文庫前。付き合いたてのワンエピソード。ペーパー用ミニ話ですが気に入っているもの。
俺の秘書になった上野。従兄弟の黒沢太夏志が、紹介の席を設けた日、優花子は秘書という仕事の全貌が掴めず、いぶかしい気分になった。黒沢が多忙を極めているのは知っていた。彼女自身が彼の仕事を手伝いたいと思ったこともあった。だが、優花子は高校生になったばかりであり、実際に作家の仕事を手伝えるか、というのは彼女の想像の及ばない部分だった。黒沢の周囲にはいつも、彼をサポートしようという、或いは、有用・無用を織り交ぜた助言をしようと待ち構える人間がひしめいていたが、笑顔で彼らと接しながら、黒沢は彼らに容易に胸襟を開こうとはしない印象があった。陽気な笑顔と冷笑、二面性が従兄弟にはあって、その両面を統御するのに、彼自身苦労した時期は長かったと思う。
同席したレストランで、上野は背中を静かに伸ばして座っていた。背もたれと彼の背中の間に隙間があり、上野が椅子にもたれずに座っていることに優花子は気づいた。彼を紹介した黒沢はといえば、大きな背中を背もたれに深く預けて、長すぎるような逞しい脚を組んで座っていた。
随分後に、黒沢は、この日のことについて、優花子と上野を着飾らせて同じ席につけ、周囲に見せびらかしたかったのだと云った。上野は、飾り気のない白いシャツとジーンズだったが、微妙なみどりの光沢のある、スリムなグレーのジャケットを羽織っていた。前髪を額で軽く分けた、自然ですっきりした髪型、日焼けの跡のない卵色の皮膚と相俟って、上野は、男性的な従兄弟の姿に馴れて育った優花子には、近寄りがたい異人種のように見えた。
太夏志に、誕生日に贈られた、フォーマルなシルクのミニワンピースを着てくるように云われた時、何度も行ったカジュアルフレンチの店に行くのに、少し大袈裟だと思った。だが、迎えに来た車の助手席に、予告なく乗り合わせた上野の姿を見た時、優花子は、髪型や服を出来るだけきちんとしてきてよかった、と思った。もの静かで、そんなに自己主張が強く見えるわけでもないのに、上野は気楽な普段着で同席出来るような相手ではなかった。黒沢の二面性とはまた違う、優しさと冷静さのうまくとけ合った、端正な顔が優花子を見た。
「上野です。よろしくお願いします」
走り出した車の中で、優花子が云いそびれていた言葉を、上野は先に云って、後部座席を振り返り、すうと頭を深く下げた。頭を下げたままで一、二秒静止する。年上の男に、そんな風に丁寧に頭を下げられたのは、初めてだった。まだ大学生だという上野は、しかしひどく大人っぽく見えて、優花子はのぼせて、足下が頼りなくなるのを感じた。同じ内容の挨拶を返すのに、合唱で腹式呼吸の練習をする時のように、腹に力をためて声を出さなければならなかった。
楽観的に、享楽的に生きているようでいて、それだけではない。そういうところで、優花子に得体の知れない不安を与えていた従兄弟が、「秘書」という仕事をさせようとしている男。優花子とたった六歳しか年が違わないのに、従兄弟の仕事をサポート出来ると判断された男が、どんな男なのか、知りたかった。それを見せるために、従兄弟が上野に会わせるのだと彼女は信じた。自分が、従兄弟にそうして貰える存在なのだと、理由は無くても思っていた。
だが、当の上野は、優花子にことさら個性を見せようとはしなかった。そうとはいえ勿体ぶるようでもなく、隠すようでもなく、居場所を見つけられないといった風でもなく、静かに同席していた。酒は余り飲まず、料理をゆっくり食べていた。健啖家でも、少食でもなく、特に上品でもなく、下品でもなく、全てがさりげなかった。
黒沢は、運転しているので酒を飲まなかったが、機嫌がよかった。そういう時の癖で、小難しい言葉を使って、優花子に議論を吹っかけた。それでいて自分の話をせず、必ず優花子の話題に持って行って、彼女に花を持たせるのが従兄弟の常だった。特別に扱われることをくすぐったく、煩わしく思う。だが、嬉しかった。自分の倍近く生きている従兄弟に、斬りつけられるように強い言葉で、考えたこともないような死生観や、物事への視線や、思春期の中をゆらめきながら輝いている毎日について、考えるよう強要されるのは、自分を早く大人にしてくれるような気がした。
席に飾られた青い花束のように、上野は静かにそこにいて、しかし無関心なふうではなかった。話題に添って、黒沢に、優花子に向けられる視線でそれが分かった。整いすぎたような目は笑いを見せないにも拘わらず、不思議になごやかだった。そうして、二人と同席していると、何年もこうして一緒にいたような気持ちになる。上野の存在に馴れ始めている。そのレストランにいる間、優花子の小さな頭蓋の中に、強く輝く、若い宇宙のようなものがゆるゆると膨張してとどまっているのを感じる。従兄弟と、この男と三人でいる「状態」を、自分はどうやら好きなようだ、と彼女は思った。心の底から安堵した。従兄弟の身近にいる存在に、世界を阻害されていると感じたら、優花子はどうしていいか分からない。毎日がどれもひとつずつ重要なのに、その中に、少しでも虫食いの部分があるのは嫌だった。
上野さんはどこまで帰るんですか? 家まで送られた優花子が降り際に問いかけると、上野が答えるより早く、黒沢が、今日は俺のうちに泊めるよ、飲んでるからな、と答えた。その瞬間、上野の眉が困ったようにひくりと寄るのを、ルームライトの中で、優花子は見逃さなかった。彼女は口を開き、自分が何を云おうとしているのかが分からず、唇を閉じた。店を出る前に、鏡の前で塗り直した、薄い色のつくリップクリームのせいで、ドアに鋭く鍵をかけるように、唇が強固にぴったりと合わさった。
彼女はそれを無理矢理にこじ開け、上野に「またね」と云った。云いたかったのだ。そういう云い方にしようと決めていた。上野は、レストランでそうしていた時と同じように、切れ長の目をかすかになごませ、右手を少し上げた。その手の指は長く、彼全体の中では男っぽいパーツだった。彼はてのひらから一拍遅れて、また、と応えた。黒沢は黙って二人を眺めていた。従兄弟の唇には、不可解な笑みが隠れているように見えた。
玄関の灯りの中に入っていく一瞬前、門を閉めながら、優花子は振り返った。車内は暗く、殆ど中が見えない。だがその中でも、運転席側から、引き寄せるというほどの力ではなく、しかしただ叩いて親愛の情を示すというよりは意味ありげに、上野の肩に長い腕が置かれるのが見えた。優花子は目をしばたたいた。自分のまぶたと睫毛が暗い視界を一度遮断して、また開くのが見えた。彼女は家の灯りを背にして立ち、視力の優れた目で、静かな車内に焦点を合わせた。
肩に巻かれた従兄弟の腕に、上野が、ほんの数ミリ。本当に僅かなだけ動いて、身体を寄り添わせるのが見えた。従兄弟の腕には、ねぎらいのようなニュアンスがあり、上野の肩には無防備な疲れが見えた。
それで、彼女は、この晩の数時間には、自分が思っていた以上の意味があったことを知った。従兄弟が、わざわざ仕事に関わる人間を紹介するのは、初めてだった。頭の中の宇宙が弾けて、洪水のように暗く飛び散った。暗いのに、ひたすらに輝いている。目の中が痛くなる。ついさっきまで確固とした星だったものは、渦を作りながら、更に細かくこなれていった。元から脆くやわらかだったものが、光の粉になって夜にとけてゆくさまを、優花子はじっと見つめた。
上野の数ミリの動きには、優花子の嫌悪感を刺激する要素は、何一つなかった。
その晩、優花子は遅くまで開いている書店に歩いて行き、緑色の薄い教本を買った。東京の夜の中で、明るい異次元のように展開するコンビニエンスストアで、マニキュアを二本選んだ。部屋に帰り、テキストに載っている華やかな爪を真似て、自分の柔らかな短い爪に、初めてエナメルを塗った。きちんと切られた、飾り気のない上野の爪が頭の中で二重写しになっていた。
初めてのネイルはなかなかうまく出来た、と優花子はぼんやりと思った。
もうたぶん、この爪を従兄弟の好みに合わせる必要は、ないのだ。