文庫後ほぼ一年。5月。ピアノも弾けます。
心の中でピアノソナタが流れている。ベートーヴェンのピアノソナタ「月光」の第一楽章だった。詩草は、斜め前のシングルソファに座る森の顔を見つめながら、その音楽に耳を傾けていた。
古い荷物の中から、高校時代に副担任の教師がくれた、LPレコードが出てきたのだ。光に触れない奥にしまいこんでいたにも拘らず、レコードジャケットの厚紙はすっかり変色しており、ジャケットに印刷されたホロヴィッツの全身像もセピア色がかって見えた。
詩草は、太夏志のフルオートプレーヤーシステムにそのレコードをおそるおそる載せた。針が迷わずにLPの始点に落ちて行くのを眺める。もう何年も前から彼はCDでしか音楽を聴いていなかった。そもそも、音楽を自分で選んで聴くということ自体少なかった。 音楽をかけながら仕事をすることも殆ど無い。集中力を妨げるからだ。
その証拠に、こうして森と向かい合いながらも、記憶のなかに流れる音楽を聴いてしまう。
「友達はいらない、と思っていますか?」
森の静かな声が詩草の注意を促して、彼は焦点をずらしたようになっていたこころを、はっと神経科の診療室に引き戻した。臨床心理士の森は、診察するとき、窓を開け放したままにしていることが多い。詩草の記憶の中で、この部屋では大抵外気に黄色のカーテンが揺れており、それは寒暖にかかわらず窓を閉め切って空調を効かせている、というイメージの、この病院の中では珍しかった。
「友達がいらないと思ったことは────意識的にはないと思います。ただ、友達と話す時間が、たとえば黒沢と話している時のような感覚を与えてくれないのは確かです」
森は、詩草の言葉を吟味するように少し沈黙した。
「黒沢さんと話している時の感覚というのは、どんな?」
詩草は、森との面談でしばしば起こることだが、彼女の質問が自分の掘り下げたくないこと、曖昧にしてぼかしていた部分に食い入ってくることに戸惑った。彼女とこうして一ヶ月に一回話すようになるまで気づかなかったが、明確に形にせずに放置している問題は、詩草の中でどうやら山積しているようだった。彼は彼なりに、自分の生きてきた時間の中で、事情の許す限り、様々な事象と向き合って来たつもりだった。ある時は折り合いをつけ、ある時は切り捨てることもしてきた。時には諦めることもあった。自分の中に、それほど不透明な部分はないと思っていたのだ。
それが、森と話していると間違っていたことを思い知らされる。
(「大抵の人はそうだと思います。ここでご一緒する時間の中で、上野さんがその整理をするお手伝いを出来れば、と思っています。感情や過去の記憶が、こころの中で時には気づかずにこじれている場合もあるかもしれません。その結び目を一人で解くのは困難な作業なんです」)
診察室の椅子の上で、やや背中をかたくなにして、自分の内面を打ち明ける詩草に、森は静かにそう云った。森自身はどうなのだろうか。詩草は時々思わずにはいられない。森の黒い瞳はいつもゆるやかに凪いでいた。平易な、柔らかい言葉を駆使して彼の内面を引き出すこのカウンセラーが、整理出来ない問題にもがいて葛藤する様は思い浮かばなかった。
患者にとって医師は神のような存在だ。診察室の椅子に腰を降ろすとき、それが外科であれ、内科であれ、精神や神経について診察を受けるのであれ、生殺与奪の権利を相手に委ねるような思いで、患者は医師と視線を合わせるのだ。それ故に、多くの患者は医師に強い関心を抱かずにはいられない。目の光、声の調子、肌の艶や白衣の清潔さに至るまで、自分を診る医師を、患者は与えられた時間のなかで精一杯に凝視して過ごす。医師が自分にどれだけ関心を持っているのかを、彼、あるいは彼女の態度や姿の中から読みとろうとするのだ。
「黒沢と話していると、精神が高揚します。僕と彼の間から、仕事を省くことは難しいんですが……僕がした仕事で、彼が満足そうな様子を見せてくれると、とても達成感を感じます。それに、黒沢はとても話がうまくて……少なくとも、うまいと思わせる技術を持っていて、何にでも関心を持っていて、話を聞いていて興味深いんです。自分では卑下するようなことを云うこともありますが、実は志も高いと僕は思います」
森はじっと耳を傾けている。
詩草は、この診察室に通うかどうかを決める前、カウンセリングを受けるということは、もっと何か厳しい、きついことを云われることなのではないかと覚悟していた。何か自分を徹底的に変革するような強烈な言葉を浴びせられるのではないかと。それは覚悟だけでなく、期待の要素もあったように思う。だが、実際には森は「話をさせること」を優先した。彼女の質問はいつも短く、最低限の質問で、詩草が最も長く話をするようにコントロールしているようだった。
「それだからか、僕は何を見聞きしても黒沢ならどう云うのか、どんな風に見るのか、そういうことを考えるようになっていって……それまで感じていた無力な気分を感じなくなってきたんです」
「無力と云うのは、誰に対して?」
「それは、分かりません」
詩草は迷いながら云った。云い淀むと、森の時間を空費しているようで気になった。
「上野さんが、力を貸してあげたいと思っていたのは誰だったんでしょうね」
自分は、母や家族について話すよう誘導されているのだろうか? 詩草は、森と何度話しても母の話題に感じる抵抗を捨て去ることは出来ない。森も、無理に母の話をしろとは云わなかった。
「誰に、と特定したものでなく、僕は人間関係全般に無力だと思っていた気がします。誰にも、何もしてあげられないような」
「黒沢さんには、何をしてあげればいいのか明確だった?」
「そうだと思います」
「今まで無力だと思っていたことは、解消されましたか? それとも、過去のものになった?」
そう云われて、詩草は頬が火照るのを感じた。
「解消はされていません。たぶん、過去のものにしてしまったんだと思います」
森は暫く沈黙した。初めて彼女と会った頃は肩につくか、つかないかの長さに切られていた髪はだいぶ伸びて、森はその髪を後に流すようにして鼈甲色のバレッタでまとめていた。森の返答がないと為す術のない詩草は、その沈黙の中にとけこんでしまったような、森の佇まいを眺めた。
「してしまった────」
やがて森はゆっくりと詩草の言葉の一部分をリピートした。
「わたしたちは、様々な事柄を過去に置いて来ない訳にはいきません。だから、無力だと感じていた自分を忘れることは悪いことではないと思います」
「忘れて済むことなら、僕がこうやって話を聞いて頂く意味はないのでは?」
詩草が思わず間髪を入れずに返した言葉に込めた反駁にも、森の水面が揺らぐ様子はなかった。
森は椅子の肘掛けに載せていた腕を、膝の上に置いた。それは、今回のインタビューが終りに近づいていることのサインだった。森のそういった癖を自分が覚えているのだということに詩草は気づいて、どきりとした。自分は彼女とそれだけ長い時間を過ごして来たのだ。
「置いてきた方がいいものもあれば、尊重すべき過去もあるでしょうね。それは上野さんの手で選別されることが望ましいと思います。過去は必ず現在につながっています。過去の無力感を忘れることが、現在の人間関係にとって必要なことならそうしてもいいでしょう」
「必要なことかどうか、分からないんです。僕はもう何年も、黒沢に関りのない人間関係を作る努力をして来ませんでした」
森は肯いた。それは、詩草の返答に同意したためか、相槌程度の意味を持ったものなのか、詩草には分からなかった。
「上野さん」
森はかすかに身を乗り出すようにした。
「わたしたちは現在の、あるいは未来の苦痛から逃れるために、何とか過去と向き合う勇気をふりしぼります。それは多くの場合、とてもエネルギーを必要とすることだと思います。勇気を出したことで、自分を評価することも必要です」
詩草は、すぐにはそれに応えられなかった。友人を作らず、親戚との付き合いを断ち、ただ黒沢の庇護下に身を置いた自分が、十三年という時間を飛び越えて退行を起こした。それをきっかけにして森とこうしてゆるやかなペースで話をするようになった。それに勇気と名を付けて評価出来るものなのか分からなかった。ただし、森のカウンセリングが、自分の気分をポジティブな方向へ導いて行こうとしていることは理解出来た。それがカウンセリングの定石なのかどうか、詩草は知らない。だが、少なくとも自分が恐れていたように、過去の傷を洗いざらい打ち明け、苦しみと正面から対峙することを要求されないことは有難かった。
もし森がそれを要求するなら、幾ら黒沢太夏志の希望だとは云っても、ここに通いきることは出来なくなっていただろう。
「疲れましたか? 今日はこれで終りにしましょうか」
今日、ここにやってきてからほぼ一時間が過ぎようとしていた。詩草は思わずため息をついた。森はかすかに微笑んだ。その笑顔を見てほっとする。森はインタビューの最中、一度も笑わないことも珍しくはないからだ。詩草のように、他人の感情に鈍感であろうと努力を続けてきた人間にとっても、笑顔は、暗闇に灯された小さな蝋燭のように、あかるく、頼もしく感じるものだった。
「それでは来月の、今度は六月十七日の水曜日にお目にかかります。その日は大丈夫ですか?」
詩草は壁にかかったカレンダーをちらりと見て、肯いた。太夏志の仕事はもう遙に先まで詰まっている。その日が忙しくないということはない筈だが、森とのカウンセリングは他の予定に優先するようにと太夏志に云われていた。
詩草は立ち上がった。今日もリラックスして話を出来なかったことで、森に対して引け目を感じた。彼が話そうと思えば、どんな話も聞こうという姿勢で、森はその椅子に座っている。彼女の努力がめざましい成果を上げていないと、自分が感じていることを隠すことが出来ればいい。一瞬そう思った。だが、詩草はすぐにその思いを自分の中で打ち消した。森が自分についてどう感じているのか、詩草は読みとることが出来ない。そして、森もそれを悟らせないだけの技量を身につけている筈だった。
森は座ったまま、光に目を細めるようにして詩草の顔をふりあおいだ。
「無理をなさらないで、お身体優先で」
「有難うございました」
ようやくこの一時間が過ぎた。詩草は窓の外で、薄赤い花をつけた箱根空木の茂みが、風に揺れるのを視界の隅に見た。窓から吹き込んでくる風の中に、かすかな薔薇の香がする。
五月。祝祭のように花の咲き揃う季節だ。緊張がほどけたせいか、またこめかみの奥に小さなアナログプレイヤーを設置したように、静かに「月光」が流れ始めていた。
後一ヶ月もすれば、自分が退行を起こしてから一年が過ぎるのだ。
駅前の書店の、音楽雑誌や楽譜を置いてある棚の前で、無作為に抜き出した楽譜を片手に、詩草は考え込んだ。自分が何を求めているのかはっきり分からなかった。作曲家ベートーヴェンの人となりを知りたいのか、彼の作る曲に特別な想いを抱いたのか。はっきりとそう問われれば違うような気もする。クラシック音楽は嫌いではなかった。詩草は、多くのアップテンポな邦楽のポップスや洋楽が苦手で、静かなインストゥルメンタルか、ケルティックの女性ヴォーカルが好きだった。神経が高ぶってリラックスしなければならないような時は、それらの音楽に加えて、クラシックを聴くこともあった。だが、どの作曲家が好みか、そうでないのか、或いはどの交響曲や序曲、協奏曲が好きか、それらを大別出来る程には詳しくはなかった。
太夏志のラックの中には、CDやレコード、レーザーディスクのコンサートまで含めて、クラシック関係のメディアがずらりと並んでいる。太夏志が、良書を好むのと同じように、娯楽的にクラシック音楽を楽しんでいることを詩草は知っていた。原稿が佳境にさしかかった時は、壮大なオーケストラを大音量でかけながら、すさまじい速さでワードプロセッサのキーボードを叩いているのをしばしば見かける。
「楽譜を探してるんですか?」
不意に隣から話しかけられて、詩草は右隣に立った人を振り向いた。
その瞬間、彼に話しかけた男の、プラチナブロンドに近い、脱色した金色の髪が、インパクトを持って目に飛び込んでくる。無造作に切られた髪の間から、右耳に下がった銀色のピアスが目に入る。ピアスの先に揺れるペリドットの黄緑色の小さな石に見覚えがあった。詩草ははそれをどこで見たのか思い出そうと、一瞬忙しなく思考を巡らせた。
青年は詩草とほぼ同年代に見えた。詩草よりも少し背が低いが、決して小柄なわけではなかった。鮮やかなライムグリーンに、灰色の蜘蛛の巣をプリントした、半袖のTシャツを着ている。心臓の位置に足を伸ばした蜘蛛の身体が横たわり、それを中心に、肩や腹に向かって蜘蛛の巣がかかっている。綺麗に盛り上がった腕や胸の筋肉が、薄着の青年を寒そうには見せなかった。
「楽譜ならここより、駅ビルの七階のレコード屋の方が揃ってますよ。初心者向けから上級者向けまで。それに、同じ階の晃文堂書店にも少し入ってます。ここより品揃えはいいです」
「あ、晃文堂の」
「ええ、晃文堂の」
青年はぱっと白い歯を見せて笑った。ここに来て、詩草は彼に何故見覚えがあるのかはっきりと思いだした。太夏志の資料を注文するのによく利用する書店の店員だった。一度ならず彼の手を煩わせて本を検索して貰ったり、本を注文したことがあった。だが、書店で見かけるときは派手な色の髪を後に撫で上げてピンで止めていたし、濃い草色のエプロンを肩からかけていて、服装も地味だった。服装と髪型で随分イメージが違うものだ。詩草は半ば感心して、彼の華々しい装いを眺めた。目のあたりに違和感がある理由を見定めようとして、彼は、青年の目に灰緑色のカラーコンタクトがはまっているのを見出した。やや面長の整った顔の中に、その緑色の目は、猫の目に見つめられているような不可解な感覚をもたらした。
「よく来て貰えるから、覚えてます。黒沢太夏志さんと仕事をしてる方でしょ?」
「ええ」
詩草は肯いた。その書店には太夏志と連れだって赴いたことが一度ならずある。太夏志はテレビ出演や雑誌などでも露出の多い、芸能人気質の作家なのだ。たとえ彼の本を読んでいない者でも、黒沢太夏志の顔を知っている者は多かった。書店員なら尚更、自分の仕事場にベストセラー作家が通ってきていることを記憶しているだろう。支払いを詩草がするときも、黒沢の名前で領収書を切って貰うことが多い。それらを照らし合わせれば、詩草が太夏志のスタッフだということは、少し考えれば気づくことだ。
「音楽がご趣味ですか?」
詩草はおだやかに訊ねた。彼は、初対面の人間や親しくない相手と話すのが得意な訳ではなかったが、慣れてはいた。太夏志の取材に伴われて、普通なら滅多なことでは会えないような相手と接する機会も多かったし、テレビ出演ともなれば、彼は太夏志のマネージャーの真似事もしなければならなかった。慣れていない相手とは話しにくい、などと内気に振舞っていられる環境ではないのだ。
「おれですか────いいえ?」
青年は意外なことを訊ねられたというように首を振った。
「でも、音楽書の棚の前にいらしたでしょう?」
「あ、いえ」
青年はまた歯を見せて笑んだ。それは詩草の目には、驚くほどかげりのない微笑に見えた。髪の色も彼の格好も退廃的で唯美的なカラーのものであるにも拘らず、青年のはっきりとした二重まぶたの目からあふれ出る光は、並み以上に生気の溢れる人のそれだった。
「入り口であなたを見かけたんで、ついてきたんです。すみません」
詩草は、一瞬あっけにとられて黙り込んだ。笑っていいのか判断出来なかった。「あなた」と云われるのは珍しいな、とちらりと思う。親しくない者に対して、二人称で呼び掛ける人は少ない。名前を知らなければぼかした表現をして、名を知るまで待つのが一般的だ。
「プライベートだとどういう本を買うのかなって興味があって。でもその楽譜、資料ですか?」
詩草の沈黙に怯む様子もなく、青年は詩草が手に取った楽譜を覗き込んだ。フランツ・シューベルトの交響曲第九番「グレイト」。詩草はゆっくり首を振って、見当違いに手に取ったそれを、元の棚に戻した。
「ベートーヴェンの『ムーンライトソナタ』を聴く機会があったので、楽譜か────曲の由来を解説したものでもないかと思って」
率直に自分がそう答えたことに詩草は驚いていた。相手が顔なじみの書店員だということで親しみを感じたのだろうか? それとも、ずけずけと他人の領域に足を踏み入れてくるような、彼の馴れ馴れしさが新鮮に思えたのだろうか?
「それだったら、ソナタアルバムのシリーズでいいのが出てますよ。……ここにはないかな?」
青年は棚をぐるりと覗き込んだ。
「ベートーヴェンの3大ソナタの『悲愴』と『月光』と『熱情』が全楽章揃った楽譜集で、曲の解説も詳しく載ってます。綺麗な作りの本で、美術書みたいですよ。読み物としても面白いんじゃないかな」
彼はにこにこしながら付け加えた。
「お値段もリーズナブルです」
「それは、晃文堂にはあるんですか?」
「ええ、在庫があった筈です。もしよかったら一緒に行きませんか?」
なら、後で晃文堂に寄る、と云おうとした言葉の先手を取られた形で、詩草は思わず苦笑した。その笑みは、我ながら余り礼儀にかなったものだとは思えなかったが、この青年には彼の気持を妙に惹きつけ、リラックスさせるところがあった。そもそも詩草は押しの強い相手に弱いという性質があった。それ故に黒沢太夏志と長期間親密な関係を結ぶに至ったのだとも云える。
「書名を教えて頂ければ、自分で探しますから」
なるべくやんわりと誘いを断ると、青年は面白そうに目をきらめかせた。
「警戒してますか?」
「警戒って」
更に苦笑を深めた詩草に、彼は首を振って見せた。
「それは不審に思いますよね。だっておれはあなたの名前も知らないし、あなたも多分おれの名前を知らないでしょう?」
そう云いながら、胸のあたりに小さな四角形を指で描いてみせる。
「社員名のバッジなんて、たぶん見てませんよね」
「あいにく」
詩草は笑いながら肯定した。それはもう殆ど苦笑ではなかった。不思議なことに、自分が彼に好意を抱き始めていることに気づいた。慣れない相手と接するときは、いつも相手と自分を隔てている薄い灰色の膜のようなものが、この青年との間にはなかった。
青年は、ジーンズのポケットから、薄いカードケースを取り出した。そして、そこから名刺を取り出す。
「申し遅れましたが、自分はこういう者です」
そこには、晃文堂書店の社名と住所、電話番号。そして肩書きは無しに『木谷陽』と、名前が刷り込まれていた。詩草は一瞬胸をどきりと鳴らした。木谷という姓には、彼には僅かなわだかまりがある。小学生時代に近所に住んでいた少年と同じ姓だ。真っ黒な髪、真っ黒な目。のびやかな手足の、背の高い少年だった。誰に対してでも優しい兄のような気質の少年は、詩草にだけは頑なだった。そのくせ、詩草が自分の傍にいないと満足せず、罪のない程度の暴力をふるうこともあった。
「陽って、ひなたって読むんですよ。よかったらそっちの名前で呼んで下さい。店でも名字で呼ばれないんです。社長と同じ名字なんで」
「偶然?」
「偶然じゃなくて。社長はおれの伯父なんです。頭を染め直せとか、うるさく云われなくて気楽なもんですから、卒業後あの店に居着いちゃって」
詩草は、名刺を受け取って、儀礼的に押し頂いてからジャケットの内ポケットに滑り込ませた。
「僕の名刺は、あいにく個人的なものしか持ち合わせていないので」
相手の反応を見るつもりでそう云うと、青年────木谷陽は肩をすくめた。
「ガード堅いですね。それに、結構はっきり云うんだ」
「はっきり云うことにかけては、そちらもひけを取らないのでは?」
ゆっくりと丁寧に答えると、木谷は面白そうに目を輝かせた。
「おれ、はっきり云われるの好きですよ。空疎にご機嫌を取り合ってるよりずっといい」
そう云って、彼はすいと書棚の前から離れた。
「今度はお名前を伺いたいです。気が向いたら」
そう云って、きらきらと光を発散するような笑顔を詩草に向けた。
「気がついて貰えないかもしれないんで、云っておきますね。これ、誘いですから」
詩草をその言葉で絶句させたまま、木谷は美しく薄い筋肉の隆起した腕を上げ、(折り曲げて筋が浮かぶと、その腕のラインの見事さは益々際立った)詩草に背を向け、書店を出て行った。歩幅の大きな、いかにも自信ありげな身のこなしだった。特別に長身という訳ではないが、そのなめらかな動きが、彼を丈高く見せる。そして、真っ直ぐに伸ばした背中が、ぎょっとするほど派手な外観を魅力的なものに変えていた。詩草はしばし茫然として書店の硝子の壁越しに彼の後姿を見送った後、自分が先ほど押し込んだ楽譜を、もう一度改めて楽譜の列の中に丁寧におさめ直した。
────友達はいらない、と思っていますか?
ふと、森の声がよみがえる。自分の心臓が少し高鳴っているのを意識する。その高鳴りの正体が何なのか、彼はすぐには理解出来なかった。
それが新しい人間関係への期待なのだということを理解したのは、結局「月光」の楽譜を買うことはせずに、帰路につく中途でのことだった。
マンションのエントランスで鍵を差し込もうとして、詩草は思いとどまった。太夏志が家にいることを思いだしたからだ。太夏志は、詩草に呼び出させて、自分でロックを解除するのが好きだった。そして玄関口まで出迎えて、お帰り、と云うのがこのところの習慣になっていた。
(「僕もそうした方がいいですか?」)
至極真面目な気分で問いかけると、太夏志は可笑しそうにして首を振った。
(「これは俺の儀式だから、お前は付き合わなくてもいいよ」)
そう云った言葉の通り、太夏志は一人で外出しても、自力でエントランスや住居棟のロックを鍵で解除して入ってくる。余程酔っているときでもなければ、チャイムを鳴らして詩草に出迎えさせるようなことはなかった。太夏志は色々な意味で趣味人だ。さばさばして見えるが、実のところウェットな部分も持ち合わせている。帰ってきた詩草を出迎える、というところに、太夏志は何か意味を見出しているに違いない。
そう思った詩草は、太夏志の望み通りにチャイムを押し、彼が、二人の住まいへの入り口を開くのを待つようになった。お帰り、と云われるのは一人暮らしの長かった詩草にとっても快い。子供の頃に一緒に暮らしていた母からは、学校から帰宅してもろくな挨拶を受けた覚えがなかった。母は大抵ぼんやり座っているか、耳をふさいでベッドに潜りこんでいるかどちらかだった。精神的に落ち着いていた時期には働いていたこともあった。詩草は保育園で、誰よりも遅くまで親の帰りを待つことにも、鍵を持って学校から帰ることにもすぐ慣れた。家に帰ってドアが開いていると、気持は浮き立ったが、母の布団が盛り上がっていると、その嬉しさもしぼんでゆく。ぼんやりしていてもいい。自分の存在を受け入れて欲しかった。
あの頃に比べて、今、自分の持っているもののいかに多いことか。
『お帰り』
インターホンのマイクから、聞き慣れた音楽的な低音が流れ出て、固く閉じていた自動ドアが開く。
お帰り、と云われる幸福。ただいま、と返せる幸運。自分の家に帰るのだという実感を、彼はようやくゆっくりと握りしめようとしている。
いつこの場所を失っても生きていけるように、極力荷物を少なくしてきたことを、太夏志が気づいていないよう望んでいた。だがこの一年で、黒沢太夏志が自分への愛情のために、彼のエネルギーの中の多くの部分を投げ打とうとしていることを、もはや疑うことは出来なくなっていた。
二つ目のドアのロックが解除された後、エレベータを昇ってゆく。二人の暮らしている部屋は角部屋だった。廊下の端まで行ったところで、ドアの鍵が外される気配が伝わって来た。詩草が門扉を引き開けた音に呼応するように、ドアが内側から開いた。
「やあ」
大柄な太夏志が、半分身を乗り出すようにしてドアから顔を覗かせた。
「ただいま帰りました」
いつも通りの挨拶を返す。ジャケットを脱ぎながら玄関に入る詩草の背後で、太夏志が鍵をかけた。
「ちょっと、顔見せてみろよ」
リビングに入るなりそう云われた。
「何ですか?」
「今日の森先生とのミーティングはいい感じだったんじゃないか?」
詩草は、自分の気配に敏感な男の顔を見上げた。
「そう見えますか?」
「顔色がいい」
太夏志は、そっと腕を伸ばして詩草の頬を両のてのひらで包んだ。
「そうでしょうか」
詩草はすぐに悪戯を仕掛けて来る太夏志のてのひらを、軽く叩いて自分から引き離した。
「森先生と話すのが嫌だったことはないですよ。集中して自分の話をするのに慣れないだけで」
「それを喜ぶようじゃ、お前らしくないけどな」
「そうでしょうか」
詩草は機械的に同じいらえを返した。太夏志があきれたように唇の片端を上げる。
今日の太夏志は、無地の、仕立てのいい黒のシャツを着ていた。運動選手ほど筋肉質な訳ではないのに、並はずれて身長が高く、手足の長い太夏志は、着るものには不自由しがちだった。身長に合わせると幅が余ることが多いのだ。袖丈も短いことが多い。今着ているのは、渋谷に展開しているセレクトショップに置いてあった、イタリアのデザイナーズブランドだった。直し無しに太夏志の肩幅や袖丈にぴったり合うものが見つかるのは珍しい。余り衣服に金をかけない太夏志が、珍しくまとめて買いこんで来たシャツの中の一枚だった。ふと、灰色の蜘蛛を胸に止めつけた、木谷陽の姿が思い出される。木谷はほんの一瞬出現しただけで、詩草を落ち着かないような、浮き足だった気分にさせたが、太夏志の姿は彼を安心させる。彼の傍にいると、地に足がついている気分を味わえるのだ。
太夏志が動いた時、ふわりとアフターシェーブローションの香がして、彼が身仕舞いを済ませたばかりなのが分かった。今夜出かける用事があっただろうか? 詩草は頭の中で予定をさらう。今日は出かける用事はない筈だ。気分転換をはかったのだろうか。それとも自分を出迎えるために? そう考えて詩草は思考を打ち切った。自分達は昨日や今日の仲ではないのだ。月に一回の私用で家を空けたからと云って、改めて身支度までして自分を太夏志が出迎える理由がないと思った。
詩草は、自分の視界を隅を横切っていった太夏志が、何をしに行ったか気づいた。「月光」をセットしたままのプレイヤーの上に屈み込んでいる。スピーカーが、針の落ちるかすかな音を拾い、ついで、アナログ音源特有のかすかな雑音と共に、静かにピアノソナタが始まった。
「これ、南野先生に貰ったレコードだって?」
「よく名前を覚えてますね」
昨日、太夏志にちらりとその話をしたときは、高校二年の時の副担任としか云わなかった。
「修学旅行の自由時間に、猊鼻渓に一緒に行った人だろう?」
「そう、その人です。僕たちが卒業する年に、私立高校に転任することになって、餞別のお返しにこれを貰ったんです。考えてみると、あの頃はもう先生も、CDで音楽を鑑賞するようになってたんでしょうね」
「どうかな」
ピアノの音に、太夏志の低い声が重なった。
「お前に、特別な思い出の一品をくれたのかもしれない」
「だったら嬉しいことです」
そう云い返すと、太夏志は笑った。
「よくもぬけぬけと」
「やましい気持が無いから云えるんですよ」
その瞬間、またもや書店で自分を見つめる、木谷陽の緑色がかった瞳が記憶をかすめて、詩草は困惑した。木谷の出現は突然で、常識的ではなかった。言動からして冗談めかしたもので、自分がそれに振り回されるような類のものではないと思った。
「演奏はホロヴィッツ?」
「ええ。来日したのは相当前だったし、もう彼もかなりの高齢ですから、ライブの演奏を聴くのは不可能かもしれませんけど、一度『月光』をCDやレコードでなく生演奏で聴く機会があれば、と思います」
太夏志は、詩草の言葉を聞きながら、ソファに身を投げ出した。
「弾いてみようか、『月光』」
「ええ?」
詩草はひどく驚いて、ソファの背にもたれた男の、長く強靱な指を眺めた。
「弾けるんですか?」
「弾けるよ」
「ピアノをやってたんですか?」
「習ってたのは中学まで。後は独学の楽しみでぽつぽつな。前まで実家にグランドピアノがあったけど、おれが家を出た後、余所に譲ったんだ」
そう云って、太夏志は腕を高く掲げて、それを一直線にすうっと下に降ろした。
「ホロヴィッツのテクニックを高さに喩えて、それがサンシャイン60の最高部の二三九、七メートルだとすると、俺のテクニックは云うなれば地下十四、五メートルくらいってところか。だけど弾けることは弾けるよ。第三楽章まで」
「それで小説に、ピアノを弾く人がよく登場するんですね」
太夏志は多趣味な男で、様々なことを浅く広くこなす。音楽関係に造詣が深いのかどうかは、取材力を誇る太夏志の小説からは判断出来なかった。ただ、歌がうまいことは知っていた。テレビ局や、講演会会場のマイクに向かって滔々と語るのと同じように、彼は鼻歌でさえ、ちょっと手を止めて聴き惚れるような巧さを持っていた。音感が良いのだ。だが、ピアノが弾けるというのは初耳だった。余り何でもこなすせいか、太夏志は余り自分の技術を自慢することがない。控えめ、という性格ではないので、本当に自慢するほどの気持がないのだろう。
「聴いてみたいです、太夏志さんの『月光』」
心底からそう云うと、太夏志は目の前に両手をかざした。
「いや、でも第一楽章はともかく、第三楽章はちょっとあやしいかな。何より、ピアノが手近にない」
彼は、詩草を手招いた。手を引いて、自分の隣に座らせる。いつからついた習慣なのか、太夏志は、何かの思いつきを話すとき、詩草を隣に座らせて、目を覗き込むようになっていた。
「ピアノ買うか。このマンション防音もいいし、確かピアノはOKだった筈だしな。リビングに入れればいいだろ。そうしたら、すぐにムーンライトソナタは無理でも、簡単な曲ならおれが教えてやれる」
「まさか、僕にですか?」
詩草は狼狽して首を振った。
「無理です。音楽的センスは全くないですから────ただ、僕は」
詩草は気持を伝える正確な言葉を探そうと、胸の中を手探りした。
「久し振りに聴いたあのレコードの曲がとても美しいと思って────それを太夏志さんが演奏出来るとすれば、その様子を隣で眺めてみたいんです。自分でその曲を弾きたいと思えるほど大それた望みは持てません」
言葉の末尾を、自分の消極的な言葉で締めくくってしまったことに気づいて、詩草はゆっくりと云い直した。
「僕の好きな曲を、好きな人が弾ける、という点がこの場合トピック・ニュースなんですよ」
詩草としては、最大限に自己表現したつもりの言葉は、太夏志をひとまず納得させたようだった。
「じゃあ、今度知り合いのスタジオが開いてるとき、ちょっと潜り込んで弾いてみるか。楽譜を買って来ないとな」
「僕が買ってきますよ、楽譜なら。晃文堂に置いてあるそうです」
「調べたのか?」
不思議そうな顔をする太夏志に、詩草は曖昧に笑って応えなかった。一瞬、太夏志に木谷の話をしてみようか、という思いつきが胸の中をかすめた。彼は無意識に、木谷から受け取った名刺を探ろうとして、それが脱いでしまったジャケットの内ポケットに入っていることを思いだした。
友達はいらない、と思っていますか?
森の質問が再び詩草の中で、小さく発光するように浮かび上がった。友人を要らないと思うはずはなかった。先刻、書店を去って行く木谷の存在をひどくまぶしく感じたのも、詩草の静かに丸く閉じた世界の中に、思わぬ刺激を与える存在のように思えたからだ。木谷は詩草に話しかけた自分の行動を「誘い」だと云っていた。それがどこまでの意味を持つものかは分からないが、それに心が動いたことも確かだった。
だが、黒沢太夏志といる限り、自分の中には殆ど空席らしきものが存在しないのだということも自覚していた。
太夏志はこの数年間、詩草の兄であり、父でもあった。友人でもあり、恋人でもあった。彼との関係を代償行為だと思っている訳ではない。だが、家族や友人が数人がかりで構成する筈の、心の中の席の殆どを、太夏志が強引に一人で埋めてしまったのは確かだった。
そして彼は、詩草にその気さえあれば、音楽教師の役割すら果たしてくれようと云うのだ。
詩草は、ピアノの鍵盤に載せた自分の指を、太夏志の指が包み込んでタッチとフォームを修正するさまを思い浮かべた。それは、不意に彼の胸をいっぱいにするような幸福な情景だった。彼はこころの中で重なった指の下から、指をそろそろと引き出した。
友人はいらないと思っているのか。それは否だ。
今までまじわったことのないようなタイプの相手に誘いをかけられて、多少でも昂揚しないと云えば、それもまた否だ。
だが、太夏志の与えてくれるものはいつも詩草の外にこぼれ落ちそうなほどなみなみとたたえられていて、他の人の入る隙間、或いは不和に苦しめられた過去が入り込む隙を与えない。
ピアノを太夏志にこの先教わることはないかもしれないが、毎日を生きる為に叩く鍵盤の上で、太夏志の指が自分のフォームを半ば強引に、優しくただしてくれたことを、詩草はあきらかに意識していた。森の許へ通っているのも、彼女を太夏志が評価し、通うことを望んでいるからだと云ってもいい。この数年をかけて、詩草は太夏志から、丁寧に日常を弾きこなすレッスンを受けていた。
彼は、木谷の話を太夏志にはしないことに決めた。口の重い詩草がそれを返上するなら、太夏志に向かって、もっと云うべき言葉がある。
自分の反応が曖昧だったことを隠すような気分で、間近に座った太夏志の唇に、かするようにくちづけした。
「気づいてますか?」
そう訊ねると、太夏志は問い返すような視線を返した。木谷の口真似をしてみる。
「誘いなんですよ」
太夏志は長い両腕をそろりと伸ばして、詩草の身体を静かに抱え寄せた。
「おれもお前が帰ったらそうしようと思ってた」
それで詩草は、太夏志の身仕舞いが意味のないものではなかったことを知った。
「まだいくなよ」
耳元で囁かれて、詩草は必死に気持を逸らそうとした。彼はとうに濡れてはじけそうになっている。冷たい空気が頬を撫でて、自分の目から涙の筋が流れ落ちているのを意識した。全身が熱く痺れている。涙を拭うために腕を上げるのも億劫だった。
「引き延ばせ────もっと楽しめよ」
太夏志の手は詩草の開いた太腿の上にあり、今は性器に直接触れていなかった。太夏志を迎え入れて熱した詩草の身体は、足の内側をゆるゆると撫でられるだけでひどく感じた。頬に感じる冷たい筋にあたたかさが加わって、彼は自分がまた一筋涙を流したことを知った。
彼は、自分を抱く男の睦言に応じようと、自分の身体から意識を切り離そうとした。頭の中で、静かにプレイヤーの針をレコード盤の上に置くところを想像する。濡れたような黒い表面を輝かせて、レコードが僅かに歪みながら回り始める。その不安定な回転を。
「レパートリー……」
彼が低くささやくと、太夏志はその言葉を聞き取ろうとするように、上体を深く折り曲げた。そうされると詩草はなおさら膝を開かなければならず、息苦しさと、敏感になった下腹がこすれる感覚に、彼は背中をびくつかせて耐えた。
「何だって?」
「レパートリーが色々あるんでしょう? 『月光』以外にも」
「色々ってほどはな」
太夏志の背中がまたゆるやかにうねり始めた。とけた自分に衝撃が突き入れられる感覚に耐えながら、詩草は細く息を吐き出した。油断したらあられもない声を上げてしまいそうだった。そうしてようよう息をととのえて云った。
「もし、それを時々弾いてくれるなら────うちにピアノが欲しいな」
腕を回した太夏志の背中が一瞬動きを止めたようだった。頂点に向かおうとする詩草の身体は、与えられる感覚を求めてふるえる。そのふるえを直に感じ取った太夏志の身体もまた、また耐えられないように軽く痙攣した。
詩草は、大きく息を吐き出した。その呼気と共に彼は少し笑った、
「明日や明後日じゃなくていいんです」
「お前が俺に『欲しい』って云うのがどんなに珍しいか、知ってるか?」
詩草の肌を愛撫していた手を上げ、太夏志は彼の髪を優しくかき乱した。
「すぐに買いに行くに決まってるだろう」
詩草は熱い息に紛れて笑った。
「……そう云うと思ってた」
だが、会話が出来たのはそこまでだった。汗と荒れた息の中で二人は言葉を失い、目を閉じ、歯を食いしばって、ある瞬間が訪れるのを待った。絡め合った四肢はコントロールを失い、甘く崩れたメロディのようにシーツの上で弾んだ。
詩草の心の内側では、未だに静かに「月光」の第一楽章が流れ続けていたが、それは意識の中でさえほぼ不可聴レベルであり、二人分の体温をむさぼる彼の集中力を、今度は妨げなかった。