淳は、怠そうに服を着て、脱ぎ捨てられて転がった靴を履いた。
少し足許をふらつかせる淳の髪の乱れを、達哉はかきあげてなでつけてやる。髪は湿っていたが大分乾き始めていた。いつも前髪に隠された額を露わにすると、淳の顔はいつもより幼く見える。涙で荒れた目の周りは、まだ薄赤かった。
まだ乾かない制服の上着は無視して、パーカーを着せかけ、ファスナーを上げてやる。皺になりにくい素材の筈だが、パーカーは縒れていて、手荒い扱いを受けた跡を浮かべている。
「……平気か?」
今日、それを聞くのは二度目だった。
一度目に淳を痛めつけたのは落雷だったが、二度目のこれは自分だ。
「……うん」
淳は、ぼうっとしたように、自分の胸元の達哉の手を眺めていた。いつも彼の周りに張りつめている昏い緊張が弱まっている。達哉の腕に衝動が疼いた。抱きしめたくなる。
だが、あれほど彼の身体を隅から隅まで味わった後でも、向かい合って抱きしめるのはどこか馴れ馴れしく思えてためらった。
だが、淳の静かな表情に誘われて、彼はやっと手を伸ばした。腕の中に細い身体を囲い込んで抱きしめると、脆いほど線の細い身体が胸の中に引き寄せられる。淳は、最初の一瞬は戸惑ったようだが、やがて背中から緊張が消えた。そこが暗いホールの中であることに感謝しながら、小さな頭ごと抱え寄せた。先が少し細くなって跳ねる彼の赤っぽい髪と、淳の黒い髪が触れ合っているのが見えた。その髪の柔らかさも、男を抱きしめているという気分にさせない理由の一つだった。
「達哉は」
淳は低くつぶやいた。
「もう、お兄さんに会った?」
「……え?」
「一緒に暮らしてるんだよね」
「……あぁ、一応」
何故、淳が兄のことを云い出したのか分からない。達哉は曖昧に応えた。兄とは殆ど顔を合わせない。一緒に暮らしていても、最近では台所も共有していないし、外出する時間も合わせないようにしているから、兄と生活しているという実感は薄れ始めていた。
「お兄さんに、会っておかなくていいの? 舞耶姉さんが、今日シバルバーに行くのをやめたのは、そういう意味じゃない?」
達哉は虚を突かれた気分で淳から手を離した。
「そういう意味だったのか?」
淳は逆に驚いたように彼を見上げた。
「シバルバーに入る前に、気持の整理をつけておくために、一日置いたのかと思ってたけど……」
それは、達哉には思いも寄らないことだった。だが、自分や舞耶、両親と完全に決別した形になっている淳はともかく、リサや栄吉は家族と暮らしているのだ。
シバルバーに入る方法を見出したその日に闇雲に道を進めず、気持の整理をつける時間を取った、と云われれば、確かにそうかもしれない。
「俺、鈍いな……」
辟易とした気分でそう云うと、淳は首を振った。
「僕の考え過ぎかもしれないけどね」
「舞耶さん、考えそうだけど」
「でも、生きて帰らないつもりなんてきっとないよね。舞耶姉さんは……」
淳はおだやかに付け加えた。
青白い淳の顔を見つめていると不安がよぎった。ひどく憔悴しているように見えた。無理もない。シバルバーの入り口を探して何時間も歩き回った。雨に濡れて、更に歩き回った後、雷に打たれた。その上達哉に力づくに抱かれたのだ。
「大丈夫か? 明日────」
云いにくい。
「その……身体とか」
云い淀んだ達哉に、淳は静かに首を振った。
「雷に打たれたって、あの程度のショックを受けるだけで済んだんだよ。心配しなくていいよ」
「ダメージは累積するだろ」
「大丈夫だよ」
どことなく親しみの篭った苦笑が淳の唇の端に刻まれる。達哉はその表情に思わず見惚れた。それは、まだ彼が淳の顔の上に浮かんでいるのを見たことのない類の表情だった。
「……達哉、優しいんだね」
低い、やわらかな声でそう返されて、達哉は面食らった。自分がついさっき淳にした事を思えば、彼にそんなことを云われるのは、妙な気分だった。小さな異物を呑んだような違和感がある。咄嗟に、言葉に反応出来なかった。
(「────優しいわね」)
不意に何かが甦ってきて、達哉は記憶の中に引き戻された。唐突に、過去の映像が鮮やかに再生された。それは一瞬、目の前に立つ淳を忘れさせるほど強烈だった。
死んだ猫を抱いた隣家の主婦が、彼と兄の前に立っていた。
あれは、多分達哉が中学生になる直前の冬だった。夕陽の中に昼の暖かさが燃え残り、隣家の庭先には、灯火のように柿の実が赤く光っていた。
草色のセーターを着た豊かな胸に抱かれた猫は、生きていた時はたっぷりと大きな猫だったが、その時はうなだれて濡れたように小さく見えた。主婦が、知人に貰い受けたという、年を取ったロシアンブルーだった。
(「────猫って、どこかが痛いって絶対に云わないのよ。犬ならちょっと痛いだけでもすぐに鳴いて教えてくれるのに、猫はただ黙ってじいっと我慢してるだけ。……教えてくれればよかったのにね。そうしたら早めに治してやれたかもしれないのに」)
彼女の指が、死んだ猫を撫でている。
病院から連れて帰った猫を、庭先に埋めようとしたが、手放しかねて濡れ縁に抱いて座っていたのだった。達哉の視界の隅で、兄の指が小さく曲がるのが見えた。神経質でデリケートな兄が、猫の死に感情移入していることを感じる。
達哉は、閉じた猫の目を眺めた。黄緑色の目を光らせていたそこは細い線になって、短い体毛の中に隠れている。
(「触っていい?」)
達哉がそう云うと、記憶の中の女は、への字に曲げていた唇をぎごちなくほころばせた。
(「優しいわね、タッちゃん」)
達哉は驚いて手を止めた。罪悪感がこみ上げてきた。その時、彼は猫を悼んで触れようとしたのではなかったような気がする。ただ、猫が何故そんな風に湿って小さくなってしまったのか、死というものが生き物をどんな風に変えてしまうのか、それを知りたいと思ったのかもしれない。
彼は奇妙な気分で猫に触れた。冷たくて、毛皮はやはり少し湿っているような触感だった。
何故彼女が彼を優しいと云ったのか、達哉には未だに分からない。
優しいというなら、無言で指をふるわせた兄の方がそれにあてはまると思った。
「……どうしたの?」
淳の大きな黒い瞳に見上げられて、達哉は首を振った。
冬の夕暮れの中に赤く沈んだ街や、赤黒い日差しに照らされて灰色に見えた緑色のセーター、ゆっくり上下する女の胸に抱かれた、猫のなきがらの記憶を振り払おうとした。
猫は苦しみを訴えない。記憶の中の、彼女の言葉に達哉の心臓が反応した。
人は何とかして、親しい者と苦痛を分かち合いたいと考える、どうしてやることも出来ないと知りながら、苦しみを訴えて欲しいと願ってしまう。それはたぶん、苦痛を分かち合ったという事実で、自分が無力であることへの咎を軽減したいと望むからだ。
達哉は思わず、無遠慮に淳を眺めた。廃工場やカラコルでペルソナを使う淳は威圧的で、ジョーカー的だと云えないことはないが、こうして普通に立っていると、脆く見える。よくこんな線の細い男が、臆する様子もなく悪魔の前に立てるものだと思った。それは、舞耶やリサにも思うことだった。自分が淳を、舞耶たちと同じような目で見ていることに気づくと、妙な気分になった。
「……平気なら、送って行くけど」
達哉は考えて付け加えた。
「兄貴には会わなくてもいい。……帰らないつもりじゃないし────」
それは、達哉の危惧した通り云い訳がましく響いて、彼は閉口する。
────気持の整理をつけておくために、一日置いたのかと思ってたけど……
淳は、シバルバーに行くのを一日送らせた舞耶の采配から、そんなメッセージを受け取っていた。だが、彼はどうやら家に帰らなかったらしい。そうして一人で、雨の中を歩いていたのだ。帰る家はあってもそこに家族のいない淳は、気持の整理をつけようとするなら、一人でそうするしかなかったのだ。青い制服で、暗い雨の中を歩いていた淳の姿が思い浮かんで、達哉はたまらなくなった。
淳は意味をはかりかねるように達哉を見つめていたが、やがて、用心深い口調で口を開いた。
「それは、……今晩一緒にいてくれる……っていうこと?」
達哉は肯いた。拒否されることを前提に云い出したせいか、躊躇う必要は感じなかった。
「よかったら」
淳はじっと達哉を見つめたまま、大きな目を幾度か瞬いた。
「……それじゃ、僕が君の家に行っちゃいけないかな」
意外な淳の言葉に、達哉は虚をつかれて思わず黙ってしまった。
さっき彼が家を出た時、まだ兄は帰ってきていなかった。兄に会うことを思うと気が重い。理由ははっきりしないが、淳と一緒にいる姿を見られたくないとも思った。だが、兄の克哉は最近いつも帰りが遅い。帰ってこない日もあった。今日も、淳を連れて帰ったところで帰ってこないかもしれない。
淳は困ったように髪をかき上げながら視線を落とした。
「うちは広過ぎて、家って感じじゃないんだ。よそよそしいって云うか……」
彼は考え考えそう云う。その声の優しさが寂しく響く。
「夜の学校とか、フロントに人のいないホテルみたいなんだ」
淳にフォローさせた事に慌てて、達哉は肯いた。沈黙してしまったことが気にかかる。
「いいけど、俺のうちでも」
自分の家には乾燥機などないが、淳の服が乾くだろうか。彼はそんなことをぼんやりと考えた。それに、達哉の家までたいした距離ではないにしても、今の淳をバイクに乗せていいのか分からなかった。
もういっそ、バイクをここに置いていってもいいかもしれない、と達哉は不意に思った。
明日以降は、達哉にはもうバイクは要らないかもしれないのだ。
そもそも明日、雨は止むだろうか?
「……俺はいいけど、怖くないの、お前」
「何が?」
答を知って聞き返すような、静かな声が聞こえる。
「俺」
そう返すと、淳は首を振ったようだった。
「怖いかな。……でも、たぶん、君が思ってるのと同じ理由じゃないよ」
「……」
「怖いけど────でも、一緒にいたいんだ」
ぽつりと、そうつぶやいた。
冷えた身体をシャワーで温めて部屋に戻ると、淳はベッドの上に座って窓の外を眺めていた。彼等がイベントホールを出た時はまだ強く降り続けていた雨は、もう小止みになっていた。だが、その雨も風の気配も、きっちりと閉まった窓の外の暗闇に吸収されていた。
結局、淳が大丈夫だと云うので、後部シートに彼を乗せて帰ってきた。その間に酷く濡れて、家に着いたときはずぶ濡れになっていた。
「……寝てればいいのに」
淳は、達哉の言葉に曖昧に首を振った。
「まだ、もう少しね」
達哉の貸したTシャツと薄いカーゴ・パンツは大きいようで、淳は裾を捲りあげている。細い手足が、サイズの余る服の中で寒そうに見える。だが、今夜は雨は強かったが、気温はそこそこに高く、寒い夜ではなかった。
達哉の部屋は、家の北側の、ガレージの隣に位置した奥の部屋だった。部屋のすぐ前に裏口があって、ルーフの下を通ってガレージに入れるようになっている。ガレージから裏口に回って鍵を開け、息をひそめるように淳を連れて入ったが、家の灯は全て消えていて、兄は矢張り帰っていないようだった。彼はほっとして着替えを貸して、淳を風呂場に押しやった。
「明日には止むよね、雨」
「……さあ」
「止むといいけど」
先を急ぐような淳の言葉が、少し痛ましく思えた。雑誌を除けて床に座るのに気を取られたふりで、応えずに聞き流す。淳は、床に座り込む達哉をじっと黙って眺めていた。
自分の服の中におさまった淳の身体を目にした途端に、喉が灼けるように乾いた。イベントホールであんなことがあったのに、淳は、達哉が自分をどんな目で見ているのか理解していないのではないのだろうか。
今までも淳にこだわってはいた。だが、今日までは明らかにこんな衝動を伴わない、精神的な意味でのこだわりだった。淳が男だからとか、そういうことが問題なのではなく、ここまで急に感情の行き場が入れ替わることに、戸惑いと苛立ちがあった。
淳にベッドを貸して、彼は床で眠るつもりだった。この季節なら達哉が風邪を引くということはない。一緒のベッドでは、とても眠れないだろうと思った。淳が明日起き上がることも出来ないような事態になっても不思議ではなかった。
「火傷、どうなった?」
達哉の視線が自分の胸に止まったことに気づいて、淳は居心地が悪いように身じろぎした。
「もう消えるよ」
「まだ残ってるのか?」
それはそうだ。幾らペルソナのせいで体質が変ったといっても、人間の身体を手放して悪魔に変った訳ではない。
自分の目で傷を確かめたい衝動に駆られて、達哉は淳の肩を掴んで引き寄せ、無言でTシャツを捲りあげた。
思わず絶句する。
電流が通り抜けた部分を顕著に顕して、赤い線状の痣が放射している。淳は落雷の後も、数万アンペアの電流の直撃を受けたとは思えない様子で平然としていた。それに、ホールで眺めた時は、場所が薄暗く、火傷の色もぼんやりとした桃色にしか見えなかった。だが、明るい部屋で改めて見ると、皮膚の深くまで透けて見える赤い線は、明らかに重度の熱傷が残っていることを示していた。
こんな状態の淳に、自分が何をしたのかを思い出すと、狼狽で目の前が暗く赤くなった。
「……舞耶さんに電話しよう」
達哉は腰を浮かした。
「舞耶さんのヴィシュヌなら、この傷も治せるだろ?……」
「達哉」
彼の焦りを宥めようとする淳の声は、逆に達哉の混乱を助長した。
「どうしてこんな状態なのに、何も云わないんだよ……!」
この数日使っていなかったせいで、放り出してあった携帯を探る。
(「────教えてくれれば、治してあげられたかもしれないのに……」)
無言のまま女の腕の中で冷たくなっていた猫を思い浮かべて、達哉はぞっと背中を粟立たせた。
「達哉!」
舞耶の番号を探し始めた達哉の手に、熱い手が伸びた。発熱しているらしい淳は、息を切らせるようにして彼の手から携帯をもぎ取った。
「話を聞けよ、達哉!」
達哉の携帯を握りしめたまま淳の両腕が上がって、うなじに巻き付いた。身長差のある達哉を強く引き寄せて、淳は達哉の髪をたぐって唇を押しあてた。熱いが、雨の匂いも血の匂いもしない、柔らかく清潔な息が達哉の唇を包み込んだ。
間近に、ぴったりと閉じた長い睫毛が目に入る。
熱を小さく口移しにするようなキスの後、淳ははぁっと息を吐き出した。
「僕は、本当に大丈夫だから……」
目を開く。
吃驚するほど切れの長い、濡れた瞳が達哉を眺めた。
「君や、舞耶姉さんに心配かけないように云ってるんじゃないよ。本当に平気なんだ……」
「だけど、俺は、お前に……」
何と続ければいいのか分からず、言葉を途切らせた達哉の頬に、彼は自分の頬をそっと押しつけた。
「それも、大丈夫────だから、落ち着いて」
柔らかく耳朶をくすぐる息と、低く抑えた淳の声が、ようやく達哉の恐慌状態をやわらげた。自分がふるえていることに気づく。
立場が逆だ、と思うが、淳の手が髪をそっと撫でている。
携帯をベッドの上にするりと滑り落とし、両手で達哉の背中を抱きしめた。
「信用できるか……」
思わず本音が漏れる。
「……黙って、我慢する方が楽なくせに」
声が情けなく掠れた。淳の背中を抱きしめ返したかったが、熱傷がひどいと分かると、乱暴に扱ってしまいそうで触れられなかった。ホールで垣間見た背中が思い出される。空で無造作に炸裂した雷電のストリームと同じように、淳の背中にも火傷は広がっていた。それは淳の背中から胸へ、電流が突き抜けたことを意味する。
あの時は、淳が云ったように一過性の熱傷だと思いこんでいたから、平気で触れることが出来たのだ。
淳は、達哉を抱きしめたままでしばらく静かに呼吸していた。やがて、達哉の肩の上にそっと顔を伏せた。柔らかい髪の感触が首筋に触れる。
「……我慢なんてしてない。……さっきも云ったじゃないか、側にいてほしいって」
とけるような優しい動作に反するように、声が挑戦的な響きを宿した。信用出来ない、そう云われて、淳が達哉の売り言葉をわざと買ってみせているように聞こえた。
ジョーカーとの対話を求めて電話をかけた者が、一も二もなく淳の声に魂を抜かれてしまったのも分かる気がする。声に毒気を含ませると、彼の声は黒い真珠のような艶を帯びる。その甘い声が、汚濁の固まりを童話の魔法のように宝石に変え、嘘を現実と置き換えたのだ。
その瞬間、どうすればいいのかが不意に分かったような気がして、達哉は自分の肩にもたれかかった淳を見おろした。
「俺が一緒にいればいいのか?」
「え?」
「俺が一緒にいて……明日は休んでろって云ったら、お前、云う事聞く?」
そう云うと、彼は驚いたように眉をひそめた。
「明日は、行かせないから」
思ったよりずっと、シンプルな解決法があることに驚きながら、達哉は宣言した。
「一日ここで寝て、火傷がホントに引いたら、シバルバーに行く。それでいいな?」
「いいな、って……」
抗議するような淳の声が聞こえたが、達哉は胸の中で耳を塞いだ。淳の傷の熱が引かないようなら、気絶させてでも舞耶のところに連れて行って、舞耶のペルソナの治療を受けさせよう。
気持が決まると、彼はようやく淳を見るのが怖くなくなった。
顎に指をかけて淳の顔を上げさせる。黒い虹彩の外側は、透き通って青みがかって見えた。
兄の克哉が根を詰めて体調を崩すと、貧血を起こしてこんな風になる。兄も大概我慢強く、無理のたたるタイプだが、贖罪の念に端を発する淳のそれとはレベルが違った。生活や組織に捧げる兄の忍従は、淳に比べればまだしも健康的だった。
細かいところも見逃すまいとするように、青ざめた目を覗き込んで、彼は自分の強引さが、今度は的を射たものだったことを確信する。
「お前がこんな顔なの……俺のせいもあるから」
淳は眉をひそめた。
「どんな顔してるって?」
「青いだろ、顔も、目も」
「目?」
「もう一回風呂場行って鏡見て来いよ」
淳を離す気は毛頭なかったが、彼の顔を指で持ち上げたまま、達哉は云う。このまま唇に触れたい衝動に駆られる。だが、一度淳の肌を知った自分の身体は、臨界量を越しそうになっている。落雷でさえ与えられなかったようなダメージを、自分が淳に与えられることを、達哉は知っていた。
不意に、淳がふっと目を細めて、達哉の指から逃れた。自分を見おろす目から、何かを感じたようだった。
「……分かった。でも、決めるのは朝でも遅くないだろ?」
「朝って、何時間後だよ。半日もないのによくなるわけないだろ」
ため息をつく。
「それにどうせ、止まねえよ、雨」
「……分からないよ」
淳は背にした窓を見上げた。部屋の北東側に位置する窓のカーテンを押し開く。カーテンの隙間から見えている時はただ真っ暗闇のように見えた空に、一カ所ぼんやりと明るい部分があるのが見えた。 細く静かに降る灰銀色の雨の向こうに、雲の裂け目が見える。向こうには黒く晴れた夜空が透けて見え、そこにひっそりと細い三日月がかかっていた。
太陽と雨の同居する、狐の嫁入りなら何度か見たことがあるが、雨の向こうに月を透かして見る、というのは初めての経験だった。
磨り硝子に描かれた月の絵の前に立つように、彼等は黙って、脆くあえかな雨の向こうの三日月を眺めた。
それは、シバルバーに降りてゆく彼等が手に握りしめた、頼りない、けれど明るい夢の姿と似通っている。どこから始まってどこで地上に届くのが、雨の軌道を見極めるのが難しいように、世界と一体化した不善のどこを切り取ればいいのか、彼等が見極められるのかは分からない。
だが、雨が降っている時も雲の向こうには汚染を受け付けない天地があり、熱と光を受けて恒久的に輝いている。
「……晴れたとしても、明日は休めよ」
彼は淳の腕を軽く引いて、窓から引き離した。
「嫌だって云うなら舞耶さんに電話する、……今」
「達哉……」
閉口したように、どこか決まりが悪いように淳はつぶやく。
淳と自分の間に、友達としての気持以外の何かが成立したことを、快感に近い不安と共に実感する。その「何か」が、自分たちの間に存在しない方がシンプルな関係でいられるだろう。その代わり、こんなに圧倒的な陶酔を味わう事は決してない。ただ側にいて声を聞いたり、手に触れ、息づかいを聞くことが、これほどの熱をもたらす現象。同じ苦痛を味わう同士にだけ発生する我が侭と気安さが、胸をやわらかに擽った。達哉はもうその「何か」を、一口囓ったことを取り消すつもりはなかった。
淳はカーテンを引いて窓から視線を離した。ベッドに腰を降ろして、達哉を見上げる。
「君をあんまり心配させたくないんだけど……」
達哉の感情を逆なでしないよう、気を遣っているのがその声のおだやかさに伺える。達哉も淳に気を遣わせたくないという意味で、それはお互い様だった。
「何か、考えてただろ? セブンスで」
彼は床に腰を降ろした。片膝を立て、淳を逆に見上げるように壁際に座り込む。
「何かって?」
「中庭の、何とかっていう樹のところで────」
約束の樹、などとは気恥ずかしくて口に出せなかった。
だが案の定、淳はそんな事には拘泥しないようにするっと口を開いた。
「ああ、約束の樹?」
「……」
「ああいうものがあるのはいいと思うよ。人間の誓いは脆いから、シンボルが必要になる」
彼は、黒い瞳から表情を消して、何かを思い出すように静かに中空を眺めた。
独り言のような口調になった。
「シンボルが思考するのは望ましいことじゃない……だから、木石に願い事を委ねて、自分の記憶を喚起するための鍵にするのは、効率がいいことだよね。別に触れないようなものでもいい。星でも月でも……」
彼の視線は、壁にかかった、達哉のセブンスの制服に止まった。
「君があのジッポを持ってるのを見て、何だか嬉しかったよ」
心臓が小さく跳ねる。彼も、ポケットにライターを入れたままにしてある自分の制服の上着を見る。そのジッポは淳に昔貰ったものだ。ガスはとうに切れ、煙草を吸わない達哉は、それを実用のために持ち歩いているのではなかった。ただ、殆ど忘れかけている思い出を、感情レベルで喚起してくれるアイテムとして持ち歩いているだけだ。正直、淳に見られるのは恥ずかしさがあった。まさに、たった今淳が云ったような役割を、古いジッポにさせていたからだった。
そして、シンボルが思考することを望ましくない、と云った淳の言葉が強い印象をもって胸に迫った。シバルバーから万が一還って来られたとして、淳がジョーカーだった自分を忘れることはあるのだろうか。忘却は罪に対して、最も寛容な執行人だ。
だが、淳が充分に苦しんだと思うのは、達哉が彼を救いたいと思っているからかもしれない。
「お前も、何かあったんだろ?」
そう云いながら、達哉は自分の意固地さにあきれる思いだった。
約束の樹の下で何を考えていたのか教えて欲しい。
何故素直にそう云えないのだろう。
ベッドの上に軽くついた淳の指が、微妙な力を孕んで曲がる。
淳は、ジョーカーの仮面が落ちた時と同じ、眩しいような、困ったような顔をして、足許に座った達哉を見おろした。
「何か、具体的に願い事をしたり、誓いをたてたりしたわけじゃないよ。ただ、あの樹が深く根付いて────約束した人達の気持のよりどころになってくれればいいって思ってた。花もすぐに枯れるし、樹齢の短い樹だけど……」
淳の力なら、あの樹の樹齢を変えるようなことも出来るのかも知れない。
だが、可能だとしても今の淳はしないだろう。
力など持っていない多くの人がそうするように、ただ、黙って願うだけで終りにする筈だ。
「……そう」
達哉は応え、それ以上は聞かなかった。淳は雨の音に耳を傾けるように沈黙した。
雨音と静寂が同居できることを不思議に思いながら、達哉もそれに倣う。
達哉のベッドに一人で寝るのは嫌だ。淳はそう云って譲らなかった。
仕方なく二人は床に寝具を下ろして、広いとは云えないスペースに、もつれあうように横になった。
淳はすぐに眠ったようだった。今日、彼がどんな目に遭ったかを考えれば不思議ではなかった。眠る淳の髪や肌から甘い匂いがたちのぼってくる。果物か、女の肌のような匂いだった。
達哉はなかなか眠れずに、目を開けていた。淳の体温や匂いにかき立てられて、少し苦しかった。
雨の音は殆どおさまりかけている。もしも晴れたら、淳は一日休むことを嫌がるだろう。そう思うとため息が漏れた。
淳の心肺を通り抜けた電流、肌の上に飛び散った赤い痣が目に浮かんだ。
寝息は静かだが、身体はまだ熱い。
淳と一緒に眠れることが、これから先、一度でもあるだろうか。そう思うと、眠るのが勿体ないようでもあるし、眠らないでいるのが勿体ないとも思った。
やわらかな髪の先に唇を近づけた。やはり彼の髪は甘い香をさせている。優しくつややかな髪の流れは、淳自身の疲れなど感じてはいないようだ。
髪に触れようとした手を達哉は止めた。少しでも触れれば、また見境もなく抱きすくめてしまいそうだった。達哉の腕も、胸も、抱きすくめたほっそりした身体の手応えをまだ覚えている。ほんの小さなきっかけでまた火が点きそうだった。
後一日でも、数時間でも早く、この気持に気づけばよかった。もう一度抱きしめられる日がいつなのか、浮き足立って考えられるような機会があればよかった。
達哉は、ふと思い立ってベッドの上に置き忘れられていた、携帯を引き寄せた。
淳から少し身体を離して腹這いになり、そっと気象庁の予報の番号に電話をかけた。日付が変ったばかりだ。新しい情報が聞けるだろう。
ここ暫く、身体を横たえると必ず感じた、足許が揺れているような浮遊感が消えているのに気づく。あの感覚は不快だったが、なくなってみるといぶかしい不足感があった。
電話は、一度目はうまく繋がらなかった。携帯から予報を聞くときは、市外局番を入れなければならないことを達哉は思い出した。珠間瑠市の局番を入れて耳を澄ませる。この携帯と予報の放送を繋いでいるのが、通常の電波だとは思えなかった。市外の人間と通話は出来ないのに、電話口に相手のいない、こういった自動応答の番号になら電話は繋がるのだ。
少し前に、栄吉が、戯れにチケットセンターの自動オペレータの番号にかけて、チケットを取ったと云っていた。たぶん行くことのないコンサートのチケットの受付番号のメモを手にして、彼は少し泣き笑いのような表情を見せた。
無人の番号に限って電話がつながる瞬間、それは、誰もいないと思っていた暗闇の中で手をさしのべた時、突然手を握り返されるような不気味なインパクトがあった。悪夢の向こうに世界はある。空間の歪みを経て、向こう側と不意に交信する瞬間がある。
やがていつも通り、携帯は夢の向こうの世界に繋がった。
テープの再生される微かな機械音と共に、聞き取りにくい女の声が、明日も夜まで雨が降ることを告げた。