地上楽園の幽霊の続き。
オスカーは陽が高くなったころ起き出して入浴した。
昨日抱いた男は、彼が起き出した時はまだ眠っていた。もうせんオスカーが手に入れた花は、猛毒を持っている。気をつけてそっと触れないと猛毒の棘に刺されることがあるのだ。セイランとうまく付き合うには、彼がいつ眠ろうと起きようと気にせずに、放っておくことだとオスカーは学んだ。男を受け止め慣れた女にはない、その生硬さととげとげしさは、オスカーにはむしろ新鮮で快い。
彼が入浴を済ませて帰ってくると、セイランは目を覚ましていた。
部屋の中は午後の日差しにみたされて夏のようにあたたかく(それはオスカーの記憶の中の、故郷の夏だ)、セイランは珍しく服をつけないまま、形の良い背中や脚を剥き出しにして寝台に腹ばいになっていた。片肘を敷布の上について、全身を光の中にさらけ出している。
彼が、細い銀色の煙管を手にしていることにオスカーは気づく。変わった形の煙管だった。先に小さな花をつけた細い銀色の花茎を手にしているようにも見えた。それは実際に花の茎ほどの太さしかない華奢な細工で、ほとんど煙を肺に送り込む役には立たないだろうと思われた。
もっとも、ほんの少し呼吸を乱しただけで苦しそうにするセイランの儚い胸郭には、その程度の煙があれば充分なのだろう。
オスカーは、目の前に横たわった男の、少年のように華奢だが形よく筋のはった背中や腰、白い首筋に風変わりな色の髪の筋がまつわるさまに、瞬間的にみとれた。部屋には何か特殊な香のまじった煙が淡くたちこめている。
紫色に近い蒼い目を、セイランは窓の外に揺れ動く緑と光に据え、夢を見るような表情で時折煙を吸いこんではゆっくりと吐き出す。オスカーが入ってきた音にも振り向かない。
「セイラン?」
声をかけたが、セイランは思いにふけっているようで答がなかった。悪戯ごころで彼の側に座り、背中をなでると、ようやく目を上げてオスカーを見た。その時オスカーは、香の中にまじったある成分に気づいて、あきれて眉をひそめた。
「お前、何を吸ってる?」
「いろいろなことを忘れる薬かな……」
そう云って、セイランはいかにも面倒そうな顔をして起き上がった。傍らに脱ぎ捨ててあったローブをはおる。
「ご心配なく。聖地の治安を守るお方の私邸に、問題になるようなものを持ちこんだりしませんよ。
どこにでも咲いているような花を、少し煙草に混ぜて、少しの間だけ夢を見る訳です」
「俺に言わせれば、あえて意識を飛ばすなんてことは悪趣味以外の何ものでもないがな」
「あなたのような方にはそうでしょうよ、オスカー様」
芸術家は意外にも愛想良く微笑み、うすむらさきいろの煙を一筋あげる銀の花をかたわらに押しやった。
「創作に必要だとでもいうのか?そんなものが」
「故郷にいる時は時々吸いましたけど、ここにきてからは初めてですね。聖地というところは、もっと荘厳で静かなところかと思えば、やんちゃな女王様に、初等学校のクラス委員みたいな守護聖様、賑やかでお節介で、感傷にふける暇もありませんからね」
セイランは、女王試験が終了した後も、しばらく聖地にとどまることを、つい先日決めたばかりだった。苦労のすえ、彼を手に入れた炎の守護聖は、それが自分のためだということを充分に自覚していた。そして、彼のその決心に見合うだけの愛を差し出したという自負が彼の中にはある。
だが、オスカーが苦心して手に入れたこの恋人は、聖地にとどまることを決めて以来、いつもどこか苛々と不安定だった。
不機嫌なのはいつものことだったが、すぐにぼんやりしたり、何時間も白いままのカンバスを前に筆を握ったまま座っているようなこともあった。
そもそも、何がきっかけで、逃げ回っていたセイランが自分に応えようと思ったのか、それもオスカーには判らなかった。ひとまず自分の望みどおりになったのだから、その理由など本当はどうでもいいようにも思ったが、こと恋に関しては自信たっぷりのこの男も、セイランの天候の変化の烈しさはもてあましぎみだった。
昨晩は、突然セイランが訪ねてきたのだった。
(「先約がなければ今晩、一緒に過ごしませんか?」)
セイランは断れるものなら断ってみろ、というような微笑を浮かべて、案内の女とオスカーの前に立った。一緒に数時間すごすならともかく、寝床を共にすることについて、セイランはいつも、さほど乗り気には思えなかった。珍しいこともあったものだ。そう思ってオスカーは機嫌よくセイランを迎え入れ、土の曜日の夜を共に過ごした。
そして一夜の夢から明けて目を覚ませば、色々なことを忘れてしまいたい、などと云い出すのだから始末が悪い。
「それで?」
彼は、立ち上がって浴室の方へ行こうとした青年の顎をとらえて、瞳を間近に覗きこんだ。
「何がですか?」
「お前は今日はどんな感傷にひたっていたんだって? セイラン」
軽口か、そうでなければ何か攻撃的な言葉でも返ってくるかと思って云った言葉だった。しかしセイランの反応は、オスカーの思ったものとは違った。
彼はどこかもの寂しげに微笑み、思案するように首をかしげた。
「しばらく前に、死んだ人の魂を見たことがあるか、と聞いたことを覚えているかな、貴方は」
オスカーはうなずいた。あの時も彼は何故、そんなことを尋ねられるのか判らずに、戸惑ったものだ。
「ああ。覚えているが?」
「子供のころは、貴方はそういったものをよく見たそうだね?『黒いもの』を。……」
「……」
オスカーは奇妙な既視感にとらわれた。前にもこんな話をしたことがあると思った。しかしそれは今目の前にいるセイランとではない。もっと昔、記憶の底にうずめ去ってしまったほどの昔に、このことについて言葉を交わした記憶だった。
彼は、セイランが云った通り、子供のころ、死者の魂が人のかたちを残している様子を幾度となく見た。それは後味が悪く不条理な光景だった。悪意を持って死んだものは、瞳にぽっかりと黒い澱みを残している。そうでなくても死んだ人の魂は瞳の印象がはっきりしないものだが、悪意を持った者はことさらに瞳が黒く昏い。
オスカーは幼いころ、そういった者たちを黒いもの、と呼んでいたのだった。
だが、それはひどく昔のことだ。普通に考えれば、子供のころから今まではほんの十年かそこらの時間しかたっていないことになるが、実際にはオスカーが聖地に渡ってきてからは、それよりはるかに長い時間がたっている。
自分がそういった呼び方をしていたことさえ忘れていた。
ましてやセイランにそんな話をしたことはない筈だった。自分が死者の魂に出会うことは、オスカーにとっては子供のころの忌まわしい思い出であったからだ。
夜中の戦場で、自分が殺した男が、ぼんやりと剣を携えたまま、帰り道がわからないように立ちすくんでいるのを見たこともある。戦場では敵同士として出会った者だが、そんな、人とも云えないようなものに変わっている姿を見ると哀れでむごたらしい。
死んだ者は一様によく目が見えないのだということもオスカーは知っていた。闇の中で彼らは迷っている。戦場ほど多くの人間が迷っている場所はない。
青白い光に包まれて、どこに行けばいいのかわからない者が、死の直前に着ていたのと同じ鎧を着けて剣を持ち、ぼんやりと立っている。喋る者もいるが、向こうの言葉はよく聞きとれず、こちらの言葉も向こうにはよく聞こえない。
オスカーは聖地に来てからはそういった「黒いもの」を見ることはなくなった。守護聖としての力を得てからのオスカーは、どこかいつも自身の情動が鈍っているように思えた。
自分の感情が閉じて、逆に何か目に見えないパイプで大きな器につながり、そこから流れ込んでくるものの代わりに、自分からもその器に全てを与えてしまったような、そんな錯覚があるのだ。
その中で、オスカーにとって恋愛感情だけが、自分自身のものとして手元に残されていた。
「器」は自分の恋心など必要としていないのだろう。だからこれは取り上げられず、自分の手元に残されているのだろう。
オスカーはそんなふうに思うことがある。そのほかは義務感も怒りも、世界の変わりゆく様を見ていとしく思うこと哀れに思うこと、全てがその器によって加減され、調整されているように思えるのだ。
全てのことに現実感がないと云ってもいい。
人の身体と人の能力の中で、死と隣り合わせて軍人として生きた少年時代、彼は烈しく鋭敏な気性を持っていた。それらを全て、目には見えない、高いところにおわす者に明け渡したように感じている。少年時代の残り火のように恋心に熱くなる時、オスカーはかつて自分が人間であったこと、そして今もそうであることを実感する。
「お前に黒いもの、なんてそんな話をしたことがあったか……?」
「ありましたよ」
セイランは彼に向き直った。彼の腕にそっと冷たい指が触れてくる。
「あの時あなたはひどく疲れて眠りかけていたから、僕にどんな話をしたかなんて覚えていないんじゃないかな?」
彼はそう云った。
「どうもおかしな具合だな……」
自分とした会話について忘れているというのに、そんな穏やかな声を出すのが気味悪く思えて、オスカーは笑った。
「ねえ、オスカー様。何か、貴方が見た幽霊の話をしてもらえませんか、ひとつだけ」
そしてセイランは、そんなことを云い出した。話してくれ、と云っているのにさほど乗り気でないように唇に苦笑が乗っている。
「どうしてそんな話を聞きたがるんだ?」
オスカーはいまだ割り切れない、不可解な気分でつぶやいた。何かを思い出せずにいるような、少しじれったいものが喉元をちくりと刺した。
彼は首を振って、セイランの腕をかすかに引いた。
「あまりいい思い出は無い」
セイランの瞳が、再び正体の判らない寂しさにかげったように思えた。
「……ひとつも?」
妙にもの優しいささやきがオスカーの胸を擽った。彼は迷った。死者の魂のまつわる思い出にも甘いものがひとつだけある。昔、たった一人とだけ、はっきりと言葉を交わしたことがある。「それ」は白く静かに光る女の姿をしていたように思う。初めて戦場に出た晩、光る女は夜の森の中に現れて、彼と言葉を交わしたのだ。
「ひとつはあるな。……もう、本当に昔のことだが」
オスカーはため息をついた。
「だがあまり話したくはない」
そういうと、セイランは長いまつげをしばたたいた。
「何故ですか?」
「話すと、そのあと忘れちまいそうだからな」
オスカーは苦笑した。
その女と交わした言葉は、長い間オスカーを支えた。
闇の中で蒼く光る美麗な女の亡霊は、あなたは必ず何かを支える存在になる、と云ったのだ。決して忌まれるものでない、と。子供だったとはいえ、何故オスカーがそれを無条件に信じたのかは判らない。戦場で現れた亡霊が、自分にそんな言葉をかけるのも不可解な出来事だった。
だが、戦場でひとを殺す軍人であり、亡者の魂が浄化されずに迷う姿を見る目を持った青年にとって、その言葉は光だった。いつか自分が誰かを支えるかも知れない、と思うことはを毎日の虚しさをやわらかになだめた。
彼は長い間、その女のことを誰にも話さなかった。話せばその言葉が魔力を失うような気がした。封じ込めている限り、過去の思い出は光と甘やかさを失わないように思えたのだ。
そして少年時代の終りに彼は守護聖としての能力に目覚め、その時あらためて、女の言葉を思い返すこととなった。あの女の顔も声も忘れてしまった。異国風のアクセントで、華奢で背の高い女だったという、漠然としたイメージだけが残っていた。
初めて出陣した晩に出逢った亡霊が、オスカーに投げかけた慰めは、彼の意識の変革と共に徐々に威力を失ったが、しかし、その代わり甘い思い出として胸の中に残った。守護聖として聖地に来てからも長い時間がたった。だがオスカーは、やはり子供の頃に奉じた神像を隠すように、その話を誰にもして聞かせなかった。
「そうですね。自分の言葉に変えることで失われてしまうものはある」
彼の思いの合間にするりと入りこむようにセイランがつぶやいた。
「それは判る気がします」
「お前が?」
言葉に置き換えることで、万象に意味を持たせる仕事に携わるセイランの言葉としては意外だった。
「そういう思い出はありますよ。出会った瞬間とても大切になって、なのにあっという間に二度と会えなくなった人────」
そう云って肩をすくめる。
「別にその人に恋をしたわけじゃない。夢のようなものだったのに、一向に印象が色褪せないから焦っているのかもしれないな……」
声が低くなる。そしてセイランは少し早口につけくわえた。
「今、目の前にいるひとだって印象はかなり強いんですけどね」
オスカーは笑った。セイランが彼らしくもなく気を使ったのが可笑しかったのだ。
「そういうものを忘れるのに、何かに逃げ込みたいこともあるわけです。忘れな草を混ぜた煙草の一本でもいいし、誰かを無性に訪ねていきたくなることもある」
「なるほど……?」
オスカーはそう云って、隣に座ったセイランの身体を抱き寄せた。
それが昨晩の訪問と云う訳だ。
セイランは抗わずに彼の胸に抱きこまれたまま、静かに息をついた。昨日幾度も欲望に従わせて満足したと思ったが、かすかな嫉妬心が芽生えたせいか、また痛いほどに衝動が込み上げてくる。オスカーはあたたかな首筋に唇を潜り込ませた。セイランの使う甘酸っぱい香水の香りが髪の中からたちのぼって、オスカーは再び奇妙な既視感を覚える。
前にも、セイラン以外の人がこの香を身につけていたのではなかっただろうか。
誰か別の女が身につけていたのだろう。一瞬それが、森の中で出会った光の女であったように思える。だがそれは出来過ぎな記憶の混同というものだ。
あれは昔のことだ。もう、あの森の中の夜を過ごしてから、下界では百年以上過ぎてしまった。オスカーの兄も両親も、妹も死んで土に返った。
その瞬間オスカーは、この青年が、そういった思いをすることを承知で、聖地に残ると云ったのを思い返した。
胸の中で、欲望と衝動の隙間を、あたたかい愛しさが濡らした。
セイランの漏らした吐息を合図に、オスカーは彼を自分の下に敷きこんで、今まとったばかりの布を引きはがした。
セイランがオスカーの腕に触れて、そして不可解なものを確かめるように自分の背中を抱きしめて笑ったのをオスカーは見た。
「何だ?セイラン」
「背が高いんですね、ずいぶん。……」
あえぐようにつぶやいて、セイランは彼に口づけた。今更何を云っているのだろう。そんなふうに思いながら、オスカーはいささか潤いの足りないまま彼の中に入りこんだ。ひきつれる苦痛に似た快感が彼と、おそらくセイランの両方に訪れて、ごく似通った感覚を彼らは共有する。セイランは呷きを喉の奥にかみ殺して、深く息を吐き、オスカーに合わせた。
そしてやはり彼らは恋をしているのだ。
忘れられぬ、褪せぬ恋を、今も昔も目の前のひとに。