文庫数ヶ月後。冬にあったかくなる話。
来客を告げるエントランスのチャイムが鳴った。
黒沢太夏志の住むマンションは、エントランスで一度、来訪者が訪問先番号のボタンを押して部屋を呼び出し、ロックが解除されたのち、長い廊下を通り、住居棟の入り口でもう一度ロックを解除して、ようやく各階につながるエレベータに乗れるのだ。太夏志は誰が呼び出しているのかは分かっていたが、エントランスにつながるインターホンを取った。
『ただいま帰りました』
柔らかな、少し冷たい声が聞こえてくる。カメラがそこにかがんだ人の顔を映し出している。
「お帰り。開けるよ」
太夏志はドアのロックを解除した。午後に出かけていった上野詩草が帰ってきたのだ。詩草は鍵を持って出ているが、エントランスでこうして一声かけるのは、太夏志の希望があってのことだった。予告無しにドアが開いて詩草が帰ってくるより、エントランスのロックを自分の手で解除して、ドアが開くのを待つ方が、楽しみが一つ増えるからだ。これは、昨年の夏前に、詩草が一ヶ月間、十三年間の記憶を手放した後から始まった習慣だった。太夏志は彼に「お帰り」と云うのが好きだった。その理由を詩草にははっきりとは云っていない。だが、太夏志には一回一回のそのありふれた挨拶に意味がある。あるいは詩草も気づいているかもしれない。
(「エントランスで一回呼び出せよ」)
そう云った時に理由を聞かず、太夏志の希望通りにするようになった。詩草は、自分では察しが悪いと思っているようだが、(現に彼は会ったばかりの頃、『僕には人のこころの機微が解りません』と、真剣な顔で云ったことがある)彼は決して鈍いタイプではなかった。
自分や人を分析しないという訳でもなさそうだった。ただ、彼の生来の不思議な育ちの良さが、それを口にすることをよしとしないのだ。形にしなかった思考は、そのまま消えてゆくことも多い。それで詩草の中で「人のこころが解らない」ということになることもあるだろう。詩草の口に出す何気ない一言にはっとさせられたり、作品のヒントを得ることも多い太夏志にとっては、彼の自覚のないところが愛しくもあり、歯がゆいようでもあった。
太夏志は玄関に出て鍵を開けた。玄関のドアはオートロックではない。出入り口の門が押し開けられるかすかな音がする。詩草が鍵を出すタイミングを見越してドアを開けると、驚いたような顔の彼が目に飛び込んできた。
「すみません、いつも」
「寒かっただろう」
「雪になりそうな天気ですよ」
玄関のドアを閉めると、太夏志は、詩草が肩にかけていた革のマップショルダーをするりとすくい取った。ショルダーの中には余りものが入っていないらしく、軽かった。今は太夏志が複数の著者校正にとりかかっていて、次の小説の構想に入っていないため、詩草の仕事は事務的なものになっていた。家では申告に向けて、黙々と書類整理に取り組んでいるが、資料読みの仕事がないために外出先に持って出るものがないのだろう。資料の選別の仕事が入る時期には、詩草は驚く程沢山の本を持ち歩き、外出先での少しの時間も無駄にしようとはしなかった。
「何ですか?」
平坦な、なめらかな声で尋ねる詩草の顎を持ち上げた。顔を傾け、ゆっくりと彼に唇を合わせた。歯の間をなぞって開かせ、中から現われた舌を息ごと絡めて吸い上げる。詩草の睫毛が反射的に閉じるのを、太夏志は薄く開いた目で眺めた。一度、ぐっと強く閉じたまぶたは、やがて緊張をほどいて、眠るようにゆるやかに上下の睫毛を合わせた。太夏志も目を閉じ、少しずつ角度を変えて詩草のなかに深く入り込んだ。舌にはかすかに紅茶の香がした。身体を温めるために飲んだのだろう。軽く開いて自分を迎え入れた唇の冷たさを味わう。こんな時間に彼を抱きたくなってしまった。
キスはセックスの前に部屋をノックするようなものだ。硬く閉ざされた部屋のドアを静かにノックして、ドアが開き、相手が迎え入れてくれるまでのプロセス。どれかを飛ばすと、太夏志は相手といい時間を共有出来ないような気がしている。詩草のように、手順を重んじる真面目な男を相手にするのなら尚更だった。
まだ、外気の冷たさをコートの襟元や髪から漂わせている詩草を抱きしめようとした時、太夏志の頬を、ついでくびすじを冷たい指先がかすり、ついで、カシミヤのステンカラーのコートを着た詩草の長い両腕が、太夏志のうなじに巻き付いてきた。
薄手のセーターを着た太夏志は、冷えた詩草の腕に首筋を抱かれたことで、雪に取り巻かれたような感覚を味わった。まだ、彼は積極的な詩草、というものに慣れない。おかげで、詩草から何か小さなアプローチが返ってくるたびに新鮮だった。
詩草の細く締まった背中を両腕でしっかりと抱きしめ、自分へ引き寄せる。彼を抱くと、何か植物的なものに触れているような気分になることもあれば、しなやかな獣────たとえば細身の猫のような────を抱いているような気分になることもある。反対に、何か他のものに触れて詩草を思い出すこともあった。
詩草とまだ暮らすようになる前のこと、彼を伴わずにタイに行ったことがある。雑誌の取材でバンコクに行った折に、丁度皆既日食が観られるというので、観測場所を求めて、そこから三百キロ近く離れた街に車で出かけたのだった。雨期の終ろうとするタイは四十度を越える暑さで、十月の東京から取材に行った面々は、殆どが暑さに負けて近くの街のホテルに逃げ込んでしまった。ばてなかったのは太夏志とほんの数名だけだった。待ち時間を夜までどう過ごすかを検討していた時、ガイドから近隣の遺跡に誘われた。
カンボジアのアンコールワットのモデルになったと云われている旧い遺跡だった。そんな場所に行ける機会を逃すはずがない。数十キロを更にバスに揺られて、遺跡の村へと訪ねた。
目の痛むような青い空の下に、石の建造物が静かに佇んでいるのが見えてきた。
十二世紀以前からそこにあったと云われている遺跡は、どんな人が作ったのか知られていないと云う。建物に入って石段を登り、回廊の奥へ分け入ってゆくと、天体の動きをしるした彫刻のある部屋に辿り着いた。英語の出来るガイドが、この部屋で天体の観測が行われていたのではないかということ、天文に関わる行事が行われていたと考えられていることを熱意を込めて説明してくれた。
外はあぶるような暑さなのだが、遺跡の中はひやりと冷たかった。太夏志は、月や星の彫り込まれた壁に身を寄せて、その冷たさを味わった。十二世紀より以前の人間が、天について考えながらその部屋に彫刻を施した。後の世に日本からやってきた自分が、その彫刻に触れている。彫刻に集約された時間や歴史が、太夏志のよりかかる、ひやりと冷たい壁に刻み込まれているのだった。そして、人の手と時間が柔らかく磨きあげた、冷たい石の柱に触れたとき、太夏志は不意に、自分より体温の低い、冷たく細い身体を思いだした。
こういうときに何を思い出すか、というのは、意識的にコントロール出来るものではない。アンコールワットよりもはるか昔からここに在る遺跡は、太夏志の旺盛なロマンティシズムをあかるく刺激する場所だった。詩草が一緒にここにいて、この光景を見ていればよかったのに。石のなめらかな冷たさに、何よりも強く鮮明に彼を思い出した。
詩草に最初に誘いをかけたときは、好奇心や遊びの部分が全くなかったとは云わない。だが、今や深い部分を詩草に明け渡しつつある。ロマンティシズムや神秘を感じるのと同じ部分で、詩草を想うようになっているのだ。日本からこんなに離れた場所で、自分が詩草を想っていることを、きっと彼は想像していないだろうと思った。
タイの遺跡で詩草を思いだした時から数年経ったが、彼は未だに太夏志にとって、何かにつけて思い出す相手であり、風雪や、緑の木々や、星月夜が、作家にとってなくてはならない詩神であるのと同じように、太夏志のイマジネーションの源でもあった。
キスをほどいて息をはずませる詩草の頬に、太夏志は自分の頬を押しつけた。
「俺が出かけて、お前が待ってることが多いけど、逆もたまにはいいな」
耳元にささやくと、詩草は息に髪を擽られて少し身体をすくめた。
「そうですか?」
「相手が確実に帰って来ると思えば、待つのも、出迎えるのも悪くないよ」
そう云うと、詩草は太夏志のうなじを抱きしめていた腕を静かにほどいた。
「その気持ちは僕にも解ります」
キスの余韻か、目許に艶がにじんでいる。睫毛が僅かに湿っていた。
「森先生は元気だったか?」
「ええ、多分」
コートハンガーにコートをかけ、マフラーを外しながら詩草はリビングに向かう。室内の気温は余り高く設定していないが、外から帰った詩草には充分暖かく感じるだろう。
「コーヒー飲むか?」
さっき入れたばかりのコーヒーを保温してある。ジャグを少し持ち上げて指し示すと、
「頂きます」
そう答えて、詩草はため息をついてソファに腰掛けた。
「病院に行くと疲れるのはどうしてでしょうね。病気にかかった気分になるせいかな」
滅多に愚痴を云うことのない青年の口から、そんな言葉がほろりと漏れた。
「森先生と、今日は小学校の頃の母の話をしました」
太夏志が話を聞きたがっているのに気づいたのだろう。詩草は自分のためにコーヒーを注ぐ手元を見つめながら、慎重な口調で云いだした。
「火事があったことは覚えていませんし、その時期、母がどんな様子だったのかも覚えていないんです」
太夏志がマグカップを置いてやると、詩草は小さく会釈して、カップを手に取った。一口ブラックのままで飲んで、思いだしたようにミルクを入れて、ぼんやりとかき回した。胃のために、最近は二人共コーヒーにミルクを入れるようになっていた。
「でも、母が夜眠らなかったのは覚えてます。僕は子供の頃から眠りが浅くて、ちょっとすると目を醒ましました。母は大抵起きていて、カーテンのかかった窓の外を見ている。その光景は本当に目になじんだもので……母のそういう様子を心配するべきだったのかもしれない。でも、逆に母が起きていることで安心して、その後自分はさっさと眠ったと思うんです。そういうところが、僕は薄情なのかもしれません」
「見慣れた光景に安心するのは、自然なことじゃないか?」
太夏志は詩草の隣に座り込み、背もたれに投げ出した腕を伸ばして、項の髪の先に触れた。詩草はそれに気づいていないようだった。
詩草は臨床心理士の森にカウンセリングを受けてきたのだった。退行現象が速やかに去り、詩草が逼迫して苦痛を感じている訳ではないため、カウンセリングは一ヶ月に一回というゆっくりしたペースで行われていた。秋口に、詩草の決心がついてから開始したカウンセリングは、これで四回目になる。自分の話ばかりし続けることに慣れない、と、詩草はカウンセリングの度に、微妙に疲れた様子で帰ってきた。
詩草の退行というトラブルをはさんで森と向かい合った太夏志が、彼女に依存するようになるまで殆ど時間はかからなかった。表情に乏しい小柄なあの女がひどく頼もしく思えた。だが、詩草のように自分から相手のテリトリーに足を踏み入れようとしない人間には、距離を縮めにくいのではないだろうか。森との間に信頼関係が築けるのかどうか。それは、太夏志には計り知れないことだった。或る医師が或る患者にとって有能であるかどうかは、結果が全てだ。たとえ人間同士は誠実な関係を築けたとしても、病が癒えるかどうか、その一点だけが、両者の間に横たわった流れの行き着く先なのだ。
「森先生は、余り強く反応しない人だから分かりにくいですけど────僕が記憶をなくしている時にも、同じように母のことを話したんじゃないかと思うんです」
太夏志の胸はその瞬間、露骨に大きく高鳴った。退行中の事に関する限り、自分が過剰に反応するせいで、詩草を神経質にさせているのは分かっていた。もう半年も過ぎようとしているのだ。いい加減冷静になりたかった。
「今日話をしているとき、森先生にそういう様子があって」
太夏志の様子を気づかなかったのか、気づかないふりをしているのか、彼の表情は静かだった。
「記憶って不思議なものですよね。忘れたと思っていることも実はどこかに残ってるのかもしれない。忘れたいことも、忘れたくないことも。そんなことを考えながら話していたら、ふっと、ヘミングウェイの『キリマンジャロの雪』を思い出しました」
「────山頂のすぐそばに、ひからびて凍りついた、一頭の豹が横たわっている?」
太夏志は戸惑って、その余りにも有名な短編小説の一節を引き取って続けた。
すると、詩草はゆっくりと、苦笑のような表情を浮かべた。
「古い記憶は凍った死体みたいだ……と思った時、あの小説の冒頭を連想したんです」
ひどく抑制した声で続けた。
「自分の心の中の話をするのは難しいですね。どんな風に話しても、口に出した途端、映画か本の話みたいに思えてくる」
「映画や本の話みたいでもいいじゃないか」
独り言のような詩草の言葉に答えると、彼は肯いた。
「もちろん、本当の映画や本の話なら、それぞれの価値があると思います」
詩草らしい手厳しい云い方だった。無防備に連想を口にしたことを後悔しているようだった。詩草は自分の思いをドラマティックに見せる云い方をすることを好まない。彼は、寸分の誤差もなく、自分そのものであることしか許せないのだろう。
(「僕にはなりたいものとか、人生の目標とか、そういうものがないんです」)
そう云ったときの、詩草の静かな厳しい目を思い出す。そして未だに、自己抑制を己に課すこの青年の中に、あの多感な子供が眠っていたことを不思議に思うのだ。
ふと口の中が乾いた。古い記憶は凍った死体に似ている。その発想に動揺するのはむしろ太夏志の方かもしれない。動揺の正体は、彼にも分からなかった。十三年前の詩草という名で訪れた『彼』が、心という氷の中に生き残っていて欲しいのか、消えていることこそが望ましいのか、未だに判断がつかないからだった。
彼はコーヒーを一口飲んで舌を湿した。
指先に触れていた詩草の髪を、指に巻き付けて引く。
「詩草。キリマンジャロの最高地点のウフルピークに、タンザニア初代大統領が書いた銅板レリーフがあるのは知ってるか?」
「いいえ」
太夏志が話を晴れの方角へ持って行こうとしているのに気づいたのか、詩草は彼を振り向いた。
「アフリカが植民地支配から独立した象徴として置かれてるレリーフなんだ」
細かい云い回しを思い出すために一瞬沈黙し、太夏志は、レリーフにしるされた力強く美しい句を諳んじた。
「────我々は、かなた国境に輝くキリマンジャロ山頂に、灯火をかかげよう。絶望あるところに希望を、憎悪のあるところに尊厳を与えるために…────」
詩草の目があたたかく輝き、太夏志は、自分が持ち出した言葉が効果を上げたことを知った。
「この大統領は、イギリス領だったタンザニアを独立させた立役者だった。野生生物と野生地域の保護を宣言した、アルーシャ宣言の起草でも知られた人物だ」
彼は詩草の髪をそっと撫でつけた。
「……な。キリマンジャロの山頂にあるのはひからびた死体だけじゃないし、記憶っていうのは確かに厄介なものでもあるけど、こういう珠玉のワンフレーズを貯蔵しておける、便利な認知活動でもある」
念を押すようにそう云うと、詩草はかすかに目許をなごませた。
「そうですね」
小さなため息をつく。
「すみません。カウンセリングの後でナーヴァスになってたみたいです」
「気分よくなったか?」
「大分」
太夏志は、彼の肩をそっと掴まえた。
詩草の気分がよくなったのなら、自分の中に一瞬くすぶりかけた不安定要素はもう余所へ押しやってもいい。そして、そうなったら先ずはドアを叩くのみだ。
「じゃあ、さっきの続きをしないか?」
「どのさっきですか?」
気分が実際持ち直したのか、声に笑みを含ませてそう応える詩草の身体を、太夏志は強く引き寄せて抱きしめた。じっくりと自分の体温を馴染ませてやるような気分で、自分よりも一回り細い身体を腕の中に閉じこめる。この冷たい身体。すぐに温度を下げ、頑なに自律することばかり意識する彼の、胸の中の氷を、出来ることなら自分の体温で溶かしてしまいたかった。
先刻、太夏志のうなじに回った腕が、今度は背中に回された。腕はもう流石に冷え冷えとはしていなかった。玄関先で触れた時は紅茶の香をさせていた唇からは、太夏志が飲んだのと同じコーヒーの香がする。嗜好品の味がキスや愛撫に混じることを太夏志は特に好んでいる訳ではないのだが、それでもこういう時、面白いと思うことはある。酒や煙草、コーヒー。それひとつだけなら淫猥になりようのないものが、柔らかさや弾力、唾液、歯の冷たい表面、そういったものを介するだけで、喩えようもなく甘い、後ろ暗いものに変ってしまう。その事実とその過程が。
いつもは、場所や時間を気にして、ソファで抱き合うことを避けようとする詩草が、(彼は日常生活と夜の要素がまじることを嫌がるのだ)太夏志の背中に回した手を、たまらないように握りしめ、ふりほどいた唇から細い息を漏らした時、彼は今日の自分の誘いが、彼の自制に勝ったことを知った。
ぎこちない姿勢の交歓は、彼等をひどく熱くした。その数十分の間に、太夏志はこれまで一度も聞いたことのない言葉を、声を詩草から引き出した。氷はすっかり溶けてしまったか、それともまるで最初からなかったもののようだった。彼等は今まで長い時間を共有してきたが、まだ互いに飽きる段階にはほど遠かった。
太夏志は気持ちを込めて、軽く湿って浮き上がった鎖骨に唇を押し当てた。
キスはこれから入ろうとする部屋へのノックであると同時に、今ここにいるということ、そして熱意を示す、格好のサインでもあるのだ。