罪終盤。シバルバー潜入直前。
特に寝苦しい晩だったわけでもなく、何の夢を見たわけでもなく、突然眠りに穴が空いた。
目を開けてもまだ頭に霞がかかったような感じだった。妙に明るかった。頬に不意に風があたった。寝る前に窓を閉めたことを思い出して、達哉は窓の方へゆっくりと寝返りをうった。そしてそのまま起き上がった。部屋の中がぼうっと薄蒼く耀いている。ようやく目が覚めて、自分がどんな風に眠っていたのか、この部屋に誰がいるのかをいっぺんに思い出した。
淳がいたのだ。起き上がって窓際にいる。特別小柄というほどではないが、達哉に比べると小さい体が、達哉の服の下に、小鳥の死骸のようにこわばって収まっている。まくりあげた裾から痩せた足首の腱が覗き、フローリングの上で、かたくなに同じ姿勢を取り続けていた。雨足が強いせいで、ぴったり閉めておいたサッシを二十センチくらい開けて、風と一緒に雨が吹きつけるのに任せて座っている。雨はベランダのワンクッションで部屋の中に直接吹き込んでいるわけではないが、風にまじって、達哉の部屋の中を湿らせているのがわかる。
どこかやりきれない嫌悪のようなものが、かすかに達哉の中で動く。握り締めると、自分の指先がうっすらと冷たくなっているのに気づいた。自分は腹をたてているのだろうか?達哉は不思議に思う。雷雨になった雨を嫌って、窓とカーテンを慌ただしく閉めきったのは淳だった。
この街が中空に浮かんで以来、気候の影響が激しくなったのは確かだった。
落雷も多いと聞いた。日差しも、いつもの年よりもずっと強い。下の世界と切り離されたくせに、流通や治水だけが今まで通りの機能を見せている非現実感の中で、あぶられるような日差しや、時折ビルにぶつかって流れて行く雲や、目前を通り過ぎる夜間飛行のジェット機の巨大さが、不意にばかばかしいほどのリアルさを、この街に暮らすひとの生活に加味していた。
声をかけようと思ったが、とがめる響きを消せる自信がなかった。達哉は立ち上った。淳の背中からかぶさるように腕を伸ばし、窓を閉めた。
昔、人間はお互いの領土を侵すものだが、心の扉だけは閉ざせば誰にも侵されないものだと思っていた。月並みだが、精神はあらゆるくびきと同時存在しながらも、自由なもので有り得ると思っていた。今も子供に近いが、もっともっと子供だった頃、こういう事を言葉にして考えずに、小さい体の中に電気信号のように隠し持つしかなかった頃、達哉はそう思っていた。
彼の精神論を支える、大切な友達もいた。顔はもうぼんやりしていて思い出せない。ただ、彼の声がよくふるえたのは記憶の中にある。話しているとふるえる声。声に心がしばしば滲み出す誰か。今、そこに入っていってはいけないのだというサインが明確に現われる。だから達哉はそのドアを叩かなかった。そのドアの外に座り、彼が出て来るのを待った。
気持が落ち着いて扉が開く。友達は視線を落し、坐って自分を待つ達哉を見つける。彼はいつも笑ってくれた。綺麗な微笑だったと思う。扉を叩かなかったことを正しいと証明してくれるような。
その友達に侵される日が来るとは思ってもみなかった。
灰色だった空が銀色になった。
上空から落下傘が、武装した男達が、有機的な機械がきらきら光りながら曇り空から落ちてきた。それはどこかの国から来た侵略者ではなく、仮想上の空間を分けて出てきた、過去における人類最大のテロルの模倣だ。
ゆきのの想い人は死に、ゆきのは彼等の前から消えて、そして淳が帰ってきた。帰ってきた、という言葉に違和感があるが、そうとしか言いようがなかった。貧弱な肩を寄せ集めていた過敏な子供たちが、また五人出揃ったのだ。
カラコルを出た淳は家に帰ると云ったが、その彼に、達哉の部屋に泊まったら、と云い出したのは舞耶だった。
(「淳くんがさしつかえなければうちに泊めてあげるんだけど」)
こればっかりはうららの意思も聞いてみないと。舞耶はそう続けた。それにいくら淳くんでも男の子だしね。
幾ら淳でも男だ、というのはどういう意味なんだろう。泊めてあげて、という言葉がうまく頭に入らずに、達哉はぼんやりと考える。
(「お節介かもしれないけど、おうちには帰らない方がいいわ。淳くん」)
あんたはいつもお節介だ。悪意はなく達哉は思う。そこに皆が救われている。だから舞耶がどんなにお節介をしても自分達ひとりひとりは構わなかった。
だが、淳と自分は違う。舞耶が自分と同居人の部屋に淳を泊めるというなら、いつもの舞耶の行き過ぎた親切ということで話は終っただろう。だが、達哉の部屋に淳がきて、二人きりになるというのは、そんなに簡単なことではなかった。
久しぶりに会った友達を何日か家に転がり込ませてやる。
本当はただそれだけのことなのだろう。リサも栄吉も何も云わずに黙っていた。だが、誰一人、自分達五人が、ただの昔馴染みでなどないと知っていた。ほつれた関係の修復は行われたが、傷を縫い合わせた糸のところどころに、青白い憎悪が光っているのが見える。
なぜ自分は憎悪をそんな色だと思ったのだろう。
その答はすぐに出た。ペルソナを呼び出した時、燐光のような蒼い光が見える。その色が自分にとって憎悪の色にどこか等しいのだ。
断れ。どこかそう思って、彼は淳の顔を見下ろした。淳のアーモンド型の瞳は伏せられている。冗談のように長い、真っ黒な睫毛が、十二センチ上から見下ろす達哉の目にははっきりと見える。淳は、何か考えているように暫く沈黙した。やがて彼は色の悪い唇の乾きを舌で湿し、達哉を見上げた。思いつめたような光が黒い瞳の中に宿っている。
(「迷惑なら帰るよ」)
達哉は耳を疑った。淳に憎まれていた。それは確かだった。たとえ彼がそれを後悔していても、改める気になっているとしても、それは消えずにどこかにある。淳が、舞耶の死の記憶にまつわって達哉を憎むことに決めたのは、淳にとって彼が憎悪の回路の行き着く先にいたからだ。お互いを憎み易い人間同士はなるべく一緒にいない方がいい。何度でも同じ事は起こり得る。
(「……迷惑じゃない。……」)
彼は一瞬考え、付け加えた。
(「来れば?」)
そうか。淳もこんなふうに後には引けなかったのかもしれない。
そう思うと説明だけはついたように思って、達哉の中から、一瞬の間に巻き起こった葛藤はそがれたように抜け落ちた。以前舞耶にワンビット、と云われた。達哉はいつまでも何かひとつのことについて考えることが苦手だ。答が出ないなら忘れたほうがいい。
食事をしていた店を出ると、黙っていたリサが、そっと身を寄せてきた。
(「エライね、情人」)
完全に日本人の作りとかけ離れた顔に、不思議に東洋的な色を乗せてリサはささやく。ずけずけ物を言うようでいて、リサはデリケートだ。過敏なくらいだろう。何かを察してくれるのは有り難いが、何も云わないでいてくれればもっと有り難い。
(「……別に」)
素っ気無い声が出たが、リサは気にしないようだった。じゃあね。手をあげて舞耶に近寄る。女同士、この後も何か予定があるらしい。
それから自分と淳は連れ立って帰るのか。達哉は無意識に時計を見る。まだ八時前だ。眠るまでに余った時間を、自分はどうやって淳と過ごすのだろう。
(「ごめん、達哉」)
淳はもう目をあげなかった。きめのこまかい皮膚で包まれた額に、かすかに汗が浮かんでいるのが見えた。淳は疲れているようだった。それはそうだ。皆疲れている。子供の思い込みが後を引いて悪夢になった。そして、この場にいる一人一人がその責任を負っているのだ。一人残らず。こんなことになって、誰も気楽ではいられない。まつげの生え際の端から端へ、ナイフで切ったような美しい二重の線を刻んだ淳のまぶたを、達哉はぼんやりと眺める。
その時、かすかに青みがかって疲れを浮かばせた淳の左側の目に、突然一粒涙が浮かんだ。
淳の片目に浮かんだ涙は、水銀の珠のように丸く浮かび、しかし、瞬きと一緒に彼の上下の睫毛にまぎれた。それは一瞬のことで、白痴めいた空白の中でぼんやりと淳を凝視していた達哉しかそれを見なかったようだった。
しかし淳の目の上で膨らんで、消えて行ったその涙は、奇妙に苦く、達哉の空白に割り込んできた。
目の前にいる人を誰も見ないようにして、全ての人間との距離をはかる達哉の中に、突然肩を押し込むようにして隙間を広げて入ってきた。
それをしたのがたった一粒の涙だとは信じられずに、達哉は茫然とした。
「明日には家に帰るよ」
眠る前、淳は言い訳をするようにつぶやいた。この何日か、結局淳は達哉の部屋にいた。
「迷惑だろう?」
「別に」
迷惑だろう?と聞かれてそうだ、と答えられる人間は、実はそれほど多くない。しかし、実際のところ、達哉にとって淳は迷惑だった。しかしなぜ、自分が彼を迷惑がっているのか分からなかった。それも達哉を困惑させていた。淳がいると落ち着かない。淳が喋らないせいもあるだろう。二人きりになった途端に、ぷつんと切ったように会話が途切れる。元より達哉は何も云う気がないし、淳も同じ気持ちでいるようだった。舞耶も栄吉もリサもよく喋る。だから、五人でいる時は、淳や達哉がいくら喋らなくてもさほど問題はなかった。だが、淳と達哉の間にほとんど共通点はなく、思い出話をする余裕は達哉にはなかった。
ただ、ポケットに入れたジッポの蓋を開けて閉じる、その習慣だけが生き残っている。その癖は淳の前でもなかなか治せず、淳が時々、達哉の手元をじっと眺めているのが分かった。
今日は昼から雨が降っていた。本当なら金牛宮に行くはずだったが、リサの体調がよくないのよ、と、舞耶から朝に電話がかかってきて、中止になった。それが不満だったわけではないのだが、そうすると淳と一日中一緒か、そう思って思わず沈黙した。
舞耶はそれをどう取ったのか、このところ出ずっぱりでみんな疲れてるでしょ丁度いいわ、と早口に云う。
電話の向こうでリサの声がするのを、達哉の耳は拾いあげた。舞耶の家に泊まったのだろう。舞耶ちゃん、痛み止め効いてきたよ、大丈夫。その言葉でリサの不調の原因が察せられて、達哉は溜息をついた。
結局、達哉は淳を置いて出かけるのも気が引けて、久しぶりに教科書を引っ張り出して勉強した。勉強するのは嫌いではないのだ。すでに研究されて確定した事柄についての、設問と答が用意されていて、道筋に添って、解いて、覚えていく。微妙な心理も思いやりも必要ない。何てシンプルで解り易い世界だ。
すぐに集中して、淳が側にいることの奇妙な不安感と喪失感を忘れる。喪失感?一瞬自分の胸をよぎったそれに驚く。淳がいないことへの喪失感ならともかく、彼が側にいることの喪失感とは、いったいどういう意味なのだろう。
淳は昼食の後片付けを引き受けた。それから、教科書見せて、と英語のリーダーを抜き出して行った。しばらくして、小声で、遅れてるなぁ……とつぶやく。それが、セブンスに比べた春日山のことなのか、自分個人のことなのかは達哉には判らなかった。
淳といると落ち着かないが、だがその原因が自分にあることは薄々解っている。淳は一緒に長い時間を過ごす相手としては、おそらく悪くないのだ。空気のように静かに動き、手先が器用で危なげがない。自分を見ろ、というオーラを出さない。
だが、彼にはそれでいて、奇妙に存在感があった。
淳。が。ジョーカーだった。
それを知った瞬間の気持を、達哉ははっきりとは覚えていない。ただ、何か、心の中の心臓部を抉り取られたような奇妙な喪失感があり、それが消えずに持続しているのは確かだった。
そういえば今年に入って、カリスマという言葉が流行った。
(「日本で今、一番軽い言葉になっちゃったわね」)
舞耶がそんな風に云って苦笑した記憶がある。あの時は淳がいなくてゆきのがいた。
(「カリスマなんて言葉、あたしらの感覚じゃ、そんなに簡単に使うものじゃありませんでしたよね?」)
ゆきのが舞耶の言葉を受ける。
カリスマという言葉に何かひっかかりがあった。
その日帰ってから、達哉はふと思いたって辞書を引いた。
超能力、予言や奇跡を行う力。超人的資質。大衆を心服させる能力。
薄い辞書には、簡単にそう書いてあった。
大衆を心服させる能力。ジョーカー。記憶の中の「彼」の姿を思い浮かべる。ほっそりした身体を白い服に包み、道化の様相で中空に立つジョーカー。毒々しく彩られた目と唇。彼の放つ蒼い光芒。彼はどこか降魔したペルソナの姿に似ていた。戯画化された恐ろしい美しさがあった。
携帯から自分の番号へかけるとジョーカーにつながるという。彼と話せば望みがかなうという。 皆、半信半疑で自分の電話番号を押すのだろう。
そこから彼の声がする。自分が望んだことが無条件にかなえられるという、猥雑な夢を信じさせる声だ。振り返らずにはいられない声だ。彼は、恐怖心と依存心の入り交じった、噂という乱層雲を支配していた。
思えば、子供の頃から淳の思い付きや言葉には、一種悪魔的な、妙な魅力と説得力があった。淳がジョーカーであることから手を引いても、彼が持って生まれたその資質に変わりはない。
今日、こうして達哉の部屋に友達同士のように坐り、静かに教科書や雑誌をめくっている淳。時々ぼんやりと窓の外を眺め、達哉の苛立ちから身を守るように気配を殺している。
そうしながら、淳の全身からとんでもない誘引力が漂ってくるのだ。
夕方過ぎに雨量が減ったかと思うと、からからと乾いた雷鳴が響いた。
ぎょっとするほど近い。それまでぼんやりと窓際に坐っていた淳が、不意に身体をびくりとすくませた。唇が青ざめている。
「嫌いなのか? 雷」
「……あんまり得意じゃないな」
そう云いながら淳はまた身を震わせた。
「ごめん達哉、カーテン閉めていいかな」
「……ああ」
達哉はうなずいて部屋の明りをつけた。まだそれほど暗くはなかったし、そろそろ勉強も一段落していたから、灯りをつけなくてもいいくらいだった。だが、部屋が暗いままでは、結局はカーテンが稲妻を透かしてしまうだろう。
淳は、カーテンをぴったりと閉ざして窓に背を向けた。頬に鳥肌がたっている。達哉は目が覚めたような気分で淳を眺めた。子供の頃は身長もほとんど同じで、よく覚えていないが体重までぴったり一緒だった気がする。だが、何時の間にか身長にも、そしておそらく体重にもかなりの違いが出てきている。腕は長いが肩幅は狭くて、背の高い女のような体格だった。しかも女のように凹凸があるわけではないから、その分、頼りなく細く見える。
「晩メシ、どうする?」
何も云うことが思い浮かばず、達哉は穏当な質問を撰んだ。淳と二人で夕食を摂るというのも初めてだった。この数日、必ず誰かしらと一緒で、そこそこに遅い時間まで外にいて、そしてようやくこの部屋に帰るというのがパターンだった。普段なら断る付き合いも、淳がいたせいで断らなかった。
「どうしようか。……僕は何でも……」
淳は少し考える。そして云いにくそうに、レトルト以外なら。そう付け加えた。
インスタントをはずして、何でもいい、ということはないだろう。選択肢がぐっと減ることになる。だが、達哉はうなずいた。淳がレトルトを嫌う理由は薄々知っている。レトルト食品は、かえりみられない幼児だった頃の淳の記憶と直結している。孤独な食卓の象徴ともいうべき物なのだろう。
「でもこの雨の中、どっか食いに行くのも嫌だろ?」
何か適当なデリバリーでもあっただろうか。達哉が記憶の中をさらっていると、
「何か作ろうか?」
淳が云い出した。
「料理できるのか?」
「できるよ」
ここで女の子なら、たいしてものは作れないけど、だとか、口に合うかどうか解らないけど、とフォローが入るところだが、淳はあっさりとそう云って達哉の答を待った。
「じゃあ頼む」
たいしたことをする機会もなかったが、淳は、大抵何をやってもこなす印象があった。勉強する気はなさそうなくせに頭もいい。そもそも何故彼は春日山に入ったのだろう。達哉も料理はするが、特別好きなわけではなかった。この部屋で男が台所を使うというのは初めてのことで、少し落ち着かないが、やってくれるというなら頼んでもいい。
「……材料はほとんどないね……」
うなずいた淳はそうつぶやいたのが最後で、後は黙々と作業に取り掛かった。手持ち無沙汰になった達哉は、結局勉強したが、顔をあげると、淳がやたらに何か分量をはかっているのが見えた。フライパンに水を足す時さえ量をはかって入れているように見える。
淳らしいといえばらしいか。
彼がこの部屋にやってきてから初めて、友人めいた気分になって、少し可笑しいと思った。淳は完璧主義なのだ、おそらく。出来上がってきたものも、いかにもその性格が伺えた。材料がなかったせいで、目玉焼きと豆腐の入った野菜炒めができただけだったが、目玉焼きは型にはめて焼いたように丸く焼いてあったし、豆腐はどうタイミングをはかるものだか、かっちりとした賽の目に切られて、かたちも崩れずに野菜の間に混じっている。野菜は古くなっていたはずだが、色の変った部分は神経質に取り除かれていた。味の方は、少し薄いが思った以上にいける。
食べている最中、沈黙をまぎらわせるような気分で、うまい、と云うと、淳はほっとしたような笑顔を見せた。どうやら感想を待っていたらしい。
笑った淳を久しぶりに見たような気がする。
だが、淳はそれきり笑わなかった。急に口がほぐれるということもなかった。食べ終わった後は静かに後片付けをした。少しぼんやりしているようだった。時々雷鳴が聞こえて、淳は表情を固くした。
「テレビつけていい?」
そう云われて、何観る?と尋ねると、淳は、番組は何でもいい、でも、できれば音が大きくて煩いやつ。そう云った。その声で、達哉は初めて淳があまり機嫌がよくないのに気づいた。
「明日には帰るよ……迷惑だろう?」
寝る前にはそんなふうに云い出す。
「別に」
「でも楽でもない。僕がいると達哉が緊張する」
フローリングの上に敷いた布団の上で起き上がった淳はつぶやいた。そして、達哉が答える前に、おやすみ、と云って布団に潜り込んでしまった。達哉に背を向けている。拒まれた気がして、達哉は自分のパジャマを襟元に覗かせた淳の、布団の上に散らばった黒い髪の先を眺めた。また、あの妙な喪失感がこみあげてくる。
まだ眠気はこなかったが、ベッドのすぐ向こうに淳の頭が見ている状態でずっと起きているのに耐えられない気がして、達哉は電気を消して自分もベッドに入った。いつもなら失墜するように眠りが訪れるのだが、身体を動かし足りないらしく、なかなか眠れなかった。どうやら淳も眠っていないことに息遣いで気づく。
こうやって隣り合わせていても、自分達は話もしないのか。少し呆れる。てのひらの中に、瞬間、ジッポの冷たい感触がよみがえってくる。蓋を指で弾く感触を頭の中で再現する。
少し落ち着いて目を閉じた。
古いウサギのマスコット。昔の親友にもらったライター。花言葉を覚え込んだ花。貧しい宝物を痩せた胸に抱える、世界の命運を任された子供たち。
眠りの闇は結局唐突に訪れて、今日と明日の境目を曖昧にした。
起きあがって、雨の降り込む窓を閉めた達哉はぎくりとした。
思わず後ずさりそうになった。
窓際に坐った淳の、雨に湿った身体から、その青白い光が放たれていた。風ににじむようにしてゆらめいていた光が、達哉が窓を閉めたせいで安定したのだ。
見てはいけないものを見たと思った。
淳の力なく丸めた背中から、いびつに曲がった蒼白い翼のようなものが突き出していた。その白いものがゆらめきながら、部屋中に燐のような光をもたらしているのだ。
ヘルメスだ。
淳が降魔したペルソナだった。背の高い男の姿をしたそのペルソナは、淳の背中から、腰から上を突き出すようにして生えていた。不自然に関節を狭く折り曲げて、羽根の折れた鳥のように淳に入り込んでいる。下肢は完全に淳と溶け合っている。人のかたちからはかけ離れた蒼白く長い腕、鈎爪を備えた長い指を、覆い被さるようにして淳の胸の前で交差している。腰から上しか存在しない人を背中に負うようにして、淳は座り込んでいる。
達哉が動いても淳は顔を上げようとせず、代わりに淳の背に乗った白いものが目を開けた。淳と一緒に目を閉じていたようだった。うすみどりいろに耀く目が動き、達哉を見た。
「……何、やってる……」
声がかすれた。戦闘中以外にペルソナを呼び出すことがないわけではない。しかしそれは彼等の能力を頼ってのことだ。ペルソナは根本的に人間と相容れるものではない。力を借りることはあっても、こんな風に身体に溶かすようにして召喚したままにしておくというのは発想外だった。それ以前に、そんなことが自分達のペルソナで可能なものなのか、達哉には解らなかった。
「淳」
達哉は、彼と再会して以来、この名前を呼びかけとして舌に乗せたことがあるのかどうか、ふと疑問に思った。それまで全く無反応だった淳がかすかに動いた。うなだれているせいで、長い前髪に隠れていた顔があがり、達哉に向けられた。
ぼんやりと澱んだ視線を想像していたが、意外にも目には光があった。淳の瞳の真っ黒な虹彩は、挑戦的な、それでいて絶望的に鬱積した輝きを宿していた。切れの長い瞳が奇妙に澄み渡った視線で射抜いてくる。
「何?」
淳は落ち着き払った声で答えた。
「……窓? 床を濡らしちゃったね。……悪かったよ」
また、咽喉の奥に大きな穴が空いたような空疎な気分が達哉を襲った。
「床なんてどうでもいい」
やっとまともな声が出せた。その間も、淳の背中から生えたものは、瞳孔のないみどりいろの目をじっと開いて達哉を凝視していたが、やがて、少しずつうねりながら淳の中に消えはじめた。その異様な光景を、達哉は愕然として見守った。
淳の胸を抱きしめるように伸びた腕は力なく曲がり、焼死体が差し伸べた腕のように折れ曲がって、一瞬貝殻骨の両脇に残った。最後に長い爪を備えた指先が、痩せたうなじに浮かんだ頚骨の上に、歪性の花のように突き出した。そしてそれも、かすかな青白い光の名残を残して消えて行った。
「起こして悪かったよ」
淳は、自分のパジャマの袖口が濡れていることに気づき、布を指先でつまみあげて、これもごめん、と云った。
「あんなこと、いつもしてるのか?」
「あんなことって?」
淳はするりと肩から湿ったパジャマを落した。一歩膝を進めて、布団の上に戻る。睫毛がゆっくりと数度またたいて達哉を見た。
「……疲れたり、力を消費したりしないならいい。……だけど」
「だけど?」
その先何と云えばいいのか解らずに、達哉は言葉につまった。理解し難い人間と向かい合った時に、よくこの空白がやってくる。彼は少し身体をふるわせた。
「お前、寂しいのか?」
それは予期せずに口から飛び出した言葉だった。自分がとてつもないNGワードを口にした気がして、達哉は唇を噛んだ。何故自分がそんなことを尋ねようとしているのか分からない。淳も面食らったような顔で達哉を見る。しかし、やがて彼は肩をふるわせて含み笑った。
「何云ってるの?」
笑いが止まらずに口元をおさえる。睫毛が薄く濡れる。
「聞かれたから云うけど、寂しいよ。寂しくなかったことなんてないよ」
達哉は、茫然とした気分のまま、淳を眺めた。
髪の隙間から覗いた淳の白い額の上に、最初の日と同じように汗の粒が浮かんでいるのが見える。あるいはそれは、淳が自分をさらしていた窓際で受けた雨粒だったのかもしれない。
いずれにせよ、その細かい、目を凝らさなければ見えない程度の水滴は、ひどくせっぱつまった印象を与えた。同時にそれは達哉を胸苦しく、理由もなく不安な気分にさせた。
「……俺の部屋で寂しがるなよ……!」
それは先刻の言葉同様、達哉の咽喉から無理矢理に押し出されてきた。自分はこんなことを考えていただろうか? それを口にしただけでひどく疲れた気分になって、達哉は、立てた片膝の上に額を伏せてしまった。
「もう、勘弁してくれ……」
声が少し震えた。
「一緒にいたくないなら帰ればいいし、いたければいてもいい。だから、俺が必要ないことを、そんな風に見せつけるな……」
心のどこかの壁に穴が空いて、そこから不純物でも入り込んできているように、思ってもみなかった言葉が溢れ出してくる。だがそれを、冷えた視点で見ている目もある。こんな時に本音が出てこないはずはない。
それともそんなにおれは淳の気を引きたいのか?
それも、いささかの違和感を伴って達哉の中に訪れた発想だった。思ってもみなかった。
達哉は自分の、または他人の感情についてそうして面食らうことが多かった。そのせいで不意打ちをくらって無反応になる。顔に出ないというだけではなく、どこか空虚な、無感動な気分になる。そのせいで彼は冷静な人間だと思われていた。たまたま彼が、冷静な人間と同じように役にたったからだろう。
「必要ない……僕が?」
淳は能面のような顔で繰り返した。
「君を?」
圧しつぶすような沈黙があり、淳が自分を見ているのが解った。
「達哉。泣いてるの?」
てのひらを打ち下ろすように鋭い口調で淳は問い掛けてくる。
「……」
こんなことで泣くか。
ひどい脱力感の中で達哉は思う。
「君はこんなことで泣かないよね」
達哉の思考に呼応するようにして淳はささやいた。彼の外見に似合わないような、低めの甘く粘りついてくるような声だ。
「云っておくけど、本当は僕は君に媚びたくてしかたないんだ」
不意に淳はそう云った。達哉のうなじに不意に冷たい腕が巻き付いてくる。その冷たさにか、なめらかさにか、淳の言葉になのか、まるで判断がつかない衝撃を受けて達哉は凍り付く。
「媚びて、媚びて、君の云うことを奴隷みたいに聞いて、尻尾を振ってついて回りたいんだ。君の靴だってなめかねないんだよ? 今の僕は」
「……」
達哉は思わず絶句する。淳が何を云い出そうとしているのかが判らない。
「だけどしないよ」
淳は達哉の肩やうなじを抱きかかえるようにしていた、パジャマを脱いだままの裸の腕をほどいて、達哉の顔を覗き込む。
「それをすると君は困るだろう? 自分を慕って寄ってくる人を君は拒否できないだろう? だから我慢してる。僕が君を欲しがってることで、君の重荷になりたくないんだ。でも君を必要ないなんて考え違いもいいところだよ、達哉」
何日も一緒にいて、ひとことも達哉と自分の関係について言及しなかった淳は、ほどけ落ちるようにして言葉を重ねた。顔は青褪めていたが冷静だった。
「僕は、僕ほど達哉が必要な人間はいないとさえ考えてる。嬉しいとか、悲しいとか、……好きだとか、憎いとか……全部達哉がいなかったら中途半端なんだ。でもそんなのは重過ぎるよ。だから云わなかった。今は君が憎いなんて思ってない。でも今違うからってそれが何だろう? 本気で切りかかってきた人間の執着を引き受ける義務なんか君にはない」
淳はゆっくりと云った。
「それに僕だって、君にそれを強制しても苦しいだけだ。……ただでさえ達哉は強制されやすい人だからね」
そうつぶやくと、淳は達哉の肩を軽く突いて押し放した。
「ごめん。結局押し付けてるね。でも君は気にしなくていい。……いや、気にして欲しくない」
達哉は、自分から離れて行こうとする淳の手首を思わず引き止めるように握り締めた。彼のてのひらの中にすっかりおさまってしまうような細い手首だった。そして冷たかった。氷の棒を握ったような感触が達哉のてのひらの中にあった。
「……冷たい」
非難するような口調になった。
「いつもと同じだよ」
淳がなだめるようにささやいた。
「嘘だ」
「僕の手なんて今まで握ったことないのに? どうしていつもと違うなんて君に判る?」
淳の口調はあくまでもおだやかだった。微笑さえ含んでいた。それは少しずつ滴り落ちて、達哉の中に黒い水のように染み通ってきた。
「離して、達哉」
彼はほんの少し眉をしかめた。その表情は、女優の母親譲りの弓形の眉の美しさをなおさらに強調した。それを見ると咽喉が痛んだ。奥に痛い塊があった。
「君がくれるくらいじゃ僕は満足しないよ。もう解っちゃったと思うけど、すごく欲張りなんだ、僕は。こと君に関してはね」
淳は話しているうちに整理がついてきたのか、ますますおだやかで冷たい顔になり、目を伏せると仏神の彫像のようなはかり難い表情になった。
「だから何もいらないんだ」
まだ指の力をゆるめようとしない達哉の手に、淳のもう片方の手が重なってきた。
ひやりとした感触が手の甲を包む。
その時、ようやく達哉はどうやら自分が傷ついているらしいこと、淳が自分の言い分を全く聞こうとしていないこと、そして、淳に聞かせるべき言い分を自分がほとんど持っていないこと、そんなことにようやく思い当たった。
「ねえ、達哉。君はこんな風に、僕の告白なんて聞いてる必要は少しもないんだよ?」
達哉はかっとした。
「……うるさい!」
ようやくまともな声を出せた彼はほっとする。思いがけなく大きな声が出て閉口したが、云いたいことをようやく口に出せた気がした。
彼は、ベッドヘッドにかけてあった自分のシャツを取り、乱暴に淳に着せ掛けた。
「お前、うるさいんだよ。……」
溜息が漏れる。
「お前だって全然こっちのこと解ってないし、……黙っててもやたらに気になる。喋ってなくたって、何か隣で考えてるのが解る。……すごくうるさい」
驚いたように達哉を見上げた淳の唇に、ゆっくりと苦笑のようなものが広がった。
「だから出て行くって云ってるのに……」
達哉は、シャツを着せ掛けた手を離せず、薄い肩ごと服をたぐるようにひきよせ、そして混乱して手を止めた。
目を背ける。また溜息をつく。
「どうしろって云うんだ。……」
今度は、淳ははっきりと声をたてて笑った。
「バカだなあ、達哉。……放っておけばいいじゃないか。明日は一緒に金牛宮に行って、水晶髑髏を回収して。……そうしたらもう僕は家に帰るから、今度は待ち合わせて次の場所に行く。簡単じゃないか。みんなと一緒なら気にしなくてもいいだろう?」
それはそうかもしれない。
だが、達哉の胸は、吐き気に似て切迫したものでざわついた。鎖骨に柔らかいものが触れて、達哉は視線を落とす。淳の髪だった。淳は達哉の肩口に額を押し当ててしばらく黙っていた。その細い髪にまつわる光沢が達哉の目を射る。
「……君から離れないなんて僕が云い出したら、君はきっと困るよ」
笑いと一緒にかすかな息が達哉の肩をくすぐる。
「……困ってもいい」
緊張で、声を押し殺さなければならなかった。声に力が入らなかったからだ。
淳は手を伸ばして達哉の髪に触れる。つめたい指が、そっと髪の上を撫でる。見開いていた目を細める。
「そんなこと云って」
また笑った。
「後悔するよ」
「さあな」
達哉の手の、苛立ちに誘発された震えはようやく止まった。指をほどいて、淳の肩を解放する。もうどうすればいいのかは解っていた。正確に言えば、淳の髪が彼の肩に触れた時に解った。
肩で止まっていた片手で淳の背中を抱く。反対側の肩甲骨の位置までてのひらで探ると、淳の身体が自分の胸におさまってしまうことに、今更のように驚いた。
うなじに顔を埋める。何日も一緒にいたのだから当たり前だが、自分が使っているのと同じシャンプーの匂いがする。だがそこに、自分以外の人間の体臭が甘く混じり込んでいた。淳のそれは、どこか花の香がする。
「……ちょっと、達哉?」
さすがに動揺した声が聞こえて、淳が身をもがくのを腕の中に拘束する。
床とベッドと、どちらにしようかと迷ったあげく、結局あきらめて腕をほどき、淳をベッドの上に引きずり上げた。着せ掛けたばかりのシャツを肩から剥き取る。あおむけになるように肩を押さえると、白くて細い体が、さっきとは違うインパクトを持って目に飛び込んでくる。
今までしてきた経験や、知識がまるで役に立たずに吹き飛んだ。自分と淳の間に思いも寄らないことが起ころうとしている。しかも能動的に事を起こそうとしているのは自分だ。
「達哉……」
淳は達哉を見あげた。
「……抱いてくれるんだ?」
淳の目が再び挑むような光を帯びた。その言葉のインパクトで達哉をひるませようとしたのかもしれない。だが、達哉は受け流しもせずに肯いた。
「……たぶん、そのつもり」
淳の足の間に自分の体を滑り込ませると、何かに気づいたように淳の目元に血の気が差した。熱に出会った蝋のように、淳が突然溶けたのが判る。幾つかの辻褄がようやく合ったような気分で、達哉は淳の体の上に自分の体をかぶせた。
彼は達哉の気持についてあれこれ云うが、本人の誠意については殆ど信じていないようだった。それで淳が不安定にでもなるなら、ゆっくり説得するという方法もあるかもしれないが、あいにく淳は達哉の気持など、どうでもいいようだった。
自分が達哉を想っていて、しかしそれに応じられる必要はない、というところで、あきれるほど頑固に思考を打ち切っている。
おそらく彼の中では、達哉のことはそれで完結させておいて、ほかに考えたいことがあるのだろう。舞耶との過去のことや、水晶髑髏のこと、シバルバーのこと。映画や小説だとしても行き過ぎな、マニアックで凡庸で、悪趣味な想像力の持ち主の作り出した悪夢。こんな事態になって、それを収拾しようとする淳に余裕がなくて当たり前だ。実際、何も云わないでおこうとした淳に喋らせたのは達哉だった。
着ていたのがパジャマだったこともあって、淳を裸にするのはあっけないほど簡単だった。
服を脱いでベッドの上に坐った淳を抱き寄せて唇を押し付ける。淳はもう抗う様子はなく、するりと達哉のうなじを抱きしめてキスに応じた。薄く目を開けると、睫毛が淳の頬に影を落しているのがにじんで見える。
唇は、おそろしく冷たいという以外には、甘く柔らかい感触を伝えてきた。何となく男の唇に触れているという実感が湧かなかった。エナメルの感触の奥から咽喉の奥まで続く感覚器官を拾い出して触れると、じきに淳の舌が自分の舌より薄くて小さいのが判った。どうやったらこんな男が出来上がるんだろう。
何度かキスすると、淳は随分馴れているように思えた。頭の中を掠めたその考えを追い出す。
だとしたら何だ、と思ったからだ。
淳は不意に目を開け、達哉の目を間近に覗きこんだ。目を開けたまま、先刻よりはあたたまった唇が触れてくる。熔けるようなやわらかな感触が達哉の乾いた唇にかぶさってきた。
黒い水のような。先刻感じたことを、達哉は再び思い浮かべた。思わず眉をひそめる。冷たい指が達哉の顎をそっと包む。
(「僕の手を握ったこともないのに?」)
淳の言葉が思い出される。目を閉じて淳のキスを受け入れると少しくらくらした。
(「媚びたくてしかたないんだ」)
淳の指や関節は細くて、身長も達哉より大分欠けるが、その言葉は逆説的に、なまなましく男を覗かせている。こんなに華奢な体の中にそれは仕舞い込まれている。
触れ合わせることに飽き足らなくなったように淳は膝立ちになり、坐った達哉の顎を軽く引き上げた。達哉の頭を抱きしめ、唇を押しつけながら、ボタンを開けたシャツを引っかけた、自分より広い肩にてのひらをはわせた。髪にキスされる感触を甘く感じながら、達哉は淳の胸に触れる。色素が薄いせいか、胸の上で尖った部分は普通より強く血の色を透かしているように見えた。顔を傾けて唇で探る。
「……っ達哉……」
濡れた声が淳から漏れて、達哉は不意打ちをくらったような気分になった。身体が熱くなった。ひきつるように身体をふるわせたかと思うと、淳は膝から力が抜けたように座り込んだ。うつむく。唇が少し開いて乱れた息を吐き出した。
淳は目をあげて達哉を眺め、達哉も自分を見ていることに気づくと目を閉じてしまった。
腕の表面が細かく粟立つのが見える。達哉の手もそれほどあたたかい方ではなかったが、手を伸ばして包み込んだ。胸元に引き寄せると、淳の口元が微笑して、達哉の肩に身体をすり寄せてくる。温かい水と冷たい水を混ぜたように体温が溶けて、ぬるま湯のようになった。だが入り交じって静まるというわけではなく、小刻みに沸点を変えながら、少しずつ温度が上昇していく感じだった。
躊躇いなのか、気後れなのかはっきりしないままで遊んでいたてのひらを、思い切って腿の内側に滑り込ませる。胸に触った時のような声を出したわけではないが、淳が息を呑むのが達哉の腕にじかに伝わってくる。
身体が硬くなって、脚が閉じかけるのを、片膝を割り込ませて押さえた。皮膚の柔らかい部分を辿ってたどりつくと、もう形は変っていて、だが意外なほど嫌悪感はなかった。向かい合って坐ったまま、指を動かすと徐々に息を上げ始める。達哉がほっとするのも妙な話だが、自分はどうやら淳と相性がいいようだ、と思う。
皮膚の冷たさや、ほとんど灯りのない部屋の中に浮かび上がった肌の白さだとか、声、や髪の感触、香り。
触れた途端に相性が悪い相手というのは厳然としてあって、人間同士でもあまりうまくコンタクトできなくなる。
そそられるというと言い過ぎかもしれないが、少なくとも相性が悪くない。引こうとする淳を引き止めて、服を脱がして、キスして、嫌悪感があったら目もあてられない。
達哉も、舞耶は死んだとばかり思っていた。化粧気のない少女時代の舞耶の姿は、彼の曖昧な記憶の中で、白昼の悪夢の中に棲む幽霊に似たものだった。一番親しかった少年の姿と、空想を共有して一緒に遊んだ子供たちもそうだ。栄吉やリサや舞耶と出会っても、達哉の中の小さな幽霊は生きている。忘れようとしていた時間の分だけ、大きく何かが欠落して、その狭間にその幽霊たちは棲む。聞き取れない言葉を話す。悲しい目で黙る。時には残酷なほどあどけなく声を立てて笑い転げ、達哉の前から消えないこともある。彼等にとって達哉は意味のないものであり、時間の延長線上にあるひとつの結果でしかない。
淳は彼等とは違った。
彼は真っ向から達哉を憎んでいた。忘れていなかった。おびえてもいなかった。自分自身のしたことと達哉のしたことを摩り替えてまで、達哉と同化しようとあがき、心の内側にまで容赦なく入ってきた。白っぽく干からびて穴の空いた心の中に、黒い水が入り込んでくる感触がある。心の中以外にはありえない微細な侵食が続いている。段々と淳に侵される感じ。それはひどく快かった。他の誰にも許せないことが淳だけには許せるような気がする。
(「君に媚びたくてしかたない」)
淳にそんなふうに云われることは、達哉の揺れにくいこころを動かして興奮させる。
痛むのだろうか。男を受け入れる感覚が想像もできずに、達哉はシーツの上で顔を背けて息を殺す淳を見下ろす。できるだけのことはしたつもりだったが、ごくなめらかというわけにはいかなかった。達哉に取っても快感というには柔らか味に欠ける刺激がある。
淳の皮膚は、先刻からどんどん白さを増してきていて、血の気が感じられなかった。青みがかって透明感をおびた彼の顔や喉元の肌は相変わらず冷たい。睫毛はさっきから濡れたままで、淳の目がずっと涙を含んでいるのが分かる。ベッドの中で誰かに泣かれるなんて初めてのことだ。達哉は途方にくれた。快感がまるでないわけではないから頭がうまくまとまらない。
「淳」
表情がよく見えないのが不安になって、口もとのあたりで軽く握られたそっと取り払う。
「大丈夫か?」
「……え?……」
淳はぼんやりと目を開けて、ようやく達哉を見た。ゆっくりと瞬く。
「何が? ……」
「……顔が青い」
淳はだるそうに達哉と重なった身をもがき、楽な姿勢を取ろうとするように背中を揺らした。
「大丈夫だよ。……気持いいけど……」
さっき胸に触れた時に感じたのと同じような不意打ちが来る。少し頭に血が上った。少し息の詰る感触があった。そっと身体を動かすと、淳は顔を反対側に向け、また目を閉じた。軽く噛み締められていた唇が開き、浅い息が漏れる。
てのひらであちこちに触れて確かめてみる。やはり淳の身体は冷えていた。季節的にそんなに寒いわけはないし、身体が冷えるほど汗をかいたとも思えなかった。淳が云った通り、彼の体温が低いのだろう。子供の頃もそうだっただろうか?淳は達哉が自分の手を握ったことがないと云っていたが、子供の頃には淳の手に触れたことがあるはずだ。
気づくと外の雨音はやみ、稲妻も身をひそめたようだった。
ふと、たまらないような声を淳が出したことを思い出して、胸の上に触れた。先刻、少しでも楽になるために、淳に使ったローションが指先に溶けて少し残っている。薄闇の中で青褪めた肌の上でゆっくりと息づいている部分に、濡れた指を走らせた。
「ん、……っ」
触れた指先に僅かな力を込めた瞬間、淳は咽喉の奥に声を押し殺した。先刻は声だけだったが、今は淳の身体の中にどんな波が起こったのか、達哉にはまざまざと分かる。ここがいいのか、と少し驚きながら、小さな摩擦の力を強める。乾いた指先で痛みを与えないよう、滑らせるためにローションを足して、両側を湿らせた。
「あ、あ……っ、」
シーツに硬くこわばって沈んでいた背筋が浮かびあがり、凍ったように白く静かだった淳の表情が変った。まぶたがかすかに紅く染まる。うなじを一方だけシーツに預けておけないように、何度か首を振って肩をもがかせた。その急な変化に目をみはる思いだった。隠花植物のように冷たく静まり返った身体に、突然花片が顕現した印象がある。
冷たい体に火が点り、淳の身体がようやく熱くなり始めた。手に触れる肌も、もっと深い部分もゆるやかな熱とうねりを帯びた。そこに触れると電流の流れる仕掛けでも施されているように、淳は膝をすりあげて達哉の腰を締め付け、声を漏らして、苦しい収縮の中に達哉を巻き込んだ。胸に触れることで、身体の中にくすぶっている感覚が一度に外に流れ出す、直列の道ができてしまったようだった。
「達哉……」
声が追いつめられたように震える。握り締められていた指があがり、達哉の両腕にかかって、快楽から逃れるように爪で掠った。指の動きと彼の内側の震えは連動している。
キスしたくなって身をかがめる。声を飲み込む。そのまま伸ばした片手で下腹をさぐると、背筋を震わせて淳は両腕で達哉のうなじにしがみついてきた。こころなしか先刻よりあたたかになった舌が柔らかく達哉の舌に絡み付いてくる。
達哉が、淳を気遣ったり戸惑ったりする余裕があったのはそこまでだった。
急に息苦しくなり、身体の中にとどこおっていた衝動を逃がすのが難しくなった。自分のうなじに回されていた淳の腕をはずして、シーツに押付ける。一瞬、闇の中で開いた淳の目の潤んだ光が目に入る。そのまま深く身体を割り込ませる。気の遠くなるような陶酔がこみあげてきて、硬く目を閉じた。
ひどく疲れた気がする。
身体がからからに軽くなってしまったようだ。達哉は溜息をつきながらベッドから降り、眠っている淳を振り返った。水を飲み、淳の開けたままのカーテンを閉めようとした。気づくとマンションの窓の向こうで夜が明けかけている。ただひたすらに夜だった部分に、突如として地平線が出現する。あんなところに地平線があることを意識したことはなかった。そのゆるやかな円の上に建物が林立して線をいびつに描き直している。光の中に出現した街を、達哉はぼんやりとした気分で見た。バイクでどこかに出たいと思った。
だが、目が覚めて自分がいなかったとしたら、淳がどんな気分になるのかまるで想像がつかない。怒るだろうか。怒るならまだいいが、怒らずに、達哉には理解できない考えの中に、自己完結して消えて行ってしまいそうだった。
結局彼は、部屋を出ることはあきらめた。淳が一人で納得して内側に篭ってしまったとして、それを自分が追うことになりそうだ、ということが薄々分かり始めた。
淳が目を覚ましたら、なぜ雷が苦手なのか理由を聞こう。
彼はそう思いながら窓の側に立った。
雷雨の後だが、すっきりとは晴れていない。
もう一度眠る淳を振り返る。その部屋にあることが不自然でしっくり来なかった彼の姿が、突然現実感のあるものとして自分の視界に馴染んだことに気づく。
一回抱いたらそれで、こんな風に馴れるものだっただろうか。
達哉は戸惑っている。しかし、いつものように空白に似た感覚は襲ってこなかった。深い皹がわずかに埋まった感覚があった。
「達哉クン、おはよう」
十時に電話をかけると、はりのある舞耶の声が電話口から聞こえてくる。
「リサの具合、どう?」
「すっかりいいみたいよ。今日は金牛宮に出かけられるわね」
「そのことだけど」
少し力が入る。
「今日はだめだ。淳が具合が悪い」
「え? どうしたの?」
舞耶の声に気遣わしげな響きがまじる。てきぱきとした、化粧のうまい社会人の顔になったが、いつまでも舞耶はどこか、達哉たちの大切な「おねえちゃん」だった。あの頃は身長が伸びかけだったのか、ひどく痩せていて、笑うと口元に小さくしわの寄る中学生だったが、優しくて元気だった。建設的で、ものごとを全部プラス方向に転換する強引なパワーがあった。
「……窓を開けて寝て、風邪ひいたんだ」
達哉はあらかじめ用意していた嘘をついた。
「あら、そうなの? 具合は大丈夫? 熱は?」
たたみかけるように尋ねる舞耶の言葉を、達哉は多少狼狽してさえぎった。
「薬飲んで寝てる。大丈夫」
「薬、買ってきたの?」
「今朝買ってきた」
これは嘘ではなかった。朝一番にバイクを飛ばして、サトミタダシで薬を買ってきたのは達哉だ。消炎鎮痛剤というやつだ。
「分かったわ。何かあったら電話頂戴。とんでいくから」
幸いにも舞耶はそれほどつっこむわけではなく、あっさり解放してくれた。振り返ると、淳がベッドの上から達哉を見ている。
「ごめんね。僕が自分で電話するべきなんだろうけど」
「風邪声じゃないからヤバイだろ」
達哉は、電話しながら落としていたコーヒーを淳に差し示した。
「飲むか?」
「え?ああ。……ありがとう」
淳はゆっくりと身体を起こして注いだコーヒーを受け取る。ふと苦笑して小声でつぶやく。
「悪魔より黒く、血よりも濃い」
「?」
淳は笑った。持ったカップを指差す。
「コーヒーのことだってさ」
「ああ。……」
達哉はうなずいた。そう云われてみれば、そんな言葉をどこかで聞いたことがある。
「今の僕の血は、間違いなくコーヒーより薄いな。……悪いけどミルクくれる?」
「置いてない。悪いな」
淳はブラックでは飲まないらしい。ひとまず記憶の空いた隅の方に書き込むが、舞耶にワンビットと云われたくらいだから、人のコーヒーの好みをどれだけ覚えていられるかは分からない。
淳はあきらめたようにコーヒーをすすり、苦かったのか、眉をひそめた。
「買ってくる」
財布をポケットにねじこんで立ち上った達哉に、淳は目をみはって笑い出した。
「もしかして気を遣ってる? いいよ、そんなによくしてくれなくても」
「……」
応えない達哉に困ったように淳は苦笑する。
「起きたら帰るんだし、達哉は普段飲まないんだろ? 残りを消費できないよ」
達哉は溜息をついて目を伏せた。また、どう云っていいのか分からなくなる。淳相手にはこればかりだ。
「帰るのか?」
淳はうなずいた。
「また来てもいいかな」
「……ああ」
達哉は飲み込みかけた言葉を無理矢理に引きずり出した。
「今日でも、明日でも」
今度は淳が絶句する。しばらく沈黙して、それから困ったように微笑した。
「達哉……」
達哉はその場の空気がいたたまれなくなって、顔を背けた。
「……やっぱり買い物、行ってくる」
「ねえ、だって牛乳腐るよ?」
「腐らないうちに飲みに来ればいいだろ……!」
いったいどうしたの? という淳の言葉を背に、達哉はメットを抱えて玄関のドアを押し開けた。エレベーターを使わずに、階段を駆け降りる。
階段の踊り場に切り取られた空が覗く。昼の光を帯び始めた空に、先端の鈎型になった巻雲が広がっている。それは不意に、淳の背中に生じて、闇の中を淳と共に凝視していた青白いものの姿を思い起こさせた。
達哉は記憶の中の蒼い光をなぞった。その時、彼は自分の中で燐光を放っていた傷が消えて、代わりに何か正体の知れない曇り空のようなものが定着しているのを自覚した。灰色に曇った、しかし、達哉を落ち着かせる色だった。それが淳のイメージとつながっているのは薄々感じるが、なぜそんなイメージにおさまったのか、達哉にも分からなかった。
淳に雷が苦手な理由を聞き損ねていたことがふと思い出された。
天啓のような朝は消え去って、ありふれたうす曇りの昼がやってくる。雨の匂いが残っている。道は黒い雨に洗い流されて、甘い灰色に湿っている。虹色の油膜が目を射る。
達哉は足を速めて歩いた。つい何日か前、自分と淳は一緒にいないほうがいいと思ったことを思い返す。ポケットの中のジッポを探る。
そして暫くの間、何も考えないでいることを自分に許した。