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地上楽園の幽霊

02 21 *2013 | Category 二次::アンジェ02・オスセイ

火と毒草~一連と違う話。

続き










 何か悪い夢を見たような気がする。
 セイランははっとして目を開け、寝床の中で起きあがった。そして、自分がどこにいるのかに気づいてため息を漏らした。
「天井が高すぎるんだ……」
 思わず一人ごとを云う。彼はこんな広い屋敷で暮らした経験がなかった。母星で、彼の住んでいた部屋はごくありふれた小さなものだった。郊外の建物の中の、小さな二つの部屋と簡素な食堂。絵の具もイーゼルも、幾つか手元に置いた作品も、やや粗末な衣服も、そこに何もかも詰め込んでセイランは生活していた。
(「聖地に行かれた後は、教官の方々は、学芸館の一室をお住居としてお使いいただきます」)
 最初、聖地から使わされた使者は、向こうでの暮らし向きを伝えるのに、そんな云い回しをした。それでセイランは、学芸館という言葉から、手入れのさほどよくない古色蒼然とした古い館を思い浮かべたのだ。あまつさえその一室と云うから、学生寮のようなものを想像した。聖地入りするのにも、荷物は最小限度に押さえて、どんな狭い部屋でも暮らす覚悟をしてやってきた。
(よく考えてみたら、女王候補をそんな狭い建物に押し込めておくはずもないな)
 それに思い当たると苦笑するしかないけれど、彼の母星の基準で云うと、地方領主のそれにも匹敵するような大きな館に部屋を与えられたときは、さすがに戸惑ったものだった。天井が高い。窓が高い。調度はとびきり上質なものだった。
 芸術家などといっても、実態としてはプロレタリアートのセイランにとっては、全くの余剰余剰の暮らしだった。
 加えて、その高い、豪奢な窓から差し込む聖地の光の何と輝かしかったことだろう。霧と雨の惑星から渡ってきたセイランには目が眩みそうな光だ。聖地の太陽が輝きを失うことはほとんどない。たいてい曇りなく輝かしい。まさしく光の球そのものだ。雨が降るときには思い切りよく、いかにも雨らしく降り、風はきらきらと吹き過ぎてゆく。それが聖地というものだ。
 その聖地の日差しがかっと照りつけてくる。セイランの宵っぱりの瞼を刺し貫いてくる眩しさだった。
 低血圧のセイランは、ようよう起き上がって顔を洗った。瞼がはれぼったい。
 どうやら夢を見て泣いたらしい────が、内容は覚えていなかった。
 昨日夕食を食べ損ねて本に熱中して眠ってしまったから、今朝は朝食を摂ろうと思っていたのだが、セイランはすっかりその薄赤い目に意気消沈してしまった。
(……やめた)
 やめた、というのは、朝食を摂るのをやめたということだ。
 食堂でうっかり顔を合わせて、同僚の、口うるさい年長の軍人上がりや、心配性の善良な王子さまに、あれやこれやと口出しされるのが嫌だからだ。この顔色ではそれを免れることは出来ないだろう。最初はきっと、「大丈夫か?」から始まって、あるいは、「無理してるんじゃないですか、セイランさん」とうるさく構われる。しまいには「そもそもお前は自己管理がなっていなさすぎるんじゃないか、女王教官としての自覚をだな」だの、「セイランさんがそんな風に自虐的にしてるの、僕、心配です!」などと云い始めるに決まっているからだ。
 同僚達との付き合いにも大分馴れた。同じ建物の中に、職場や目的を同じうする仲間がいつもいて、顔をつきあわせ、互いの動向を把握しているという、いわば異常事態に、自分が順応することが出来るのだと知った。
 それに、これも長いことではない。
(夢を見て泣くなんてね)
 セイランは、寝起きの不機嫌も手伝って、またとない皮肉な気分になった。起きているのも嫌になって長椅子に身体を投げ出す。頭の後に腕を組んで天井を眺めた。彼の皮肉な気質は、他人にだけ適用されるものではなく、勿論自分自身に対しても発揮されるものだ。それは他人に云われた皮肉同様彼を傷つける。……そこらへんがいささか不自由なのである。
 自分がコンディションを崩しているのが何故なのか、そしてここしばらく、柄でもないスランプをかこっている理由が何なのか────そう、彼はスランプでもあった。曲も絵も詩句も浮かばなかった。二十歳過ぎればただの人、とはこういった状態か、などと思ったほどだった。
 しかし、創作の泉が尽きたことを疑う前に、思い当たる理由がある。
 女王試験が終りかけているのだ。
 アンジェリークとレイチェル、二人の生み出した、幼い宇宙の卵は孵化しつつある。(むろん、これは宇宙誕生を語るにあたっての便宜上の比喩だ)殊にアンジェリークの育てる宇宙は日に日に変化を遂げ、闇と虚空のカンバスを星でうずめつつあった。守護聖達も、二人の抱いた宇宙の卵の片方が殻を破るのはこの一月か、早ければ数日の内のことだろうと見ているらしい。
 元々この問題に直接関わりを持つことのない守護聖たちも、サクリアを通して、明らかに創世を予感しているのだ。産み月に入った宇宙は膨満し、破水は目の前まで来ている。
 新宇宙の女王の誕生を見届けて、セイランが聖地を去る日が近づいていた。

 宇宙誕生に関わり、しかもその場に居合わせることの魅惑を確かに感じながらも、セイランの情緒不安定は始まった。
 女王試験開始から半年ほどたっている。
 試験はほぼ一年かかると思ってくれ、と云われていたが、予定より「それ」は遙かに早かった。
(アンジェリーク────君は、僕や君が思っていたより遙かに優秀な生徒だったって訳だね)
 それを予感させるかがやきは、むろん最初からあったのだが。
 セイランは二人の美しい女王候補の姿を思い浮かべる。
 レイチェルも、試験で破れたとしても、アンジェリークの補佐官となって新宇宙へと去って行くのだろう。最初はライバルだった少女達が、今は無二の親友になったことを彼は知っている。
 彼女らに最初は情が湧いた。情の次に義務感が生まれた。それが逆でないあたりが、セイランのセイランたる所以なのかもしれない。義務感が生まれた後に坂を転がり落ちるように二人を好きになった。純金とエメラルド、ガーネットや琥珀を贅沢に使って細工したような二人の少女達。美しいだけではなく賢く誠実な、まさに女王にふさわしい二人だった。
 セイランは彼女たちを愛したが、しかし彼のてのひらには何ひとつ残らないのだ。
 それは最初から解っていた筈のことだが、胸がむかむかした。いっそ何もかもが早く終ってくれればいい、とさえ思う。
 少女達に次いで、何人かの守護聖達の顔を思い浮かべた。
 さすが守護聖様────。セイランは口の中でつぶやく。
(どの方も知り合ってみれば魅力的な方々ばかりだよ、まったくね)
 その場に彼等が居合わせたなら、毒針を刺さんばかりの皮肉を交えて。しかしその針は目下、彼等にではなく、自分の内側に向かっていた。
(ばかばかしい、こんな……)
 その中でも特に印象の深い一人の顔が浮かんだ途端、彼の顔は、突然現実感を持ってセイランを覗き込んできた。
「何がさすがだって? セイラン」
「……!」
 セイランは慌ただしく起き上がった。胸の中で何かが揺れた。この男に会いたくないこともあって、今日一日は閉じこもっていようと思ったのに。
「別に。……」
 セイランは殊更に冷淡な声が自分の唇から漏れるのを聞いた。
「勝手に人の部屋に入らないで頂けませんか、オスカー様。守護聖だから、周囲に尽くす礼節を捨てていいというのが女王陛下の思し召しとは知りませんでしたよ」
「ノックはしたんだがな」
 オスカーは閉口したようにため息をついた。
 この男も焦っている。前にはちょっとした嫌味を云っても、こんなにこたえた表情にはならなかった。それに最近の訪問は余りにも頻繁だった。どれ程セイランが冷たくあしらっても足繁く通い続けている。それが少しばかり噂になりかけていることも知っている。
 彼にはそれが迷惑だった。嫌って突き放せばいいだけではないから面倒なのだ。自分の気も知らずに心をかき回すこの男に腹が立つ。
 傲慢な自信家ならそれらしくしていればいい。今更そこら辺に転がっている人間のような顔を見せられても、もう為す術がないのだ。
「それで、ご用件は? 予定が立て込んでいるので、お手短にお願いします」
 礼服でないオスカーを彼は久し振りに見る。黒い服を着けた背の高い男の、燃えるような朱い髪に、元々は白いことの判る皮膚の中で蒼く煌めく彼の虹彩に、目を奪われそうになる。無彩色の服と鮮やかな髪と瞳とのコントラストが見事だ。
 スランプなどと云ってみても、この男を褒めそやす賛美の念だけは売るほどある。
「セイラン、せめて普通に話をしないか? お前と俺は共通の話題を持っていたこともあったように思ったが、それは俺の錯覚か?」
「さあ、そうだったのかもしれませんね」
 帰れ、とばかりに彼は立ち上がった。
「新宇宙の熟成を待つばかりのこの時期に、日の曜日だからと云って、守護聖様がこんなところで観念論に耽る暇がおありとは。……この世界も平和で結構なことです」
 冷笑してみせると、オスカーはかっとなったように眉をひそめた。
 しかし今まで、オスカーがこんな顔をしたことはなかった。
 そして、オスカーが怒りの表情を見せたこと、彼を傷つけたことに動揺する自分がいる。挑発したのは自分の意思だ。そして彼を突き放したのも自分の望みなのだと云い訳をするために。
 彼は自分自身、選んでオスカーを遠ざけたのだと信じたいのだ。

 オスカーは気性が烈しいように見えるが、その実公儀の部分にしか喜怒哀楽を費やさない男だった。徹底して大義のために生きてきた男なのだ。それは彼が補佐を務めるジュリアスにも共通する性質だった。或いはオスカーは、守護聖としての生き方をジュリアスに学んだのかもしれない。
 そのくせ年若くして聖地にやってきた炎の守護聖は、その反動のように埒もない楽しみごとに精を出した。腹が立つほどぬけぬけと享楽的だった。しかしよく考えれば、この変化のない聖地の中で、守護聖達が殊更に自分の楽しみごとや趣味、研究や技術の研鑽に精出すのは、崩れることをせずに長い年月を乗り切るための、彼等なりの処世術なのだろう。
 そのオスカーが、近頃になって享楽的な表の顔の裏側をかいま見せる。
 何故だかセイランにはそれが耐え難いのだ。
 華やかな外観の守護聖たち。
 自らの操るサクリアに染まったように、或る者は優しく、或る者は輝かしく。情熱的に、鬱屈して硬質に、重厚に、知的に、ほのかに光る宝玉のように、七色の個性を見せる者等。
 いったい、地上に生まれ育って地上で朽ちる人間が、聖地の守護聖の一人が自分に手をさしのべたからと云って、素直に恋に溺れることなど出来るものだろうか。
 何故オスカーにはそれが判らないのだろう。その疑問に行き当たるとき、セイランは無性に苛立つ。
 宇宙は誕生へ向けて今にもはじけそうな瑞々しい果実だ。それを支え終れば、新宇宙への守護聖の義務は終る。無論、新宇宙の女王候補を教育するセイランの役割も終ることになる。彼は去って、ここへは二度と戻らないだろう。数年してオスカーがたとえ彼の母星に下りたところで、セイランはもうそこにはいないか、老いて面影もなくなっていることだろう。
 セイランは唇をかみしめた。
「どうしても話したくないようだな」
 声にまじった苦い微笑みが、一度は伏せた彼の目を上げさせた。
「別に、特に貴方と話したいとかどうとかは……」
 するとオスカーは、軽く言葉を遮るような仕種を見せた。
「まあ、それ以上云うな。……今は少し顔を見に寄っただけだ。また晩にでも来る」
「……」
 セイランは応えなかった。男の望み通り沈黙した。
 その彼に、仕方なげに笑ったオスカーは、部屋の扉を静かに押して出て行った。
 窓から見える見慣れた足取り、見慣れた後ろ姿が、いつもとどこか違っているように思える。
(そんなのは思いこみだ)
 学芸館の、光でいっぱいに照らされた中庭を大股に歩み去って行く大柄な男。
 セイランにとって、その後ろ姿を見送ることは、一種当然のことのように思えた。彼は去って行くべき者なのだ。逆に云うなら、自分が彼の前から去って行くべき者なのかも知れない。


 オスカーが自分を口説いているのだと気づいたのは、聖地に来て間もない頃だった。
 そのころは、オスカーの誘いはまだ笑い事だった。
 何しろこの聖地にあって、歴代の守護聖の中で、彼のように女と浮き名を流すことに精出す守護聖は前代未聞だったのだ。初対面の時、セイランの顔かたちだけをみて女性だと勘違いしたオスカーは、いきなり口説きにかかつて手ひどく振られている。後でその事を人に向かって「忌まわしい出来事」などと話していたそうだから、それをより冗談に紛らわせるために逆説的な行動に出たのではないか、というのがセイランの出した結論だった。
 その証拠にオスカーは、遊びのような言葉の誘いを繰り返すだけで、特別何か行動に出るわけでもなかった。警戒心を解いてみれば、彼と話すのは楽しかった。彼に最初に抱いた空疎な男というイメージはあたっておらず、歯ごたえのある回転の速い男だった。それに、神話の中から切り取ってきたような紅いたてがみの長身は、ただ眺めるセイランの目にも楽しかった。
 いつも半分戯れるようなオスカーのアプローチが変ってきたのは、つい先月のことだ。
 アンジェリークが女王になることがほぼ決まったのではないか、と、オスカーがセイランに話して聞かせた、丁度その日からだった。
(「そんなことを僕に話していいんですか? 第一、女王候補なんて、その瞬間までどちらの力が発現するか判らないんでしょう?」)
(「無論そうだ。だが、女王陛下は胸の内で、既にいずれか、というお考えをまとめておられるようだ」)
(「……」)
(「この『聖地』が試験のために解放されて半年になるな、セイラン。無風の聖地にもずいぶんと変化が起こった」)
(「そうでしょうね」)
 セイランは奇妙な苦痛を覚えながら同意した。
(「現女王陛下の選出におれたちが力をお貸ししてから、まだそれ程時間が経ったわけでもないから、戯れにも倦んでいたなどとは云わないが……だが、風が吹いたのも事実だ」)
(「どうしたんです、オスカー様」)
 彼は思わず笑った。
(「今日はランディ様のお務めを代替わりでもなさるおつもりですか?」)
(「セイラン」)
 オスカーは光る目で彼を見おろした。その話をしていたとき、セイランは学芸館の私室にオスカーを招き入れて話をしていた。窓際だった。すでに夜半に近かったと思う。昏い窓際に立ったオスカーの髪が窓にうつって、それは生命を持たない鏡像であるのにも拘らず、部屋の灯りを受けて、生きた炎のように光っていた。
(「おれがお前に云い続けてきたことは覚えているな? セイラン」)
(「全部覚えているとは限りませんが」)
 セイランはその時になってもまだ微笑混じりだった。心を許した者にしか滅多に見せない類の微笑をオスカーに投げかけた。
(「答が保留になっている話は、そう多くなかったはずだ」)
 オスカーの唇にも笑みは乗っている。しかし、それはいつも彼が浮かべる、自信に裏打ちされたものではなく、どこか貼り付けたような現実味のない笑みだった。
(「まさか、僕に……」)
 セイランは続けられずに、思わず一瞬絶句した。これも自分では余り覚えのないことだった。
(「……本気だとでも?……」)
(「随分前から本気だと云ってるはずだぜ、セイラン」)
 オスカーは手を伸ばした。彼とは数え切れないほど食事を共にしたし、休日を一緒に過ごしもした。だが、一度もそんなふうに気安く触れてきたことのない男の指が、明らかに、或る意図を持って伸びてきた。手のひらが近づいただけだが、やわらかな熱気が頬に伝わってくるのを感じる。
 セイランは身をすくませた。その彼の髪をオスカーは一房すくい上げ、自分の指に絡めて唇を押しあてた。
(「答を寄越せ、セイラン」)
 彼の唇にはそれでもまだ微笑がある。しかし男の目が笑っていないこと、目の前の男が真剣だということが、間近に出逢った視線から、おそろしくはっきりと読みとれた。
(「何を勝手なことを云ってるんです」)
 彼は男の指から髪を取り返し、身を翻した。数歩行って、背中に注がれたオスカーの視線に引き止められて立ち止まった。
(「あんな冗談交じり、何が本当で、どう答えればいいのか、僕に解るわけもないでしょう」)
(「なら、云い直すか?」)
 オスカーの指が、今度は肩に伸びる。セイランを身体ごと振り返らせて、凍り付いたようになった彼の顎をすくい上げた。
(「お前も詩人なら、想っているという言葉の意味が分からないはずもないな?」)
 唇に触れられるのではないかと思って身を竦ませたセイランに、やはりオスカーはそれ以上触れようとはしなかった。
(「目に見えるもの、見えないもの、汲み取って言葉や絵にするのがお前のなりわいじゃなかったのか?」)
(「別に、僕はあなたのためにそれをしようだなんて思っていない」)
 彼は目を背けた。蒼く凍る瞳に灼かれてしまいそうだ。
(「では誰のためだ? 受け取る者が無くて、何のために描く?」)
 セイランはオスカーの手を突き放した。
(「……望みを云えよ、なら!」)
 彼は息を弾ませた。まるで肉食獣に魅入られたような恐怖だった。
(「それに応じられるかどうかは答えられるでしょうよ。でも、貴方の想いを汲んで、自分から降りてこいなんて……そんな」)
 そんな傲慢な。
 そう続けようとしてセイランは言葉に詰まった。オスカーの心を一瞬たりとも汲んだことがなかったわけではないからだ。また、オスカーが今まで望みを口にしなかったわけでもなかった。傲慢というなら、気づかない振りをしていた自分は、果たしてそれにあてはまらないのだろうか?
(「そんな義務は僕にはないね……」)
 仕方なくセイランはそう続けた。しかし自分の言葉が勢いを失ったことを認めざるを得なかった。
(「それはそうさ、義務じゃない」)
 オスカーは意外にも目を伏せて、ため息をついて笑った。
(「悪かった。強引すぎたようだな。まあ……。気長に待つさ。待てるだけの時間があるとすればだが」)
 オスカーは暗示的な囁きを残して、その日はそのまま去っていった。
 この男がどんな答を寄越せと云っているのか、セイランは既に知っている。
 彼は「決断」を迫っているのだ。

 先日、女王に呼び出されたセイランは、宮殿に出向いた。
 少女の姿をした女王は、金色の絹のような髪と白い衣装の中で、謁見室の玉座に、人形のように座している。
(「お呼び立てして済みませんでした、セイラン」)
 細い、鈴を振るような声で女王は云った。彼女の言葉と共に髪が揺れ、サクリアのまじった金色のもやが巻き起こるのを、セイランは一種独特の恍惚感と共に眺めた。
(「これは貴方だけでなく、今回協力者として聖地に赴いてくださった全ての方にお尋ねしていることです。気を悪くしないで聞いて下さいね」)
 さらさらと衣擦れの音がして、女王が数歩、彼に近づいてくるのが分かった。女王が玉座を降りて自分に歩み寄っているのだ。視線を伏せていたセイランは思わず顔を上げた。玉座から降りる数段の階段の一番下に、女王は雲のように真っ白な衣装の裾を広げて座った。どうやら王冠が重いのがつらいらしく、少し情けない顔で王冠の位置を直している。セイランは拍子抜けしたような気分で女王を見守った。気さくな人だと聞いていたが、ここまでとは思わなかった。
 女王はそうしながらも、なおもまじめくさった顔でセイランを見つめた。
(「お気づきと思いますが、新宇宙は力を増しています。誕生の朝は近いのです、セイラン」)
(「ええ、そのようですね」)
(「アンジェリークが、もしくはレイチェルが女王になり、新宇宙とこちら側の扉を閉めた後、この聖地も、速やかに下界との道を閉じることになります。セイラン。……あなたがたはこの聖地で半年間もの間を過ごされました。女王候補たちに多くの力を貸してくださって、心から感謝しています」)
(「自分の務めを果たしたまでです」)
 彼の無愛想な返事を聞いた女王は、不意に白く揃った歯をのぞかせて、親しみの篭った微笑を見せた。アンジェリークやレイチェルがそうするように、セイランの前に近くかがんで、瞳をのぞき込んできた。
 相手は元々同じ人間なのだ。そう思いながらもセイランは、思わず身体を震わせた。彼の皮膚が、人並みならぬ光のけはいを感じ取ったからだ。こんなたあいない少女の形をしたものが何故、これ程人を圧倒する光を体内に隠し持っているのだろう。いや、むしろこれだけの光が、小さな人の体の中に収まっていることこそが不思議だった。
(「セイラン? 半年間というのは、帰る場所を持つ人にはそれ程長い時間ではありません。わたしも試験を受けて女王になったのですから、それは分かっています。……でもね、一人で星を渡ってやってきた人が、或るひとところに馴染んで居場所を見つけるには、充分な時間だと思うの」)
 女王はそっと金色の睫毛を伏せた。
(「女王陛下……?」)
 彼女の言葉の意図が分からず、セイランの呼び掛けの語尾は問いかけになった。
(「今回の協力者の皆さんに私が贈りたいもの、それは聖地に残るか下界に戻るかを選んでもらうことです。これは貴方の意志で選んで欲しいことなの、セイラン。あなたは聖地に気持が残っているのではなくて? でも貴方は芸術作品を世界に送り出すことで生き甲斐を感じている方でしょう。聖地にいたら、世界と貴方は同時存在ではなくなってしまう」)
(「ええ、それはそうですね」)
 セイランは唇を結んだ。
 彼女は自分の心を見透かしている。そう思うと少し不快だった。
 聖地に気持が残っている、と彼女の云うのが、どんな意味なのか、セイランにははかりようのないことだ。しかし、自分の中に深く巣くった孤独を看破されたような気分になって、涙腺が強く刺激された。普通ならこんな事を云われれば猛烈に反発するはずが、これほど言葉が胸の奥底に届いて、痛みの中心を射抜かれるのは、矢をつがえている手が、この優しい姿をした女王のものだからに違いない。
(「よく考えて決めて下さい」)
 女王は立ち上がった。
(「陛下」)
(「なんですか?」)
(「女王になられた時、何か迷いが?」)
 セイランが問うと、女王は思案するように首を傾げた。
(「……ありました」)
 彼女は透き通る声で細くささやいた。
(「たとえどんな選択をしても、会えなくなってしまう人がいたから……」)
 そう云って、女王は唇の前で華奢な指を一本立ててみせて、内緒よ、と微笑んだ。

 聖地には残らない。
 セイランはすぐにそう決めた。決めて間もなく、女王にもそう伝えた。その時彼の言葉を受け取ったのは、女王本人ではなく、補佐官のロザリアだった。
 名門貴族の血筋を引いて、女王候補になるために生まれてきたようなロザリアは、鼻梁の薄く通った冷たい美貌の女だった。しかしこの半年間で、彼は、ロザリアが氷のような容貌に似合わず、あたたかな気質を持ち合わせていると知った。今、女王候補として競っている少女達がそうであるように、現女王とは親友同士だった。
(「セイラン、本当にそれでよいのですか」)
 ロザリアは声を低めた。
(「まだ決断するのには早いのではありませんか?」)
(「いいえ、おそらく決心は変わらないと思います」)
(「……そうですか」)
 この女にも充分女王の風格がある、と、セイランは弓形に整ったきつい眉を眺めながらちらりとそう思った。美しく誇り高い。現女王よりもむしろ女王らしいと云ってもいいほどだ。ロザリアのきっちりと結った髪が、広い額の両脇に下がっている。セイランとどこか似た、灼いた銀のような、青みを帯びた髪は、両目を演出する幕のようだ。彼女の目は夕刻の空がしたたったような深く蒼い目だった。
(「セイラン、わたくしがこんなことを云うのは可笑しいかも知れないけれど、誇りを捨てることが、別の砦を守ることもあるかもしれませんよ」)
(「お言葉ですが」)
 セイランは眉をひそめた。
(「女王陛下と云い、貴方と云い、いったいこの間から何を……? おっしゃりたいことがあるならはっきり云って頂けませんか」)
 彼の険しい声にロザリアは目を見開き、そしてゆっくりといつも通りの、美しい面のような表情の薄い顔に戻った。
(「お気に障ったらお詫びしますわ、セイラン」)
 彼女も女王同様、不思議な光芒に包まれている。ほんの少し動くだけで、さらさらと光と風が動く。
(「どうやら出しゃばり過ぎたようですわね。……ただ、わたくしと貴方はどこか……」)
 そうつぶやいて、彼女は瞑黙するように碧いまつげを伏せ、唇を結んだ。
(「もうおゆきなさい。貴方のおっしゃったことは女王陛下にお伝えします」)
 そう云って、これも陶器の人形のような女王補佐官は歩み去っていった。
(「あなたはどこか……」)
 その先はおそらく、似ている、と続いたのではないか、とセイランは思う。
 ロザリアや女王に暗示されていることが何なのか、セイランには分からない。あるいは彼女らは、直接的な何かの一つの事柄について語っているのではないのかも知れない。
 セイランが隠した孤独に、彼女らの力は細やかにアクセスする。それが女王や補佐官の能力の一部だ。だが、その孤独を満たせと語りかけてくるのは、女王や補佐官としてではなく、人の心の部分で語りかけてくる。だからこそセイランには戸惑いがあるのだ。
 何よりもセイランは、聖地に自分の存在意義を見出し得ない。
 自分がどうしたいかというよりも、自分がその世界にとって有用であるかどうかを思うのは、彼の癖とも云うべきものだった。
 それはセイランの普段の言動と相反する部分はあるかも知れないが、しかし何かを作ることは、ただ生きるよりずっと、向こうに誰か人を思い浮かべる生き方なのだった。
 創作する人間が聖地に住まうのはばかげている。聖地には葛藤がない。争いも悲しみもなく、抑圧者もなく、あらゆるものが調和し、収斂する円の中心地だ。
 そんな場所で人がいったい何を訴え、何を作ってゆけばよいだろうか。
 苦悩と抑圧のないところで創造というものがあり得るものだろうか?


 彼はふと目を開いた。
 寝直してしまったらしい。しかし、そこが最近馴染んだ学芸館の寝台でないことに気づいて、彼は体を起こした。
 夜だ。あたりは闇だった。そして室内でなく戸外であることが分かった。彼が今まで横たわっていたのは枯れた下草の上だった。間近に土の匂いがする。なかなか視界がはっきりせず、闇の中で戸惑いながら、セイランは目を瞬いた。焚火の香がする。そしてもうひとつ、空気の中に混じる、形容しがたい不快な匂いがした。不快でありながらどこかなつかしい、焦れったいような匂いだった。
 何の匂いだろう。
 セイランは自分の身に何が起こっているのか、なかなか理解することが出来なかった。感情がゆるく痺れたようになっていて、この異状に反応しなかった。
 彼は立ち上がって、その現実味のない光景の中を歩き出した。
 戦場だ。それは直ぐに分かった。辺りをぐるりと見回した。あちこちで篝火が焚かれ、野営の煙が立ち上っている。人の姿もある。おそらく大きな勝ち戦の後の野営だ。あちこちに興奮した男達の話声や笑いが聞かれた。
 負けた後なら、このようにはやり立った雰囲気ではないだろう。兵士達はもっと疲れ、悄然としている筈だ。
 セイランは、自分を不快にさせていた匂いが、硝煙と血の香であるのに思い当たって眉をひそめた。そのまま草地をそろそろと辿ってゆく。途中、何人かの男とすれ違ったが、彼等にはセイランは見えないようだった。
 行く手は森だ。落葉樹の木立が奥に深く広がり、彼はその森に分け入る道を進んでいるのだった。なぜその道をゆくのか、どことも知れない場所に迷い込みながら、何故恐慌状態にも陥らずに自分が歩き続けていられるのか、セイランにはそれが不思議だった。
 そうか、これは夢だ。
 セイランは不可思議な実感を抱いた。
 夢だと思えば全ての辻褄が合う。
 このところセイランの夢見はいつも悪かった。目覚めたときは記憶がないが、毎晩こうして知らない場所にでも紛れ込んでいるのだろうか。きっと彼の身体は、今も聖地の学芸館の寝台の上にあって、不条理な夢の眠りに支配されているに違いない。
 しかしそうだとして、全く見たこともない場所を夢見るのは不思議だった。こんな場所には一度も訪れたことがない。空も木々も、彼の生まれ故郷の星とは似ても似つかなかった。
 あっけなく大きな月と、草原と森の惑星だ。
 ここはそもそも、現実に存在する世界なのだろうか。
 彼はふと、自分の足許が発光していることに気づいた。足許が真っ暗にならずに行く手が見えているのはそのせいだった。彼が歩く先から、やわらかな銀色の光がにじんで、道をほのかに照らしているのだ。
 彼は数分間か数十分か、立ち止まらずに歩いて森の奥へ進んだ。道が狭まり、細く荒れて、ほぼ行き止まるまで歩き続けた。疲れは感じなかった。雲を踏んで歩いているようだった。
 やがて彼は道を失った。
 どうすればいいだろう。どこにゆけばいいのだろう。あたりを見回したとき、老木の根元に、剣を片手に座り込んだ人影を見た。
 髪も顔も森の中で暗く翳っているが、体つきからして十一、二歳の少年のようだった。まだ手足が細く頼りない。体躯に見合わないような長剣を抱えて、足を投げ出して座っている。
「誰だ……?」
 少年の唇から声が漏れた。
 セイランは少し驚く。
 自分の姿はこの世界の者には見えないのかと思っていた。
 その声は、まだほぼ子供と云っていいような高い声だが、ひどく疲れたようにがさがさと掠れていた。
「亡霊か?」
「……」
 少年はふっと息をついた。
「黒いものじゃなさそうだな。……いや、亡霊でもいい。……こっちに来いよ」
 少年は身体をずらして、自分の隣を空けた。セイランは自分がそれに従うことをいぶかしみながら、彼の前に歩み寄った。自分の身体から放たれる淡い光が少年を照らし出したとき、セイランは息を呑んだ。少年の真っ赤な髪が目に入ったからだ。淡い光を受けて、少年の髪は、上質の方鉛鉱の結晶にひそんだ炎の色のように輝いた。紅い髪のものは幾らでもいるが、橙色がかっていたり、ほぼ栗色に近かったりとさまざまだ。こんな光沢の、豪奢な深紅の髪はなかなか見かけるものではなかった。
「……オスカー……?」
 彼は呼び掛けると云うよりも独り言を云うようにつぶやいた。ここに来て初めて声を出した。その声は我ながら頼りなく細く、自分の声でないように遠かった。少年は驚いたように目を瞠り、唇を苦笑のようなものにほころばせた。
「何だ、俺を知ってるのか……?」
 セイランの手に指をかけ、手首を静かに引き寄せる。少年の熱い指がそっと彼の顔を包んだ。
「顔を見せろよ……」
 少年は、吸い込まれるような青い目でじっと彼を見つめていたが、眉をひそめて笑った。
「現れる場所を間違えたのか? どうやらおれが今日殺した奴じゃなさそうだ」
「……あなたが戦場に? まだ子供じゃないか」
 思わず漏れた言葉だった。しかしそれと同時にセイランは、殊勝なことに、少年のプライドに抵触しないかと気遣う自分に思い当たった。
 剣を抱えた子供の手首は、剣のつかと同じほどしか太さがないように思える。
 少年はため息をついた。
「うちの血筋なら、戦が起きれば剣を取って戦場に出るのは当たり前だ。もっともこの年で今日が初陣のおれに、偉そうなことは云えないがな」
「あなたは今、幾つに……?」
 思わず囁くような声になっていた。こんな声を、もう何年も、誰に対してでも出したことがないと思った。目の前の少年の身体はぼろぼろに傷ついて、着けた衣服は、返り血なのか自分のものなのか判然としない、赤黒いもので染まっていた。
「この冬に十二になる。子供過ぎるとは云えないだろう?」
「……さあ、それは……」
 セイランは静かに彼の隣に腰を下ろした。
 自分が子供の頃のオスカーの夢を見ているのだと知る。
 何故こんな夢を見ているのだろう。
「お前はどこから来た?」
 少年は紅い前髪をかき上げた。それが何か、髪と同じような色のもので固まりついているのに気づいて、セイランは指先で、汗と額の汚れを拭ってやった。不思議な気分になる。これは夢だが、触れられる夢だ。過去と現在に見えない橋が架かっていて、あたかもセイランがその道筋をつたって過去に分け入って来たようだ。
「聖地から。……」
 そうつぶやくと、オスカーは奇妙な表情になった。
「聖地?……」
 疑うように眉をひそめる。
「何故聖地からこの星へ?……」
 考え込むように少し黙ったが、慎重な口調で言葉を継いだ。
「女王陛下は、人の使う道以外の道を使って、自由に色々な星を行き来されるということだが?」
 子供の言葉にセイランは思わず苦笑した。
 この少年の目にも、数年後同様、自分の姿が女性としてうつるらしい。
「僕は、女王陛下と似ても似つかないよ」
「……女王陛下は最近ふせっておられるとか」
 少年の声が硬質な、どこか公の書状を読むような口調に変わった。
「早く陛下に力を取り戻していただかなければ」
 てのひらを目の前にかざす。一度は洗ったようだが、肉刺を剣でつぶした自分自身の傷もあるのだろう。血に汚れたままのそれはまだ小さかった。
「七人か。……」
 彼はそれ以上云わなかったが、それは今日、彼が戦場で殺したひとの数ではないか、とセイランは思った。
「訓練とはまるで違うな。……」
 少年の声はかすかにふるえをおびた。しかしその苦悩はあふれ出してこようとはせず、少年の内側にゆらゆらと盛り上がったまま揺れている。セイランは喉元に痛みの塊を抱えて少年を見守った。青い目が射るように光っている。そこから感情の波を顕しそうにしながらも、少年はついに崩れなかった。その気丈さは、夢の中で彼を見守るセイランの目になおさら痛ましくうつった。
「こういうふうにはりつめた晩、お前のようなものが見える。ずっと昔からそうだった」
 少年は低くつぶやいた。彼の年でずっと昔、などと云われれば普通なら滑稽に思えそうだったが、あいにくセイランはまるでそれにおかしみなど感じなかった。
「僕のようなもの?」
「ああ。青い炎の塊だったり……お前のようにひとのかたちが残った者もいる」
 今しも闇の中に何か燃えさかるものがあるように、少年は木立の奥をみはるかした。
「おれは、ひとは死んだら無になるものと思いたい。……」
 少年は立てた膝に額をつけた。
「そうでなければつらい。……」
 消えそうな声でそうささやいた。
 人を切ることも、切られるかも知れない戦場に赴くことも。
 彼がそう云おうとしていることが、何故かセイランには分かった。
「……」
 戦場で命のやりとりをしたことのない彼には答えようがないことだった。
 しかし、セイランには、人の魂が死んで潰えるものとは思えなかった。死んで肉体と共に霧散してしまうものにしては、人の心には不可解な部分が多く、余りに深く広かった。
 だが、この少年が、人の血を吸った剣を片手にして、それを望む気持は理解できると思った。
「おれの目に見えるものを知ると、おれを何か黒いもののように思う者もいる」
 少年は目を細めた。暗紅色の睫毛が、薄水色の瞳を覆い隠した。刃のようなその瞳が隠れると、彼の顔は幼く、人なつこくなる。
「だが、おれを忌む者の気持は解る。こんな世の中で、誰も死んだ後のことなど知りたくはない」
(あの人はこんな早熟な子供だったのか────?)
 セイランは彼に自分自身の子供時代の面影を見た。考え方、口のききようにも近しく思えるところがある。
「貴方が違うと知っていれば済むことだよ」
 彼のつぶやきを聞きとがめて、傷だらけの早熟な子供は顔を上げた。
「自分を、黒いものでないと────」
 セイランがそう付け加えると、少年は少し身体をふるわせて笑った。
「何故おれにそれが判る? おれには自分の正義を証す知恵などない。特にこんな日に……」
 オスカーはもう一度小さく身体をふるわせて、剣にかけた指に力を入れたようだった。セイランの放つ青白い光の中で、オスカーの幼い爪が白くなった。
「オスカー……」
 気持がこみ上げて、セイランは子供の身体を抱え寄せた。そっと腕を巻きつけて抱きしめた。唯の知らない子供に対しても、そして彼の身近にいるオスカーに対しても出来ない行為だった。
 だが、これは夢なのだ。
 現実より混乱しているのは当たり前だ。自分が常ならぬ行動をとっているのも不思議ではなかった。
 夢の中でさえ、少年の身体は健気なほど小さく脆かった。
 この少年から見れば自分は亡霊だが、彼に触れられてよかったと思った。彼は涙を浮かべそうになり、それを無理に飲み下した。
 少年は、自分を抱きしめる腕の中で、戸惑ったように身体を硬くしたが、ふと背中に込めた力を解いて、セイランの肩にこめかみをもたせかけた。子供の髪は夜の中でも紅く燃え、皮膚は炎をはらんだように熱かった。この少年を見ただけで、彼の将来を暗示する非凡なものが、小さな身体の中に眠っているのが分かる。
「あなたは、ひとから忌まれるような者じゃない。必ず何者かを支える存在になる。……僕には慰めはあげられないけど、それだけは約束出来る……」
 彼に抱かれた少年が、喉の奥で低く笑うのが間近に聞こえた。
「幽霊」
 少年はそっと呼び掛け、セイランの髪を軽くたぐって自分に振り向かせた。セイランの濡れた瞳をのぞき込んだオスカーは、子供特有の華奢な唇で微笑んだ。
「莫迦、それが慰めでなければ何だよ。……」

 突然何かが破裂したように光が弾けた。セイランの視界を白いものが埋めて、それはやがて黒みがかった灰色のもやになって広がった。目の前に座った少年や、夜の森や、血の匂い、寂しい夜が消えて、全てが歪んだ。少年の目が何か云いたげにまたたくのが見えた。唇が動いた。彼の言葉の行方だけでも見届けようとしたセイランの意識を、覚醒の波が引き戻した。
「セイラン」
 突然てのひらを打ち合わせたように、現実が戻ってきた。
 彼は、息を弾ませて寝台の上にあおのいていた。学芸館の天井が目に入る。次いで、彼の名前を呼んだ男の顔が。
 一瞬記憶が渾然として、セイランは身体をこわばらせたまま動けなかった。
「どうした? うなされていたようだが」
 セイランは起き上がった。まだ息が整わない。
 胸の中で鼓動が鳴り続けている。
 あれがほんの一瞬の間に観た夢なのだろうか。彼は、濡れた自分の頬に触れてみた。
「オスカー様」
 彼は、嗄れた声で男の名前を呼んだ。その声は自分の中を通り抜けた激情をそのままうつしているように思えた。炎のような髪の、大きな男を見つめる。彼の広げた手のひらの大きさ、セイランの身体を包み込んで余る長い腕、鞭のような背筋を備えた広い背中を眺めた。まるで別人のようだが、氷の刃を含んだ独特の瞳のいろは紛れもなく同じものだった。
(「おれを忌む者がいるのも分かる……」)
 少年のしゃがれ声が耳について離れない。
「死んだ人の魂を見たことがある……?」
 彼の問いに、オスカーは奇妙な表情になった。
「戦場に出ていたころ、昔は見たことがあるが……」
「……もう見えなくなりましたか?」
「ああ。守護聖になったのと全く同じ時期に見えなくなったな……」
 それが暗示することに思い当たって、セイランはため息をついた。この男は、世界にたむける力を手にして、死者の嘆きを聞かずとも生きることが出来るようになったのだろう。能力の成就が心を落ち着かせたのかもしれない。それまで彼はおそらく苦しんでいた筈だ。ひとと世界と、そして自分とを結んだ生死や力の構造について。
 そして自分の、彼への複雑な賛美の理由はそこにあったように思う。彼の苦しみをかぎあて、何か無惨で美しいものを好んで眺めるように惹かれていたのだ。
「オスカー様」
 声が喉に絡む。
「僕は、まだ何も整理がついていないし、すぐに決断を下す気もない」
 なめらかに声を出そうと、彼はそっと息を調える。
「……でも、あなたを同じ人間として扱っていなかった────何か、まるで異質なもののように遠ざけたことについてはおわびします」
「突然どうしたんだ」
 オスカーの口調の中に当惑と苦笑がまじった。
 それは当然だろう。昼まで彼はあれほど、刺々しくオスカーに食いついていたのだ。
 夢────だとは思うが、セイランは、どこかであれは本当に起こったことだと理解していた。聖地は不可思議な場所だ。時折ああいった形で、現在と未来、過去が位置を入れ替えて、それぞれに属する者同士を触れ合わせる瞬間があるのだろう。
 彼は紛れもない、目の前の男の過去を訪ねて来たのだ。ほんの僅かな間だが、戦場で人を殺した記憶に蒼い目を凍てつかせた、少年時代のオスカーの姿を見つめた。幽霊、となつかしげに、親しげに呼び掛けたおさない声も確かに聞いた。
 そして、あの戦場で自分と彼の時間が一瞬触れ合って重なったことが、オスカーの、セイランへの現在の執着にかかわっているのではないか、と彼は思った。
 だがそれを確かめてみようとは思わない。二人の抱えた恋は、あくまで、今現在の彼と自分の関わりの上でのことだ。
 彼は黙って立ち上がり、オスカーに顔を見られるまいと背を向けた。
 いまだに名残をみせて睫毛を湿らせるものを拭い取ろうとした時、ふと、オスカーの体熱が彼の背中を包むのが分かった。長い腕が彼の身体をくるみ込むように巻き締めた。
 抗わないセイランをいぶかしむように、あたたかな唇が耳元に触れた。そんなことを許したのは初めてだった。オスカーがそんな風に振舞うのも初めてだ。
 彼の触れたところから、痛みに似た甘さが走り抜ける。まるで自分から誘うようだと思いながら、大きく身を震わせる。彼は自分を抱きしめる腕を撫でた。太い筋と骨で構成された、それそのものが鋼の剣のような腕だった。何度戦場に出て闘ったか知れない強靱な腕だ。
「本当にどうした……? 今日は」
 オスカーの息にひそかな笑いと熱気がまじる。
「昔のことを思いだしてたんです」
 セイランは微苦笑と共にささやく。
「今は、ここから、おれ以外を閉め出して欲しいもんだな」
 てのひらがあがって、ゆっくりと胸の上をなぞる。その動きに添って、ぞくりと快感が走り抜けた。そうしながらオスカーは、髪の先に、鼓動をかくした首筋に、順々に唇を押しあてた。
 その言葉に苦笑がこみ上げた。
 嘘ではない。但しセイランの振り返っていた過去は、自分のそれではなく、オスカーの過去だ。だが、説明したところで彼は信じないだろう。
 それに、口に出さずに置いておきたいとも思った。あの夜の森での一時はあの少年と自分だけの秘密だ。現在のオスカーでさえ、あの夜に立ち入らせたくはない。
 感情が飽和状態になるのをようやく抑えて、セイランはオスカーに向き直った。
 この男への想いが存在するのは確かだ。それはもう分かっている。
 数々の嫉妬や痛み、感傷や迷いがそれを証している。そして、そうでなければ彼の思いが夢の扉をくぐって、あの戦場へと飛んでゆく筈はないのだ。
(「幽霊……」)
 再びささやきかけてくる少年の声を、唇を、てのひらを思い起こしながら、セイランは男の熱く清潔な唇にそっと触れた。彼の皮膚のどこにも、今は血の匂いはしない。
 オスカーは再びいぶかしむような表情を見せた。だが、結局はそれを、セイラン一流の気まぐれだと受け取ってあきらめたようだった。
 今夜はこの男を拒めない。そう思う間もなく、矢継ぎ早に、手慣れた愛撫が、彼の背中へ、うなじへ這い上がってくる。服の上からでも熱く感じる指が膝を割ったときでさえ、抱きしめ返す腕に力を込める以外のことは出来なかった。
 圧倒的な口づけを受けとめる。自分は誰に心を預けようとしているのだろう。あの少年だろうか。それとも本当にこの男に全てを渡してしまうつもりなのだろうか。
 セイランは迷いとなつかしさを追いやり、目の前の男以外の全てを消し去るために、夢の名残に濡れたまつげを閉じた。
 

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