火と毒草→満点星→センティネルの続き。
死と時のかかわりについて君は考えたことがあるだろうか。それまでは、生にいかなる価値を求めるかが僕の全てであり、死はある時訪れるピリオドに過ぎなかった。生のみが時と共存すると信じていた。しかしある日、累々と全ての上に冷ややかに降りそそぐ時を見いだした時、僕は初めて、生と死、死と時の切り離せない抱擁をも見いだしたのだ。生も死も同じ腕の中にあり、僕らは巨きな輪の中で等しく見守られているのだ。だからこそ死は、郷愁の夢の切れ端となって僕たちの心に分け入ってくるのではないだろうか。……YS
「こんにちは、オスカー様」
執務室の重い扉を押して、アンジェリークが入ってきたのは月曜の午後だった。オスカーはその日の仕事を終え、室内に籠もるのにも倦んで、宮殿を出ようと思案していたところだった。
「頂度良かった。帰っちまおうかと思ってたところだ。育成の依頼でお出ましかな?」
勝ち気な瞳の少女は無言で近寄ってきた。思案するようにきつい碧色の瞳をまたたかせる。
「今日は育成のことじゃないんです、オスカー様。他のお願いがあるんです」
「俺にできることなら何でも聞こう」
「セイラン様を学芸館までお送りして頂きたいんです」
オスカーはぎくりとした。まさかまたセイランは倒れでもしたのだろうか。
彼の顔色を読んだようで、アンジェリークは首を振った。
「いいえ、私、マルセル様からセイラン様が倒れた時のお話は伺ってるんですけど、それとは違うような気がするんです。ただ疲れてお休みになってるだけだと思います」
オスカーは奇妙な気分で立ち上がった。
「送るって、いったいセイランはどこにいるんだ?」
「さっき宮殿の南の林でお会いして、特にお急ぎでないとおっしゃるから、座って、この間セイラン様に貸して頂いたご本の話をしていたんです。そうしたら、いつの間にかぐっすりお休みになってしまって。声をかけても目を覚まさないんです、セイラン様。何だかとてもお疲れになってるみたい」
「……」
良心にいささかやましいところのあるオスカーは沈黙した。どうやら今日のセイランの不調には彼が関わっているらしい。だが、この日差しのきつい日に、室内にいるならともかく、宮殿近くまで歩いて出かけてくることはないのに。
(あの跳ねっ返り……)
「お嬢ちゃんはどうして俺に?」
時折、ジュリアスと話している時にも出る癖だが、オスカーは薄々気づいていながら、自分に都合の悪い結論が出るように話を誘導してしまう。そして当然ながらそれは彼が多少なりとも苦手意識を持つ相手であればあるほど、より多く出る癖だった。ジュリアス相手にボロを出すことも多い。今もそうだった。
オスカーと並んで歩きながら、アンジェリークは、磨いたような光の帯を巻いて輝く紅い髪をかき上げて、オスカーをちらりと見た。ブルーグリーンの宝石のような目に、わずかに挑戦的な煌めきを宿した。
「あら、でもオスカー様はセイラン様の一番の仲良しですもの」
「そうとは限らないと思うがな」
軽口に紛らわせようとすると、アンジェリークは勝ち気に微笑んだ。
「昨日もご一緒だったでしょう? お二人で」
今度こそは飛び上がらんばかりに驚いて、オスカーは頭一つも小柄な少女の顔を覗き込んだ。
「確かにそうだったが、お嬢ちゃんはどうしてそれを知ってるんだ?」
「私昨日セイラン様をお訪ねして、学芸館にうかがったんですもの。セイラン様は土曜からお出かけになってお帰りになっていないって、学芸館の管理をなさってる小母様がおっしゃってたんです。セイラン様は、聖地でお泊まりになるほど親しいお友達はオスカー様だけだって、少し前にご自分でおっしゃってたわ」
「それは知らなかったな」
セイランがこの赤い髪の女王候補の少女を気にいっているのは知っていたが、そんなことまで話しているとは思いもよらなかった。オスカーは苦笑した。
「ずっと一緒にいらしたなら、セイラン様がお疲れになってるのも御存じかと思ったんです」
「……」
どこまでの意味を籠めて云っているのか計り知れない、奇妙に澄んだ目でアンジェリークはオスカーを見上げる。オスカーは内心冷や汗をかく思いだ。
彼らは宮殿の南側の林に向かった。ここは緑に包まれたなだらかな丘陵になっており、その中ほどに、よく日の差す樺の木立がある。オスカーが聖地に召された頃にはまだ苗木のような一群であったのが、今はすがすがしく丈の高い美しい林に変わった。オスカーはアンジェリークに手を貸して馬から下りた。
「セイラン様って放っておけないところがありますよね」
林に分け入る小道で、しばらく黙っていたアンジェリークは不意にそう云った。どうもこの少女は、彼に挑戦的な意思を投げかけてきているように思える。しかもオスカーに一片の悪意を向けることもなく、正々堂々と挑みかかってきているのだ。今の女王がまだ候補の少女として飛空都市にやってきた時も変わり種だと思ったが、この少女も相当変わっていた。
彼は先代の女王の時代にサクリアに目覚め、聖地にやってきた。彼を迎えた前女王は、すでに永く在位してあきらかな力の衰えを見せ、神々しい沈黙と崇高な疲弊に包まれていた。
今の女王にしても、この少女にしても、咲きたての花のように生命力に充ち溢れている。女王と同じ名前を持つこの少女は、やはり次世代の女王になるのかも知れない。そう思いながらオスカーは、アンジェリークの問いにうなずいて見せた。
「そうだな、そういうところがある」
「セイラン様の星の歴史を調べたんです、私」
アンジェリークは翡翠のような色の瞳を半ば、遠い夢を見るようにまぶたでふさいだ。
「あの方の小さい頃に大きな戦争があったんですね。とても長くて悲惨な戦争が」
「そうだな。十年以上続いたはずだ」
オスカーも、セイランの星の戦争の長さに、あの星に降りてみたことがある。
あの戦争も前の女王の力が衰えたその一環だった。あまたの星で不幸な戦争が起こった。地は痩せ、飢餓が起こり、新生児にフリークスの誕生が目立った。女王の力から最も近い主星も治安が悪くなった。強硬な信念を抱いて生きるあのジュリアスでさえ、自分の送り込んだ光のサクリアがねじ曲がったプライドに変り、末には戦いの一端になる姿を見て、口には出さずに悩み衰えた。
オスカーは、そういった意味での迷いの極めて少ない男ではあったが、自分の送るサクリアが正しくめぐり始めるまでは気にかかった。あちこちの星に降りて様子を見た。
セイランの星には四、五回降りた。戦争は十一年続き、膨大な死者と孤児を生んだ。セイランはおそらくそういった子供たちのうちの一人であったのではないか。
「セイラン様の生まれる二年くらい前に戦争が始まって、九つの時まで続いてるんです。それにご家族を知らないっておっしゃってた。私みたいに主星の真ん中で生まれて、一度も大きな不幸を知らずに来た人間とは考え方が違って当たり前だわ」
アンジェリークは一人ごとを云うようにつぶやいた。
「きっと知ってほしくないと思ってらっしゃるだろうに、知りたいと思ってしまうの。セイラン様が隠せば隠すほど。セイラン様は要らないと思ってらっしゃる過去なのに」
少女は少しの間口をつぐんだ後、セイランがアンジェリークに聞かせた話の一端を、簡潔にオスカーに話して聞かせた。
(「一人で生きにくい融通のきかないシステムの中で、孤独から抜け出せるあてのない者や、人生に望みのない人や、病に深く冒された人が、宗教的世界観に傾いてゆくのは仕方がないことだと思わないか。人は誰しも自分は大いなる愛の許に在ると信じたいものだろう?」)
セイランはそう云ったという。
(「女王陛下は、女神と自称してもおかしくない力を持っているね。それを、神ではなく王と称するところが、このシステムのバランスのいいところだと僕は思う。それは彼女があくまで奉仕者たらんとしている象徴だよ、アンジェリーク。きっと守護聖の方々にも同じことが要求されるだろう。そうして人々は、女王陛下が献身の苦しみと共に与える愛に包まれて安堵する。何かに深く愛されているという確信は、人の虚無感と心の飢えを癒すんだね。たったそれだけの確信で、人が晴れやかに暮らしていけるというのは素晴らしいことじゃないか」)
「でもあの方の飢えは満たされていないみたい」
独白めいた口調のままアンジェリークはつぶやく。
「でもそれだからこそ魅力的な方なのかもしれないですね。聞かせて頂いたお話を丸ごと記憶して飲み込んでしまえたらって思うこともありますもの。『大いなる愛』を受容するだけじゃなくて、自分の器から溢れた愛を人に返そうとする人だけが、この聖地で、女王陛下のもとにいられるのではないかしら。そんな気がするんです」
オスカーはやや面映ゆい思いで肩をすくめた。アンジェリークの云ったように具体的に思ってみたことはなかったからだ。『奉仕者』たちの住む聖地。そしていつかは必ず奉仕する力の尽きる者共の群れだ。あの女王でさえ例外ではない。それだからこそ守護聖たちには、人間として自らの持つ個性にあさましくしがみつく傾向もある。誰しもまったく人間以外では在り得ないのだ。教官たちも無論そうだ。だが、アンジェリークの口から伝え聞く『愛』は、あの刺々しく生きるセイランの語るものにしては不思議におおらかな憧れに包まれている。
セイランのいだく、許容の愛というものへの畏敬は、万事肯定型のオスカーのような男の思うそれよりはるかに優しく高い。
人の愛がさながら手の届かない高次元のものであるように、彼はあの冷ややかな青い目で天を仰ぐのだろうか。
林の中に分け入ると、セイランはアンジェリークがそっと側を抜け出した時と同じ姿勢で、樹にもたれかかって眠っていた。軽く折った膝にはアンジェリークと話し合っていたものだろう、厚い本が広げられていた。側にかがむと、息づかいは聞きとれないほど静かで、深く眠っているのが分かった。青みがかった黒いまつげを深く閉ざして、樹にこめかみをもたせかけるようにして眠っている。崖の上で倒れた時とは明らかに違うのが分かった。アンジェリークの勘の良さには舌を巻く。
「セイラン」
念のために呼ばわってみたが、眠りは深いようでセイランは目を冷まさない。
「眠ってらっしゃるんでしょう?」
「そのようだな。仕方ない、このまま連れて帰るか」
オスカーはセイランを起こさぬように鞍の上に抱えあげた。少女のように、とはいかないまでも、痩せて軽いセイランを抱えるのにはたいした力はいらなかった。
「じゃあ、私は一人で帰ります」
そう云って、小柄なアンジェリークは精一杯に背伸びをして、馬上のセイランの服の乱れを調えてやった。
「オスカー様、私たちって似てると思いません?」
アンジェリークは馬の腹に鞭を当てようとしたオスカーを見上げた。
「そうかな?」
「そうです」
疑問の形にぼかして見せながら、しかしオスカーには思い当たるところがある。云われてみれば、この少女は彼自身と似ているのだ。
「目の色も、髪の色も、それに好みも」
アンジェリークは花片のような薄い唇でにっと微笑した。
「私もセイラン様とは結構仲良しなんですよ、オスカー様」
オスカーは共犯者の笑みを返した。
「それは何よりだ。星の安定度もなおさら増すだろうな」
「おそれいります、オスカー様」
(やれやれ、食えないお嬢さんだ)
「お二人ともお気をつけて」
アンジェリークは手を振り、背中をまっすぐ伸ばして、はっきりとした足取りで歩き始めた。振り返らない。深紅のスカートの裾から伸びた、細くはあるが、まっすぐで強い足が確実に歩を刻んだ。
別れぎわに一度振り返って手を振る女は多いが、この少女はいつでも、別れた後に決して振り返らなかった。ある種、男性以上に男性的なイメージがあった。かといって肩ひじを張っているのではない、からりと乾いて割り切った部分がある。今の女王とは正反対のタイプだ。
おそらくセイランも、アンジェリークのこのぴんと張った勁さに魅かれているのだろう。
オスカーは馬をゆっくりと走らせて学芸館に向かった。
それにしてもセイランの無防備さはやっかいだ。何故こんなに自分を投げ出すような態度でいるのだろう。何とかした方がいい。目を覚ましている時には毒針でいっぱいにガードしているくせ、奇妙なほど自己保身に興味を持たないのだ。こんなに聖地中で脆く眠りこまれては目が離せない。
そんなことを考える自分に気づいてオスカーは苦笑する。
セイランのガードは自分の精神の領域に踏み込まれまいとする、攻撃的な護りだ。自分の精神世界を自由に生かしておくことに比べれば、自分の体を安全に保護することなど、この男にとってどれほどの意味もないのだ。
それはまさしく彼の自由だ。相手の姿勢を自分の主義から切り離して、気ままにふるまうというのは、最も慣れ親しんだオスカー自身のやり方でもある、
アンジェリークの云う通りだ。何故この男はこんなに構いたい気分にさせるのだろう。
「どうしてそんなことまで貴方に云われなきゃいけないんだろう」
セイランの皮肉な口調に磨きがかかっている。その口調の中には、女王の愛についてアンジェリークに語って見せた姿の片鱗もない。
アンジェリークと話している途中に眠りこみ、挙げ句の果てにオスカーが自分を連れ帰ったことを知った後のセイランは、ひどく不機嫌になった。照れ隠しもある。アンジェリークに見られたくない姿を見せたことへの苛立ちもあるだろう。
(私も結構仲良しなんですよ)
アンジェリークの言葉を思い出す。
(仲良しどころじゃないな)
セイランは完全に男として、この女王候補の少女に関心があるのだ。オスカーは、セイランが踏み出せないことを知って、いささか意地の悪い気分で思った。
「『翌日』は外に出るなだって? だったら貴方こそ、僕が外に出ないようなことになる前に、少し考えてくれても良さそうなものだけど」
「俺だけが楽しんでるようなことを云うじゃないか」
セイランの座った寝台の横の長いすに足をなげだして座り、オスカーはにやにやしながら、怒って血の気のさしたセイランの顔を眺めている。彼は、セイランを自分の部屋に招いた時も、この位置から彼を眺めるのが好きだった。幸いセイランはまだそれに気づいていない。この位置がオスカーの気にいりなのが分かったら、セイランは意地でも眺めさせてはおかないだろう。
「……あなたとこんな話をするほど虚しいことはないね」
セイランは突然興味を失ったように素っ気ない声になり、立ち上がった。おそらく食事もちゃんと摂ってはいないのだろう。彼の足取りがふらつくのをオスカーは支えた。
「まあ、そんなに苛々するなよ、俺は今日は退散するさ」
苦笑交じりにそう云って、元通りセイランを寝台に座らせる。何かもうひとこと云い重ねるかと思ったセイランは、突然オスカーから視線をそらして沈黙した。表情が硬い。何かに腹を立てたような顔だった。
「どうした、セイラン」
機嫌を取ってやってから帰った方が無難だと思ったオスカーは、彼の隣に少し身体を離して腰かけた。彼が女のように手足を冷やすのを思い出して、肩口をてのひらで軽くさすってやった。セイランの表情はますます硬くなり、氷のような顔つきになった。その顔を覗き込む。いかにこたえにくいと云ってもこんなふうに黙殺されれば、オスカーも気にかかる。
「云いたいことがあるなら云ってみろ」
背中に腕を回す。意外にもセイランは拒まなかった。抱き寄せるというよりは温めてやるような気分で腕に少し力を込める。
引き寄せられるままになっているセイランは相変わらずの硬い無言だ。オスカーは内心ため息をついた。しかし、たやすく落ちて来る相手より、こういった情のこわい相手に歯ごたえを感じるのも、またオスカーの性癖だった。
数秒そうしたまま彼が内心を吐き出すのを待っていると、セイランは突然顔を上げた。冷ややかな表情の中で、瞳が脆く潤んでいるのを見て、オスカーは不意に間の抜けた驚きにとらわれた。まさか。内心目を丸くする。セイランは彼に痩せた肩をぶつけてくるようにして身を寄せ、オスカーのうなじに腕を巻きつけた。何があっても顔を見せまいとするように肩口に額を押しつける。
「セイラン」
オスカーはその背中をゆっくりと抱きしめ返し、唇で耳元に軽く触れた。
身体を硬くするセイランの頬に、髪に口づけ、猫を抱きしめるようなしなやかな感触を楽しんで、唇に移った。セイランはわずかに震える息を残して彼に任せた。薄い舌をからめとると、セイランの身体が微熱をはらんでいるのが分かる。セイランの身体に疲れこそ残っても、傷つけるような真似はしていないはずだ。
「どうした? 熱いぜ、セイラン」
唇を離して囁くと、セイランはかすかにあえいだ。
血の気のきざしたまぶたを開き、濡れた目でオスカーを睨みつけた。
「貴方と一緒にいると、僕までおかしくなりそうだよ」
こんなに疲れきっていおるのに、セイランの身体はあきらかに欲情している。こんなことは初めてだった。熱の膜を張ったように体温の上がった首筋に唇を埋めると、腕の中の身体が甘くとける感触があった。
「たまにはおかしいのも歓迎だぜ」
澄んで光る緑色の少女の瞳を思い浮かべながら、オスカーは、アンジェリークはこれを抜け駆けとは云わないだろう、と不謹慎なことを考えた。あの少女なら、自分の手に入れたいものを自分なりに確実に射止める。それにオスカーはあの少女と競っているつもりはないのだ。セイランの方でも、オスカーとアンジェリークを並列して考えるつもりなどないだろう。
この陶製のような皮膚の青年の身体の中には、余りにも膨大な大義や、大義への否定や、思想や反感、美への賛歌、もろもろの煩雑な感情が入り交じってつまっている。
頼りなく肉の薄いこの身体の中に、はたして『大いなる愛』以上のものの入りこむ余裕があるのかどうか、さだかには知れないところだ。
セイランは、上気した顔で、それでも悔しそうに眉をひそめた。唇を軽く噛み締めるようにしたかと思うと、オスカーの肩から顔を上げて伸び上がって頬を寄せ、うなじを抱いた腕に力を込めた。細くしまった身体を腕の中にすっかり抱きこんだ感触に、何か小さくてひ弱なものに対するような保護欲がわき上がった。
オスカーは笑い、心を開け広げて、自分のアンジェリークへの競争意識を認めた。彼と女王候補に関する限り、このところ苦笑続きだった。オスカー自身、女王候補という以上にアンジェリークにも興味があるから始末が悪い。
彼はセイランの髪を撫で、彼の稀な欲求に応えるために、背中をそっと寝台の上に抱きおろした。