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[夢の卵]_10_[星蜘蛛]_「スパイダー」

02 15 *2016 | Category オリジナル::夢の卵

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文庫一年後の6月。

続き




 上野詩草の、ささやかなこだわりの一つに、水回りの始末へがあった。洗面所に水の跳ねがあったり、浴室の壁や床を、濡れたままの状態で放置しておくことはなかった。
 彼は、同居人がいないのを確かめて、そっと浴室に入った。
 詩草の同居人に、自分と同じように住居を扱う気遣いを求めるつもりはない。これは自分の仕事だからだ。水回りの管理がきちんとしていれば、住居の命は十年は延びる。そう聞かせてくれたのは、詩草が初めて一人暮らしをしたとき、大家だった年配の男性だった。それは、むろん自分の物件を大事に扱ってくれ、という意思表示であったのだが、それは一つの確乎とした情報として、詩草の頭に刷り込まれた。
 太夏志の買ったマンションに住み込むことになった時、彼は専有面積が優に百平方メートルを越える、広々としたバリアフリーの建物の、水回りを一つずつ点検して歩いた。そして、太夏志が額に汗して買ったこの建物の命を、十年延ばす役目は自分がしよう、と決心した。

 水しぶきのかかった鏡や壁、床、天井まで、タオルを使ってさっぱりと拭き取る。何枚も使うのではなく、一枚のタオルでいい。濡れたら固く絞り、何度かに分けて水気を拭い取る。これをしておくと、後は開け放った窓と換気システムが、浴室を綺麗に乾いた状態に保ってくれる。これを習慣にしておけば、黴取りなどの煩わしい仕事だからだいぶ解放される。
 浴室を掃除し終って、詩草は洗面所に向かった。洗面台の周囲には、太夏志が髭を剃った痕跡が残っていた。充電器に差し込まれた、使ったばかりのシェーバー。周囲にアフターシェーブローションの香がうすくたちこめ、洗面台の周囲に水がたまっている。顔を洗った跡の水の飛沫が、鏡やタオル棚の側面に散っていた。詩草は、それも乾いたタオルで丁寧に拭き取った。洗面台の蛇口の曇りをスポンジで擦り取る。鏡がクリアになり、洗面台のアクリル系樹脂がつやつやとした光沢を取り戻すと、彼は小さな満足感を味わった。
 こういった小さな仕事のもたらす安らかさは、いつも手探りで自分の能力を探る、もう一つの仕事────作家の秘書などという────よりも、ずっと確実なものだった。やり甲斐の面では正直に云えば向こうに勝ちを譲るが、絶えず小さな充実感を供給してくれる、有意義な仕事だった。
 家の中の環境を清潔に保つのは、彼が特別にきれい好きだからではない。それはひとえに、ハウスキーピングを含めた仕事で、太夏志から法外な給与を支払われているからだった。それが太夏志の税金対策になっていることは事実だが、未だに詩草は自分の預金額を見るたびに複雑な気分になる。黒沢太夏志にここまで支払われるだけのことを、自分はしているだろうか? 何かしらの機会を見つけて、もっと太夏志の役に立たなければならない。その思いは常にあった。
 詩草は、掃除に使ったタオルや用具を片づけ、静かに息を吐いて、丁寧に手を洗った。同居人の、アフターシェーブローションの香が快かった。アルコールの入ったローションが肌に合わないので、詩草は他のものを使っているのだが。カモミールの香をブレンドしたローションの香は、男性的でありながら、ふと細やかな優しさを見せる詩草の同居人によく似合っていた。
 同居人。
 この言葉を使うと、詩草は一抹の引け目を感じずにはいられない。彼等の住む広い間取りのマンションは、相手の黒沢太夏志の持ち物であり、詩草は太夏志の意志でその部屋に住まい、彼の仕事を手伝って給与を得る。それら全てを生み出す源は、黒沢太夏志の旺盛な働きに他ならなかった。太夏志は、燃料の切れることのないエンジンを体内に搭載しているような男だった。どんな小さなものからも興味の種を拾い出して、文章として育て上げることが出来る。彼の生み出すものはやや通俗的で、定型文的な要素はあったが、ただし、読者の望むものを的確に提供する能力は十二分にあった。
 その力を持ってして、彼は年間十冊以上の本を書き、雑誌に細かな連載を何本も同時に持ち、自分の原作を、映画やドラマに多量に提供しているのだった。
 ふ。と、背中で熱が動いたのが分かった。詩草の前の、洗面台の広い鏡に彼が映っているのを、目を上げて確認する暇もなく、彼の身体はがっしりとした腕に後から抱きすくめられた。
 思わず顔を上げると、退屈した大きな猫のような顔つきの太夏志が、驚かされた詩草の表情を鏡越しに見守っているのが目に入った。
「何やってるんです、足音を忍ばせたりして」
「王子様はおめかしタイム?」
 鏡に映る太夏志は、同じく鏡に映る詩草の表情を観察するのをやめ、目を伏せて彼のうなじにキスした。王子様。太夏志は時々、この呼び方をして詩草を困らせる。もっとも詩草が先に太夏志を『王様』と呼んだのだ。その時太夏志は、自分が『王様』ならば、詩草は、『姫君との縁談もないまま城に引きずり込まれた、隣国の王子のようだ』と云った。そこで詩草を『姫君』と呼ぶセンスでないのはせめても有難かったが、王子様と呼ばれても実のところ戸惑ってしまう。その言葉から、サン=テグジュペリの美しい絵本を思い出す。美しく孤独な星の上に、誰をも害することなく、心の目をひらいて立つ、日光のような髪をした少年の装画を。そして、童話の世界と、太夏志と自分のセンシュアルな関係が混ざり合う気恥ずかしさに、胸のどこかを灼かれる思いをする。
 太夏志はそんな詩草の気分の変化に、気づいているのか、気づかないのか、いずれにせよ知らない顔で、彼を王子様、と呼ぶ。そう口にする時、太夏志が必ず自分に誘いをかけていることを詩草は知っている。だからそのキーワードは尚更に羞恥心と結びついているのだ。
「もしかして、俺のため?」
 うなじから、するりと顎に唇が移る。それと一緒に、自分の中でも熱いものが動いて、詩草は心の中で声を上げそうになる。
「自意識過剰ですよ」
 言葉が尖っている分、なるべくやわらかく云おうと努力する。気まぐれで精力に満ち溢れた太夏志の気分を、仕事へと向かわせ、彼の熱を拒むのも詩草の務めだった。
「そうか? 残念」
 そう云いながら、太夏志の腕はまだ離れなかった。長袖の柔らかな生地のシャツに包まれた、詩草の腕をするすると撫で上げ、骨の丸みごと詩草の肩を包み込む。それはどこか、あやすような動きだった。詩草の肩の上に後から頬を伏せたままでじっと立つ。うなじに、太夏志の静かな息がかかる。あたたかな呼吸にうなじの肌を湿らされる感覚に、詩草は身体を火照らせた。自分の変化が、太夏志に伝わっていなければいい、と思う。
 自分を巻き締める腕の力は優しく、柔らかく、こんな場所でなければ、それに酔ってしまってもよかった。だが、洗面所の明瞭な灯りが彼等を照らし出し、全てを鏡の前にさらけ出されているこんなシチュエーションで、太夏志の腕に身を任せ、解いていかれる過程を、自分の目で見るのは嫌だった。
「離してください」
 先刻よりももう少し強く云った。うなじのすぐ上で閉じていた太夏志の目が一瞬開いて、自分の上に浮かんだ人恋しげな表情を読みとられた────そう感じた瞬間、詩草を不正に煽る、罪深い腕はほどかれ、離れていった。
「分かったよ」
 太夏志はかすかに微笑う。
「王子様のTPOに則した時に、な」
 詩草が拒んでも、太夏志はいつもこの調子で、特に気分を害する風には見えなかった。彼は常に引き際を心得た大人だった。彼の、たゆみなく熱心なアプローチがなければ、その情熱を疑うのではないかと思う。身体のコンディションや、忙しさを理由にして、太夏志の誘いを数度に一度しか我が身に引き受けられない詩草にとって、それは常につきまとうアンビバレンスだった。
 男に抱かれるということは、愛情と快楽があっても楽なことではない。そのリスクは厳然としてあったが、それでも全くなくなって欲しいとは思わない。抱かれることをつらい、と思いながら、愛情行為の一つとしてそれを必要としているということ。それが、詩草の中で完全にはバランスの取れないことなのだった。
 太夏志が、するりと洗面所から出て行く。こんな狭いスペースに男二人で閉じこもって。そう思うと少し可笑しくなった。
 ふと詩草は、太夏志との関係につきまとう、このバランス感覚の悪さについて、臨床心理士の森に話してみようか、と思った。それは瞬間的な思考だった。
 そして森の、花の香のする診察室のソファに座って、太夏志と自分の関係について話しているところを想像した。セックスのつらさと、それによってしか得られないものについて。
 それを思い浮かべた途端、詩草の顔に、自分でもそれと知れるほど、勢いよく血が昇ってきた。目の前の鏡をもう見ないようにして、詩草は、太夏志が行ったリビングとは逆方向の、自分の部屋に向かった。少し気持を落ちつけようと思ったのだ。
(絶対に無理だ────森先生に)
 あの静かな女性に、太夏志と自分のセックスについて話すことなど、出来る筈がなかった。一瞬でもそれをしてみようか、という考えが浮かんできたのが不思議だった。
 詩草は自分の頬にてのひらを押し当てて擦った。水滴を拭い去るように、熱や血色を拭い去ってしまえればいいのに。
 だが、詩草の頬に立ち上った熱気は、その後もなかなかそこを去ろうとはしなかった。


 ────ピアノ買うか。
 あかるい目をしてそう云った時の、太夏志の顔を思い出しながら、詩草は書店のドアをくぐった。太夏志はたぶん、すぐにもピアノを買う気になっているのだろう。それが幾らかでも自分のためだと思うのならそれも嬉しい。だが、太夏志は夏にピークを迎える映画の仕事で、これから数ヶ月、目の回るような思いをしなければならないのだ。七月末には、発売間もないオペレーションシステムを搭載したパーソナルコンピュータが、彼等のマンションに導入されることになっている。ワードプロセッサからデータを移行する困難を考えると気が遠くなりそうだが、太夏志の代わりに出来る作業はなるべく出来るようにと、詩草はコンピュータの講習会に通い始めている。
 正直、秋まではピアノを買って楽しんでいるゆとりはないのだ。太夏志に、秋までピアノを買うのは先延ばしにするように云わなければならない。
 だが、太夏志には黙って、(彼のピアノへの熱を上げるだけだろうから)『月光』の楽譜を買って、手元に置いてみたかった。
 詩草は立ち止まり、音楽書の棚の位置を探して、書店の中を見回した。いらっしゃいませ、と店内の数ヶ所から散発的に、のんびりとした店員の声がかけられる。
 彼に、ベートーヴェンのソナタアルバムを薦めた、木谷陽の勤める晃文堂書店だ。詩草が太夏志のマンションに越した頃には、もうこの書店は駅ビルの七階に入っていたが、元々は地元の小さな書店だったのだそうだ。近隣の駅付近に七、八店ほど晃文堂書店の系列店が入っているのを詩草は知っていた。ブックカバーの折り返しの部分にチェーン店の名が刷り込まれているからである。その社長が木谷陽の伯父なのだと云う。
 ────頭を染め直せとか、うるさく云われないから。
 ────卒業後、あの店に居着いてしまいました。
 そんなことを云っていたように思う。陽と呼んでくれ、とも云っていた。会っていきなり、ファーストネームで呼ぶように求められたのは初めてだった。彼はずっと日本で暮らしていたのだろうか? 海外生活経験者だというなら理解出来るが。
 木谷陽に会ってから数日経つが、昨日のことのように彼との会話が思い出される。白に近い銀色に染めた髪、緑色のコンタクトレンズ、そして変わった模様のプリントを施したTシャツも、陽を強烈に印象づける役割をしていた。
 陽はいるだろうか。無意識に腕時計を見る。午後二時だ。書店のシフトというものがどう組まれているのか、詩草には想像がつかない。
 彼を探そう、というほどの気持があるのかと云えば、それもまた詩草にはよく分からない。ただ、無彩色の世界に突然天然色で飛び込んできたようなインパクトを、彼が自分に与えたことは確かである。
「こんにちは」
 不意に、聞き覚えのある声に話しかけられて、詩草は振り返った。
 書店の名前が刺繍された、アイビー・グリーンのエプロンをつけて立っているのは、たった今思いだしていた木谷陽だった。陽は、自分の胸につけた社員証を、この間してみせたのと同じように指で四角く囲ってみせる。そこにははっきりと『書店員・木谷』と書き込まれていた。
「木谷さん。先日はどうも」
 そう云うと、陽は不満気な顔を見せた。
「名前で呼んで欲しいのに」
 そう云って、しかし彼はからりと仕事の表情に顔を切り替えた。ともすれば人をぎょっとさせるような華やかな色の髪はぴったりと後に撫でつけられ、若い少女がつけるような何本ものヘアピンできっちりと形のいいこめかみの横に止められていた。だが、右耳のピアスはそのままだった。実際、店員の格好などにうるさい社風ではないのだろう。今日もエプロンの下はいささか早い半袖のTシャツだが、色はこの前と違って地味なグレーだった。
「何かお探しですか?」
「ええ。この前紹介して頂いたピアノソナタのアルバムというのを」
「少々お待ち下さい」
 青年はさっと身を翻して、奥の棚に向かって行った。そちらが音楽関係の書棚なのだろう。ゆっくりと彼の後を追いかけると、木谷陽は、二冊の大判の本を持って戻ってきた。
「お探しだったのは、『月光』の楽譜でしたよね。こちらが、『月光』のベートーヴェンの自筆譜で、こちらのちょっと厚いのが、この前お話ししたソナタ・アルバムです。あの後ちょっと確かめてみたんですけど、『月光』の楽譜は第三楽章まで全部載ってますし、曲の解説も詳細で面白かったですよ」
「調べてくださったんですか?」
 詩草は思わず微笑した。青年の明け透けな好意の理由は分からなかったが、その熱心さは好ましかった。詩草は自分の仕事に打ち込むタイプの人に惹かれる。
「じゃあ、それを頂きます」
「お会計していいですか? もっと他の本も御覧になりますか?」
「幾つか欲しい本があるので」
 詩草は、携えてきたリストを見せた。
「じゃ、探して来ますよ」
 陽はリストを受け取った。
「あの────もしかして、思いだしてくれました?」
 詩草は咄嗟に反応出来ず、青年の顔を見守った。青年は妙に真剣な表情で詩草を見つめている。
「この前のことをですか?」
 こんな短期間に忘れられようもない。そう思いながら聞き返すと、青年は目を細めて笑った。
「や、何でもありません。じゃあこれ、調べて来ますね」
 いかにもフットワークが軽そうに、レジの横の厚い在庫リストをめくって、詩草の目的の本を調べ始めた。

 結局、求めていた本は二冊見つかり、後は取り寄せということになった。取り寄せの手配をし、買う本の会計をして、領収書を切るまで、青年の手際は鮮やかだった。こうしてみれば、ひと方ならず彼の世話になっていることを、今更のように思い出す。派手な外見と裏腹の、堅実な仕事ぶりに好感を抱いたこともあった筈だ。
 会計を済ませた本を持って、陽がカウンターの外に出てくる。
「そこまでして頂いて」
 もう一度礼を云いかけると、青年は詩草に本を手渡して、白い歯をちらりと見せて笑った。
「お昼、もう済まされました?」
「は?」
「俺、これから昼の休憩なんですけど、よかったら一緒に昼食どうですか?」
 他の店員が、ちらりと目を上げ、そしてまた元通りに手元に視線を落とすのを感じて、詩草は思わず狼狽えた。そういえばこの青年は前回会った時も、
 ────これ、誘いですから。
 そんなことを云っていたのだ。妙な男だ。そうは思ったが、不思議と、詩草の中に嫌悪感はなかった。それどころか、断る理由がない、と思った。彼は元々、気安く知り合ったばかりの相手と食事をしたり、飲みに出かけることはない。黒沢太夏志の生活に合わせるため、友人関係は極端にシェイプしてしまった。ましてや、「誘い」などと口に出す相手と連れだって昼食を摂るというのは余り賢いことには思えない。だが、何が起こるというのか? ここは彼等の地元の駅ビル。時間は真昼。相手はその書店の店員で、身元もはっきりしている。昼食の休憩はせいぜい一時間というところだろう。駅ビルの中のどこかの店に入って、話をして、それ以上のことが起こりようもない。自分が極端に用心深くなる要素はないのではないだろうか。
 少なくとも、そうすれば、木谷陽が自分に興味を示す理由を知ることが出来るのではないか?
 そんな気分がせめぎあった。
 太夏志は今日は朝から外出していた。映画監督の下川に、スタッフに引合わされているのだ。詩草は昨日の帰宅が遅かったので、同行しなくていい、と云われていた。
「いいですよ」
 自分があっさりとそう応えているのを、詩草は驚きと共に聞いた。
「本当に? じゃあ、ちょっと待ってて下さい。出られる用意をしてきます」
 青年は顔を輝かせて、カウンタの向こうの部屋に消えていった。
 詩草は、前回この青年と会った後も、自分が少し昂揚したことを思い出す。陽は、彼の周りには今までいないタイプだった。少なくともそう見える。興味を感じた、ということで彼の誘いを受けるには充分なのかもしれなかった。ただし、こんな風に誘われてその誘いを受けることが自分らしくないことや、黒沢太夏志のゴシップにつながることを避けなければならないということも分かっている。複雑な気分だった。
 レジの前に立っていて、他の書店員の目にさらされているのが耐えられない気がして、詩草は、書店の外に出た。ここで待っていれば目につくだろう。
 青年は数分も詩草を待たせなかった。書店の壁は硝子張りになっている。詩草が外に立っているのを見つけたのか、迷いのない歩みで外に出てくる。
「お待たせしました。付き合ってくださって有難うございます」
「いえ────こちらこそ」
 そう、曖昧に応えながら彼の姿を改めて見たとき、詩草は可笑しさをこらえきれなかった。
「何を笑ってるんですか?」
「いえ」
 詩草は、率直に云うことにした。
「今日は、前に較べて────その、何と云えばいいか……普通の色のシャツを着てらっしゃるな、とさっき思ったばかりだったので」
 そう云われて、詩草の視線につられるようにして、木谷陽は自分のグレーのTシャツの腹を眺めた。そこには、丁度エプロンの胸当てに隠れる位置に、胸から腹にかけて、毒々しい赤の蜘蛛がプリントされていた。前に見たものは、蜘蛛の巣をあしらった模様だったが、今日の蜘蛛はただそれ一匹だけで青年の腹にしがみついていて、オレンジと赤、マゼンタのグラデーションをその八本の足と胴体の中で織りなしていた。
「これ、ホシミジングモって云うんですよ」
 青年は愛しそうに、蜘蛛の胴体を指差した。
「ほら、胴体のところに星みたいな模様があるでしょ?」
「そうですね」
 云われてみれば、抽象的な造形にうねり曲がって伸びた蜘蛛の背中に、六つ、白い点が描き込まれている。
「蜘蛛、お好きなんですか?」
 そう訊ねると、青年は端然と笑って肯いた。
「昆虫や虫が苦手な中で、唯一触れる奴等なんですよ」
「毒のある蜘蛛でも?」
「毒のあるのは怖くて触れません、残念ながら。でも毒があるのも、姿は好きですね。とても綺麗だと思う」
「蜘蛛の柄の服しか着ないんですか?」
 詩草がそう云うと、青年は色の薄い目をしばたたかせて────今日は緑色のコンタクトではなかった────まさか、と云った。
「たまたまですよ。仕事中は、エプロンで隠れる位置にプリントがあるものなら可、ということになってるので、これを着てきただけで」
 彼等は、自然に駅ビルの上階へと向かった。
「何か食べたいものありますか?」
 そう訊かれて、詩草は和食で、と答えた。彼は基本的に一人の時も余り外食をしない。太夏志がいない時も、家で一人で食事をする方が落ち着くのだ。だが、そうも云えない事情で外食する時には、なるべく和食を摂るようにしていた。
「じゃあ、蕎麦でも食いましょうか」
「それでよろしければ」
 詩草の返事を聞いて、陽は目をきらめかせて彼を見上げた。彼は、エスカレーターの一段下に立っていた。陽の表情の中に昂揚した感情を認めて、詩草は不可解に思う。
「言葉が綺麗ですね、上野さん」
「えっ」
 詩草は声を上げた。
「どうして名前を……」
「知ってるのかって?」
 前回は自己紹介はしなかった。名刺も、個人的なものしかないからと云って渡さなかった。いきなり話しかけてきた木谷陽が、いかに一見陽性の人間でも、警戒しないわけにはいかなかった。陽自身、次は名前を教えて下さい、などと云って去って行ったのだ。
「実は知ってました、名前。名字だけですけど。それから、あなたの年も知ってます。あなたが通っていた小学校も」
「小学校……?」
 普通、相手の経歴を知っている、と匂わせるのであれば、最終学歴を口にするのではないだろうか。
「あなたはおれのことを覚えていなかった。それは残念だけど、仕方がないですよね。もう随分時間が経ちましたから」
 その時、詩草の脳裏に突然閃いたものがあった。目の前の、プラチナブロンドの髪や、色の薄い切れ長の目、挑発的なデザインの服で武装した華やかな男の姿が消え去り、突然、公園で青い顔をして木陰のベンチに座っていた、小さな子供の姿が目の前に浮かぶ。彼はいつも喘息用の吸入器を入れた小さな袋を首にかけ、まぶしそうに、夏の日差しの中で遊ぶ子供たちを見ていた。
「もしかして────ひなたくん? 木谷くんの親戚の?」
 茫然としてつぶやくと、陽は真剣な表情でうなずいた。
「思いだしてくれました? おれはむしろ、そっちの方が驚きですけど」
 詩草は首を振った。
「いや、僕は────フルネームの名刺まで貰っておいて、思い出せなかったなんて……申し訳ないと────」
「いいんですよ。上野さん、おれの名前がどういう字かなんて知らなかったでしょ? 思い出して貰えるとしたら、むしろ『木谷』からだろうって思ってました」
 これがまったくの嘘でない限り、目の前の青年は、詩草の幾ばくかのトラウマに関わりのある人物だということになる。
「おれは、木谷諒の従兄弟です。上野さんに会ったのは、ずいぶん前の夏に一度だけ。でも、何度か一緒に遊んで貰いましたよね」
 詩草はすうっと現実感が希薄になるような、不快な気分を覚えた。そして、その瞬間、激しい恐怖感を感じた。自分が昨年、一ヶ月もの間、十三年分の記憶を失って、退行したことについて、詩草は何通りにも説明をつけようとして来た。母にまつわる事情が原因だったのだとも、伯父の葬式に出たことで、精神的な疲れがたまっていたのだとも考えられた。しかし、原因は依然分かっていない。この先も分かることはないのだろう。レントゲンに影が映ったり、開腹して調べられるような類のことではないのだ。それだけに、何かを引き金にして、再び同じことが起こるのではないか、という危惧は、常に潜在的に詩草の心の中にあった。もしもそのおそれがなければ、カウンセリングにかかることはなかっただろう。詩草はカウンセラーと自分との意志の疎通に疑問を抱いていた。心をさらけ出すことを望んでいない、という思いから逃れられなかった。だが、十三年もの退行を起こす、という症状に見舞われた以上、自分の心をカウンセラーの手に委ねないわけにはいかなかった。そのことや諸々、この一年間の間に押し殺していた恐怖心が、木谷陽の出現によって、一挙に顕在化したように思ったのだった。
 エスカレーターが、レストラン街のある上階についた。詩草は力の抜けた足で、フロアの中に踏み込んだ。
 足をふらつかせた詩草を、かばうように陽の手が支えた。
「大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」
「大丈夫」
 自分の喉から、思わぬ鋭い声が漏れた。詩草の肩に手を添えていた陽の手が、びくりと引っ込められた。
 心の中で数を数える。一、二、三……。大丈夫だ。もう、あんなことは起きない。
 自分は記憶を失ったりしない。
 太夏志にあんな負担をかけるようなことは二度としない。
 呪文を唱えるように胸の中で自分に云い聞かせた。
「大丈夫ですから────」
 今度は普通の声が出た。詩草は、子供の頃の面影をまったくとどめていない、青年の整った顔を見つめた。もう、身体の芯ががくがくと震え出すような、不快な感覚は沸き起こって来なかった。自分の精神状態が平静に近づいてゆくのを、数を数えながらゆっくりと確かめる。十七、十八、十九、二十……。
「大丈夫」
 つぶやくように繰り返した。
 詩草が自分で、落ち着いた、と感じられるまで、約二十五秒かかった。

 木谷諒は、詩草が、母と小学生時代に住んでいた世田谷のアパートの、近くの家の息子だった。その近所でも、目立って大きな家だったことを覚えている。サザンカとサツキを二段に刈り込んで作った生け垣をめぐらせて、庭を主庭と前庭に区切っているような、ゆとりのある家の構えだった。今から思えば、世田谷にそれだけの地所を持っていたということは、相当に裕福な家だったに違いない。
 そのアパートに入居したのは、詩草が小学校二年の時のことで、小学校五年の初夏までの数年間をそこで過ごした。当時の詩草は、やや神経質ではあったが、どこといって特に変わったところのない子供で、近所の小中学生達と遊んだ記憶がある。母が近所づきあいというものにまったく関わらなかったにも拘らず、それでも友達は出来た。
 その友達の中でも、木谷諒は一種特別な存在だった。詩草が引っ越した当時は小学校六年で、その後私立を受験して、中学生になった。
 遊びを考え出すのも、宿題を終らせるのも、テストの成績も、諒は必ず一番だった。その辺の子供たちは全て諒の支配下にあったし、背の高い、大人っぽい諒に心酔していた。
 父がいなく、一風変わった母と二人暮らしだった詩草が、そのことで近所の子供たちからいじめられたような記憶がなかったのも、周囲にとけこむのが早かったのも、詩草が諒の気に入りだったせいではないかと思う。諒は詩草を可愛がった。時には荒っぽく手が出るようなこともあったが、怪我をさせられるようなことはなかったし、気が向けば、勉強を教えてくれることもあった。
 諒は詩草を名で呼ぼうとはせず、上野、と呼んだ。詩草の名前が女の子の名前のようで、照れ臭かったのかもしれない。それを真似して、詩草も彼を名前でなく木谷くん、と姓で呼んだ。
 ────上野、アイス二つ買って来いよ。速攻。
 そんな風に威張ったことを云うこともあった。詩草は、諒が金を自分に払わせることはないと知っているので、黙って買いに行った。諒は一つにだけは注文をつける。白いかき氷を買って来い、とか、雪見大福を買って来い、とか。もう一つについては何も云わない。それは暗に、詩草の好きなものを買って来るように、ということだった。アイスクリームを二つ買ってきた詩草に、諒は勿体ぶって二つ分の金を払って、自分の食べたい方を取り、残った一つを詩草にくれるのだった。
 諒の家で周囲よりいち早くCDプレイヤーを買った時は、詩草を家に招いてくれた。何人かの少年達は真新しい機械の前で息をつめるようにして、ノイズの入らない、薬師丸ひろ子の「セーラー服と機関銃」を聴いた。どの家にもレコードプレイヤーしかなかった時代だった。CDのディスクの裏の虹色の記録面は、歪んだ黒いレコードと較べて、ひどく目新しい、高度な技術に見えた。
 詩草に、横溝文学の面白さを教えたのも諒だった。小学校低学年の詩草が、並以上に本を読み、小中学生に人気のあった赤川次郎や眉村卓のジュブナイルではもの足りない風にしているのを見た諒は、父の本棚から横溝正史の金田一耕助シリーズを抜き出して貸してくれた。詩草は、今まで知らなかった絢爛豪華で緻密な闇の世界に夢中になり、後は諒に借りるまでもなく、図書館に通い詰めて全集を借り出した。
 小学校四年の夏の出来事がなければ、詩草にとって木谷諒は、何でも教えてくれる万能の、年上の友達、という位置を閉め、火事で引っ越した後にも、いい思い出だけを残した筈だった。

 詩草は、自分が諒の従兄弟の「ひなたくん」をよく覚えていないのが何故なのか、はっきり分かっていた。陽が諒の家に預けられた夏、詩草は小学校四年だった。陽は確か、詩草より少し年下だったように思う。身体が弱く、両親の海外旅行についてゆけずに、諒の家に預けられたのだ。陽はかぼそく、小さい子供で、余り外にも出てこなかった。友達がいないせいもあっただろう。諒と詩草がぎくしゃくしているのでなければ、詩草はきっと、もっと陽を誘い出して一緒に遊んだり、図書館に連れて行ったりしたことだろう。一人っ子だった詩草が、弟を持ったような感覚を楽しんだはずだった。
 諒はその頃、中学二年生だった。元々背の高い少年だったのが、大人のように背が伸び始めた時期だった。家に帰った後、私服で会っているとそれほどでもないが、赤いタイを締めて、すらっとしたチャコールグレイのズボンの制服を着ている諒は、近寄り難く思える程だった。だから、その夏も、諒が塾の夏期講習から帰ってきて、Tシャツとジーンズに服装を改めて、夕方の道に出てくると、詩草はほっとしたものだ。
 詩草が制服の諒に距離を感じたように、その夏、諒も不意に詩草にわだかまりを見せるようになった。話していて不意に黙りこんだり、身体が触れるのを嫌がったりした。
 その度に、今までにはなかった突き放すような事を云うようになった。四歳年上の諒は詩草より確実にボキャブラリーも多く、彼の拒否の言葉は詩草の柔らかかった心に突き刺さった。
 詩草は困惑した。諒はいつも年上の少年達に囲まれている。詩草とだけ特別に親しいわけではなかった。だが、二人の間には確実に心を通じ合った者同士の「何か」があったのだ。それが何故、急に諒が冷たくなったのか分からなかった。
 その時期、詩草の母の具合は相当に悪く、彼女は詩草と殆ど口をきこうとしなくなっていた。親しい友達も少なく、近隣に親戚もない詩草は淋しかった。諒はそうでなくとも、家に預かった親戚の少年の面倒を見なければならず、塾も、夏休みの部活もあって、忙しかったようだ。
 道で詩草を見かけると庭先に招き寄せ、アイス買って来いよ、と命令する諒の横柄な口調が懐かしかった。
 詩草と諒の関係が終りになった八月のその日。諒が何故一人で公園にいたのか、一番子供たちで賑わっている筈の夕刻の公園に、何故他の者の姿が全くなかったのか、詩草には分からない。
 詩草は、貧しい財布の中から夕飯の買い物に行こうとして、家を出た。母はその前の日から帰っていなかった。詩草の手元には余り現金が残っておらず、彼は母の帰りを不安な気分で待っていた。
 諒は塾の帰りのようで、制服だった。諒の塾は夏期休暇中も学校の制服で通うことになっているのだ。
 諒は、公園のベンチに、だるそうな姿勢でもたれていた。片足を曲げてベンチの座部にかけ、もう片方の長い脚を投げ出している。そこに詩草が通りかかった。詩草は妙にはにかんだ気分になって、離れたところで立ち止まった。諒が声をかけなければ、通り過ぎるつもりだった。
 ────上野。
 諒が物憂げに彼を呼んだ。
 ────来いよ。子供のくせに、こんな時間にどこ行くんだよ。
 詩草が、近くのスーパーの名を云うと、諒は、同情したような、軽蔑したような微妙な表情を浮べて唇を歪めた。
 ────急がなくてもいいだろ。座れよ。
 詩草はそろそろと近寄って行った。手招いたにも拘らず、諒の機嫌がさほどよくないのを感じ取っていた。だが、前にも述べたように詩草は淋しかった。夕暮れの迫る道でヒグラシが鳴く声を聞くと、目の奥につんと染みる痛みのような孤独を感じた。誰かと話していたかった。何の話をするのでもよかった。もう時間は遅く、輝かしい夏の光は薄れ始めていた。彼はうっすらとけだるい茜色をおびた、たそがれの公園のベンチに、諒に隣合わせて座った。
 何の話をしたのか。よくは覚えていない。八月末には、陽も連れて、家中で北海道博覧会へ行くのだ、というようなことを、諒がぽつぽつと喋っていた。詩草はさして話すことはなかった。この夏の彼の時間は殆ど図書館通いで費やされていた。図書館は涼しく、無料で夕方まで過ごさせてくれたからだ。だが、諒が詩草の読んでいる本の話に興味を示してくれるような気がしなかった。
 その内、詩草は不意に、自分の膝に諒の膝がぴったり触れていることに気づいた。ただ座っていても汗ばむような暑い日だった。
 そろそろと身体を離そうとすると、諒が突然、怒ったように詩草の手首を掴んだ。
 今まで、そんな力で手を握られたことはなかった。嫌だ、とか、何故、と思う前にただ驚いて、汗でぴったりと吸い付くように握られた自分の手首と、諒の手を見つめた。手首では血が堰き止められて、二人の皮膚が接触した部分に、大きな鼓動の塊がどくどくと散っていた。
 その内、諒はじりじりとその手首を引き寄せ始めた。そうやって手首を引かれると、隣り合わせて座っていた諒の身体に向かい合うような、不安定な姿勢になる。
 ────木谷くん、痛いよ。
 そう訴えても、諒の手の力は止まらなかった。
 ────血が止まってるよ。
 そう云うと、諒は初めて気づいたように自分の右手を見つめた。その力は殆ど緩まないまま、諒のもう片方の手が動き始めた。その手がじりじりと詩草の背中を撫でる。汗ばんで冷えた詩草の痩せた背中の上に、諒の体温が熱く染み通った。
 まるで機械に変ってしまったように身体を頑なにした諒に、すっぽりと抱きしめられていることに気づいた時も、詩草は身動きしなかった。諒が今にも笑い出して、冗談だよ、と云い出すのを待っていた。何が起こっているのかまるで分からなかった。十歳の詩草には、自分と諒の間にどんな緊張感が生まれているのかを読みとることは出来なかった。
 詩草は背の高い子供だった。クラスの中でも身長は一番高かったのだと思う。当時の身長が何センチだったのか、正確な数字は詩草の記憶にはないが、諒の胸に詩草の身体がおさまったところは、丁度小柄な女が諒の胸におさまったようなバランスだった。
 頬に、つるりとした感触のものが触れて、詩草は諒の頬が自分の頬に触れたことに気づいた。息苦しさと居心地の悪さに、彼はようやく逃れようとした。握られた手首がじんじんと痛みを持っていた。
 ────木谷くん。
 その時、唇を、塩辛い、なめらかなものがぴったりと覆った。唇をふさがれたせいで息が止まって、頭がくらくらした。詩草がもがき、諒が渾身の力を込めて締めつける。もがいた拍子に歯があたり、詩草の唇の中に生臭い血の匂いがあふれた。詩草の唇に重なっていた、汗に濡れた諒の唇が切れたのだった。
 ────嫌だよ、木谷くん……!
 詩草は必死に身を捩り、諒の腕から逃れた。ベンチの背もたれに貝殻骨が激しい勢いであたり、薄いTシャツ越しに息の止まるような痛みを運んで来た。
 ────お前が悪いんだろ……!
 諒が、切れた唇を拭い、吐き出すように叫んだ。
 ────いつも変な目で見やがって、気持ち悪いんだよ……! お前になんか、触りたくねえよ……!
 彼等の座っていたベンチのすぐ後ろに、背の高い桐の樹が植わっており、その樹の上で実をついばんでいた大きなカラスが、陰鬱な声でギャアと啼いた。
 その後のことは、詩草は殆ど覚えていない。ただ、諒の身体を突き放して、ただただ必死に家に帰った。夕食を食べようなどという平和な気持は消え失せていた。貧相なシャワー室に潜りこんで、身体中を必死に洗った。身体に諒の汗の匂いが染みこんだような気がした。胴体全体が心臓で埋まってしまったように、激しく脈を打ち、いきなり平手打ちのように訪れた、冷たい屈辱の痛みを全身に循環させていた。
 母はその日も帰ってこなかった。母が帰ってこないのは有難かった。母の顔を見られない気がした。詩草はテレビをつけっぱなしにして、窓の傍にうずくまって眠った。ひどく浅い眠りだったのを不思議なほどよく覚えている。
 その日は、詩草が諒と口をきいた最後の日になった。幸い諒はどんどん忙しくなり、休日の公園やたまり場の路地を避ければ、諒に出会うことはなかった。詩草の中で、諒の言葉はだんだん重くなり、胸を突き刺して切っ先が身体の外にまで出てしまいそうだった。
 翌年の夏、アパートが火事で焼けて、詩草は群馬の伯父の家に引き取られた。数年間住んでいた世田谷を離れる寂しさはなかった。既に下馬には、嫌な思い出しか残っていなかった。母の死と、一緒に暮らしていながら孤独だった期間、そして木谷諒との別離に象徴される、友達との冷ややかな関係が詩草の痩せた身体を打ちのめしていた。母のこと、友達のこと、辛かったアパートの部屋のことを思い出すより、義理の伯母の包み込むような優しさに身を預けている方が、はるかに楽だったのだ。
 その時期から、彼にとって、思い出すということには幾らか禁忌の要素を帯びていったように思う。過去について考えるということについて、詩草は次第に肯定的でなくなっていった。考えず、思い出さなければ許していられる。自分を含めた全てのものを。そして、平坦な気持で過ごし、毎日を生きて、呼吸して、やり過ごしてゆける。そんな感じ方をするようになって行ったのだ。

「大丈夫────」
 そう云った自分の声が、それでいて強張っているのが分かった。
 詩草は、背中を真っ直ぐに起こして、ようやく木谷陽の顔を正面から見た。従兄弟同士が必ずしも似ているとは限らないが、陽は木谷諒と似ている気がする。ただし、その印象は白金色の髪や、緑色の石を提げたピアスで大分派手な装飾を施されており、中学生だった諒の面影をはっきり見いだせる訳ではなかった。
 木谷陽をよく思い出せなかったのも無理はない。彼はこの十数年でほぼ跡形もなく変っているし、それに、あの夏は詩草にとって余りにも短く、衝撃的だった。木谷諒のことで、心臓が破られそうだった。大人しい、病気がちの彼の従兄弟について記憶に刻み込むゆとりはなかったのだ。
「また、嫌な思いをさせちゃいました?」
 人通りの多いエスカレーター前を避けて、彼等はエレベーターホール前の、明るい硝子張りの壁の前に立ち止まった。
「諒に、嫌な思いをさせられたでしょう。上野さん」
 陽は、はっきりとした口調で云った。その明らかさは、不思議なことに無神経ではなかった。
「御世話にこそなりましたが、嫌な思いをさせられたことはありませんでしたよ」
 心の動きを殺して、おだやかに反論しようとすると、陽が首を振った。
「そうですか? あんなことをされても?」
 その場を逃れたい思いで、どこか別の場所へ流れて行こうとしていた詩草は今度ははっきりと足を止めた。陽と向かい合わなければならないのだろうか。ここで踏みとどまり、思考停止することを避けて、自分をかつてあれほど動揺させた痛みの塊の形を思い出すべきなのだろうか。
 しかし、詩草がどう思っているのであれ、木谷陽がそれをするつもりなのははっきりしていた。
「あんなこと」
 詩草が機械的にリピートすると、陽は首を傾げた。ビルの中には、澄み切った五月の日差しがいっぱいに入り、彼の髪とピアスを輝かせた。それはあかるく、まばゆく、陽がそれを計算しているのではないかと思うほどだった。
「あなたが小学校四年の時、諒から性的な虐待を受けたということです」
 詩草は、もう一度自分が足許をよろめかせたのではないかと思った。しかし、意に反して、彼の足はしっかりとそこに立っていた。自分と身長のさほど変らない青年の顔を、目を逸らしもせずに見つめ返すことが出来た。昼食時を少し過ぎたエレベーター前には誰もいなかった。陽の言葉はくっきりとしていたが、ビルの中にいる他の人間の注意を引くような声ではなかった。
「あれは、そんなものじゃなかった」
 詩草の、平静に見せかけた声がそれに反論している。
「そう思ってたんですか?」
 陽は、そう返した後、自分の声に耳を澄ませるように、視線を横に動かした。そして云い直した。
「そう思ってるんですか?」
 詩草は、ゆっくりと息をした。今度は数を数えずに済んだ。木谷陽が、諒の従兄弟だと知った時よりも、今の方が動揺していないということに気づいて、その理由が分からなかった。だが、目の前で賢しげな目をして立った青年が、自分を傷つけようとしてそれを云い出したのではないことは、何故かは分からないが理解出来た。陽の目は、まっすぐで真摯な光にあふれ、他人の弱味を握って何かを得ようとしているそれではなかった。
「諒は、いわば一族の誉れともいうべき存在でね」
 陽は、両手の親指を、履いていたジーンズのポケットに軽くひっかけるようにしてようやく俯いた。彼の目に射抜かれそうになっていた詩草はほっとした。
「一流校の附属中学を受験、そのままエスカレーターで受験校に進学。その後は、東大にストレートで合格、外資系の一流商社に入社。今は上司の一人娘と婚約中です。親戚中、諒の話になると興奮して、皆が皆、誉めあげるのに忙しい」
 そうか。詩草は黙ったまま話を聞きながら思った。それでは、自分は諒の人生に何ら影を落としたわけではなかったのだ。そう思うと、それだけでも清々した気分になった。自分が関わって、他人の人生に染みを付けるというのは嫌な気分だった。決して聖人的な気分からそれを思うのではなく、そのことによって、人に過剰に思い入れられるのが嫌だからだ。
「でも、諒はいつもおれにとっては反面教師でした」
 不意に、陽が冷たい口調でそう云い出した。詩草は黙って彼を見る。木谷諒の人生に自分が染みをつけなかった。それは結構なことだ。しかし木谷陽にとってはどうなのだろう?
「あの公園に俺もいました。たぶんあなたは気づいてなかったでしょう? 上野さん」
 詩草は肯いた。もう何を聞かされても驚かなかった。
 木谷諒が、自分のしたことを家族や従兄弟に話して聞かせる筈はない。だとすれば、近くに陽がいて、一部始終を見ていたということに他ならない。
「正直、その時のおれには、あの場面の意味ははっきり分からなかった。ただ、自分がとても重大なことを見聞きしたことだけ。ひどいことを云われてあなたが走って帰った時、とても傷ついた顔をしていたことや、諒がその日平気な顔をして家で夕飯を食べていたことだとか。おれは黙ってたけど、忘れませんでした。意味が分かるまで何年かかかった。だんだん意味が分かるようになるにつれて、親戚中の自慢の諒は、おれにとっては反面教師になりました。昔も今も、それは変わりません」
 陽は、激する訳でもなく、淡々と静かにそう云った。その静かな口調が、むしろ彼の中の「染み」を意識させた。
「おれ、諒に似てるってよく云われましたよ。諒みたいになれとも云われました。似てますか? 諒に」
 詩草は首を振った。さっき思ったことを見抜かれたようでドキリとした。
 おそらく、自分は力を込めて否定するべきなのだと思った。
「────まったく、似ては見えません」
 飛沫だ。自分と木谷諒の短い夏の一幕は、拭い去り難い汚水の飛沫を、子供だった陽の心の壁に上げたのだ。それは容易に乾こうとせず、久しく陽の心の中にあって、恨みや自傷を招く温床になったのだろう。むろん、人目を引く髪の色も、同性愛の嗜好を暗示する右耳のピアスも、自傷行為というよりも、現代においては一風変った自己表現の域にとどまるものなのかもしれなかった。だが、エリートコースを進む木谷諒を、反面教師にしたという陽の上にそれがあるというのは、或る痛ましい傾向を示しているのではないか? こんなに光り輝くように、明朗に見える彼が。
 詩草の答に安堵したのか、不意に陽はにっこりした。
「何だか、蕎麦って気分じゃなくなっちゃいましたね」
「ええ、そうですね」
 詩草は彼に気づかれないよう、ひそかに息を吐いた。この僅かな時間で、カウンセラーの森と一時間話したほども疲れていた。
「屋上に出て、座りませんか?」
 こめかみに、僅かな痛みの信号。しめつけられるような圧迫感があった。しかし、それは微弱なものだった。またも、詩草は断る理由がない、と思った。屋上には小さなコーヒースタンドと、自由に席を選んで座れるテーブルと椅子が何脚か用意されている。公園のように配置された植栽の合間に用意された椅子は、腰掛けて人に聞かれたくない話をするのにはいい場所だった。
「行こうか」
 詩草は、そう云いながら、知らず知らずの内に襟元を正していた。
 陽の話は終っていない。
 そして、彼は自分があきらかに陽に好意を寄せていることに気づいた。成り行きからして、自然なことだとは思わなかったが、すでに彼を嫌いではないと思えた。そしてふと、木谷陽が、詩草にとって無二の存在と云っていい相手に、かすかに雰囲気が似通っていることに思い至った。
 初対面から彼を惹きつけ、無遠慮に手を伸ばし、彼の心身と共に握り取って離そうとしなかった男の、出会ったばかりの頃の雰囲気に、陽はほんの少し似ているのだ。
 もしそれが、詩草の思い違いでないとすれば、黒沢太夏志に似ている男に、彼が好意を抱かずにいるのは難しいことだった。

 スタンドに向かおうとした陽を押しとどめ、詩草は自分で二人分のコーヒーを買った。彼の話を多少なりとも能動的に聞こうとしていることの証明のつもりだった。
 彼等は、プラスティックで出来た白い椅子に腰掛けた。駅付近のビルではここが最も高く、計画植樹されて整然とした並木道や、大小のビルの屋根、そしてリボンのように市街地を通り抜けてゆくバス通りを見晴らすことが出来る。いい風が吹いていた。話すことで何の解決になるのか分からない話を聞こうとしているのに、自分が、その風を快く全身で受け止めているのが不思議だった。
 ほんの少しの間、二人は黙ってコーヒーを啜る。
 同じ動作を共有することで、少しは気が楽になるというように。
 やがて、陽は口を開いた。
「何を云い出すのかと思ってませんか?」
「君は────」
 今度は自然に、君、という呼び方になった。陽が年下だということが分かったからかもしれないし、子供の頃に遊んだ記憶がかすかによみがえってきたせいかもしれない。
「君は、この前向こうの書店で声をかけて来て以来、僕を驚かせっぱなしだから。次に何を云われるのか、全く予想がつかない」
 そう答えると、詩草の言葉遣いが少し変ったのに敏感に気づいたのか、陽はかすかに嬉しそうな表情になった。
「これ以上、驚かせるつもりなんてないんです。今日だって、いきなりあんなことを云おうとは思ってなかった」
「そう?」
 陽は、詩草がもう一口コーヒーを啜るまで次の言葉を続けるのを待った。
「そうやって、砕けて喋って下さい。そうして貰えると、諒の従兄弟って立場から、少しは抜け出せそうな気がします」
 詩草は、肯定も否定もしなかった。
「君は、いつから僕のことに気づいてた?」
「春に、ここの店に移って来てすぐに」
 陽の答は明快だった。
「黒沢太夏志さんが、この近くに住んでることは、うちの店では話題になってて、おれも興味がありました。誰が接客をして、領収書を切るのか競争になったりして」
 陽はくすりと笑う。
「その内、黒沢先生が、若い男性のスタッフを雇っているらしい、って話を聞きました。住み込みで秘書の仕事をしているらしくて、その人は黒沢先生とはかなり親密だとか。黒沢先生は凄く目立つ方でしょ。それが、地元で必ず一人の人と一緒にいるって聞けば、何となく噂にはなりますよ」
「そういうものかな」
 もう、太夏志の家族にまで紹介された詩草には、それが世間に知れることを、昔ほど恐れてはいない。写真週刊誌に書かれるようなことはまずないだろう、と太夏志は云いきっていた。この類の話は半ば禁忌なのだという。刃傷沙汰になったとか、金のことで揉めた、ということでもなければ、ゴシップ誌は飛びついてこないと云うのだ。
 だが、それでもこうしてひそかに噂になっている現実を目の当たりにすると、やはり気分のいいものではなかった。
「その人の顔を一目拝見、っていう野次馬的な気分でいたことは認めます。でも、その黒沢先生と一緒にいる上野さんの顔を見た時の気分って云ったら」
 陽は、テーブルの上を、かすかに指で叩いた。落ち着かぬげな所作に見える。終始、小憎らしいほど落ち着き払った彼の見せた、珍しい動揺だとも云えた。
「黒沢さんが名前を呼ばないか、近くで耳をそばだてたりしてね。結局おれの聞こえる範囲では、まだ一度も黒沢さんは上野さんの名前を呼んでないですけど。でも、おれはずっと上野さんを見てました」
 詩草は黙って肯いた。太夏志は、知り合って早々に、詩草をファーストネームで呼ぶようになった。だが、同時に、外でファーストネームを呼ばれるのを好まない詩草の気持も汲んでいる。公的な場ではともかく、余り外では彼の名前を呼ぼうとしないのだ。
「レジ裏はこんな怠け者のおれでも、結構修羅場ですから、上野さんが来店しても、何か話しかける隙なんてない。今日は休憩に入ろうとしてたところだったんで、特別です。それに、おれの意地みたいなものもあって、出来れば最初は、職場以外のところで声をかけたかったんです。結局やっと声をかけられたのはあの書店になっちゃいましたから、同じようなものに思えるかもしれませんけど、これはこれで大違いなんです」
「それは分かるよ」
 詩草は静かに肯定した。
「なるべく公私混同したくない?」
「ええ。そうなんです」
 陽は、中身の半分ほど減った、コーヒーの紙コップを、ぐるりとゆするように回した。
「そう云いながら、結局は職場で上野さんを掴まえて、こんなところで、こんな話をしてる」
 詩草は、黙ってスーツの内ポケットを探った。
 何故そうしようと思ったのか、自分でも説明がつかない。本当は、そうする必要はないのだと思った。個人の名刺をしまってある革のカードケースを取り出す。
「この前は、渡せないと云ったけど────僕個人の名刺です」
 静かに差し出すと、陽は胸がいっぱいになったような目で、詩草を見た。その目を光が射し通し、詩草は、今日も彼が色のついたコンタクトレンズをつけているのに気づいた。この前つけていたような緑色ではないが、虹彩を本来のものよりも薄い色にしてあるのだろう。普通なら表情を読みにくい筈の人工的な色の瞳が、もの云いたげに、もの恋しげに詩草を見つめた。
「頂いていいんですか」
「どうぞ」
 詩草は、彼の手に名刺が渡ったのを見た瞬間、陽がこの前の別れ際に云った言葉を思いだした。
 ────これ、誘いですから。
「ああ────ええと……陽君」
「はい?」
「この前云われたことだけど。最後に……誘いだとか」
「ええ」
 陽は確信犯的な表情に変った。
「それは、額面通りに受け取っていいのかな」
「その言葉通りに受け取って下さい」
「君は、男に誘いをかけるような嗜好を持っている?」
 青年はゆっくりと肯いた。
「ずっと見てたって、云いましたよね?」
 詩草は短くため息をついた。これは特に押し殺す必要のないため息だと思った。
「それじゃ、その名刺を渡すにあたって、僕が君の誘いに応えられないことを前置きしないと。僕には、決まった人がいるんだ。その人以外と恋愛する予定は、今はない」
「それは、黒沢先生ですか?」
 彼は首を振った。
「君に、そこまでは話せない」
 そして、やや声のトーンを落として付け加えた。
「でも、普通の話なら。幾らかは昔話や────今の話も、君となら出来ると思う」
 今度は、色の薄い瞳に、失望の色が、或いは他の感情が浮かんだのかどうか読みとれなかった。目の表情が動く前に口元がゆるくほころぶ。そして、切れの長い目を伏せて、陽は手にした名刺を眺めた。
「上野、詩草さん」
 味わうように読んだ。
「いい名前ですね」
 そして、静かな声でつけ加えた。
「優しい、名前ですね」
 その言葉が、陽の何らかの答になっているように、詩草には思えた。
 その名にはいささか複雑な想いがある。義理の伯母が、母に代わってつけた名前だった。母のつけた名だと思っていた詩草には、それは多少不快な衝撃だった。自分の名がやや華美な女名前であることも、今まではどちらかと云えば苦労の種だった。
 ────優しい子に育って欲しかったの。
 だが、去年伯父の葬儀で里帰りした時、伯母はそう云って涙をこぼした。
 そうしてつけられた名前に、わざわざ欠点を上げてそしるようなことをする必要はないと思った。それで詩草は、陽のつぶやきに曖昧に肯き、残りの感情は、最後のコーヒーと共に喉の奥に飲み下した。

「お帰り」
 無人だと思っていた部屋に、鍵を開けて入ると、リビングから太夏志の声がかかった。
「帰ってたんですか。もっと遅くなるかと思ってました」
「その予定だったんだけどな。補佐の脚本家が来られなくなって、結局下川監督と昼飯を食って帰って来たんだ」
「分かってたら、鍵を開けて貰えばよかったですね」
 エントランスホールで詩草に一声かけさせて鍵を開ける、小さな二人きりのゲームを好む彼にかけてそう云うと、太夏志はおだやかに笑った。
「次の機会があるさ」
 優しい人だ。詩草は思う。優しいという言葉は彼にこそふさわしい。傲岸不遜で自信家の顔の向こうから、繊細で柔らかな感性が顔を覗かせていることに、最近は事ある毎に気づかされる。
「詩草」
 リビングに入ると、立ち上がった太夏志から柔らかく引き寄せられた。軽くキスされる。
「コーヒー飲んできたか?」
「ええ、駅前で」
「珍しいな」
 太夏志は何か引っかかっているような口調だった。
 木谷陽のことを太夏志に打ち明けるべきか、と思う。だが、彼のことを何と云って説明すれば良いのか分からなかった。今日、彼と交わした会話を、そしてそれにまつわる詩草の感情を全て説明するには、事は絡み合った茨のように入り組んでいて、整理のつかないものだった。
 結局は肯定するにとどめた詩草の、今日の行動について、太夏志はそれ以上干渉することはなかった。
 考えてみると、太夏志に尋ねられたことについては、なるべく答えようとしてきたものの、自分から進んで話をしようとしたことは、殆どなかったのではないかと思う。彼と知り合った頃の、大学生の詩草は、太夏志にとっては御しやすい、ほんの子供のようなものだったのかもしれないが、それでも得体の知れない相手のように感じることはなかっただろうか。
「詩草」
 ふと気づくと、てのひら一つ高い位置から、太夏志の黒い瞳が覗き込んでくる。
「疲れた顔してるな」
「そうですか?」
 彼は一歩退いた。太夏志の洞察力には時々ぎくりとさせられることがある。
「顔を洗ってきます」
 席を外して、洗面所に向かう。鏡に映っているのは、いつも通りの自分の顔に見えた。余り血色のいいとは云えない、日焼けしにくい顔だ。自分では、唇が薄いせいで少し冷たい印象になっているように思える。
 彼は、冷水で顔を洗った。この家にいて、太夏志の存在を間近に感じて、いつも通りに過ごしていると、木谷陽と話した興奮が薄れて行くのを感じる。自分が新しい人間関係に刺激を感じる一方で、変化しない今の毎日をどれだけ尊んでいるのか、てのひらにあふれる水を顔にかけながら、噛みしめる思いだった。
 濡れた前髪の湿気を拭き取ろうとしている時、洗面所のドアが開いた。
「どうしたんですか?」
 笑い混じりに問いかける。つい数日前にも、自分が洗面台の周りを拭き浄めている時、太夏志が後に忍び寄ってきたのを思いだしたのだ。
 今は、太夏志は特に気配を忍ばせてもいなかったし、入ってくる彼の姿が、鏡に映ってはっきりと見えた。
 太夏志は、洗面所の入り口に寄り掛かって、詩草が身仕舞いをしているところを眺めている。
「今日、帰りにピアノを見てきたんだ」
 詩草が髪を整えてしまうと、太夏志は云い出した。
「デザインも音も色々だから、お前も一緒に見に行かないか? どうせ買うなら、お前の好みのを買った方がいいだろう」
「その話なんですけど」
 何かに乗り気になっている太夏志に水を差すのは残念だった。
「ピアノを買うのは、秋に延ばした方がいいんじゃないでしょうか? 今月から太夏志さんの、映画の仕事がずっと続くでしょう。書き下ろしの量も、普段の何倍にもなります。来月にはコンピュータが来て、データの移転作業でかなりかかるはずですし。だから、色々なことが片づいてから、ゆっくり聴かせて貰った方が、僕も落ち着いて鑑賞できますよ」
「そう」
 太夏志はとらえどころのない表情で詩草の言葉を聞いていたが、短いいらえを返すと、不意に詩草の身体を抱き寄せた。
 遊びのような言葉のやり取りが幾つかあって、決まったステップを踏むようにして触れてくる太夏志に慣れていた詩草は少し戸惑った。まだ、陽と飲んだコーヒーの香を残す唇を貪られて、彼は太夏志の肩を掴んだ。太夏志の唇には煙草の香がする。その苦さにも、詩草はすっかり馴染んでいた。舌のざらつきが深く差し入れられて、詩草の舌に馴染んで行く。深く噛み合わさった唇の奥で、上顎をそっとなぞられる。そこは、静かに触れられるほど、深く身体の奥に官能を引き起こす場所だった。
 詩草は思わず声のまじった息を漏らし、太夏志のうなじを抱きしめた。洗ったばかりで冷たい頬や顎が、太夏志の熱い皮膚に触れる。
「どうして、急に……」
 暫くゆっくりと唾液を絡ませ合った後、ようやく離れた唇越しにそう問いかけると、太夏志は眉をひそめた。
「理由が必要?」
「そんなことはないですけど」
 太夏志はキスを解いても、身体を離そうとしなかった。
 顔を近づけられて、もう一度口づけられるのか、と思った瞬間に、額と額が触れた。二人の体温には元々差がある。詩草の方が大分体温が低い。顔を洗った水の冷たさはキスを交換する内に薄れてしまったが、それでも、詩草の額の方が冷たかった。
「ピアノ、聴きたくないのか?」
 額を押しつけたままで、太夏志がささやく。その声にまじった調子に、詩草はまさか、と思いながら、うなじを反らそうとした。すると、首筋にてのひらを絡めて、離れられないように固定されてしまう。
 だが、間違いはなかった。触れた額がひそかに熱を増す。
 太夏志は、詩草がピアノを買うことを後回しにしよう、と云い出したことで拗ねているのだ。
(この人が拗ねてる顔なんて、今まで見たことあったか?)
 胸の中に、ふわっと熱いものが沸き上がってくる。たまらない愛しさだった。彼が拗ねている顔など自分に見せたことがないように、詩草は今までこの年上の男を、可愛い、とは思ったことはなかった。どんな時でも余裕たっぷりの彼を、かすかな畏怖心をもって眺めていたのだ。
「聴きたいんですよ。でも、楽しみが長く伸びるのも僕は好きです」
 詩草は触れ合った額をそっと外して、太夏志の耳元にささやいた。
「急がなくても、時間があるでしょう? 僕たちには」
 太夏志の頬がかすかに赤くなっているのを見つけて、詩草は微笑ましく思うのと同時に、彼のプライドのために、笑みをかみ殺した。
「それも、そうか」
 ため息と一緒に太夏志は詩草に降参した。強引なようでも、こうして諄々と話せば彼は必ず分かってくれる。
 何もこんな狭い場所で好きこのんで。
 少し前に、ここで抱きすくめられた時に思ったことと、同じことを思いながら、詩草は太夏志のうなじをもう一度やんわりと引き寄せた。わざわざ場所を変えることなく、今すぐに抱きしめ合いたい、と思う瞬間があることを、彼は改めて自分の胸に確かめる。
 こうして太夏志の熱い身体を抱きしめると、自分の身体の芯に、木谷陽と出会ったことでよみがえってきた、過去の苦い断片が小さく刺さっているのを感じる。そして、それが太夏志と触れ合うことによって溶け出してゆくのが分かった。天に向かって突き立った梢で啼いたカラスの叫び、青く苦い汗の匂い、痛みを伴う夏の夕暮れの残した棘、猫のような緑の瞳で目の前に現われた幼友達。その身体にしがみついたホシミジングモの、ゆがんだ、胡乱なシルエットまでが、太夏志の体温で優しく流れ去って行く。
 目の前の、逞しく熱い首筋にキスを落とすと、それが、詩草が彼以外には決してかけることのない誘いだということが、太夏志にも伝わったようだった。
「ここじゃ嫌だろう?」
 かすかな笑いを含んだ声が、詩草の耳元を擽った。
「落ちつけませんね」
 ファミリー向けのこのマンションの洗面所は、広く作られている方だが、それでも彼等のような丈の高い男二人の身体を横たえるスペーシングはなかった。
 詩草も、そうすると笑うより他はない。
 今、細い流れを作って、自分から抜けていった毒がどんなものなのか太夏志に話したい。そして同時に、知られたくないという思いもあった。
 太夏志が彼の手を握った。かつて、詩草の手首を硬く握ったたどたどしい手とは、較べるべくもない、あたたかな、ソフトな動きだった。
 そのてのひらは、二人の夜を何度も共有してきた寝室に、彼をおだやかに誘い込んだ。

 詩草は激しく息を乱して、シーツに腕をついた。
 たった今まで、男を受け入れていた部分が、熱く濡れて疼いていた。抜き去られた後の身体はまだ開いて、内側で小さな痙攣を繰り返しているようだった。彼の熱は、太夏志のてのひらをこぼれ出してシーツを湿らせている。上り詰めたのに快楽の余韻が去らずに、太腿の内側や、皮膚の薄い、敏感な部分に、快楽が燃え残っている。
 今日はとてもよかった。彼の身体と心理状態がうまく釣り合って、甘く熱い頂点を長引かせていた。自分の頬が涙で濡れているのが分かったが、それをまだ拭うことが出来なかった。
 脇腹を、湿った大きなてのひらが撫で上げた。それは詩草の放ったもので濡れていて、ぬるりとした感触をもたらした。また、身体の中心に快楽を揺り起こされたようになって、彼は身体を硬くした。
「どうしてかな。足りない」
 低いささやきが耳朶を濡らして、太夏志は、詩草の湿ったうなじに、柔らかく歯を立てた。そして、ベッドの上に膝をついて座ると、詩草の力の抜けた身体をぐっと自分の膝の上に引き上げた。
「あぁ、あ……」
 自分の中をもう一度押し上げる感触に、詩草は濡れた声を上げた。こんな風に声を上げることを耐えられなくなったのは、最近になってからだった。自分の身体がとみに熟して、太夏志の愛撫に敏感に応え、慎みがなくなってゆくのを感じる。それは太夏志にとっては歓迎すべき事態のようだったが、ベッドを降りた後の詩草の気分を波立たせる。シャワーを浴びても羞恥をすっかり洗い落とせる訳ではない。
 詩草は膝を開き、太夏志の胸に背中を預けた。彼が自分の中にひどく深く埋没しているのを感じる。その角度まで分かるような気がした。涙があふれて、頬を伝ってゆくのを感じる。そのあたたかさはすぐに、顎をしたたり落ちる汗の滴と混じって、分からなくなった。


 繰返し泣いたせいで目が赤くなっている。詩草は、洗面台の前に一人きりで立って、目をもう一度洗い直した。上瞼がかすかに腫れて赤らんでいる。
 太夏志はシャワーを浴びた後、部屋で眠っていた。普段、疲れを知らないような彼だが、太夏志も眠って、休まなければならない。昨夜も殆ど眠らずにワードプロセッサのキーボードを叩いていた筈だ。詩草も遅くまで起きていたが、夜明け近くに自分の部屋に戻るときに耳を澄ませると、太夏志の書斎からは止むことなく、軽快にキーを叩く音が聞こえてきていた。
 シャワーを浴びて濡れた髪が乾き始めていた。
 詩草は重い腕で、ゆっくりとドライヤーのコンセントを電源に差し込んだ。
 もうすぐ、ドライヤーの温風が煩わしい初夏が来る。
 この季節には、時折外で酒を飲むことを好む太夏志のために、ルーフテラスのテーブルセットや、スタンドライトを磨いておこう、と詩草は思いたった。雨の季節が来る前に、外のベンチにニスも塗り直しておかなければならない。太夏志の仕事の間に、ゆっくりと家の設備を整えよう。多忙な時期であればあるほど、小さな仕事は純粋な喜びをもたらすのだ。
 詩草は髪にドライヤーをあてながら、気怠く、幸福なため息をついた。
 先刻、ここで太夏志と抱き合った時、詩草の中に凝っていた冷たい毒が流れ出してしまったように感じたが、その余韻はまだ彼の心を浸していた。
 もし、自分が蜘蛛のささやかな毒に冒されたとしても、太夏志に触れれば癒されるだろう。
 詩草はかすかに微笑した。
 それに、結局のところ、蜘蛛は害虫ではない。禍々しい姿で現われるが、それが詩草の生活を蝕むことはないはずだ。逆に、詩草の中に蔓延った過去という名前の害虫を駆除し、彼を傷つける棘の天敵となってくれるだろう。彼は、雨上がりの木立で優しく輝く、絹のような光沢を持った蜘蛛の巣を思い浮かべる。それは、まぶたの裏の映像の中で、ただ美しかった。
 詩草は、自分の使った後の洗面台を拭き浄め、完全に満足出来る状態になるまで整えた。
 正常な暮らしの流れを取り戻す実感を味わう。
 快楽の記憶でさえ、今日は無闇な羞恥心を連れてくることなく、彼の胸の引き出しの中で整頓され、あるべき場所におさまっているように思えた。
 蛍光灯の白い光の中に照らし出された、無味の日常をもう一瞥して、詩草は静かに外に滑り出した。
 そして、太夏志の深い眠りを妨げないよう、音を忍ばせて小さな部屋の扉を閉めた。

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