愉しい拷問教室。
店仕舞いを済ませて外に出ると、もう二時を回っていた。大晦日から新年にかけての時間を家族と祝うことのない何人かの男たちが、その瞬間にグラスを上げた。煩わしい世間の雑事からまるで逃れたような顔をしながら、矢張り秒読みに加わる自分たちに、どの顔にも苦笑に似た表情が浮かんでいる。下村はフロアの片隅で、坂井はカウンターの中でその瞬間を迎えた。客でない彼らはグラスを干すことはなかったが、一人で過ごすよりは新年らしい気分を味わった。
客を送り出せば、店はいつもの手順通りに終る。一日は店を開けないために、翌日の準備がないことだけがいつもと違った。
「この後どうする」
坂井が云って、下村は、お前の家に行く、と答えた。
「食うものがない」
「買って行けよ。どこか開いてるだろう」
飲みに行く話にならないのには理由がある。坂井は、下村の目的に対して。自分のコンディションが万全かどうかを考える。そうでないことは滅多にないが、今日もさして問題はなさそうだった。少し腹が減っているが、無論満腹しすぎているよりはましだ。八時間働いて、更に食事前に肉体労働か。そう思いながら坂井は肯いた。
「酒を奢れよ」
「何がいい?」
「別に何でもいい」
「食い物と一緒に奢る」
ひやりと整って表情の変らない下村の顔だが、機嫌がよさそうなのが坂井にも分かった。真っ黒に晴れ渡った夜空に星が輝いている。むせかえるように冷たく清浄な冬の夜気が肺を満たす。
下村を夜の空に例えたのは安見だった。真っ暗かと思うと、ところどころに小さくて白い灯りがついてるの。よく晴れてるのにとても寒いわ。安見はそう云った。安見の目から見て下村という男はそんな風に映るのか、というのが面白かった。坂井自身はもっと違った印象も持っているが、云われてみればそんな風にも見える。それ以来、冷たく晴れた黒い夜空を見上げると、下村の話をした安見の言葉を思いだした。
シャワーの音が止まった後になかなか下村が出てこない。何をしているのかと、風呂場を覗き込むと、下村は風呂場の鏡に向かって髭を剃っていた。女との時間の前にめかし込んでいる姿を見るようで、坂井は苦笑した。風呂場の入り口に立って、髭を剃っている下村の背中を見る。
丁寧に下顎から剃り上げ、シェービングジェルが足りなくなると、剃刀を指に挟んだまま、同じ手の親指と人差し指で器用にチューブの蓋をはじき、中身を押し出す。
「朝剃らなかったのか?」
「剃った。でももう伸びかけてる」
「そんなに伸びるの早かったか?」
下村と一緒にいるうちに朝になったことは何度かあるが、下村の髭が濃いと思ったことはない。体毛もそう云えば下村は余り濃い方ではなかった。
「やる気だからじゃないか?」
剃刀を少し顎から離して下村は答える。少し顎をあげ、仕上がりを確かめている。生臭い返事も、この男の唇から漏れると現実味がなかった。
やる気なのか。そう思って坂井は部屋に戻った。腹が減ったが、すっかり終るまで腹を空かしておいた方が坂井が楽だ。早く済ませよう、などと云えば、自分も余り乗り気に思われそうで、坂井は布団の上に坐って黙って待っている。手持ち無沙汰で、煙草に火をつけた。腹が減っているだけなのだ。下村に比べると、坂井は一度に食い溜めの出来ない方だ。そのせいで、暇さえあれば何か食っているような気がする。太らないのは身軽で有り難いが、あまり身にならないせいで、食った先から、金諸共食い物をどこかに逃がしているような気がすることもある。
布団の上で待っているのも、どうにもやる気な証拠のようにも思えた。
濡れた髪をかきあげ、さっぱりした顔で風呂から出てきた下村は、何を思ったのか、左手にブロンズの義手を着け直していた。坂井を抱くとき、下村は義手をはずしていることが多い。それが、わざわざ髭を剃り直したような晩に義手を着け直しているのだ。
それもやる気の表れなのだろうか。
下村は、布団の上の坂井の向かいに座り込み、義手の左手で身体を支えて、右手を伸ばした。能動用義手としては重すぎるこのブロンズの義手は、下村の強靱な前腕のメッセージをケーブルから読みとり、まるで本物のように動く。下村を護り、車のハンドルを動かし、敵意のある者を重く打ち据える。坂井の腕をとらえて床や壁、時には机の上や、敷布の上に押さえ付けるのもこの義手だった。作り物のくせに元のそれ以上に下村の性質を顕わしているのだ。
下村は、坂井の銜えた煙草を採り上げ、灰皿に押しつけた。うなじを髪ごと掴んで自分に引き寄せる。言葉では何の予告もない。無論下村からすれば、今夜お前の家に行く、と云ったことが予告のつもりなのだろう。
「一本吸い終わるまで待てばいいだろう」
半分も吸わないうちにもみ消された煙草の吸い殻を見おろして文句を云うと、
「そんなに待てるか」
と、下村は云う。
「そんなに気短かでよく吐かせられるな」
坂井は笑った。それは、主に川中に害を成す秘密を持つ連中に施す下村の「尋問」のことだ。数年前までは只のサラリーマンだった男が、何故あれほどに人の痛みを効果的に引き出せるのか不思議に思えるほどだった。それはおそらく左手を叩きつぶされたせいだろう。坂井はそう思っている。自分の苦痛の底を下村は見た。或る意味で他人から自分に与えられる苦痛の限界を知ったと云ってもいい。好きだった女が粉々に吹き飛ばされることに比べれば、身体の痛みは我慢してやり過ごせばいい。下村はそういう男だった。だが、それと同時に下村は痛みに堪能な男になった。
精神的な苦痛も、肉体的な苦痛も一通りくぐって、ある意味では痛みに過敏に、ある意味では鈍感になった。下村は苦痛を楽しまない。彼は拷問にかける相手の演技に決して騙されない。生きたまま身体がどこまでも苦痛をため込むことが出来ることを知っている。
しかも下村は、女を抱くことに集中しようとする若い男のように、相手と二人になりたがった。だから下村がどんなやり方で相手を痛めつけているのか誰も知らない。
「社長も俺も、お前がどんな風に締め上げてるのか見たことがないが、一度お手並みを拝見してみたいもんだな」
坂井は憎まれ口のつもりでそう続けた。黙って坂井の言葉を聞いていた下村の、切れの長い冷たい目が、不意に少し面白がるように瞬いた。
「そういう話なら、少しは気が長くなるぜ?」
彼は歯を見せて笑った。犬歯の目立たない、異様に形の揃った歯並びが覗く。下村は左手の手首と共に、口の中も滅茶苦茶にされた。半分近くの歯が作り物だ。形のいい整った顎の内側に、一本十万するセラミックの歯がずらりとおさまっている。しかし下村の歯は、折られる前からこんなふうに揃っていた。坂井は、まだ会社員臭さの抜けなかった、この街に来たばかりの頃の下村の顔を思い浮かべる。
歯から顔かたちから整いすぎたような下村の顔は、尚更に冷たく、少し陰惨になる。この白くかっちりした歯を見せて笑いかけられたら、下村に拷問を受ける男はさぞ嫌な気分になるだろう。
「お前で試すか?」
そう訊ねられて、坂井は面食らった。
「俺に何を吐かせようって?」
「お前の最初の女の名前でどうだ」
下村の目が笑っている。坂井は眉をひそめて考え込んだ。
「俺が勝ったらどうする」
「何がいい?」
逆に尋ねられて、坂井は、自分が下村から取り上げたいようなものがあったかどうか思案した。
「今は思いつかない。勝ってから考える」
「ああ」
下村はあっさり肯いた。自分がし損じるとは思っていないのだ。坂井もそんなことを云いだした以上、下村に譲るつもりはなかった。
「それで何をするんだ? シェーカーが振れなくなるようなことはするなよ」
下村は首を振った。立ち上がって、側に脱ぎ捨てた半コートの胸を探っている。
「指なんかに用はねえよ」
そう云いながら戻ってくる。下村が持ってきたのは、小さなビニール袋だった。警察が押収品の保管に使うような、透明なビニールだった。その中に小さな円いものが入っている。下村は袋を左手で持ち、慎重に右手でそれを取り出した。それは一目で女ものだと分かる指輪だった。
下村は、てのひらにそれを乗せて、坂井によく見えるように手を広げた。
「あいつに買ってやった指輪だ。返さなかったくせに、捨てずに持ってた。遺品の中にあってな」
下村は指輪の上の丸みをなぞる。あいつ、というのは下村の婚約者だった女だ。炎上するクラウンの中で爆死したのだ。
「ダイヤがここに五つ入ってる」
指輪を持ち歩いていたのか、と軽口をきこうとして、坂井はぎくりとした。自分が青ざめたのが分かるような気がする。
「俺の薬指にはさすがに入らないが────」
下村の目は相変わらず笑いを含んでいた。
「学生時代、左手の薬指を骨折したことがあるらしいんだ。関節が太かったんだろうな。俺の小指の第一関節でがっちり止まる」
下村はそう云って、義手のてのひらの中に指輪を落とし込み、右手の小指をくぐらせた。それが動かなくなる位置まで、ダイヤを内側に向けてきつく嵌め込む。
「真珠ってのは聞くが、これはもっと来るかもな。カットダイヤだし、台座に爪があるから」
「……」
「いいのか?」
黙り込んだ坂井に、下村は真顔で訊ねた。
「何が?」
「長引くんじゃないかと思ってな。腹減ってるんだろう?」
そう云いながら、ゆっくりと坂井の唇を塞いだ。
自分の呼吸に押し潰されそうになった坂井は、息を楽に逃がそうとして横を向いた。体中が汗に濡れていた。長時間折り曲げられて、下村の肩に乗ったままだった片足の付け根が痛んだ。もう明け方だ。空が明るくなりかけている。何時間あんな目に遭っていたのかを知って、坂井はぞっとした。無謀な賭けをした自分が悔やまれる。
腰の奥に痛みになる寸前の強い疼きがある。立ち上がったり坐ったりすれば、それは簡単に痛みになるだろう。
「ちくしょう……」
枯れた喉でつぶやく。肩には、まだ下村の義手の冷たい感触が残っていた。そこも痣になっていてもおかしくない。
汗を拭おうとして顔に手をやると、自分の頬が涙に濡れていることに気づいて坂井はぎょっとした。泣いていたのだ。気づかなかった。
彼から身体を離して立ち上がった下村が、グラスに入れた水を持ってきて、坂井の唇にあてがった。水を飲みやすいように彼の身体を支えようとした。
「病人じゃねえんだ。触るな」
その手を押しのけて身体を起こす。痛みが走った。ダイヤの指輪と、そして下村に散々痛めつけられたしるしだった。たかだか小さな石の入った指輪だが、それがあるのとないのとではまるで違った。違和感と小さな痛み、不快とよく似た快感の波が、坂井の体中の力を搾り取った。結局彼は四十分耐えた。しかしそれ以上は無理だった。ただの痛みなら我慢しようがあるが、これは種類が違う。相手が決して参らない勝負だけに始末が悪かった。
屈服の証を一言吐き出し、酷く息を乱して自分から逃れようとした坂井に、下村は心底驚いたような顔をしてみせた。
(「今からだろ、俺は」)
そう云いながら、自分のてのひらでゆっくりと形を整える。
(「さっき、やる気だって云っただろう」)
その後坂井に入ってきた下村は信じられないほど保った。疲れた坂井が身体の力を抜き、身を任せると、それがつまらなかったのか、坂井の身体に触れて無理に反応を引き出した。
(「俺はもういいって!」)
半ば本気で腹をたてて手を上げると、拳は下村のこめかみにあたった。義手で坂井の肩を押え付けた下村は、気にもとめずに没頭している。坂井にとっては、後半部分こそが拷問だった。
坂井は身体の震えと火照りが引いてゆくのを待って、身体を投げ出した。とんだ新年になったものだった。水を飲み干して目を遣ると、窓から萎れた三日月が見える。
女は脆く柔らかい。いたわってやる楽しみもあるが、こちらの気持のどこかが醒めているような時は、与えてやれる養分が足りずに枯らしてしまうこともある。女を包み込み、幸福にしてやれるのは、気持の中に充分な熱量を備えた男の特権だった。例えば川中のような人間だけが、その特権を失わないのだ。
自分の得手勝手を受け止めても充分に余力を残す相手と、虚しさや欲望を共有することを選んだ理由は、坂井も下村もおそらく同じだった。毀れない強い身体は、女のような優しさはないが、汗と衝動を絞り出す手段としては充分だった。時には、女を抱いている以上の熱を味わうことも出来る。最初の女の名前が賭けの対象になるのも、相手が男だからだろう。女を貶めているつもりはない。むしろ、女たちに同じ価値を見いだしているせいでこんな莫迦莫迦しい真似をするのだ。宇野や秋山のような男は決してしない青臭いゲームだ。
指なんかに用はない、と云った下村に、手を握り取られて坂井は目を上げる。坂井の傍らに坐った下村は、坂井の長い腕を持ち上げ、鼻面を擦りつけるような仕草で、爪の形の揃ったバーテンの指に唇を押しつけた。
下村の息が指にかかり、それが奇妙に甘かった。