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愛を語らない瞳(2003年8月)

02 21 *2013 | Category 二次::幻水2主ジョウ

ベストエンドクリア後。

続き










彼は上空を見上げた。その、透き通るような青い天蓋に支えられた別世界を、高くは真理に至る上空を。切れ切れに覆う白い雲を。ぐるりと広い円形に自分を取り囲む草原、木々の梢を渡る風、小鳥の声。遠い町の気配。輝かしい夏は、高くなつかしく彼の前に聳え立った。空は熱く、遥か上方で風をうねらせている。彼は耳を澄ませる。心は上方へ飛び、聞こえないはずの、その上空の風も耳に届く。
薄い雲の板をつらねたような積乱雲の丘の勾配。その下の層を、積乱雲を押し流す風とは逆の風に流されて、薄く千切れた巻雲が、風にはぜてかたちを変えながら西へ西へと速足で流れていった。
雨の匂いがする。
もうすぐ雨が降る。枯れた土に草を芽吹かせ、血の匂いを洗い、人々の疲れた足を癒す雨が。
空は、或いは晴れ、或いは雨を恵む。
(それでも僕はよどみ、君は渇く)
それは変らない。
「……オ……!」
強い風に乗って、過去から聞こえてくる声のようにせつなく甘く、友達の声が聞こえてきた。自分を探しているのだ。この天の下に、人々と自分と姉と、彼がいる。気の遠くなるような広々とした日常がある。
彼は座り込んでいた草の中から立ち上がった。
「……ナオ……いるのか……」
友人の声は湿った風に流されて、夢のようにおぼろげだった。そして彼自身不安でならないように、躊躇いながら自分の名を呼ぶ。そう、この名前は今は自分の名前だ。かりそめの人生の鍵だ。本来は名もなき紋章の宿主に与えられた、休息の部屋の名前だ。
「ナナオ……!」
彼の立つ場所が深く落ち込んだような窪地になっているので、友達からは自分が見えないようだった。三度も呼ばなくても聞こえているのに。
ナナオは薄く微笑み、声のする方へと数歩かけ上がった。
「ここだよ、ジョウイ……!」
彼は旗をかかげるように、大きく右手を掲げた。

「あたし、キャロに行ってくる」
そうナナミが云い出したのは朝食の後だった。三人で暮らす小さな家の、食卓の後片付けをしていたナナオとジョウイは手を止めて、彼女を振り返った。ナナミは朝、近所の家の子供が集配所から受け取ってきてくれた手紙を、テーブルについたまま読んでいたところだった。手がふるえていた。手紙から顔を上げたナナミは泣いているようだった。
「宿屋の小父さん覚えてる?」
ナナミは目に涙をためて、ナナオを、次いでジョウイの顔を見詰めた。
「ああ、ソイルさんだろう?」
ナナミの話の先を促すように沈黙したナナオの隣で、ジョウイは答えた。
「そう。これ、ソイルのおばさんからの手紙。おじさん先月亡くなったんだって」
「ああ、そうなのか……」
ジョウイは思わず声を沈ませた。彼等の故郷、キャロの街で宿屋を営むソイル夫妻は、情の深い人柄だった。ナナオとジョウイ、二人は、まだハイランド王国の少年兵だった数年前、反逆罪の汚名を着せられたことも知らず、故郷に戻ったことがあった。その折り、彼等を信じ、逃げる手助けをしてくれた街のひとはこの夫妻だけだった。
そもそも、都市同盟とハイランド王国が健在だった頃、その狭間に位置して、何かとざわめきやすかったキャロの街で宿屋を営む自体が、夫婦の明るく外向的な性質を現しているとも云える。ことにナナミは、弟のナナオが少年兵として国境に出陣して行った期間、この夫妻に娘のように可愛がってもらっていたのだ。
「ソイルさんにここのことを教えてたのかい、ナナミ」
ジョウイが尋ねると、ナナミは咎められたと思ったのか、薄く顔を染めた。
「だって、手紙も出さないなんて薄情だと思ったから……」
「いけないなんて云ってないよ」
ジョウイは困惑して手を振った。
「ナナミは誠実だと思っただけだよ。……」
いったい、彼等と一緒に旅をして、ここに落ちついて一年にもなろうというのに、自分は彼等に無意識に媚びようとしてしまうのだろうか。自分の居場所が知れたら、という不安を、そうは云えずに、ナナミの美点にすり替えてしまう自分に、ジョウイはかすかな嫌悪感を抱いた。
「おばさん一人で寂しいみたいだから、あたし側にいてあげたいし、行ってきていい? 行ってこなくちゃ」
急に故郷のことを思い出されたのか、ナナミは青褪めてしおれ、それを隠すように慌てて立ち上った。その途端、テーブルの上からまだ片付けられていなかった水のグラスが床に転がり落ちた。
ナナミは一瞬、何が起こったのか分からないように、茫然と床のガラスの破片を見下ろした。
「大丈夫かい、ナナミ」
ジョウイは慌ててテーブルの向こうへ回り込んだ。そのジョウイに目を向けたナナミの顔が珍しく青白かった。
「大丈夫よ。あたし何やってるんだろう、ごめん」
気を取り直したようにかがんで、グラスの破片を拾い上げようとした。
「あっ」
小さな痛みに突かれたようにナナミが声をあげる。やっぱり、とそう思いながら手元を覗くと、ナナミの足許にぽつりと小さな紅い珠が落ちた。硝子の破片で切ったのだ。
その時ふとかすかに空気が動き、砕けた硝子を前にしゃがんだナナミを追いかけて、ナナオがかがみこんだ。光沢のあるやわらかな黒髪でつつまれた頭を伏せ、彼は姉の切れた指先に唇を押し当てた。
「ナナオ?」
驚いたように目を丸くして、ナナミは自分の傷口の血を清める弟を見下ろした。やがて彼は暗い色の大きな瞳をあげ、ナナミの手を優しく引いて立たせた。
「慌てなくていいから、落ち着いて。気をつけてキャロに行って来なよ、ナナミ。大丈夫。僕たち、ちゃんと待ってるから」
そう云いながら彼は、指と指が離れたことに気づかないほどやわらかに、ナナミの手から自分の手を解いた。
「こんなの僕たちが片付けるよ。手当てして、早く支度しなきゃ、ね」
そして、うながすようにゆっくりと彼女の背中を押した。
「ナナオ」
ナナミはまだ涙の名残を残した目を、照れくさそうにそっと拭った。
「何云ってるのよ、あたしそんなこと心配してないよ? だってナナオは、お姉ちゃんを黙って置いていっちゃうような子じゃないもん」
威勢良くそう云いながら、だがまだ泣きそうな表情をしてナナミは笑ってみせた。
その彼女の顔を見て、ジョウイは、ナナミが故人への悼みを抱くだけでなく、何を不安がっていたのかに、ようやく気づいた。
ハルモニア国境近くの村外れに三人が住みついて半年ほどたった。ハイランドを抜け出して一年半になる。その間、ナナミは一度も彼等の側を長期間離れたことはなかった。
それぞれの右手に、異質で古い魔法を宿した弟たちの行方を、誰よりも気にかけ、我が事以上に胸を痛めているのはナナミだった。彼女は、弟たち二人が、真の紋章ゆえに「時」に置いてゆかれたことを知っているからだ。

ナナミは今年19歳になった。外観上にもこのしばらくで変化が訪れていた。どこか少年じみた風貌だった彼女が、少しずつ大人の女の姿に変り始めているのを、ジョウイはつぶさに見てきた。
だが、ナナオとジョウイの外観には、紋章を宿してからのこの3年間、ほとんど変化がなかった。
いや、それでもジョウイはまだ変化がある方だった。彼はこの村にやってくる少し前に髪を切り、思案した末、その髪を染めて過ごすことに決めた。ハイランド人特有の金髪と、薄蒼く光る星のような彼の瞳は、行方知れずになった若いハイランド皇王の記憶を、いつ何時誰かしらの記憶の中で呼び覚まさないとも限らなかった。しかし彼のハイランド風の顔立ちに、髪を黒く染めてはかえって目立つため、ナナミが交易所で髪を栗色に染める染め粉を見つけて、その金色の光沢を惜しみながら、髪を染めてくれた。
しかし、紋章を宿す以前に比べれば伸びる速さは格段遅くなったとはいうものの、数十日すれば、彼の髪の根元には、再び元の髪の色が覗き、慎重に染め直さなければならなかった。
だが、ナナオの髪がまるで伸びないことに、ナナミもジョウイも気づいていた。髪だけではない。ジョウイの背丈は少しずつ伸びていたが、ナナオの体は相変わらずほっそりと小柄な、少年のままのかたちを留めていた。爪も伸びていないのではないか、とジョウイは思っている。小さな家を借りて一緒に暮らし始めてから、ナナオが爪を切っているところを一度も見たことがない。だが彼の指の先には、いつ見ても荒れることもなく、形よく丸まった薄い爪が乗っていた。
トンファを握れば、一撃で巨きな獣を打ち倒すナナオの両腕は、筋肉も贅肉もほとんどつかず、むしろ以前よりほっそりと頼りない形に変ったように思えた。
ナナオの指も肌も髪も、余りにもなめらかに調って傷がなかった。日光や風や乾きや、そんな外界からの干渉をまるで受け付けない、たった今細工して出来上がったばかりの人形のように、ナナオはほっそりとなめらかに、静かに彼等と共にそこにいた。
それは、あきらかにトトの村で光の盾の紋章を継承した後に起こった変化だった。真の紋章を受け継ぐと、肉体の成長が止まるという話を、彼は聞いたことがある。
(だが、僕らの紋章は不完全なはずだ)
戸惑いを覚えながらジョウイは、手袋に隠された自分の右手に焼き付いた紋章のことを思う。そしてまたナナオの右手に眠る、まったく対極の性質を持った、しかし元は割れた卵の半身だった紋章について。
ナナオの変化が紋章のせいだというのは間違いないが、しかし何故彼だけに、それだけいちじるしい変化が起こったのか、ジョウイには分からなかった。
(紋章をはずして再び封じるべきだろうか)
しかしどこへ?
レックナートを探して、紋章を封じる方法について教えを乞うた方がいいのだろうか。
彼はふと、目の前にまざまざと、焼け野原になったトトの村を見た。救いを求めるように天へ向けて焼けた腕を突き出した、幾つもの村人の死骸を思い浮かべた。彼をあたたかく世話してくれたピリカの両親も、その死者の隊列に加わっていた。ピリカの泣き叫ぶ声がなまなましく鼓膜をふるわせるようだった。
あの時だ。
幼い頃から、ひとと、ひとのこころについて考えた時、ジョウイの脳裏には、説明のつかない青黒い隙間が生まれ出る。幾度も幾度も繰り返し、細かい隙間が埋まれ出て、ナナオやナナミの存在すら、その隙間にものやわらかな湿り気を与えてはくれても、「それ」を完全に埋めるにはいたらなかった。
しかしあの時彼にささやきかけた、レックナートの静かな声と、紋章の黒い輝きだけは違った。力ということばで彼を幻惑し、その隙間の奥深く、青黒く燃える孤独の深層にまで入り込んだ。何年もかけて愛と確信に渇き、ひび割れたジョウイのこころの亀裂に、激しく逆巻きながら流れ込んだ。乾季の終った平原に降る雨のように、もとのひびが分からなくなるほど、完全に渇きを消し去った。
紋章は、彼の脆く揺れるばかりだった正義感を、鋭くきらめく、ひとふりの黒い太刀に仕上げたのだった。
あの時生まれた裁きへの確信が、いまだに自分の心の奥底に眠っているのを、ジョウイは見出す瞬間がある。それは誰にも云えないジョウイの陰惨な秘密だった。
再び、この紋章の導くままに、刃をふるって黒雲の中に切込んでゆきたいと望んでいるのだ。
誰にも知られたくない、後ろ暗い欲望でありながら、しかし、容易に捨去ることの出来るようなものではなかった。
いまだジョウイは、ひとを殺して奪った宝石ででもあるかのように、その欲望を、誰にも見られない胸の奥底にひそかに隠し持っているのだった。

「ナナオは空ばっかり見てるの」
ふとナナミがつぶやいた。彼女を途中まで送り届ける役をかって出たのはジョウイだった。新王国の関所近くまでの数時間の真昼の道を、二人は肩を並べて歩いた。
「だからあたしも時々空を見る。あんなに熱心に見上げて何があるんだろうって。ナナオが空を見てる時は大抵お天気がよくて、空がずっとずっと遠くまで見えるような日ばっかりで、お日様と雲と空しか見えないの」
「……」
ジョウイは答えられずに、ナナミを見下ろした。その口調から、ナナミが彼に答えを求めているのではなく、胸のうちを吐露したいのだということが察せられた。自分のこんな話が迷惑ではないか、拒まれてはいないかというように、ナナミはジョウイを見上げる。肯定の意思を含ませたジョウイの視線と出会って、安心したように話し出した。
「笑わなくなっちゃったよね、ナナオ。そう思わない?」
「……そうかな」
ジョウイは慎重に声を抑えた。それは彼も感じていたことだった。微笑することはよくあるが、声をたてて笑うようなことは殆どなくなってしまった。
だが、ナナオが笑わなくなったのが、ミューズで道が分かれた時なのか、自分と一緒になってからなのか、行動を共にしていなかった彼には分からなかった。そして、それがどちらかだったかで、ジョウイの答も違ってくる。
「紋章のこととか、ほんとはあたしには分からないよ……」
ナナミはつぶやいた。
「同盟にいた頃は、あたしも役にたたなくちゃ、って、水の紋章つけてもらったことあるけど、あたしは紋章酔いがひどくて、すぐにはずしちゃった」
「……そう」
ジョウイはうなずいた。そうかもしれない。ナナミは魔力の伸びの高いほうではない。それは、今のジョウイの目から見れば、一見して分かることだった。
紋章酔いは、紋章を宿した人間が、紋章の魔力を使ったあとに起こる吐き気や貧血だ。魔力の伸びない人間ほど、紋章で無理矢理魔力を費やした負担が大きくなる。紋章を宿そうという人間は、紋章師の許へ赴いて、魔力と、自分の体の持つ体質の属性をよく判定してもらった後、よほどの力の持ち主というのでなければ、最初は、下位紋章から宿して、紋章に体を慣らして行かなければならない。
「その時あたし思ったんだ。ジョウイとナナオはどんなにつらいだろう、真の紋章なんてつけて、二人の体はどんなに疲れてるだろうって。真の紋章は、上位紋章以上に力が強いんでしょ? それを想像すると、すごく怖くてつらかった。特にナナオが何回も何回も倒れて……」
ナナミはためいきをついた。
「何回も?」
ジョウイは、自分にも覚えのある、あの吸い込まれるような眩暈を思い起こした。彼も数回倒れた。紋章酔いというものと、あの眩暈とは少し違った。彼等の紋章は、本来はひとつであったはずの「始まりの紋章」をふたつに分けた、不完全なものだ。
それをひとつずつ、別々の身体に宿すことは、負担が大きかった。一年半前の天山で、ナナオと自分が中和し合わなければ、おそらく自分たちは二人とも命を落としただろう。
「初めてティントに行った頃から、ほとんど毎日だったよ。ちょっと疲れるとすぐに意識がなくなって。……ナナオが疲れてることはみんな知ってたけど、そこまで酷いんだっていうことを知ってたのは、ビクトールさんとフリックさんと、シュウさんだけ。だから三人で、他の人にそれが分からないように、ナナオを支えてくれてたの。戦いが終ったら早く休めるようにしてくれたり、シュウさんが悪役をかって出て、ナナオを会議からはずしてくれたり。……ねえ、ジョウイもそんなだった?」
ジョウイは軽い衝撃を覚えながら首を振った。彼が倒れたのはせいぜい数回のことで、毎日そんな不調に苛まれることはなかったのだ。
「いや、僕はそこまで酷い拒否反応は……」
「あれって拒否反応?」
ナナミの目が大きくなった。
「紋章酔いってそういうものだろ?……」
しまった、と思いながらジョウイはそう答えた。ナナミは彼らの宿す紋章について、全てを知っている訳ではない。これ以上彼女の心痛を増やすことはないのだ。
「ああ、そっか……」
ナナミは疑いを感じているのか、曖昧に答えたが、やがて話の本筋に戻っていった。
「同盟のひとたちは元々軍隊の人が少なかったから、みんな優しかった。すごく気を使ってくれて。だからナナオも、具合が悪いことを最後まで隠してたの」
ナナミはその当時の痛みがよみがえってきたように、胸の上をそっとてのひらで押さえた。
「……そう」
同盟での彼のことを聞くといまだにこころが痛む。勝手なことだと思いながら、敵同士だった頃の冷ややかな敵愾心の名残りにさらされる。
「でもあたし、ずっと、ナナオにリーダーなんてやめてほしかったよ。……戦争は怖かった。あたしだってちょっとは戦力になるみたいだし、ナナオを一人で放っておけないから、自分も戦場に行ったけど、いつも逃げ出したかった。戦場に出ると、みんな知らないひとみたいな顔になるの。……向こうにいた頃のジョウイもそうだよ」
ナナミはほろ苦く笑んだ。彼女らしくない、複雑な笑みだった。
「男ってバカだ」
彼女はジョウイをまっすぐに見詰めてささやくような声で言った。
「これはね。前にあたしが思ってたことじゃなくて、今もそう思ってること。男の人って、ほんとに大事なことが見えないんだって思う」
幼馴染のナナミの目に胸を刺し貫かれたようになって、彼は沈黙した。決してナナミがこんなことを、その場の雰囲気で放言する人ではないことを、ジョウイはよく知っていたからだ。
「でもね、ナナオは途中から変ってきたの」
ナナミはそのまま立ち止まった。小犬が空を見上げるように、無心な目で空を眺めた。晴れ渡った空の向こうに、白い雄大雲がせりあがり、ナナミの真っ直ぐな黒髪を支えた額の際には汗の粒が浮かんでいた。
「ナナオ……だんだん男の子みたいじゃなくなってきた。もちろん女の子になったわけでもないけど。うまく云えないなぁ。どんどん色が抜けて透明になってきちゃったみたいに、……ケンカも悪戯もしなくなって、声をたてて笑わなくなって……戦場に行く時もやるぞ、って雰囲気じゃなくなって。男の人たちが戦争に行く前に身体から出てくる、力の雲みたいな……それがないの。ナナオは昔からそんなに喧嘩する子じゃなかったけど、ちょっとはあったんだよ? よし、やるぞ、っていう感じが」
血のつながりはないのに、ナナオとどこか似た、大きな黒い瞳に、自分たちを取り囲む空のそこここを飾り付けた雲を映しながら、ナナミは、男たちの戦意を、絶えず変転する雲にたとえる。
「ナナオはね。捨てちゃったんだと思うの。普通の人が持ってるものを、たくさん。笑ったり怒ったり、この戦争が終ったらどうしたいっていう希望だとか、逃げ出したいっていう気持だとか。ナナオに皆が頼ってたから」
ナナミの表情に、影のようなものが動いた。
「ナナオは、ただ、そこにいて、みんながして欲しいことをする人になろうとしたんじゃないかと思う。自分では何も考えなくて、選ばなくて、決めることもしなくて、ただみんなのためにそこにいる人になったの。あたし、そんなナナオ嫌だった。ううん、どんな風になって欲しいとか、そんな希望があったわけじゃないの。ただあたしはナナオに幸せでいて欲しかったんだ。それで、皆のためなんかじゃなくて、自分のために全部のことをして欲しかった。あたしだって、ナナオのそういうとこ見たら幸せになれる。……」
ナナミはかすかに目を輝かせて続けた。
「戦争が終って嬉しかったよ。やっとナナオが自分のことだけ考えてていいんだ、って。だからこの旅も、あたしにとっては、ナナオが捨てちゃったものを、拾いに行く旅だったんだよ?」
ナナミは照れくさそうに舌を覗かせて笑った。
「ごめんごめん。真面目になり過ぎちゃった」
そして、夏の草原のただなかで、汗を浮かべて立ち止まっていた彼等は、ようやく歩き出した。
「今、ナナオのこと云ったけど、全部それはジョウイのことでもあるんだよ?」
ナナミはそっとそう云った。
「でも、ナナオは弟だし、あれこれお祈りしてやれたけど、ジョウイのことはあたしが祈ってあげていいのか、あの時は分からなかったから」
「ありがとう、ナナミ」
答えた声がかすれた。ジョウイの咽の奥で、痛みのようなものが脈打っている。ナナミの云ったひとことひとことが、刃となって彼の胸を突き刺した。
「ナナミ。君は」
ジョウイは云いかけて口ごもった。
ナナミ、君は僕を恨んでないのか?
そんなことを彼女に尋ねてどうしようというのだ。
恨んでいない、と答えるに決まっているナナミに、わざわざ云わせるのは卑怯だ。
「でも、ナナオ、何もいらないみたいに見える」
しばらく沈黙と共に歩いた後、この話題の最後をしめくくるように、小さな声でナナミはつぶやいた。
「今、ナナオの欲しいものって何なのかな? ジョウイ」

この村を、彼等が落ち着き場所に選んだ理由は、師範が死んで、空き家になった道場があったことだった。
半年前、この村の一軒きりの宿屋に泊まった晩、宿屋の主人から、村で、道場の指導をする者を探しているのだと打ち明けられたのだった。
(「わたしらはいつも、自分の村は自分で護ってきた。夜盗団が入ってきた時も、戦争に巻き込まれた時も」)
自身もかなり使うという、かっぷくのいい主人は、丸太のような腕を組んで胸を張った。
(「だから、子供も八つになれば剣術や武道を教えて、大人も鍛練する。もちろん武道の嫌いな者や、身体のきかない者はその限りじゃないけどね」)
この村に住まない者に力を借りるのは嫌だ、と云った。この村のために働く者、村の暮らしを護るためだけに武術をたしなむ武道家、それを育てる師範が必要なのだと云った。
(「前の先生が亡くなっても、跡を継ぐはずだった男がいたんだけど、旅先で知り合った家付き娘に惚れちまってね。村に帰らずに、向こうで商人の婿になっちまったんで」)
彼は肩をすくめて笑った。
(「まあ、そのうち何とかはなるだろうが、さしあたって子供たちに武道を教えてくれる先生がいなくなっちまったのが困りものだ。そんなに給料を払えるわけでもないから、余所からひとは雇えないし、それに、金を払って来てもらったひととは、どうしたって、金のことで縁が切れる。かといって村の男連中はみんな畑をやってるからね。子供たちの相手まではなかなかしちゃおれないんですよ。ことに今は種まきの時期で忙しい。それでひと探しも放りっぱなしになっちまっててね」)
三人は顔を見合わせた。
ジョウイも思うところがあった。自給自足の豊かな農村を護るためだけに使う武道と、子供たちに、身を護る術を教える師範、それは彼等が今望みうる環境として最高のものに思えた。彼等は目でお互いの意志を確かめた。皆同じ事を考えているのが解った。一瞬で決心は決まった。
(「あの、その仕事を僕らにさせてもらえませんか?」)
口を切ったのはジョウイだった。
(「あんたらって」)
主人は苦笑した。
(「見たところ子供じゃないか」)
(「腕は見た目よりはたつと思います。もちろん証拠は御覧にいれます」)
腕はひと目見てもらえれば、とばかりに勢い込んだジョウイに、主人は片手をあげて制した。
(「それに、ハイランドなまりがあるね? あんたら」)
ジョウイがはっとして絶句した時、それまで黙っていたナナオが口を開いた。
(「僕たち二人とも、ハイランドを裏切って同盟に下ったんです」)
ジョウイはぎょっとしてナナオを見た。何を云い出すのだろう、と思った。
ナナオは、真っ黒な瞳を静かに見開き、巨きな男を凝っと見つめていた。次の瞬間、まるで、夜の闇に得体の知れぬものを見出したひとのように、主人が怯んで目を背けるのを、ジョウイは驚愕と共に見守った。
(「それはまた、どうしてだね?」)
主人は探るように、ゆっくりと尋ねた。
(「王国軍のやり方が許せなかったんです」)
ナナオは目を伏せ、離反の理由については、それ以上は語らなかった。
(「僕らのせいで故郷をなくした姉のためにも、落ち着く場所が欲しいんです。師範なんて大袈裟なことでなくても、子供に武道を教えたり、村の畑に手が足りない時は、それを手伝ったり……、何でもいいんです。戦争の無いところで、きちんと働いて、友達や姉と暮らせれば」)
王国軍から離反した少年兵を装うことへの痛みが、ジョウイの中にある。そしてナナオの使った、許せない、という言葉に違和感を覚えた。その言葉は強く潔癖で強引で、ナナオの普段使う言葉と似ていなかったからだ。
しかし普段使う言葉、と、そう思った時、ジョウイは、ナナオが、一緒に旅に出てからの一年、極端に言葉数が少なかったのを思い出した。ナナオは殆どしゃべらずに、薄く微笑してナナミの言葉に耳を傾けている。ジョウイの話にそうして付き合うこともあった。
ただ、大きな黒い瞳を静かに据えて、語るひとを見守っている印象がある。再会して以来、彼がこんな風に、故郷や自分たちのことについて、一言でも語るのを聞いたのは初めてだった。
(「まあ、腕前を見せてもらってからだな、話は。わたしが村長に話を通しておこう。今晩はゆっくり眠っておくといいよ」)
ナナミが小さく歓声をあげ、ナナオはほっとしたように微笑んだ。腕前を見せる、という段階に漕ぎつければ、おそらく彼等が、村人の心を射止められるのは確かだった。
そして、彼等の思惑通りことは運び、村でも使い手の猛者を片端から下して、(手加減はしたものの)古い道場で武道を教えるささやかな仕事と、村外れの小さな家は彼等のものになったのだった。
道場の仕事で得られる謝礼では、三人の口をまかなうには多少の不足があり、ナナオの云った通り、彼等は村人の足りない用事を足し、農作業を助け、子供たちの相手をして過ごした。余った土地を開墾し、自分たちも小さな畑を作った。その畑に蒔く種は、村人が仕事を手伝ってくれた礼にと、分け与えてくれた。
絵に描いたような平和がそこにはあった。
それはジョウイのこころを、落ち着かぬげな罪悪感に駆り立てる平和だった。

ナナミを送り届けたジョウイが、家に帰ってきたのは、もう夕刻をとうに過ぎて、空が暗く沈んだ頃だった。空には星が浮かび始めていた。家の外の小道にさしかかった時、明りが点いていないのに気づいたジョウイは、それをいぶかしんで速足になった。ナナオは帰っていないのだろうか。
しかし、畑の横を通り過ぎると、夕刻の水はきちんと撒かれて、土と水の入り交じったすがすがしい香が夕闇の中にただよっている。
草むらに絡んで、白い星のような蔓性の花がそこここに咲いている。天にも地にも優しい白い星を浮かべた、夢のように美しい、青い夕暮れだった。
彼はそっと扉を押し開け、家の中に入った。入ってすぐに作られた小さな食堂の窓が開け放たれて、甘い花や土の香のする風の中で、ナナオが窓枠に片膝を抱えて座っているのが見えた。
「ナナオ」
不思議な、胸のしめつけられるような気もちになる。そっと呼びかけると、薄青い闇の中でナナオが振り返った。
「お帰り、ジョウイ」
この一年半聞き慣れた、優しい柔かな声でナナオが彼に呼びかける。
「ただいま。どうしたんだい、ナナオ。灯りもつけないで」
ナナオからはそれへの答はなく、ただ沈黙が返ってくる。ジョウイは、ナナオのこころの内側に踏み入れるようなことを口にした時、やわらかではあっても、断固とした拒否を含んだ沈黙で応じられることに、すでに馴れ始めていた。彼は諦めて灯りを燈そうとした。
「つけないで、ジョウイ」
窓際に座ったままのナナオが不意に、ランプに手を伸ばそうとした彼を制止した。
「星を見てるんだ。灯りをつけるとよく見えなくなる」
「星を?」
ジョウイは視線を転じ、あらためて窓際に座った、ほっそりとした幼馴染の姿を眺めた。風がナナオの髪をかすかに揺らしている。ナナオは目を上げ、夜空をふりあおいでいた。
「凄い星だよ、ジョウイ」
「ああ。外を通る時見てきたよ」
「星を見て思い出してたんだ」
「何を?」
ナナオの座る窓際に近づき、自分も夜空をふりあおごうとしたジョウイは、おだやかな気分で応じた。ふと、薄闇の中から、ナナオの目が自分を見守っているのが分かった。彼の真っ黒な虹彩が、夜闇の中のかすかな光源を拾い上げて、淡く耀いているのが見て取れる。
「ルカ・ブライトを殺した夜のことを思い出してたんだよ、ジョウイ」
「!」
ジョウイは手足を凍り付かせてそこに立ちすくんだ。
自分たちが敵同士に分かたれて、天山で再会するまでの一年間のことは、いわば彼等の中では禁忌となって、鍵をかけて封じ込められていた。その鍵を開こうとする気配すら、ナナオには見られなかった。ナナオはずっとおだやかに満足そうで、たとえ軽口にも、同盟と王国の頂点に立った過去について触れることはなかった。
「あの日も、こわいほど星が綺麗な夜だったね、ジョウイ。君はあの時、側にいたから知ってるだろう? 僕が、追いつめられた彼と二人きりで闘った丘の、真っ黒な林の間に見えた星を、君も見てたんだろ、ジョウイ?」
ナナオは膝を抱え込んでいた腕をゆっくりとほどいた。
夜空から何かを掴み取ろうというように、静かに右手を空にさしのべた。その手に痛みを覚えたように、すぐにそれを力なく垂れ、ジョウイを振り返った。
「僕は覚えてる。あの夜はとても寒かった。……真冬だったよね。空いっぱいに冬の星座が凍り付いてた。ルカ・ブライトの鎧が痛いくらい白く浮かび上がってて、ところどころに暗い影がしみついてた。あれは血だったね」
ナナオの唇から、静かなため息が漏れた。
「ルカ・ブライトは、自分が殺した色んなひととまるでおなじように、赤い血を流して死んだんだ」
ジョウイはぴりぴりと肌を灼く緊張感に、うなじをそそけだたせて、彼を見守った。時間が確かに逆流して、その、冬の真っ黒な夜に戻ってしまったようだった。
「それから君がいた。それに、君の軍師もね、ジョウイ。ルカが、僕らの軍ではおさえきれずに、あの崖まで辿り着くだろうと思った君の計算はあたったね? 螢をいっぱいに入れてあの木に止めたあったお守りは、ミューズで、君と僕とがピリカのために買った、あのお守りだったよね」
細い爪のような月が南東の空に昇っている。遠く村外れの家の燈す灯りと、掻き傷にも似た月、そして怖いほど青い夜空をうずめた星の光が、窓から静かに忍び込んで、小さな家の中に向かい合った、二人の少年を照らし出している。
「ナナオ」
ジョウイは乾いた唇を舌で湿した。
ナナオが自分を許していないのだということが、突然身に迫って感じられた。
いや、それは許す、許さない、そんなことではないのかもしれなかった。
しかし、天山でつかなかった決着が、自分の中でのそれと同じように、少なくともナナオの中でもついていないのが察せられたのだ。
「何か、僕に話したいことがあるなら云ってくれ」
ジョウイはゆっくりと云った。
「僕も君と話したいと思ってた」
すると、ナナオは首を振った。
「君と話し合いたいわけじゃない、ジョウイ」
「どういう意味だい?」
「話し合っても僕たちは理解しあうことは出来ないと思う。解決策はないんだよ、ジョウイ」
ナナオは優しくゆっくりと云った。教え諭すような口調だった。
「だってそうだろう、僕たちは元々別々の人間として生まれたのに、無理矢理、『ひとつの性質が分かたれたもの』にされてしまったんだ。本来ふたつの目的、いりまじった善悪、そういうものが別々に僕たちの中にあったはずなのに、右から見れば左が悪、左から見れば右が悪、そんな風に捻じ曲げられて、押し込められた」
彼はするりと窓枠を降り、ジョウイの側に近寄ってきた。ほとんど片時も離すことのない手袋を脱いだ。手首の内側、もっとも強く脈動を表す血管の真上に、あざのように焼き付いた紋章の姿が現われる。それは、闇の中で、かすかにうすみどり色の光芒を放っているように思えた。
「こんなもののためにね?」
「ナナオ」
ふたたびジョウイは呼んだ。背中がそくそくと寒くなり、彼は信じられない思いで、見慣れた幼馴染を見つめた。これは、ミューズで別れた頃までよく知っていた、明朗なナナオとは別人だった。性質が変化したというのではなく、むしろ別人が巣食ってしまっているようだ。
「ナナオ、君は、どうしたんだ?」
君は誰だ、などとは口に出せないジョウイのこころを読んだように、ナナオは、細い鞭を打ち下ろすようにその問いを投げかけてきた。
「僕たちは誰なんだろう? ジョウイ」

ジョウイが、青褪めた顔で目の前に立つ姿を、ナナオは陶然と見つめた。
髪を洗って、染めた色を落として欲しい、というナナオの言葉に、ジョウイは黙って従ったのだ。
薬を使って髪の染め粉を落とし、友人は湿った金色の髪を白い頬にもつれかからせて、ナナオの前に立った。青白くそそけだった頬に、かすかに敵意の影がさしている。
なんて美しいんだろう、ジョウイは。
彼は心底そう思った。このすらりと背の高い少年を、兄のように誇らしく思ったことがかつてあった。それはほんの数年前のことで、記憶が薄れているはずのないものだった。
しかし、たった数年の間に、彼等はお互い見知らぬ人に代わり、甘い思い出は記憶のかなたに遠くなりつつあった。
彼はジョウイに近づき、手を伸ばして髪に触れた。髪は何度も繰り返して染めたため、少し傷んで艶が損なわれているようだった。
あんな粉くらいで髪が傷んでしまうのだろうか、ジョウイは。ナナオは驚きと共に思う。
ならば彼の身体は、紋章を宿す以前のものと同じく、まだ脆い人間の性質を多く残しているのだ。
ジョウイは彼に髪を触れさせたまま、薄青い瞳を彼に静かに据えている。
その髪をそっとたぐる。ジョウイはやはり何も言わない。ただ、ナナオが髪を引く動きにつれて顔を傾けた。目を閉じようとはしなかった。
ふと、くちづけてみようかという気持になった。
紋章を継承する前のことだ。少年期に入って金色の髪を長く伸ばしたジョウイの姿に、自分が目を奪われたことがあったのを、ナナオは不意に思い出したのだ。すっかりそんな事は忘れていたが、彼にくちづけて、裸の肌に触れてみたいとさえ思ったことがあった。彼の中で今、鮮明な記憶は紋章を継承してからのことばかりで、それ以前のものは夢の霞がかかったように、甘くぼやけているのだ。
ナナオはジョウイの髪を離し、彼のうなじにてのひらをかけて引き寄せた。唇を重ねる。二人は目を開いたまま唇を合わせることになった。
「冷たい」
ジョウイがつぶやいた。ナナオは微笑した。
ジョウイの唇が驚くほどあたたかかったからだ。
昔は自分の方が身体が温かかったことを、彼はよく覚えている。いつごろからだろう、手足に血が通っていないようにからだが冷えて、温めても温まらなくなったのは。ある種、生き物として生きることを身体がやめてしまったように、血肉が冷えた。身体が、紋章をたたえておくための、ひとつの冷たい器に変ってしまったようだった。
しかしそれで苦痛があるわけではなかった。
彼の身体は傷つきにくくなった。痛みや疲れに苛まれることもほとんどなくなった。走りつづけても鼓動はほとんど乱れずに、汗をかくこともなくなった。ただし、魔力を使った後の、どうしようもない眩暈だけは別だったが。
まるで闘うための機械に変ってしまったように、彼の身体は能率良く堅固なものに変って行ったのだ。食物も最低限取ればいいだけで、食への欲求が薄くなり、身体全体の筋肉が細く締まり、動きやすくなった。
いったいこれは何だろう。
それが、『光の盾の紋章』がもたらしたものだと思うと、妙に可笑しく思えた。
しかし、ナナオに訪れた最も大きな変化は、身体に訪れたものではなかった。

ナナオは、目を閉じようとせずに重く沈黙した友達の金色の髪をかきあげ、思案した。
ジョウイと寝るというのは、直接的で解りやすい方法だ。悪くないと思った。ナナオはまだ、誰ともそういった意味で触れ合った事はなかった。
身体もその欲求も、以前とはまるで変ってしまった。今となっては、欲望といえるものは殆どなかった。しかしジョウイとなら、それが出来るのではないかと思った。
ナナオに、他者と触れたい欲求がないのは、おそらく紋章のせいであり、ジョウイとなら触れ合えると思うのもまた、紋章のためだ。一つの紋章を不自然なかたちで分け合った、その半身だからだ。事態は益々滑稽になる。
しかし、どんな事態であれ、何かを嘲笑するような気持はナナオの中になかった。
ただ彼は、自分の中に澱んだものと向き合っている。
今、彼がはっきり知っているのはそれだけだった。自分の中に「何か」があり、自分はその何かと、同時に在る。そしてそれ以上でもそれ以下でもないのだ。
ナナオは、ジョウイの頬に触れ、再び唇を近づけた。闇の中で蒼い宝石のように静かに光っているその瞳を惜しく思いながら、そっとてのひらで触れて、まぶたを閉じるようにうながした。
「やっぱりこの髪の色じゃないと、ジョウイらしくないね」
そう囁いて、彼は口付ける。唇がわずかに開いた間から、歯の間に舌を挿し入れて、ジョウイの舌を探してみた。かすかにざらついた感触に触れる。うまく触れられずに、顔を傾けて深く顎をかみ合わせる。舌の側面は、驚くような柔らかいぬめりを備えていた。
彼の中に芽生えたものは、まだ欲望というにはほど遠く、ナナオは目を閉じて、自分が味わう感覚に集中しようと努めた。立ったままでは口づけしにくいことに気づいて、彼は、ジョウイから離れた。
「横になってよ、ジョウイ」
「ナナオ」
目を開けると、ジョウイの睫毛がかすかに湿っているのが分かった。まぶたのふちがほんのかすかに赤らんでいる。彼は口付けをすれば感じるのだろうか。ジョウイはうす赤く充血した目でナナオを戸惑ったように見つめる。
「僕に何も云わせないつもりかい、ナナオ」
彼のその言葉を聞いた瞬間、ナナオの中に赤い亀裂のようなものが走った。胸が突然膨れ上がるように痛くなり、こめかみまで鳥肌が立った。
ああ、そうだ。
 これは怒りだった。
ナナオは半ば驚きながら、怒りが自分の体を冷たくするさまを見守った。腕が伸び、彼は自分がどうしようとしているのか分からないまま、衝動に任せた。突然の衝動に、他人のもののように痺れて冷え切った腕は、ジョウイのこめかみをとらえ、彼等が立っているすぐ隣の土壁に、ジョウイの頭を力任せに叩きつけた。
「ア……ッ……」
悲鳴のような声が漏れて、ジョウイはバランスを崩した。膝をつく。ナナオは瞬間的に自分の腕を通してほとばしった激情に驚いて、右手を見つめた。力も前以上に強くなっていることを初めて知った。もう怒りに任せてはいけないのだと気づいて、彼は後悔した。
「ごめん、ジョウイ。大丈夫?」
もっと殴り付けたい衝動に疼くてのひらをこらえて、ナナオはそっと彼を助け起こした。
「よかった、怪我はしてないみたいだね」
彼はほっとしてつぶやいた。気をつけなければジョウイを殺してしまいかねなかった。自分の中に眠っているものは、それだけ激しく強く、いつも止まることのない渦を描いて回りつづけている。
「君が何を僕に云うのかと思ったら、一瞬我慢できなくなったんだ。ごめん」
息を乱したジョウイは、青褪めた顔をあげて、彼をにらみつけた。
「じゃあ何故謝るんだ、僕に。もっと責めればいいだろう、気が済むまで、云いたいだけ云って、殴りたいだけ殴ればいい」
「駄目だよ」
ナナオは苦笑した。ジョウイはまるで解っていないと思った。自分の中にどんなものがあるのか、自分の中に深くとどこおって澱んだ、憎しみのような、しかし憎しみほど熱くもなく、氷の塊のような、冷気を含んだ風のようなものが、どんなものなのか。その量がどれだけ膨大なものなのか。
「君を殺すまで殴ったって、僕の気持は済んだりしないよ、ジョウイ。そんな簡単なことなら、天山で会った時、僕は君と闘って気持を晴らしただろうね。弱った君の、必死の頼みを断ったり、一緒に旅に出て、ナナミと三人で暮らしたりしなかったと思うよ」
ジョウイの手を引いて、固い寝台に座らせる。その隣に彼は座り、ジョウイの目を覗き込んだ。
「君に僕が腹をたててると、そう思ってるの、ジョウイ」
ジョウイは何も応えなかった。
 ジョウイがどう感じているのか、彼には解らない。自分が何を考えているのか、友人がまるで知らないように。
離れていた間は、もっと彼はジョウイのことを知っていたように思う。紋章を指で押さえれば、割れた紋章の一方を身につけている友人が、どんな苦痛を感じているのか、血が沸き立っているさま、彼の中で燃える野心、理想で出来た氷のような鎖に縛られてもだえ苦しむさま、そんなものがつぶさに伝わってきた。
しかしこうして顔を合わせてみれば、違う器に入った魂がふたつそこにあるだけで、相手の気持など分かりはしなかった。それではあの、ジョウイを理解していたと思っていた自分の気持は、紋章のもたらした錯覚だったのだろうか。
「僕は君を恨んでなんかいないんだ」
そうささやくと、ジョウイはかすかに疑うように蒼い瞳を揺らめかせた。
「恨んでないなら、僕のことをどう思ってる? ナナオ」
ジョウイは問い返してくる。
ナナオは再び思案する。計算しているわけでもない。ただ彼には、これが真実だといってジョウイに差し出せるものが少ない。何をどう云えば、そこにあるそのままを形にすることになるのか、それに一番近いのか、解らないのだ。
「君は僕を裏切ったから、僕の全てになってしまった」
彼はジョウイを見つめ返した。
ジョウイの目は冬の空のような色だ。思わぬ氷の刃を隠した、剣呑で優美な、冬の晴れ空だ。
「いつ君が僕を裏切ったのか、知ってるだろう?」
ナナオはため息をついた。内圧が高まってきて、また、自分の中に怒りが訪れたことを知った。しかしその怒りは決して深部まで届くことのない、浅いものだ。
衝動にさえ従わなければ、怒りなど怖れることはない。
ナナミがいない晩にしか話せないことを話すために、自分は口を開いたのだ。怒りなどに無駄に費やすべきではなかった。
「ミューズでアナベルさんを刺したね。でも、あの日のことじゃないんだよ、ジョウイ」
彼はジョウイが膝の上に力なく下ろした手を、そっと握りしめた。
「君の中で、僕をはじきだして、事を動かそうという気持が芽生えた日、君は僕を裏切ったんだ」
ジョウイは黙り込んだまま、何度か静かに瞬きした。
「なぜ、僕を巻き込もうと思わなかったの、ジョウイ? 僕が君から逃げられないことは知ってたはずじゃないか。トトでこのふたつの紋章を受け取ってしまった時に、僕らはお互い無しに生きる生き方を捨てたんだろう。なのに、何故僕を弾き出した?」
言葉が溢れ出してくる。自分の腹のよどみの底から。
「僕らはひとじゃない、ただの紋章の器だ。どの国のために闘うことも許されないのに闘った。どの国のために闘っても同じだった。何をしようと、ただ僕らを欲しがるもののために仕える、それだけの結果になる。なのに、どうして君は闘って、僕は闘わないと思い込んだ?」
彼は言葉を捜した。もっと深く切り込んで行く言葉を。槍や剣よりも的確に、自分のこころを貫く言葉が欲しかったのだ。
「君が闘えば僕も闘うことになる。なのに君は僕をはじき出した。おかげで僕らは敵同士になってしまった」
 ジョウイは低くつぶやいた。
「僕は敵同士でいたかったわけじゃない」
「チャンスをくれたって云いたいのかい?」
「……」
ナナオは、自分が相変わらず怒りに支配されて揺れているのを自覚しながら、息をととのえた。
「グリンヒルで会った時のこと? 僕に手を退け、と云って忠告してくれたね、君は」
感情の調整がうまくゆかず、思わず微笑してしまった。
「あれが二度目だ。君は僕を切り捨てて、君の作る世界から切り落とそうとした」
「ナナオ……」
ジョウイは、先刻ナナオに打ち据えられた時よりも、更に青褪めて彼の顔を眺めた。
「そんな風に思ってたのか?」
「君には意志なんて、本当はなかった。僕らは僕らを求める者のためにそこにある、それだけのものだ」
ナナオは辛抱強く繰り返し、ジョウイの指を握り締めた力を強めた。そうして抑えていなければ、ジョウイを殺してしまいそうだったからだ。
(しかし、果たして彼は死ぬのだろうか?)
「僕は君の渇きを知ってる、ジョウイ。君は底を刳り貫かれた空の器だ。どんな愛情を注がれても、どんな国にいても、どんな愛を手に入れても、満ち足りるということがないんだ」
「やめてくれ」
ジョウイは、掠れた声で叫び、ナナオの指から自分の指を取り戻した。激しい勢いで立ち上り、部屋を出ていこうとした。ナナオは彼の後を追い、腕を掴んで引きとめた。
「離せ……!」
「僕は二度と君と離れるつもりはないよ、ジョウイ」
彼は、自分が興奮しているのか、冷え切っているのか解らないままささやいた。おそらくどちらでもなく、そのどちらでもないのだろう。
「僕たちが離れるとよくないことが起こる。僕たちは離れないほうがいい」
ジョウイの目が不意に燃えあがった。彼は追いつめられたように視線をさまよわせた。その目がベッドの傍らに置いてあったナイフに止まったのを、ナナオは見逃さなかった。彼は、ジョウイが動くより一瞬前にそれを手に取った。
そしてそれを、自分の腕の内側に押し当てた。冷たい刃の先端を突き立て、思い切り力を込めて引いた。
「ナナオ!」
ジョウイの咽から叫びが漏れた。
血が激しくしぶいた。どうやら一番太い血管を断ち切ったようだった。驚くほどの量の赤いものがほとばしり、彼の腹を、胸を、床を血に染めた。腕が大きく口を開け、それは、骨が見えるほどの傷になった。
ナナオはナイフを落し、自分の切れた左腕に口をつけた。濃厚な血の匂いが立ち昇ってくる。激しい痛みが疼くそこに触れると、自分の中で何かが揺り起こされたように、青白い力がたちのぼってくるのを感じる。
「知ってた? ジョウイ」
そう云って彼は、腕を差し伸べた。
茫然と彼を眺めていたジョウイは目を見開いた。
腕の血は、何か仕掛けがあるように突然止まり始めた。
深く刻まれた傷口から流れ出る血が止まると、断ち切られた桃色の肉と骨が覗いた。
しかし、この状態もあと少しだ。ほんの数分も待てば、あっさりと傷はふさがってしまう。全ては一瞬のことだ。
「……何故……」
ジョウイはすすり泣くように息を震わせ、ナナオの腕を取った。彼の指の間に、ぐっしょりとナナオの袖口を濡らした血が染み出して盛り上った。
「僕はもう死ぬこともなくなったらしい」
ナナオは低く呟いた。
「いずれ君もこうなるかもしれない。あの、レックナートもそうなのかもしれない。試してみたわけじゃないから解らないけど」
ジョウイに伝えたいのだ。
「僕は変って行ってる。身体も、気持ちも。どっちが先なのかは解らないけど、前の僕じゃなくなってる」
彼は優しくジョウイの手を振り解き、血に濡れた手を、何度目かに金色の髪に添え、伸び上がってくちづけた。
「真の紋章ってそういうものなのかもしれないね。もしそうでないとすれば、不完全なかたちで芯の紋章を継承した『副作用』とでもいうものかもしれないけど」
彼はジョウイを抱きしめた。殺意なのか、傷付けてやりたいのか、それとも何の感情もないのか。黒雲のようにうごめき、ゆがみながら、きらきらする水流のように過ぎ去ってゆく感情を、ゆっくりと味わいながら彼の髪を撫でた。
「僕の話を聞いてくれるだろう? ジョウイ」
ジョウイの瞳から不意に涙がひとつぶ零れ落ちた。美しい涙だった。彼はそれを指先で拭おうとして、自分の手が血で汚れているのに気づいて、触れずにいた。
そして、その薄あおいきらめきがジョウイの頬を滑り落ちてゆくのに任せた。


「……ジョウイ……?」
沈黙が長く続いたことに気づいて、ナナオは小さく呼びかけた。馴れない交接に疲れきって、ジョウイは横たわったまま、シーツに埋もれるようにしてナナオの話を聞いていたのだ。顔を覗き込むと、ジョウイの睫毛は閉ざされ、彼が眠りのかいなに身をまかせたのが判った。
ナナオはジョウイを起こさないよう、そっと、彼の肩の上に上掛けをひきあげた。
そっと床に滑り降りて、明け方の空を見た。
自分が、ついさっきまでジョウイを抱きしめていた感覚さえ、薄れかけていることに気づいて、彼はため息をついた。ナナミが帰って来るまでの何日間か、また彼と肌を合わせることもあるだろう。しかしそうしても、自分がそれを感覚的に覚えていられるかどうか、ナナオには確信がなかった。
彼は自分が焦っていたことを認めた。
伝えたいという思いにかられていた。
自分が、一瞬一瞬に感じたもの、見たもの、知識や目にした情景も、全てが、忘却することなく、こころの中に積み重なって行くことに気づいたのは、紋章を継承して、ジョウイと離れてすぐだった。発狂するよりも残酷なことが、自分の中で起こっていることをナナオは知った。
自分が忘却という休息を奪われたことを知った時は、とても信じられなかった。やはり狂ったのかもしれないとも思った。
忘れない。
憎しみも、怒りも、歓びも、正義感も。いや、感情だけでなく、客観的な記憶もそうだった。一色ずつ、同じ濃さの違う色を塗りたくった、混沌とした画布のように。全てが忘れることも薄れることもなく、そこに生き続けている。
新しいものも古いものも、全てが優先されることなく、同列に並ぶことになった。彼はふと、ジョウイが自分から離れていったのが、数年前なのか、昨日なのか、明日のことなのか解らなくなることさえあったのだ。
優先順位がなく、全てが同列に並んだ時、感情も、経験も記憶も、ナナオにとっては、そこにただ在る、それだけのものに変り始めた。時間や、個体としてのかたちを、こころが真っ先に飛び越え始めたのだ。
いつか自分は、世界になってしまうかもしれない。
ナナオは身震いした。
それはおそろしい考えだった。自分が「個」であることに執着しているなどと、考えてみたことはなかった。精神の裏側にもうひとつの目が開き、別の視界を得たように、彼のこころは、今まで思わなかったようなことを思い、今まで知らなかったことを知るようになった。
始まりの紋章を今までに継承した人間の記憶を、一部分継承してしまったのではないか、と、ナナオは思っていた。
今まで見聞きしたことのない言葉を理解できたり、間違いなく知らなかったことを知っていたり、そういった一種気味の悪い変化も起こり始めていた。
精神が奇妙に平板になり、そのくせ、刃物のようにきらめく悪意や怒りも、消えないままそこにあった。
今はまだ、自分はまだ「ナナオ」だ。
ジョウイや、ナナミや、死んだゲンカクや、さまざまなひとを、友人として、家族として愛し、裏切りに苦しみ、哀しんだ記憶を残している。
それは今現在の漠然とした混沌をしのぎ、いまだに彼の胸の中でほのかに光り耀いている。
それをジョウイに伝えたかった。
紋章を共有しながら離れ、二つの軍の剣と盾をへだてて、青空の下で向かい合った日々、自分が赤い旗の下で握り締めた、冷たい憎悪の汗の話を。
ルカ・ブライトを殺した夜。燃えるように耀く星宿と、煙が立ち昇るように、闇夜に放たれた螢の小さな灯り。黒い星に似て木立に枯れ残る、晩秋の木の実の影の美しかった事。抱き留めたアナベルの身体が冷えて、命が逃げていくのを右手で受け止めた、泣き出したいほどの喪失感。ミューズの市民たちが金色の獣に食い荒らされ、あの美しく権勢を誇った町並みが血に染まった光景も、彼はまざまざと覚えている。
ジョウイに伝えたい。
ブライト王家の白を身につけて立った、人形のように美しいジョウイの姿を見た時の、あの黒雲のような憎しみを、ミューズからの流民たちを追いつめる王国軍の部隊の中に、見慣れたひとの気配を見出した時、ナナオの身体中を裂き、心臓をえぐり出すかと思われたあの殺意を。
天山で自分を殺させようとしたジョウイ。彼はいつも自分を利用してきた。ナナオの愛情をすすり、欲しいだけ奪い、ボロきれのように捨て去って、戦いでは自分をひとふりの剣のように扱った。
ルカ・ブライトを殺させ、あげくの果てに、自分自身の人生の終焉まで見届けさせようとしたのだ。
しかし、だからどうだというのだろう。
すでに、ナナオの中で、ジョウイへのそれが、憎しみであるのか、愛情に近いものなのか、分からなくなり初めているのだ。全て、それが生まれた時そのままの姿で、鮮明に彼の中に残っていながら、元の意味は決してとどめていない。
伝えたい、という気持ですら、いつ、他の感情と並列してしまうか解らないのだ。
その前に彼に話をしよう。
そして、それはナナミのいない場所でなければならなかった。
ナナミはいわば、ナナオのこころを外に繋げるための回路にも似た存在だった。彼のこころの圧力を外へ逃がしてしまう。だから彼は、ナナミがそばにいる時は、そこにある自分たちのことしか考えなかった。最近の彼は、思考するまいと努力すれば、思考せずに、ただ暮らすことさえも出来るようになった。
だから彼はナナミがキャロに出かけると聞いて、気持を決めたのだ。
静かな寝息をたてて眠りこんだジョウイの姿を見下ろしながら、不意にナナオは、自分がいつかナナミの前から姿を消さなければならない日が来るだろう、と、思った。
自分たちだけが年をとらない。
あるいはナナオだけが。
ナナミの側から離れ、ジョウイとも離れて。
その時、自分は何になるのだろう?


ジョウイは、ふと目を覚まして顔をあげた。自分がまだ、ナナオの寝床で眠っていることに気づいた。開け放たれた窓から、高く上った日差しがいっぱいに差し込んで、部屋の中は明るかった。戸外に咲く大輪の黄色い花が揺れるのが、窓から遠く見渡すことが出来た。
ナナオはいなかった。
起き上がると、身体の芯に、火照りと、疼くような痛みがあった。ジョウイはその感触に、ナナオと身体を合わせたことを思い出した。ほんのかすかな羞恥がきざす。
昨夜ナナオに抱かれて、ジョウイは驚くほど感じて、何度も極まった。まるで乱れる様子のないナナオの、ほっそりと冷たい身体の下で、まるでやわらかな鎖に縛られているようだった。それなのに、不自然なほど彼の肌に、髪の香に、自分が反応するのが分かる。ナナオの伏せた真っ黒な睫毛や、薄い唇を間近に見て、彼の欲望を感じると、自分の体が勝手に溶けていってしまうのだ。
ナナオは優しかった。ジョウイが快楽に火照ると、彼もわずかに顔を上気させて、長い睫毛を閉ざして頬に口づけた。唇が触れ合う弾力も優しかった。まるで冷たい果物に触れたような感触だった。
ナナオは幾つもの話をした。
それは決してジョウイにとって、聞いて快い話ばかりではなかったと思う。自分の中でさえ、禁忌として鍵をかけておきたいような話もあった。しかし、それに耐えられたのは、ナナオの声のせいだった。
ナナオは思い出したように時々言葉をつむいだ。
それは、ナナオがジョウイの中にいる瞬間であることもあったし、ジョウイが高まって、どうしようもなく身を捩りながら、熱い息を吐いて達した瞬間だったこともあった。
身体をぴったりと密着させて、言葉を捜しながら、ナナオが自分を抱きしめている。そして、言葉が見付かった瞬間にだけ、そっとこころの奥に直接ささやきかけるように、唇を近づけて、ナナオは話しかけてきた。もの優しく、冷たくやわらかに。
最初は、ナナオが優しいのは、逆に自分を苦しめようとする計算かと疑った。その口調の優しさで、なおさらにそのなかに隠れた、内容の陰惨さを際立たせようというつもりなのかと思ったのだ。
しかし、ナナオは終始優しかった。時々かっとなったような表情をしては、しかしすぐに夢から覚めたように微笑み、そっと彼の頬に頬を寄せた。
そうして沢山の話を聞いた。
何を話している時も、ナナオは低くささやくように語り、ジョウイは、自分が責められているのを忘れそうになるほどだった。
ナナオに与えられる愛撫と相俟って、それは彼のこころを責め苦のように甘くしめつけた。何度も耐え切れず、逃げ出したくなったほどだった。しかしナナオの優しさは、石のこころを覆った白い羽根のように堅固で、決して彼を逃がさずにつつみこんできた。
ジョウイは、何度目かにナナオに抱かれたあと、ナナオが低く話し掛けてくる言葉を、子守り歌のように心地よく聞きながら、眠り込んでしまったのだった。
しかし、こうしてみれば、ナナオの言葉は、荒々しくなじられるよりも、やわらかな糸を貫き通したように、しっかりと彼の中に根を張って残っているように思えた。
彼は目を閉じた。
ナナオ。
もう日は高く上り、まぶたを赤い、明るい闇が焼いた。そのまぶしさを癒すように、涙がにじんできた。
優しく愛撫するように自分の闇について語るナナオを、昨夜、初めてジョウイは恐ろしいと思った。
彼の孤独を思うと胸が詰まった。
(「まだまだ話したいことがあるんだ、ジョウイ」)
眠る間際、自分の髪を撫でながらそう云ったナナオの言葉が思い出された。
ジョウイは痛みを振り払って目を開けた。
彼はどこに行ったのだろう。
外に探しに行こうか、とそう思って、ふと自分の髪が染め粉を落として、元の色に戻っている事を思い出した。村人に見られるのは好ましいことではない。
そっと身体を起こして立ち上る。
窓の外を眺めた。
遠くまではるかに見渡せるように青く高く晴れた真昼の空気の中に、しかし、水の匂いがすることに彼は気づいた。
雨が降るのだろうか。
彼は暫く黙って外を眺めていたが、金色の髪を風に吹きなびかせたまま、外に出ていった。
目の前を、明け方にはあとかたもなく治っていたナナオの腕の傷口、切ったばかりで見る見るうちに塞がっていった、桃色の切り口がちらつく。敵将同士として戦場で顔を合わせた時の、ナナオの静かな目が思い出されてならなかった。同じように紋章を継承しながら、ナナオだけになぜそんなことが起こったのだろう。
自分には、紋章の性質をすっかり受け継ぐ資格はなかったのだろうか。
ここまで来ても、自分の孤独の渇き、ナナオへの嫉妬、確定的な勝利に飢える気持はまるで変っていなかった。これをひそかに恥じ、ひそかに誇りに思っていた彼だが、今日のように胸の痛む思いで自分のこころを探りなおすのも初めてのことだった。
ナナオはどこに行ったのだろう。
彼は村とは逆方向の草原へ足を向けた。
(「ナナオが、空ばっかり見てるの」)
ナナミの声を思い出して、ジョウイは自分も上空を見上げた。
雲が流れている。
ジョウイは甘く疼く左胸を思わず押さえる。胸が疼く。苦しく甘く、苦痛と快楽の中間地点で揺れている。
初めてナナオのこころを打ち明けられた。彼のかつての憎しみが、いくらそそがれても乾く、ジョウイの胸の亀裂に染み入ってくる。
そして、憎しみのような、不足感のような。快楽なのか不快感なのかの区別もつかないような混沌が、彼の中にある。
ナナオ、君もこんなふうなのか。
ジョウイは、自分の髪が風になびき、光を受けてまばゆく光るさまを見た。そして、夜のようにひそやかに黒く静まり返った、ナナオの瞳を思い出した。
それとも、もっと苦しいのか、ナナオ?
息がつまりそうだ。大声で叫びたいような気分になった。
太陽は輝かしく雲を照らし、自分の孤独など取るに足らないもののようにさえ思える。
「ナナオ……!」
彼は呼んだ。
幾度か繰返し、無為に叫ぶ代わり、声を限りにナナオの名を呼んだ。
「ここだよ、ジョウイ……」
ナナオの声がかすかに風にまじった。
丘をあがってくるナナオの姿が見え、彼は微笑しながら、ジョウイに向かって手を振ってみせた。ジョウイはほっと息を吐き出した。
以前はどうだったのか、もう思い出せないほど見慣れた瞳がそこにあった。


それは胸の中に隠した全ての激情を飲み込んでいる。
 ただ静かに眠る夜のような、友人の黒い瞳だった。

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