早朝、職務が始まる前に、マイクロトフとカミューは二人で連れ立って街に出た。
ロックアックス城一帯はまだ暗く、城も街も冷たい靄につつまれていた。このところマチルダはひどく冷え込む。二人が身につけた外套はすでに冬支度だった。視界を明け方の夢のように曇らせる靄に頬を湿らせながら、二人とも私服で歩いている。マイクロトフが誘い出した、珍しい私用での外出だった。
もっともマイクロトフは目下謹慎中であり、今は臨時に騎士団長の任を解かれた形になっている。七日の間、騎士団長としての身分も、青騎士としてのそれも騎士団の名において剥奪され、騎士を名乗ることを許されないという、騎士団長に与えられる処遇としてはやや厳しいものだった。ゴルドーがマイクロトフへの不快感を表すのには、それしか方法がなかったと見える。
ことの発端は城に近い村の娘を攫い出して犯した若い青騎士の斬首を、マイクロトフが自らの手で行ったことだった。
元より彼は、牢番ゴッドヘルトのロックアックス城での待遇に異議を唱えており、この度処刑を行ったのも、その不満の申し立てであると思われた。ゴッドヘルトがいかに老いたとはいえ、鉈を握ることが出来ないほど弱った老人ではなかったからだ。
(他の城ではどうだ、カミュー)
こんなことが起こる数ヶ月前、夏の頃だっただろうか。以前一度、マイクロトフはこのことについてカミューに真意を漏らしたことがある。酒場で杯を交わしていた時のことだ。彼も少し酔っていたのだろう。
(他の城での牢番は、必ず賄賂で袖の下を肥やして、影の権威を欲しいままにしているだろう。おれはむろん、そんなことを由としているわけじゃない。だが罪人に罪をつぐなわせる務めを果たしていると云って、牢番を忌むものとして扱う、ロックアックス城のやり方も間違っていると思う)
(お前は、ゴッドヘルトの職務を神聖なものとして扱うべきだと思っているのか?)
自分の意見を表面には出さずに問い返すと、マイクロトフは烈しい口調で、違う、と即答した。
(神聖とは思わない。だがそれをする者だけが穢れていて、自分は騎士だなどと構えてはいられない)
非難するように黒い瞳をあげてカミューに据える。
(ひとの命を絶つことが神聖などということがあり得るのか?)
カミューは肩をすくめて微笑した。
(お前は聖戦の存在を忘れているのだな、マイクロトフ)
すると、マイクロトフは葛藤するように沈黙した。それが何を意味するのかに気づいたのだろう。
ひとの命を絶つことを神聖ならざるものとするマイクロトフの言葉をつきつめてゆけば、彼ら騎士団や、その誓いの存在意義を揺るがすことになる。騎士の戦いは常に尊いものであり、主君や国のために戦うことはそれを人殺しと並列するものではない。そういった独善的な思想が、騎士達の間では絶対の建前としてまかり通っている。
カミュー自身は聖戦などというものを信じてはいなかった。
元々騎士の家系で生まれたわけではない彼には、戦場で戦う相手の一人一人にその者の人生があり、それを自分の剣が絶ちきるのだということを忘れることは出来なかった。しかし、国がある以上、その領域を守らねばならないこともまた事実だ。それゆえに、己の内心の聖戦への否定は、捕虜の無駄な殺生や、敵地での略奪や強姦への戒めとなればそれでいいと、カミューは思っていた。
しかし、マイクロトフが聖戦を否定するとき、その強固な信念の喪失は、騎士として戦うことの意味を深く揺るがすだろう。
そして、聖戦への肯定や否定は、酒に任せて酒場で語るようなことではない。迂闊にふるまえば、騎士団長にまで上り詰めた地位をいつでも掬われることになるのだ。
慎重になれ、とカミューが言葉に含ませた意図をマイクロトフは悟ったようだった。苛立ったような息を大きく吐き、中空に視線を投げた。そこに見えない敵がいるとでもいうように、鋭くねめつける。
しかしやがて口を開いたとき、口調は静かだった。
(……そうだな。戦いにはさまざまなものがある。しかし死刑執行人の扱いについては、おれたちは考え直す必要があると思う。一方では虐げられ、一方では利を貪る者があるというのは、為政者の方法が未熟だからだ。中庸を選んで最善策を取ることが何故できないのか、それがおれにはわからないんだ、カミュー)
(お前の口から中庸などという言葉を聞こうとはな)
そうまぜ返すと、気を悪くしたようにマイクロトフは目をあげてカミューを睨んだ。
(……揶揄うな)
カミューは笑いながら声をひそめた。
(お前がお前の権限において改善できることは全てするといい。わたしもできることはするだろう。だが、マイクロトフ。ひとつの城から虫食いの柱を切り落とすとき、その城は崩れることになる。腐った柱ごと城を守るか、城を捨てるか、ふたつにひとつだ。それはお前にも分かっていると思うが……)
マイクロトフは暗い光を目に宿してカミューを見た。
(ふたつにひとつ……か)
そうつぶやいて思いに沈んだ。マイクロトフがそのことについて話題を出すことは、それ以来なかった。しかし彼の中に今の国のあり方の疑問が眠っている気配を、時折カミューは感じる。水中に沈んだ輝石が、時折光を受けて煌めくように、マイクロトフの「危険思想」は彼の胸の奥で、彼自身にも知られぬまま、ほのかな光を放ちつづけてきた。
青騎士処刑にまつわるマイクロトフのこのたびの行動は、彼の抱く騎士団への疑念が表に吹き出したようなものだった。それが自分に対しての精神的謀反であると、保身に敏感なゴルドーが悟らないはずはなかった。
ゴルドーの怒りの中核はむしろ、騎士団長であるマイクロトフが死刑執行人の役割を果たしたこと、それに関しての自分の命をたがえたことのほかにあった。若く行動力のある青騎士団長の、今度は精神的なものではおさまらない、騎士団をあげた謀反への恐怖だ。
それは当然、マイクロトフを公私共に葬り去りたい欲求を伴った恐怖であったはずだ。
そのことを思うとカミューは身震いする。ゴルドーが刺客を放ったとき、それを予期して未然に防ぐことが可能かどうか、赤騎士団長の地位をもってしても分からなかった。
潔癖で公平な若い騎士団長であるマイクロトフは、今や青騎士たちにとってなくてはならない存在として慕われている。彼を騎士団長の任から全く解いてしまえば、青騎士団の中で大きな不満が募り、それがいずれにせよ謀反につながることをゴルドーは認識している。しかし、マイクロトフを不問に処すには怒りのやり場がなく、彼から七日間騎士の地位を剥奪するという罰を課したのだろう。
(暗殺さえ免れれば……)
カミューは思う。騎士団長同士で刺客を放つことなど、おそらくマチルダ騎士団の歴史上、幾らでもあったことだろう。だからこそそれぞれの騎士団は今まで、容易には友好関係を保つことができなかったのだ。ゴルドーの恐怖心を抑えるために、自分がマイクロトフと彼の間に入り、調停役をつとめてゆかなければならない。
そして、この七日間のマイクロトフ不在の間は、副騎士団長のベルナールが、代わって団長代理をつとめることとなった。
カミューはマイクロトフが課せられた罰に対してどう反応するか気がかりだったが、しかし当の本人は意外に平静だった。
外出まで禁じられているわけではない。することは幾らでもある。そう云った。
(騎士団長という立場に居ては見えないものもあるだろうしな。一領民としてマチルダを見渡してみるさ)
これが、この件に関しては終始明快な確信犯であったマイクロトフの第一声だった。ゴルドーの処分に不快を示した青騎士たちも、彼のその言葉に気が抜けたようだった。
(だが、七日間もの間、お前たちに仕事を全てまかせることは済まないと思っている。罰を解かれて戻ってきたときは気持を入れ替えて勤めようと思っている。よろしく頼む)
副騎士団長と、彼に伴ってマイクロトフを訪ねた若い数人の青騎士たちははっとしたように、自分たちに頭を下げた騎士団長を見つめ、慌てたように口ごもった。
(復帰をお待ちしております。いい機会ですからそれまでお身体を休めてください)
繊細な気質の小柄な副騎士団長は、照れたような早口でそう云って、他の騎士と共にマイクロトフの前を辞した。
部下である自分たちに頭を下げる騎士団長の姿に胸を打たれたようだった。
傍らでその様子を見ていたカミューは、帰って行く彼らを微笑ましい気持で見送った。
青・赤・白と分かたれたそれぞれの騎士団にはそれぞれの特色があり、カミューの率いる赤騎士団の、能率の美学を重んじる雰囲気とはだいぶ違うが、青騎士団の若々しい雰囲気をも彼は好ましく思っていた。
それは、彼らそのものに対して抱く好感でもあり、またその気風をマイクロトフが作り上げたのだと思うことから生まれる好感でもあった。
謹慎の命を受けて三日目の晩、夕食のあと自室に引き上げると、扉の前に居心地悪げなマイクロトフが待っていた。部屋に入っていればよいものを、かすかに白い息を吐きながら、薄手の私服で扉にもたれてカミューが帰るのを待っていたのだ。
(どうしたんだ)
部屋に招き入れようとすると、マイクロトフは首を振った。
(明日、プロックの鍛冶屋に用があるんだが……時間に余裕があればおれに付き合ってくれないか)
何の話があるのかと思えば、どこか緊張したような面持ちで、マイクロトフはそう云い出した。
(明日か? 朝なら構わないが……)
(朝か。それならおれも有りがたい。つらいようなら起こしに来るが?)
あまりこれは知られていることではないが、カミューは朝が苦手なのだ。起き抜けの朝はまるで若い女のように血の気が巡って来ない。対照的に、何につけ朝の方が快調に動けるマイクロトフにそんなことを云われて、彼は思わず笑う。
どこか上の空で落ち着かない様子の彼に、ああ、頼むよ、と答えると、友人はほっとしたように、
(それではまた明日……)
そう云い残して、そそくさと自室に引き上げて行った。
カミューは少し彼のその言葉をいぶかしんだ。彼と誘い合わせて鍛冶屋に赴いて剣を選んだ経験は今までない。
しかもこの数日間、彼とほとんど顔を合わせなかった上のことだ。常と変わりなく騎士団長のつとめを果たすカミューのさまたげになるまいと、マイクロトフの方で顔を合わせることを避けるそぶりがあった。カミューとしては思うところはあるが、それはそうとして、マイクロトフは七日間、その態度をくつがえさないだろうと思っていたのだ。
(融通がきくのはいい傾向だが……)
数歩先を歩くマイクロトフの背中を見つめながら、カミューは思う。
マイクロトフは約束通りの時間にカミューの部屋の戸を叩き、二人は木立の間の道を下って街に降りた。
「お前に何か負担がかかっているようなことはないか? カミュー」
顔を合わせてから街に出るまで言葉少なに歩いていたマイクロトフは、不意にカミューを振りかえってそう尋ねた。
「何のことだ?」
カミューは慎重な気分で答える。マイクロトフの口から自分に対して負担、という言葉が出たのは、彼の記憶に有る限りでは最近では二度目だった。
一度目は寝床の中のことであり、睦言に変わりかけて熱にうかされたものだった。
しかし、マイクロトフの方では、自分が前にそれを口に出したときの状況を覚えてはいないようだった。
「……おれの不在で、御前に迷惑をかけていないのならいいが。今のおれには采配をふるうことも許されていないからな。ベルナールの手に負えないようなことが起こったとき、また御前に気を回させることになっては」
「大丈夫だ。青騎士団にはわたしも少しは気をつけているが、問題があったという話は聞いていないよ。それにベルナールも、いくら謹慎中でも、ことがあれば先ずお前に相談するだろう。お前は蚊帳の外に置いておけるような男じゃない」
そう云いながらカミューは思わず微笑んだ。マイクロトフの方では苦笑を見せたが、それ以上食い下がろうとはしなかった。
彼はひとに仕事を任せきれない気質であり、青騎士団長を任されてからというもの、全てのことを自分の目で見て、耳で聞かなければ気が済まないようなところがあった。いつも騎士団長の目が光っているが故に、青騎士団の騎士達が、たとえば白騎士たちとは違って、常に高温の緊張にさらされているのをカミューは知っている。
しかしそれでうとまれることもなく、部下におおむね慕われているのも、マイクロトフの不思議な個性だった。
「ここだ」
マイクロトフが町外れの工房の前で足を止めた。
「テタヌス殿の工房だな。新しい剣を買うのか?」
ここは、マイクロトフの愛用の剣を殆ど引き受ける鍛冶屋の工房だった。そう尋ねると、マイクロトフは少し居心地の悪い顔になった。
「あるじ殿には話をしてある。御前が行けば剣をひとふり出してくれるはずだ。御前にその剣を見て欲しいんだ」
カミューは意外に思って目をみはった。
どうやらマイクロトフは、自分に剣を贈ってくれようというつもりで連れて来たようだ。異性を相手ならば知らず、彼らには互いに贈り物を交換する習慣がなかった。ましてや自分ならばそういったことを気紛れにもしそうだったが、マイクロトフがするのは馴染まなかった。
「おれはここにいる」
マイクロトフは目を伏せて、ふっと短い息をついた。薄いせいでマイクロトフの表情をやや酷薄に見せる唇の周りに、呼気と共に小さな白い雲が広がる。日が昇って気温があがるまではこの街は凍るような寒さだ。この騎士団領には、十一月のさなかから急ぎ足で冬が訪れる。
「……それでは拝見しよう」
疑問を口にはせず、彼は戸を押し開けて工房の中に入った。工房には既に火が入り、外気と比べ物にならないほどあたたかかった。
「カミュー様。ようこそおいでくださいました」
物音に振り向いて、神話の鍛冶屋の神のような奇妙な姿をした、工房のあるじがカミューを愛想よく出迎えた。
「マイクロトフ様からお話は聞いておられましょうな?」
「ええ。剣を見せていただけるとか」
あるじはうなずき、一枚岩から切り出した荒削りな石台の上にかけた麻布を取り除けた。
その途端、金紅色の光がさっと差してカミューの目を打った。
「これは……」
彼は思わず言葉を失った。
その剣に目を奪われてしばし立ち竦んだ。
それは重さよりも切れ味を取った、細身のバスタード・ソードだった。
実用を重んじるその類の剣としては、それは破格の美しさで、柄にも鞘にも、ふんだんに黄金と紅い宝石があしらわれている。鞘は軽さを保つため、白い高価な革を貼った木製であり、更にその上から、びっしりとレースのような黄金の透かし彫りの細工が覆っている。細工物としても大変な手がかけられているのがひと目で分かった。
硬質な金属と合わせて練り、硬度を増した黄金細工の間には、葉の間に隠れる赤い木の実のように、細かな柘榴石の飾りが点在している。
そして、ひときわ見事なのは柄にはめこまれた紅い石だった。
マチルダ騎士は封印球を用いないが、他国の騎士ならば或いは封印球を嵌め込む柄の中央部、そこに絹のような光沢のある高価な紅い石が光っていた。この石をはめこむ部位は、てのひらの中央にあたる位置であり、武器に封印球を宿した場合、もっとも身体の中にその力を受けやすい位置とされている。マチルダでは封印球を用いないとはいえ、ここに嵌め込む石は、てのひらになじむなめらかな貴石が選ばれる。それゆえに丸く磨き上げることが容易で、極端に高価ではない翡翠や瑠璃が使われることが多かった。
しかし、この石はあきれるほど高価な深紅のコランダムだった。美しいが硬い輝石で、封印球の持つ力により近い、かすかな魔力さえ備えている特別な石だった。
彼は深くため息をついた。
「何とも見事な……」
「どうぞ御手に取って」
カミューはうなずいて鞘をはらった。そして思わず高揚のあまり微笑した。
一見華奢で細身の外観に似合わず、肉厚で鋭いはがねの刃がそこに青々と輝いていた。灯りにかざすと、切っ先から根元まで光の雫のような鋭気がしたたり落ちる。装飾的なだけではない、戦場に携えて行けば、充分な力を発揮する剣であるように思えた。
「素晴らしい」
彼は心を込めてあるじに云った。
「お気に召しますようならお持ち下さい。御代は頂いてあります」
老人の姿の鍛冶屋の神は、カミューの賛辞に破顔して剣を指し示した。
カミューは剣を降ろした。
「マイクロトフから、ですか?」
「然様です。試してご覧になって切れ味にご不満がありましたらいつでもお持ち下さい。ご満足がゆくまで鍛えなおしましょう」
あるじは、そんなことがあるものか、という自信を覗かせて微笑する。
カミューは再び言葉を失い、その美しい剣を見つめた。マイクロトフがこれを自分に贈ってくれようとした真意は、彼に問いただしてもそう詳しく聞かされるとは思えなかった。
甘く不安定な、浮き立つような気持に彼は胸をいためる。
瞬間、彼は何故なのか、長剣を手にして死刑執行人の黒いフードを跳ね除けたときの、友人の黒い瞳を思い出した。あの瞳の昏い美しさに、マイクロトフを怖しいとさえ思った。
彼はゴルドーと共に国そのものを睨み据えていた。その潔癖さには怨念のようなものさえ感じられた。冬の闇のように冷ややかで烈しいその目は、マイクロトフをまるで知らない男のように見せた。
あの男が何を考えてこの剣を自分に贈ってくれようとするのだろうか。
カミューは再び、あおい鋼に目を落として、ほんのわずかに身体をふるわせた。
「ご主人、この剣に名はあるのですか」
「ございます。ユーライアと」
そう答えてから、老人はひとこと付け加えた。どこか面白そうに青い目をまたたかせた。
「元々わたしがつけた名はハルモニアの名でしたが、それでは貴方様がお呼びになりにくいだろうと、マイクロトフ様がマチルダ風に呼び変えた名をお望みになられましてな」
「そうですか……」
彼は、短く息を吐いた。
「奇跡のような腕をお持ちになっておられる。是非いただいていきましょう」
「どうぞお役立てください」
鍛冶屋は蜘蛛のように長い腕を伸ばして彼から剣を受け取り、一点の曇りもないようにひとしきり刃や鞘を磨いたのち、大切に育てた赤子を引き渡すように剣を捧げ持って、カミューに差し出した。
カミューは複雑な甘い疼きを耐えながら、ユーライアと名づけられた剣を受け取った。
マイクロトフの真意はどうあれ、この剣の重みは、彼の何らかのこころの重みであろうと思った。
腰に剣を帯びて工房を出ると、マイクロトフは戸口に程近い場所に立ち、明け始めて鮮紅色に染まり出した東の空に目を奪われているようだった。
「マイクロトフ」
静かに声をかけると、はっとしたように振り返った。
「邪魔をしたか?」
「ああ、いや……」
マイクロトフは首を振った。東の空を背にした立つ彼の黒い髪や瞳が、朝焼けの光を受けて、かすかにあかがね色の光沢を帯びる。
「凄い剣だな」
自分の腰につけた剣を軽く叩いて指し示すと、マイクロトフは珍しく、暗い瞳を子供のように輝かせた。
「気に入ったか?」
「ああ」
カミューは気持を表現しきれずに焦れた。視線をさまよわせて、自分の気持を的確に表す言葉を捜した。
「あれを見た途端に、お前のために作られたような剣だと思ったんだ」
しかし、カミューが何も云い出す前に、マイクロトフはそう云って満足そうに笑った。計算して語ることのほとんどない男の口から漏れた、賛辞にも似た言葉に、カミューは思わずかすかに顔を赤らめた。
「嬉しいよ。美しいだけではなくて、きっと使い心地もいいだろう。切れ味を試してみるのが楽しみだ。……ありがとう」
初めて贈り物を受け取る少年のような気持で素直に礼を云う。マイクロトフとの間では慣れないやり取りが新鮮だった。これ、と思うものを見出したときには自分も彼に贈り物をすることができる。ふとそう思い立ってカミューは、擽ったいような小さな高揚を覚えた。
「何故、なかに入らなかった?」
そう尋ねると、マイクロトフは苦笑した。
「御前が気に入るか気に入らないか、それを傍で見ているのはいたたまれないからな」
「そうか。……あの剣が気に入らないはずもないが」
カミューは微笑んだ。彼らしいと思った。細工が美しいだけではそこまで手放しに惚れ込む訳にはゆかないが、この剣の青いきらめきはどうだろう。
カミューは、叩き伏せ、突くことにまして、より切り裂くことに優れ、切断に適した切れ味を剣に求めた。もう少し上背があれば、グラスランドでよく使われる、刀身の長い湾刀を使いたいと思うこともあった。だが彼の腕には極端に重い湾刀は負担がかかるばかりだ。
騎槍も、彼の愛用するものは銅の柄を空洞に抜き、鋼の紐を編んだものを芯に用いた特注品だった。普通のランスよりもやや軽く作り、切っ先を特に鋭く研がせたものだった。
カミューは、己の決定力の不足を気に病まずに済むだけの技術を身につけていたが、たとえばマイクロトフのような男に比べて己の体格が劣ることを、事実として知っていた。
分不相応な重さの剣よりも、自分の技術を活かすための道具を探して用いることに、カミューは余念がなかった。それ故に剣の好みもうるさく、なかなか満足できるだけのものに出会えることはなかった。
満足の行く品に出会えたことに加えて、それを選び出したのがマイクロトフであるということも、むろんカミューに取っては特別な意味を持つ。
最近のカミューは、いつも微弱な飢餓状態にあった。この年下の友人の視線、時間、肉体やこまかな欲望のかげに至るまで、全てを自分のものにしたい衝動でかつえていた。彼のマイクロトフへの欲望はいささか貪欲に過ぎ、自分でも扱いかねるほどだった。いっそ肉欲だけであったならまだしもよかったと、自ら苦笑するほどだった。
彼のこころを望んでも、ひと一人のこころを完全に自分で一杯にすることなど不可能なことは知っている。ひとの胸の器はそれほど狭いものではない。
苦しい欲望を表にあらわさずに済むだけの経験を積み、また我を忘れる訳にはゆかない立場がそれぞれにあったのは、カミューにとって幸いだった。
「そろそろ城に戻ろう。時間が来る」
マイクロトフは、再び空に目をやった。
「ああ」
新しい剣の重みにこころを浮き立たせながらカミューはうなずき、二人は元来た城の方へ道を辿り始めた。城下町プロックからロックアックスまでは歩いて幾らもかからない。森を切り開いて、整然と石を敷き詰めた道が、城門と街をつないでいる。両脇に広がり、城と街を守る森では、冬が近づいても衰えを知らない樅が暗緑色に光る針葉をざわめかせている。
沈黙の許に立つ彼らの足元から梢までを取り巻いた朝靄も、ようやく薄れ掛けている。針樅の灰紫色の樹皮から、瑞々しい森の香がたち昇っていた。
「マイクロトフ」
自分の声が弾んでいるのを自覚しながらカミューは、わずかに遅れて歩いてくるマイクロトフを振り返った。
「……何だ?」
「何か礼をしたいが、今晩飲まないか。いい酒でも仕入れていこう。御前は酒場に出るのはまだ嫌なんじゃないか?」
「……ああ、いや……」
「しかしこんな剣を貰って、酒で済まそうとするのも虫がいいというものかな?」
マイクロトフが特に何か望みを云い出すとは思えなかったが、いささか浮かれた気分でカミューがそう付け加えると、マイクロトフは途惑ったようだった。そして、思案するように数度瞬きした。
「礼か……」
彼がそうつぶやいたことにカミューの方でも驚かされる。
「何か欲しいものがあるのか?」
珍しいものを見るように彼を眺める。唇に思わず微笑みが浮かんだ。できればささやかなことでいい、マイクロトフの望みを適えてやりたいと思った。
沈黙したマイクロトフは、心を決めたように手を伸ばし、カミューの手をとらえた。
そのままカミューの片手を強く引いて道を逸れ、傍らの森の中に分け入って行った。カミューは予想もしなかったマイクロトフの行動に目を瞠った。大きな熱いてのひらに手首を握られて、言葉もないまま、足早に歩く彼の後を歩いて行った。冷ややかな森の空気が彼らを包んだ。
森中が朝靄の凝った雫と、いまだ溶けない霜で白く輝いている。
霜枯れた下生えの草や、草の中に熟れたままで鳥獣に穫られずに残った赤い木の実を踏みながら、彼らは数分歩いた。ひと気のない森の一角でマイクロトフはようやく足を止めた。息をはずませる。
「……カミュー、少しだけ触れてもいいか?」
カミューの顔を覗きこむようにしてマイクロトフはささやく。いささかも己を飾るような様子はなく、ただ彼が飢えているのが感じられる。
まだ驚きに胸を高鳴らせたまま、カミューはマイクロトフを引き寄せた。
彼の大きな身体を抱きしめて髪を撫でると、獣のたてがみに触れたような硬くはりのある髪がてのひらに触れた。その髪の硬さにかすかな欲望がこみあげて、カミューは背中をぞくりと震わせた。すると、にわかに鉄のような腕が彼の身体を巻きしめ、自分の胸に閉じこめて息ができないほど抱きすくめた。それと同時に、焔に似た熱気がマイクロトフと触れた全身に伝わってくる。
「どうしたんだ……」
その力の烈しさと、沸き起こった欲望に声をかすれさせて、カミューはようよう問い掛けた。動かすことも出来ない腕の代わりに、マイクロトフの頬に自分の頬を押しあて、その熱さに愕然とする。次の瞬間、あきれたような声が自分の唇から漏れるのを、カミューはその感情を意識するよりも先に聞いた。
「いったいどうして、こんな酷い熱を出してるんだ?」
これはおそらく、マイクロトフの気分が荒れたときに見せる、特有の熱だ。問い掛けた瞬間、マイクロトフの自嘲するような呼吸を耳元に聞いた。頬もてのひらも溶けるように熱い。外套の隙間から熱があふれ出してくる。その心地よさと、発熱への懸念で、朦朧とするような陶酔がカミューに伝染する。
「休むのが性に合わないらしくてな。……疲れるんだ」
任を解かれた青騎士団長は、珍しく素直にそんな泣き言を漏らした。カミューの柔らかい髪に顔をうずめ、愛撫するように頬を擦り付けてくる。
「お前に触れていると安心する」
やはり謹慎のせいか、と思いながら、カミューはやりきれない思いで、マイクロトフの背中を抱いてやった。囲い込まれた腕をあげ、なだめるように広い背中を叩く。
「それは光栄だな」
「本当のことだぞ」
「嘘だと思ってはいないさ」
カミューはマイクロトフの腕を引き離し、手をあげて彼の頬に触れた。ついで額を包み込む。特に冷たいわけでもないカミューのてのひらは、燃えるような額の上で酷く冷たいもののように感じられた。マイクロトフはじっと立って彼に触れられるのに任せている。
「損な性分だな」
カミューはため息をつく。
「……お前が任を解かれたことについて、お前の部下も赤騎士も、それが不名誉なことだなんて感じていないんだ。……第一、剣の修行も毎日欠かしていないんだろう? 怠けているわけでもないのに、そんなに気持を尖らせるな」
云いながら、額の際の髪を愛撫するようにかきあげ、瞳を覗きこむ。
彼のものとは少し意味の違う不安がカミューにはある。マイクロトフがこころの負荷で発熱することが、この一年、突然に増えている。あまり変調が度重なるようでは、騎士団長としての務めにも差し障るだろう。
「……何も任されずにいるというのは怖いものだな……」
マイクロトフはつぶやいた。
「いや、任されていることで普段、逃げおおせているのかもしれないが……」
カミューは眉をひそめた。
「逃げる……何からだ?」
問い返すと、自分の言葉に驚いたようにマイクロトフは首を振った。
「何から……いや、それは分からないが……」
マイクロトフの口から逃げる、という言葉を聞いた事にカミューは衝撃を受けた。それがマイクロトフの中で熟したものではなく、無意識に出たものであるからこそ危険だ、と思った。彼は生来、目的から逃げる、逃げない、といったような埒も無い観念論に気力を費やす気質ではないからだ。国について悩むのはいいが、脇道に逸れるほどマイクロトフが倦み疲れる前に、周囲が彼の気持ちを庇ってやる必要がある。カミューはそう思った。マイクロトフには、それをされるだけの価値がある。
線の細い思考にこころを寄せることは、人間にとって容易に習慣になるのだ。それはしばしば快感すら伴うことがあるのをカミューは知っている。マイクロトフをそんな弱い男だとは思わないが、現に自分の手に触れた熱い額が、カミューを不安にした。
冷たい考え方かもしれないが、戦場でこそ力を発揮する騎士に、そんな理念は必要がない。
たとえばゴルドーのように、理念を頭の中で弄び、利用するほどの狡猾さを持った者ならば別だ。しかしマイクロトフはあきらかにその類の男ではなかった。
「頭を冷やせ。……できることをするのに理由は必要ない」
マイクロトフはいささか恥じ入ったように口をつぐんだ。声がきつくなったのを自覚して、カミューは自分を抑えこむ。
「……だが、どうしても吐き出したくなったらわたしに話せ。お前が逃げているなんて考えが、およそばかげていると、わたしが何度でも笑ってやる」
「……カミュー」
冷たく響くマイクロトフの声がかすかに揺れ、低く柔らかにかすれた。ただ呼びかけるのとは違う、感情の篭った声に、カミューの理性が揺らいだ。何もかも忘れてマイクロトフを甘い言葉で誘惑し、慰撫してやりたい衝動に駆られた。
しかし彼はそれをする代わりに、力づけたい思いを込めて、マイクロトフの肩をてのひらで包んでそっと軽く叩いた。大きな獣の忠実な働きに賛辞を与えるときのように。
マイクロトフは先刻のように激しい仕草ではないが、ゆっくりと彼の身体を引き寄せて自分の胸に押し付けた。あめ色の柔軟な毛皮の外套に包まれた、自分よりも大分細身のカミューの身体を、抱擁でゆっくりと味わい尽くした。
切れの長い目をうっとりと細めて、カミューの目を間近に覗きこむ。そんなふうにされると、このところマイクロトフに飢えていたカミューは、彼と目を合わせていられなくなった。黒い瞳に吸い込まれそうだった。顔をかすかに背けると、火を握りこんだようなてのひらが彼を追い、優しく引き戻した。熱い唇が重なってくる。カミューは目を閉じてくちづけに答えた。どんな技巧よりもこの男の熱さはカミューを酔わせた。
舌が触れあって鳴るかすかな音が、自分とマイクロトフの唇が濡れて合わさっていることを意識させて、彼を噛んで飲み尽くしてしまいたい欲望にカミューは苦しんだ。
これほどの欲望を耐えながらマイクロトフの腕に抱かれて交合を受け入れる、焦れったい矛盾が、また彼をかきたてるのだ。抱かれて溶ける感覚と、男としての感覚とが淫猥にいりまじる。相手がマイクロトフであるということが、そこに高揚と、蒼褪めた罪悪感とを同時に付加するのだった。
ただ堅くカミューを抱いていたマイクロトフの腕が動き、確かめるように、カミューの髪を、頬を、背中をさまよった。唇が離れ、くちづけの名残に濡れたままで髪をかきわけ、耳元に落ちた。耳朶を舌と唇で探られて、カミューは短く息を吸った。ついで唇は滑り、顎の下へ、首筋へと動いた。
「マイクロトフ……」
制止するどころか誘いかねない声でカミューは彼を呼ぶ。これ以上は自分が耐えられなくなると思った。
その声に、マイクロトフは熱い息を吐いて、ようやくカミューを離した。
「……すまない」
「謝るな」
カミューは濡れ始めた睫を開いて、体の甘い疼きをこらえながら微笑した。
「……感謝を表現する方法がひとつ増えて、わたしには嬉しいだけのことだ。行きすぎなければね」
「感謝?」
面食らったように返すマイクロトフが愛しかった。
「お前のくれた剣が戦場で共に戦ってくれると思うと、こころ強い。……これ以上の味方は思いつかないな」
もうこれ以上互いの感情を煽らないよう、マイクロトフに触れることはしなかった。しかし、腰につけた剣にてのひらをかさね、輝石から伝わる焔のようなぬくもりを感じ取った。
驚いた表情のまま立った友人は安堵したような笑みを見せ、樅の枝の間からふりそそぐ、先刻より大分白さを増した陽光に目を射られたように、ふと目をすがめた。