沛然と降る雨がロックアックス城を覆い隠していた。
彼は終課の鐘を過ぎた頃、城に帰って来た。裁判を終えて一度城に戻った後、鍛冶屋からダンスニーを受け取るために城下町へ下ったのだ。大きな裁判が行われたせいで城の内外に興奮が漂っている。今日は街でも余り目立つようには歩くまいと、彼は夜がふけてから再び私服に改め、城の外に出たのだった。緊張のためか、ゴルドーへの怒りの名残りなのか、マイクロトフは、自分の体が高熱をはらんでいるのに気づいていた。しかしいつものそれほど辛いものではなく、ただ、骨や関節が炎をひそませたように熱かった。
夜に入って降り出した雨の勢いはいまだ激しく、蒼い針のような寒気が厚手の外套の中にまで染み通ってきたが、火をはらんだマイクロトフの身体は、悪寒すら寄せつけないほどだった。
水滴を滴らせてダンスニーを携え、城内に戻ってきた彼を見て、擦れ違った騎士たちは目礼したが、声を掛ける者は殆どいなかった。
普段は、無骨だが、気さくで真面目なマイクロトフは、部下たちに親しまれている。しかし、重い苛立ちと刃のような興奮を全身に漲らせた今日の彼は、自身が血をしたたらせる抜き身の長剣に変ってしまったように触れ難かった。
マイクロトフとゴルドーとの間に何があったのか、騎士たちの間にも話が広まり始めていた。その噂の中には、ゴルドーが青騎士団全体を侮辱したそうだ、ということも当然のように含まれ、罪を犯した青騎士に代わって、マイクロトフがそのそしりを一身に受けたのだと見る者が多かった。兵舎では興奮した話し声がそこここから聞こえ、若い者ほどが血の滾りをおさめる術を知らずに色めきたっているようだった。
(まずいな)
マイクロトフでさえそう思った。ゴルドーへの怒りはある。自分を叱責するだけならともかく、青騎士たち全てを否定した。そして死刑執行人の仕事を穢れと表現する、ものの見方にも怒りを感じる。
死刑執行人であり、牢番であるゴッドヘルトの孤独を知ったのは昨年のことだ。城の者の食事全てを見る厨房の女たちが、ゴッドヘルトには食事を差しいれないことを偶然知ったマイクロトフは、それをきつく咎めた。七十歳を越える牢番は、昔は屈強な身体を持つ大きな男だったそうだが、栄養の偏りと不摂生、そして徹底的な孤独感から、すっかり身体を病んでいたのだった。仕事をやめられないのか、と尋ねると、うつろな目で、息子が無いのでお役目を下りることはかないません、と答えた。
ゴッドヘルトの妻が死んでから七年になる。妻が死んで以来、牢番は誰とも向かい合って食事を摂ったことがないと云った。マイクロトフは二人分の食物を運ばせ、何度か牢番と食事を共にした。若い騎士見習いに頼み、荒れた小屋の手入れを手配させ、女たちに、ゴッドヘルトの面倒を見るよう言い含めた。
牢番が最も悩まされるのはしかし、堅い寝床でも貧しい食事でもなく、過去に首を断った者たちの顔だった。切り落とした首が地を跳ねてあおのくさま、血に濡れて痙攣する身体、同じ光景を、大鉈を握る己が手の下に彼は何百回も見てきた。牢に入って言葉を交わした者の首を自分がはねる。
若いうちはそれでもよかった。一撃で首を跳ね、苦しまずに死なせることができた。自分を正義の代弁者のように思ったことすらあったのだ。
しかし近頃では、首を断ちきれないことが多くなった。哀願する罪人を引き立てて寝かせ、台の上で大鉈を振り下ろす。痛みと苦しみに跳ねあがり、失禁して、暴れる罪人のすさまじい苦悶と、最後の呪詛の呻きを受け取るのが自分だということを不意に認識した。罪人の顔を夢に見るようになった。若い頃にはなかったことだった。
老いた牢番には、自分が正義なのか、そうでないのかなどということはどうでもよくなった。ひとの首をはねずにすごす安らかな暮らしが欲しいだけなのだ。
何度か共に時間を過ごすうち、ゴッドヘルトは、マイクロトフにそんなことをぽつぽつと打ち明けるようになった。
なぜ新しい執行人を雇わないのか、と、マイクロトフはゴルドーにかけあってみたことがあった。
その答は簡単なものだった。なり手がいないからだ。ロックアックス城において死刑執行人の暮らしや人柄が冷遇されることははなはだしく、それゆえに、昔大罪をおかしてそれを領主に赦免された者の家系が、代々執行人をつとめてきた。いわば先祖の悪行に、ゴッドヘルトら死刑執行人の家は縛られてきたのだった。
あの男をくびきから解き放ってやらねばならない。マイクロトフはそう考えていた。あんな暮らしをさせておくべきではない。これまでの数十年間のはたらきにふさわしい報奨を与えて、マチルダから出し、あたたかい土地にでも行かせてやれば、余生をやすらかに過ごせるのではないかと思ったのだ。
(「今まで死刑執行人として生きてきただけのあの男に、今更ほかにどんな暮らしを生きられるか」)
ゴルドーはごう然と云い放った。
(「あの男は牢番になるべく生まれてきた男だ。牢番として最後まで勤めて死ぬことがあの男にとって最も幸福なことなのではないか?あれが死ねば、また罪人の直系から新しい牢番を探さねばなるまいが。……」)
ゴルドーの言葉には侮蔑はあったが、それは悪意ではなかった。むしろそのことに気づいたマイクロトフは身震いした。
生っ粋の騎士の家系に生まれ育ち、人生の全てを、容易に栄光につつまれて過ごしてきたゴルドーには、死刑執行人の苦痛はおよそ解らないだろう。
しかし、そのゴルドーへの怒りや嫌悪は自分個人のものであると、マイクロトフは考えていた。自分の行動が、若い青騎士たちの、ゴルドーへの怒りを扇動することになることだけは避けなければならない。彼には正したいことがあり、ゴルドーが正すべきだと思うこともそこには含まれている。しかし謀反を起こしたいわけではない。
本当なら兵舎に出向き、彼等の気持がおさまるまで言葉を交わすべきだとマイクロトフは思った。
(だが、今夜はだめだ、到底……)
彼は痛むほど熱い指を握り締めた。神経がむき出しになって苛立っている。ひとと言葉を交わすのが、どうしようもなく苦痛だった。こんな状態で彼等と話せば不調に気づかれるかもしれない。マイクロトフの変調に気づけば彼等の興奮はなおさら煽られるだろう。
カミューの部屋を訪ねようかと、一瞬もそう考えなかったわけではない。
だが、カミューと言葉を交わして、彼にも同様の煩わしさを感じるかもしれないと思うと、マイクロトフはカミューの部屋には向かえなかった。
半月前、カミューを腕に抱いた。
女性を抱くように身体をひらかせて、血がにじむほど傷つけているのにも気づかず、夢中になって攻め抜いた。男にそんな衝動を感じたのは初めてのことであり、ましてや自分のそれがカミューに向けられたことは、マイクロトフにとっても衝撃だった。
カミューはどこか自分にとって特別な存在なのだ。むろんそれまでもそう思ってはいたが、背中を抱きしめ返す腕の、甘い水のようなこころよさを思い返すと、また、大切な友人であり、頼もしい戦友である以上のそれがあるように思えてならなかった。
マイクロトフが今の年まで恋を知らなかったわけではない。不器用であっても、愛して身体をつないだ女もいた。もう何年も前のことだ。彼はまだ少年で、身分も一介の騎士だった。しかし、自分の家族を持たないマイクロトフは、同じように寂しい暮らしを送っていた年上のその女を護り、いつかは幸福にしてやりたいと思っていた。女が長い間かかえていた病を乗り越えられずに死んだ時は、足許が崩れるような喪失感を味わった。
だが、カミューが彼の中に占める眩しいほどの存在感は、かつて愛した女に感じたものとはまるで違った。
いくら姿が柔美であり、マイクロトフの腕に身を任せても、カミューの持つ魅惑には翳というものがなかった。所作のひとつ、笑顔のひとつを見ても、実力を備えて使いこなす若者特有の、快く爽快な上昇志向や自信が、明るい光となって、この美しい男を包み込んでいるのだ。
そしてむろん一個人としての、また、一社会における雄としての自信をカミューが持つ理由は十分にあった。
そんな相手に抱くこの欲求は、今までマイクロトフの知るどんな感情にもあてはまらなかった。
護ってやりたい女への恋情、導くべき部下への愛着や、友人への親密、先輩騎士への敬意、偉業をなしとげるひとへの畏敬。そのどれもが、カミューに向かう想いにあてはまっているようでいて、完全にはあてはまらなかった。
今夜はカミューには会わないで眠ろう。
彼を逃げ場にすれば、彼を、そして彼に抱く自分自身の感情を損なうのではないかと、マイクロトフはそれを怖れた。
「マイクロトフ」
そう思って自室へと下りて行こうとするマイクロトフの背中に、覚えのある声がかけられた。
「今帰ったのか?」
紐をかけた書状をいくつか抱えたカミューが彼の後ろに立っていた。他国から届いた書をゴルドーの許へ届けに行く道のようだ。
「今日は冷えただろう」
カンデラを提げ、外套の襟や、前髪から滴をしたたらせたマイクロトフの顔を見て、カミューは苦笑を見せた。
「ああ、秋とは思えない寒さだ」
マイクロトフも内心苦笑したい思いだった。今夜は会わずに置こうとほんの一瞬前に決めたばかりで、もう彼と会ってしまった。しかし苦笑したいのはそのことではなく、カミューと会った瞬間、彼が自分の胸に与えた衝撃だった。
今晩は、目にうつるもの全てが、焼いて間もない鉄に似て、威嚇的で陰湿な赤光をひそませているように見えた。ほの明るい城の中に入って来ても、壁の両脇がせり出してくるような圧迫感があり、世界中が重苦しいビロウドの緞帳に包み込まれてしまったように息苦しく暗かった。
その暗い世界の中を、影のように人々が去来するさまは、自分の不調故と解っていても気味の悪いものだった。
しかし、まだ赤騎士の礼服を身に着けて立ち働くカミューは、咲き誇る花のようにみずみずしく力強かった。重苦しい陰影のうごめくマイクロトフの視界の中に、突如として鮮明に飛び込んできたのだった。
「プロックまで下りたそうだな?」
カミューはいぶかしげに尋ねた。
「ああ。探したか?」
「いや、特に用があったわけじゃない。一杯やらないかと思ってね」
カミューはグラスを傾けるしぐさを見せて微笑した。
マイクロトフはうなずいた。一人でいようとしていた気持があっさりと変る。
「……それはいいな。……」
カミューに知れないよう浅くため息をついた。
「御前の気が変っていなければ相伴にあずかろうか」
「そうか。……なら、わたしの部屋に来るか?酒場に行くには遅いしな」
「わかった」
「一刻もしないで戻れるだろう。部屋に入っていてくれていい」
カミューは急ぎだったようで、慌ただしく階段を駆け上がって行った。機転のきく、要領のいいカミューは、ゴルドーに気に入られていた。時折彼は、ゴルドーの部下の白騎士が済ませればいいような用事を引き受けることがある。
彼の部下の赤騎士たちにとっては、それが業腹でならないようだが、本人は特に負担なようでもなく、白騎士団の意外な内情を垣間見ることもあって興味深いぞ、などと云って、余裕しゃくしゃくとこなしているのだった。
カミューを気に入りなだけに、なおさらに自分と彼が結託することをゴルドーは危惧するのだろうと、マイクロトフは思った。
一度自室に戻って濡れた服をあらためてカミューの部屋に向かうと、カミューはもう用事を済ませて戻り、丁度私服に袖を通すところだった。
「ああ、適当にやっていてくれ」
カミューはマイクロトフを背中越しに振り返った。背中の皮膚が灯りに白く光り、マイクロトフはうなじの白さと赤味がかったやわらかな髪との対象に目を奪われた。
テーブルの上に、グラスと水、そして銘柄のない背の高い酒瓶が一本出してある。
「これは?」
尋ねると、服を身につけながらカミューが、マイクロトフに栓抜きを放ってよこした。
「ミューズの地酒だ。香りはきついが何より滅法強い。御前向きだな」
カミューも酒は強いが、マイクロトフほどではない。体調のいい時のマイクロトフは底を刳り貫いた瓶のように注いでも注いでも足りないほどだ。彼は笑って持参した葡萄酒を指し示した。
「おれも、お前にと思って持ってきたんだが」
「白か?」
カミューは嬉しそうにした。葡萄酒は、マイクロトフは赤を、カミューは白を好む。マイクロトフはカミューの酒の封を切り、栓を抜いた。瓶の色が濃い緑色で分からなかったが、酒は透き通って色がなかった。グラスにそそぐと、むせ返るような癖のある香がたちのぼる。
「これはまた」
マイクロトフはひとくちそれを口に含んで、眉をひそめた。
「酒というよりはアルコールそのものだ。腹に落ちる前に咽喉を溶かしそうだ」
「火の酒だな」
身幅のゆったりとした厚手の綿の服に袖を通したカミューは、暖炉に新しい薪をくべながら振り返った。
「冷える夜には丁度いいだろう」
「ああ。……」
マイクロトフは透明な酒をもうひとつのグラスに注ぎ、暖炉の前にかがんだカミューに差し出した。立ち上ろうとしていたカミューはマイクロトフをふりあおいで笑い、そのまま暖炉の前にグラスを手に胡座をかいて座り込んだ。マイクロトフもその傍らに座る。寒気の厳しい夜を少しでも快適に過ごすために、暖炉の前には真っ青な絹糸でふちをかがった、やわらかな銀狐の毛皮の敷物が敷かれている。
「マイクロトフ、熱を出しているんじゃないか?」
カミューが、話を重くするまいという心遣いか、単刀直入に切り込むように尋ねた。やはり気づいていたか。そう思いながら彼はうなずいた。
「ああ。……だが、たいしたことはない。もうほとんど下がった」
「こんな冷える晩に、それでどこに出かけたのかと思っていたんだ」
カミューはひそかに声にあきれたような笑みを含ませた。
「心配をかけたならすまん。……鍛冶屋に行っていた」
「鍛冶屋に?」
カミューは、酒の濃さにかすかにむせて口元を拭った。
「ああ。ダンスニーを研ぎに出したんだ。……受け取りに行っていた」
「……」
カミューは不意に黙り、傍らに座ったマイクロトフの顔を見つめた。真っ直ぐに射抜くように見つめられて、マイクロトフは、カミューの透き通った飴色の瞳の中にかすかに沈んだ、淡いミストグリーンの光に吸い込まれそうになった。
彼の瞳は、甘い茶の虹彩の中に、角度によって、みどり色の針状結晶のようなインクルージョンを透かし見せることがあった。グラスランドの人間の瞳の殆どは青か緑色をおびている。髪も赤味がかった金髪や、そのまま炎のような赤の髪の者も多い。マチルダより西寄りのグラスランドの住民は色素が薄く、荒れた土地に花を咲かせるように、華やかな髪や目を持っていた。
彼は、この透き通った目で見つめられると、こころの内をすべて透かし見られたような気分になるのだ。
「ダンスニーを……」
やがてカミューはそうつぶやき、気持をおさめたように目をそらした。
「そうか」
「カミュー」
マイクロトフは衝動を堪え難くなり、思わず口をひらいた。
「何だ?」
「おれは御前に隠し事をしている」
「……」
「それは、御前に迷惑をかけたくないからだが、……だがそれは、迷惑をかけないでいる方が、おれが楽だからだ。御前のためでなく」
「なぜそんなことを云う?マイクロトフ」
カミューの口調が甘い笑みを含んだ。
「わたしに打ち明けるべきだと思っているのか?」
マイクロトフは言葉につまり、暫し口をつぐんで沈黙した。
「……そうかもしれない」
葛藤するような沈黙ののちにマイクロトフはつぶやいた。
「この間、御前がおれにしてくれたことを思えば、打ち明けないでいるのは、不誠実なことに思える」
カミューは低く咽喉声をたてて笑った。
「そんなふうに云えば、わたしは御前を許さないわけにはいくまい?」
マイクロトフは思わず顔を紅潮させた。
「おれはそんなつもりでは……」
「解っている」
カミューは酒をあおり、暖炉に目を向けた。満足そうにため息をつく。片膝をたてて、それを少年のように胸にひきつけて座った。
ゆっくりと背中をまるめて、立てたひざにこめかみを乗せる。傾けた顔の中で炎をうつした瞳がやわらかに光っている。
「解っているよ、マイクロトフ。御前は好きにするといい。……御前がしていることは、今までどの騎士団長がしてこなかったようなことも多いが、わたしにとっては、見飽きるということがない。……ゴルドー様がそう思うかどうかは別だがな」
唇が夢を見るようにほころび、白い歯が覗いた。
「今日は、この先どんなことがあっても、御前の敵になるようなことはしたくないと思ったな、わたしは。……」
「……カミュー」
「そんな日がくれば、きっと自分を信じられなくなってしまうだろうからね」
その言葉の含む意味がマイクロトフの胸を熱くした。
気づけば、あの晩以来、カミューとこうして二人きりになるのは初めてだった。
マイクロトフは衝動に突き動かされて、床の上のグラスに軽くかかったカミューの手に触れた。触れた途端、カミューの小指がはじかれたようにかすかに曲がり、彼は目をあげてマイクロトフを見あげた。
膝を一歩進めてカミューに近寄り、その背中を支えて、マイクロトフはやわらかな灰銀色の光沢を帯びた白い毛皮の上に、彼の身体を抱き下ろした。カミューは無言でマイクロトフを見つめている。
彼は、何かを言わなければと焦りながら言葉が見付からず、カミューの指に自分の指を深く絡ませて握りしめ、あおのいて横たわった身体を抱きしめた。耳元に顔を埋めると、マイクロトフの唇に、頬に、とけるように柔らかなカミューの髪が触れ、ぼうっと身体が熱くなった。
「熱いぞ、御前……」
カミューが握り込まれていない方の、自由になる腕を伸ばして彼の額に触れた。
「ああ。……」
彼はうなずいた。触れてはこの熱は隠せまい。しかし、今日の熱がさほどつらくないのは嘘ではないのだ。マイクロトフはしばらくそうしてカミューを抱きしめていたが、やがて身体に疼く衝動をこらえてそろそろと身体を起こした。
城内で行われる騎乗試合が近い。カミューは剣もよく使うが、騎槍の扱いにかけても見事な腕前を持っていた。ほかにやはり騎槍の扱いに長けた白騎士と、試合を披露する運びになっている。そのことを思い起こした時、マイクロトフの脳裏を、半月前の夜、敷布を染めた血の色がかすめたのだった。女が流す血とそれとでは量が違い、男とまじわることは楽なことではないのだと彼は思った。
「マイクロトフ?」
カミューが毛皮の上で身体を起こし、マイクロトフの顎をすくいあげるように指をかけて、目を覗き込んできた。
「部屋に帰るのか?」
言外に含まれたものの意味を知って、マイクロトフはかすかに苛立たしいため息をついた。
「御前に負担をかけたくないんだ、カミュー」
カミューは驚いたように片方の眉をあげ、やがてほんのかすかに皮肉に微笑んだ。
「驚いたな、マイクロトフ」
彼はほのかに熱が伝わる位置にまでやわらかく身を寄せた。触れるだけであっても巧みであることを物語る唇がマイクロトフの唇にそっと触れた。
「わたしが悦しまなかったとでも思ったのか?……」
間近に目と目が合う。初めて彼と夜を過ごした日も、こんなふうに、かみあうようにして視線が合わさったことをマイクロトフは思い出した。共に働く時、酒を酌み交わす時、城内でも、そのほかでも、カミューと視線が合うことなど数知れずある。しかしこれは、それとはあきらかに違っていた。
マイクロトフはその日、カミューとそうして瞳が出会った時、彼もまた自分を求めているというその事実と、その微妙な瞳の色合いとを学んだ。
再び彼は腕を差し伸ばし、自分の胸の中に友人を抱き込んだ。
今度は躊躇いはなかった。
「……」
声をあげて、カミューが背を大きくうねらせた。
自ら湿ることのない男の体を思い、マイクロトフは指を挿し入れる時、指先に油を染ませていた。それはカミューが礼装する時、柔らかすぎる髪を調えるのに使う香油だった。香油をなじませただけで、そこは記憶にある感触よりはるかに柔らかくなり、しめつけようとする力を入り口に淫らにまとわりつかせながら、マイクロトフを深く飲み込んだ。
カミューの様子もこの前の晩とは違った。胸元や額の髪の生え際が汗に薄く濡れ、顔を上気させて目を閉じ、息を荒げて唇を開いていた。
「痛まないのか? カミュー」
耳元に唇を近づけて尋ねると、カミューは首を振った。つらくてたまらないように眉根がぐっと寄ったが、それが苦痛のためでないことはマイクロトフにもすぐに判った。すぐに乾く唾液や体液で湿らせたものと違って、香油は熱に融けてますますなめらかに、かみあった肉を深くきつく絡み合わせ、奥へと滑り込ませた。
身体と身体の間に隙間がないほど深くカミューとつながりあったマイクロトフは、それでももの足りずに焦れて、片脚を抱えあげ、カミューの背中ごと抱え寄せて、より奥へと入り込んだ。汗が滴り落ちて、カミューの浮かべたそれと交じり合う。
「ああ、あ、……っマイクロトフ……!」
この間の夜には聴いたことがなかったような高い叫びがカミューの咽喉から漏れ、マイクロトフは狼狽して彼の唇をふさいだ。舌を絡ませると、咽喉の奥に、かき消えた叫びがわだかまった。強くゆすりあげると、カミューはマイクロトフの背中に、かきむしるように爪をたてた。涙を浮かべて首を振り、マイクロトフの唇から逃れようとする。
「あ、あ、……あ……っ……」
断続的に咽喉声が漏れ、カミューは自分を抱きすくめたマイクロトフの首筋に歯を立てた。そのことでマイクロトフはカミューの意識が朦朧としていることを初めて知って、嗜虐的な興奮にかられた。騎士服の衿が高いとはいえ、正気ならカミューがそんな真似をするはずはなかった。
彼は抱えあげたカミューの脚の、日にさらされることのない腿の内側に唇をつけ、誘惑に勝てずに強く吸い上げて、唯ひとつ紅い跡を残した。
「……!」
柔らかい皮膚を吸われる感触がカミューを追いあげたようだった。カミューは切れ切れに声をあげて、もう一方の脚を曲げてマイクロトフの腰に押付け、熱を吐き出した。
「……っ」
その瞬間、マイクロトフも強く締め上げられ、彼も欲望を吐き出しそうになったが、彼は息を止めてその波をやり過ごした。まだカミューから離れたくない。飢餓感が彼を襲っていた。彼ともっときつくつながりあいたかった。身体をゆすり合い、摩擦を共有した部分は火傷しそうに熱く、カミューは睫毛を湿らせたまま、そこを幾度か痙攣させた。
「あ、……待って、くれ……」
カミューが目を見開き、弱く押しのけるように、動くのをやめないマイクロトフの肩に手をかけた。ようやく開いた目はうす赤く充血して潤んでいた。
「……っ、そんなに……」
深く突かれてカミューは咽喉をのけぞらせ、背筋を強張らせた。
マイクロトフはその腕で自分の背中を抱かせて、髪をかきあげて現われたうなじに唇を落ち着かせた。そうして自分の弾けそうな熱を包んで追いつめる、カミューのふるえの、更に奥を突き上げるように、再び身体を揺らし始めた。
元青騎士、クラレットの処刑は、裁判から七日後の真昼に行われた。
両手を縛られ、目を泣き腫らして茫然と処刑台に腹ばいになったクラレットの前に、真っ黒なフードのついたマントで身体を包み込んだ死刑執行人が立った。
年老いた矮躯を黒いマントに包んだ、死神を思わせる処刑人ゴッドヘルトの姿は、ロックアックス城の者には見慣れた姿だった。
しかし、今日そこに立った老人は、いつになく背が高く見えた。
空はあおあおと晴れ渡り、処刑場の周囲を囲んだ緑を冷たく際立たせている。世界はぐるりと澄み渡った視界に恵まれ、氷水をはった硝子の器のように見えた。清涼な空気と光と沈黙が満たされた丸い巨大な器だ。
不意に上空を、大きな陰のようなものが横切った。
処刑を見に出かけてきた者らの頭上をそれはゆっくりと旋回し、鋭くひと声鳴いて、木立の中に吸い込まれていった。
洛帝山に棲む、真っ黒に光るつばさを持つオオタカであった。死を告げるとも云われる巨きな鳥だった。普段はロックアックス城近くまでは下りてくることのない鳥だ。外套の衿を立てて白い息を吐く見物人たちの頬が、その大きなつばさに打たれたようにそそけだった。
それを合図と定めてでもいたように、死刑執行人は、手に持ったものをふりあげた。
太陽の下に耀いたそれは、いつもゴッドヘルトの持つ大鉈ではなく、鋭く研ぎあげられた両手用の騎士剣だった。
重いツヴァイハンダーは、風のうなりをまつわらせて激しく罪人のうなじに振り下ろされ、一撃にその若い首を断ち落とした。
血がしぶき、一瞬で命の炎を吹き消された身体が数度はねた。
並外れて丈の高い処刑人は、黒いフードをのけて息をついた。フードの下から現われたのは、ゴッドヘルトの褪せた金髪ではなかった。
短く刈った前髪の下に、黒々と瞳を光らせて、処刑人は挑戦的に領主ゴルドーを見つめた。
男の顔を見て取ったゴルドーは、しかし怒りのためか無言で動かなかった。
やがて、最後まで無言のまま、その場を立ち去った。
死刑執行人は唇をひき結び、うつぶせて絶命した身体を、処刑台にあおのかせた。
かつて部下と呼んだ若者の死体をさらすため、石の台に手足をひらかせて縛り付ける、血なまぐさい作業に、黙々と取り掛かったのだった。