翡翠は、車庫に入る前に滝川に一言声をかけようと、オフィスを覗き込んだ。このオフィスはニル・アドミラリの家の心臓部のようなものだ。中枢神経はニル・アドミラリがつかさどっているとしても、全ての情報を管理して、ガードマンたちの動向、来訪者のモニタチェック、デスクワークから邸内・社内の人事まで、ニル・アドミラリの身体の全ての血液が滝川の手元に流れ込み、彼によって用不要の判断をなされた上で漉されてゆくからだ。滝川諒一は、ニル・アドミラリがイーストスターに社員として迎えられて以来の部下だ。ニル・アドミラリより幾分若い。おそらくまだ、三十代半ばといったところだろう。だがニル・アドミラリが社長になった後は、社内での役職を得る事をあっさりとあきらめて秘書として勤め、以来十年以上、超人的な働きぶりを見せる男だった。
翡翠は先月末、七年間住んだアパートメントをひきはらって、ニル・アドミラリの家に越して来た。
今までは、ニル・アドミラリに対しての彼自身の恐怖心と、彼の養子である煉が、どうしようもなくニル・アドミラリに反発することとのふたつの理由で、わざわざ離れて暮らしていた。その方が彼自身も楽に呼吸が出来ると思っていたし、ニル・アドミラリが、自分を四六時中そばに置きたいほど執着しているなどとは考えも及ばなかったのだ。
男が画商であり、美術品の蒐集家であることが、翡翠の感をなおさら鈍らせていた。自分の容姿に男が目を止めたのは解っていた。それ以外に自分が彼に求められるようなところはないとも思っていた。だから珍しい美術品を買い求めるように、ニル・アドミラリは自分に支払うのだろうと、翡翠は思っていたのだ。
ニル・アドミラリと特別な関係にあるものとしてこの家に越してきてから、翡翠は真っ先に、ほとんど全てのことを滝川の頭越しに進めてはならないと悟った。ニル・アドミラリの仕事量はすさまじいもので、しかし、サポート役の滝川の仕事はそれを上回った。自分は立場をわきまえなければならないと思った。ニル・アドミラリの愛情を受けているからといって、思い上がって彼のスタッフの足を引っ張るようなことをしてはならない。
翡翠がここに越して来てまずしたことは、滝川に、どこかで射撃を学びたいと頼み込んだことだった。
(「銃を使われるのですか?」)
滝川は驚いたようだった。彼は、翡翠が銃の類の火器に対して、異常なほど嫌悪感を抱いていることを知っている。
(「ミスターから、セブンシーズのことを聞きました。……今後、何があるか判らないので……自分の身を守れる程度に、銃を扱えるようになった方がいいかと。……」)
翡翠は、自分を拉致しようとした男に撃たれて運転手の武藤が死に、滝川が重傷を負った時の血の匂いを思い出して、思わず身体を震わせた。
(「どこか、通っても安全な教習所か、教官を紹介していただけますか?……」)
(「翡翠様がそういうお気持ちになられたというのは、我々にとってもありがたいことです。それでは射撃はわたしがお教えしましょう」)
滝川はそう云って、翡翠の骨の細い指や、筋肉の薄い肩を眺め、彼に二二口径の華奢な拳銃を渡した。
(「破壊力が低い代わり、扱いやすい銃です。肩を痛めるような事もありませんし、
慣れれば片手でも撃てるようになりますよ。それに翡翠様はかえって破壊力のないものの方がいいでしょうから」)
あとで知ったことだが、滝川の銃の腕前は相当なものだった。むろん公的なライセンスも有しているうえ、ニル・アドミラリの秘書になる前は、いわゆるアマチュア向けの大会などにも顔を出して負け知らずだったのだそうだ。今では銃などは、いかにも必要最低限使うだけといった様子の滝川である。その経歴についても、滝川にいれ込む部下から聞かされたもので、本人は、翡翠に教える最中にも、自分の腕前を誇示するどころかおくびにも出さない徹底ぶりであった。しかし彼の冷徹で辛抱強い教え方、銃を扱ったことのない翡翠に、理念から始めて徐々に慣らしてゆく手なみの鮮やかさから、滝川の能力の高さが充分に推し量れる。
「滝川さん」
デスクワークの最中の滝川に、ほんの少しはばかられるような気持ちで声をかける。
「今から出かけてきます」
「どちらへ?」
「プロクネまで。……新しい個展が始まるとミスターに聞いたので」
「お送りしましょうか?」
「いえ、車で出ますから」
「分かりました。お気をつけて……持っていらっしゃいますね?」
「ええ。持っています」
持っているか、と滝川が尋ねるのは銃のことだ。ここ最近、射撃の練習のせいで、曖昧だった滝川と翡翠の関係がはっきりし始めている。翡翠はどこか教師を見るような気分で滝川を見る。幼い生徒のように滝川の問いに答えると、胸元の感触を確かめ、翡翠は銀座のニル・アドミラリの画廊、ギャラリープロクネに向かった。
プロクネは決して大きな画廊ではないが、銀座の中心に店を構え、主に国内の有望な画家の作品を取り扱っている。ニル・アドミラリが取り引きする、大震災前の画家たちの絵は、とてもプロクネのような小さな画廊に展示出来るものではないからだ。警備だけで膨大な金がかかるだろう。高価な絵の売買の仲介は、むしろイーストスターの商売の領域に近い。ギャラリーと会社の中間地点に位置するのだ。
ニル・アドミラリは新人の画家の発掘に余念がない。今回も今日から一週間、二十代の若い画家の個展を、ほぼ彼のバックアップで開くことになった。この画廊自体には、こんな調子でいつもほとんど収入がない。それだけにこの画廊にはより彼の趣味の色彩があふれているのだ。翡翠が、最近になってここにたびたび足を運ぶようになったのは、画商ニル・アドミラリではなく、アレックス・ハーストという男の嗜好や夢を知りたいからだった。
(「彼個人は優しくて豊かな絵を好むんじゃないかな?」)
煉にそういわれた時、翡翠には、ニル・アドミラリの思考にまるで思いあたることがなく、煉に軽い嫉妬すら覚えた。翡翠自身は絵や美術品にほとんど興味がない。ただ、優しく豊かな絵を好むひと、と云われた時、そのひとに抱くイメージというものはある。そういった、ニル・アドミラリの想いをかいま見る、イメージのかけらを拾い集める機会を、彼の仕事に興味を持たずにいたことで、逸していたと気づいたのだ。
近くに車を止め、彼はそっと画廊に入って行った。
プロクネの、グレーと金を基調にした装飾が翡翠は好きだ。店の中はおだやかなアイボリーの光で照らされている。ニル・アドミラリの家は、内装から暗い色調で統一されているが、この画廊に来ると、あの男が絵画に対して抱く優しさをうかがい見ることが出来る。
今度の画家は、前回ニル・アドミラリが見いだした、印象派的な作風の画家とは一風変わっていた。青の印象が強い幻想的な絵が並んでいて、翡翠はシャガールの絵を思い出した。中でも、星空の中を斜めに建った尖塔の天辺に、蒼い巨大な三日月がかかっている絵が彼の目を引いた。翡翠に興味を感じさせるのは、この作者がどういった気持ちでこれを描いたかではなく、ニル・アドミラリがどういった気持ちでこの絵を見たかだ。
(わたしもこれを美しいとは思うけれど。……)
翡翠は想う。
(アレックスの目には、美しい、という以上の何かが見えているのだろうか)
その瞬間、彼は作者と共鳴するのだ。そうやって、ニル・アドミラリが、一枚の絵画の前で引き寄せられるように現実との境界線を越えてゆくさまを、翡翠は何度も見ている。
決して自分が向こう側に渡ってゆけない、ついてゆくことの出来ない道をニル・アドミラリが歩いてゆく後ろ姿を、彼は見守るばかりだ。
そんなことを考えていると、その絵の作者にさえ複雑な嫉妬を感じるような気がして、翡翠はため息をついた。ニル・アドミラリを愛していると気づいてからの自分は、あまりにも見境がなく、熱病のようだ。
「失礼ですが」
その時、後ろから声をかけられて、翡翠は振り返った。おだやかな茶色の目の、同年代の青年が立っている。たいそう大柄で、チャコールグレイの安物の背広を着ているが、ゆったりと品のいい印象があった。
「桐島翡翠さんではありませんか?」
「……ええ、そうですが。……」
「ああ、やっぱり」
青年は嬉しそうに微笑んだ。
「いきなりお声をかけてすみません、宮古と申します」
そういいながら、青年は胸元を探って名刺を取り出した。聞き慣れぬ出版社の名前と、宮古裕一郎という名前が刷り込まれている。
「覚えていらっしゃらないとは思いますが、八年ほど前に、京都でお目にかかったことがあるんです。僕の兄が、京都の桐島教室にお世話になってまして、夏の休暇に兄のところへ遊びに行った時、桐島先生のお宅にうかがったことがあったんです。……覚えてませんか?」
翡翠は記憶を探ったが、青年の面影を拾い出すことは出来なかった。あの頃父の教える学生たちが絶えず翡翠の家に出入りしていたが、彼らと親しく口をきく機会はなかったのだ。だが、確か、その中に「都」という名の青年がいたのは覚えている。耳で聞いてその字を当てていただけで、実は宮古と書いたのかも知れなかった。
「残念ですが。……でも、お兄さんのことは覚えているような気がします。あの頃院生だった方ですよね?」
「そうですそうです」
青年は嬉しそうにひとなつこい笑みを見せた。翡翠も、見知らぬ青年と話しをしながら、奇妙になつかしい思いにとらわれた。父が亡くなって間もなく東京に来てしまったせいで、父を知っている人に久しく会った覚えがなかったのだ。しかし、当時父の教え子だった都という青年は小柄で神経質そうに見えたが、目の前にいる青年はのびのびと背が高く、いかにも気性が明るく見えた。
「あまりお兄さんとは似ていらっしゃいませんね?」
翡翠がそう言うと、青年は、僕は母親似なんですよ、と云ってにこにこと笑った。
「お兄さんはお元気ですか?」
「ええ、今はどこかに土を掘りに行っちまってますけどね。全然連絡が取れなくて、みんなであきれているんですよ。何かに興味が湧くと、すぐにふらふら出てしまうんですから」
「学者さんっていうのはそういうものなのかもしれませんね」
翡翠は微笑んだ。
宮古はまぶしそうに翡翠を見つめたが、ふと眉をひそめた。
「桐島さんは、今は東京にお住まいなんですか?」
「ええ。……何年か前から。……」
「あなたはちょっと目立ち過ぎますよ。気をつけた方がいいです」
宮古はそっと声をひそめて囁いた。
「……どういう意味です?」
聞き返すと、宮古は少し難しい顔になった。
「ちょっとだけお時間よろしいですか?」
「……ええ」
手招かれて、翡翠は不信な気分で、都と連れ立ってプロクネを出た。まだ明るい銀座の大通りの車通りを背に、宮古は翡翠を振り返った。
「解っていてプロクネを調べていらっしゃる訳ではないんですか?」
「調べるとは、どういうことでしょうか。……」
「それではここには偶然に?」
「ええ、まあ……」
翡翠はどう云っていいのか分からずに言葉を濁した。それを聞いて、宮古は顔を引き締めた。「偶然とは思えなかったんですが。……それならなおさらお話しておかないと。このプロクネのオーナーが、どういう人物かは御存じですか?」
「……確か貿易会社の社長をしているとか……」
翡翠はますます混乱して、結局はオーナーの知人だとは云い出せなかった。少し動悸がして頬が火照った。
「それだけでなくて、ここのオーナーのニル・アドミラリという人物は、アメリカマフィアなんです。まだ若いらしいんですが、黒い噂が数え切れないほどある人物です。こんなことを申し上げるのは本当に失礼だとは思います。でも桐島先生の死に、その男が関っていることをあなたがご存じないみたいですから。……」
翡翠は混乱していた胸に深々と何か硬い、杭のようなものを打ち込まれたような気がして、茫然と動きを止めた。
「何ですって?」
「やっぱり知らなかったんですね」
宮古は声をひそめた。
「桐島先生は、ニル・アドミラリに借金をしていたようなんです。先生はその担保に、ご自分の著作の版権を預けておられた。その借金がふくれ上がった時、先生の乗ったスカイバスが無差別テロで落ちたんです。警察発表ではそうなってますが、どうやら何かがもみ消された事実があるようなんです。……」
「……あ、あなたは何故そんなことを知っているんですか?」
翡翠は息を詰まらせそうになった。頭が痛み出して、貧血を起こしそうになった。
(「内部を買収して株を吸い上げ、偽の情報に投資させて破産させた。……」)
ニル・アドミラリ自身が云っていた言葉が、電流のようによみがえって来た。
(「わたしは桐島先生のファンだったのです」)
京都にやってきて、鷹揚に微笑んだ、七年前のニル・アドミラリの表情までがはっきりと思い浮かんだ。
「僕はうちの社会部の記者なんで、どうしてもそういう噂は耳に入ってきます。プロクネは、やっぱり僕らにとっては気になる存在ですからね。この人物の裏の商売の入口みたいな場所ですから。さっきあなたを見て一目で分かりましたよ、八年ぶりでも。その……とても美しいひとですからね、桐島さんは。男性にこんな褒め言葉は変かも知れませんが。……」
宮古は少し顔を赤らめた。それに笑って見せるゆとりもないほど翡翠は動揺していた。頭に血が上って、耳鳴りがした。
「だから、あなたがてっきり桐島先生の件でプロクネを調べているのかと思ったんです。僕がそう思うくらいですから、彼に目をつけられたら危険ですよ。何と云っても、相手はマフィアなんです。何をされるか解りませんから、もし何もご存じないなら、ここには近づかない方がいいですよ」
宮古が何か熱心に喋っている声を聞きながら、翡翠は痺れるような無感動な気分の中で立っていた。無感動なのではなく、動揺に耐え切れずにこうなっている自覚はあった。指先や、立っている足の感覚までが薄ぼけて遠くなっていくような気がした。
父を殺したのはニル・アドミラリかもしれない。
彼は、言葉を知らないように、ひどく苦労して、その一文を頭の中で組み立てた。
父を殺したのはニル・アドミラリかもしれない。
何か、重苦しい、不吉なものが空から振って来る。
これが災厄なのだろうか。
視界が灰色に色褪せて見える。翡翠は、震える指先を握り込んで、救いを求めるように視線をめぐらせた。空がうつる。青白い雲が浮かんでいる。いつだったか、まだアパートメントにいた頃、窓から見た雲とよく似た、マグリットの絵に描かれたような、寂しく蒼い色調の雲だ。
確かめなければならない。彼は震えながら考えた。
確かめて、もしそうなら、自分はどうするのだろう。
そこまで考えた時、突然頭の中にかかった沙が厚くなり、街もひとも空も消え、翡翠はふるえながら、黒ずんだ不安の只中にたった一人で立ちすくんだ。
その晩、ニル・アドミラリが帰宅したのは、十二時を回ってからだった。翡翠は最近彼と寝室を共にしている。たとえ眠っていても、翡翠はいつも、彼が帰って来る気配は感じとれる。だが翡翠は動けなかった。目は覚めていたが、寝台の中で目を閉じたまま、背中をこわばらせて、背後で男の動き回る気配を感じていた。
着替えを終えたニル・アドミラリは翡翠を起こさないようにと思ってか、そっと彼を覗き込んで、静かに髪を撫でた。冷たい指が優しく自分の髪を愛撫するのを、翡翠は絶望的な気分で耐えた。自分が彼に疑惑を抱いているのか、それすらも翡翠にはよく分からなかった。昼からひどく混乱したままで、どうしたいのかを判断出来なかった。
仮にニル・アドミラリが父を殺したのだとしても、真実を知りたくない。
翡翠は不意にそう思った。もしそれが真実なら自分はどうすればいいのか。この男がいなければ生きて行かれない、世界に対して抱いた暗い不安をどうすればいいのだろうか。
鋭い痛みと共に、かすかにまぶたが濡れた。翡翠が嗚咽に近い息を漏らしたのを聞きとがめ、ニル・アドミラリが顔を覗き込んだのが気配で分かった。
「……翡翠?」
おだやかな声が囁きかけてくる。翡翠は、たえきれずに手を伸ばし、自分の髪の傍らについたニル・アドミラリの手を取った。握りしめた手に額を押しつける。相も変わらず氷のようなてのひらが火照った額に心地よかった。
「翡翠……」
今度は、かすかにいぶかしげな色合いを帯びたニル・アドミラリの声が間近に聞こえて来る。 翡翠は自分が滝川に渡された、玩具のような銃のことを、不意に思い出した。自分がニル・アドミラリの胸に向けて引き金を引いている場面が思い浮かんだ。
それを思い浮かべた瞬間、自分自身が撃たれたように、あちこちに残された、古い傷がうずいた。
どうすればいいのだろう。
そんなことをするくらいなら死んだ方がましだ。このまま彼に騙されていた方がよほどいい。 それ自体が完全な真実の気持ちでないと知りながら、翡翠は冷たいてのひらにすがりついたまま、身動きも出来ずに身体をこわばらせる。
ニル・アドミラリは黙って彼をみおろしていたが、何を思ったのか、疲れた深い息をつき、やがてもう一方の手で、再び彼の髪を撫で始めた。
何日目かの一人の夕食を済ませた翡翠は、寝室に入り、楽な服に着替えようとネクタイをゆるめた。
胸の片隅に巣くった不足感に、彼はためいきを漏らした。この屋敷に迎え入れられてわずかの間に、自分がもはやニル・アドミラリと一緒に過ごす生活に慣れてしまったことに気づく。ニル・アドミラリの屋敷に越して、たった数ヶ月だった。
これまでの彼は長い間東京のアパートメントに一人で住んでいたのであり、東京に来る前は、京都でやはり一人住まいだった。
今は一人と云っても、食事は必ずハウスキーパーのマイラが給仕をしてくれる。広い廷内はどこも明るく暖かく、敷地の中には多くのガードマンや滝川が常住していて、どこかしらに人の気配がする。以前住んでいた広くアパートメントに比べれば、一人きりでそこにいるという孤独感はないのだ。
にもかかわらず不足に思うのは、翡翠にとって肝心の男がそこにいないからだ。
このところニル・アドミラリは酷く多忙で、翡翠が眠った夜遅く帰宅して、彼が目を醒ます前に外出することもしばしばだった。普段彼がこなす書類は殆ど滝川が処理していた。
それが、貿易の仕事のためだけでないことに彼も気づいている。表側の仕事がこれほどまでに多忙になるのであれば、その進行状況と成果について、ニル・アドミラリは、順を追って翡翠に説明するだろう。しかし最近のニル・アドミラリは、今どういう仕事をしているのか、何が起こっているのかを一切語ろうとしなかった。翡翠も聞けなかった。今、彼を多忙にしているのは、裏側の仕事なのだ。
おそらくそれはセブンシズと、セブンシズに入社したニル・アドミラリに怨恨を抱く男に関わることだ。時折ニル・アドミラリは火薬の匂いをさせていることもある。そんな時、彼が外でどんな時間を過ごしてきたのかを想像すると、翡翠は身震いする思いだった。翡翠は、イーストスターの裏の顔を殆ど知らない。彼はニル・アドミラリの愛人というだけの存在であり、彼のスタッフではなかった。
彼は再びため息を漏らした。葛藤には入り口があるばかりで出口がない。
今更のように、自分に突出した能力や、あるいは集中できる仕事がないことが翡翠を苦しめていた。ニル・アドミラリのために働きたいと思ったこともある。しかし彼は芸術を解しなかったし、それ以外の部分でも、翡翠の望むものと、ニル・アドミラリのそれとは余りにも食い違っている。
ニル・アドミラリの仕事に関わる死や暴力の匂いは、翡翠の最も嫌悪するもの、忌避感を感じるものだった。幾ら彼のために働きたいと思っても不可能だった。嫌悪感が、ニル・アドミラリ自身に感じられないのが不思議だった。
ネクタイを抜き取ろうとした時、ノックがあった。翡翠は手を止めて振り向いた。ニル・アドミラリのノックの音を翡翠はもう覚えている。無意識に時計に目を走らせると、まだ十時前だった。こんな時間に彼が帰ってくることは、最近なかった。彼は一度緩めたタイを締め直し、答えるよりも早くドアを開けた。
「ただいま」
一種独特のなめらかな抑揚のある声と共に、外気が押し寄せて入ってくるような雪の気配がドアから入り込んできた。目の前の空間が切り落とされて、真っ青な吹雪の闇にさらされたような錯覚を覚えて翡翠はまばたきした。
「お帰りなさい」
彼はコートも脱がずに二階に上がってきたらしい。肩や髪に、溶けかけた雪の結晶が煌めいている。彼の全身から雪の匂いがする。そして、外の吹雪を持ち帰ってきたニル・アドミラリは、同時に、片手に大きな花束を携えていた。数種類の、背の高い青色の花を束ねたそれは、目の前に立つ男そのもののように潔癖で美しく、翡翠はまぶしい思いでそ花束を見つめた。
「綺麗ですね。どうしたんですか?」
コートを受け取ろうと手を伸ばすと、ニル・アドミラリはそれを制して、翡翠の手にはその花束を持たせた。
「これは君に」
翡翠は目を瞠り、複雑な想いでその美しい青の花束を受け取った。
「今日はわたしの誕生日ではなかったと思いますが?」
戸惑いがそんな言葉になって出ると、ニル・アドミラリは笑った。
「君でもそんな皮肉を云うんだな」
「そんなつもりは────」
翡翠は顔を赤らめた。彼が側にいるだけで、こわばった気持がなごむようだった。久しぶりにニル・アドミラリのやわらかな笑顔や、抑制の利いた低い声に触れて、自分が彼に飢えており、寂しがっていたのだと気づかされる。
「花を持っていらっしゃるなんて珍しいことでしょう」
彼は受け取った花を見おろした。男の自分の腕にも持て余すような大きな花束だった。どれも咲いたばかりの花を集めた、さぞ高価だろうと思える花束だった。殊に冬の東京ともなれば、これはごく裕福なひとたちだけに許される贅沢だ。
ニル・アドミラリはともかくとして、自分に相応しい品物ではない。口にはしなかったものの、翡翠は内心そう思った。
「今日はちょっとした記念日でね」
「何の記念日ですか?」
「こちらの話だ。気にしなくてもいいさ」
怪訝な顔をした翡翠に、男は低く声をたてて笑った。
華やかな青い花束からたちのぼる生気のような、瑞々しい香を彼は目を伏せて吸い込む。
「────珍しい花ばかりですね」
彼は、云いながらインタホンでマイラを呼んだ。花を生けに来てくれるよう頼み、ニル・アドミラリのコートを受け取る。おそらく自分にこの花束を渡すために、彼はコートも脱がずに真っ直ぐ寝室にやってきたのだろう。
「君の知らない花はある?」
男は湿って額に崩れた前髪をかきあげた。翡翠は頷く。
「初めて見る花ばかりです」
「向こうに一人で居るとき、花を買うようなことはなかったの?」
そう尋ねられて、彼はゆっくえいと首を振った。
「ありませんでした」
自分は花や絵画にこころ癒されることのない人種だ。
口には出さないが、翡翠はそれを思って少し寂しくなる。
かつて自分の父が、長男を好かなかった理由の一つはそこにあるのだと、彼は思っていた。弟の継海は言葉も感性も早熟な少年で、ほんの幼かった頃から、物事を見る審美眼において、充分に父を満足させた。だが、翡翠は美への理解が希薄な部分があり、それは常に父や自分の愛人にかすかなコンプレックスを抱かせた。
翡翠の養子である煉も、あきらかに「向こう側」の住民だった。人の作ったもの、風景の美しさ、花や木々のささやきに耳を傾ける能力、それを生まれながらにして持っていた。
ニル・アドミラリは、レースのような青紫の花をつけた花を指さした。
「これはスカイナイルといって、夏の花だが、一年中咲くように遺伝子に改良を加えたのだそうだ」
その答に翡翠が眉をひそめたことを見逃さず、彼は静かに微笑して付け加えた。
「技術者の探求心と研鑽のおかげで、わたしたちは真冬でもこうして花を眺め、栄養のゆきとどいた肉や野菜を口にする。驚異的な技術だな」
翡翠は頷いた。青い花は美しく、しかし、消費される資源の象徴のように痛々しい華やかさを備えていた。
「……莫大な費用をかけて人口栽培が行われる一方で、天然というブランドが威力を持っているというのは、怖い構図ですね────技術が過剰供給を生んでも、この東京で暖房無しに生きてゆくことは誰にも出来ませんし、支払えば買えると思えば、新鮮な食材が欲しくなる」
そう云いながら彼は言葉を失う。
真冬でも夜でも灯りが点された硝子のショーケースの中に、本来咲かない夏の花が咲いている。それ以上に今の東京を反映した構図はない、と思った。しかしひとが冬のさ中に咲く夏の花に惹かれるからこそ、それは華やかな余剰として提供されるのであり、まして食物に関する問題になった時、消費と欲望の車輪を止める方法は殆どないと云っていいだろう。
(だから────?)
翡翠は思いに沈んだ。
自分は冬に咲く夏の花に痛ましさと嫌悪を感じる人種だが、その車輪をほんの一億分の一秒止めるための努力もしてこなかったのだ。
反エネルギー論者も、零下二十度の部屋で暖かく眠るわけにはいかない。エネルギーを使うことも、必ずしも罪とは云えない。しかし、無力であることに打ちのめされて理想を捨てたとき、それは初めて彼の罪として成立するのだ。多大なジレンマや虚無感が伴う故に、現実とのギャップを感じながら理想を持ち続けることは困難だ。が、たとえ理想に殉じることがかなわなくても、人は理想や持論を捨てるべきではない。
こういった思いは、整理された設問に、ましてや答にもになり得ないまま、翡翠の中を円く泳ぎ続けていた。自分と対局の感覚の上に生きる男に恋をし、彼に庇護される翡翠にも、それと似通った葛藤があるからだ。暴力への嫌悪や平和への崇敬を、男への愛とどうすれば同じ身体の中におさめておけるのか、翡翠には分からないのだ。
彼の言葉に耳を傾けたニル・アドミラリは、翡翠に同意するとも、そうでないとも取れる穏やかな表情で、黙り込んだ彼を見守っている。
やがてドアがノックされ、主人のいらえを聞いて、ハウスキーパーのマイラが入ってきた。彼女は、初老の古風なアメリカ人女性であり、ニル・アドミラリや翡翠、煉や、ニル・アドミラリの家に住まう男たちを自分の息子のように愛していた。淡い金髪をきっちりと結い、小柄な身体に合ったスラックスに身を包んで、いつも忙しく立ち働いている。翡翠が東京に来るよりもずっと前から、マイラはたゆみなく主人や従業員の食事を用意し、疲れて帰ってきた者にコーヒーを振る舞い、広い屋敷を一人で切り盛りしていた。
ダークブルーのセーターを着たマイラは、花束を一目見て、感嘆の声をあげた。
「大きな花束。何て美しいんでしょう」
「生けて貰えませんか?」
翡翠の頼みにマイラは大きな花を抱え上げた。陽気な青い目が、花束の青を映して輝いた。
「花瓶はこちらに持ってきてもよろしゅうございますか」
「いや、この後はもう休むから、花はサロンに飾ってくれないか」
ニル・アドミラリが翡翠の代わりに答えた。
「承知しました。それじゃ、おやすみなさいませ」
マイラは鼻の先を花束に埋めるようにして、機嫌良く答えて出ていった。大きな花束は、マイラの小柄な身体をすっかり覆ってしまいそうだった。
すぐに休む、と云った彼の言葉に隠れたものに、察しの悪いことだが、翡翠はすぐには気づかなかった。ニル・アドミラリは疲れているのだろう、そう思った。男の疲れをどうすれば癒せるかを考えながら、コートをかけようと、ニル・アドミラリに背を向けた。
その瞬間、背中がぶつかってくるような熱気に包まれ、突然引き寄せられて振り向かされた。男の長く硬い腕が、翡翠をもどかしく抱きしめた。
彼は息を詰まらせて顔を背けた。シャツのなめらかな生地に包まれた身体は、素肌で抱かれているように、ニル・アドミラリの身につけた硬いスーツの布を感じ取った。
「アレックス」
驚いてどうしたのか、と尋ねようとした唇を塞がれる。
ニル・アドミラリは翡翠のタイを抜き取り、ボタンを幾つか弾いてシャツをはだけた。銀鼠色の柔軟な生地の内側に手を滑り込ませ、そこに隠れた熱い皮膚を探る。翡翠は息を乱した。半月以上触れられていなかった彼は、てのひらが自分の胸をなで下ろす感覚だけで容易に溶けてしまった。
親指の腹がまだ柔らかい突起に辿り着き、軽く押しつぶすような力を加えると、そこはすぐに愛撫に反応して小さく尖った。刺激を繰り返されるうちに、腰に直接に響くような甘い感覚が広がり、翡翠は唇をふさがれたまま身を捩った。
唇は離れて、胸に触れていた手は、シャツをスラックスから引きだして背中に滑り込んだ。肩からシャツが落ち、殆ど半裸で抱きしめられる。翡翠はようやく目を開いた。自分の目が潤んで、睫毛が濡れていることに気づく。彼は背中をさまようてのひらの動きに身体をふるわせながら腕を上げ、そっとニル・アドミラリの髪を撫でた。
「何かあったんですか?」
息を乱して問いかけると、彼を性急に探っていた男のてのひらは止まった。細く抑制したため息が聞える。そして苦笑するようなささやきが髪を揺らす。
「何もないが……二週間も君に触れられなくて辛かったな」
そう云いながら彼は翡翠の手を取り、指に唇を押しつけた。
乾いていたのが自分だけでないことを知って、翡翠は安堵した。彼は男の頬に触れて、その冷たさにぞくりと背中をふるわせた。たった今まで外気の中にいたような冷たさだった。伸び上がって自分の熱い頬をそっと寄せる。
「わたしもです。なかなか貴方の声も聞けなかったから、寂しかった」
かすかに踵を浮かせたまま、今度は自分から唇に触れる。ニル・アドミラリの黒い睫毛が閉ざされるのを、間近に陶然と見つめながら、うなじに両腕を絡めて抱きしめる。
「でも、寂しいのは我慢できます。貴方がお元気なら」
自分の腕に触れた男のうなじが痩せたような気がして、翡翠は不安になる。
「疲れていませんか? いつもは無理でも、時々ゆっくり休む時間を取って下さい」
冷たい唇にくちづけした後ささやくと、吸い込まれるような黒い瞳は再び開いて翡翠を見降ろした。闇に似た昏い瞳が和んだ。
「君がいれば、少しの忙しさがこたえるなどということはないさ────」
何者にも動かされない男は、微笑した。
翡翠はけむるようなぬくもりの中で目を醒ました。
南側の全面窓は濃い灰色のカーテンに覆われているが、隙間から光が柔らかく差し込み、部屋の中を細い光の帯でつらぬいている。
眠りについた時、隣に眠っていた男が、まだ目を醒まさずにそこに横たわっているのを知って、彼を起こさないよう翡翠はそっと身体を起こした。
黒髪の男の素肌は、一晩寝床にいた後であるにも拘わらず、芯があたたまりきらないような体温だった。平熱が三十七度を越す翡翠と、ぴったりと身体を密着させて眠っていても、ニル・アドミラリの身体は冷たいままなのだ。
翡翠一人で眠れば南の日光にあてたばかりのように温まる寝床だが、ニル・アドミラリと一緒に眠ることで熱を緩和されて、残るのは、霧のようにゆっくりとかすんだぬくもりになる。
彼は、明け方にシャワーをあびた後身につけたバスローブのまま、静かに寝台を降りた。素足で絨毯を踏み、カーテンを細く開けて、窓の外を眺める。明け方まで降っていた雪は止み、空は晴れていた。見渡す全てが白いものに包まれて、陽光を反射してきらめいていた。
まぶしい光に照らされた雪の中を、屋敷の玄関から門まで細長く続く道だけが除雪され、黒く濡れて輝いていた。
翡翠は息をついて、思わずうなだれた。まだ身体の中で何かがくすぶっているようだった。半月間誰にも触れられなかった身体は、昨晩繰り返し自分を押し開いた熱の形をはっきりと覚えている。まだそこに自分を割り開く熱があるように、身体の芯がかすかに甘く疼いた。
昨晩のニル・アドミラリは烈しくよどみなかった。急くように服を脱がせて抱きしめられたあと、入浴して部屋に戻り、もう一度抱かれた。普段の彼に似合わない、少年のように性急な一度目の交わりに火照った身体を、むせび泣くまで執拗に攻め抜かれた。
思考がぼんやりとして纏まらない。肌には口づけの跡が赤紫色になって散らばり、開かれたまま緊張と弛緩を繰り返した手足の関節が軽く痛んだ。その痛みさえ余韻になって、翡翠を酔わせている。ニル・アドミラリの不在に凝っていた寂しさなど、跡形もなく溶かされてしまったようだった。
翡翠は、足音を忍ばせて寝床の傍らに戻り、堅く目を閉じて横たわるニル・アドミラリの顔を見下ろした。
意志的な広い額にかかる黒い前髪が、彼をいつもより幾つか若く見せている。彼のまぶたを装飾する黒い睫毛は、意外なほど長い。この男の、冷たい黒の瞳を物憂くかげらせるのは、この睫毛だった。身じろぎもせずに眠る彼を見ていると、自分より遙かに強靱な肩や腕、広い胸を持ったこの長身の男が、どこか頼りなく見える。彼ははっとした。
(随分疲れているようだ────)
少し痩せたニル・アドミラリの顔をのぞき込む。皮膚は青白く、目の下が蔭って見える。今まであれほどまでにタフだったこの男が、最近になって見せるあきらかな疲れだった。その原因が何なのか、ニル・アドミラリは彼に教えようとしない。
不意に不安がこみ上げてくる。
このところ再び上空を覆うようになった、混沌とした霧が再び訪れ、脳裏を厚く埋めるのを翡翠は感じた。それはニル・アドミラリに関する限り、殆ど翡翠を苦しめたことのない、突然訪れる不吉な夜への不安感だった。
不幸にもそれは嘗てほぼ外れたことはなかった。
彼はバスローブの胸元をかき合わせ、身体をふるわせた。
事故で、病気で、事件で、翡翠の周囲にいるひとは死んだ。物心ついてから、ニル・アドミラリの許にやってくるまでに、その人数は三十人近くになった。強盗に襲われた建物の中で、翡翠一人が生き残ったこともある。乗っていた乗り物が事故に遭ったこともあった。母はその事故で亡くなった。翡翠をかばって死んだのだ。
大事故や事件が起こり、翡翠一人が生き残る。もしくは、ごく少ない生き残りの中に翡翠がいる。これは偶然とは信じがたいほど繰り返し、何度も起こったことだった。
ニル・アドミラリだけがそれに無縁だったのだ。
今は、護るべきものがある人達が、翡翠を疎んだ理由が分かるように思う。今は翡翠にも煉が、継海がいる。ニル・アドミラリやその周囲のひとがいる。だれかに関わることが、彼らの危機につながるかも知れないと思えば、誰が好んでそんな相手に近づくだろうか。
(だが、それが自分だとすればどうすればいいだろう?)
彼は眠る男の顔を見おろす。今まではこの男は災厄を退けてきた。それが偶然なのか、必然なのか、翡翠には知る由もない。だが、アメリカマフィアのこの男を取り巻く環境が、いつまでも彼を安らかにしておくはずがない。彼は朝の光の中で身体を硬くして立った。しかし男を起こさないよう、自分の動揺の気配を殺す。
彼は火薬の匂いをさせて帰ってくることもある。だが、吹雪の気配を纏ってドアを開け、彼のために花束を手渡してくれる人だ。たとえ男にとっての花と、翡翠にとっての花の意味が違ったとしても、彼の気持はかけがえがなかった。
銃のシリンダーを振り出して、翡翠は静かに五発の弾丸を装填した。シリンダーを慎重に戻して安全弁をかけ、銃をジャケットの内側のポケットに滑り込ませる。これは、ニル・アドミラリの秘書の滝川が彼のために選んだ、華奢なグリップを備えたリボルバーだった。定番の銃身の短いリボルバーのセミカスタムモデルで、反動の弱い銃だ。鍛えているとは云いがたい翡翠の肩や腕を傷つけないよう小さなものを選んだ。護身のためには充分なものだった。今までに翡翠がこれを、射撃場以外で使ったことは一度もない。
翡翠は待ち合わせの場所に出かけるために、意識して暗い色の服を着けた。髪も服も甘くなりすぎないよう気を配った。彼が今までしばしば身に付けていた類の仕立ての良い優美な衣服は、彼の容姿を引き立てこそするが、真剣に人と会話をする雰囲気にならない。周囲の人の反応で、翡翠はようやくそれに気づいた。それがわからなかったのはおそらく自分が世間知らずだからなのだろう。彼は思う。
翡翠は、自分が男として足る部分、また過剰である部分について、ようよう逃げずに受け入れることができるようになっていた。
地味なダークブルーのシャツと、グレイのジャケット、普段ほとんど身に付けることのない硬いデニムのジーンズを履いて、髪を固く結ぶ。普段顔の両脇にかかっている髪をかっちりと撫で上げるだけで、ずいぶんと顔の印象が違うものだ。少なくともこうして髪を上げて顎の線をさらけだせば、柔弱さがだいぶ緩和されて、少なくとも女性に見えるようなことはない。
鏡に映る、強張った表情の自分を彼は見つめる。
今日の相手は、翡翠のほうから連絡を取り、会う約束を取り付けた相手だった。
東京に来て以来、他人と自ら連絡を取り、接触しようとしたのは初めてのことだった。正直落ち着かない気分だった。人と自ら会おうとすることさえ八年目にして初めてだというような、そんな生活をしているから、最も身近にいる人の心も読めずに不審を抱くことになるのだ。翡翠は身の置き所のないような、苦い思いを噛み締めた。
連絡を取った自分に向こうが指定してきたのは、青山の小さな路地にあるコーヒーショップだった。
翡翠が数ヶ月前まで住んでいた青山は、今や東京で有数の治安の良い街だった。それでもこのコーヒーショップは、ぐるりと周囲を囲んだ植え込みの中にセンサーが設置されていて、銃を携帯した人間は入室できないようになっていた。
ショップの近くに車をつけた翡翠は、携えた銃をダッシュボードの中に置いた。銃を持つことに一度馴れると、手放すのは落ち着かなかった。それに気づいた翡翠は、ぞっと背中をふるわせた。ニル・アドミラリが、ひとを殺すことにはすぐに馴れて麻痺した、と云っていたことを思い出したのだった。
こんなにひ弱で臆病な自分でさえ、これを持つことに馴れ、自分を護るために銃が他人を傷つける可能性に目を瞑ろうとするのだ。
車をすぐそばに止めて店に入ると、彼の呼び出した男はもう来ていた。
五日前、ニル・アドミラリの画廊、プロクネで出会った男、新聞記者の宮古だった。整った顔にあっけなく明るい笑顔を浮かべる青年だった。プロクネで見かけた時と同じように、地味な色のスーツで落ち着かぬげに座る宮古は、翡翠の姿を見て目を輝かせた。
「桐島さん、こちらです」
宮古は席から半分腰を浮かせて頭を下げた。翡翠はほんのわずかに唇の両端をあげて微笑み返した。
「何を飲みます? コーヒーですか、それとも紅茶でも?」
翡翠はそれに答えずに、宮古の前の席に滑り込んだ。ここに来るまでに落ち着こうとしていたのだが、かろうじて作った平静な気分は吹き飛び、自分の頬が青ざめてそそけだっているのを感じた。
やわらかに云い出そうとするが、少し切り口上になった。
「お尋ねしたいことがあって来ました」
人なつこい微笑を浮かべていた宮古は、翡翠の真剣な表情に気づいて口元を引き締めた。
「何でしょうか」
「先日お目にかかったとき」
翡翠は声を低める。
「あなたはわたしの父を害したのはニル・アドミラリかも知れないとおっしゃいましたね」
宮古はうなずいた。
「云いました」
「宮古さんは社会部の記者でいらっしゃるとか?……申し訳ありませんが、新聞社にもお名前を確認させて頂きました」
翡翠の言葉の真意が読めないように、戸惑ったような顔で宮古は坐っていた。
「きっと貴方はご自分の取材力に自信がおありなのでしょうね……? わたしの顔を一目見て、あなたは桐島鷹彦の息子だと気づかれた。しかも父とニル・アドミラリの関係も知っていて、父が本当は事故死ではなかったのではないかという情報までお持ちでした。────それなのに、私とニル・アドミラリの関係についてご存じなかったのですか?」
「……」
宮古がはっとしたように息を呑んだ。彼は頬をそそけだたせ、目を伏せて沈黙してしまった。
この間、この男と会ったときには、彼は動揺のあまり、男の言葉に整合性がないことにすら気づかなかった。
この新聞記者はニル・アドミラリに敵意を抱いている。それは間違いない。そして彼がニル・アドミラリの愛人だと知って近づき、それとは知らないふりをして、罪のない顔で父の情報を流した。翡翠の心をゆらして、ニル・アドミラリの情報でも引き出そうと思ったのだろうか。
そう思った途端、かっと怒りが燃え上がった。居ても立ってもいられなくなった。こんな感情を覚えることは、翡翠にとってそう経験のあることではなかった。桐島翡翠と目を会わせると死ぬ、そんな風に自分を云う人にさえ、翡翠は激しい怒りを感じたことはなかった。
誤解から翡翠の乗った車を襲い、運転手の武藤を射殺した実業家、ブルーフィールドに対して抱いた怒りと似ていた。
そもそも彼は、いつも体のすくむような思いで、兎小屋の隅で震えるだけの存在だった。他人に怒りを感じたり、その行為の是非について思いを巡らせたことなどなかったように思う。だが、自分の大切なものを踏みにじる者、策略や暴力で翡翠の世界に足を踏み入れる者に対して、ようやく健常に怒りを感じられるようになったのだ。
(……アレックスにはいつも敵がいる)
しかもそれは、マフィアの抗争や怨恨絡みだけでなく、社会的に彼を抹殺したいと思う司法関係者、彼のような存在は抹殺さるるべきだと信じている過激な「正義漢」達や、さまざまな人が彼の敵だった。今まで人形のようにあの高級なアパートメントの中にこもったきりでいたせいで、愛人の危険や彼の敵についてろくに考えてみることもしなかった。
そんな自分が無為に彼の側にいることで、あきらかにニル・アドミラリの弱点になっているのだ。
答を待っていると、うなだれていた宮古は、ようやく顔を上げた。どこかひきつったような表情だった。怯えているようにも見えた
(彼はわたしが、アレックスに自分のことを話したと思っているのではないだろうか?)
「嘘をついたことはお詫びします」
「嘘……?」
「それは、ミスター・ニル・アドミラリが貴方の保護者であることを知らない振りをしていたことについてです」
宮古が、ニル・アドミラリを自分の保護者、と形容するのを翡翠は不思議な気分で聞いた。自分と彼の関わりを他人の言葉が形容するのを、気づけば今まで余り聞いた憶えがない。
「貴方とお会いしたのは久しぶりでしたが、僕にはすぐに貴方だと分かりました。貴方が、ニル・アドミラリの保護下に、東京に来たことは知っていました。でも、貴方を見た瞬間に、それを認めたくなくなったんです」
宮古は目を伏せて低くつぶやいた。
「認めるとは?」
翡翠はゆっくりと促す。先日のことがあるため、彼は宮古の言葉を全て鵜呑みにするつもりはなかった。
「貴方が、彼のような男に拘束されて、自由を奪われているなんて信じたくなかった。あの男は社会の屑じゃありませんか。人を殺し、盗品を売り、売ったものを再び奪って横流しする。麻薬を売り、売春窟に出資して懐を肥やす────」
翡翠は思わず背中を粟立たせた。頭が少し痛んだ。彼は、マフィアとしてのニル・アドミラリの仕事の内容を殆ど知らない。しかし、彼が麻薬を嫌っていることも知っていたし、絵画の取引には潔癖な手段を用いていると思っていた。
しかし、それが周知の事実であるように、新聞記者の口から聞かされると、自分がそれを肯定する材料も、否定する材料も充分には持っていないことが分かる。
「売春窟に出資して……」
彼は鸚鵡返しにつぶやいた。彼が衝撃を受けたことに宮古は気づいたようだった。翡翠の動揺に力を得たように、新聞記者は身を乗り出した。
「知らなかったんですか? イーストガーデンビルという名前は聞いたことがありませんか?」
イーストガーデンビル。翡翠は少し疲労したような気分で、頭の中でその名前を反芻した。もちろん聞いたことがある。
ビル、というが、それは東京中心部からやや東よりの小さな街の俗称だった。歩けば十五分で横断できる街の一画に過ぎないが、国内でも有数の歓楽街だ。警察もこの中で行われていることには殆ど手出しをすることがない、治外法権的な場所だと聞いたことがある。
「イーストガーデンビルは、数千の店舗を内包しています。今となっては東京で一番活気のある場所なのかも知れませんね。地方から出てきた人間も、外国から入ってきた人間も、必ずこの街に財布を握って流れ込む。観光名所と云ってもいいかもしれません。様々な嗜好の人間が集まってきても、殆どの人を満足させられる大規模な歓楽街。勿論違法な事、人権を侵害するようなことも行われているのは想像に難くありません。でも警察は手出しできない。それは何故か?」
詰問されて色を失っていた宮古は、話しているうちに落ち着きを取り戻したようだった。
「マフィアの力が働いているからです。彼らは、国内の暴力団と同じような性質を持ち、尚かつ国外に勢力と財力のパイプを持つ。国外の組織との横の繋がりがある故に、弱体化した暴力団以上の力を持っているのです。しかも、一部の組織は、表社会とのパイプを繋ぐだけのインテリジェンスを兼ね備えた人物がトップに座っている」
「ニル・アドミラリがその一人だと云うのですね」
「そうです」
宮古は怒ったように硬い声でいらえを返し、翡翠を睨み据えた。
「僕は彼に会ったことがあります。政治家のパーティで、また、政財界の大物の祝い事の席で。ミスターニル・アドミラリは酒を過ごすことのない、口数が少なくて優雅な人だ。とてもマフィアの首領のようには見えません。でも、僕は彼の正体が見た通りの人でないことを職業柄知っています」
「……」
翡翠は沈黙した。彼自身もそれは分かっていた。それはニル・アドミラリの正体を知っているという意味ではない。彼は宮古ほどにもニル・アドミラリを知らないのだ。
彼は伸ばしていた背筋をわずかにくつろがせた。椅子の背もたれに背を沈ませる。考えを整理しようとして沈黙した。黙って宮古の顔を見つめると、男は翡翠の視線に出会って、戸惑ったように目を伏せてしまった。
翡翠は、オーダーを取りに来た女性にコーヒーを注文し、暫く宮古を見つめていた。興奮したように云い募っていた宮古も言葉を失い、落ち着かないように自分の前に置かれた、醒めた紅茶を飲んでいる。
翡翠はやがてゆっくりと店の外へ視線を転じた。視力が低いために定まらない視界をクリアにしようと、窓の外の光景を眺めながら目を細める。店の外の道を往来する人々の姿がぼんやりと霞んで彼の目に見えている。
「貴方がわたしにそんなことを云うのは、わたしに何か出来ることがあると思っているからですか?」
やがて翡翠がゆっくり尋ねると、宮古は首を振った。
「……違います」
先刻から妙に彼の唇は乾くようだ。何度目かに宮古は舌先で唇を湿した。
「僕は、貴方のような人が、ニル・アドミラリを信用しているのが見ていられないだけです。ただ、たまらないんです」
翡翠は再び沈黙してしまった。彼は戸惑っていた。どこかが麻痺したような、奇妙な気分になっていた。ニル・アドミラリの仕事について彼の背筋をふるわせた嫌悪感も、怒りもふとすがたを隠した。かたちにならない疑問が浮上して、何を云っていいのか分からずに、目の前に坐った、人好きのする甘い顔の青年を見つめる。そしてまた、彼の頬をそそけだたせた狼狽の影を読みとった。
「────わたしは物を知らないので、よくは分かりませんが、貴方のようなお仕事をなさっていて、そんな風に利他的に時間を使っていて成り立つものなのでしょうか?」
翡翠は考え考え、ゆっくりと問いかけた。
宮古をやりこめようと思ったわけではなかった。ニル・アドミラリに敵意を抱く宮古と張り合おうという気持ちさえ、その瞬間はなかった。
しかし、宮古の顔色はさっと変り、見る見るうちに紅潮した。
「貴方は社会的なことを取材する新聞記者なのでしょう? きっと仕事にまつわる抱負がおありだと思いますが、どんな仕事をしたいと思っているのですか?」
翡翠は続けて質問を投げかけた。
「桐島さんの方がまるで新聞記者みたいですね」
宮古は苦笑した。
「そうですね。今日質問しているのはわたしばかりだ。貴方こそわたしに聞きたいことがあるのかと思っていたのに」
翡翠は考え込んだ。考えが纏まらなかった。
「こんな質問をしているのは、わたしがニル・アドミラリの身辺を取材する相手として適当だとは思えないからです。────なのに先日、画廊で声をかけた時、あきらかに……」
彼は再び言葉をとぎらせる。
「貴方は父の話題で、わたしの関心をひきつけようとした。……わたしがニル・アドミラリに敵意を抱くことが目的のように────?」
そこまで云って、突然翡翠の唇に微笑が昇った。自分の唇がほどけるのを感じた。それは作った笑みでも、嘲笑でもなかった。翡翠にとっては、かたちにならなかったことが腑に落ちて、表情が溶けただけのことだった。プロクネでこの男と会って以来、いびつなままで彼の中にあった違和感の正体がようやく分かり始めたように思った。この宮古という男の言葉の中には嘘がある。しかし、この若い新聞記者がニル・アドミラリに感じている敵意は本物だった。浅薄な言葉と、その黒ずんだ敵意のアンバランスさが、翡翠に奇妙な不快感と違和感を与えているのだ。
「そうか────分かりました」
「……何ですか?」
「義憤を感じているという話なのに、わたしは貴方の話にはどこかリアリティを感じないのです。だから真剣味がないように聞こえるのかもしれませんね」
宮古は今度は表情を動かさなかった。
「真剣味がないですって?」
「ええ。ニル・アドミラリの行為そのものについてのお話には。彼が何をしているかというより、彼が悪であることこそが問題になっているように聞えるのです。先刻貴方がわたしに云ったことは、まるでニル・アドミラリという悪の城を観光案内するパンフレットのようです。何故わたしのような何の力も知識もない人間に、あんなことを云って聞かせるのか分かりません」
「……」
彼は自分の中でほどけた疑問をそっとたぐり寄せて、静かに言葉に変える。
「彼の行為によって社会に起きる影響について話すより、彼の行為そのものを身内の人間に羅列するようなやり方は、彼に個人的怨恨を抱くひとか、好奇心で話をするひとのように思えます。新聞記者のような、社会的影響を持つ仕事をするひとの原動力が、怨恨や好奇心であったり、またはそうであるような印象を与えるのは、マイナスではありませんか?────少なくともわたしには好ましく思えません」
翡翠はふっとため息を漏らした。
気持に、にわかに整理が付き始めた。この男については、自分が新聞社に照会するだけでなく、滝川に頼んで調べて貰った方がいい。こんなことに気づくのにも、自分がひどく時間がかかるのが腹立たしかった。
宮古は、話をしているうちに、少し様変わりしたように見えた。青ざめて厳しい顔を見せると、今までのように、人の好い印象はなくなった。
「それでは桐島さん、貴方は彼が犯した罪を認めないんですか? 桐島先生でさえ彼の手に掛かったかもしれないというのに?」
「……」
翡翠は沈黙した。宮古の言葉は彼の痛みの中心点を突いた。だが、今度は彼はそのインパクトに敗北しなかった。古い痛みはいつも彼の中で消えずに黒く輝き続ける、翡翠の慣れ親しんだ友であり、まだ起きていないことを恐れる不安よりもずっと耐え易かった。
「宮古さん。父の死の真相が、わたしの知らないところにあり、それがニル・アドミラリと関わりがあるとすれば、それはわたしにとって深刻な問題です」
彼は、なだめるような低い声でささやいた。
「でも、それはわたしと彼の問題であって、貴方には何の関係もないことです。わたしがそのことについてどう思ってどう行動するか、貴方と相談する必要は全く感じません。そして、貴方はこんなふうにわたしの心を動かそうと説得にかかるのではなく、新聞記者として成すべきことがあるのではありませんか? わたしからニル・アドミラリの醜聞以上の、何を得られると云うんです?」
彼はそっと立ち上がった。
「貴方の真意もお聞きしたかったけれど、今日、わたしの方でお話し出来るのは、そういうことです」
宮古は物云いたげに彼を見上げたが、翡翠はもう関心を失っていた。自分に出来ることはもうない。父の死の真相について、もっとはっきりとした証拠を握っているなら、切り札として宮古は振りかざすだろう。今現在は、この男はそれを持っていないのだ。彼が、翡翠にとっての真実の鍵を持っていないのなら、宮古に対応するのに自分は相応しい相手ではない。
「それでは、今日はお呼び立てして申し訳ありませんでした。急なお誘いに応じてくださって有難うございます」
彼は一礼し、入り口で二人分の支払いを済ませた。店の外に出て、車に戻る前に振り返った。
植え込み越しに店内が見える。翡翠は入り口に見える宮古をよく見ようと、眼鏡をかけた。彼は極端なドライアイでコンタクトレンズを受け付けない。
あの店に入室しようとした人間に入り口のセンサーが反応した場合、店内の保安員の指示に従って、客は店に銃を預けることになる。翡翠はそのために、車の中に銃を置いてきたのだ。しかし、宮古はそれを知らなかったのだろう。
宮古が、グレーの服を着た保安員から銃を受け取っている様子を、翡翠はじっと眺めていた。遠目なのではっきりとは見えないが、銃身の長い、重い銀色の銃だった。おそらくハンティング用のマグナムだ。滝川が使っている物とよく似ている。
新聞記者の宮古があんなものを持ち歩く理由はどこにもない。護身用として持ち歩く物としてはいかにも大袈裟なものだ。
「……」
「M29だ」
翡翠の背後から声がした。翡翠は振り返った。隣に立った男が、彼の肩越しに店の中を覗いている。翡翠は頷いた。
「新聞記者の持つようなものではありませんね」
翡翠が驚かなかったのを見て、男は恐縮したように太い首をすくめた。
「俺がいるの気が付いてましたか?」
「途中から」
「一回翡翠さんと目があったような気がしましたけど」
「ええ」
翡翠は頷いた。
彼がいることに気づいたせいで、翡翠は店を出るのを早めたのでもあった。
サングラスをかけた黒人の青年は、居心地悪げに首を傾げた。
「俺じゃ目立つからって滝川さんに云ったんですけどね」
「確かにわたしたちは目立ちますね、ここを離れましょう」
翡翠は車の方へ歩き出した。おそらく彼の車も翡翠の車からそう遠くないところに止めてあるのだろう。
ディヴィス・スコットはニル・アドミラリの直属のボディーガードの一人で、元ボクサーの在日アメリカ人だった。翡翠とは同い年で、そのためかニル・アドミラリのスタッフの中では比較的気安い相手だった。
スコットは大きな身体で翡翠の身体の盾になるように背後に回った。彼が周りを警戒しているのが分かる。
「新聞記者ですって、あいつが?」
スコットは唸るような声を出した。
「違うと思いますか?」
「新聞記者をやる前、学生時代何年も格闘技で鳴らした奴だっていうなら別ですけどね。身体とか動きとか、素人じゃないんですよ」
翡翠は目をしばたたいた。宮古の本音が、彼の言葉と違うのは翡翠にも分かった。宮古の言葉に嘘があるのを感じ取るように、スコットには「素人」ではないというのが分かるのだろう。
「最初はおっとりした人に見えたのに……」
翡翠は苦笑した。彼にはまだ嘘があるかもしれない。自分が東京にいるということが、どんなに無防備な状態なのか思い知る。ニル・アドミラリの家で住むようになる前は彼は一人で住んでいたが、自分の意志で外に出るようなことは滅多になかった。滝川が車を回して出かけてゆくとき以外は、かたくなにその部屋に閉じこもっていた。それでも危険がなかったわけではなかっった。
それが、自分自身の力で歩けるような気分になって外を出歩けば、こうしてスコットに影でガードされているのを知る始末だ。
「この後帰りますか?」
スコットは困ったように翡翠を見おろす。
「貴方の車で一緒に帰った方がいいでしょうか?」
少し考えて翡翠がそう答えると、スコットはほっとしたように口元をほころばせた。
「そうして貰えると有り難いですね。車で後ろからくっついていっても、何かあった時盾になれないですからね。車は後で俺が取りに来ますよ」
スコットは翡翠の肩口に手を添えるようにして歩き出した。翡翠の肩にこんなふうに気安く触れるのは彼だけだ。それは翡翠がスコットに好感を持つ理由のひとつだった。
「車の中に銃が」
翡翠がそう言いかけると、スコットは首を振った。
「いいですよ、俺がいれば翡翠さんに銃なんて撃たせませんから」
彼が緊張していることに気づいて、翡翠はそれ以上何も云わずにスコットの乗ってきた車に向かった。何故スコットがこんなにぴりぴりしているのか、彼には分からない。
スコットは大きな体で翡翠を覆い隠すようにしながら彼を車に乗せ、アクセルを踏んだ。サングラスをはずすと、下から険しい表情の灰色の目が現われる。
「翡翠さん、あいつに近寄らない方がいい。あいつは悪い奴だ」
車を発進させると、スコットはまた唸るような声を出した。
「────悪い奴?」
彼のように大きな体をした男が使う物としては、子供のようなその言葉に、翡翠は奇妙なひっかかりを感じて問い返した。
「俺には分かるんです。あいつは悪いものを背負ってる」
「……その悪いものというのは、悪意というようなことですか?」
「まぁ悪意とか、そういうものかもしれませんがね」
スコットは翡翠をちらりと眺めた。
「云っても信じないですよ、たぶん」
信じる、とは云えなかったが、スコットが話し続けるのを促すように、翡翠は沈黙で答えた。彼が黙りこくって自分の言葉を待っているのに気づいて、ハンドルを握ったスコットは、ふうっと大きな息をついた。
「……これは、親も信じなかったような話なんですけどね。俺、昔から幽霊みたいなのが見えるんですよ。人の後ろにくっついてるのとか、道ばたでぼんやりしてるやつとか」
「……」
「ボクサーやってた頃も、左側にすげえ重いのを乗っけてるやつとかいましてね。そういうやつは左を攻めるんですよ。そしたらやっぱりそいつの弱点は左で、勝っちまうんです。俺は結構強かったけど、そういうのも手伝って殆ど負けませんでしたよ。プロになって八位まで行った時、ヤバいことやらかしてライセンス取り上げられなきゃ、世界チャンプとは云わないまでも、結構いいところまで行ったかもしれないです」
翡翠は具体的に返事はせずに、黙って頷いた。
「でも時々、人間の形じゃなくてただ黒っぽいものとか、灰色になったのとかをくっつけてるのもいて、そういうやつはヤバいんですよ。……俺、社長にもそれで負けたんですよね」
スコットは、少し興奮したように唇を舐めた。
「ミスターに?」
「そうです。色々あってボクサーをやめたんで、その後結構荒れましてね。その頃知り合った女に、社長に酷い目に遭わされたとか何とか云って騙されたんですよ。荒れてるし、何をしていいのか分からないし、いきがりたいしで、俺がやってやるぜ、ってなもんで、社長が飲んでる店に潜り込んだんですよ。店員とかボコボコに殴って、一人で飲んでる社長に向かって銃を構えたんです」
スコットは、ハンドルを握った指に少し力を込めた。節くれ立った黒い指の先で、爪の周りに血が集まるのが見える。
「社長は一度俺を振り向いたきりで、そのまま俺のことなんて見えないように飲んでましたよ。翡翠さんは分かるでしょう? あの静かな何もないみたいな顔で。かぁっと来ましたけど、そのとき、社長の周りにものすごく大きな黒い塊があるのが見えたんです。無理してそう見れば、人間に見えるけど、霊なんて可愛いもんじゃなかった。ゆらゆら伸び縮みしてる真っ黒い影が、坐ってる足許から天井近くまでつながって社長を取り巻いてるんですよ。でも、あれは社長にとりついてるっていうんじゃなくて────もしもあんなかたちの犬が居るとすれば、真っ黒いものすごくでかい犬が、社長の周りにこう、ぐるっと坐って護ってるみたいでした」
翡翠は目を瞠った。
一瞬、ひややかな、戦慄のようなものが背筋を走り抜けた。スコットの云う通り、ニル・アドミラリが一人きりでいる時の、物憂くやわらかな、冷たい表情を、翡翠は想像することが出来る。その彼の背後に、部屋の床から天井に届くような巨大な黒犬が坐っている様子まで、まざまざと思い浮かぶようだった。
むろん翡翠が想像した物は、スコットが見たものと同じものであるはずがなかった。スコットのようなものを見る力は彼にはない。
だが、スコットがニル・アドミラリと初めて会ったとき、どんな衝撃を受けたのか、彼の今の話で充分に伺い知ることが出来た。
「貴方はどうしました?」
翡翠はそっと尋ねた。
「情けないですけど、社長の前で、身動きも出来ずに何分か震えてました。生まれて初めてあんなおっかない思いをしましたね。────それから俺は、社長の前にはいつくばって、俺を使ってくれ、って頼んだんですよ。自分でもそんなことを云ってるのが信じられないくらいでした。……そのうち、社長が根負けして何か云ったんですけど、英語だったんで、俺には全然分からなかったんですよ。ぽかんとしてたら社長が、面倒くさそうに『英語くらい勉強しろ、母国語だろう』って」
スコットは笑った。
いつだったか、彼が先祖の国に行ったことはまだないと聞いたことがある。
「彼はあなたを知っていたんですね?」
スコットは、翡翠の問いに少し驚いたような顔をしたが、頷いた。
「知ってたそうです。まぁ時々新聞に載るようなこともありましたから。……それにしても、自分に向かって銃を構えてたやつに英語を勉強しろ、なんて云いませんよね、普通なら」
「ええ」
「結局俺は、いまだに英語は喋れなくて、滝川さんに怒られるんですけどね。……あの時店内には実は隅の方に滝川さんがいたんですよ。俺が本当に引き金を引こうとしてたら、一瞬で指が吹っ飛んでただろうと重うとぞっとしますよ。社長の周りに見えてた真っ黒い影は、実は滝川さんの生き霊だったんじゃないかなんて思ったこともありますけど、どうもあれは社長が持ってるものみたいですね」
スコットはため息をついた。
「話はずれましたけど、いつも見える訳じゃないんですが、俺にはそんな風に何かそいつにくっついてるものが見えることがあるんです。……さっき翡翠さんが会ってた男、あいつにも、何だかヤバいものがくっついてますよ」
「……」
翡翠は、安物の背広に身を包んだ宮古の、暖かい笑顔を思い浮かべた。
あんなに甘い笑顔なのに、翡翠は最初から宮古に心を許すことが出来なかったことが同時に思い出される。
「わたしにも、それは分かる気がします。何か黒いものを砂糖衣で覆ってあるような感じがしたんです」
スコットはうなずいた。
「社長の後ろに時々見える黒いやつとちょっと似てましたよ。やつの後ろに見えたものは。でも、違うのは、社長の後ろにいるやつはただ黒くて吸い込まれちまいそうな感じがするだけで、いいとか悪いとか、そういう感じでもないんですけど、あいつのははっきり悪い感じがするんですよ。……ああいうのにやられてるやつは、本人にもヤバいんです。病気になったり、周りを病気にしたりします」
翡翠はぎくりとした。
自分はどうだろう。瞬間的にそう思ったのだ。
もし自分の後ろに何が見えるかスコットに尋ねれば、スコットは話してくれるだろうか。宮古がどういう男なのかは知らないが、彼の背後に何か邪悪な物がいて、人を害するというなら、自分にもそういった黒いものがとりついているのではないか。
しかし、翡翠はそれをスコットに尋ねる勇気はなかっった。それに、スコットが嘘をついたとしても、それが真実かどうかは翡翠には分からない。
自分に見えないものは存在しないものに等しいと思うしかない。
「彼にはもう会いません」
彼は低く、しかし力を込めて云った。
「あなたにもご足労をかけました」
「俺がくっついて行ったこと、怒ってませんか?」
スコットは少し不安そうな声を出した。それを翡翠は微笑ましく思う。スコットがライセンスを失った原因は、酔ったあげくの喧嘩で人を撲殺したことが原因だという話だった。しかしこの男には、どこか純粋な子供のようなところがあり、憎めない明るさを持っている。ニル・アドミラリも、彼のそういうところを気に入ったのではないだろうか。
彼は首を振った。
「いいえ、今がどんな時期なのか、わたしはよく把握していなかったようですね」
翡翠の言葉を慌ててうち消すようにスコットは言い継いだ。
「鬱陶しいでしょうけど、側にいれば絶対俺たちが護りますから────社長も翡翠さんも」
翡翠は複雑な思いで頷いた。
彼らがニル・アドミラリを護るのは当然のことだろう。彼らもまた、ニル・アドミラリに護られているからだ。
しかし、翡翠を護るために彼らがエネルギーを費やすことは、どうしても彼には当然のこととは思えなかった。
(こういう所が状況を分かっていないということなのだろうか?)
自問する。
しかし、だからと云って、彼らの手を煩わせないように一年中屋敷の中に籠っていることができるだろうか。
ニル・アドミラリの完全なセキュリティで鎧われた家は目の前に迫っている。
そこは安全なだけではなく、住み心地のいい美しく広い家だ。
しかし、そこを一歩も出ることが出来ないとすれば、いつかそこを、恋人の家だとは思えなくなるかもしれない。あの寂しく美しい家を愛せなくなるのは、翡翠にとっては酷く怖ろしいことのように思えた。
翡翠は、ドアの前で暫くためらったのちに、滝川の部屋をノックした。
滝川諒一の私室は、ガードマンたちの宿泊所のある、屋敷左翼の離れの二階にあった。滝川もこの時間なら夕食を済ませた頃だろう。
「どうぞ」
滝川のいらえを聞いて、翡翠はドアを開けた。
「翡翠様」
滝川は意外そうに眉をひそめて彼を見つめたが、慇懃に椅子を勧めた。滝川の部屋は、落ち着いた色調の家具を備えた小さな部屋だった。滝川は着替えて読書をしていたようだった。マホガニー色のデスクの上に、英語の原書が広げられている。
滝川は翡翠にすすめたソファの向かいに椅子を引き寄せて坐った。
「どうなさいました?」
「滝川さん、宮古という新聞記者のことは、もうご存じでしょうか?」
「ええ」
滝川はあっさりと頷いた。
「今調べさせています」
翡翠は唇を湿した。滝川のプライヴェートな時間を空費させまいと思うと、ほんの少し気が急いた。
「よく考えてみると、彼は意識的にわたしに近づいてきたのだと思います。────ミスターとわたしの位置関係のせいもあると思いますが、やはりわたしがミスターの周りで、一番彼の弱点になり得るからだと思うんです」
彼は自分でもその言葉に不足を感じて、付け加えた。
「わたしは迂闊だし、しかも自分の身を自分で守るのが困難です。ニル・アドミラリの城塞を突き崩すための手がかりとしては、最も適当だと思う人が多いのでしょう」
滝川は、それには何も答えなかった。しかし銀色のフレームの眼鏡で表情を殺した彼の目の中で、かすかに何かの光が動いたのを、彼は見たように思った。
「ミスターはわたしを許容し過ぎます。ですから、勝手なお願いですが、滝川さんにアドバイスして頂きたいのです」
「私に出来ることなら」
滝川はゆっくりと云った。
翡翠はほっとして息を吐いた。
彼は、自分自身の意思で何事かを決定することに馴れていない。何か思うことがあっても、それをはっきりと形にするのを避け、漠然としたままで胸の奥に残してきた。だから、今まで彼の抱えて来た問題は、余り浮上して来なかった。だが、ただ怯えて成り行きに任せていることに、彼は耐えられなくなり始めた。
意識的に努めれば、今日は考えていることをまとめて口に出すことが出来そうだった。
「……今年の夏わたしが撃たれたとき、ミスターは、暫く日本を離れて欲しいと云いました。その時、それに素直に頷けなかったので、わたしはここにこうして居て、皆さんの手を煩わせているということになります。あれからわたしも少し考えを変えたのですが、それでもやはり、出来れば日本を離れたくはないのです」
滝川は殆ど表情を変えないままで、翡翠に向かって頷いてみせた。
滝川のそれが、どういう意味があってのことなのか、翡翠には分からなかった。
「それで、もし、ここから離れるとしたら、わたしは京都に行きたいと思っています。あそこなら父の残したアパートがありますし、もう八年近く弟に会っていないので、弟にも会ってきたいと思います」
翡翠は生真面目に滝川を見つめた。教師に指示を仰ぐような気分になっている。銃の講習を滝川に受けて以来、翡翠はどこか滝川を師のように思っているところもある。
「滝川さんは、わたしの行き先として京都をどう思われますか? そんなところでは、かえって又ミスターに迷惑をかけることになるでしょうか?」
滝川の表情がようやく動いた。
彼はかすかに目元を和ませて、椅子にかけ直した。
「翡翠様にそんな風にお気を遣わせて、本来なら社長の家族を無条件に護るべき我々としては、望ましいことではないのかもしれません。が、個人的な意見を申し上げるのを許していただけるなら、翡翠様がそうやって社長の身辺を冷静に気遣ってくださることを嬉しく思いますし、強い共同意識を感じます」
滝川はそう云いながら、デスクの上に置かれた薄いノート型のパソコンの電源を入れた。翡翠は思いがけない滝川の言葉に顔を赤らめそうになった。この男に共同意識などと云われると、身の置き所がないような気分になる。
「翡翠様の元々住んでおられたアパートは、右京区にありましたね」
滝川はアパートメントの所在地の地図をモニタ上に広げて考え込んだ。
「少しはずれているか────」
独り言のようにつぶやいて、続いて何カ所かの地図を表示した。
「煉君のアパートメントが、左京区のユニヴァーシティエリアにありますね。センターの統括する地域です。ここは、この家よりも遙かに安全と云ってもいいかもしれません」
「そうなのですか?」
翡翠は首を傾げた。父の研究室と住居も、確か今煉が暮らす学生街のアパートメントの近くにあった。
「ええ。ここは大学の敷地と連結していて、保安システムを国家が管理しています。ID無しには誰も入構させない、三六〇度全ての方向から光のあたるエリアです。安全ではありますし、煉くんのアパートメントとも近い。この地域にアパートメントを契約なさってはいかがですか」
「そんなことが出来ますか?」
「桐島先生の遺産の研究資料を整頓する為として申請を出しましょう。そうすれば桐島先生の研究室の近くの、ごく治安のいい部屋を用意できるはずです。住み心地までは保証できませんが」
「どんな部屋でも平気です」
翡翠は頷いた。
かつて父が息子の為に用意した京都のアパートは古く、ひどく狭い部屋で、翡翠は自分自身と嫌でも密接に鼻をつき合わせることになって、息がつまりそうだった。
だが、今の翡翠はあの頃の少年とは違う。寂しいと思いはするだろうが、帰る場所も待つ人も、そのつもりになれば抜け出す方法もある。絶望を感じることはないはずだった。
それに京都に行って、父の遺した研究内容の整理に本当に着手してもいい。
翡翠はそう思って、不意に胸を小さく高鳴らせた。
父の膨大な資料を思い浮かべる。それには気の遠くなるような時間がかかるはずだが、彼の気持を紛らわせてくれるだろう。それにとてもやり甲斐のある仕事になるだろう。
紙に書かれた命のない資料なら、幾ら思い入れても、ある日突然彼らが事故や病で死ぬ気遣いはなかった。彼が京都に行くことを躊躇うとすれば、煉や継海の側に自分が行って、彼らに害をなさないかということ、自分が側を離れている間に、ニル・アドミラリに何かが起こるのではないかということ、その二点だけだった。
「本当に向こうに暫く暮らすお気持があるなら、情報を取り寄せて手配することはすぐに出来るでしょう。……ですが、まず私がそれをする前に、翡翠様が社長と話し合って頂かなければならないでしょう」
翡翠は無言で頷いた。
彼が望むことをニル・アドミラリが拒否するとは思えなかった。だが、京都で部屋を借りるにしても、暫く向こうで暮らすにしても、生活能力のない翡翠にとっては、ニル・アドミラリの力を借りずには出来ないことだ。彼に話をせずに滝川と相談して決めてしまうわけには行かない。
それに、それ以上にニル・アドミラリを一人で残して、一人で安全な場所へゆく、ということは、翡翠自身にとってもつらいことだ。
「社長には京都の弟さんの側に行きたいとだけおっしゃってください。そうすればおのずから後の手続きは私の仕事になります。今お話していたことは、社長から私に話があったあとに提案しましょう」
「……よろしくお願いします」
翡翠は、線の細い身体を素っ気ない部屋着に包んでキーボードを叩く滝川の姿を、自分がその恩恵を受けているにも拘わらず、僅かな羨望を捨てきれないまま眺めた。
滝川はニル・アドミラリの周辺の諸事を、どう切り回すべきか私情抜きで考え、実践する習慣と実績がある。
(この人がアレックスの恋人なら、アレックスもわたしにするようには心配しなくていいだろうに────)
彼は思う。彼が東京に来た頃から、滝川はこの家に住み込んでニル・アドミラリを雑事から解放していた。彼は独身であったし、恋人がいるのかどうか翡翠は知らない。いつも忙しく働く滝川は、そんなことを気安く尋ねられるような相手ではなかった。
もし滝川がニル・アドミラリに求められれば、彼自身の性向を押し曲げてでも応じたのではないだろうか。
そんな考えが頭をかすめる。
膝の上で握った手が小さな熱を握り込んだように熱くなる。そんなことを想像する自分を、翡翠は浅ましいと思った。滝川が私情を挟まない、とたった今自分自身思ったばかりなのだ。
「どうなさいました?」
滝川が声を低めて問いかける。
その声に、今までに感じなかった柔らかみが加味されているように思って、翡翠は不思議に思った。しかし、その声の柔らかさに助けられて、彼はようやく口を開いた。
「もうひとつ、お聞きしたいことがあります」
「何でしょうか」
「イーストガーデンビルのことです」
翡翠が云いだしても、滝川の声には何の変化もなかった。
「イーストガーデンビルが何か」
「あの街の店に、ミスターが出資していると聞きましたが、それは本当なのでしょうか?」
滝川の否定を望みながら翡翠は問いかけた。
それは、昼に宮古と話してから、実のところずっと翡翠の中で引っかかっていた事だった。
滝川がそれに答えるまでは一瞬の間があった。
「社長が出資しているというのは正確ではありませんが、我が社がガーデンビルに出資しているのは事実です」
翡翠は一瞬自分の表情に走った嫌悪感を、滝川の目が捕えたことに気づいて目を伏せた。
「ああいうところに出資することは、必要なことなのですか?」
「────一つの企業の投資先の選択肢は多伎に渡ります。けれど、我が社は先代からあの区域とは深い関わりを持っていました。現在、我が社はイーストガーデンビルのエリアに三つのビルを所有し、十八店舗の権利を持っています。年内に、更に数店舗買収する予定になっています。各店舗の店長の選別と労働条件の管理は、ごく最近まで社長が自ら行っていました。それは彼が先代の生前に引き継いだ仕事です」
「……」
「先代が、社長の前にイーストガーデンビルの管理を任せていた人物は、最小限の投資で最大限の利潤を得ることに、最も関心を払っていました。イーストガーデンビルの中に膨大な店がある故に、他店との競争にも勝たなければなりません。ですが、経営方針のミスで労働条件が劣悪になり、就業する者の健康状態にも問題が出始めました。従業員の不満を抑えるために労働条件を改善するのではなく、彼は暴力と脅迫で従業員を定着させようとしました。結果、利用客の中に重大な伝染病の感染者が多数発生し、我が社の経営方針を問われる事態となったのです」
滝川の語調は冷淡に思えるものだったが、翡翠には彼が自分の心情を慮っているのが分かるような気がする。感情論になって翡翠を刺激しないように、事実だけを話そうとしているのだ。
「そこで、先代から新しく仕事を任されたのが社長でした。社長は先代に、従業員の待遇を改善し、周囲の方針と融和することの重要さを説いた上で、全ての店舗を数ヶ月で公的な認可の下りる営業内容に改造したのです。結果的にイーストガーデンビルの店舗は、我が社に確実な利益をもたらすものになりましたし、生活の辛苦に喘ぐ数百人の女性に仕事を提供しています。今や搾取されていると感じている従業員は殆どいないでしょう」
「……それがゼロではない理由は何ですか?」
翡翠が尋ねると、滝川は苦笑に口元をほころばせた。
「人が集まって働く場所で、不満が無いということはあり得ません。不満がない、と断言すれば、そこは宗教家の集団になります」
滝川は、額に降りてきた髪をかきあげて思案した。
「こんなことを説明しても、翡翠様が感じる嫌悪感が解決することはないでしょうね?」
翡翠は困惑して目を上げた。
「すみません」
どう説明して良いのか分からずに迷う。
「────きっとわたしは事態を把握せずに、こんなことを云っているのでしょうね」
滝川は首を振った。
「そういう感覚は、具体的な情報のあるなしに左右されないものです。必然性があれば諦めることも出来ますが、それを是とまですることが出来るかどうかは、それぞれの生まれつきの感性というものではありませんか?」
「……」
「そして、そういう翡翠様を社長は必要としているのです。貴方が社長に妥協する必要はありません。その逆がないのと、それは同じ事です」
はからずも煉が半年前翡翠に云ったことと、同じ事を滝川は云った。翡翠はこころの中で整理をつけられないまま頷いた。
しかしいずれにせよ彼は、人と言葉を交わしている最中に、天啓を受けるようにして事の解決を見ることは少なかった。いつも自分自身であきれるほど時間をかけ、失敗と自己嫌悪、そして苦痛を伴った自己反省と共に僅かずつ納得してゆくことが出来るばかりなのだ。
しかし滝川が思うのと逆で、翡翠の中で、ニル・アドミラリの仕事を受け入れられないのは、むしろ理屈の面だった。
感覚では、ニル・アドミラリへの思い入れから全てを受け入れたいと思うことすらあったが、しかしそれが必要悪だという事実を納得出来ないのだ。
「滝川さん、有難うございます。煩わせて申し訳ありません」
滝川は首を振った。
「また何かお尋ねになりたいことがありましたら、いつでも」
そう云って彼は、静かにモニタの電源を落とした。
「ちょっと待って」
煉は二人分の荷物を置き、華奢な壊れ物に衝撃を与えないよう、慎重に両腕で抱え上げた。
すぐにエレベーターホールにつくが、そこまでに五段分の階段を上らなければならない。彼が抱え上げた身体は少し前に関節の手術を行ったばかりで、たった数段の段差を登らせるのも痛々しかった。
「このくらいのところ、もう登れるのに」
階段を上りきって、嘘のように軽い身体を一旦降ろすと、継海は薄く笑った。
「どうも有難う」
「どういたしまして」
下に駆け下りて、荷物を取ってくる。
「ゆっくり歩けよ」
「分かってる」
継海は今年になって、何度か外泊を許されるようになった。そのたびに煉は胸をときめかせて継海を迎えにゆき、自分のアパートメントに彼を泊めるために部屋を整えた。継海はその内、外泊の許可が出る度に煉に先ず連絡をくれるようになった。
感情の起伏がやや薄いために気づきにくいが、継海は兄の翡翠よりずっと他人と過ごすのを好んだ。
ごく幼い頃から中央医療センターのベッドで過ごし、教育も教授たちがベッドサイドに訪れて代わるがわる相対で行う環境で、人が嫌いなら辛かったことだろう。
だが、継海はもの静かだが知識欲が旺盛で、人と話すのも好きだった。翡翠のような魔物めいた吸引力はなかったが、継海自身も独特の魅力を持っていた。
煉は、自分が継海に友人として受け入れられていることを思うと誇らしさに胸が一杯になる。
継海は痩せた足をそっと踏みしめて、味わうようにアパートメントのコンクリートの床を踏んだ。廊下に差し込んでくる金色の光にまぶしそうに顔を向ける。ひっそりと長いまつげの奥で、榛色の両目が幸福そうに輝いた。
こうやって外出する度に、継海は外界を全身で祝福しながら味わうのだ。隣にいると、煉もその感覚を追体験することが出来る。
継海がまぶしそうに日差しの方向へ顔を向ける様子を見ていると、雪の中で凍死しかけていた自分が、翡翠に暖かい部屋に迎え入れられた八年前の日のことを思い出す。
思ってもなかった光が自分を取り巻いているのを見いだした瞬間だ。煉は今年の夏、車のライセンスを取った。論文が売れた残りの金はまだあった。本当は継海さえ車に乗れる身体なら、小さな車を買って、継海をもっと外に連れ出してやりたかった。海も、空も、もっと見せてやりたかった。
だが、煉の金で買える車はガソリン車以上のものは無理だったし、ガソリン車は排気ガスが出るため、とても継海を乗せられない。もっと安全でクリーンな車を買おうと思ったら、煉の論文がもう三、四本は売れなければ無理だった。
「そうだ、このアパート、建物全体がソーラーシステムになったんだ」
煉は、ドアを開けながら継海を振り返った。
「この前来たときは、まだ暖房にガスが使われてただろ? 継海がガスの匂いがするって気にしてた」
「ああ、うん────」
継海はそれを思い出したのか、少し申し訳なさそうな顔になった。
「気にするなよ、そんなこと。僕だってソーラーシステムに変った方がまるで快適なんだしさ。壁紙もビニールをやめて天然木に貼り替えたから、家中どこにも嫌な匂いはしないと思うよ」
そう云いながら道を空けると、継海はそっと部屋に入ってきた。目を閉じてそっとあたりを伺うような仕草を見せて、彼は唇をほころばせた。
「本当だ。快適だね……ログハウスに住んだらこんな感じかな? 壁に木材を使ってるから、日が入って部屋中金色になってる」
「そうだろう?」
煉は継海が喜んだことで満足した。継海が、煉の部屋の壁紙に使われたビニール素材の匂いにさえ気分が悪くなることを知ったのは、継海が帰って行った後、呼吸器を悪くしたからだった。医師に、もしもビニール素材が床や壁に使われた環境に継海を泊めるなら、今後外泊許可は出せないと云われたのだ。
ビニールの匂いなどというものを意識したことがない煉は驚き、小さな部屋の壁紙を二部屋とも剥がして、薄い天然木の素材に貼り替えた。
ビニールが駄目だというなら、人絹もきっと使わないに越したことはないだろう。木綿のシーツや服はやや高価だったが、自分のためでなく、継海のために買うのだと思えば楽しかった。幸いにして煉は、自分自身で収入を得ることが難しくなくなっている。努力すれば論文を売ることも出来るし、最近では家庭教師でそれなりの収入を得ることが出来る。
彼は去年、高校課程をスキップして大学に進んだ。後数年すれば学位が取れるだろう。二十歳からは教師として教えることが可能だ。そうして将来的に大学で教鞭を取れれば、自活して、翡翠の被保護者であるという立場から抜け出せる。
そうすれば、結果的にあの男の被保護者であるという屈辱的な状態からも逃れられるのだ。
彼は、複雑な思いで、背の高い黒い瞳の男を思い浮かべた。生まれながらにして世界を手にしたように鷹揚に周囲を付き従える男だ。自分でさえ、彼には吸引力を感じるのだ。
「煉?」
継海が不思議そうに彼の顔を見上げた。
「……ごめん、ぼんやりして」
煉は、ベッドルームのドアを開けた。
「疲れてたら横になるといいよ」
「有難う」
この部屋の壁にもぐるりと木材を貼った。継海は新鮮そうにそれを見回している。医療センターの壁は、無論彼の健康に障るような素材は何一つ使われていないが、その分この木材の壁は珍しく、継海の目を楽しませてくれるだろうと思ったのだ。
「夕食は僕が作るよ。たいしたものは作れないけど。夕食が出来るまで少し寝てたら?」
満ち足りた表情とは裏腹に、少し目元に疲れを見せ始めていた継海は素直に頷いた。
「じゃあ悪いけど、少し眠らせて貰うよ。どうも有難う」
彼の足許がほんの少しふらついたのに気づいて、煉は継海に手を貸した。煉の健康な腕に、相変わらず人形のように脆く軽い感触を残して、壊れそうにほっそりとした少年は、煉のベッドに沈み込んだ。新品では寝心地が悪いだろうと、木綿のシーツもベッドカバーも、一度洗ってよく干してある。うす緑色の寝具に埋まって、継海はほっと小さな吐息をついたかと思うと、すぐに寝息をたて始めた。
淡いみどり色は、継海の栗色の髪や目とよく似合った。そういえば翡翠もみどり色がよく似合う。二人は、雰囲気こそ違え、よく似ているのだ。
なのに、あれほどぼろぼろに自分自身の気持を苛む翡翠は健康そのもので、バランスよく落ち着いた継海が、こんなに病弱だというのは皮肉だと思った。もう少しこころも身体も二分して、平凡な人間を二人作り上げられれば、二人とも楽だっただろう。
煉はそう思いながら、窓のカーテンをそっと引いた。自分で取り付けた金具に、点滴用のパックを吊るした。外出する時も一度は点滴を受けないと継海はたちまち体調を崩す。
継海に、煉のアパートメントでも点滴出来るように、この夏いっぱいかけて講習に通い、煉は家庭内介護の資格を取ったのだ。無論それは、医療資格とは根本的に異なるものだった。毎日同じ薬品を投与すると決まっているものに関して、アンプルを打つことが出来、点滴の処置をすることが許されているというだけのことだ。投与されるものの内容は、全てセンターで管理され、支給されるのだった。
家庭内介護の資格を取ったんだ、そう云うと、継海は目を丸くした。
(「君みたいに忙しい人が?……君こそ健康状態は大丈夫なの?」)
気遣わしげに眉をひそめる。
煉は笑って、彼に自分は大丈夫だと請け合った。事実、彼は無理をしているわけではなかった。ただ、自分の大切な相手には、死にものぐるいで尽くしたいという衝動が彼の中にはある。
(────リカ)
その名前は煉の中で、さまざまな目的意識がはっきりしなくなった時、呪文のように唱える名前だった。ゴミ置き場に捨てられて呼吸が止まっていた煉を拾って育ててくれた女だった。乳の出ない乳首を泣き叫ぶ煉に含ませてあやし、煉という名前を彼につけてくれた。
煉が九歳になった冬、雪の降る日に、リカは貢いでいた男に首を絞められて殺された。
彼はその日、リカを殺した男を刺して逃げ出した。男が眠るのを待ち、完全に命が絶えるまで何度も心臓を刺した。リカに自分がしてやれることはもうこれしかないのだと思うと、歯ぎしりする思いだった。今もあの男を殺したことを後悔してはいない。
雪の中で死にかけたいた彼を翡翠が拾い、いつかリカが彼に食物と名前を与えたように、今度は翡翠が家と姓を与えた。彼はまだその頃十六歳だったため、自分が十八歳になるのを待って、煉を自分の籍に入れてくれたのだ。翡翠に貰った姓とリカに貰った名で、煉は生きている。
あの日彼は必死の思いで男を刺し、おそらく男は死んだが、それは煉の心を癒すための手段に過ぎなかった。リカは死んだのだ。煉が自分のために復讐したことも、今でも自分を覚えていて愛していることも彼女は知らない。
結局、それは煉がリカのためにしてやれたことではなかったのだ。死者を悼む弔いを行っただけのことだった。何か自分に出来ることがあるのなら、彼らが生きて暮らしている時、先延ばしにせずに精一杯やらなければならない。そうでなければ自分は必ず後悔する。
煉はそれを、自分自身の苦い体験で学んだのだ。
継海には、何をしてやりたいか、すぐに思いつく。それは継海の価値観が整頓されてシンプルだからだ。彼は健康な体を望み、しかしそれが果たされない以上、可能な限り病を克服して、本を読み、勉強をして過ごしたいのだ。
彼のためなら、煉に出来ることは幾らでもあった。しかし翡翠のためには何が出来るのか分からない。
彼がそう思ったとき、不意に電話がかかってきた。
考え込んでいた煉は小さな電子音に、飛び上がりそうに驚いた。
「もしもし」
声を落ち着けて答えると、向こうから、聞き間違えようのない声が低く彼の名前を呼んだ。
『────煉?』
胸が高鳴って、煉は受話器を握り直した。滅多に電話などかけて来ない人からの電話だった。十五分帰ってくるのが遅かったら、受け取れないところだった。彼はメッセージボックスに声を残してゆくことなどおよそしない人だ。
「翡翠」
『久しぶり。────元気だったか?』
「僕は相変わらず。翡翠は?」
『……突然だが、来週京都に行くことにした』
翡翠は何の前触れもなく話を切りだした。煉は耳を疑った。京都で生まれ育った翡翠だが、十六歳になった年、ニル・アドミラリに迎え入れられて東京に渡って以来、彼は一度も京都に帰って居ないのだ。継海にも当然、一度も会っていなかった。
「京都に、旅行で?」
『いや、暫く滞在することになった。どのくらいいることになるのかは分からない。煉のアパートの近くに部屋を借りることになった。そのときはよろしく頼む』
「翡翠」
翡翠の、感情の見えない声に焦れて、煉は思わず語調を強めた。
「継海には話してないよね?」
電話の向こうから、屈託のある沈黙が返って来る。
『……ああ、まだ』
「今、継海は僕の部屋に来てるんだ。外泊許可が出たから……もしよかったら彼を起こして、電話で直接話をしない?」
今度返って来た沈黙は、先刻のものよりも更に重いものだった。翡翠は電話口でやがて重いため息をついた。
『いや、今はよそう。わたしが京都に行くことだけ継海に話しておいてくれないか。後は、会いに行くなり、手紙を書くなりするから』
「待ってよ、翡翠、じゃぁ継海に直接会いに行かない可能性もあるっていうこと?」
思わず声が高くなった。煉は、自分のベッドで眠っている継海を起こさなかったかが気にかかって、ドアを細く開いて向こうの部屋をのぞき込んだ。
『まだ分からない。また連絡する』
やわらかいが、どこか憮然とした口調で翡翠はつぶやき、煉のいらえを待たずに静かに受話器を置いてしまった。電話が切れたことを示す発信音を聞きながら、煉は茫然として、もう一度継海の眠る寝室を振り返った。
(非常に悲しいお知らせですが、続いています。)