映画版です。肉食系受けレゴラス。エルフなのに!
血で汚れた城壁の一端にその姿を見出した。汗と泥水で汚れた、疲れた男は、足を引きずるようにしてそちらへ近づいていった。日光にあたためられた大気の中には、未だ東西双方の死者の血の匂いがたちこめている。
その中で、空の彼方を見据えるエルフの姿は、金色に輝く猛禽が城壁に止まっている姿を思わせた。エルフが休まなくてもいいことを、男は誰よりもよく知っている。
だが、ガンダルフとローハンの騎士の帰還の後、今、この古い城でそれほどに気持を張りつめている者が他に居るだろうか。皆、今宵だけは暗黒が去っていったことに安堵している。夫を生きて迎えた女、そして妻を守りきった男も、辛くも勝利を得た年老いた王も。父や息子を亡くした人々も、自分たちの退けた闇が余りにも圧倒的であったが故に、今は風と太陽と、貧しい糧食を貪るしか為す術がないように見えた。偉大な王の息子であることを、花茨の足枷のようにして引きずって生きて来た、老獪な旅人さえその輪にまじらずにはいられなかった。
「千年もそうして見張っているのか?」
声をかけると、地平線の向こうを見つめていたレゴラスは、城壁の段差を身軽に飛び降りてきた。
「必要なら、その倍でも」
そう答える彼の身体が、昨夜の働きの後にも拘らず殆ど血に汚れていないことにアラゴルンは気づく。剣と斧、雨のように飛び散る矢の間を、舞うように動く彼の身体は、敵の血しぶきさえ置き去りにして戦場を走り続けた。鷹の目を持ったこの黄金の鳥は、夜闇の中でも昼と同じように飛ぶことが出来る。昨晩はその翼の持てる全ての力を尽して、またとない殺戮の道具として、この城から飛びたっていったのだ。
青年の姿をしたエルフは、疲れを見せない晴れやかな目で、無遠慮にアラゴルンの姿を眺めた。アラゴルンが昨晩身につけた甲冑は、重い義務と共に、王の娘の優しい指によって紐を解かれていた。その下から現われたのは、濡れて汚れたぼろぼろの布だ。崖の斜面に削られた肉、太刀傷、返り血。今の彼が身に纏ったのは、襤褸と血と傷跡ばかりだ。ワーグに襲われて渓谷に落ちた後、馬の背に揺られて城に帰ったアラゴルンに、このエルフは、
────ひどい有様だ。
そう云って顔を顰めた。だが今や、長旅の勇者はその時よりも更に泥と血で汚れている。
「満身創痍だな」
レゴラスは、昨日と同じように不機嫌な、だが、どこかに喜びを隠した声でささやいた。
どうやら彼は、自分の無事を喜んでくれているようだ。痩せた男はそう思う。寄る辺ない、やりきれない疲れが全身を浸していた。アラゴルンも並の人間ではないとはいえ、今日ここに至るまでの道に、骨身に滲みるような疲れを感じずにはいられなかった。
ローハンの騎士たちと、白の魔法使い、裂け谷の主の助力で一夜の勝利を得たものの、すでに彼等は、取り返しのつかないほど、力の指輪から離れてしまった。裂け谷を共に旅立った仲間は早くも散り散りになった。永遠に帰らぬ者もいる。指輪所有者の友人達の足取りも未だに掴めなかった。ガンダルフが生きて再び杖を手にした姿に出逢えたことが、今は僥倖と云うべきだった。
エルフは、男の頬骨の下の翳りを暫く眺めていたが、やがて、そろそろと口を開いた。
「自分の身を惜しむことも、今後は考えるべきだな、アラゴルン」
彼の唇がアラゴルンの名を呼ぶことは、必ずしも歓迎すべき事態とは云えない。
常に遠くをみはるかし、敵の足音に耳を澄ませるこのエルフが彼の名を呼ぶとき、それが警告の叫びであることが多いからだ。カラズラスの吹雪の中で、モリアの大広間で、ファンゴルンの森で、幾度となく彼はアラゴルンの名を呼んだ。それは常に、注意を喚起する鋭い叫びだった。多くのエルフがそうであるように、レゴラスもまた光を縒って作ったような端整な姿形をしている。だが、彼はエルフ独特の鷹揚な哲学の許に生きる存在ではなかった。レゴラスの声を聞くと、反射的に敵の姿を探す自分に気づいて、アラゴルンは失笑した。
「身を惜しんでいてこの数日を乗り切れたと思うか?」
「今後は、と云っているんだ」
レゴラスは、アラゴルンと並んで、荒涼としたヘルム峡谷を見おろした。乏しい緑と土埃の谷だった。ここで、あの大群を迎え撃った後、自分たちが無事でいるのが信じられない思いだった。陽光を背負って駆け下りてくる白の魔法使いは、暁の光の矢そのものだった。夜明けは、恵み深く、容赦ない陽光をもたらし、闇を舐めつくす。一日の終りには夜がまた同じ役割を世界に果たすように。
「……セオデン王の呪いが解けて、ローハンが息を吹き返す様を見ただろう? 統べるべき王の不在で荒れた国を貴方は他にも知っている筈だ」
アラゴルンは、益々警句じみて来たレゴラスの言葉に耳を傾けた。裂け谷で再会して以来、そうした詮索がましい事を彼が云い出したことは今までなかった。
「そこで果たす役割のためにも────もう、今までのように気楽にはしていられないだろう」
レゴラスが、今までになく真剣に自分を見つめている。アラゴルンは彼の真意をはかりかねて、エルフの青い目を見つめ返した。裂け谷の会議以前にも、今まで何度となく顔を合わせたことはあるが、このエルフが彼の来し方行く末について、特別に気にかけているように思えたことはなかった。
「気楽でいられない、という意見には賛成だ。私の役割については、時が決めるだろう。それとも、こんな時にわたしが結論を急ぐべきだと思っているのか?」
アラゴルンが自分の言葉をいぶかしんでいるのを気づいたのか、レゴラスは考え込むように視線を再び谷の向こうへ向けた。
「いや────うまく云えないな。……自分の気持を話すのは得手じゃない」
「君たちエルフからそんな言葉を聞こうとは」
かすかに揶揄する調子を聞き取ったのだろう。レゴラスは眉をひそめて微笑した。
「闇の森中を探せば、口下手な者も、歌えないエルフも勿論いる」
笑いながらも、レゴラスの目は油断無く遠い空を眺めていた。
「私はエルフとしては片端者だ。長い物語を歌うことも、何かを生むこともない。だが、闘う時、自分に不足を感じたことはない。殊に、何か尊い目的があるなら、どれほどの命をこの手にかけても、ためらうことはないだろう」
独り言のように聞こえる言葉だった。だが、アラゴルンには彼の言葉の暗示することが理解出来た。それは、アモン・ヘンの落ち葉の上で命を落とした男が彼に望んだことと、同じ要求をはらんでいる。ゴンドールの男は、アラゴルンが放浪の中で時間を費やすのをやめ、大国の呪いと誇りとを同時に受け取ることを望んでいた。最後の咳と共に、命のかけらと、苦しい望みを吐き出して、アラゴルンの腕の中でこときれたのだった。
このエルフが個人的に、自分に助力を差しだそう、と云っているのに気づいて、アラゴルンの心は苦い感慨を味わった。そしてまたボロミアの閉じた瞼を、裂け谷で輝く星のような娘が、自分に与えてくれたものを想う。
それらの一つ一つが、清らかで厳しい川の流れさながらにアラゴルンの足許で逆巻き、海へ漕ぎ出せと誘う。
このエルフでさえ、その流れの一本になろうというのだ。
血で汚れた自分の黒髪に、見えない幾つもの手が王冠を載せようとしている。
闇を受け付けない国を作るための道を辿り、その道から受け取る苦しみを舐めよ、とささやきかけてくる。
その声から彼は長らく逃げ続けて来た。苦しみから逃げたのではない。だが、王座にふさわしい者は世々にそれぞれ現われる。自分のように異種の血を引き、西から吹く風に誘われて流れていくような男が、血によって玉座に座るより、そこをおさめるべき傑物がそこに代わるべきだ。サウロンの指輪の力を借りることなく、ただ人間の儚い手で国を形作り、力と理で民を守っていける王の器が、何故現われないと云えるだろうか?
「大きな役割があるのはわたしに限らないだろう。特に、代を重ねて生きていくだけで価値のある、君たちのような存在が、この世界にもたらすものははかりしれない」
アラゴルンの答えを聞いて、レゴラスはかすかに苛立ったようだった。だが、聞き分けのない者を相手にするような辛抱強い口調で云った。
「少なくとも私は、命を継ぐことはない。人間の王に心を捧げてしまったのでは」
彼は弓を下ろし、アラゴルンに向かって軽く頭を垂れた。それは偉大なるものへ敬意を捧げる、闇の森のエルフ達の礼儀だった。
「────わたしはいつ、君の剣を受け取った?」
ささやくと、エルフは弓を手にした左手を垂れたまま、引き締まった右手を心臓の位置にあてがった。
「貴方が死んだと思った時。そして、生きて戻ってきた時だ」
背の高いエルフは城壁の向こうの空に背を向け、真っ向からアラゴルンに向き直った。だが、今は特に気負う様子もなく、くつろいだ面持ちで石の壁に背中をあずけ、自分たちの守った古い城のそこここを眺めた。
城は悲喜の中にけだるく沸き返っている。まだ子供と云えるような戦士の死骸、折れた矢と剣、それを運び出す者達がたちはたらいていた。彼等を労おうと火を起こした女達の、心づくしの食物の鍋が湯気を上げている。
「レゴラス」
名前を呼んだだけで後につぐべき言葉が見つからなかった。レゴラスを片端のエルフなどと呼ぶ者はいないだろう。だが、彼が他のエルフと少し違っているのは確かだった。嘗て、アラゴルンはこれほどに好戦的で、変化に対して積極的なエルフを見たことがない。金糸のような髪で包まれた頭の天辺から爪先まで好奇心に満ち、誇り高く荒々しい、闘神のような男だった。
レゴラスは首を振った。
「私は何も求める気はない。貴方は私を、一本の木のようなものだと思えばいい」
「……木?」
森のエルフらしい例えだが、静かに立ちつくし、天からの恵みを待って一生を終える樹木は、彼を喩えるには相応しくない、とアラゴルンは思った。
「一本の木の陰で眠り、木の実を摂り、枝をはらって薪を得るように、貴方はただ私を使役すればいい。貴方が進むべき道を旅するために」
レゴラスは、若々しい顔に生真面目な表情を浮かべてそう云った。それが、エルフと異種族の間を取り結ぼうという、闇の森の使者としての言葉ではないことは明らかだった。アラゴルンは思わず肩をすくめた。
「その剣は、今受け取るには重いな」
その言葉に応えるより先に、レゴラスは城壁の下の様子に気づいて目を輝かせた。彼ほどではないが、遠いものをはっきりと見分けられる目を持ったアラゴルンの目は、息を切らせながら戦場の後片付けに加わった、小さな岩のようなドワーフの姿を見出した。二人の唇に同時に微笑が刻まれる。
「私は彼のところに行って来る。貴方は少し休んだ方がいいな。少なくとも傷の手当てをするといい」
「────忠告痛み入る」
レゴラスは背中につけた二本の小刀を確かめ、矢筒にまだ矢が残っていることを確かめた。弓を手に、足早に去って行こうとしながら足を止める。
「私の剣も弓も、フロドと彼の指命に捧げてしまった。貴方に捧げたと云ったのはあくまで私の心だ。だが、力の指輪が滅びて、小さいフロドが無事に故郷に帰った後なら────王の望みとあれば、この弓を捧げてもいい」
メイルの上から槍で突かれ、傷を残したアラゴルンの肩を、レゴラスは軽く叩いてみせる。それは人間の青年が親しい友に向かってするような、ごくうちとけた仕種だった。彼のようなものがするのでなければ、それは気に留める必要もない、ありふれた挨拶だっただろう。
そして、静かに片手を上げたレゴラスは、城壁の内側に駆け下りていった。何百リーグもの道を、彼と共にあくことなく走った時と、そのかろやかな動きはまるで変ることがなかった。彼の種族の者としては不可解なことだが、戦がレゴラスを活性化し、ますます輝かせているのだ。
彼のような者を、その心故に使役しろ、というのか。
傷ついた自分の肩の上に、エルフの拳の残して行った小さな力が残っている。
アラゴルンは自分の肩に触れ、何かを受け取るように拳を握り取った。裂け谷以来、彼の受け取った信頼は余りに大きかった。そのてのひらの中に、更に闇の森のエルフが、黄金の林檎を手渡したことを知る。無造作に歯をたてて、飢えを満たす糧とするには意味深く、尊い木の実だった。
その姿勢のままアラゴルンは僅かな間立ちつくしていたが、戦禍から立ちあがろうとする人々の群れに混じるため、ゆっくりとその場を離れた。