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命みじかし恋せよ乙女

02 21 *2013 | Category 二次::アンジェ02・オスセイ

独立した話。

続き










「セイラン様、いらっしゃいますか?」
 この気難しい芸術家の部屋の扉を叩くのは、いまだにアンジェリークにとって勇気のいることだった。中から、お入り、という返事があって、静かに扉を開ける。この細身の青年は、気性はともかく、挙措や物腰がゆったりと静かで、その彼のテリトリーに入る時、うっかり騒々しい物音を立てようものなら、手ひどくやりこめられることは分かっているからだ。
「やあ、アンジェリーク、こんな格好で失礼するよ」
 入ってきた彼女をかえりみたセイランの姿を見て、アンジェリークは目を丸くした。
「どうなさったんですか、セイラン様」
 セイランはいつもの礼服ではなく、絵の具の跡のついた黒っぽい上着の袖をまくり上げ、何か荷造りをしているようだった。あたりには彼の書きかけた油絵や木炭画、畳んだイーゼルが積んである。大きく口を開けたトランクに、文字を書きつけた紙がぎっしりと詰め込まれていた。
「何って荷造りだよ」
 肩にかかる程度だが、少し長めの髪を、セイランは今日は紐で後ろに結んでいた。いつもは隠れている、形の良い顎が見えている。そんな格好をしているセイランを見るのは初めてのことだった。
「何故荷造りなんかなさってるんですか?」
 アンジェリークはうわずった声を上げた。一瞬の間に悪い想像が駆けめぐる。女王候補の出来の悪さに辟易として(レイチェルが聞いたら憤慨しそうだが)、愛想を尽かして聖地を出て行ってしまうのではないかと思ったのだ。
「ああ、それはね」
 セイランは、脇に散らばっていた最後の紙をトランクに詰めこみ、紙の厚みに喘いでうまく閉まらないでいるトランクの蓋に、片膝を乗せて鍵をかけた。
「聖地にいる間は、創作するのをやめるつもりなんだ」
「は?」
 思わず聞き返すと、重ねて云おうとはせずに、セイランはちらりと蒼みがかったまつげを上げてアンジェリークを見上げた。
「そんなに不明瞭な発音をした覚えはないんだけどね」
「ああ、いえ、おっしゃったことはちゃんと聞こえました。けど……セイラン様からそんなお言葉を聞くなんて、とても思えなかったから……」
 この、感性の教官をつとめる青年が、どんな存在であるのか、アンジェリークは最近ようよう知ったところだ。名前はもちろん今までにも聞いたことがあったが、彼の描いたもの、記した文字、そのひとつひとつが、何故多くの人の熱狂を呼ぶのか、そのカリスマ性を、自分の目で確かめ始めたばかりなのだ。つくるために生まれてきたような人なのだ。そう思った。その彼が、創作活動一本の生活から自分たちの教官として聖地にやってきたことを思うと、胸が震えるようだった。彼のはたらきに応えなければ、と、胸が熱くなった。その彼の口から、創作を休もうと思う、という言葉が出るのは、聖地を出て行くというよりも意外に思えたのだ。
「創作してる暇なんてなくなってしまったんだ」
 アンジェリークは目を丸くした。
「どうしてですか?」
「君にそれを云われるとは思わなかったね、アンジェリーク。僕は何をしに聖地に来てると思ってるんだい?」
 今度はアンジェリークは真っ赤になった。絶句していると、セイランは立ち上がり、髪を結んだ紐をほどいた。
「散らかしてて悪かったね、君が今日来るとは思わなかったから。さっさと片づけてしまおうと思って。……ヴィクトールと学習の約束があったんじゃなかったのかい?」
「そうなんです。あ、それで、これ……」
 彼女は慌てて、抱えていた紙ばさみからレポート用紙を取り出した。
「この間お話を聞かせて頂いた時の、私の解釈が足りないっておっしゃってたものを、考えてまとめてきたんです。お預けしたら、読んで頂けないでしょうか」
「もちろん読ませてもらうよ」
 セイランは数枚の紙片を受け取って不意に微笑んだ。それは奇妙にまぶしい、充実した微笑みで、アンジェリークは一瞬正視できずに、思わずうつむいた。じゃあ、よろしくお願いします、と口ごもるようにして云うと、レポートを青年の手に押しつけた。何か云わなければと思いながら、結局、どぎまぎしながら頭を下げ、そのまま部屋を出て行ってしまった。
 何か心境の変化でもおありだったのかしら。
 部屋の外で、セイランの、光の差してくるような微笑を思い返す。あんな顔で微笑むセイランを彼女はまだ見たことがない。いつも彼はかすかに口許を歪めて皮肉な表情を浮かべていた。それは、芸術家としての彼の性質にふさわしいと思いながら、どこか壁を作られているような居心地の悪さがあった。しかし、あんな微笑を浮かべられては、居心地が悪いどころではない。正視できないまぶしさだったのだ。
 アンジェリークが走り出した後を、部屋に取り残されたセイランは怪訝な顔で見つめた。何故突然彼女が慌て出したのか知らないセイランは、ふたたび微笑した。
「いつも何だかバタバタしてるな、アンジェリークは……」
 肩をすくめると、一旦ほどいた髪を結び直し、また荷物をまとめ始めた。


 きっかけは昨日、王立研究所の研究員のエルンストから、女王試験の期限について、一年間以上にのぼることはないと聞かされたことだった。
(「あのふたつの球体、そして誕生した聖獣が、新しい宇宙の『卵』であったことは、女王陛下からご説明があった通りですが……」)
 自分たちは、いつまでここにいることになるのか、というセイランの問いに、意外にもあっさりと答が返ってきた。
(「聖獣が誕生したとはいえ、あの宇宙がいまだ不安定な『卵』であることに変わりはありません。一刻も早く、目覚めた新女王の力を注いでやる必要があります。今の中途半端な育成で、存在を保っていられる期間は、約一年。それを過ぎれば、温められずに腐る卵のように、新宇宙はおそらく崩壊します。ですから、女王試験が一年以上続くということは、およそあり得ないことなのです」)
(「なるほどね……」)
 セイランは考えこんだ。自分の中で、もやもやと形にならなかった不安や、迷いが晴れてゆくのを感じた。
 これはむしろ彼に残酷だろうか。寄せられた好意に不実だろうか。
(「参考になったよ、ありがとう、エルンスト」)
 霧が晴れた爽快感に思わず微笑すると、エルンストが何か驚いたような顔でセイランを見るのが分かった。どうしたというのだろう。そう思いながら、王立研究院を離れた。
 彼はその晩夜半過ぎまで眠らずに考えた。
 あたたかい聖地の風が入ってくるのに任せて、窓を開け放ち、薄蒼い光の中に座って、聖地の夜を眺めていた。木の葉の影が不思議な模様を織りなす薄闇、火照った額を優しくくるむ夜気の中で、自らの内側に深く分け入って、甘苦い痛みを伴う迷いを楽しんだ。
 朝の光が差して来る頃、彼は一通の手紙を書いた。学芸館につとめる者に頼んで、その手紙を届けさせた後、部屋の整理を始めた。
 一晩、まったく眠っていなかったが、まるでつらくはなかった。今日はアンジェリークの来る予定の日ではなかった。出かけずに、用を済ませてしまうつもりだった。イーゼルを畳み、書きかけていた絵を全て紐でくくった。もとより、彼は社会的抑圧の生むアンチテーゼを描く画家であり、詩人であった。この聖地で創作する必要はない。たかが一年描かなかったからといって、衰えるような筆ではないことに自負心もあった。
 アンジェリークが訪れて、さらに数時間たつと、再び聖地に夕刻が訪れた。建物ごとにほつりほつりと灯りが点され、美しく古風な建物を抱いた聖地は、薄紫の夕刻の光に照らされて、ますます美しくなる。聖地でさえ、この早い夜には魔が訪れるように思える。聖地は何と美しいのだろう。
 セイランは、埃に汚れた身体を入浴して清め、髪を洗って、湿ったままの髪でテラスに出た。
 明かりはつけなかった。よその部屋に点る灯りを見つめて物思いにふけった。眠りが足りないせいか、浅く痺れたような身体の芯に、先刻つけた香水の香りが染み透ってくる。
 髪が乾き始めた頃、扉を叩く者があった。誰なのかは薄々分かっていた。
「どうぞ」
 声をかけると、その人らしくない間を置いて、向こう側に沈黙が流れた後、扉がゆっくりと開いた。男の額に下がる炎のような色の髪を、薄あかりの中に見分けて、セイランは微笑んだ。
「やあ、ご足労頂いてすみませんでした」
「珍しい誘いもあったものだが……」
「今まで、聖地の夜を見に行こうと誘って下さってたのは、貴方だったと思うけど?」
「日が暮れてから俺と二人きりになるのはごめんだと云ってたのも、お前だったと思うがな」
 オスカーは珍しく戸惑ったように笑う。ふとその唇から笑みが消えた。答えるつもりで微笑したセイランの顔をまじまじと見つめる。
「何です、汚れでもついてる?」
 セイランは自分の頬にてのひらをあてがってみた。浴室の鏡で確かめて、そんなことはないと分かっていたが、ちらりと不安になる。そう云えば、昼過ぎに会ったアンジェリークも奇妙な顔で自分を見ていた。
「何かおかしいですか?」
「いや、そんなこともないが、おかしいとも云えるか。……まあいい」
 セイランが朝、書いた手紙はオスカー宛だった。オスカーが度々、聖地を見下ろす崖に、夜、遠乗りに行こうと誘っていたことへの承諾の手紙だった。
(「どうして僕が、貴方に馬に乗せられて出かけなきゃいけないんです」)
 誘われるたび、自分では馬に乗らないセイランが、眉をひそめてそう返したのは一度や二度ではなかった。それが朝一番に、気持ちが変わっていなければ、夜にでも学芸館へ、という手紙で呼び出されたのだ。オスカーの戸惑いももっともだろう。
「やっと俺の気持ちを受け入れる気になったのかと思ってな」
 オスカーが軽口をきく。いつもなら、都合のいい解釈をしないで欲しいね、と返すところだ。
そしてオスカー自身も、そう返されることを予期して云った言葉なのではないかと、セイランは内心思う。彼は手を伸ばして、硬い布に包まれた男の二の腕に指をかけた。驚いたように見下ろす男に向かって、ゆっくりと微笑みかけた。
「そうだと云ったらどうします?」
 ささやきかけた。


 オスカーが本気なのは分かっていた。この男が、女性と見誤るようなセイランの外観にまずは惹かれ、次に彼自身の内面にも興味を持ったのだと、違えようもなく伝わってきた。最初は冗談まじりにも思えたオスカーの誘いは、日を追って熱と甘みを帯びていった。
 不快感はなかった。最初に戸惑いがあったが、徐々にオスカーを見つめる機会は多くなった。
首位の守護聖であるジュリアスの側近的な存在であり、聖地の治安を守るための唯一の武装組織を束ねる男。
 彼は四角四面で融通のきかない一面もあるのに、殊に恋愛の絡んだことにだけ、奇妙に崩れるのだ。その歪みが興味深かった。ひととしての人生を失った代償行為だろうか。それとも長くこんな場所にいて、どこかが壊れたのだろうか。意に染まぬ場所に置かれた末に、ゆっくりと壊れてゆく、ごく平凡なひとりのひとのように。
 オスカーを見つめて考えこんだ時間は長く、その分彼をじらすことになった。
 ある日、セイランは、傍らに立って自分を見つめるオスカーの目が、不意に本気になったことを悟った。本気で牙を突き立てようという男の目になっていた。楽しもうという好奇心半分の表情ではなかった。ここしばらく、この猛々しく美しい男は焦らされたことなどないのだろう。
 ひとの心は壊れる。
 セイランは身をもってそれを知っている。
 彼の心の中にも破損したところがあるからだ。
 それは、想うこころが持続しないということだった。

 自分の心がいつ欠け落ちたのか、彼は薄々知っている。
 母星にいた、ごく幼い頃のことだ。
 彼の目の前で人が死んだのだ。それが誰だったのか分からない。その前後の記憶が抜け落ちているからだ。ただ、目の前で誰かが死んだこと、その誰かが幼い子供だった彼にとって大切なひとだったことは確かだった。しかも、心にひびを入れるようなむごたらしい死に方をしたに違いなかった。それはおそらく母親だったのではないかと、のちにセイランは思うようになった。
 彼の記憶は六歳以降のものしかないのだ。それ以前の記憶はまるでなく、彼が預け入れられた政府の施設では、彼の過去について一切語られることはなかった。彼は繰り返しカウンセリングを受け、その過程で、天才的な頭脳を持っていることが分かった。同時に彼は、絵を描き、文を操ることにおいて、稀にみる才能を発揮した。すぐに何人もの専門家がついて、彼の才能を伸ばすために指導にあたった。
 政府の施設を抜け出したのは一三歳の頃だった。彼は自国の政府の、能力的カースト制度とも云える、エリート思想に烈しく反発したのだった。いささかすさんだ暮らしもした。レジスタンスにまつり上げられそうになって、彼らをもまた拒んだ。そのために命を狙われたこともある。
 記憶をなくしているため、彼の人生は、始まってからまだ一三年にしかならない。全てがその一三年間に起こったことだった。
 施設から逃亡した頃だっただろうか。
 自分が何ものかを愛する気持ちが、せいぜいもって一年もすると消え失せてしまうことに気づいたのは。
 愛国心であれ、自身の作品に対する執着心であれ、全てのものへの愛情が、ある水位まで達すると、とたんに枯れて乾いてしまう。目の前で死んで行った誰かへの思いが突然断ち切られたことによって、自分の心の機能のどこかが壊れてしまったのではないか。彼はそう考えている。
 何かに突然惚れ込むというような経験はなく、何ものであれ、セイランが想いを傾けるためには、自分でもうんざりするほどのプロセスが必要だった。
 興味をもつ。見つめる。それから水位が上がってゆく。ゆっくりと水が下流に向かって流れてゆくように、広さや速度、深さが増してゆく。
 だがその流れは海につかない。
 ある日、河床で突然干上がってしまうのだ。しかもその終焉はほんの一年もすると訪れる。
 どんなに深く想っても、恋も、義も、そのひとと関わりたいと思う好意すら、無機質な銀色の表皮を見せて、乾いたかさぶたのように横たわる。かつての傷の所在をうかがわせる膿すらも残さずに、ほつりと乾いたものが心の表面に乗る。
 それでおしまいなのだった。
 セイランはオスカーの誇りを傷つけたくなかった。
 そう思うほどに彼を想っているのだと気づいたのは、最近のことだった。
(「女王試験が、一年以上続くということはおよそあり得ないのです」)
 エルンストの無機質な声は、セイランにとって、天の声のように聞こえた。
 それならば、あの情熱家の炎の守護聖の誇りを傷つけることなく、自分は彼から去ってゆける。一年以内にここを出てゆくのなら、真実の涙と別れの苦痛を彼にささげることが出来るだろう。
 創作なんてしている暇はないんだ、アンジェリーク。
 この聖地にいる一年間。目覚めたばかりのうすばかげろうのような彼の恋の一日一日を、全てオスカーに与えても悔いはなかった。
 今日この日、はかり違えようなく、セイランはオスカーを愛しはじめていたのだ。

 もし。
 これが唯一の例外だった時、自分はどうするのだろう。
 オスカーに自分の気持ちをどう打ち明けようかと迷いながら、セイランは考える。
 一年でこの恋が醒めなかったら。
 自分は傷つくだろう。
 しかしオスカーの中に、さほど深い傷が残らないのならばそれもいい。
 献身的に過ぎるだろうか。
 しかし、恋とはそういったものではないだろうか?

 オスカーが彼を連れて行った聖地の崖は、宮殿と、その周囲に放射状に散った、ささやかで美しい街をみはるかす位置にあった。
 星のような木の実をつけた樹が、両脇から黒いレースのように腕をさしのべている。その中の一本に馬をつなぎ、アーチのような木々の間をくぐって、崖のふちに立つ。扇形に配された町並みにまたたく灯りをしばらく眺めていたセイランは、夜景に背を向けてオスカーを振り返った。
「綺麗ですね。貴方が何人のひととここに来たのかは分からないけどね?」
「……今日に限って、どうして一緒に来る気になった?」
 穏やかな声でそう尋ねる男は、ここのところセイランにいい顔をされた記憶がないはずだ。
「心を決めたから、かな」
「心を?」
 ふっと肩に熱が降りてくる。オスカーのてのひらが自分の肩に触れるのを感じてセイランは苦笑した。自分を受け入れる意思のある者の気配に何と敏感な、何と恋に長けた男だろう。こんな男を自分のものにしようと思ったら、詩句など紙に書きつけている暇はない。
「最初に云っておくけど、僕は嫉妬深いよ」
 セイランはそのてのひらを拒もうとせずに微笑んだ。オスカーがまた、先刻のように目を細めるのが分かった。その時になって彼はようやく、男が自分に見蕩れていることに気づいた。微妙な驚きを感じながら、ささやかな勝利の感触を握りしめる。こうやってオスカーを多少追いつめておかなければ、彼の望みはかなわない。セイランの望みはむろん、この恋の終演を無事に迎えることだけではなく、恋そのもの幸福の中にもあるのだ。
「誰かと貴方を共有するなんてごめんだ。少なくとも僕が貴方を好きでいる間は、貴方には他の誰かに恋をささやくような真似はさせない。……といっても、貴方の性格じゃそれも難しいだろうから……」
 自分の肩を包みこんだてのひらに、そっと指を重ねた。オスカーのてのひらが自分よりはるかに熱いことに驚かされる。オスカーは黙ったまま、蒼い瞳に薄い光を宿してセイランを見つめている。
「僕の時間のある限り、貴方の時間を独占してみようとあがくのも、ひとつの方法かと思う。女王候補の教官としてやってきた男に手を出そうっていうんだから、貴方もその位のリスクは覚悟の上だろう?」
「そんなに俺にとって都合がいい話が、リスクになるとは思えんがな」
 オスカーの声に笑みが混じる。
「最初の内だけだよ。貴方は疲れるに決まってる」
 セイランは、オスカーのうなじに腕を絡ませた。伸び上がって唇を近づけるが、届きにくい。
 こんなに背が高かったのか。誘うような真似をしてはいるものの、まだ男と触れ合った経験のないセイランは、眩暈のような羞恥を覚えながらうなじを引き寄せ、オスカーと唇を合わせた。
「女王試験が終わる前に、僕を遠ざけたくなるかもしれないよ……?」
 唇が触れそうな距離でささやいた。
「貴方がそんなばかばかしい僕の独占欲に我慢できるなら……」
 嫉妬させる前提がある貴方も、考えものだと思うけどね。
 オスカーは、セイランに最後までその攻撃的な睦言をつぶやくままにはさせておかなかった。
「望むところだ」
 苦笑混じりの囁きより一瞬前に、セイランの舌に吐息の湿り気が届き、深くは触れなかった唇の中がオスカーにおかされた。食物を摂取し、言葉を明瞭につむぐためのそこから、オスカーは何よりも明確な意思をセイランに注ぎこんだ。不特定多数の対象に男の抱く独占欲、男そのものの欲望のかたち。それは唇を介して絡み合った柔らかな器官を性器に変えてしまったようだった。
「……ン、……」
 服も脱がず、立って口づけられただけで、生々しい欲望が、すでに自分を割り開いて内側へと押し入ってくる錯覚がある。セイランはあえいだ。同性だからこそ、経験が浅くともそれを読み取ることができる。オスカーが自分をどうしようと思っているのか。欲望のもとにどう扱うつもりでいるのか。
 濡れるはずのない身体の内側が濡れてくるような歓喜が、セイランの欲望をも駆り立てた。巻きつくようにして絡んだ舌が離れると、膝の関節が震えて綿のようになった。思わず膝をつく。
 大きな獣の影のように、オスカーが彼を追って膝をついた。


 聖地を一望にする崖の、枯れかけた下草の上で、セイランはところどころ服を暴かれて、オスカーの目前にあおのいた。服はごく一部をはだけただけだが、口づけられて硬くなった胸の一部分や、荒々しい指や唇にあおられて濡れたセイランが、意外に明るい夜の中にさらけ出されている。喉がからからに乾いている。オスカーは彼に唇と舌で愛撫を加えながら、指を彼の内側に忍ばせていた。軽い痛みと疼きがあったが、熱くなったセイランには物足りないほどだった。
 今日ここに来てよかった。学芸館にいるよりかえって没頭できる。たかだか指にあやつられて背筋を跳ね上げながら、セイランはどこかでそんなふうに考えている。
 じらされる感覚に身をよじるのに疲れ、彼は腕を上げて目を覆った。涙がにじんでくる感触があった。それがどんな意味のある涙なのか、彼にも判らなかった。ただ、フラッシュバックするように、誰かが自分の前から消えて行った瞬間が浮かぶ。記憶の映像から抜き去られたひと幕だ。彼から永続する想いを奪っていった、過去の愛の映像だった。
 彼は初めて、自分から消えて行ったその人が誰だか知りたいと思った。自分にとっては一生────恋ですら、どこか燃えたフィルムの中の死と連動しているのだ。
 涙になど気づいていないと思ったオスカーがいつの間に伸び上がってきている。あたたかな息づかいでそれと知れる。
「……」
 セイランは濡れた目を上げた。
「どうして泣く?」
 オスカーの声には荒れた息が混じっている。
 恋には愚かな涙はつきものだよ。
 そんな軽口で応じるつもりだった。だが、恋の痛みと甘さにのみ込まれたセイランは、戯れを口にする代わりに首を振り、かすかに微笑んだ。

 そして、自分のその笑顔がどんな光に照らされているのか、最後まで、自身では知らないままだった。
            

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