スパイダーの続き。星蜘蛛(ホシクモ)という副題がついてます。
上野詩草は、鏡の向こうに立っている、蒼白い顔の男を眺めた。
どこか現実感の希薄な、模様ガラスの向こうに見えている映像のようだった。一月に一度、臨床心理士の森の診察室を尋ねる日、彼はよくこんな気分になる。普段見慣れないものを鏡の向こうに見る。
それは『自分』という名の肖像だった。彼はおそらく長い間、自分というものと向き合って来なかった。それが、今までの自分にはおよそ理解出来ない、一ヶ月間もの間、記憶が退行するという事象をもたらしたのかもしれないのだ。
────上野さんが、気持ちを整理するお手伝いを出来れば、と思っています。
詩草の脳裏に、おだやかな森の声が聞こえてくる。彼は、相変らず学生のように若い森の丸顔を思い浮かべる。ついで、彼女の肩にかかるなだらかな黒い髪を。年齢の退行を起こした時の記憶がないためか、詩草は彼女に完全には打ち解けられずにいる。
彼女と会うことが苦痛である筈がない。詩草は理性の部分でもって心に云い聞かせる。彼女は詩草に安らぎをもたらすために、あの診察室に座っている。それだけは間違いのないことなのだ。三十分から一時間という長時間、彼が人生をさらう作業を手助けしようと手をさしのべてくれている。それが有償だということは、彼女のまとう真摯な雰囲気をいささかも損なうことはなかった。
無論、森とのミーティングが治療である以上、その過程に苦痛や戸惑いが差しはさまれることは仕方のないことだ。詩草は、洗ったばかりで少し青ざめた自分の頬をてのひらでなぞった。綺麗に髭をあたった、なめらかな冷たい感触がそこにはある。皮膚にも、目にも、呼吸器官にも、見える場所のどこにもトラブルはない。彼は、肉体的にはほぼ完全に健康体だと云ってよかった。
昨年六月、小学生時代に退行する、という事件をきっかけに、詩草の生活には幾つかの変化があった。一つは、森との一ヶ月に一回の面談が加わったことであり、もう一つは太夏志との間で、定期的に健康状態をチェックする決まりが出来たことだ。
(「もちろん森先生との面談ほど、頻繁でなくていい。半年に一回……一年に一回でもいいんだ。お前が肉体的に健康で、今の生活が苦になってないってことを、数字で示して欲しい。もちろん、お前一人にそれを強制するつもりはない。俺も検査を受けるよ」)
太夏志が、それを云いだしたときの慎重な口調が思い出される。
彼が何を求めているのか、最初は解らなかった詩草も、その言葉でようやく納得が行った。彼等は、HIV感染リスクの高い男性同性愛者だ。モノガミー的なセックスライフ故に、不特定多数の相手と性交することもなく、コンドーム無しに行為を行うこともないが、社会生活の中でさまざまな場所に出かけ、さまざまな環境に身を置く中で、互いが何らかのウイルスに感染する危険度がゼロになることは有り得ない。思わぬ形で生活に入り込んでくる、もろもろの脅威に抗し得ていると証明するために、全身的な健康診断を受けて、お互いが健康であることを確認し合おう、というのが太夏志の提案だったのだ。
自分の健康に対して疑いを抱く要素の少ない、二十代半ばと、三十代半ばの男性二人にとって、諸々の性病検査を含む、健康診断を定期的に受けることは、煩わしいことでもあり、心理的抵抗も拭えないことだ。殊に、マスメディアで顔の知れ渡った有名人である太夏志は尚更だろう。それを敢えて、彼自身を含めて、健康診断に赴こうと誘われたのだ。
彼等は、定期的に健康診断を義務づけるような団体に所属していない。健康を維持し、管理し、何かの疾患があればそれを早期発見し、治療するのも、全て自分の意志ひとつなのだ。
詩草に、太夏志の提案を拒む理由は何一つ無かった。
去年の秋、一ヶ月に一回の、森とのミーティングを提案されたとき同様、彼は一抹の心理的抵抗を飲み下した。
(「ありがとうございます」)
そう云った後、それだけでは不十分な気がして、詩草はやや苦心して微笑した。
(「それは、僕にとっても安心なことです。自分がちょっとした検査をすれば……代わりに太夏志さんの健康についても保証して貰えるとしたら。何しろ、貴方はヘヴィースモーカーだし、お酒も好きなひとですし、それに……」)
そう云いながらふと顔を上げると、彼は、太夏志の大きな身体が自分に影のように寄り添うのを知った。広い腕にそっとかき抱かれて、その腕のひそやかな温かみに、今更のように驚かされる。この男が、裏表なく自分を想っているのだということが、そのぬくもりから伝わってきた。
詩草は胸のつまる思いで、太夏志の背中を抱き締め返した。太夏志から受け取った温かさの何割かでも、この腕から返せればいい、と願った。丈は高いが、太夏志よりも大分細く、体温の低い自分の身体。自分に力強い包容力が欠けていることを、彼は歯がゆく思う。
だが、黒沢太夏志という男が(知り合って何年経っても、外観同様、太夏志の内実は、すがすがしいほどの強さにあふれていた)自分に、健康で、幸福な人生を共に歩くことを望んでいるのだ。それには、何か確固たる理由が在るはずだと思った。それは、鏡を見る詩草自身の目には映らない「価値」かもしれない。だが、自分自身の目よりも、太夏志の目を信じる方が、詩草にとってはこころ安らかだった。
二人はその話し合いを機に、互いに適度に時期をずらして、健康診断を受けた。昨年の秋冬のことだ。太夏志の知人のつてを辿って、健康科を有する病院で予約を取った。様々な検査を自分で選んで組み合わせることの出来るその検診を、その病院ではオーダーメイドドックと呼んでいる、と説明された。一年に一回のことだから、と、太夏志はやや贅沢なコースを選んだようだった。
その結果、昨年のその時点においては、二人は完全な健康体であることが、太夏志の希望通り「数字」で証明されたのだった。
詩草は、洗面所を使った後の水気や汚れを拭い去って、鏡の前を離れた。
住居を管理し、大部分の炊事を引き受け、彼の仕事に興味を持ち、下調べをするという作業によって、創作という山に向かう太夏志の道のりを共に辿ること。出来上がった著作の下読みをすること。経理を引き受け、太夏志の入出金について常に明らかにしておくこと。
詩草は自分の仕事の全てに努力していたが、いつまでもまだ足りない、という思いがあった。太夏志から支払われる給与を学ぶことにあて、彼の仕事に役立つ知識や資格を順々に獲得してゆけば、この欠落感もいつかは埋まるのかもしれない。
ある程度は容姿にも構う必要がある。詩草は、自分の容貌を特に高く評価しているわけではなかった。自分の容姿が、写真の一枚だに持っていない、母を偲ぶ道具の一つでしかなくなって久しい。だが、太夏志が自分の外観を好きだと云う。同性の自分の唇に口づけして、とても尊いもののように熱い頬を押し当て、何度繰り返されたか分からない、賛美の言葉をささやきかける。その言葉を情緒的に理解出来る訳でなくとも、太夏志の評価がそこにあることが全てだった。
仕事に関わることのできる「自分」について考えた途端、鏡に映った顔が、少し生気を取り戻したように思えた。
「太夏志さん」
気持ちを切り替え、太夏志の仕事部屋を覗き込んだ。重厚な大型のモニタを備えた、パーソナルコンピュータの運び込まれたばかりの部屋だった。パソコンの講習会に通い始めた詩草が、可能な限りフォローしたが、太夏志は難なくワードプロセッサからコンピュータに仕事を移行して、スピードを上げ始めた。最初こそ、ワードプロセッサとは桁違いの管理能力を持ったディレクトリや、ファイルの扱い、ワードプロセッサとは勝手の違う、多様な能力のソフトウェアに戸惑ったようだが、太夏志はすでにPCを自分のパーツとして使いこなし始めている。
六月に入ってからの太夏志の映画の仕事への打ち込みようは、彼のペースアップの速度を見知ってきた詩草でさえ、心配になるほどだった。一ヶ月に文庫の第一稿を二冊書き下ろすというのが、太夏志にとって苦になるペースなのかどうか、詩草には感覚として想像することは出来ない。それが不可能でないことは知っている。ただ、そのための資料を集める自分が目まぐるしい思いをしているのだから、資料から必要な情報をくみ出し、収斂する制作作業に携わる太夏志にとっては過酷なものになっているのではないか。だが、同業者でない以上(或いは同業者であっても)同じ痛みを分かち合うことは出来ない。しかし同業でないからこそ、こうして絶えず彼のためになることだけを考えていられるのでもあった。
毒々しい光を放つ、白とブルーのコンピュータ画面に向かい合っていた太夏志は、椅子をぐるりと回して、詩草に向き直った。
「森先生と会うのか?」
「はい。行ってきます」
「そうか。気をつけてな」
太夏志は立ち上がり、詩草の両肩をやんわりと捉えて、かするようなキスを落とした。そうして、長い腕を詩草の背中にゆるく巻き付け、やわらかく部屋の外に連れだした。それは、自分の仕事のテリトリーから詩草をさりげなく連れ出すようにも、あるいは森の許へ向かう詩草の背中を押すようにも、どちらともとれる所作だった。
「見送りはいいですから、仕事に戻って下さい。K社とG社からファックスが来てましたが、内容的に急ぎじゃなかったので、LDのテーブルに並べてあります。気分転換の時に読んでください」
自分が、予防線を張ってしまうことを、詩草は常にもどかしく思う。もっと気安く見送ってくれ、と云えればいい。別れ際に、あんな子供にするようでない、深いキスを自分から求められればいい、と思った。
それは、或いは夜であれば可能だった。詩草も彼と一緒に過ごすようになってから三年以上になる。誘いも、互いの身体にからみつき、体重を預け合う行為も、彼らの世界の闇半球にはひっそりと、しかし生々しく息づいていた。だが、昼の時間は違う。太夏志は自分自身の仕事に奉仕すべきであり、詩草はそれを支えることに徹するべきだ。
それを物足りない、と思っている自分を、詩草はかすかに嫌悪した。関係が深まるにつれて淫蕩さを増すこの心情も、ある種の退行なのではないかと考えずにはいられない。
「じゃ、秘書殿のお言葉に甘えて」
太夏志はかすかに笑い、詩草の肩にある大きなてのひらに、ねぎらうような力を込め、部屋の中に引き上げて行った。耳を澄ますと、またすぐにキーボードを叩く音が聞こえ始める。こんなに仕事の世界に、敢然として引き籠もる太夏志を、詩草は今まで見たことがない。太夏志は気分転換の上手な男で、仕事の合間に旅行に出かけたり、息抜きのため、平常からちょっとした遊びに興じることが多い。快楽と仕事を常に両立させる主義なのだ。特に詩草を相手取るときは、遊ぶのが下手な彼の手を取り、ゆるやかに新しい世界へ引き込んで行くのを、太夏志はあきらかに楽しみの一つと数えているようだった。
自室で服装を整えた詩草は、(病院に行く服装というのも、彼にとっては戸惑いの元だった。カウンセラーと向かい合うのに、スーツで出かけるのは違和感があるし、だからと云ってラフすぎる格好という訳にもいかない。適度に地味で、カウンセラーが自分の様子を見てとれるような服、というものを選ぶべきなのだ)ふと動きを止めた。
たった今まで、夜と昼の時間の区別について考えていた。
太夏志が、「夜」の時間に、二週間近く触れていないことに気づいたのだ。
この数年間に一度もなかったことだった。
それに何か意味があるのか、或いはただ太夏志が、今までになく仕事に没頭しているという、ただそれだけのことなのか、詩草には計りかねた。だが、どんなに多忙でも、その精神的な疲労感を解消するために、太夏志が自分を抱くことに合わせ、詩草は常にある種の準備を怠ったことはない。それがこの半月ほども空転しているのだ。
(……)
自分の頭の中がひどく猥雑な思考に充たされている思いがして、たまらなくなった。欲望や欲求を持つ肉体の中に閉じこめられているというのは、何と閉塞的で、なまあたたかく、狂おしいことなのだろうか。
詩草は自分の身体と脳の中にとらわれているという、閉所恐怖的な感覚から逃げ出し、心を外界へ解放するために、玄関を静かに開け、六月の甘い外気の中へ出て行った。
先月、森と会ったときは、窓の外には箱根卯木が花をつけていた。今日は窓の外には薔薇の花が揺れている。金色の光を丸く切り取ってきたような薔薇だった。太夏志の小説にも時折花が儀礼的に登場し、その時々によって詩草は品種を調べることがあったが、数千種類を数える薔薇の品種は膨大で、一目見たところで名前が浮かんでくることはなかった。
その薔薇の受け止めた陽光が、診察室の小麦色のカーテンに跳ね返り、部屋の中をあかるい光で満たしている。
関東地方は六月の半ば、異例に早い梅雨入りをしたが、今日はその合間のあたる晴れ空で、診察室は明るい小さな箱のようになっていた。一般の外来診察室に見るような、無機質な雰囲気はここにはない。その中にひっそりと黒い小石を置くように、森の黒い髪が今日もおだやかなインパクトを与えていた。前回、後にまとめてバレッタで止めていた髪を、今日は簡単に結い上げている。そういう髪型をすると、森の小粒な若い顔は、余計に形よく丸くまとまって見えた。
詩草は、今日は森と話そうと思うことを具体に決めていた。一年近くカウンセリングに通ってもなお、決して積極的になれない彼には珍しいことだった。
「いかがですか? 前回から」
ソファに座った森は、ゆったりと肘掛けに腕を載せている。リラックスして、詩草の声や表情を余さずにとりこもうとしている気配を感じた。
「忙しい一ヶ月で、余り自分のことを考える時間はありませんでした。……でも、気持ちが変化するような出来事があって……」
思い切って云い出すと、森はかすかに身を乗り出すようにした。言葉では促さない。
「小さかった頃の、幼馴染みに会いました」
「それは……去年、上野さんが子供時代に戻った頃より、もっと前にお友達だった方ですか?」
「そうです」
詩草は、森に会う前、頭の中で話を整理してきたつもりだったのだが、うまく話し出せないことに戸惑った。やはり抵抗を捨てきれていないのだろうか。少し焦っててのひらに汗をかいてしまう。
「小学校の頃に、母と世田谷のアパートに住んでいた頃、僕個人にとってショックな出来事があって……そのことは極力考えないようにしていたので、先生にもお話しできませんでした。でも、その出来事と直接関係のある知人と、先月、偶然再会したんです」
「その出来事は、未だにお話ししたくないものですか?」
森はおだやかに尋ねた。静かに膝の上で両手を組み合わせる。
「それについては……すみません」
カウンセラーとの関係は、薬を処方する臨床医とのものよりも、より「人間関係」を構築することが望ましい。森に語れないことがあるというのが、自分の警戒心をさらけ出しているようで、森に申しわけなく思った。
「すまないと思ってくださる必要はないですよ。上野さんから受け取った言葉をもとに、わたしはご一緒に考えて、その中でお手伝いできることがないか探します。それはいつの時点でも同じことです。でも、もし上野さんが表に出せなかったエピソードを、誰かに打ち明けられる気分になれたら、とてもいいことだと思いますし、わたし個人にも嬉しいことです」
臨床心理士は、薔薇の花びらにあたる光の点が、カーテンの外側から、小さな生きもののように動き回るのを、じっと見つめた。しばしの沈黙があった。
やがて口火を切ったのは森だった。
「ただ、ずっと鍵をかけておいた出来事を取り出すときは、多くの場合リスクを伴います。話すことですっきりするというメリットはあるかもしれませんが、曖昧にしておくことで平安でいられたことを、はっきり形にしてしまうというデメリットもあります」
詩草は肯いた。
診察室の座り心地のいい椅子の上で、一瞬クッションが硬い石のように感じられる。
小学校四年の夏、木谷諒に公園で抱きすくめられたことを、口にするのはひどい抵抗があった。あの時のなまぬるい唇の感触が、十数年経った今もなまなましく蘇ってくる。
あれから、数え切れないほどのキスを体験した。
主に、それは黒沢太夏志との熱くなめらかなキスだった。それは熱意や想い、技巧、そしてむろん詩草自身の望みを伴ったものであるため、木谷諒の与えたそれとは、ほぼ違う行為と云えた。しかし、熱情と共に流れ込んでくる太夏志のくちづけでさえ、木谷諒の唇の感触を完全に消し去ることはできず、心身と共に満たされなかった少年期の記憶と共に時折よみがえり、なおも詩草の背筋にぴりぴりと氷で灼かれるような嫌悪感をもたらした。
「過去にあった出来事は、口に出した方が必ずカタルシスがあるんでしょうか?」
詩草がつぶやくと、森は暫く沈黙した。この、いささか長い沈黙は、この女性の癖とも云うべきものだった。詩草は、他の臨床心理士の診察を受けたことがないので、患者から何か問われた時、彼女がしばしば沈黙を差し挟むことが、臨床心理士の一般的なスタイルなのかどうかは分からない。しかし、最初はこの沈黙を不安に思ったが、最近では、森が詩草自身の問題をより深く考えてくれている、希少な瞬間だと受け止められるようになっていた。
やがて森はゆっくり話し出した。詩草のかたくななこころに、あたたかいてのひらをおしあてるような、ゆるやかな声だった。
「人の心の中には、表層にも、深層にも、膨大なエピソードが蓄えられています。それを、全部形にして話すことは、そもそも不可能だと云ってもいいでしょう。過去について何もかも話すことがいいとは、わたしは思っていません」
森は、云いながら軽く手を上げ、結った髪を押さえた。
風が入ってきているのだ。
「でも、過去の出来事が棘になって、心の中に刺さっている場合は別です。まずは痛みがあり、多くの場合、新しい傷を作る原因になり、化膿したり、感染症を起こしたりします。自分の力で、いったんはふさがったように見える患部を切り開き、棘を抜き取るのは至難の業と云ってもいいのではないでしょうか?
今日明日でなくても、できれば今まで抱えてきたつらい経験を、幾つかお話ししていただきたいと思っています。心の痛みになっている出来事を、外に放してやり、他人と一緒にそのことを検討してみれば、すうっと棘を抜くことも出来るかもしれません。棘のように鋭くはなくても、角があってことあるごとに心にぶつかってくるエピソードがあれば、ご一緒に研磨していくことができるかもしれません。それはお一人で考えるより、始めてみれば効率の良い、楽な作業である可能性があると、わたしは個人的に考えています」
「はい」
詩草は、ともすると自分より若く見える森の柔和な顔を正視出来ず、視線を落とした。自分の右手の中指の爪がいびつに切られていることにふと気づいて、彼は軽く指を握り込んだ。
「話が大きく逸れてしまいましたが、幼馴染みの方と会ったんですね?」
森は、それ以上深追いしようとはせずに方向転換した。
詩草は救われた思いで、椅子に座り直した。
「はい。大学を卒業した際に、それまでの人間関係をずいぶん整理してしまったので、僕には余り親しい友人がいません。子供の頃から付き合いのある友人は皆無に近い状態です。去年起こったことについても、黒沢と、世話をしてくれた黒沢の身内にだけ話し合ってきたと思います。いわばずっと……閉鎖空間にいたようなものですよね」
森はかすかにうなずいた。
「幼馴染みに再会して、ふと……その人が、今の知り合いの中で、一番子供時代の僕に近い人だということに気がついて……それで、もし、彼にこの数年の心の動きについて話せれば、何か……自分に想像できない展開がある気がしたんです」
森の、余り表情を見せない、睫毛の揃った瞳を、ゆっくりとしばたたいた。
「お話、できそうですか?」
「分かりません。何しろ……僕には個人的対人スキルがほとんどないので」
「お話ししてみたいか、実はしたくないか……は区別がつきますか?」
「いいえ」
詩草は首を振った。
「それもはっきりしません。でも、久し振りにあったその人は妙に好感の持てる人柄でした」
詩草は思わず、眉間を指でおさえた。
「前にお目にかかった時、先生は、友達を必要ないのか、と聞かれましたよね。その時は、友達と話すことから充足感を得られない、とお返事したと思います。でもその幼馴染みとは、今までも知り合った人とはまったく違う感じを受けて……強いて喩えるなら、何年か前に、黒沢と初めて会ったときに似たインパクトを受けたんです」
「その黒沢さんにも話せなかった出来事ですものね」
詩草は肯いた。
「余りにプライヴェートな問題ですし……それに去年のことを話すかと思うと抵抗があって。子供に戻ったなんていうことも、褒められたことではないですよね」
「そんな風に思うことはないんですよ」
森が静かに云った。
「去年のことでご自分を責める気持ちは変わりませんか?」
「はい。……周りに負担をかけたことを申しわけなく思ってます」
「でもそれがきっかけで周囲の方の優しさを、改めて確認出来たとおっしゃってましたよね。それは上野さんに限らず、周囲の方もそうだった筈です。今の上野さんがどんなに必要な存在か、家族の皆さんが実感したきっかけになったと思います。そう考えれば、悪い面ばかりではありませんよね?」
「はい」
「今の時点で……その、新しいお友達……と昔や今のことをお話ししたい欲求と、黙っていたいという抑制と、どちらが大きい感じがしますか?」
「……まだ話したくない気分が大きいです」
そう云って、詩草は思わずため息をついた。
「でもそれは、今までの習慣に縛られてる気もします」
「新しい関係に新しい習慣を適用する……その発想が生まれた自体素敵なことですね」
詩草ははっとしたような気分になった。
森にそう云われると、本当にそれがまじりけのないよいことのように思えてくる。
「とりあえず、余り明確な方針をたてて自分を縛るのではなく、だましだましやってみるというのはどうでしょうか?」
「?」
「口に出す、出さない……それを両方ためしてみることはできませんよね。それに、心にも波があって、行動的な気持ちになるときと、ドアを閉めてひとりきりでいたい時期もあるはずです。だから、口にしてみたい、という気持ちが大きくなった時、少しずつ話してみる、というケースバイケースを、この件の方針にしてみてはどうでしょうか」
「きちんとした決心もなしに、中途半端に相手に付き合わせることにならないでしょうか? それに、自分にとっても必要なことを後回しにすることになりませんか?」
「人生の方策を決定してしまえば楽かもしれませんが、それは必ずしも万人に必要なことではないと思いますよ」
森はおだやかに云った。
「もしもお友達に何か話そうと思って迷ったとしたら、どういう風に何をお話しすればいいか、よろしかったら、ご一緒に考えてみるのもいいかもしれませんね」
「ありがとうございます」
詩草は肩の力を抜いた。森の真に有難いところはこういうところだった。彼女は必ず結論を急がせない。
森に控えめな信頼を寄せているのとは別の問題として、カウンセリングを受けるということそのものが、詩草には苦痛なのだ。高校生の頃、母の思い出をカウンセラーに語ったときとは大違いだった。森と話し合うようになってから、自分自身でさえ触れたくない複数の傷口が、心に深く眠っているのを意識するようになった。現在、安寧と幸福を与えられているにも拘わらず、それを捨てきれずに隠し持つ自分が、犯罪者のように思えることさえあった。
その心の暗部を、他人の手で無理に押し広げられるのではないかと、詩草はこころをはりつめたままでこの部屋の椅子に座る。そして必ず、人と自分の心理を「話し合う」という馴れない作業に従事することになるのだ。森が彼のために割く一時間は、いつもひどく長かった。
彼のその緊張と警戒をくみとっているように、森は決して、詩草の心底痛むところまで、質問の刃先を潜り込ませようとはしなかった。しかし、それでいて何かしら小さな、現実的な指針を与えてくれる。
森は、膝の上で組んでいた手を、そっと肘掛けの上に戻した。
「それじゃ、お友達がどんな方か、もう少しだけお話ししましょうか」
詩草はそう云われて肯いた。
そして、一ヶ月前、森と会った日に突然彼の前に現われた、木谷陽の、プラチナブロンドに染めた髪や、まっすぐに彼を見つめる色の薄い瞳が、その虹彩の淡さに反して、まばゆく光り輝いている様子を、まずは記憶の中で視覚的に思い起こした。
詩草は、最寄り駅の改札をくぐって外に出てしまうと、深いため息をついた。人目がなければ、思う様腕を伸ばして、のびをして、身体の筋肉をほぐしたい気分だった。森と過ごす時間は、彼にとって複雑だ。かたちのない、そして常に変容する心について話をするのに、それはれっきとした「診察」なのだ。病んだと感じた時に人は初めて医師の存在を意識する。そして、自分のために、医師と自分の時間を使ったにもかかわらず、病院から出ると、たいてい解放感を味わうのだ。
「上野さん!」
一ヶ月に一度の義務を終えた、というけだるい解放感に身を任せながら、駅前のロータリーに出ようとした時、後から名前を呼ばれて、詩草は振り返った。そして、自分の口元に、知らず知らずのうちに笑みとしか形容できないものが浮かぶのを知った。
真っ黒な天竺綿に、うすみどり色の蜘蛛の巣を一面に染め抜いたタンクトップを身につけた、木谷陽だった。肩から見事な筋肉のラインを描いて、長い腕が伸びている。細身の、風変わりなローライズのジーンズが、ルーズなイメージではなく、彼の姿をすらりと引き締まったものにしていた。白っぽい金髪が、今日は無防備におろされて、風にさらさらとなびいていた。
「ご無沙汰してます」
陽は白い歯を見せて笑った。きらきらと光をふりこぼすような微笑だった。詩草への好意を全身でアピールしているような晴れやかさだった。
「一ヶ月ぶりだね」
詩草は、少年時代の一夏を除けば、大人になった陽とまだ数えるほども会っていないのに、この青年が自分にこんな好意を寄せていることに、まだ戸惑ってしまう。陽に何らかの目的があるか、あるいは陽の好意そのものが、詩草の錯覚であった方が、はるかに納得が行く。
「上野さんって水曜日がお休みですか?」
「どうして?」
「前に、『月光』の楽譜を選んでた日も水曜日だったでしょ? あの時もこのくらいの時間だったなぁと思って」
「ああ」
詩草は曖昧に笑った。
木谷陽と十数年ぶりに再会した先月のその日は、確かに水曜日だった。その日も、詩草は森の診察を受けて帰ってきたところだった。森が、病院で週に何回勤務しているのか、詩草は正確には知らないが、彼が森と面談するのは水曜日と決まっていた。四週間に一度のカウンセリングの予約なので、自然とそうなっているのだ。
「よく覚えてるね」
「おれも水曜日が休日なんですよ。月末以外の三週間は週休二日で、日曜日と水曜日が休みです」
「月末の書店さんは忙しいだろうね?」
「棚卸しもあるし、雑誌や書籍の発売も固まりがちですからね。この先も週二回の休みは期待薄です」
詩草は、なだらかな金色に灼けて盛り上がった陽の長い腕が、本を点検し、運び出し、また運び入れるさまを想像した。きっと彼は、興味のある本もない本も、公平な力を注いで大切に扱うだろう。そんなことを想像するのが不思議だった。
「僕は水曜日が休みっていう訳じゃないんだ。決まった休みの日はなくて、急に何日も休暇になったり、何十日もまったく休める日がなかったり」
「へえ、それはそれで大変ですね」
陽は感心したような声を出した。詩草の仕事事情を聞くと、定時の仕事についている者は大抵こういう反応を示す。詩草にすれば、毎日決まった時間に仕事に出かけ、その時間を拘束される仕事の方がはるかに大変に思えるのだが。
「話が戻りますけど、上野さん今日はお休みですか?」
詩草はポケットの中のスケジュール帳を、取り出すことなく記憶でなぞった。
「そうだね。今日は殆ど休みかな」
「殆ど?」
「帰ったら、出かける前とは必ず状況が違ってるのが、うちの仕事の常だから。する仕事がない状況は殆どないよ。あらかじめ予定を組んだ火急のものがないだけで」
「そうですか」
陽は、軽く咳払いした。何かを云い出そうとしてためらうように、自分のプラチナの前髪を数本爪でしごいた。いつもに比べて、やや落ち着かないように見えた。その咳払いは不思議と彼を初々しく見せて新鮮だった。挑発的に染められた髪、毒々しい衣類のチョイス。そして常に積極的だったアプローチ。にも拘らず、今日の木谷陽は、奇妙に純真に見えた。
「もしよかったら、コーヒーを一緒に飲みませんか。今度は屋上の売店じゃなくて。駅の北側に、エクレシアっていうお店があるでしょ。上野さんは地元だから知ってるかな」
「そこなら」
詩草は頷いた。知っているどころか、この駅周辺で最もなじみ深い店と云っていい。
カフェレストラン「エクレシア」は、自家製のイタリア料理がメインの店で、各国のワインや、豊富な種類のカクテルの評価が高く、昼は女性向けの喫茶店としてコーヒーや菓子を出す。駅から歩いて数分の、細い通りに面しており、裏手には意外な眺めの広い竹林が広がっている。その竹林のなだらかなざわめきに守られているためか、うすみどり色の空間にことんと落とし込まれたような、閑静な店だった。
店を訪れる客も物静かな客が多く、座り心地のいい木製の白い椅子に身を落ちつけて、文庫本を片手に長い時間を過ごす女性や、難しい顔で紙束をめくる、業界者風の男などもいた。
詩草の雇い主、黒沢太夏志もその店の常連客の一人だった。
彼は著者校正のぶ厚い紙束と辞書、青いインクを入れた万年筆を手に、一人で店に篭もることもあれば、詩草を伴って、夕食と酒を楽しみに行くこともあった。
詩草は基本的に一人で外食はしないため、この店を単身訪れる機会こそなかったが、それでもその店は馴染みと云えた。エクレシアで仕事をする太夏志を、急用で呼び出すために、幾度店に電話をかけたか分からない。恐縮しながらファックスを転送させて貰ったことさえある。
「じゃ、行こうか」
回数は少ないが、陽に誘われたとき、断ったことはない。
こうして諾々と承知する自分を、陽はどう思うのだろうか。
詩草は、前回陽に会ったとき、自分が今の相手以外と恋愛する意志がないことを、はっきりと告げた。隙があると誤解されない態度を取ったつもりだ。だが、陽に個人的な好意を寄せていることも伝えずにはいられなかった。陽はそれで一旦納得したように思えた。
だが、たとえ昼の喫茶の誘いにせよ、こんな風にたやすく同行して、彼に気を持たせることをしているのではないのだろうか。
「よかった」
陽は晴れた笑いを見せ、一歩先に歩き始めた詩草に追いつき、隣に並びながら彼の顔を覗き込むようにした。
「先月、変な展開になっちゃったでしょ。もうお茶も一緒に飲んで貰えないかもしれない、って覚悟してたんです」
「変な展開……」
木谷諒のことだろうか。詩草はあの日ひどく取り乱したことを、むろん自分自身で覚えている。その動揺がよみがえってきて、今の陽の台詞をよく処理できず、彼は機械的にそれを反復した。
「知り合ったばっかりなのに舞い上がって、いきなり告白しちゃったし。でも上野さんには好きな人がいる。こういう場合、そこで関係が終わっちゃうことも多いでしょ」
「そう……かもしれないね」
こんな真昼の、日常の延長のように見知った道を歩きながら、太夏志以外の男と、いきなり恋愛の方向に話題が滑り込んでゆくことに詩草は戸惑った。同時に、話が木谷諒に関するものでなかったことに、かすかに安堵した。
「あの日、上野さんはおれと色んな話をしたいと云ってくれましたけど、それを額面通りに受け取るのは、楽天的過ぎるかな、と思って」
詩草は首を慎重に横に振った。陽に、自分の気持ちを過分にではなく、しかし言葉足らずではなく伝えたかった。詩草の過去、黒い蝶の羽ばたきのような染みをつけた事柄を、個人的に憎んでいたと告げ、レースのようにはりめぐらせた巣の中で、彼を黙って見つめていたという、華やかな蜘蛛のようなこの青年に。
「本当に君と話したかったんだ。でもそれは僕の方こそ、都合がよすぎると思ってた」
「上野さんに都合がいいって?」
陽の声に、それほど飾り気のない驚きが忍び込んだ。
彼等は駅前のロータリーを抜け、遊歩道を渡って、喫茶店のある小道に向かおうとしている。あちこちの軒先に薔薇が咲き、六月の晴れ空にしては強すぎる日差しの下、健気に花弁をあぶられている。
「僕は、君の『誘い』に応えるつもりはない」
詩草はゆっくりと言葉を選んだ。建前よりも、自分の心に一番近い言葉を選択したかった。
「君の気持ちを尊重するなら、余り合わない方がいいかと思うけど、僕は自分勝手にも……今まで人に云えなかったことについて、できれば君に聞いて……欲しいみたいだ」
「自分勝手なんてことないですよ」
木谷陽は間髪を入れず、強い調子で云い放った。
「話し相手になれるなら嬉しい、それしか感じませんよ。そうじゃなくてもおれにはハンデがあるんです」
「ハンデ?」
「諒の従兄弟だっていうハンデです」
詩草は一瞬沈黙してしまった。前回陽が、木谷諒の従兄弟だと聞かされた。詩草が長い間、思い出さないようにしてきた、十数年前の夏の出来事が、陽の出現によって生々しく蘇ってきた。思い出さないよう、記憶の深い底の部分で蓋をしてきたものの内の一つだった。今では木谷諒がなぜあんなことをしたのか、大人の身体を持った詩草には僅かにでも分かる気がしている。諒が彼に投げつけた激しい言葉の理由も。それにも拘わらず、孤独の極限の中にいた子供のこころについた傷はいまだに深く、そっと触れただけで、驚くほど新鮮な血をあふれんばかりに流し出した。
だが、詩草は木谷諒の存在とまるで切り離して、陽が好きだった。彼に会うと未知の高揚感を感じた。それが黒沢太夏志を相手にした時のような恋情に変わる傾向はなかったが、それでも陽の姿を目におさめ、話す言葉を聞いていると、居心地よくあたたまった部屋の窓を開け放ち、新しい風を入れた時のような、不可解な新鮮さがあった。
詩草は、普段の生活の中で太夏志や、彼の周辺のさまざまな人物とささやかな交流をすることで、心のほとんどを充たされていると云ってもいい。なおかつ新しい風を心地よく思うことが在るのだと、彼は木谷陽に教えられた。
陽が木谷諒の従兄弟だと知った後で、詩草は自分個人の名刺を渡し、電話番号さえ教えたのだ。
「最初に会った日、君は正直なやり取りが好きだと云ってたけど、本当だね」
店の戸を押しながら、詩草はちらりと、陽のおそろしく端整な横顔を眺めた。
「持って回った云い方は得意じゃないんです」
二人は丁度竹林を見渡す、奥まった窓際の席におさまった。
注文を取りに来た店員が去った後、僅かな沈黙が二人の間に横たわった。
「上野さんも、言葉のゲーム的なことはしない人じゃないですか?」
「そうかな」
「いつも、ちゃんと考えて、ごまかさずに答えてくれるでしょう」
だとすればそれは、おそらく黒沢太夏志の影響だ、と詩草は思う。
「俺、上野さんに会うたび質問責めですね。すみません」
「そうかもしれないね」
詩草は微笑して応えた。陽が身じろぎして葛藤を表現するとき、彼の肩から胸にかけて描かれた蜘蛛もまた、獲物を前に身構えるように揺れ動き、八本の節足を苦しげに蠢かせる。
「どうして笑うんですか?」
「君はいつも涼しそうな格好をしてる。それに、今日の服も蜘蛛がモチーフだ」
彼は、前回の会話を陽に思い出させようとした。
「蜘蛛の柄の服しか着ないのかと聞いたら、君はまさか、と答えたけど」
「確かに沢山持ってますけど。……」
陽ははっとしたような顔になった。
「こういう服の趣味ってよくないと思いますか?」
「個人的な意見でよければ、君にとてもよく似合ってて、印象的だと思うよ」
そう云うと、陽は目元をほんの僅かに火照らせて微笑んだ。
「当然ながら家の人間からは不評なんです。髪の色も、コンタクトの色も、うちの連中の嫌がりそうなものばかり、わざとチョイスする癖がついてるんで」
「長い反抗期だね」
「これから何年続ければいいんだか」
一見他愛ない髪や服の話をしながら、二人はその会話の裏に、木谷諒の存在があることを、お互い承知していた。諒は、親類縁者の間で、「一族の誉れ」と云うべき存在だと陽は云っていた。きっと学業や就職にまつわる輝かしい経歴だけでなく、外観や身仕舞いも、若い青年がかくあるべし、という姿を諒は保っているのだろう。少年時代の彼がまさにそうであったように。
その諒を反面教師にしてきたという陽。
おそらく、事あるごとに従兄弟を見習うように云われながら、あらゆる面で諒と似ていない自分を演出しようとしてきたのだろう。
そんな陽を、詩草は痛ましいように思った。それも木谷諒に縛られた人生に他ならないと、詩草には思えたからだ。
もっとも陽の表現体はその名の通り陽性で、詩草が短時間で得た情報から感じる痛ましさなど、およろ縁のないもののようだったが。
そのあかるさ、軽やかさ、鎌状の鋏角に毒を持ちながら、それを他者に刺すことなく生きてきた陽をなおさらに好ましいと思う。
(「新しい関係に、新しいやり方を適用してみる。その可能性だけでもいいことだと思います」)
森の言葉を思い出した。こうして、窓の外にあふれるような緑のざわめく気配を感じながら、日当たりのいい席で向かい合うと、陽に自分の隠していた部分を話そうと思っていた気持ちは霧散してしまった。森に云った通り、去年、一ヶ月間子供時代に記憶が退行したことを、詩草自身が、後ろ暗い出来事だと認識していることが実感された。
この、上質な一点ものの人形のような美しい青年に、自分の心の中でじくじくと膿む影の部分を打ち明けるなど到底出来そうになかった。
四週間前の水曜に名刺を渡した時、陽は嬉しそうだったが、電話をかけては来なかった。
詩草の構築した恋愛関係に土足で踏み混むことを避ける、彼の気遣いが感じられた。
当の自分も、陽の勤める晃文堂には行こうとしなかった。その店はそれまでは、駅周辺でもっとも頻繁に通う書店だった。しかし、陽と顔を合わせて、陽の笑顔であれ、翳った顔であれ、何らかの感情を感じ取るのが恐ろしく思えたのだ。自分が陽に恋愛の対象として惹かれてはいないという確信はあった。太夏志にも後ろめたさはない。だが、陽のバックボーンに広がる幼少期の思い出はなお暗く、同性から寄せられる感情を、気持ちの中でどう処理すればいいのか分からない。
それでも、陽と親しくなりたい、という気持ちは揺れなかった。揺れなかったことが彼を戸惑わせた。それら総てをひっくるめて複雑なのだった。
「上野さんには謝りたいことがあって」
「何?」
「この前、うちの書店で黒沢先生名義で、本の取り寄せをされたでしょ。その電話番号と、この前頂いた名刺の電話番号、照らし合わせちゃったんです。職権濫用です」
「本当だね」
しかし、そう応える詩草は、名刺を渡した時点でそれは予想していた。もしそれが嫌なら当然名詞は渡さなかっただろう。
「黒沢先生と同居されてるんですね」
「仕事の効率化のためにも」
「上野さんの仕事って、ほんとに黒沢先生の秘書なんですか?」
「そうだね。そういうことになってる」
「どうしてそういう仕事をすることになったんですか?」
「ちょっと立ち入った質問だね」
詩草が声にわずかな屈託を含ませてそう云った時、飲み物が運ばれてきた。二人は飲み物が配られる間沈黙していたが、その間も陽は瞳を好奇心で射るように輝かせていた。
「図々しいですよね、すみません。上野さんのことを知りたくてたまらないんです。奇跡的に金脈を見つけて、発掘の魅力にとりつかれた人みたいに」
詩草は沈黙して、コーヒーをかき回していた。自分の中にあるものを幾ら掘り返したところで、それが一般的な意味でのダイヤモンドでも黄金でもないことは、きっと陽も承知しているのだろうと思った。
やがて顔を上げた。
「君は不思議な人だね。僕は個人的な話をするのが好きじゃない。でももしも昔の思い出を掘り起こすときがきて、君が同行してくれれば、どんなにか頼もしいだろうと思う。……でも、こんなことを重ねて云うのは無神経だけど、君をパートナーとして求めているわけじゃない」
「少しは誤解させてくれてもいいのに」
陽はかすかに、苦笑に似たものを浮かべた。
「上野さんに脈がないのは、おれもよく分かってるんです。元々あなたを見てたけど、男同士だったし、相手のいる人だろうと思ってたし。こうやって向かい合ってても、そういう気持ちがないのが伝わって来ます。それでもあなたのことをもっと知りたいし、会えるだけで嬉しいし、一分でも多く一緒にいたいし」
自分のどこを見て、そんな風に思えるというのだろうか。
詩草は、黒沢太夏志という、自分にとって余りにも圧倒的だった存在が、自分を初めて望み、服をとりさって抱きしめたときと、ある種よく似た、(痺れのような軽い恐慌状態を伴った)不可解さを感じた。
彼は軽く首を振って、自分たちの気持ちの温度差についての話題を断ち切った。そして、少し前の陽の質問に答えることにした。
「黒沢とは学生時代に知り合ったんだ。大学が黒沢の母校で、そのよしみで彼が講演に来た。その際の助手を務めるために、教授から紹介されたんだよ。結局その後も仕事を手伝うようになって、今に至るわけなんだ」
「黒沢先生が羨ましいな」
陽は、形のいい腕を組んでため息をつくようにして云った。
「何でも持ってる人ですよね」
自分にも太夏志はそう見える。そう思いながら、詩草は儀礼的に答えた。
「そう?」
「社会的地位も、才能もあって……たぶんお金持ちでもあるでしょ。テレビで見ても、間近に見てもかなりかっこいい人ですしね。……おまけにあなたを自分のものにしてる」
一度言葉を切って、陽は最後の言葉を付け加えた。その言葉を詩草は否定しなかった。普通なら、ここで自分は彼の所有物ではない、と反論するべきかもしれない。だが、紛れもなく詩草は太夏志のものだった。
「そう、本当に何でも持ってる人なんだ」
彼はゆっくりと言葉を選びながら陽の言葉を肯定した。彼等の横手に広がった竹林が、風に揺れているのが見えた。ガラス越しで、その音は聞こえないが、きっとその葉ずれはこの界隈を梅雨に引き戻す雨粒のように、風によって打ち合い、ひそかにざわめいているはずだ。
「物質的に色々なものを持っている人だけど、それは僕個人としては、それほど羨望の対象じゃない。近くにいる同性としてね」
詩草は、恋人の美点を紹介する者がたいていそうであるように、面はゆさと幸福感のはざまにあった。それゆえにことさら謹んで言葉を継いだ。
「黒沢の財産の多くは、むしろこの中にあると、僕は思ってる」
頭蓋と胸郭のどちらに心があると定義すべきか、詩草は一瞬迷い、結局軽く胸にてのひらで触れた。陽は詩草が左胸を覆ったてのひらを見つめ、目を伏せた。そして負けた、というようなポーズで片手を挙げた。
「あなたの黒沢先生への気持ちを聞きたいと思ってたけど……、とにかく、今はつけいる隙がないことが分かりました。ご馳走様です」
しかし不機嫌な様子を見せることなく、かすかにぎこちなくはあったが微笑んだ。目を挙げると、灰緑色のコンタクトレンズは、真昼の光を受け、やはりきらめいていた。その光が、陽への賛美を深めたことについて、口にすることはしなかった。
詩草が帰宅した時、太夏志は留守だった。
森との面談がある日は、太夏志は出かける用事を作らないことが多い。家で詩草を出迎えて、カウンセリングの様子がどうだったかをなるべく子細に尋ねるのだ。
それに、今日は執筆の予定も一杯で、出かけられるゆとりはなかった筈だ。
無論、急用が出来て出かけたとしても、太夏志がそれを取り返せなかったことは今までにない。詩草が一ヶ月間もの間、記憶の退行を起こして仕事を出来なかった時でさえ、太夏志は彼の面倒に丸々一ヶ月を費やし、しかし、二ヶ月後にはその遅れをすっかり取り戻したのだ。
だから、仕事の心配をしているわけではない。
太夏志の部屋では、コンピュータが起動されたままになっており、迷路を模したスクリーンセーバーが、見る者をスクリーンの内側に誘い込むように動き続けていた。詩草は、作成中のドキュメントが全て保存されていることを確かめてから、OSの負荷を減じるためにシャットダウンした。コンピュータが起動したままであるということは、太夏志は気分転換に少し外に出たか、軽い用事を足しに行ったのだろう。
いつもとペースの違うその行動を多少いぶかしく思いながらも、詩草は新たに発生した仕事を幾つか片づけた。著者校正を発送する準備をしたり、今日の帰りに入手した資料のファイリングをした。太夏志の仕事の下調べをしてファイリングをするのは、詩草にとって重要且つ、最も想像力を駆使する楽しみな仕事だった。自分が膨らませた創造力が太夏志の意図とかみあい、彼にとって有益な情報になることを知るのは、詩草には無上の喜びだ。
その下調べを手伝うことで、思わぬ知識を得たり、自分一人では読みこなすことが出来なかったような本に挑戦し、意外にもその山を征服する喜びを味わうことがある。太夏志と出逢う前の彼は、積極的に、世間や興味のない分野に飛び込んで行く方ではなかった。今、この仕事を手伝っていることが自分の拙い知性を磨き、人間性を僅かずつでも底上げしていっているのだ。
発送するべき書類をデスクの上に揃え、ファイリングを終えた資料を太夏志の棚に戻す。
もう夕刻にさしかかっていた。
自分が軽く汗ばんでいることに気づいた詩草は、シャワーを浴びようと思いたった。今日はそれにしても、六月としては暑い日だった。部屋に戻り、着替えを取り出していると、静かな家の中に、玄関先で鍵を回す音が響き渡った。どうやら太夏志がようやく帰ってきたらしい。
入浴する準備を中断して顔を出す。
「太夏志さん、お帰りなさい」
「ただいま」
その声で、詩草は、太夏志の気分が余りよくないことに気づいた。そう云えば、鍵の回し方も幾分乱暴だった気がする。
「何かありました?」
詩草が尋ねると、玄関先で靴を脱いでいた太夏志が顔を上げて彼を見た。その目の中に、見慣れない剣呑な光を見出したように思って、詩草は戸惑った。
「人に会ってきた」
「そうだったんですか。コンピュータつけっぱなしでしたよ」
「ああ、長居する予定じゃなかったから」
太夏志はやや素っ気なく答えると、詩草の隣をすり抜けてリビングへ向かった。
「森先生には会ってきたか?」
「ええ」
「どんな話をした?」
「今日は……一年前の記憶退行の話を人にするかどうかを相談しました」
「人に?」
聞き返した太夏志の上着を受け取ろうと彼に近寄った詩草は、太夏志の体臭に酒の匂いが混じっていることに気づいて驚いた。
「こんな時間に飲んできたんですか? 珍しいですね。仕事中なのに」
太夏志は酒が好きだが、小説の仕事中はほとんど飲むことはない。アルコール類はダウナー・ドラッグに相当するため、創作の勘を鈍らせるというのが理由だ。
「話を逸らすなよ」
太夏志は、不意に詩草に向き直り、両肩を捉えた。彼の目の中に見慣れない暗さが浮かんでいると思ったのは、どうやら詩草の気のせいではないようだった。
「去年の話を誰にするんだ? 俺と話して、お袋や優花子や、森先生と話して、それで充分だろう? 誰にわざわざそんな話をするんだ?」
詩草は身をよじり、明らかに酩酊状態にある太夏志の手から身をふりほどこうとした。だが、肩を握りしめる手は強硬で、詩草を容易には自由にしようとしなかった。
「誰と、会って来たんですか?」
火傷をするのを知りながら熱いものに触れるときは、こんな気分になるのではないだろうか。詩草はそう思いながら、その問いかけを口に出した。それは、問いかけの形をとってはいたが、質問ではなかった。話の流れから、彼は太夏志の答を薄々察せられるような気がしていた。
太夏志はあきらかに痛みに頓着せず、肩を握りしめていた手を唐突にほどいた。
「悪かったよ。お前は、いつでも自由に、自分の話を人にしていい」
低い声でつぶやいた。目を逸らす。
「俺だっていつもそう思ってきたつもりだった」
そんな顔をする太夏志を、詩草は見ていられなかった。
「待って下さい。どうして何か悪いことが起こったみたいな顔をしてるんです? 僕が昔の話をするのは、むしろ太夏志さんの勧めでもあったでしょう?」
太夏志は、ひどく深いため息をついた。リビングの大きなソファに沈み込む。彼の身体に、煙草と酒の匂いが染みついている。煙草も酒も嗜む太夏志には、特別珍しいことではなかったが、今日はそれが、その大きな身体に奇妙な荒廃した雰囲気を与えていた。
「木谷、陽と会ってきたよ」
詩草は、突然汗ばんだてのひらをぐっと握り込んだ。太夏志の中にねじれた誤解があるのがはっきりと分かる。それが更にもつれる前に、その糸を徹底的に解いてしまいたかった。
「どうして、陽くんのことを知ってるんですか?」
詩草は、太夏志の隣に腰掛けた。身体がかすかに触れるほど近くに。もしも太夏志が自分を遠ざけようとしても、それに応じる気持ちはなかった。
「先月、お前達が駅ビルの屋上で一緒にいるのを見かけた。ずいぶん、親密そうに見えたな。考えてみると、詩草があんな風に余所の人間と楽しんでるのを見るのは初めてだった。その時は、だから何だ、と思った。コーヒーくらい誰とだって飲む。それが今までなかったこと自体不自然なんだ。詩草だって、俺の知らない相手とコーヒーを飲むことだってあるだろう」
「そうです。コーヒーくらい、僕だって飲みます」
詩草は不思議なほど冷静な気分で、口をはさんだ。
「だけど、あんな顔をするお前は本当に見たことがなかったんだ。相手をひどく、信頼してる感じだった。だから俺は、お前がその話をしてくれるのを待ってた。そんないい出会いがあったら、俺に話してくれてもよさそうなものだと思ったんだ」
今度は、詩草は言葉に詰まった。木谷陽の話を太夏志に出来なかったのは、一抹の後ろめたさがあったからだ。
「すみません。……彼の話は少し複雑で」
彼はそれが充分な弁解にならないことを知りながら、つぶやいた。
「日が経つに連れてだんだん、あの時に屋上で笑ってたお前の様子が重くなってきた。俺が瞬間的に思った以上のことがあるんじゃないか、って心配になってきたよ。俺の知り合いに、女房に惚れる余り、いっとき家に閉じこめて問題になった奴がいるけど、その気持ちが初めて分かった、だんだん、お前に触るのも怖くなった」
「まさか」
詩草は、太夏志の片手を探って握りしめた。アルコールで火照っているはずの太夏志の手は冷たく、彼はぎくりとした。
「誤解されるようなことなんてないんです。その誤解は解けたんでしょう?」
「どうかな」
太夏志は、彼らしくない荒れた息をついた。
「お前の気持ちの中で何が起こってるのか、どうして俺に分かる?」
ここへ来て、彼の荒れ模様が、それほど根の浅いものではないことが詩草にも分かった。
「今日は、原稿のリズムが途中で狂って、だからプリントアウトを持って、エクレシアに出かけた。そんなに長い間出るつもりじゃなかった。お前を出迎えるつもりだったから」
「そうしたら、僕がエクレシアで、陽くんとお茶を飲んでいたんですね」
「駐車場側からはっきり顔が見えたよ」
太夏志は切れの長い目で詩草に視線を投げ、低い声でつぶやいた。
「俺はかっとした」
「すみません」
詩草はどうすれば太夏志の気持ちをなだめられるのか、必死に考えを巡らせた。
「森先生の診察の日は、太夏志さんはいつも待っていてくれるのに、他の人とお茶を飲んでくるべきじゃありませんでした」
「コーヒーを飲む自由くらいお前にもある」
太夏志は硬い声で、先刻云った言葉を繰り返した。
「だけどあいつは誰だ?って俺が思うのも無理はないだろう? もっと正確に言えば、俺はあいつを知ってた。晃文堂の店員で、ずいぶん前からいつもお前を見てた」
詩草はそこであっと声を出しそうになった。詩草本人は知らなかったのに、太夏志は詩草が見られていることに気づいていたのだ。陽が以前からずっと詩草を見つめていたと云ったのは、その場の気持ちの盛り上がりで云った言葉ではなく、本当だったのだ。
「俺はそのまま晃文堂に行った。俺はあそこの常客だろ? 今の店長とも知り合いだし……だから、以前的確なアドバイスをくれた店員の電話番号を教えて欲しい、って頼んでも疑われなかったし、誰のことを云ってるのかも、外見の話をしたら直ぐに分かった。二つ返事で連絡先を教えて貰えた」
「それで、どうしたんですか?」
「木谷陽は、このすぐ近くに住んでるだろう」
太夏志はポケットの中から、小さなメモ用紙を取りだした。
「お前達がエクレシアを出るのを待って、木谷陽のアパートに電話をかけた。自己紹介したら、すぐに話に乗ってきたよ。まるで俺の書く二時間ものドラマの脚本みたいな成り行きだった」
詩草は目を覆いたい気分だった。
陽に二度目に会い、一緒にコーヒーを飲んだ日、その話を太夏志にしなかったのは、確かに自然なことではなかったかもしれない。それは、十数年前に胸の中に閉じ込めた、木谷諒との一件を太夏志に詳しく話せないと思ったからだ。その程度の傷を癒せないことを、知られたくないと思ったのだ。
だが、今日、太夏志がカウンセリングの様子を知ろうと家にいるのを知りながら、ほんの少しの時間だから、とエクレシアに出かけていったのは軽率としか云いようがなかった。いずれにせよ双方、詩草の撒いた種だった。それがこんなにこじれるとは思い至らなかった。
太夏志と彼は今まで、太夏志の寛容さによって、また、詩草が万事を太夏志の都合に合わせることによって、ごく仲睦まじくやってきた。普通の恋人同士にあるような喧嘩も殆どなく、詩草が太夏志の仕事のことで文句を云い、太夏志が詩草の頑なさについてやんわりと揶揄する、その程度の云い合いがせいぜいだった。
太夏志とまじわるようになって、正確に何年になるのかは今はカウントできないが、この種のつまらない誤解で険悪になったことなど一度もなかった。
「それで? 陽君を呼び出してどうしたんですか?」
しかし、太夏志の苛立ちが事実無根のものである以上、過剰に折れて出ない方がいい、と詩草は判断した。そうかといって高圧的に振る舞える立場でもない。
「別に、何があった訳じゃない」
太夏志も、事態が大袈裟になり過ぎたことを気づいたに違いない、と詩草は思った。その証拠に、声が和らぎ始めている。
「子供の頃に、お前と遊んだ時期があることと────お前が『月光』の楽譜を探している時に手伝ったこと。その後昼食に誘ったこと……お前をどう思ってるのかも聞いたよ」
「どれも普通の話だったでしょう? 陽君の気持ちの問題以外には」
「そうかもしれないな」
「僕は彼に、太夏志さんとどういう関係か、っていう話さえちゃんとしてないんですよ。まだ本当に親しくなってないんです。コーヒーをたった二回飲んだだけで」
おそらく陽は、木谷諒と詩草の過去の話を伏せておいてくれたに違いない。と詩草は思った。
昔の木谷諒のことも、気力が湧けば太夏志だけには聞かせるべきだろう。そうでなければ、今後もどんなかたちでこじれる原因になるか分からない。
「彼が『木谷くん』の従兄弟でなければ、陽くんも僕に話しかけたりしなかったと思いますよ」
なだめるように云い足すと、太夏志は顔を上げた。アルコールには並はずれて強い太夏志の目が赤らんでいる。まだ夕方だというのにどれだけ飲んできたのだろうか。
「従兄弟ってどういうことだ?」
「陽くんは話さなかったんですか?」
詩草は目を瞠った。
しかし、考えてみれば納得の行く話だ。
木谷陽も、何をどう話せばいいのか分からなかったのだろう。そこに計算があったかどうかは分からない。だが、陽は詩草の身に、一年前起こったことさえ知らないのだ。太夏志が詩草の幼少期に傷を与えた「木谷くん」について漏れ聞いていたことも知らない。
「木谷陽は、お前がいつか話してた『木谷くん』じゃないのか?」
「その従兄弟ですよ。名字が一緒だから混乱したんですね。僕が太夏志さんに話した人は僕より年上だったし、今日太夏志さんが会ってきた陽くんは、僕より年下です。近所に住んでたこともない。性格も何もかも違う、まるで別人なんです」
「そうだったのか……」
太夏志は椅子にもう一度深く沈み込んだ。
「そういえば、ずいぶん若いとは思ったんだ……お前から聞いた話とイメージも違ったし」
「そうでしょう」
詩草はほっとして肩を落とした。
「そんなに飲んでくるなんて、陽くんは太夏志さんに何を云ったんですか?」
「特別なことじゃない。色々な話をお前が木谷にしたいと云われた、それがひどく嬉しかったと云ってたな」
太夏志は、深井息をついた。
「水を一杯くれないか」
詩草は、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、グラスになみなみとそそいだ。太夏志の頭が冷え始めたのは分かっているが、もっと酔いを覚まして欲しかった。
「お前は普段、自分に惚れた相手に、色々話したいなんて云わないだろう?」
「そこが、陽くんの不思議なところだと、僕は思うんです。でも、彼の気持ちに応える気はまったくありませんし、彼にもはっきりとそう云いました。決まった人がいるから、と」
「……ふうん」
太夏志の気分が、少し持ち直したのを感じて、詩草は言葉を探した。もう少しダイレクトに訴えかける言葉が欲しかった。
「陽くんは……彼をファーストネームで呼んでいるのは、彼の従兄弟と区別をつけるためでもありますし、昔そう呼んでたからでもあるんですけど」
詩草は、一息ついた。
「陽くんは、太夏志さんは何でも持ってるような人だと云ってました。その時僕は、太夏志さんは物質的なもの以上に多くのものを持ってる、と応えました。ご馳走様、と云われてしまいましたよ。僕の富める王様には、感じ入って貰いたいですね」
太夏志は、詩草のついだミネラルウォーターを底まですっかり飲み干した。そして、それをサイドテーブルに置くと、自分の隣にかけた詩草をまっすぐに見つめた。その目に酔いの名残は残っていたが、ついさっき詩草を驚かせた、荒れた雰囲気はもうなかった。
「勝手に苛ついて、悪かった」
「僕も、陽くんの話をしていなくてすみませんでした」
太夏志は、詩草のうなじを静かに抱え寄せ、自分よりだいぶ体温の低い額に、酔いと興奮で熱くなった額を押しつけた。
「仲直りだな」
「僕たちは喧嘩でもしてたんでしょうか?」
覚えがないな、とつぶやくと、唇が重なってきた。朝、森との面談に彼を送り出した時に太夏志が彼に寄越した、ほんの少し触れただけのよそよそしいキスではなかった。
この数日間、彼が自分に触れなかったのが、陽が原因などとは思いもしなかった。そして、太夏志以外の人間を、殆どシャットアウトして生活してきた数年間に、ほんの一人の人物を個人的に迎え入れただけで、これだけの誤解を招いたということに空恐ろしさを感じた。
酒と煙草の匂いのするキスではあったが、その深さはやはり詩草を酔わせ、うっとりと背中をとろかした。太夏志の指が、彼の肩や背筋をゆっくりと辿り始める。それはこの数日間詩草に訪れなかった、馴染んだ愛撫の手順だった。
「太夏志さん……仕事が途中だったんじゃないですか?」
唇がほどけた時、彼は自分の息が濡れていることに気恥ずかしさを覚えながら、ささやいた。
「何とかなる」
「それに、僕は丁度汗をかいて、シャワーを浴びようと思ってたところだったんです」
「仕事もシャワーもどうでもいいよ」
太夏志は、詩草の前髪をそっとかき上げて、そこに静かなくちづけを落とした。
「一緒にベッドに行ってくれる?」
どちらかと云えば強引な誘い方をする太夏志だが、時々こうして、詩草の気持ちを伺うような云い方をする。そういった優しさが、詩草をより陥落させやすいことを心得ているのだろう。
詩草はかすかに笑った。
「……喜んで」
そんな誘いの言葉には、こう答える以外にどうすればいいと云うのだろう。
その日、太夏志は優しかった。
彼の愛撫は元々乱暴なものではなく、技巧的な力強さこそあれ、彼を力で屈服させる類のものではなかった。だが、今日の優しさは格別なものだった。不当に感情を荒立ててしまったことを埋め合わせるように、それが言葉の代わりだとでも云うように、裸にした詩草の身体を優しく執拗に唇で辿った。元々彼は詩草の身体を神聖なもののように扱う────今日は特に、長い間それから引き離されていた神父が、聖書を扱うのに似た、慎重な手並みだった。
その連想にセクシュアルな要素が組み合わさることによって、詩草は陶酔にもだえながらも、後ろめたさを含んだ羞恥を感じた。
太夏志の手と唇は、優しく、繊細に動く。だが、それの引き起こすものはどうだろう。たまらない熱だ。鋭さと甘い痛みだ。太夏志は彼の胸の上に尖る突起にキスし、肋骨の上を薄く盛り上がる筋肉にキスし、下腹に、そして、欲望の根本をたくわえたふくらみをさすり、電流のような痺れを下肢に巻き起こした。やがて太夏志は、自分を受け入れる入り口に唇で触れた。
それは、詩草が羞恥と嫌悪のいりまじる感情から、普段は拒む行為だった。シャワーを済ませていない自分の身体を、そうしてさらけ出すのを嫌がる詩草の太腿の内側を、太夏志は静かに撫でてなだめた。
「いいんだ、お前も、いつも完璧でいなくても」
その部分を入り口に変えるため、舌が動くたび、身体をびくつかせる詩草に、太夏志はささやく。
「お前は、俺にとって自分がどれだけの相手なのか、分かってないんだ」
「そんなのは、全然別のことです」
するりと、自分の頬を涙が流れ落ちるのを感じる。
「大切に思ってくれているのは、知ってます────」
詩草の身体を押し広げて愛撫をほどこす太夏志が、どこか食い違った会話に笑うのを感じる。その食い違いをただすゆとりなどなかった。身体中のあちこちが充血によって敏感になり、愛撫された唇の軌道や、加えられた作為の強弱を全て同時に思い出せるほどだった。
頬を滑り落ちた涙がシーツに染みこみ、詩草は震える手を上げた。
ようやく涙を拭う。
自分の中で、快楽と涙が切り離せないことを不可解に思う。それはまったく生理的な涙だったが、詩草にはそれは自分が彼に屈服している証のように思えることがあった。
しかし、そんなことさえ今は甘いものに思えた。
太夏志の指が、そっとうるんだ部分に入ってくる。その優しさに屈服することなど、どれほどのことでもないように思えたのだった。唾液と充血した腸壁で甘いぬかるみに変わった部分から、指は容易に、男だけの持つ生殖器の存在を探り当てる。過敏なその場所を知り尽くした指は、ゆっくりと痛みと快楽の中間のような刺激を、彼に送り込んだ。
思わず、太夏志の肩に爪を立てる。それほど力を入れたつもりはなかったのに、かき傷を作った感触があって、詩草は驚かされた。そして、自分の右手の中指の爪が、一本だけうまく切れずにいびつになっていたことを思いだした。
彼の肩に新しい傷を作らないよう、詩草はその手を握りしめた。
そして、涙と快楽と、くちづけと愛撫とで構成された淫らな編み目の内側へ、手を引かれるだけではなく、自ら溶け込んで行った。
「今日は、ほんとに莫迦なことをしたな、俺は」
服に袖を通しながら、太夏志はぽつりとつぶやいた。もう酒もすっかり抜けたようだった。その代わり、部屋には男二人の体臭に加えて、酒の匂いが立ちこめている。
詩草は、起きあがれないまま、太夏志の広いベッドの上にあおのいて、けだるく自分の額の汗を拭いた。今度こそシャワーを浴びたいが、すぐには動けそうになかった。
「僕は、太夏志さんは間違いなんておかさない人だと思ってたことがあります」
彼は、自分の声のかすれを面映ゆく思いながら云いだした。
「知り合ったばかりの頃……ほんとに太夏志さんは何でも知ってて、行動に迷いがなくて、人間離れした人だと思ってました」
「過去形になって光栄だよ」
「そんな風に思ってた頃より、今の太夏志さんの方が、ずっと好きですよ」
一息に云うつもりだったが、自分でも意識しない照れがはたらいたのか、声が途中で少し途切れた。
「それは」
太夏志はかすかに笑い、詩草の濡れた頬を指で拭い取った。
「本当に光栄な話だ」
実のところ、今でも詩草は太夏志をそう思っている部分がある。だが、そこに一抹の人間味が加味されたという感じだろうか。
「莫迦なことの一環だけどな」
太夏志は、カーテンと部屋の窓を開けて換気し、網戸を閉めた。爽快な風が吹き込んできて、詩草の汗に濡れた体を優しく撫でた。シャワーへの強力な欲求を感じているにも拘わらず、うとうとと眠ってしまいそうになりながら、詩草は太夏志の言葉に耳を傾けた。
「お前、木谷陽と酒は飲むなよ。あいつは滅法強いんだ。エクレシアに呼び出して、最初はカクテルなんかを飲んでたんだけど、最後はもう水みたいにイタリアワインを飲み出して、結局、二人で何本空けたっけな……俺の方は足に来ないようにするのが精一杯だったのに、あいつはジュースを飲んだみたいに涼しい顔してたよ」
「若さかもしれませんよ」
少しこの流れに揶揄をまぜこみたくなった詩草は、ようよう起き上がりながら云った。
「陽くんは、太夏志さんよりたぶん一回り近く若いんですから」
「若さだけで、あの重いワインをごつごつ飲めるかよ。とにかく、あいつとは酒を飲むな。昼のコーヒーくらいにしておいてくれ」
コーヒーはいいのか、などとは詩草も尋ねなかった。それが、太夏志の意識的な譲歩であることに気づいたからだ。
「そうします」
そうして、詩草は、乾いたシャツに包まれた太夏志の背中を後から抱きしめた。今日は妙に長い一日だった気がする。森に会うだけでもプレッシャーがかかるのに、そこに陽が加わり、そして太夏志の誤解が重なったのだ。
「ドラマティックな日でしたね」
今日は莫迦なことをした、という太夏志の言葉に答えるようにかすれた声でそう云うと、太夏志は背中越しに微笑った。そして、
「いやというほど感じ入った。こんなのは小説だけのことにしておきたいよ」
そう答えて振り向き、頬に残る涙の筋に、柔らかく唇を押しつけた。
了