文庫前。まだ先生、と呼び、呼ばれていた頃。イベント好きな人とそうでもない人。
寒さは苦手だが、十二月は好きだ。太夏志は、クリスマス・イルミネーションに飾られた上野駅の構内を眺めながら思った。そして、寒い日に人と待ち合わせをするのも好きだった。待ち人と出会った後に、暖かい店に入るのが好きなのだ。彼は基本的に、人と会うのが好きだった。余り好きでない相手とさえ、外で待ち合せて打ち合わせをするのは太夏志を昂揚させる。ましてや手に入れたばかりの恋人と、クリスマスツリーの下で待ち合わせをするなら。
「黒沢先生、すみません。僕、遅れましたか」
声をかけられて、太夏志は微笑した。約束の時間の少し前に待ち合せ場所に行って、こういう反応を聞くのも好きだ。彼が待っていたのは上野詩草だった。知り合ったのは今年の初めだが、彼を心身と共に(もっとも心を完全に手に入れたのかどうかは、太夏志にはまだ確証がない)手に入れたのは、ほんの数ヶ月前だった。
今日の詩草は、すらりとした紺のジャケットとジーンズ姿にウールのチェックのマフラーをつけていた。いささか薄着だが、彼はそれほど寒さを感じないらしい。ダウンジャケットを持っているが、それは一月にならなければ着ないのだと云っていた。体温は低いのに、寒がらないのだ。それが太夏志には清廉に思えた。寒さの中に、衣を纏うこともなく凛と立つ、細い白樺のようだと思った。
薄着で、彼のほっそりした長身を鑑賞出来るのも好ましいが、近々彼にプレゼントと称して、カシミアのロングコートを買って着せよう、と太夏志は思った。余り色の薄い派手なものは好まないだろう。おそらく、黒か紺なら抵抗無く着てくれる筈だと思った。
「五分前だよ」
腕時計を指し示してそう云ってやると、詩草はほっとしたようだった。彼は滅多に時間に遅れてくることはない。今年から、太夏志のアシスタントをするようになって、何度彼と待ち合せたのか分からないが、詩草が時間に遅れたのは、一、二度だったと記憶している。そういう意味でも、詩草は彼にストレスを与えない相手だった。それどころか、詩草に会っていると、太夏志の中のドーパミンニュートロンが、脳の深部で快感物質を作るのを実感する程だった。実際、詩草と会った後は仕事が進む。彼が同じ家に居るときも同じだった。
「凄いクリスマスツリーだな」
十メートルほどもあるだろうか。中央改札口の近くに立てられたツリーは、赤いリボンとメタリックの色とりどりのボール、金色の電球で豪奢に飾り付けられている。
「……ええ」
詩草の答がやや消極的なのに太夏志は気づいた。
「クリスマスは余り好きじゃない?」
「いえ、クリスマスが好きとか、嫌いとかじゃないんです。ああいう電球は、樹を傷めると聞いたことがあるので、それ以来電飾を観ると、気の毒に思えるようになったんです。もし自分の身体一面に、熱い電飾がずっと巻かれてたら苦しいだろうな、と思ってしまって」
「なるほどな」
太夏志は詩草のその感慨を好ましく思った。彼は祭り事に概ね肯定的で、クリスチャンでもないが、クリスマスシーズンには心が浮き立つ。豪華に飾り付けられたツリーを観るのも好きだった。だが、詩草のような考え方をする人間もいていいと思う。その男が自分のものなのだと思うと、余計に気分がよかった。
「じゃあ、行こう」
彼等は目的地へ向かって歩き出した。二人は国立西洋美術館に、ゴッホ展を観に行く約束をしていたのだった。今回のゴッホ展は、オランダのヴィンセント・ヴァン・ゴッホ美術館、国立クレラー・ミューラー美術館といった、ゴッホの至上の作品を所蔵している美術館をはじめとする、世界各地の美術館、個人所蔵の作品も集めた、史上類を見ない豪壮な展覧会だ。国立西洋美術館が三年に渡って交渉を続けた結果実現した、ゴッホファンにとっては夢のような展覧会なのだ。詩草がゴッホの原画を観たことがないというので、太夏志が是非にと誘ったのだった。
「俺はイベントに乗る男だから。お前にも何かこの季節にプレゼントを渡したいんだけどな。何か欲しいものはないか? 俺の好みで選ぶと、お前には派手すぎるかもしれないからさ」
そう云うと、言下にプレゼントを断るかと思った詩草は、ほんの少し沈黙した。彼が何も云い出さなければ、無理にでもコートを買い与えようと思っていた太夏志は、ほんの少し意外な気分で彼を見守った。
「クリスマスには、確か黒沢先生はフィンランドに行くんですよね?」
詩草は記憶を辿るようにゆっくりした口調で云った。
「ああ。ヘルシンキを経由して、ロヴァニエミに行ってくる」
その旅行は、仕事がらみではなく、太夏志の個人的な趣味の旅行だった。優花子を連れて、サンタクロースの町としても有名な、北極圏のロヴァニエミに行ってくる予定なのだ。
「だったら、そこから、絵葉書を一枚頂けませんか? もしも黒沢先生の小旅行記がついていたら、何よりも嬉しいです」
太夏志は、クリスマス・プレゼントと問われて、そう答える詩草の無欲さに一瞬胸を衝かれた。葉書など、十枚でも二十枚でも書いてやりたい。フィンランドを舞台にして旅行記を一本書き、詩草に捧げてやりたい。そう思った。そして、若木のような姿で自分の傍にひっそりと佇んでいる青年を、人目も気にせず抱きしめたい衝動を、ようやくこらえたのだった。
※この話は1995年なので、本当は上野駅にクリスマスツリーはありません。嘘を書いてごめんなさい。そして現在では、発光ダイオードという半導体が実用化され、樹が余り傷まない電飾が主になっているようです。