新年が明けてからのマチルダ騎士団領は厳しい寒さに見舞われた。
上下水を凍らせぬよう、厨房では夜を徹して火が焚かれ、歩哨や伝令の騎士達のために新しい外套が配られた。威嚇的な灰色の石を積んで作られたロックアックス城の城壁には、毎朝びっしりと霜が付いた。昼過ぎにようやく霜は溶けて、石を湿す湿気となって残り、夜気に出逢って再び凍り付くのだった。
淡い暁光の中に凍る城壁は鋭い銀色に輝き、氷で作った城のように冷たくきらびやかだった。
手足を凍り付かせる寒さの中で、騎士達は鼻を赤くして外套の中の身をすくめ、一日の務めをそそくさと終えて、酒瓶と共に部屋に閉じこもった。街から雇った木こりや下男の手だけでは足りず、若い下級騎士たちが、森へ薪を切り出しに出かけた。
しかしそれは、個々の心の中はどうあれ平和な新年だった。
ハイランド王国との間にはミューズが率先して取り纏めた休戦条約が取り交わされ、国境警備や、領内の見回りと監督、平常の務め以外には差し迫った務めはなかった。馬に橇を付け、凍る息を白く吐いて森へ出かけてゆく若い騎士達の顔には、遊戯を楽しむような気楽な表情があった。
過ぎた年の終わり、それぞれの騎士団長の対立によって、白騎士と青騎士の間に高まった緊張もほぐれつつあった。
凍えないようにそこここに火の焚かれた城の中でも、グリンヒルから招いた紋章師達の滞在する部屋は殊に念入りに薪がくべられていた。
ロックアックス城に出向いた五人の紋章師は、その内四人までが女性で、唯一の男性紋章師も含めて全員がか細く線病質に見えた。彼らはまるでこの寒い森の城に不似合いだったのだ。
不慣れな寒気の中で紋章師達が健康を害することがないように、騎士達は交代で彼らの為に火を起こした。それは下働きの仕事ではあったが、透けるように色の白い、華奢な女たちの為に暖炉に火をくべることを嫌がる騎士は、おそらく城内に一人もいなかったことだろう。
南に大窓のある一室は紋章師の長のために与えられていた。そこには作りつけた暖炉に加えて鉄製の大きなストーブが持ち込まれ、汗ばむほど暖かだった。
紋章師達の長、ジーンは、その部屋の中に女王のように坐っていた。彼女が身につけた衣装は、マチルダの夜を過ごすには、たとえ夏でも薄すぎる絹だった。だが、そのことでこの女に忠告がましい口をきける者はいなかった。彼女に教えを乞う騎士団長たちでさえそうだった。
青騎士団長であるマイクロトフは、紋章を封印した硝子球に光が当たらぬよう、厚いビロードのカーテンがかけられたこの部屋に、数日前から通いつめていた。一日のうち幾ばくかの時間、ここで紋章についての教えを受け、自分の魔力の属性を見極めるための判定を繰返している。
最初は女の妖艶な美しさに半ば幻惑されたようになったものだが、暫くすると、とてもそんなことに気を散らしていては、この女の教えにはついてゆけないことが分かった。女は皮肉な感情家であり、無駄口や世辞、無理解を嫌った。
(魔導師というものはそんなものなのかもしれないな)
勤勉な生徒であることを暗に要求され、それに応えようと努めながら、マイクロトフは苦笑する思いだった。少年時代、先輩騎士と共に剣を学んだ時ですら、こんなに身を固くして相手の言葉に耳を傾けたことはなかったように思う。
女の前に差し出したマイクロトフの手の上で、弾けるような音がした。
手の甲に小さな稲妻に貫かれたような痛みが走る。
異質な痛みに思わずぴくりと手が震えた。
紋章師は眉をひそめた。
「駄目ですね」
女は、後にまとめていた髪を解いた。肩や胸元に長い髪があふれ落ちてくる。銀色の雲のような髪に透ける唇がため息をつく。
「火も土も風も駄目。水は最悪と云ってもいいくらいですわ」
「────自分には紋章を使う素質が全くないのでしょうか?」
マイクロトフの問いを黙殺して、ジーンは長い爪で彼の喉元を指した。
「……青騎士様、その分厚い上着をお脱ぎになったら。汗をかいておいででしょう」
口元にはかろうじて笑みが浮かんでいるが、声は素っ気ない。マイクロトフは、その爪に喉を刺されたような、ささやかな幻痛を感じた。
「失礼……。ですが、公務中に礼服を脱ぐ訳には」
マイクロトフが云いかけると、紋章師は眉をひそめて首を振った。
「集中力が妨げられているので、そう申上げているのがお分かりにならないのかしら」
紋章師の声の険悪さに驚かされて、マイクロトフは内心閉口しながら上着を取った。
「青騎士様に魔力がないわけではありません。剣を佳く使える方というのはある種の魔力も備えているものです。ただし青騎士様の場合は性質が頑固で、自分と相性のいい紋章しか受け入れられないようですわね。普通なら自分と相反する属性をここまで頑なには拒みませんから、特に不自由はありませんけれど」
紋章師は、右手の甲に火傷のような赤い痣の出来た青騎士の手を包み込んだ。紋章を受け入れられずに、拒否反応が手の甲の皮膚の上に、こんな跡を残したのだった。しかし、炎症を起こした手の痛みは、紋章師の指に触れられていると不思議に和らぐようだった。
もうひとつ不思議なのは、こんな美しい女に手を握られていても何も感じないことだった。扇情的な姿をしながら、この女は、煽るだけ煽った男の欲を受けつけないところがある。身体の回りに冷たい銀色の光の膜があって、生臭い気持を吹き付けられてもその膜が霧散させてしまうようだった。
「地水火風の紋章でなく、特殊紋章の中からお使いになれるものを選んだ方がいいかもしれませんわね。物質紋章とは相性が合わないのかもしれませんわ」
マイクロトフは応えようがなく、ため息をついた。
紋章────魔力の属性は基本的には地水火風に分かたれている。しかしこの四つの属性は物質のみを顕したものであり、本来人間の中に在る魔力の属性の内、「精神」の部分を省いたものだ。
(「……精神とは五つ目の属性「光」にあたるもの。これはわたし共の扱う紋章学の考えからは微妙に外れたもので、ハルモニアの古い魔法学に通じる考え方です」)
この講義が始まって間もなく、ジーンはマイクロトフに、魔力の属性を描いた、彩色された形象図を見せた。
火を顕す深紅の三角形テジャス。
土を顕すカナリア色の四角形プリティーヴィー。
両の尖端を上に向けて横たわった銀色の三日月は水を象るアパス。
空の象徴である青緑色の真円ヴァユ。
そして暗紫色の卵形のアカサは、精神と天体の光を表現している。
マイクロトフはそう教えられた。
「この間お教えした、精神の紋章を覚えておいでですか」
紋章師は、彼の手から目を離して顔を上げた。
「ええ、五つ目の属性ですね」
「五つ目と云っても、これは単純に一つの属性を表すものではないのです。暗紫色のアカサの色が、情熱や革命を司る赤と、理知と警戒を司る青、神秘と裏切りの黒をよりあわせた色であるように」
ジーンは腕を伸ばし、林檎の枝先に実った実をもぐようにして、絹紐と網で吊るされていた紋章球を二つてのひらに受け取った。濃緑色のビロウドの布の上に、淡く光る紋章球を置く。紋章球は女性のてのひらにそっくりくるみこめる程度の大きさで、ひとつは薄い青、一つは半透明で、中心に銀色を帯びていた。
「この青い紋章が『巨人の紋章』……この銀色の方が『見切りの紋章』です。名前は過去の紋章師達がつけたものですが、それぞれの名前には多少の意味があります」
「巨人の紋章とは?」
「この紋章は力を補強します。剣士の方が宿すのによいものでしょう。両腕にはたらいて、重く強い力を呼び起こします。その代わり、腕にかかる負荷は大きなものです。鍛錬を積んだ方、両腕に同じだけの力を持った方でなければ宿せません。魔力で腕をくじくような方には使えませんわ」
ジーンは軽く肩を竦めた。
「……『見切り』は、視る力を補正する紋章です。優秀な剣士がこれを宿せば、敵の刃をかいくぐって反対に相手を切り裂くこともたやすいでしょう」
マイクロトフは嘆息した。そんなことを紋章によって可能にするというのは、彼等のように紋章を拒んで来た騎士にとっては想像を絶することだった。
「……いずれも、本人の普段の鍛錬が必要になるようですね」
「仰る通りです」
ジーンは微笑んだ。
「例えば目の前の青騎士様ほど、この二つの紋章を宿すのにふさわしい方はいらっしゃらないのではありませんか?」
多少口調をやわらげて、女はそう云った。
「そうでしょうか」
マイクロトフはビロウドの上で淡い光を放つ紋章球を見下ろした。
ジーンが、その紋章を自分に、と勧めているのは分かった。カミューと紋章の話をした時は、紋章を使って戦うことに抵抗がない、と云ったマイクロトフだが、しかしいざこの紋章を使えば能力を補強できると云われた時、胸中に生じる一抹の抵抗を否定することは出来なかった。
「巨人」と「見切り」。
それはどちらも素晴らしい効果をもたらすものなのだろう。
ただしそれは、己の鍛錬による力ほど、手応えを伴うものではあり得ない。
(相性が多少悪くとも、回復魔法が使えるといいが────)
マイクロトフは嘆息する。ジーンに云わせれば、相性の合わない紋章を宿して魔力を浪費することは愚にもつかない事だそうだ。魔力といっても別の引き出しから取り出す別の能力ではない。闘う精神力と直結しているのだ。魔力を消耗することはいたずらに精神力を消耗する事だった。魔力そのものの顕現がはかばかしくない上、水の紋章と相性の悪いマイクロトフには、水の紋章を用いても、魔法と名付ける程の効果は望めないだろう。
(それでも……戦場で一時痛みを抑えるだけでも話は違う)
まだ水の紋章を諦めきれずに、マイクロトフは周囲を見回した。絹紐の先で揺れて光る紋章球は、そこに届かないものを封じ込めている象徴のように、ひややかに輝かしい。
マイクロトフはふと、ひとつの紋章に目を止めた。それはよく磨かれた紋章球のただなかで、一つだけかすかに汚れて皹の入った硝子球に封じ込められていた。しかし埃をかぶったように曇る割れた硝子も、その中で燃える、高温の炎のような青い紋章を隠すことは出来なかった。
彼は、その紋章の青いゆらめきから目を離せなくなった。とろとろと燃え続ける青い紋章は、マイクロトフの意識を吸い込んでしまうように美しかった。
「これは、どのような紋章ですか?」
マイクロトフがようやく声に出すと、紋章師はそれをかえり見た。淡い真珠色で彩った唇から、この女の特徴であるかすかな微笑みが剥がれ落ちた。
「これは────、お売り出来る物ではありません」
彼女は手を伸ばして、絹の網からその紋章球を取り出した。指先に長い爪を備えた手のなかで、傷が付いて曇った紋章球を転がした。紋章師の目が、挑むようなあかるい緑から、感慨を示す暗い色に変った。
「……これは、戦場でわたくしが蒐集してきた紋章です。ある戦士のなきがらから」
「紋章をそんな風に集めることもあるのですか?」
マイクロトフは自分の声に嫌悪が表れたのを感じた。宿した紋章は、人の死と共に潰えるのだと思っていたのだ。亡骸から紋章を集めるという行為は、彼には冒涜的な行為に思える。
「ほんの時々。この紋章が自分にとって特別だったからでもあります。この紋章をハイランドの騎士の左手に宿したのはわたくしですから」
女は、紋章球を目の前に掲げた。
「この紋章も属性はアカサ────精神の紋章で、特殊な追加効果をもたらすもの。人の生命力を目で見ることが出来るようにする力を持っています」
「生命力を?」
「ええ。わたくしも何度か自分で効力を試したことがありますけれど、色の付いた霧のようなものが人の背中に見られるようになります。充実して健常な体力を残した者ならば赤く、薄れるにつれて、橙色に、淡い黄色に────薄い緑、暗い青緑、弱って余力を殆ど残さない者ならば白に近いような薄青に変ります。これを追加効果と呼ぶ理由は、手傷を負った敵を見極めて効果的に追いつめて倒すことが出来るからです。けれど、この紋章を望む方に、力をそのような老獪な手段として用いる方はいらっしゃいませんでした。わたくしがこの紋章を初めて見出した時、それは既に、或る騎士の亡骸の手に遺されたものでした。その騎士は、弱った自軍の兵士をかばって命を落とされたのです」
「……なるほど」
マイクロトフはつぶやいた。
ジーンより以前に、この紋章を騎士の手に宿した紋章師は、敵の力の強弱を見極めるため、紋章を差し出したのだろう。しかし実際には、死んだ騎士は味方の傷をかばって命を落とすことになったのだ。
「ですから、次にこの紋章を宿して欲しいと仰る方にそれをさしあげた時、わたくしはくれぐれも、戦場で敵の力を見極めるためにのみお使いになるようにと申し上げました。戦いの場で、味方の傷に行き過ぎた気配りをするのは、ご自身の安泰をみすみす手放すようなものですわね?」
「……それは、そうでしょうね」
マイクロトフはゆっくりと答えた。その声に何かを感じたように、紋章師は目を上げて彼を見つめた。
「貴女の手で、次にそれを宿した騎士はどうなりましたか?」
「その方も、先刻申し上げたように亡くなりました。お若い将校でした。勇猛に闘った末、やはり傷ついたお味方をかばって背中から斬られたのだそうです」
ジーンはそっけなくつぶやく。
「皆様が、それほどに騎士道精神に満ちておられるのでは、到底これを、戦場に赴く戦士の手に宿すわけには参りません。ですからこれは、わたくしが紋章を宿してさしあげる時、その方の性質を見極めることを忘れないよう、自らの戒めとして手元に置くことにしたのです」
「その紋章は何という紋章ですか?」
女は首を振った。
「知りません。珍しい紋章でこれひとつしか見たことがありませんから」
何か物思うような沈黙の後、紋章師はその紋章球にそっと触れた。
「でも────自分で勝手に名付けた名ですけれど、わたくしはこれを、『騎士の紋章』と呼んでいます」
「マイクロトフはいるか」
青騎士団の執務室の扉を開けて入ってきたのは、公以外でここに来ることのない赤騎士だった。いつになく気色ばんだカミューの様子に、書き物をしていた青騎士団の副団長、ベルナールは驚いたように首を振った。
「いいえ、団長は今日はミューズ国境に視察に出ています。急な御用事でしょうか」
「……いや、急な用事というわけではないが……」
珍しく言葉を濁す。やがて感情を抑えがたいようにため息をついた赤騎士は、友人の忠実な補佐役から顔を背けた。ベルナールは益々いぶかしげにその顔を見守った。
「君たちの騎士団長が帰城したら、公務を済ませた後でわたしを訪ねるよう伝えてくれないか」
カミューは、自分の行動が不審を招いていることは充分に分かっていた。怒りや苛立ちを、ことにマイクロトフの部下に見せることの醜態についても思わずにいられなかった。しかし、それでもなお怒りが上回った。怜悧だが激しい騎士団長を佳く支える小柄な青騎士は、それ以上問い質すではなく、
「畏まりました」
そう答えた。
部下にどんな風に伝言をされたものか、マイクロトフがカミューの私室を訪れたのは、城に帰って間もない、晩課の鐘の鳴る頃であった。夜気にさらされた黒髪がまだ少し湿っている。
「いいか?」
私用の手紙を書いていたカミューはペンを置き、戸口に立った大きな男を眺めやった。
「呼び立てるようなことをして済まなかったな」
「いや────用件は何だ?」
マイクロトフはゆっくりと慎重な口調で答える。部屋をようよう暖める暖炉の熱が逃げてゆかないよう、扉を閉ざした。彼は何を非難されるのか予期しているように、黒い瞳を僅かに伏せた。
カミューは小机の前を離れて、友人に、火の前の椅子に座るよう促した。云われるままに腰を下ろすマイクロトフに向かい合わせて腰掛ける。
「今日、紋章師のジーン殿にお会いして、お前の宿した紋章について聞いた」
「────そうか」
マイクロトフは無表情な声で応えた。表情を消すと、彼の低い声は冷淡に響く。
え、ここで続くの?というところで続く。