火と毒草→満天星の続き。確か。
「セイラン?」
呼びかけたが返事はない。オスカーは、セイランの私室の入り口で足を止めた。学芸館の管理人が、今日は確かにセイランは部屋にいると云っていたのだ。灯りも燈さず、暗いまま静まり返った部屋の入り口で、長身の男は耳を澄まして立った。いかな彼でも、主のいない部屋に入り込むほどは図々しくなれない。開け放たれた窓から入る風が止んだ時、部屋の中にもう一人分、息遣いが聞こえることに気づいた。
(いるじゃないか)
彼は肩を竦めた。セイランの部屋で初めて一晩過ごしてからというもの、彼に顔を合わせる機会が少ないのは、やはり避けられていると思うべきなのだろうか。セイランは後悔しているのだろうか? その後悔をくつがえす自信はあったものの、オスカーはいささか不満に思った。
セイランを手に入れたのは、口説き始めて何日にもならない、三日前の日の曜日のことだった。
その日は意外にも、大の気に入りの女王候補、アンジェリークとの約束をキャンセルしてまで、セイランは、オスカーと過ごすことを選んだ。
男である彼を口説けば、さぞやしたたかに拒まれるだろうと、半ばそれも楽しみにしていたのが、拍子抜けしたほどだった。
気難しい感性の教官は、照れ隠しに毒舌をふるうことこそ忘れなかったものの、彼にしては破格にあっさりと、オスカーの腕の中に身をゆだねたのだ。
馴れているのか、と、一瞬身勝手な嫉妬をしたが、抱きしめた身体は馴れているどころではなかった。オスカーは遊びなら、同じように馴れた女が好きで、乙女を好む性向はなかったのだが、セイランが馴れない痛みと快楽に細い体をもがかせる様子は、実のところ彼に新鮮な興奮を抱かせた。相手が不慣れであることに征服欲を充たされた気になるのは、相手が男だからだろう、と、かすかに後ろ暗い気持にさえなったものだった。
しかしそれから三日、手に入れた途端に彼を忘れたなどと思われまいと、足繁く学芸館に通ったが、セイランは彼の前に姿を見せなかった。たかだか三日かもしれないが、しかしこの三日はオスカーにとっては意味が違う。
腕に抱いたその相手に、自分がどれだけ真剣か、一度寝たからといって、それだけが目的にすり替わるのではないという、彼なりの誠意を込めて、スキンシップ抜きの奉仕に費やすべき、こだわりの三日間だった。時には相手を焦らす効果をあげることもあり、オスカーは必ずその三、四日間は自分からは求めないと決めていた。永い恋をあたためる意味では不実かもしれないが、その時その時には、彼なりに実を尽くしているつもりだった。
シーツの上で、服の中から暴き出したセイランは素晴らしかった。関節に、葉脈のようにかすかな血管を透かす真っ白な皮膚、そのくせ柔弱というほどでもない、薄くかたちのよい筋を浮かべた手足。どんなに表情をゆがめても崩れない、完璧なかたちに調った美しい顎のラインと目鼻立ち。
彼の身体の中が不思議に冷たいのも気に入った。皮膚もひやりとするほど冷たいが、苦しげにきつくうねる瞬間も体内はあたたまらず、喉元やなめらかな髪の生え際に、かすかな氷の粒のような汗を浮かべて、セイランは身をふるわせた。オスカーの方では、セイランの身体の冷たさに繰り返し気がそれて、焦らされるような不思議な快感を味わった。そして結局は、不慣れなセイランを長い時間苦しめることになった。
彼の青みのかかった黒い睫毛を湿らせた涙にくちづけると、涙も冷たかった。力を抜いてシーツにうなじを預けた彼は、氷雨の中で崩れた蒼い花のように見えた。
(「僕の星の人間はみんなこうだよ。……」)
息を乱しながらささやく声のなめらかさもよかった。
自分に甘く冷たくまつわる彼の身体の内側の感触が甦ってきて、オスカーはぞくりと背中をふるわせた。寝床の中でからだの熱くならない女を抱いたことはない。脂肪でくるまれた女の皮膚は、汗と外気にさらされてすぐに冷えてしまうが、体内は火のように融ける。
セイランのような身体を抱きしめたことがないせいで、その新鮮味の分だけオスカーには余裕がないのかもしれない。
恋の絡んだことでがつがつするのは嫌いだった。彼は、この炎のサクリアが衰えるまで、気の遠くなるような時間を与えられてしまったのだ。
恋くらいは、せめてひとつひとつを楽しんで引き伸ばさなければ、とてもその時間をやり過ごすことは出来なかった。
「セイラン」
灯りはつけないままで、息遣いの聞こえた彼の机の裏側に回り込む。
その机はセイランが、それでないと仕事が出来ないのだと自分のものを持ち込んだもので、淡い桜色の螺鈿の細工が施された、この類のものとしては珍しい、深い青のどっしりとした机だった。独特のなめらかな塗装を丁寧にほどこされた、その青い大きな机は、そこに肘をついて生真面目に思索に耽る、若い芸術家のほっそりした姿を引き立てた。そして今は、子供のように膝を抱えて座る彼の姿を隠す、分厚いパーテーション代わりになっている。
「どうしたんだ、こんなところで」
彼を見付け出した自分への拒否の言葉を覚悟したオスカーは、そっと顔を上げたセイランの暗い菫色の瞳が、頼りなく揺れているのに気づいて戸惑った。
「どうした?」
声を落し、膝をついて顔を覗きこむ。彼のてのひらのなかにすっぽりおさまってしまう華奢な顎を指先ですくいあげる。
「泣いてるのか?」
「泣けないかな、って試してたところだよ……」
セイランはかすれた声で応えた。その無防備な様子に、どうやら自分は彼の葛藤とは無関係らしいと気づいたオスカーは、内心苦笑した。彼の中で、自分はさほど大きな影響力をふるってはいなかったらしい。
「何かあったらしいな」
そう云って彼は、長い足を折り曲げて、セイランの座り込んだ床の隣に腰を下ろした。オスカーが床に座る姿など見たことがないのだろう。セイランは一瞬目を丸くして、次にはオスカーの気に入りの皮肉な微笑みをひらめかせた。
「ご自慢の軍服が汚れますよ」
「顔を間近に見ずに話をするよりマシだろう?」
オスカーは、セイランが彼と初めて会ったころに言った言葉を逆手に取って、皮肉で切り返した。
それは、友人としてもセイランと親しくなる前のことだ。セイランの毒舌にたまりかねて、
(「おれのどこがそんなに気に食わないんだ?」)
そう尋ねると、セイランは精一杯に皮肉な柔らかい声で答えたものだ。
(「そんなばか高い位置から顎を引いて人を見下ろすところも、意味もなく軍服を着込んでるところも気に入りませんね。相乗効果でとても高圧的な仕上がりですよ。褒めて差し上げてもいいくらいね。そんなご立派な軍人の方とは、まじめに話をする気になれないんだ、おあいにくさま」)
そう云って去ってゆく後ろ姿を茫然と眺めた。この春のことだ。あまりの刺々しさにむしろ、俄然興味が沸いてきたと云っていい。しかも腹をたてた彼はとても美しかった。
セイランが戦災孤児で軍人を極端に嫌うのだと知ったのは、もっと後のことだった。アンジェリークにその話を聞かされた。
それからオスカーは、彼を尋ねる時は、公務の帰りでなければ礼服を改めて、簡素な私服を着けていくようになった。セイランを怒らせるのは楽しかったが、軍服のせいで忌避感を持たれたくなかったからだ。
「あなたも案外根に持つんですね」
セイランは眉をひそめたが、笑い出した。抱えるようにして胸にひきつけていた足を伸ばして、前に投げ出すように組み替える。
そして、傍らに投げ出してあった、古風な黒い封蝋で閉じられた白い封筒をオスカーに指し示した。
「訃報だよ」
「……誰の?」
オスカーは片膝を立てて、机と大窓に挟まれた狭いスペースで、大きな身体をもてあます思いで座り直した。その様子を見て、セイランがクスッと声をたてて笑った。
「自分から檻の中に入って座ってる狼っていうところかな?」
「うまそうな餌があれば、檻の中だって入るさ」
「……あいにく今日はそんな気分じゃないんだけど?」
セイランの探るような声に、オスカーは笑った。セイランの鑿や絵筆を握って荒れた指を持ちあげて、軽く唇を押し当てる。
「こうして一緒にいるだけのことが旨みだってこともあるんだぜ?」
「殊勝なことを云うじゃないか」
セイランは、オスカーの厚いてのひらを冷たい手ですくいあげ、たった今オスカーがしたのと同じようにして、唇を押し当てた。そのまま長い睫毛を伏せ、暫く黙った。
ほんのかすかな湿り気をおびたセイランの唇は、やはりひやりと冷たい。その唇の中に指を差しいれたら、おそらく冷たい感触に出会うのだろう。オスカーは彼の舌と自分のそれを絡ませた感触を思い起こした。冷たいが、死人のそれでは決してない、やわらかなぬめりを備えたその器官のなまなましさを。
「その人は僕を五年間育ててくれた人なんだ。……十三歳になるまで、僕の養父だった」
それが訃報、の相手にかかっているのだと気づいてオスカーは耳をそばだてた。
「結局家は出てしまったけどね」
「お前から出たのか?」
「……ええ」
セイランはオスカーの指を離し、自分の手も、身体の両脇に力なく下ろした。目がうつろな色を帯びた。
「あまり話したくないんだけど。……」
そうつぶやいた彼に、オスカーは再び、思わず笑いを漏らした。話し始めて話したくない、という彼の口ぶりがいつも通りで可笑しかったのだ。
「でもこれを話さないと話し始めた意味がないからね。……」
セイランは素っ気無い声でつぶやいた。
「云っておくけど、告白欲に駆られてのことだとは思わないで欲しいね。こんなことはいつでも人に話せるし、話さなくてもいられることなんだ。だけど聞いたひとが気持のよくなる話じゃないから、あんまりひとに云わないだけのこと。それを承知しておいてくれますか?」
「わかったわかった」
オスカーは閉口して、セイランの髪をてのひらで軽くかき回した。しかしその多弁は、セイランの気持が盛り返している証拠とも云える。
「要するに、お前が感傷的になってると思わなきゃいいんだろ?」
耳元にささやいてやると、セイランはきっとなって、金の針のような視線でオスカーをにらみつけたが、やがて眉根をほどいて苦笑した。
「まぁ、貴方のそういう無神経なところ、僕は嫌いじゃないよ。神経が細すぎるよりずっといい」
そう云って、意外なことに彼はオスカーに軽く身をもたせかけてきた。やわらかな髪がオスカーの腕にもつれかかってくる。甘酸っぱい香水の香が鼻孔をくすぐる。シャナツメといったか、セイランの気に入りの香水だった。
「養父は無名の画家でね。たぶん才能はあったと思うけど、彼は神経が繊細すぎて、自分の感性を売り暮らすには向かないひとだった」
セイランはそれでも沈んだ声でつぶやいた。
「僕が絵を描くことを知った時、養父はたいそう喜んでくれたから、僕も嬉しかった。だから熱心に描いたよ。ことに子供のことだから、同業の人間への遠慮から力をセーブするなんて真似は……。そんなことするものじゃないと思ってたし、する必要も感じなかったし。でも、分かりやすい云い方をすれば、幾らもたたないうちに、八歳の子供の描いた絵が、養父の描いた絵よりも、高価で取り引きされるようになった、ってことだね。それが養父にとってどんな意味を持つのか、あの頃の僕には分からなかった」
オスカーは黙って彼の話を聞いた。
絵を描く、詩を作る、彫刻を施す。それは、幼い頃から軍人の家系に生まれ育ち、少年期に聖地に召されて守護聖となったオスカーには、見知らぬ国の話だった。聖地に長い間共に暮らす守護聖の中にもいる。楽器を奏でる才をあらわした者、絵を描く者。セイランを含めて、彼等はすべからく別の太陽、別の天地を抱く者共だった。オスカーは遠い水平線の元に、彼の馴染まない国の言葉で喋る者たちを、異国に旅するような思いで見つめるのだった。
「いつ彼が壊れてしまったのかははっきりと分からないけど。……側にいられないと思ったのは、彼にとって僕が息子ではなくなって、男でさえなくなっているのが分かった時だった」
セイランはつぶやいた。
「彼は、僕への嫉妬と恋愛感情で、完全におかしくなってしまったんだ。仮にあれを恋と呼べるとして、ということだけどね。僕は、だから逃げ出したんだ。朝に家を出て首都に出た。僕を彼に紹介した政府の機関に救いを求めたんだ」
その声の調子から、セイランが自分を責めているのが伺えた。他人のことで自分を責めるセイラン、という構図を初めて垣間見たオスカーは、感嘆に似た思いで、薄闇の窓際で自分にもたれかかった美貌の青年を見つめた。
それ自体芸術品のような睫毛の下で、セイランが何を観ているのかは、彼を頭上から見下ろすオスカーの位置からは見えなかった。彼は仕方なく、セイランの肩を抱き寄せた手を伸ばして、彼の髪を無言で撫でつけた。セイランが少し笑うのが分かった。
「でもね。訃報を貰う前から、僕は彼の死を知っていたんだ」
セイランは少し身を引いて、窓際をかえりみた。
「……どうやって?」
「ほら」
セイランは、窓際に置かれたものを指差した。
それは大きな平皿のようなかたちをした銀盤だった。中には粘り気のある、よく光る透明な液体がたたえられている。その透き通った液体を通して、銀盤の底に、何か複雑な文様が刻まれているのが透かし見えた。
オスカーが彼の部屋で初めて見るものだった。
「これは、僕の星の人間なら、何人かに一人は必ず持っているありふれたもので、星占をするための銀盤です。ここに星を映して、自分の見たいものを観る。もしくは観たようなつもりになる。……僕もこれは聖地にまで持って来たところをみると、案外この星見を信じてるのかもしれないね。一年に一度は必ずこの銀盤を覗いて、彼のことを考えたものです」
オスカーは、今度は明確な嫉妬(それがかすかなものであったにせよ)と共に、その銀盤の中を覗き込んだ。
銀盤の中にたたえられた液体がどういったものなのか、その水面に映った星や月は、自分自身の目で観るよりもはるかにあざやかに、目の中に飛び込んでくることに気づく。星雲さえ肉眼でとらえることが出来そうだった。
確かに神秘的だ。そして、女王に召されて守護聖になった彼は、そういった類の神秘を否定するつもりはない。自分も、相手があるならば祈ってもいい。ただし、彼が無事を祈りたい相手は、もうこの地上にはいない。遥か昔に皆、神の隊列に召されて去っていってしまった。
彼は、銀盤の中に展開した鮮やかな夜空に吸い込まれそうな思いでつぶやいた。
「これは、どういった成分なんだ?」
「実は、僕たちにもよくはわかっていないんです。特別な成分は入ってない。母星の沼で取れる水に防腐加工しただけのものなんだけどね、どうやら、この銀盤の文様と相俟って、視力を補正する力があるらしいね。……どう? 星占くらいは出来そうな気分になるでしょう?」
セイランは微笑した。
「それで、この銀盤でお前は、死を予知したとでも?」
自分の声に皮肉が交じるのをオスカーは抑えられなかった。
「何日か前にこれを覗いた時、星が落ちたからね。もしかしたらとは思ってたよ」
「そんなに始終気にかけてたのか?」
「……」
セイランは、何とも言えない顔でオスカーを一瞥した。ため息をつく。
「別に貴方をうれしがらせたいわけでもなし、こんな話を始めなきゃよかったな。やっぱり。何だかばかばかしくなってきたよ」
「……?」
セイランは、オスカーからも、星占盤からも離れて立ち上がり、窓際に立った。青い夜闇につつまれて、彼の青みの強い黒髪や、まつげや、青褪めて見えるほど白い皮膚が、全て青みをおびて淡く耀いている。
しかし、一種精霊のようなその姿に似つかわしくない、皮肉な言葉が調った唇から漏れる。
「男となんて冗談じゃないと思ってたけど、そう悪くもなかったからね」
「……」
「相手次第で男と寝るのも悪くないと、あなたのおかげで分かったって云いたいんだよ?」
セイランは不機嫌に唇を結んだ。
それでうれしがらせるつもりはないと云ったのか。オスカーは笑った。それはセイランに対してではなく、その言葉に、驚くほど胸を浮き立たせる自分に気づいてのことだった。
「……なのに、もう養父の顔も思い出せないなんて気が咎めるじゃないか? 少なくとも僕をあんなに愛したひとは後にも先にも彼ひとりだろうから。……云っておくけど、オスカー様、それが俺だ、なんて云い出さなくってもいいんだよ、僕相手に」
「それは俺の本心とは別に、その言葉を聞きたくないってことじゃないのか、セイラン?」
オスカーは立ち上がり、彼の冷たい体をそっと胸に抱いた。
「それで落ち込んでたのか? 顔が思い出せないって?」
彼の胸の中でセイランがため息をつくのが聞こえる。
「そんなところかな。……僕はね、あの頃彼が出かけると、こんな風にして彼を待ってたんだ。椅子の後ろに潜り込んで膝を抱えてね。帰ってきて欲しいような、欲しくないような気分で、その状態に自分が我慢できなくなるまで、毎日のようにね?」
オスカーは、セイランの頬に軽く唇を押し当てた。
「そうして、逃出した後には銀盤を覗いて星に重ねて見てるって訳か。正直妬けるな」
冗談に紛らわせたつもりだったが、セイランは意外なほど気を悪くしたようで、苛々したようにオスカーの胸を押し戻した。
「貴方、バカじゃないのか?」
「……」
「聖地での仕事はいつか終るんだよ? 母星に帰ったあとに、僕が誰のことを思い出して銀盤を覗くと思うんですか?」
彼は語気荒く、ぶっきらぼうに言い放った。
オスカーはあっけにとられてセイランの顔を見守った。
「そんなこと、考えてたのか?」
「貴方は考えなかったらしいね」
セイランの声が毒を含んだ。しかし、すぐに彼の声はその毒を含んだままとろりと柔らかくなった。オスカーの頬にてのひらを添える。
「綺麗な人。……」
そう囁いて、長身のオスカーのうなじを引き寄せてそっとくちづける。
「貴方の顔なら思い出すのに苦労はなさそうだね」
更に深く引き寄せたオスカーのまぶたに、頬に、髪にくちづけを降らせる。
「……睫毛も髪も焔みたいだ」
愛撫するように髪に指をくぐらせた。上気した唇でつぶやきながら、しかしセイランのその唇は上気してさえ冷たかった。
「今日はそんな気分じゃないって云ってなかったか?」
オスカーは、セイランにまかせながらささやいた。彼は、セイランが聖地を去る日については全く考えていなかった。聖地と下界との隔たりについては、彼はあまりにも多くの別れを体験して、麻痺してしまったのかもしれない。彼はいずれ去って行くのだろうか。それは現実味を帯びてはいなかった。
しかも去って行く立場の人間から、このことをこれほど攻撃的につきつけられたのも初めてのことだった。だから彼には、何も言うべき言葉が思いつかない。ごまかすような気分のささやきに、もう気持を切り替えたらしいセイランは、笑いながらささやき返してくる。
「さっきまでその気じゃなかったからって、今でもそうとは限らないって、そんなの貴方が一番よく知ってるでしょう?」
「お前にそれがあてはまるとは驚きだな、セイラン」
あきれて軽口で返すと、絡み付いてきた細い体を抱き寄せる。耳元に跡が残るほど強く口づけると、セイランは浅いため息を漏らした。
「さっきの話、……誰にだって話して聞かせられるってのは本当か?」
くちづけの合間に戯れかかるように尋ねる。セイランは、胸元を探る指に身をすくませて息をつめた。ふうっとそれを吐き出すと、目を閉じたままオスカーの胸に額をつけた。その問いかけには答えなかった。彼の全ての想いを具現する、荒れた優しい指で、檻の中に迷い込んだ狼のうなじを抱きしめる。
「もし、云って欲しいなら、あなただけだって云ってあげるよ」
「云って欲しいな、俺だけだって」
ささやいたオスカーは、ふと思い立って、自分のうなじを抱いてつま先立ったセイランの背中に腕を巻きつけ、膝の裏に腕を差し入れて、彼の細い体を横抱きに抱き上げた。男なりの重みはあっても、やはり彼の身体は軽かった。
幸福に浮き足立った男が花嫁を抱くようなその恰好に、セイランは一瞬抗議するように目を見開き、自分の背中に巻き付いた長い腕を押し戻そうとしたが、途中で笑い出して、オスカーの肩に顔を伏せてしまった。
「本当に仕方ない人だな」
オスカーに抱えられたまま、背中をふるわせて笑っている。うなじに腕を深くまきつけて、冷たい頬を押しつける。
「あなただけだよ、こんな話をしたのは。ツーリーに養父の行状を報告したことを除けばね」
「ツーリー?」
ベッドにセイランを抱き下ろしたオスカーは、彼の上にかがみ、髪を梳き上げて顔を覗き込んだ。
「その、政府の機関の名前です。慈愛の果実、というような意味でね。戦後に出来た組織ですよ。僕らの母星は荒れて、あまりに多くの問題をはらんでいた。みんな気持がひどく荒れて、自分の主義を通すのに、強硬なやり方をすることにすっかり馴れてしまった……だからこそ、復興のためには、技術より、力より、精神性が求められたんです。慈愛はきっとあの時期、あの星に最も必要なものだったんだと思います」
ベッドに仰向けになったセイランは、思い出を辿っているのか、話しながらゆっくりと数度瞬いた。
セイランは再び視線で鑿をふるい、記憶の石の上にオスカーの姿を刻んで置こうとするように、両手を差し伸べてオスカーの両頬を包み込んだ。満足そうに笑い、少し身体を起こして、浅く唇を押し付けた。
「すみません。やめよう、こんな話」
「……」
オスカーは彼の誘いに答えて唇を深く合わせ、先刻想起した冷たく柔らかい舌に、自分の火のようなそれを絡ませた。咽喉の奥でセイランは甘い声を漏らした。オスカーの背中をてのひらがゆっくりと撫でている。もう彼は高まってきたようだ。
耳元にくちづけて、ゆっくりと舌でなぞる。唇を解かれたセイランは眉をひそめて浅い息を吐き出した。そこは、三日前の夜がオスカーに教えた、セイランの快感の小さな吹きだまりだ。
セイランが、もう自分達の関係を終るものとして、割り切ろうとしている様子が伝わってくる。それはオスカーにとっても、望ましい形なのかもしれなかった。彼がひどく動揺するようなことがあれば、女王の美しい教官と火遊びを楽しむどころの話ではなくなるだろう。
だが、それに何とも云えない漠々としたむなしさを覚える自分にオスカーは気づく。何故だろう。自分はそんな男だっただろうか? セイランはやがて去って行くことは知っていた。そして無意識にも、それだからこそ解放感と共に恋やくちづけを楽しむほうが、セイランに云われるまでもなく、自分らしいのではないだろうか。
薄い肩、胸、あれだけ精力的に創作活動にうちこむための道具とは思えない、ほっそりと長い腕が、服の中から現われる。頼りなく外気にさらされた彼の皮膚を暖めてやりながら、ふと、胸の中で確実に鳴り続けている心臓の音が、皮膚を通してオスカーに伝わってくる。胸を合わせると、時間のずれた時計のように、ふたつの鼓動が異なったリズムを刻むのを感じる。
ふと狂暴な衝動に駆られて、彼は身を起こし、セイランの左胸の上に歯をたてた。不意打ちをくらったようにセイランは身を竦ませ、そして甘くほどけた。せつない溜息が漏れる。それはオスカーの鳩尾や背筋を甘くとろかし、一瞬セイランがおびえるように身を引くほどの熱を、腿の奥に駆け上らせた。
セイランの青い机の上に、銀盤がぼうっと白く耀いているのが見える。透明な液体をたたえた星見の盤は静かに空を映している。その中で死と誕生が繰り返されている。
彼を失いたくない。銀盤に映る星が記憶をかすめて、オスカーは初めてそう思った。自分がそうするために何か手だてを持っているだろうか、と考えを巡らせた。
不意に、そのためにならどんなことでも出来るような気がした。
永過ぎる時間に胸はもう痺れてしまったのだと思っていた。
苦しい恋が自分を侵食した自覚は、痛みと共にようやく訪れたのだ。