プライヴェートの続き。ドラマエンディング後。
左側にふっと明るい光があたったように思った。
だが、実際にはそれは光ではなく、見覚えのあるほっそりした青年の影で、一条は自分の目ではなく、胸がその光源をとらえたのだと思うしかなかった。
「寮に入ってるんじゃないんですね」
一条の中で光とも影ともつかない姿に認識された青年は、親しげなあかるい口調で話しかけた。それはつい昨日会って別れたばかりの、頻繁に連絡を取り合う友人同士のような、気のおけない雰囲気だった。
「ああ────色々あって」
数ヶ月前に会った時は青白く痩せていた彼の顔は、薄く日に焼けて、やわらかな癖のある髪の、毛先まで金色を帯びているようだった。
「寮の方が勝手がよかったんだが……」
「そうでしょうねえ」
綺麗に揃った歯が微笑う。笑うと彼の顔は子供のようにあどけなく、おだやかになる。
「お久しぶりです」
「ああ」
一条はようやく足を止めた。長野県警に戻った後、一条は県警から近いアパートを借りた。寮が混んでいたということもあるが、本音を云えば独身者同士の共同生活が煩わしく思えたのだった。そんなことを思ったのは初めてだった。
彼は、東京での数ヶ月間で自分が思いのほか疲れていたことを知る。今まで人間関係の煩わしさを能率よりも優先したことなどあっただろうか。記憶を辿ってみても思い出せなかった。
一条は勤務明けだった。一昨日起こった強盗事件が昨夜遅く解決し、捜査一課で仮眠を取ってから帰宅した。駐車場に車を止め、アパートに帰ろうと歩き出した時、予告なく人の気配が左側から現われた。それは人の気配と云うよりは、繰り返すようだが何か光が射し込んだような感覚に似ていた。一条はかつてそれに似た感覚を何度か味わったことがある。振り返ると必ずそこに、屈託なく微笑う青年の姿があった。
彼は立ち止まって、南側に陽光を負うようにして立つ五代雄介の姿を見つめた。彼が前に日本を出た時は冬だった。あのとき、五代の目の下は黒ずんで落ちくぼみ、頬が削げていた。いつも黒い上着に着ぶくれて、表情は険しかった。しかし今日の五代は別人のようだった。淡い金色に日焼けした彼は、青い半袖のTシャツを着て、海をうつし取ってきたようだった。どこにあんなちからを秘めているのか、外見からはとても分からない、ほっそりした腕が伸びている。登山用の黒いリュックを片側の肩にかけ、ヘルメットを逆の手に提げていた。
「バイクはどこに駐めた?」
そう聞くと、五代は具合が悪そうに肩を少しすくめた。
「すみません、一条さんちの側に」
「よく住所が分かったな」
「電話したら榎田さんが教えてくれたんですよ」
咎められる様子がないことにほっとしたように五代は破顔する。一条は肯いた。探し出すのに苦労した、などということでなければいいのだ。相手は────五代だ。別に住所を知られるのは構わない。いや、正直に云えば、訪ねてくれたことを嬉しくも、意外にも思う。
「携帯変えたんですね?」
「ああ。……榎田さんは元気だったか?」
余りその話題に触れたくなかった一条は、短く同意したきり話題を変えた。
五代と一番連絡を取り合っていた頃に使っていた携帯電話は、五代と零号が相対した日に使えなくなった。古いものではなかったし、落としたりぶつけた覚えもないが、何か理不尽な目にでも遭ったように沈黙して、受信することも、こちらからかけることも出来なくなったのだ。時々薄ぼんやりと液晶が甦り、狂った時間を表示する携帯を、新しいものに買い換えた後も、一条はなかなか捨てられなかった。その小さな機械の中では、まだあの雪山の一日が眠っているように思えたのだ。
「そりゃもう元気でしたよ、榎田さん。そうだ、『一条くんったら電話一本も寄越さないのよ、薄情ねえ』ってぼやいてました。……一条さん、忙しいんですか?」
榎田の口真似をしてみせた五代は、不意に気遣わしそうな、頼りないような表情になった。一条は目の醒めたような気分で五代の後に見える空を眺める。すっかり濃厚な緑に変わった桜と、空の青さがしみるようだった。五代は彼の着たシャツごとその中に光の粒子に変って溶けてしまいそうだ。自分の唇が、うちとけた微笑にほころぶのを一条は自覚した。
「まあ、忙しいと云えないことはないが……去年ほどじゃないさ」
五代は目を見開いた。そして瞠った目をやがてなごませる。
「それはそうですよね」
「……君はこの後は予定があるのか?」
「あっ、それはですね。丁度俺も今、一条さんに聞こうと思ってたとこです」
「じゃあ、泊まって行け」
「────いいんですか?」
「これで帰る気か?……『薄情だな』……」
さっき五代が榎田の口まねをしたことにかけて、そんな風に云うと、五代はもの珍しそうにまた目を瞠る。一条は殆ど冗談や軽口をきかない。五代が意外に思うのも分かる。一条は自分の気分が浮き立っていることをいささか気恥ずかしく思った。そして、泊まって行け、と誘う、友人同士なら当たり前のことが、彼と自分の間で微妙な意味合いを持つことを不思議に思った。
「……これで帰る気か? 薄情だな────」
一条の唇にかすかな笑みが乗る。安定感と不安定な快感、その相反した両者を自分の中にもたらす一条の姿を、五代は慎重な気分で見つめた。そして、ここに来るまで自分がわずかに危惧していたように、一条の姿が、自分が今折り合いをつけようとしているもののイメージとは直結しないことに、安堵した。
「……いえっ、一条さんさえいいなら、喜んでお邪魔します」
自分の、少し大仰で上調子な声が、一条にそう云っているのが聞こえる。自分の中に何人もの人がいて、代る代る喋っているような軽い二重感覚は、一年前と変らず五代の中にある。しかし、久し振りに手に取った日本の新聞の社会面には、未確認生命体のニュースは載っていないし、自分は事件など無いのに一条に逢いに来た。そして一条は友人を迎え入れるように自分を部屋に招き、あかるい日差しの下で笑っている。驚愕や不審、衝撃に見開かれることの多かった一条の目はおだやかに沈んでいた。五代だけが変らず、何もかもが一年前とは違っていた。
「なら、行こうか」
一条は一歩先に立つようにして歩き出した。空気の中には浮き足立つような夏の予感が含まれている。空の色は湿気のためか青々としていながらも柔らかかった。歩いてきた一条は、暑いのか、背広を脱いで左腕にかけていた。ホルスターを着けていない一条の背中が新鮮だった。
あの頃の彼の目は印象的だった。五代はあの頃、一条の目を美しいと思った。物事をただ見つめる目だ。逃げることも、自分にとって都合のいい評価でゆがめることもなく、射抜くように強く見つめる目だった。一条がその目で自分をも見つめていたことを五代は知っている。
あの石を腹の中に受け入れることで「未確認生命体」になった五代、そうでありながら人間である五代からも、五代の変化が望まざる方向へ進む可能性からも、一条は目を背けなかった。
「どこに行ってた?」
「海にも山にも。ブラジル、チリ……今回はフォークランドにも行きました」
「中南米だな」
「はい、そこら辺を重点に。テーマは『乗るより歩け』ということで」
「歩き甲斐があっただろう」
「そりゃもう。大きい声では云えないんですけど、チリでは観光客は入っちゃいけないような高山にも実は入りました。ガイドの人に断られた後こっそり」
一条は喉の奥で笑った。
「君なら心配はないな」
「まあ、そうですね」
さらりと云う一条に、五代もまた悪びれずに答える。観光客などとても足を踏み入れられないような水晶の谷、靴が埋まってしまうほど深く柔らかい苔につつまれた、空を切り裂くような峰を彼はろくな道具も無しに歩き回ってきた。ビルの脇を駆け上がり、飛び降りて必死に走ったその足で、今は好奇心を満たすために登っている。人が足を踏み入れない場所へ。羽根のないものには到底たどり着けないような場所へ。
そうしていると、まるで五代は、自分が冒険者たり得る為に、この身体を与えられたものと錯覚してしまいそうだった。
「一条さんは山に登ったりしないんですか?」
「そうだな……」
一条は記憶をさかのぼるように目を上げた。その視線を辿ってゆくと、一条が空にかかった夏雲を見ているのに気づく。厚みのある巻積雲は雪をかぶった山の峰のようにも見える。
「学生時代は何度か。……そう高い山じゃなかったけどな。でも、刑事になってからは一度も行ってないし────行こうとも、そういえば思わなかったな」
「いつも山登りしてるみたいなものだからかなぁ」
ため息をついて五代がそう一人ごちると一条は首を振った。唇があきらかにほころび、久し振りに聞く低い笑い声が漏れた。
「何度も云うようだが、ロッククライミングするような生活を普段してるわけじゃない。去年のあれは特別だった。君にとってもそうだったんじゃないか?」
「ええ、まあ」
一年かけて、登頂しても到達感の無い山を登った。山の頂に光っていた黒い石について想いながら、五代は答える。
しかしその山を登る過程に、見たこともないような星に出逢うことが出来たのも事実だった。
昼食がまだだった一条に付き合って、外で軽い食事を摂る。その後五代は一条の部屋に行った。明日は非番だという一条に、
「お休み、どう過ごす予定でした?」
五代がそう尋ねると、特に予定はなかった、という予想通りの答が返ってくる。
「何だ……」
「……どうしてがっかりするんだ?」
一条の目に面白がるような光が宿った。
「何か予定があったんなら、俺もそれに付き合わせて貰おうかと思ってたんです」
「なら付き合えよ。一日中ぼうっとしてる筈だったんだからな」
顔を合わせた時は少しよそよそしくなっているように思えた一条だが、だいぶ言葉が砕けてきた。
「それとも、ぼんやりして過ごすなんて君の主義に反するか?」
「いえ、それは一緒にいる相手によりますね」
「……それもそうか」
一条は微笑う。五代は、初めて来た一条の部屋で、一条のためにコーヒーを煎れる。一条は、「相手による」と云われても、自分が望まざるべき相手だとは思ってもいないようだ。五代にとっては有り難いことだが、それは彼の中の一条のイメージと完全に一致するわけではなかった。
(でも────まあ、この状況で……分かって貰えなかったとしたら、結構ショックだけど……)
自分が零号と相対した日、一条にどんな風に気持を打明けたのかを思い浮かべる。うなじや背中が熱くなるような感覚があった。気持がはっきり決まっていても羞恥心はある。それに、あのときはひどくせっぱつまっていて、孤独という味わい馴れない毒を口に含んだような状態になっていた。手足が冷たく凍えて、そのくせ腹の中からどす黒い熱が放射して神経を駆けめぐっていた。
震えながら不安と、自分の感情について口に出した五代、自分を引き寄せる両腕に一条は応えた。五代の熱の行く先に、男の自分がいるということを、彼はさほど気にはしないようだった。
あの日一条から与えられたものは、慰撫だけでもなく、安堵だけでもなかった。背中を押してくれる優しい手というわけでもなかった。
五代が走る。重い銃を手に一条が援護する。
それは何度となく繰り返された構図だった。それがいつの間にか、彼等の個人的な関係にも反映されていたことを、五代はその日初めて知った。
────君は迷うな。
汗に濡れた五代の前髪を、一条の指がかきあげた。かすれた、低いつぶやきだった。五代は聞き返すことはしなかった。少し苦しそうにする一条を気遣うことで精一杯だった。身体に呑んだ石のせいか、人間の身体はひどくもろく弱く感じる。薄い羽をそなえた蜻蛉のように、力を入れて握りしめれば、てのひらの中でつぶれてしまいそうだった。そのくせ、銃を握り続けて堅くなったてのひらは、複雑な感覚に耐える一条の汗を乗せながらも、あたたかく頼もしかった。
「あ」
唐突に声を上げた五代を、一条はいぶかしげに見た。五代は、手にしていたカップを置くと、傍らに座った一条のてのひらに触れた。
「ちょっといいですか?」
「何だ?」
「やっぱりそうだ、さっき見たとき、何か違うと思ったんですよ。一条さんの手。中指の、トリガーにかかるところ、タコみたいになってたじゃないですか」
「ああ」
一条は自分のてのひらを目の前にかざした。
「あれはな、長野に帰って二ヶ月目くらいに取れたな。皮がめくれて……」
少し肩をすくめる。
「それ以来出来てない。長野に帰ってからは訓練以外では一度も発砲してない」
「そうですか」
一条の声の中の安堵を拾い上げて、五代の胸の中にもあたたかいものが広がった。もう滅多なことで、この人が他人に銃を向ける必要はないのだ。
「銃は……支給されてますよね?」
「ああ、だが、携帯の指示は滅多に出ないし、第一東京で持ってたようなのじゃない」
明日非番の一条が銃を持っている筈はないが、彼は無意識に銃を探るように手を動かした。
「あの警官の人がみんな持ってるやつですか?」
「ああ、あれとは少し違うが……まあいい。君はそうならなかったのか?」
一条は五代の拳を指さした。
「体質ですかね、俺、元々堅くなりにくいんですよ。ペンダコも出来ないくらいで。……」
五代の胸に空いた小さな風穴は段々広がり、そこから何かがあふれ出しそうになる。少し胸がつまる。自分に怯える夏目実加に、おそらく傷ついた一条のことを思い浮かべる。優しい人が人を傷つけることがないとは云えないし、銃を握るからと云って心まで鋼鉄になるわけではない。いつも相反する事柄が、世界のそこここに転がっている。
「これからも、一条さんの手にそんなのが出来ない世の中であって欲しいです」
「……」
「普通の会社員の人と、区別がつかないような手でいて欲しいですよ」
一条の目からおだやかな色が薄れ、以前よく見せた、いぶかしむような困惑の表情が取って代わった。
「……どうして、そんな泣きそうな顔をしてるんだ」
彼はつぶやく。
「泣きそうな顔してますか、俺」
「してる」
五代が落ち着いていないのを感じているせいなのか、今日の一条はよく喋ってくれる。彼は普段、決して多弁な人ではなかった。おそらく必要があることだけ話して、後は黙っていた方が気が楽な人だ。
「────まあ、君のその気持は……おれが、君の腹の中のものに消えて欲しいと思う気持と、同じようなものかもしれないが……」
思案するように一条は言葉を途切らせた。五代はその言葉の意味に思い当たって、手を握りしめたまま背中を凍らせる。こんな甘い言葉を彼から聞くのはむろん初めてだった。驚いた五代に気づいたのか、苦笑に似た表情が一条の唇にのぼる。
「……笑顔が好きなのは君の専売特許じゃない」
一条のその言葉と共に、五代の中で堰を切ったものがあった。
彼は目の前にある一条の手を握りしめる。今日は五代の手も、一条の手も両方が冷たく、さらさらと乾いていた。てのひらの体温は二人とも同じくらいで、皮膚同士が触れ合った感覚が分からないほど違和感がなかった。
記憶にあるよりもなめらかな一条の手を、少し力を込めて握り直して、引き寄せても一条は抵抗を見せなかった。
いつの間にか眠り込んでいた。平衡感覚がなくなるような甘く浅い眠りの中に漂っていたようだった。身体が少し痺れている。目を開けるとすぐ隣に一条の体温がある。息を殺してそっと目を上げると、一条は目を醒ましているようだった。部屋は淡い菫色の薄闇につつまれているが、まだものの輪郭が見て取れないほどではなかった。ことに今の五代にとっては、まだ部屋の隅々まで見渡せるだけの明るさがあった。完全な暗闇でなく、どこかにかすかでも光源さえあれば、彼は夜目がきかないということはない。
腹這いになった一条は、リラックスした姿勢で肘をついて、暗くなった窓の外を眺めている。あざやかなラインを描いた目と、それを守るための睫毛が、夕闇の中にくっきりと浮かび上がっている。そうしてみると、光をあきらかにうつす一条の瞳は、やはり恐いほど美しい。
窓の外に何があるのかと、そっと視線を巡らせてみたが、五代の目には、青く暮れた空に浮かぶ、夜の蒼白な雲と、その切れ間に覗く弱々しい星しかうつらない。
薄い綿毛布から外に出た肩は少し骨張って尖り、青い光の中で青白く見える。それほど健康的にも見えないが、一条は不思議と安定している。彼の価値観がゆるやかな放物線を描いて目的地に届き、消えない虹のように頭上にかかって、一条のこころを支えているのが分かる。
五代は目を伏せる。
それと丁度タイミングが噛みあったように、一条が身体を丸めてベッドの中に深く潜り込んで来た。おだやかなため息が五代の前髪をくすぐり、居心地のいい姿勢を取ろうと身じろぎした後、一条は力を抜いた。もう一度そっと目を上げると、一条の閉じた睫毛が見える。
静かな部屋の中で、一条の時計が時を刻んでいるのが聞こえる。そして五代自身の心臓の音と、一条の静かな息が。
五代は一条にならって目を閉じる。空港についた後、どこにも寄らずに真っ直ぐにここへ来た。疲れてはいなかったが、身体が眠りを欲しがっているようだった。
眠っていても、どんな場所にいても、最近の五代は、いつも自分の中に息づく黒いものの存在を感じずにはいられなかった。だが今日は、すぐ側に白金の光を放って燃える静かな星がある。
闇の入り口は深く広く誘うが、こころの中で光る幾つかの小さな星が、決してあの闇へ彼を近づけなかった。
一条はふと、五代の寝息が聞こえないことに気づく。息を殺しているように五代は静かで、しかしそれは特に緊張感を伴う静けさではなかった。彼は目を閉じたまま、昼の道でふと明るくなった視界について考えた。
(「これからも、一条さんの手に────」)
昼に五代の云った言葉のかけらを反芻する。
(「普通の会社員の人と区別がつかないような手でいて欲しい────」)
五代は優しくて繊細な男だ。それに、一条よりずっとロマンティストだった。そうでなければ冒険家でいたい、などと思えるはずはない。五代の優しさが彼の強さを損なっていないこと、そしてその強さが優しさを損なわないことは、奇跡のようだと一条は思う。
驚かせるだろうか、そう思いながら腕を上げ、五代の髪に触れた。少し五代が緊張するのが分かったが、五代は何も云わず、一条も声はかけなかった。
五代の放つ光が強いせいで、今まで彼にどんな感情を抱いているのか分かりにくかった。彼はそれだけ多くの人間にとっての希望だったし、一条にとっても五代への感情の公私の部分を分けることは難しかった。
だが、今は五代が光だけで構成されているのではないと一条は知っていた。彼を望まざる戦場に引きずり出す負い目がなくなって初めて、五代の不安や、持っていても当然の弱さをも含めて、自分が彼を必要としていることが分かる。
少し癖のある柔らかい前髪をすき上げるように、何度か五代の髪を撫でる。彼の賢明さを象徴するような、なだらかな額が現れる。戦いの痕跡を殆ど消した一条のてのひらの下で、額はあたたかい熱を放っていた。髪を撫でている内に、五代の肩から硬さが取れるのが分かった。彼の唇から静かな息が流れ出した。それはごく静かに寝息に変り、五代が眠ったのを一条は知った。
閉じた目の外に明るい空を抱くような、彼が側にいる時独特の感覚を味わいながら、一条は手を止めた。一筋絡めたままの髪の房が、五代の息づかいに添って指をかすかに引く。身体にかすかに残る甘い疼痛が眠りを運んでくる。
眠りにつくと同時に訪れた、茫洋とした夢の中で、ささやかな星が輝いているのを一条は見た。その星の優しい色に胸を突かれる。
桜色に、淡い金や白に。疲弊した末の眠りのような青く深い夜の中に、いくつもの星がはめこまれて煌めいている。それは全ての悪が飛び去った後、パンドラの箱の底に残った小さな希望の姿のようだった。
およそ埒もないことだが、なぜだか一条は、それが五代の見ている夢なのだと分かったように思った。あるいは、これは五代が高山の上で観た星の記憶なのかも知れない。一条は一度もこんなに美しい星を観たことがない。目が醒めてこの星の記憶があれば、五代に星の夢を見なかったか尋ねてみたい。
とりとめのないやわらかな思考と共にその夢を滑り出て、一条はやがて、静寂によく似た眠りを五代と共有した。