だけを負ったままで新しい自己に転じるとき、それを生来知るものは無論ない。
 清算は苦しみのすえに行なわれ、苦しみの度合いと後の己の安らぎは比例する。

            ##
 足音は夕陽に変わりかけた、カザの煙のなかをしだいに近づいてきた。
 虹泉の夕陽は大きい。地平線に近づくと、大気現象で、宙天に昇ったときの三倍近くに膨れ上る。もやがかって輪郭をゆがませながら、粘液質に燃えさかる太陽だけが、カザの煙を突き通して網膜を灼いた。
 夕陽は毒々しく膨れ上って、熔けた大地を透かして赤と黒に燃え続けている。
 ―――向こうに誰か居るんじゃないか……?
 ―――人の気配がするぞ。
 ―――……反乱軍の奴等の残党かも知れんぞ……。
 そんな声が、足音と一緒に近づいてきた。
 若島津は、熱線銃を肩に抱えあげた。目盛りの出力を最大にする。
 力をつかえるのか、人相手に。もう一度そう自問する。
 彼の目付きが変わった。滅びた鬼の表情に変わった。
 この男を死なせない。
 老先生。二度とわたしは。
 血のように赤い太陽の光と、カザの煙のなかで、銀色の銃身と若島津の目が耀いた。まなじりを訣した彼の頬は青ざめていたが、彼の表情がそれでも静かであることと、燃え上がる夕方の光のせいでそれは殆ど判らなかった。
 二度と、自分の特権によって身を守ろうとは思いません。
 そう云った。
 今、力を使ったなら、これは自分の特権で身を守ることになるだろう。それは冷静に認識している。自分を責める長い時間に身を任せることができる強さはあるか。
 彼は環の上から、額の天紋にそっと指を触れた。これを裏切ることではないと云いきれない。この男を失いたくない利己でないと言いきることは、たとえ生き伸びて後も一生できないかもしれない。
 ここで日向と一緒に死んでしまうことほど楽なことはない。彼を一人で行かせないと思えば自分は幸福に眠れるかもしれない。容易い幸福だ。
 若島津は唇を噛み締めた。
 気持ちは決まっていた。
 足跡が近づいてくる。思った通り、二十人以上は居る。
 勝利の予感に驕った彼らは、何のてらいもなく近づいてくるだろう。
 気違いと呼ばれたのは伊達ではないのだ。若島津は、銃身を起こした。金属の触れあうジャキッという重い音が、存外に大きく響いた。
「―――……こっちだぞっ……」
 声はもはやはっきりと近づいた。若島津は太陽を背にするように身体を返し、足を踏み締めた。傷ついた腕には銃は重かったが、静かな高揚に包まれた彼には苦にならなかった。
長い髪も夕陽の照り返しを浴びた。唇を結ぶ。太陽を背にして、燃えるように光っていた目は黒々と影りをおびた。
 なぜ己のみを守るまいと思ったか、それにはもう一つ理由があったはずだ。一人で助かるまいと思った理由が。
 置いていってほしいと疲れた体で思う男。医師でありながら人を殺した責念にぼろぼろに傷ついた男。男を包む残酷な社会と、笑うことの少なくなった唇。
 決して誇ることのできないこの血だからこそ、この血にかけて二度と。
 老先生。
 若い虹泉の最高神官は、生れて初めて真実神に祈った。その感情は歓喜にすら似ていた。
 二度と。
 いり乱れる足音。
 声。
 地面についた片膝に反動に備えた力を込める。狂っているとまでささやかれた彼だ。若島津は彼の祖国のためにではなく銃を取り、煙る視界のなかで狙いをつけた。
 肩の銃がオレンジ色の焔を吐いた。


 もう二度と。
 ――――――神様。




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