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「翡翠、有限────花序って何かな?」
窓の外を見晴らすソファに、小さな背中を埋めた煉が振り向いた。その時、翡翠は彼に向かい合ったもう一つのソファに座り、壁の液晶パネルを眺めていた。そこにいながらにして夢を見ていたのだ。五十インチのパネルは、スイッチさえ入れれば、衛星から取り込んだ高画質の風景映像を二十四時間映し出すことが出来る。そのチャンネルの映し出すのは現存するものだけではなかった。今では地上に見出すことの敵わない、尊い文化遺産や、失われた自然の風景、有人宇宙船計画に行き詰まった人類にとって黄金同様の価値を持った、月や火星の古い映像も配信されていた。この広い部屋に座って、どうやって時間を過ごせばいいのか分からなくなるとき、衛星放送や書物は、翡翠をつかのま遠い外界に連れ去ってくれる、儚く美しい架け橋になるのだった。
「有限花序?」
煉の唇からたどたどしく漏れた言葉を翡翠は繰り返す。
翡翠が画商ニル・アドミラリの東京のアパートメントに引き取られ、それと同じ日、雪の中に倒れていた煉を見出してから、丁度一年経った。
半年前に京都の教育施設に入学し、特別プログラムの許に学んでいる煉が、初めて翡翠のアパートに帰ってきたのだ。
「花序は、花が茎に付くことを云うんだと思うけど、有限花序というのは分からないな」
翡翠は、躊躇いながら煉の座るソファのそばに近寄った。彼は未だに、他人(それは自分以外の人間という意味であって、親しさの度合いを示す言葉ではない)に、自分の身体を近寄せることに抵抗を覚える。それどころか同じ部屋にいることにもおそれを禁じ得ない。
自分の存在が相手を害することへの恐怖は、どんな迷信よりも深く、十七歳の少年の心を蝕んでいた。翡翠がその危惧を忘れて傍にいられるのは、皮肉にも彼を買った男────ニル・アドミラリだけだった。
煉は、一年前には読むことも出来なかった筈の厚い本を、トランクいっぱいにつめて、小さな身体でそれを引きずるようにして帰ってきた。
「こんなに本を? 荷物を送ればよかったのに。京都からなら半日で届くだろう?」
額に浮かんだ汗を擦って、トランクの中の荷物を取り出す煉にそう云うと、彼は首を振った。
「大事な本だから、送りたくなかったんだ」
そう云いながら、煉は、本の表紙をてのひらで優しく撫でる。その手は、半年前に送り出した時よりもほんの少し大きくなっているようだった。
「本の中に、こんなに沢山の世界が詰まってるなんて知らなかった。言葉から世界がずっと奥の方に、上に、下に広がっていくんだ。コンピュータとも似てるけど、コンピュータの世界の広がりは、青くて暗いだろ? でも、本から広がる世界は宇宙までつながってて────星でいっぱいの夜空みたいなんだ」
十歳の子どもにしては痩せた頬に赤みがさした。背丈は少し伸び始めたが、煉は、同年代の裕福な子どもの多くがそうであるように、頬にふっくらとした肉付きを見せなかった。
京都から、映像付きのメールが何度か送られてきたが、モニタのカメラの前で訥々とメッセージを読む煉の頬は、実際に見るよりもなお影が深く見えて、翡翠を不安にさせた。
未開の星空への憧れに、頬を上気させる煉は年相応に見えて可愛らしい。それと同時に、今まで教育を受ける機会の無かった煉が、たった一年で、書物を通して現実を飛び立って行く感覚を身につけたというのは驚くべきことだった。コンピュータ世界の深部が青く暗いという感覚は、翡翠にはぴんと来ない。彼は、オペレーションシステムの繰り出す、利便的で華やかなコンピュータの画面しか思い浮かべることが出来なかった。
きっと、煉はその鋭敏な感覚を足がかりにして、更に上空に向かって飛ぶだろう。彼は翡翠とは違って、ひと所に縛り付けられる必要がない。自分がその役に立てることを、翡翠は意外にも、嬉しくも、そして幾らかは寂しくも思った。
本の向こうに見つけた夜空に向かって釣り糸を垂れる幼い子ども。
やがて彼が星を釣り上げた時、そのてのひらに光るまばゆいものを自分は正視出来るだろうか。
嫉妬せずに済むほど彼を愛せるだろうか。
翡翠は自分の中の矛盾に気づいた。自分は煉を想うべきではないのに、何故煉への嫉妬を警戒する必要があるだろう?
翡翠が彼を想う気持ちが薄いほど、煉の幸福は濃くなってゆくだろう。毒を含んだ空気を吸わずに済んだ人の、すがすがしく呼吸する健康な肺のように。
「わたしたちは、生存競争の汗と共に、天を目指す木々からフィトン・チッドを受け取ることができる。わたしたちは、自然の驚異に頭を垂れるのと同時に、頂端に花をつける有限花序のように、頭をもたげて世界の一員であることを、誇りに思うことが、出来る……」
煉は、隣に座って本を覗き込んだ翡翠に、ゆっくりと、時々はつかえながら自分が理解出来なかった言葉の一節を読んで聞かせた。それを聞いても、翡翠は有限花序の意味が分からなかった。
「辞書を引いてみる」
煉は、薄いパネル状の辞書を引き出してきた。買い与えた時にかかっていたビニールの薄いシートがまだかけられたままだった。端が少しめくれてはいるものの、ぴったりと機器を覆ったビニールシートは、煉がそれをいかに大切にしているかの象徴のようだった。煉は、慎重に辞書の蓋を開け、手慣れた様子でキーワードを打込んだ。
「有限花序……花茎の頂端にある花がまず開き、次第に下方の花が開いてゆく花序。軸の先端、または中心に花がつくため、生長が限定される」
音読する煉が「軸」という漢字で引っかかったのを、翡翠が傍で補足してやる。
「先に花が咲くと、成長が限定されるってどういうことなのかな?」
煉はいぶかしげな目で翡翠を見上げた。
「花が咲くと、その花の茎が、それ以上は伸びていかない、っていう意味じゃないか?」
そう答えると、煉は口の中で小さくその言葉を繰り返した。
「花が咲くとそれ以上は伸びない────それって、生き物として、上とか下とかいう問題じゃないんだよね?」
翡翠は、見当のつかない植物学の中に放り込まれたことに戸惑いを感じながら肯いた。
「たぶん。その本の作者が有限花序を誇り高い、と表現したのは、花を咲かせて成長を止める植物の軸を、潔いと捉えたからだろうね。でも、それは抽象的な表現であって、生き物としての優劣を表す、生物学的な表現だとは思わないな」
煉は、小首をかしげて何かを考えているようだった。甘い色の瞳が、まばたきで何度か隠される。
「僕は────そういう『抽象的』と『嘘』と『本当』の区別があやふやなんだけど」
彼は恥じるようにそっと、ゆっくりと云った。
翡翠に手紙を書くようになってから、煉は自分の一人称を、やや荒っぽく少年らしい「俺」から「僕」に改めていた。翡翠はそれに気づいていたが、特に触れることはしなかった。自分をどういう風に呼んでもそれは煉の選択だと思ったからだ。
「沢山本を読めば、区別がつくようになるかな?」
小さな身体が、翡翠にもたれかかってくる。痩せてはいるが熱い翡翠の身体にもたれると、煉の骨張った冷たい身体はいかにもよるべなく思えた。まるで戸外で木枯らしに吹かれて凍った小枝のようだった。しかしその手足が春を待っていること。今にも桃色の花を吹き出しそうな成長期にあることを、翡翠は気づいていた。きっと彼の背は伸び、程なく知力は翡翠を追い越すことだろう。
「『抽象的』の中にある、ええと……詩、みたいな部分……それが分かるようになるかな?」
知能テストの結果で、センターの教官達を歓喜させた子どもは、そんな云い方をした。
「詩?」
翡翠は、自分の身体の熱で幼い手の冷たさをのみ尽くしたい思いで、煉を抱き寄せた。
「煉は分かってるよ、もう。でもきっと、読めば読むほどその境目がよく見えるようになると思う。『抽象的』と『嘘』の境目も、本当の詩とうわずみの詩の区別も、煉ならきっと分かるようになる」
煉は、自分を抱く翡翠の背中におずおずと腕を回し、柔らかな力で巻き締めた。
「僕には一生あやふやなものも、煉にはいつか、きっとはっきり見えるようになると思うよ」
煉の髪に唇を寄せる。安心しきったように翡翠に身体を預けた煉の髪からは、かすかに子ども特有の甘い汗の匂いがした。この煉が、そして、神戸の病院で難病と闘う弟が、翡翠を、際限のない虚無感から救っているのだった。
彼等がいなければ翡翠は死んでいるのも同じ存在だった。むしろ死んだ方が誰のためにもいいのではないかと思う。だが、翡翠によって生きる者がいる限り彼は呼吸することが出来る。ようようでも吸息と呼息を交互に繰返し、肺胞内の換気を行って、生物学的にも、抽象的な意味でも生きていける。
あの、黒髪の男の冷たい腕に抱かれ、苦しい涙を飲み下した後でも一人で部屋に戻り、また明日を迎えようと思えるのだった。
有限花序。意味の分かりにくいその言葉を翡翠は反芻する。
頂端に花をつけ、成長を止める植物の花軸。
花軸の頂点に咲く花は一輪のみだ。その高さをもって有限を作り出す。
今、煉にそれは生物としての優劣ではないと云ったばかりだが、己の花の位置を最高の頂きと定める一輪の花の存在は、どこか人間社会のヒエラルキーを連想させた。頂点に立てなかった者が開花する時は、「有限」の下方に側枝を伸ばし、花をつけるしかないだろう。
そして、集団の頂きに立つ者、と云われれば、翡翠は当然、あの黒い瞳の男の在り方を思い出さずにはいられなかった。
煉が来ているときに呼び出すことはないだろう、と思う。翡翠がニル・アドミラリの許に出かけることを知った煉は、必死に機嫌良く振舞おうとしていた。そのいたいけな虚勢に感じる愛しさを、翡翠は自分の胸の中でどう処理すればいいのか分からない。
ともあれ、そんなことに情けをかける男でないことは、一年前の雪の夜に二人とも分かっていた。
今日の男は、権勢を戯画化したような、あの威圧的なリムジンに乗ってはいなかった。運転手を使わず、自分の手でハンドルを握り、強烈で柔らかなスタッドレスタイヤを履かせた白い車で、灰色の雪の中をやってきた。排気ガスをゆるやかに雪つぶての中にたちのぼらせ、翡翠がエントランスホールから出てくるのを待っていた男は、彼が助手席側のドアを開けようとすると、それを押しとどめ、腕を伸ばして内側からドアを開けた。
「ドアハンドルは凍るようだ。触れない方がいい」
慰撫するようなやわらかな声に翡翠は慰められまいとする。翡翠のてのひらの冷たさを思い遣るのが男の優しさなら、半年ぶりに会った煉を残して家を出るようなことをさせる筈がない。彼はおそらく、自分の手に入れたものをすべからく損なうまいとしているのだ。ギャラリーや私邸に所蔵する油彩画を、光や酸素、乾燥から守り、黄変やひび割れを防ぐことと同じようなものなのだろうと翡翠は思う。
一年前に翡翠の手を取り、ドアハンドルの認証装置に掌の静脈パターンを読み込ませたのと同じ手で、男はドアを内側に閉じ去り、翡翠を自分と同じ空間に封じ込めた。アクセルを踏み込んで、なめらかに車を発進させると、ニル・アドミラリはどこへ行くとも云わずに、街道に滑り込んで行った。翡翠もまた、行く先を問わなかった。いずれにせよ、自分は彼の行きたいところへ行き、彼の望み通りにするのだ。ロシアンセーブルのコートと、男の車の柔らかなシートに包まれていても、身体が段々に冷えて行くようだった。
今日、自分のこころがささくれだち、奇妙なほど彼に反発していることを、翡翠は不思議に思った。
いつもの彼の心情はむしろ諦めに近いものだった。諦め。依存。畏怖。そしてニル・アドミラリがただ優しかったと信じた時、自分がつかのま味わった熱くあたたかいものをもう一度掴みたがっていた。父の死後、悪夢のような日々を過ごした翡翠にとって、ニル・アドミラリが差し出したものはそれだけ稀少だったのだ。あれは夢であり、幻であり、最初からなかったのと等しかったのだ。そう思って諦めようとした。だが、翡翠のこころは何度もその地点に還って行く。落ちて行くと云ってもいい。決してはい上がれないスロープがそこに出現して、何度登っても滑り落ちて行ってしまうようだ。
男の意図を悟ったときの衝撃を翡翠は忘れない。見出したと思ったあらゆる熱意が空回りし、生まれたての星のようだった希望が冷えて固まって行くのを、彼は茫然と眺めた。
好意が欲望を伴ったものだったからと云って何が違うのか?
それを自分に問いかけてみても答は出ない。ただ、両者は歴然として別個の存在であり、その事実が翡翠を憂鬱な気分の淵に沈ませるのだということだけは確かだった。
ニル・アドミラリに抱かれることが辛い訳ではない。少なくとも物理的には。彼は成熟しきれない翡翠の身体を開くのに充分な技巧を備えており、常に紳士的だとさえ云えた。だが、それでいて、決して双方の合意の上に成り立つ関係ではない。翡翠は決して彼にNOと云えない。男が、権勢や暴力を振りかざさないことが、翡翠には尚更こたえた。
────莫迦だな。
自分を内心笑う。自分はこれだけ、傷ついた人、死んで折れたむくろに変った人を沢山見てきたのに。それでも、暴力をふるわれた方が精神的に救われる、などと思っているのだ。自分の意思で選んだのではないというそれだけの理由で。だが、それは見当違いと云うものだった。望まずに男と寝なければいけないのなら、暴力的に振舞われない方が救いだ。男が自分に麻薬や酒を与えようとしないことは幸いだ。男が暴力と無縁の生活ではないのに、それを自分に誇示しないのもまた、幸いだ。ただし翡翠の幸運は、いつも彼の救いになる形ではやってこない。幸運は人を幸福にはするものとは限らない。
「少しだけ下りてみないか」
そう云われたのは車が走り出して一時間半後だった。自分の内側に籠っていた翡翠は、景色もろくに眺めていなかった。この雪の中では前方も、車窓の外を流れて行く景色も白灰色のものにかき消されて、見えるものはそうそうない。それでも前方を眺めていれば、ワイパーで拭われた扇形の視界の中に、雪と灯りに照らされた町並みが見えた筈だった。
「ここは?」
「ダムだ。わたしたちは、東京の大分西に来ている。古いダムだが、何度も大がかりな補修を施されて、東京に水を供給し続ける、国内で最大規模のものだそうだ」
ニル・アドミラリは、先に車を降りて、ドアを開ける翡翠に傘をさしかけた。降りつむ雪で視界は悪かったが、広々とした道路のような場所に車が止っているのを知った。
「ダム、ですか?」
翡翠は目を凝らした。元々彼は視力には余り恵まれていない。天には雪、足許には雪、彼等をとりまく視界の全てが雪だ。その中を真っ直ぐに貫くようにして、コンクリート敷きの道が伸びている。分厚いコンクリートの欄干と鉄の手すりが、道に沿って続いていた。欄干の向こうには黒く深い谷が穿たれており、そこに音もなく雪が吸い込まれていた。
「ここは堤体……ダムの頂上だ」
ニル・アドミラリは翡翠を自分の腕の中に抱き込むようにして、薄く雪の積った道の上に連れ出した。
「覗いて見るかね?」
翡翠は、薄い手袋をはめた大きな手に肩をしっかりと支えられたまま、男の顔を見上げた。何故男が、覗いてみるか、と自分に選ばせるのか分からなかった。ここで首を横に振れば、彼がここに自分を連れてきた意味はなくなるのではないのだろうか? この男はいつもそうだ。実質的に強制であっても、選択肢を与えることで、翡翠はそこに自分の意志がはたらいているような錯覚を与えるのだ。
翡翠は自分の肩と腕にかかった男の指の力を感じながら、指し示された、欄干の向こう側の暗い空間を覗き込んだ。
その瞬間、風と闇と傾斜が静かな烈しさで翡翠を捉えた。
翡翠には高所を怖がる性質はなかったが、しかし、彼の覗き込んだ堤から続く凍った傾斜は、雪と風にも冷えなかった背中に、にわかに鳥肌を立てた。
翡翠はぞくりと体を震わせた。
「百五十メートルの斜面だ。ビル五十階分の高さがある」
男のゆるやかなささやきが、温かい息と共に翡翠の耳元をくすぐった。
それは斜面とは云え、高さの余りに殆ど九十度に近い角度に見えた。彼等の立つ堤体の上から、浄水設備や、小さな副ダムが下方にかすんで見える。雪の中でそれは余りにも遠く見えた。血の気の引く高さだ。妙な感覚だが、高さ故に、はるか彼方に見える谷底がせり上がってくるように思えた。
高層化の一途を辿っていた東京は、大災害以降、徐々に高層建設から低層への移行を始めた。
京都からやってきたばかりの翡翠は、東京では余り高い建物に入ったことがなかった。ましてやすぐに飛び出してゆけるような足許に、これほどの高さを感じたことは一度もなかったのだ。堤防は堅牢であっても、雪と風とに揺すぶられながらそこに立つ自分達の体は、頼りなく小さなものであるように感じられた。
翡翠の伸びかけた髪の先が頬を撫で、小さな痛みを生む。翡翠はその髪をかきあげたが、彼の柔らかな髪は、繰り返して指先から逃げた、
ニル・アドミラリの、翡翠の肩を支えた指の力が一瞬増したことに彼は気づいた。男は、自分がここから飛び込むとでも思うのだろうか?
確かにそこに在るのは吸い込まれるような高さ。次々と落下してゆく雪片の流れに助長されて、まるで追い立てるようにして上から下へ、飛ぶことを要求するような高さだった。
だが、男はそうは思わないかもしれないが、翡翠は決して飛ぶことはない。飛ぶ幻は頭の中をかすめる。だが、彼には這いつくばってでも生にしがみつかなければならない理由があるのだ。
「ここから下を見下ろすと、高さのことしか感じなくなる」
男は、静かにゆっくりとそう云った。雪風の中で男のさしかける傘の骨の先から、とけかけた雪交じりの滴がしたたり落ちる。それは、翡翠の履いた革靴の先に落ちて、いびつな涙のように広がった。コートの毛皮が雪を弾き、銀色のビーズのような丸い滴をびっしりとつけていた。
「新しい考えを取り入れようとするとき、頭を空にする必要に迫られることがある。だが、頭を空にするということは案外に難しいものだ。疲れや空腹感、見聞きした出来事の記憶、おろそかにしている現在、精算出来ない過去、自分や他人が蝕む一方の未来。全てが、心の中にとどまって邪魔をする。そういう時は、こういう風景を見るといい。たった数分間のことだけでいいんだ。高さと自分だけがそこにある。それだけで心の表面に出来たいびつな凹凸を掻き削ぐことが出来る。もっと高い場所も幾らでもあるが、わたしにとっては、この高さが人工のものだということが、むしろ意味深い」
翡翠は肯いた。
まさに、男の云った言葉のような気持ちになっていたからだ。
「空に、なりました、一瞬」
翡翠はささやいた。車の中でこころをもやもやと巻きしめていた男への反発は消えていた。もう、煉を残して部屋を出なければならなかったことにくすぶる憤りもなかった。
世界をよく切れるナイフで削いだような、圧倒的な斜面から、翡翠は目を逸らした。
心の中が、疾走した後の疲労感のようなものに充たされているのが分かった。たった一、二分、ダムの堤から斜面を見下ろしたことが、自分から葛藤を取り去ったことが不思議だった。それが自分に必要だったことを、何故ニル・アドミラリは知っていたのだろう。だが、翡翠は苛立ちが消えたことへの自覚を、男に伝える言葉を持たなかった。
「人がいる時より、こうして天候の悪い時を選ぶ。今日はうってつけの雪だ」
ニル・アドミラリは、翡翠の肩をとらえたままで一歩下がった。
「こんな日に連れ出して悪かった」
思いがけない詫びの言葉に、翡翠は首を振った。
「いえ────ここを知っていれば、来たいと思っていたかもしれません」
自分の足で来られる場所でない以上、それは無論、他人────ニル・アドミラリの意思に任せるしかないのだが。
その時翡翠は、厚いコートに包まれた自分とは違って、ニル・アドミラリが、ダークグレイのウールのスーツを身につけただけだということに気づいた。寒さから身をかばうような仕種を男が全く見せないので、翡翠は彼がこの雪の中で極端に薄着であることに気づかなかったのだ。
「寒くないですか」
風に息を奪われそうになりながら尋ねると、男は、肯定するとも否定するともつかない、薄い笑いを唇に刷いた。
寒くない筈はない、と翡翠は思う。今日、指定した時間に自分が車を回すのを待つように、と連絡してきた時、ニル・アドミラリは翡翠の着るコートのことにまで言及した。
────ゴールデンセーブルの丈の長いコートを持っていただろう。あれを着てくるといい。今日は殊更に冷えるから。
受話器の向こうで、男はそれを買い与えたのが自分だということをおくびにも出さない。低く静かな声でそう云った。ただ、それが翡翠の部屋のクローゼットにかかっているのを偶然知っているというようなさりげない調子だった。
袖を通すのに気後れするようなその豪奢で柔らかな外套の中で、雪のふりしきる湖水の傍でも、翡翠の体はあたたかく守られていた。それはとりもなおさず、この男に守られているのと同じことだった。翡翠は白い息を細く吐く、自分に傘をさしかけた男の顔を見上げた。
「どうした?」
男の声と一緒に、凍った息が羽毛のように雪の中に散った。
ふと、自分の指に衝動が走り抜けて、翡翠は驚いた。それは、煉の細い体が自分の隣に座った時、腕に、胸に走る衝動と極めて似たものだった。相手を抱え寄せ、自分の持つ体温と声、腕の力を用いて包み込みたいと思ったのだ。目の前に雪のしずくと共に立っているのは、庇護すべき子どもではなく、自分よりずっと背の高い男だったが、その体は氷のような冷気を放って、細く黒く整って、苦しげだった。
だが、翡翠は彼を抱き締めることは出来なかった。ささやかな自由への渇望と、かぼそい誇りが、ニル・アドミラリの胸に自分の体を投げかけるのを踏みとどまらせた。
だが、男に全く触れずにいることも翡翠には出来なかった。噛みつくような冷気にとりまかれていながら、コートの中の翡翠の身体はむしろ燃えるようだった。心臓の鼓動がわずかに早くなる。冷えた身体にその体熱を分け与えたいという望みは、さざ波のような衝動になって彼の腕から指先まで温かく痺れるように循環した。
翡翠はそっと手を伸ばし、綺麗に髭をあたった、男のなめらかな顎に触れた。驚くような冷たさが彼の指に伝わってくる。その冷たさは死を思わせた。翡翠は息を詰める。彼は命を失って間もない、まだ温かく柔らかな「死」にも触れた。硬く横たわってまぶたを閉じ、胸の前で手を組み合わせた「死」にもまた触れた。彼に向かって黒い傘をさしかける男の頬の、しなやかな冷たさは、今まで翡翠の見知ってきた二種類の死が融合したもののようだった。
だが、頬の下でかすかに歯列が噛みあわされる動きが伝わってきて、それが死者の皮膚ではないことを彼の指先に証した。
形のよい顎の下で歯を食いしばるような動きを見せたニル・アドミラリは、自分の頬に触れた熱い、痩せた翡翠のてのひらの上に重ねるようにして自分のてのひらを重ねた。手袋の革がひやりとして翡翠の手に重なる。そして雪の降りしきる空間の中で、影のように立った男は、傘の下で身をかがめた。
影が覆い被さってくる。
翡翠の唇に、氷のような感触が触れる。
と、思うと、それははっとするようなあたたかい息と舌で、翡翠の薄い舌を絡め取った。
合わさった唇の内側で起こること────男に教えられた手順通りに、それは反射的と云ってもいい従順さで、翡翠の唇は開き、自分に雪崩れ込んでくる感触を受け止めた。自ら唇を開いたというよりは、唇に意志を譲渡してしまったようだ、と翡翠は思う。
なじんだ手順でありながら、男と濡れた内側を触れ合わせることには、いまだに躊躇いがある。だが、唾液がにじんでくることをコントロール出来ず、それが喉の奥に向かって流れこんでくることに、もう嫌悪感は感じなかった。そこには甘ささえあった。濡れて触れ合った粘膜同士は境目が曖昧になる。横に、奥に濡れて滑った瞬間にだけ、ざらざらとした表面の感触を味わい、そして今唇の奥にあるものが、自分の舌でないと知るのだ。
唇がそっと離れてゆき、は、と翡翠は息を吐き出す。自分の喉から漏れだしたその息が、甘く濡れていることに気づいて、彼は思わず目を開けた。頬に熱気が昇ってくる。
すると、間近で黒い睫毛がひらき、男がやはり目を開いたのが見えた。黒いダイヤモンドのようなかすかなきらめきが現われた。かと思うとその瞳は数回しばたたき、二人の唇から漏れる白い息で、絡み合った視線は二つに隔てられてしまった。
「車に戻ろう。……君が冷えてしまう」
翡翠は少しふるえる手に力を入れて握りしめ、男の言葉に肯いた。
エンジンをかけたままだった車に、彼等二人は雪に湿された身体で戻った。翡翠は、あたたかな車内のナビゲートシートに背中を預けながら、キスの余韻が自分の中で燃えていることをいたたまれなく思った。しかし、今朝、雪の窓の傍で、美しい映像を映し出すスクリーンを眺めて鬱屈していた気持ちは拭い去られていた。
今はただ新鮮に煉に会いたかった。自分が鬱屈していたことに気づかずにいるよりも、ずっと、煉の休暇を優しく迎え入れることが出来るだろう。
それがニル・アドミラリに与えられた時間のためだということは、翡翠を複雑な気分にさせる。だが、ニル・アドミラリの存在は彼を戒めている代わり、今となっては、歩く方向を定めてくれる指針であり、翡翠の迷いをなだめる絶対者だった。
父の書斎にあった本に、翡翠はこういった一節を見出したことがある。
────『神が存在しないとすれば、われわれは自分の行いを正当化する価値や命令を眼前に見出すことは出来ない。
われわれは逃げ口上もなく孤独である。
そのことをわたしは、人間は自由の刑に処せられていると表現したい』※
「ありがとうございます」
小声で翡翠はつぶやいた。
ニル・アドミラリがいる限り、彼は『自由の刑』から逃れていると云えるのだった。
出来れば、自分が何について礼を云ったのか、男が聞き返さないことを望んだ。
そして、それは望み通りになった。
幾ばくかの沈黙の後、ニル・アドミラリは車を発進させた。彼はただ数分間、あの無条件な高さを翡翠に見せるためにここにやってきたのだ。あるいは、男自身も、心を空にする必要があったのかもしれない。それを尋ねることがない以上、翡翠はそれを知ることはないだろう。ただ、ニル・アドミラリが自分の礼を受け入れたことで、おそらく今の数分間が、翡翠のためでもあったのだろうということは察せられた。
「もし、ここの風景が気に入ったなら、五月にまた来よう」
ニル・アドミラリは、感情を見せない、よどみのない声で云った。
「湖畔に一万本の桜が咲く。名所だそうだ。わたしは桜の季節にはここに来たことはないが────」
翡翠は肯いた。そして、ハンドルを握る男が自分が肯く様子を見られないことに思い至って、はい、と低く応えた。そして桜の花の連想から、煉と交わした会話をふと思い返した。
「ミスター。有限花序というのがどんな花なのか分かりますか?」
「有限花序」
静かに返されたため、彼はそれに付け加えようと言葉を探した。
「軸の先に、一つだけ花が咲いて、そこで成長を限定してしまう、と辞書には書いてありました。でも、僕にはそれがどんな花なのか具体的に分からなくて」
「君の云っているのは単頂花序のことだろうな。有限花序にも色々な種類がある。一つの葉柄に一つしか花を付けないタイプの花のことを云っているのだろう?」
「ええ。あの。煉が」
彼の前で煉の名前を出すのに、何故こんなに抵抗を感じるのだろうか。しかし、このドライブが始まった時のようには、その抵抗はじりじりと煮詰まったものではなかった。
「煉が読んでいた本で、有限花序を誇り高い、と表現していて。煉にも僕にも、その意味が分からなかったんです」
すると、男はほんの短い間沈黙した。暗い車中のことではあったが、その口元にかすかな笑みが浮かんだことに翡翠は気づいた。
「どんな花も、己の役割を全うするという意味で、誇り高いと云えるだろう」
ニル・アドミラリはおだやかな声で云った。
翡翠は、その言葉を聞いた時、花軸の先に一つだけ花をつけ、そこに「有限」を定義する花に、ニル・アドミラリの生き方を連想したことを思い出した。
この男は自分を花に喩えるようなことはしないだろう。
翡翠の若さが、脆い柔らかさが、物事を感傷から切り離せない心のはたらきが、彼にそんなことを思いつかせるのだ。
「有限花序と云っても、そんなに詳しくはないが────確か、スミレが」
男は記憶をめくっているように低く声を途切らせた。そしてもう一度繰り返した。
「スミレが、単頂花序の花ではなかったかと思うが」
「スミレ、ですか?」
翡翠は声を乱しかけて、その唇を引き締めた。何故笑うか、と問われても理由を説明出来ないと思ったからだ。男がたった今微笑した理由も理解出来たように思えた。誇り高い花。むろん菫も野に咲き、雨風を受けて誇り高く咲く。しかし誇りといういかめしい言葉と組み合わせるには、その花は余りにもいたわしく小さかった。そして、隣でなめらかに雪道でハンドルを握る男にもふさわしいとは思えなかった。
「ありがとうございます」
翡翠はもう一度そう云った。雪の中、斜面を見下ろす自分の肩を支えていた男の手が、手袋の布を通してもなお冷たかったことを思い返した。彼の手は冷たい。その手に握りしめるものがあたたかなものばかりではないことをあらわすように。そして、自分がその手をあたためるために、もう一度彼に触れることが出来ればどんなにいいだろうと思った。
それが出来るようになるには、翡翠は何度でもこころを空にするように努力しなければならないだろう。
躊躇いと抵抗が彼の手を頑なにし、彼の熱いてのひらは遂に膝から動くことはなかった。
だが、ようよう口に出した二度目の礼に、男の唇が再びかすかにほころんだ。
それで彼は、男の手の冷たさをいたましく思ったことが、幾らかは伝わったように思えた。
それは翡翠にとって、凍った土に似た根強い葛藤のさなかであるとはいえ、確かに、一輪の花の姿に似た小さな慰めだった。
※サルトル全集・第十三巻より引用