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02_カリカチュア

02 20 *2013 | Category 二次::ペルソナ2罪達×淳

シバルバーの中で。ダイアログの続き。

続き





 シバルバーの中は暑くも寒くもなかったが、みんな少し汗をかいていた。階段を降りているうちにいつの間にか無口になった。疲れて汗をかいても当たり前だ。これだけの距離を歩いてきて、しかもぶっ通しに戦っているのだ。時々立ち止まって、萎えてくる精神力の水位を引き上げて麻痺させるために、甘い錠剤を飲む。チューインソウルなんてふざけた名前のついているやつだ。錠剤の糖衣が妙にべたべた甘ったるいのにも慣れた。中身はさぞ苦い薬なのだろうと察せられる甘さだ。
「階段があるってのがむかつかねえ?」
 先頭に立って歩いていた栄吉が振り返った。
「あいつら階段とかエレベーターとか必要ないんだろ? なのにわざわざ作ってあるところがさ」
 指揮者のように大げさに腕を振り、薄い銀色のひびの間から虹色の光の漏れだす、広いシバルバーの全景を指し示す。栄吉があいつら、というのはたぶん悪魔のことだ。そして、人が悪魔を作り出す手助けをする「誰か」。神様のように上空から見下ろして、笑いながら手招く誰かの事だろう。上空から見下ろしているものに会うために地下へ潜り、階段をくだってゆく。その何とも云えない、むず痒いような不快なアンビヴァレンスが、彼らを苛立たせたり、その瞬間によっては奇妙にハイにしてみたりする。
「階段がなかったら、栄吉クンもっと怒るわよ」
 舞耶が苦笑して、フォローにならないフォローを入れる。フォローではなくて茶々入れなのかもしれない。黙って歩かずに、話をしていた方がいいのだ。そうでなくても、ここに集まった数人は精神的に線が細い。先のことを考えて滅入らないよう、絶望しないよう、なるべく楽天的に乗り切るべきだ。そんなことを一番出来そうにない心境で、達哉は考える。
「仕方ないよ。ここにあるものは全部、人間の作ったもののカリカチュアだもの」
 リサの後ろを歩いていた淳が、おっとりとした口調でつぶやいた。
「カリカ……何だって?」
 奇妙な顔で聞き返す栄吉に、舞耶が代わって答えた。
「カリカチュア……カリカチュアライズ。戯画化するってことよ」
「戯画化って何?」
 リサが口を挟む。
「本当にあるものの姿を、悪意とか嘲笑とか……そういう視点でねじ曲げて絵にする……っていう感じかな?」
 舞耶はそう云って首を傾げた。はっとするような大きな明るい目を見開いて淳を見た。淳は、舞耶のよく光る目に逢って、正視できないように目を背けた。言い訳するように、
「深い意味はないから聞き流してよ」
 微笑混じりにそうつぶやいた。
 舞耶はその目をふと達哉に転じた。舞耶の目に見つめられるときまりが悪くなるのは淳だけではなく、達哉も同じだった。何だよ。そう思いながら唇を結び、ゆっくりと瞬きした。淳の云ったことから俺に振るな。達哉にも淳が何を考えているかなんて全く分かっていない。今では、分かりたいと望むことも許されていない気がしていた。淳が自分に望んでいないのに、達哉が淳に望むことなど出来なかった。
 達哉の望みなどささやかでたかが知れたものだったけれど。
 何もなかったとしたら。舞耶は、淳は、この街はどんな風だっただろう。悪いことが何一つ起きなかったとすれば。
 模倣に近い、幻のようなものでいいから、よりよい形に近づいてみたい。誰も傷つけずに生きてこられるはずはないけれど、少なくとも魔の介在する傷をお互い交換することもなく、神に祈る必要もなく、ささやかな後悔と忘却とを繰り返して生活できるといい。それはあくまで夢だ。今更何もなかったことに出来ないのは分かっている。けれど、せめてデフォルトの状態に近づきたいと望んでしまう。
(それはこころの中にひそむもう一人の自分)
 ペルソナについて語ったイゴールの深々としわがれた声が思い出される。もう一人の自分。二面性があることなんて構わない。達哉は苦いものを飲み込む。そんな事まで否定する気はない。
 だが、もう一人の自分がすべからく悪魔の姿をしているというのはどういうことだろう? 
 それが戯画化ということなのだろうか?

「悪魔が……」
 うんざりしたようなリサの声が一瞬ぼんやりと遠く聞こえる。虹を煮詰めたように歪んで光る壁や床、ところどころに悪意そのもののように横たわる焔や毒を仕込んだ罠が、ふっと霞んで見えた。自分が実際にふらついたのだ、ということを悟るまで数秒かかった。ちょっと達哉クンどうしたの、と驚いたように叫ぶ舞耶の声が斜めに歪んで、達哉は膝をついた。青白い光がのしかかってくる。それでようやく達哉は自分がターゲットになっていたことを知った。
「!」
 身体の奥底を電流が貫いて上下する。彼はしびれた指先から日本刀を取り落とした。彼にジオの魔法をかけた悪魔が満足そうに笑って青白くゆらめいた。シバルバーの中で息をつまる思いをしながらでも、悪魔とのやり取りや戦うことに馴れて、いつの間にか、恐怖心や警戒心が麻痺し始めていたようだった。かばってくれるペルソナを呼び出すゆとりはなかった。再び攻撃の意志を見せた悪魔からの、相当に強烈な一撃を覚悟する。その瞬間、達哉の視界を、ふっと青い色が横切った。
 淳だった。感光した写真のように淳の背後に豪奢な紅い衣装をつけた女の姿が浮かんでゆらめいている。淳が今降魔しているペルソナだった。達哉は身動きできずに膝をついたまま、汗の流れ込んだ目をしばたたいて淳の背中を見あげた。淳は細身の身体を悪魔と達哉との間に割り込ませ、左手を伸ばして、灰と虹の混じり合った壁を叩きつけるように、広げたてのひらをついた。
 その次に起こったことが、せいぜい数分の間のことだとは、達哉には信じられなかった。
 淳が手をついたシバルバーの壁の皹の間から、せきを切った水の奔流のように、みどり色のものがあふれ出してきた。
 それは最初、幾百条ものうすみどりにきらめく蛇のように見えた。だがすぐに、伸び出してきたものが、柔らかなダイヤ型の葉をつけた、蔓性の植物の枝であることが分かった。そのうちの幾条かに身体をつらぬかれて、悪魔が笑い声ともうめきともつかないような声を漏らした。数人で彼らの周りを取り囲んでいた悪魔が同時に殆ど同じ声音で悲鳴を漏らすさまは、ヒステリックな可笑し味を伴っていた。舞耶も、栄吉も、リサも呆然としたように腕を垂れて、自分たちの周りをみどり色に輝きながらうねる蔓の動きに目を奪われた。
 それはまだ動きを止めてはいなかった。淳の手をついた指にからみつき、足下に這い降りて四方に飛び散った。しきりに蠕動しながら成長を繰り返し、うねって壁や天井に巻き付いた。天井を這い回る銀色のパイプに激しく巻き付き、そこから放射して四散し、或いはよじれ合いながら悪魔の身体をつらぬいて、グロテスクな悲鳴をあげさせる。
 そこに淳の意志が働いていることを顕著に示すように、みどりいろの剣は、パーティの人間には掻き傷ひとつ残さなかった。一人一人の身体の周りに豪華な緑色の籠を編み上げるように、もの柔らかにたわめた空間で彼らを取り囲み、その他のスペースを全て、柔軟なエメラルドの針や剣で埋め尽くした。「彼ら」は床を、天井を、自分たちの蔓の上をくぐり、良質なくさびのように障害を乗り越え、ひしめき合いながら、攻撃するべき相手を捜した。
「淳くん!」
 興奮したような、悲鳴のような舞耶の声が聞こえてきた。その階の一帯を緑色の天蓋で埋めた蔓と葉の向こうに隠れて、舞耶のほっそりした姿はすっかり見えなくなっていた。
「悪魔は死んだわよ、もういいわ、やめて!」
「……んだ」
 狼狽したような、かすれた声が聞こえてきた。ようやく身体が動くようになった達哉は、緑色の葉の中で視線を巡らせたが、すぐ側に立っていたはずの淳の姿は、シバルバーの通路にぎっしりとはりめぐらされた葉脈のようなみどりに隠れて、達哉からもかろうじて透けて見える程度だった。
「止められないんだ」
 淳の声が小さくもう一度繰り返した。
 何かが暴走を起こしているのだ。
 攻撃するべき相手を見いだせなくなった緑は、うねって輝きながら突然開花を始めた。
 薄紫色の星形の小さな花を束ねた花房が、蔓のそこここに爆発するような勢いで咲き始めていた。青紫の花火がそこここで点されているようだった。それと同時に、咽せかえるような甘い香りが漂ってくる。栄吉が近くでヒュウ、と口笛を吹いた。
 それは、悪魔やジョーカーや、よみがえってきた悪夢のような銀色の軍勢や、そんなものを見てきた彼らの目にさえ、十分な驚愕を提供するマジックショーとも云えるものだった。達哉の頬に触れていた蔓にも、不意に松明を灯すようにてのひらほどの大きさの丸い花穂が開いた。優しい指で触れるように自分の頬に触れたその花を引き離し、達哉は奇妙な思いでそれを眺める。見たことのないような花だった。五、六片の小さな花弁で構成された花が、丸い房になって無数に咲き始めるその様子は、やはり開花と云うよりは魔法に近かった。しかもそれは花が咲くという誕生の魔法であるにも拘らず、光よりも闇の匂いが濃かった。
 どういうわけか誰も口をきかず、自分たちの視界を埋めた緑に次々に花が咲いていくのを茫然と眺めていた。
「淳」
 達哉は大声で呼んだが、返事が聞こえなかった。花の開いていく気配以外には何も感じられないような奇妙な静けさに苛々して、達哉は天井から絡み合って無数に垂れた花と葉をかきわけて、大きく足を踏み出した。一見美しいようでいて、大切なものを何もかも手の届かないところに包み隠すその花は、まさしく戯画化された夢のようだった。
 勢い衰えずに伸び続け、花をつけるそれを、力任せに引き千切ってやりたい思いに駆られながら、達哉は、壁にすがるように片手をついて屈み込んだ淳の姿をようやく見つけ出した。緑のただ中に刀を放り出し、両手で淳の肩をとらえた。暫く前に淳と一週間ほど一緒に寝泊まりした。それ以来触れないように気をつけてきたが、仕方がなかった。
「淳!」
 荒い、尖った声が出た。淳はぼんやりしたように顔をあげ、身体を大きくふるわせた。
「ごめん、達哉、手伝って貰える?」
「何を」
「離れないんだ」
 淳は視線でそれを指し示した。壁について彼を支えていると思った淳の左手は、壁の中から吹き出したみどり色のものにからめ取られて、まるで壁に縫いつけられたようになっていた。強く締め付けられた指先が紫色になっているのを見て、達哉は誰にともなくかっと腹をたてた。そして、淳のことが絡むと自分は腹を立ててばかりいる、と思いながら、たった今放り出した刀を取り上げた。鞘をはらって、淳の指にからみついたみどりいろのものを一気に断ち去った。
「あっ」
 淳が声をたてた。
「切っちゃうの?」
 まるで太い髪の束か何かを切ったような感触に思わず肌を粟立たせながら、達哉は途方にくれた気分で淳を見下ろした。
「切ったけど」
 掴んでいた植物の束を、てのひらからぱらりと落とす。てのひらに予想していたようなうすみどりの水分でなく、蛾の鱗粉のように淡い銀色に光るものがついているのを見て、達哉は嫌な気分になる。
「まずかったか?」
「そんなことないけど。これも一応生きてるから、可哀想かな、と思って」
 淳は、解放されて血の気が巡ってきた指をさすりながらそんな風に云った。
「って……これ、おまえから何か摂ってなかったか? 養分っていうか……気力とか、体力とか」
 この状態で可哀想などと云い出した彼にあきれてそう云うと、淳は吹き出した。
「それにしてもこんなことになるとはね。実験失敗だな」
「実験?」
 達哉が聞き返そうと思っていたことを、向こうから舞耶の声が先取りした。
「淳クン、実験って何? いつからこんなことできちゃうようになったわけ?」
 舞耶のその声で、彼女が脱出しようと移動しているのが分かる。向こうの三人と、達哉と淳の間に分厚いみどり色のカーテンが何重にもかかって、実際の距離以上に強固に隔てられていた。
「こんなこと出来るとは思ってなかったんだ」
 淳が大人しく先刻云ったことを繰り返した。
「達哉クン、このつる切って貰えない? あ、それとも、他の通路回って合流した方が早いかな?」
 達哉は周りを見回した。舞耶たちとは逆の、西側の視界が開けている。東西に分かれて階段あたりで待ち合わせた方がいいだろう。
「そうみたいだな」
 向こう側に答えると、舞耶から、オッケー、という気の抜けたため息まじりの返事が返ってきた。
「あとで北側の動かないエレベーターの前で合流しましょ。先に行った方が動かずに待ってること。リサも栄吉クンも行こう」
「淳、ちょっとは加減しろよ……」
 舞耶と少しずれた位置から栄吉の声が聞える。そちらに向かって見当をつけた淳がごめん!と返す。向こうから見えないのは承知で、手を合わせて謝っている。リサは達哉と別れるのが不服なのだろう、無言のままで向こうへ遠ざかって行ったようだった。
「俺たちも行くぞ」
「ああ、うん。迷惑かけちゃったね」
 そう云われて初めて、達哉は、淳がこうしたのは自分が攻撃されたのを庇おうとしたのがきっかけだったことを思い出した。
「悪い。俺のせいだったな」
「そんなんじゃないよ」
 淳は微笑した。膝をついた姿勢から立ち上がろうとするのに手を貸す。
「実験って?」
 達哉は、舞耶が流してしまったことを自分は聞き流せずにもう一度蒸し返した。淳はすぐには答えずに、立ち上がって視線を巡らせ、自分のしたことをつくづくと眺めた。数十メートル四方が一面に、野放図に植物を育てた温室のようなありさまになっていた。淳の何を糧に咲いたのか、紫色の星の群れのような数千の花は、まだ瑞々しく咲き続けている。小さな葉をつけた蔓が、見渡す限りさまざまな長さで天井から垂れている。
「デュランタ……? でもないし……小さなキヌエみたいだけど……まさかアレが蔓になるなんて考えられないし……」
 蔓の一本を手にとって真剣に考え込んでいる。学者が未知のものに触れたように考え込む生真面目なその様子、線の細い背中に、一瞬兄の克哉の姿を思い出して、達哉は驚いた。克哉と淳が似ているなどと今まで思ったこともなかったからだ。
「ああ、ごめん」
 淳は振り返った。
「実験っていうのはね。噂を流すみたいなものなんだけど。一人でそれに似たことが出来ないかな、って、シバルバーに入ってから時々試してたんだ。ここって何でもあるだろ?」
「何でもある?」
 意味が分からずに達哉はあたりを見回す。
「火も水も地も風も、全部の属性がこの中に全部つまってるから、何でも噂次第で作れるんじゃないかと思って。『シバルバーの壁の中には植物の根があるらしい』『それは外に取り出せば剣になるらしい』みたいな噂をね、手で触ってSPを送り込んで、自力で操作できないかなって」
「そんなことしてたのか」
 達哉はつぶやいた。二人は蔓と花の下をかいくぐって十メートルほど歩き、ようよう通路の見えるところまで抜け出した。自力で噂を操作する。淳なら出来るのかもしれない。淳は精神力の絡むことである限り、何をやらせても出来すぎてしまうようなところがあった。そして、そんなことをしようという発想自体、淳が自分の精神状態を管制して操作してみようという気持が強いことの表れのように思える。淳の決意の烈しさは達哉をきりもなく戸惑わせた。
「前にやったときは、全然威力がなくて使い物にならなかったのにね」
「それでこれか?」
 達哉は周りを指し示す。
「どうして植物なんだ?」
「どうしてって」
 淳は睫をあげて笑った。
「それは達哉が刀を使うのと同じ理由じゃない? 使いやすいからだよ。銃も剣も持ちたくないけど、素手なのもどうかと思ったから」
 意外な答に達哉は目を見張った。肩や背中に絡んでくる蔓をまとわりつかせたまま立ち止まる。
「……好きだからかと思った」
「達哉は刀、好きじゃないの?」
 淳は、どういう意味にも取れる答を質問の形で投げ返してきた。
「達哉が絡むとダメだって分かったから、もう失敗しないよ」
「俺が?」
「達哉が攻撃されてるのを見て、頭に血が上ったんだ。ほんとに駄目だなぁ、僕は。自制心がないよね」
 濃密な黒の睫を備えた目を細めた淳は、一瞬、驚くほど剣呑な表情を見せた。黒く濡れた瞳に小さく歪んだ焔が宿る。混乱しかけて達哉は淳を見下ろす。小さくほっそりした少女のような身体なのに、ふと気づくと陰惨な刃のようなものが棲んでいる。
 数日前に一度だけ淳と寝た。言葉が行き違って二人とも苛ついて、それを解消するのに不可解な方法を取った。そして、それは思った以上に葛藤を解消する役割を果たした。
 だがそれきりお互いに手も触れられなくなった。二人きりになることもなるべく避けた。ひとつの葛藤を解消しても、新しい葛藤を生む結果になることに二人ともすぐ気づいたからだ。
 そういえば、この混乱して絡み合った緑の蔓は、葛藤を絵にしたようなものと思えなくもない。戯画化するまでもなく、人の葛藤は歪んで絡み、一度閉じこめられれば周囲を覆い尽くす結果になる。
 達哉は、目を伏せて考えに耽る淳の肩に手をかけた。絡みついてくる柔らかな花枝ごと彼を引き寄せて胸の中に抱きしめる。蔓は薄く光るヴェールのように二人の身体から裳裾を引き、花を咲かせた葛藤の蜘蛛の巣の中につなぎ止めた。
「達哉」
 面食らったような淳の声がぼうっと遠く聞えた。このみどりに触れることで、達哉は新しい葛藤を自分の中に呼び込むことを許してしまったようだった。
 生々しい感触の記憶を残した唇だが、今日は二人とも潔癖に乾いて冷たかった。まるで誰ともふれあったことがないように、息を止めて、唇をただゆっくり押しつける。淳の唇からも吐息の気配はなく、彼も息を止めているのが分かった。
 彼なりの武器を手にしようとした淳の左手が力を失ったように落ちる。淳が自分に身体を預けたことを新鮮に思いながら、達哉は唇を離し、刀もろともにぎこちなく彼を抱きしめる。
 恋は全て生理的な思いこみであり、盛んな生殖行為に依ってより多くの分身を残すため、ひとは新しいパートナーを探すものだと云われている。新しく花開いた恋は約四年間で大脳からの指令を失い、消失するものなのだそうだ。
 だが、今彼らを取り囲むものの中で、思いこみで作られたのではないと保証されるものはどれだけあるだろう。戯画化されたもののない真実の国はどこにあるのだろう。
 淳の細い髪は頬に柔らかくまつわりつき、彼が身じろぎすると、柔軟な獣の仔を抱いているような、甘美ないとおしさが達哉の中に浸透してくる。無言でもたれかかってくる身体の軽さが、達哉の萎縮して凍えていた感情を、細い指にかけて少しずつ引きずり出してゆくように思えた。
「……悪い」
 長いこと抱きしめていた気がしたが、数分もたってはいなかったようだ。達哉は自分からそっと淳を引き離した。淳は目を伏せた。笑った。
「……ほっとしたな」
「何が」
「触りたくなさそうだったから」
 どことなくふっきれたようなあっさりした口調でつぶやく。
「そう……だったこともあった」
 返事のしようがなく、正直に答えると、淳は意外そうに彼を眺め、やがて不思議にうちとけた微笑を見せた。そんな笑い方をした淳を初めて見て、達哉は胸が痛くなった。
「行こうか。舞耶姉さんたちが待ちくたびれてるよ」
 達哉はうなずいた。探しに来られても困る。特にリサにでも来られたら面倒だった。
 彼はようやく髪にまとわりついていた最後の花枝をそっと引きはがした。名残惜しそうに柔らかくきしみながら、それは達哉の素直な髪から離れていった。
「行くか」 
 ため息をつく。名残惜しい気分なのは彼も一緒だ。
 これが四年で消失するとは思えないが、思いこみのもたらしたものだというなら、思いこむことのできる自分に感謝するべきだろう。
 後は階段を下り、目の前にあるドアを全て開け、敵と戦うことしか方法が残されていなかった。何故シバルバーの階段を下りるのか、理由が分かった気がする。心の深くを探る作業は常に深部へ向かって下方に降りてゆくものであり、登りの道のイメージではない。
(僕は自制心がない)
 淳はそう云った。淳の自己抑制の失敗から生まれた仮想の植物園を抜けて、二人はその後は道を急いだ。何か自分たちの関係を決定づけるような話は、言葉に出してはもう一切しなかった。
 花の香りが背中から追ってくる。
 そして随分長い時間、彼らの無言の感情を代弁するように、言葉より雄弁に、髪や袖口に甘く香った。

                         了。

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