文庫後春。無料ペーパー用ミニ話。
「……ああ、疲れた」
自分の口から思わずその言葉が飛び出して、上野詩草は一瞬失敗した、と思った。彼は余り、疲れや痛みを口にするのが好きではなかった。特別に隠しておきたいと思っているのではない。だが、口に出しても相手を楽しませる訳でもなく、自分自身の助けにもならない小さな愚痴。どうせなら黙って呑み込んでしまった方がいい。
「疲れたか？」
しかし、意外にも黒沢太夏志は、寝転がっていたソファから身体を起こして、興味津々の目つきで詩草を眺めた。
黒沢はつい今朝方まで働いていた。先々月から著者校正が六冊立て続けにやってきた中、彼は精力的にそれを仕上げ、おまけに書き下ろしの単行本と連載を二本こなしていた。年始から息をつく暇もなく働いていても、彼はさほど疲れを見せず、定期的にジムにも通って汗を流した。睡眠時間は減っている筈だが、充分に食事を摂って、趣味の読書も怠りなく、楽しんで仕事をしているようだった。
黒沢は今年三十四歳になるが、彼の容姿と体力は衰えを見せるどころか、知り合った数年前よりも益々エネルギッシュに光り輝き、身体中から強烈に男盛りの匂いを発散させている。詩草は、時々、十歳年下の自分の方が、黒沢よりもずっとくたびれて見えるのではないかと思うほどだった。
黒沢は、付き合いが数年に達しても、さして変らない頻度で詩草を抱くが、容姿なり、性格なりに飽きが来て、自分に性的な吸引力を感じなくなったらどうするのだろう。詩草は時折、このことをぼんやりと考える。ぼんやりとしているのは、これは詩草の意志ではどうにもならないことだからであり、抱かれることそのものは、黒沢との間柄が持続するかしないかに直接関係のないことだからだ。（少なくとも詩草はそう思っている）黒沢が自分の身体に執着をなくした頃には、別種の愛着か絆────のようなものが出来上っていて、自分達の関係をつないでくれればいい、と詩草は思う。黒沢との関係がいつ終りになっても、自分には引き止める術はないと思っていた。だが、引き止められないと思うことと、諦めがつくのとは別のことだ。もう、黒沢は彼の細胞の隅々まで入り込んでいて、それを引き離されることがあれば、相当な痛みを伴う筈だった。
「そうですね、疲れましたね」
一度口にしてしまったことは仕方がない。詩草は、微笑いながらそう答えてジャケットを脱いだ。彼は、目下黒沢が抱えている最後の著者校正を出版社に届けてきたところだった。出版社は着払いの宅急便伝票をゲラに同封してくれていたが、時期が押し迫ったため、一日でも早く渡す為に、詩草が届けに行ってきたのだった。この仕事で、彼等は一旦休暇に入れる。黒沢の連載の内の一本は終った。もう一本は隔月刊の連載で、来月末まで締切りはやってこない。そして、疾走するような勢いで仕上げたゲラが終り、二人の確定申告も終った。これで、丸々十日ほども隙間の時間が作れるのだった。桜の蕾はほころび始め、ほっと背中の緊張を緩められるような春が訪れようとしていた。こんなに長い休みが取れるのは久し振りのことだった。昨年から黒沢はよく働くようになった。前のように仕事を放り出し、納期をぎりぎりにして書き飛ばすことが少なくなった。
（「家庭持ちの自覚が出てきたんだ」）
自分でそんなことを云うところが彼らしいところだが、とりあえず黒沢が充実しているのは、詩草にとっても何よりのことだった。
「詩草、来いよ」
ソファに座った黒沢が手招きする。詩草は大人しく彼の傍に近寄り、云われるままに、黒沢の隣に腰掛けた。すると、綿のシャツに包まれた彼の両肩に、黒沢の大きな手が重なった。
「お疲れの有能な秘書殿、マッサージはいかがです？」
黒沢の低く柔らかい声が、冗談めかして彼の耳元をくすぐった。
「そんなご褒美が出るんですか？」
詩草は黒沢のてのひらに肩をしっかりと支えられて、ようやく力を抜いた。黒沢に付き合って昨晩は完全に徹夜だった。そして、自分で車を飛ばすという黒沢を押しとどめて、電車に乗って編集部へ出かけた。彼は身体のコンディションが万全でない時に車を運転することに、肯定的ではないのだ。
徹夜明けに朝のラッシュをくぐり抜けて来た詩草の背中や首は硬く凝っている。だが、この程度の疲れは数時間ゆっくり眠れば取れるものだった。
「こんなご褒美じゃ足りないだろうけどな。どうする、休み？ 温泉か……パスポート切れてなかっただろ。飛行機のチケットが手に入ったら手軽に行ける国でも行くか？」
「十日間のお休みなら、外国よりは国内でしょうね……」
黒沢の指が本当にマッサージを始めて、詩草は声を途切らせた。手軽に行ける国などと云うが、黒沢はひとたび外国に行くとなると、滅多に行けないような場所に行きたがる。近隣の国で数泊、の筈がすぐに世界旅行になってしまうのだ。大胆な性格と器用さを合わせ持った彼の雇い主は、詩草の硬い棒のように張った首筋を、ゆっくりと四本の指でもみほぐし、親指で付け根を深く押した。凝りの中心を的確に押す指は温かく、夜を徹してペンを握っていたとは思えないほど力強かった。
「届いてるか？」
「……すごくいい気分です」
向かい合って詩草にマッサージを施していた男は、彼に背中を向けさせた。自分の厚い胸に詩草をもたれかからせて、首筋から肩、腕から背筋をマッサージする。この男は大抵何をやらせても上手いのだが、マッサージも例外ではなかった。冷たく凝っていた身体があっという間に息を吹き返し、あたたかに血流が巡ってくる。疲労から来る怠さが解きほぐされて行くのを感じる。それは、黒沢の指先からどんどん花が開いて行くような感覚だった。
さくらさくら。
一仕事終えたという充実感と共に帰ってきた、桜並木で見た、桜の蕾を思い出す。黒沢は自分にとって、開花を促す春のような存在だと思う。黒沢自身が春夏を好み、冬を苦手とする体質だからかもしれない。春は、ふと気づくと圧倒的に世界中を包み込み、雪や灰色の樹皮に隠れていたものを全て露わにする。その圧倒的な官能性は、黒沢のイメージに近い。詩草が隠しておこうと思っていたものも、随分この器用な指に開け広げられてしまった。そして自分が、相手さえ得たならば、どんなに甘い色の花を開く準備が出来ているのか、心と体の両方に思い知らされた。
不意に黒沢の手が襟元にかかった。
詩草の着ていたシャツの、一番上のボタンをやんわりと弾く。
「服の上からのマッサージで充分ですよ」
「遠慮するなよ」
服の中にてのひらが滑り込み、鎖骨の上をするりと撫でる。詩草も、そうする黒沢の手を拒もうとは思っていなかった。まるで彼のてのひらの窪みと、自分の骨も皮膚も、あつらえて作ったようにしっくり来る。他人の手が触れているという感じがしない程だった。そのくせ、決して自分の手では作り出せない興奮や、甘い感覚の波を、この指は引き出す。彼ならきっと枯れた樹にも花を咲かせてしまうだろう。詩草は、自分に触れる指をうっとりと味わいながらそう思った。抱かれることは、黒沢との間柄に直接関係がない、と自分が思うのは、一種の意地のようなものかもしれない。この幸福感に屈服するまいとする悪あがき。それなしには生きていけない、というものが一つでも少ない方が、人間は楽に生きてゆける。
そうこうする内に、黒沢のもう一方の手は、詩草のシャツの裾から入り込み、先に鎖骨を撫でていた手と共に詩草の肌を撫で始めた。マッサージを施されて、薄赤く染まった皮膚の上に、今度は別の種類の快感を呼び起こそうと、てのひらはゆっくりと動き回る。
「痛くないですか？」
生硬さを装った、黒沢のその丁寧な口調が、理容室や美容院でマッサージを施す、美容師の口真似だということは詩草にも分かった。痛むはずもないその緩やかな愛撫の中で、彼は思わず笑いそうになる。
「丁度いいです」
自分の声が、やはり、美容師に答えるように、少し遠慮がちに、だが冷静に答えているのが聞こえた。丁度いい愛撫などというものは存在するだろうか？ 指が胸の筋肉の上をゆっくりと辿り、硬くなった乳首をかすめて腹へ降りて行く。大抵、黒沢の愛撫は詩草を飽和状態にする。自分の身体をうまく扱えないような、少し怠いような、神経が皮膚の外に剥き出しになってしまったような、不思議なコンディションを作り出した。
だからこそ、一生咲く機会がなかったかもしれない自分の灰色の身体が、飽和状態を抜け出そうとして弾け散ったのだろう。気温の高い風に吹かれ、身体の芯を奥底まで湿らせる雨に出会って、もう、後は衝動と、放埒な快楽に身を投げ出すしかなくなる。
本気で抗う余力のなかった詩草は、自分を溶かすそのてのひらの動きに任せ、自分の背中に触れるあたたかい胸に全面的に降伏した。
疲れた、と口にしてみるのも悪いことではないと思った。こんな風に全力でねぎらってくれる人がいるなら。
開花のエネルギーは既に彼の身体を支配している。
そして、それに支配されるのは決して嫌なことではなかった。
何と云っても、「春」の成し遂げる仕事にはとても敵わないと思った。