鉄の寝台と便器だけを備えた真っ暗な部屋に閉じこめられた事がある。百八十八日間だった。窓は塗り込められ、ドアには隙間がなかった。壁は湿ったコンクリートだった。灯は許されず、全てのことを手探りでしなければならなかった。薄い紙の皿に盛られた食物が、一日一回暗い小窓から差し入れられる。箸や匙が一緒に添えられていたことはなかった。最初は食物に顔を突っ込むようにして食ったが、やがて、それは清潔に保つことの出来ない皮膚に不快感を増すだけだと気づいた。指で一口ずつ丁寧に口に運び、皿の裏側で指を拭う。食べ終った皿は細く細く裂いて、結び目を作り、紐にした。ある程度の長さになったものは、更に寄り合わせて紐を作る。食物の湿り気が充分になく、うまく縒れない時は関節に挟み込み、血や汗を染みこませた。その部屋にいる間、彼が紙を縒るための血に不自由した晩は一度もなかった。
彼がその暗黒の中でしたことは、紙を果てしなくよじり、結び併せたロープを作っただけではなかった。右手を壁につけ、彼は果てしなくその部屋の中を歩き回った。自分の歩幅から数えると、その部屋は約四平方メートルというところだった。歩幅を一定に保つように気を配りながら、空腹や暑さ、寒さに耐え、その部屋をゆっくり歩き回る。動いてさえいれば、筋肉はある程度保てる。その真っ黒な小部屋の中で、筋力を保っておけるだけの体の自由を、彼等が自分に与えたのは奇跡的だった。剥がされた爪や、切り取られた傷が痛みや発熱をもたらすことは多かったが、彼はひたすらに歩き続けた。暗いので目を閉じそうになるが、目は極力開けておいた。どんな光をも見逃さないためだ。正気を保つために、昔習い覚えた詩句を頭の中で詠唱する。唇は動かさなかった。独り言の癖がつくのは困る。あくまで声は出さない。彼が幼かった頃に面倒を見てくれた教会の牧師から学んだ聖句もあれば、漢詩や、日本語の詩もあった。そして、その言葉の合間を、硝子光沢の鋭い殺意で埋めた。どんな小さな隙間も明確な殺意で埋めた。
────神よ。わたしを平和の道具にして下さい。
そう唱える思考の隙間を刃物で埋める矛盾。
人生の中であのときほど攻撃欲についてこころを集中したことはない。彼は今まで、自己保身以外のために他人を害する殺人者だったことはなかったからだ。
しかし、今抱く害意も、基本的には明確な目的を持ったものだった。あのロープを完成させる。時間が経ちすぎると紙が劣化してしまう。その代わり、伸縮性のない紙紐はよく締まる。
ある日、食物を運んできた奴の手を掴んで引きずり込む。きっといつか相手が油断する時が来る。爪の先一本でも中に差し入れられたら逃がさない。部屋の鍵を開けたくなる気分になるまで指を一本ずつ噛みきってやる。しかも爪の付け根から始めて入念に。
そして部屋のドアが開いた時、そのロープは初めて有効に使われることになるだろう。
「リチャード先生、彼です。今は────と呼ばれています」
黄の国の人間は、同一姓が多いため、他人を姓のみで呼ぶことは少ない。フルネームかファーストネームに、敬称をつけて呼ぶことが多い。黄誓源は魚の擂り身の入った粥にしか手をつけなかった。彼が故郷に残してきた家族は飢えている。それも生きていたとしてのことだ。鉄のカーテンの向こうに残してきた家族を香港に脱出させるまで、黄は、国内で食べることの出来る以上の豊かな食物は、なるべく口にしたくないのだ、と────に向かって一度だけ漏らしたことがある。
────と呼ばれた青年はと云えば、彼には元来、生命を維持する以上の食物を摂る習慣がなかった。ましてやこの一年で、彼にとって、生命を維持する食物の定義は、以前に増して厳密なものになっていた。元々どこといって特徴のなかった若い青年の姿は、只でさえ薄かった贅肉をすっかりそぎ落とされて、幽霊のような姿になっていた。そこに、まだ取れない二カ所のギブスや火傷の跡を隠す包帯が、彼をますます得体の知れない男にしていた。
黄の隣で、彼は、分厚いフレームの眼鏡をかけた男の姿を眺めた。
三十代半ばか、四十代に入ったばかりといったところか。年齢不詳だった。銃は持っていない。両側の口角があがり、笑いを形作っていた。がっしりと肉付きのいい体を、食堂の粗末な椅子にもたれさせて、リチャードと呼ばれた男は、リラックスした様子で彼を眺めていた。
「────は二年間我々の工作員として働いてくれましたが、組織員の失態から、当局に顔を知られてしまいました。繰り返して云いますが、顔を知られることになったのは末端の組織員の失敗であって、────のせいではありません。彼は外国人だというのに、とてもよく働いてくれました。組織の理念と供応しない部分もありましたが、実に任務に忠実な男です。飲み込みも早い。ゴミのように死なせたくはありません。国外に出してやりたいのです。アメリカか、出来れば日本に」
「なるほど、なるほど」
リチャードは微笑した。麺の上に載った牛肉を口の中に放り込む。
「リチャード先生が香港を出て日本に渡るという話を思い出しましてね」
「日本でも部下は何人か用意して貰っていますよ」
「優秀な道具が、どれだけあっても邪魔になるということはない。特に貴方はそうですね」
黄は微笑んだ。
それに応じるように、リチャードは再び笑った。今度は笑い声をたてる。あかるく突き抜けた笑い声だった。
「僕としてはあなたが欲しいですよ、黄氏」
「わたしは貴方の道具になるには固すぎます」
黄は微笑をおさめて答えた。
「あなたは自分のために曲がらない道具は折ってしまう」
「なるほど、なるほど」
リチャードの口角には笑いの形が刻まれたままだ。赤っぽい照明に照らされた食堂には、煙と油の匂いのたちこめている。彫刻を施した石柱の影で低い声で話す彼等は、観光客や、週末の昼食を楽しむ地元の人間たちの間に埋もれている。特に、────の姿は影のようだった。ギブスと包帯を隠すために、身に合わない大きなサイズの草色のシャツを身につけている。彼と黄の周りだけにほっつりと暗い穴が開いているようなのだ。その二人と相対していてもリチャードの貌には得体の知れない楽天的な光がさしている。青年は何も云わず、その男の姿を眺めていた。黄から聞かされていた男のバックボーンと、その笑顔は不釣り合いだった。ばかげた瑪瑙色の花柄のシルクのシャツは、恰幅のいい身体によく似合っていた。
「彼は曲がりますか?」
「彼自身が希望するなら、如何様にも」
青年の代わりに黄が応える。
眼鏡の厚い硝子の向こうから、男の細い目が青年を眺める。幼児が玩具を掴むときのように、無造作な、容赦のないあかるさだった。青年は、暗闇の中から百数十日ぶりに外に出た日のことを思い出した。壁にすがって見上げた空はただまぶしく、そこに「青」という色がついているのを見極めるまで容易ではなかった。光というものはかくも遠く、冷たく、痛みを伴うものなのだと初めて知った。リチャードの目は、丁度、通路の中途の窓の外に広がった青空のような、痛みを覚えるひややかな光に照らされていた。
「それでは、君の気持を聞こうか」
空の幻は破れ、僅かに昼の光の差す食堂に青年の視線は還った。
「黄さん、僕と彼に二人で話をさせてくれませんか」
「先生のよろしいように」
黄は云った。青年はまだ口を開く必要がないことを知って、自分の行く末を遣り取りする二人の男達の姿を見た。目前に目を刺激する奇妙な光と、馴染んだ闇が座っている様を、言葉を持たないまま見つめた。
尖沙咀東を見晴らす、ホテルの広々とした窓を、リチャードはカーテンで覆った。煌びやかな夜景を映し出すスクリーンの代わりに、ダークレッドの布の壁が現われた。
「好きなところに座り給え」
そう云われて、青年は、入り口に近い椅子にそろそろと腰を降ろした。姿勢を変えるたびに、全身に痛みが走った。その痛みは新しいものではない。青年が既に慣れ親しんだ痛みだ。治りかけの傷は、眠っている間すら痛痒感を忘れさせることはなかった。いつか傷が癒え、この痛みがなくなるということが信じられないほどだった。もっともこの男に引き渡されるなら、痛みと縁がなくなるかどうかは分からない。男が自分をどんな目的に使おうとしているのか分からないからだ。
リチャードは、バーの上に置かれた陶器の酒瓶を持ち上げてみせた。
「喉は渇いているかい?」
「いいえ」
────がそう応えたにも拘らず、リチャードはグラスを二つ持ってきた。
「君は余り強い酒を飲まない方がいいか。傷が痛むだろう」
そう云いながら、白い酒をグラスに数センチ注ぐ。おそらく汾酒だろう。男が何を云っているのか彼にはよく分からない。その酒を飲めと云っているのか、飲むなと云っているのか。次いで、男は胸ポケットを探り、透明なビニールに入った、長粒種の米のような形の白い錠剤を二粒、片方のグラスの酒の中に落とし込んだ。アルコール度の高い白酒の中で、錠剤が小さな泡をたてて沈んでゆく。それを見届けて、男は青年の向かい側にゆっくりと座った。
「君の第一言語は何かね?」
不意に男がそう云って、彼は奇妙な気分になった。
「日本語です」
思わず率直に応えていた。質問されても答える必要のない事柄、答えてはいけない事柄は彼の中ではっきりと選別されている。だが、今の場面で第一言語についてどう答えても、彼の進退に影響があるとは思えなかった。
「何カ国語喋れる?」
男はのんびりとした口調で訊ねた。
「北京語は────出身者のように喋れません。それから英語。……韓国語も少しだけ」
「韓国語は黄氏に習った?」
「ええ」
「ハハ」
リチャードは目を細めて笑った。口角がまたぐっと上がり、作り物のように揃った歯列が、上唇の下からずらりと覗いた。
「それは韓国語じゃない。彼の言葉にはひどい平安道訛りがあるよ」
「そうですか」
それはそうだろう。黄は韓国に住んだことが一度もないのだ。頬骨の張った、いかつい黄の顔を思い浮かべる。
「それじゃ、日本語で話そうか」
突然、リチャードの口からなめらかな日本語が流れ出して、青年はいささか驚かされた。外国訛りの無い、作為的なほど正確なイントネーションの標準語だった。
(────日本人なのか?)
だが、ついさっきまで聞いていた、彼の広東語の口語も同じようになめらかだった。顔立ちは大陸系よりも日本人型だった。
「僕は注文の多いたちでね。多少好き嫌いもある」
リチャードは、薬を落とした方とは別のグラスを口に運んだ。うまそうに舐める。灼けるような酒のエッセンスが唾液にまじって嚥下されるところを青年は想像した。そして、酒の透明な液体の中で、まだ溶けきらない薬剤を見おろした。
「君に政治的信条はある?」
男は日本語に切り替えてからぐっとくだけた、馴れ馴れしい口調になった。それをさほど不愉快とも感じない自分に青年は驚いた。英語や中国語を使っているときと、日本語を使うときでは自ずから感覚が変る。言葉の裏にはそれぞれの文化がひそんでいる。日本文化は英語や中国語より他人によそよそしい、建て前の多い文化だ。それが言葉にも表れる。日本語で会話をする時、彼は自分の中にひそんだ日本文化の刷り込みを感じる。だが、男のくだけた語調は、青年の本能的な警戒心の中に、一抹の不可解な快感を呼び覚ました。
「ありません────あればよかったと思います」
彼は、男の言葉に答えるのに間が空いてしまったことに気づき、質問に答えた。
「何故?」
「信条があれば、楽に闘えたからです」
リチャードの目、そして口元の笑いじわが深くなった。
「君は実に長い間、普通なら自殺しかねない拷問に耐えたと聞いているけど?」
「任務だからしたことです。自殺する理由もありませんでした」
そう答えながら、青年は我ながら、自分の日本語の会話能力がさびついていることを自覚せずにはいられなかった。長い間日本語を使っていなかった。夢を見るときも中国語で夢を見るようになっていた。
「────……」
男は、貼り付けたように笑顔を刻みつけたまま、彼を見つめた。この男が笑っていないことがあるのだろうか。世界が終る日まで笑い続けているような顔だと思った。
「僕と一緒に行くなら、ある程度僕の希望通りにして貰う必要がある。かといって、全部云いなりになる人は好きじゃない。難しいもんだね」
黄は、リチャード・王と一緒に日本に行け、と彼に勧めた。そうでなければ早晩青年は死ぬことになる。自分は死にたくないと思っているのだろうか。彼は自分に問う。無論、死ぬ理由がないことには、昨日も今日も変りはなかった。だが明日はどうだろうか。この先自分は、死ぬ理由がないということを生きる理由に替えてゆけるのかどうか。
「ご希望があるなら仰って下さい」
「君がどう振舞うのかは君の自由だよ。ただし、僕が嫌いなものが幾つかある。それにあてはまるようじゃ困る」
椅子の肘掛けにリチャードは腕を預けて、背中のクッションにもたれかかった。
「手っ取り早く云えば、怨恨とか────純血主義とか────」
何故その両者が並んだのか。青年はそう思いながら、男が指折るのを見守っている。
「それから笑わない人も苦手だね。君は僕と顔を合わせて何時間も経つのに、まだ一度も笑わないじゃないか」
青年はまた不意をつかれた気分になった。黄は何故この男と一緒に行くように云ったのか分からなくなる。この男は結婚相手を探しているのか? それとも孤児院で気に入りの養子を探しているような気分でいるのだろうか。そんな相手が自分の何を必要とするというのだろう。
「……貴方も笑っていません」
彼は思考がループするのを、本音を口に出すことで回避しようとした。そうだ。リチャードも笑っていない。笑いとはもっと他愛なく浅薄なものであるべきだ。あるいはもっと無防備である筈のものだと思った。青年の言葉に、リチャードは心外そうに顎を撫でた。
「僕が笑ってないって?」
「わたしにはそう見えません」
「笑ってない────か」
リチャードの目の中で、不意に暗いドアを開くように瞳孔が開いた。ふっと視線が逸れ、焦点の合わない目になった。しかし、虚空が口を開けたような瞳の変化とは相反するように、口元はまだ笑っていた。先刻自分の思ったことを青年は反芻する。世界が終る日まで笑い続けているようだ。目の前の男はその笑いで周囲を鎧っているのだ。その囲いの中にいる限り、決して傷つくことも負けることもない。思想も信条もない。快楽を動力にして底知れない距離を暴走する、歪んだ夢のエンジンを搭載している。
自分の思考の混乱を青年はさほど不思議には思わなかった。
百八十八回続いた闇の中から戻ってきて以来、どうやらこの世界が非現実的に思えることがある。現実は暖か過ぎ、明るすぎ、静かで遠すぎる。痛みさえ伴うほどに。
もう一度目覚めればあの闇の中に戻るのではないかと思う。そしてそちらが現実だと云われた方が彼には納得出来るように思う。レンズの向こうでふと拡散したリチャードの瞳孔の中に、彼はふと自分の戻るべき現実への入り口を見出したような気がしたのだ。窓の外に広がった、目の眩むような青空は網膜に苛烈な染みを作り、目を閉じても暗闇の中に緑色に輝く、闇よりも暗い空虚に変った。
リチャードは、薬の完全に溶けたグラスを彼の前に押しやった。
「その気があったらこれを飲むといい。飲むかどうかで君の人生が変るかもしれない────何、心配ないよ。睡眠薬だから。君は薬品に強いと聞いてるから、結構強めのが入ってるけどね」
飲んで人生の変る薬。
青年はグラスの中身を見た。アルコールを摂取すれば、ギブスの下で血管が脹らみ、烈しく痛むのは分かっていた。薬品が何なのかも分からない。だが、黄が自分をここに送り込み、自分が引き渡された男が薬を飲めと云う。図式は簡単だった。もし、ここで彼がその薬を飲んで死んだなら、組織が自分を邪魔だと思ったか、自分のある種の命運が尽きたか、いずれにせよ、死ぬ理由が出来たということなのだろう。
彼は自分の手が汗ばんでいるのを感じた。不安感を感じるほど自分に猶予を与えるつもりはなかった。彼は左手でそのグラスを掴んで引き寄せた。汗ばんだ手に、酒をたたえたグラスは冷たかった。その冷たい液体が身体の中に入ると、火になって燃える。彼は甘い粘りけのある香を吸い込んで、一気にグラスの中身を飲み干した。
彼は、軽い吐き気を感じて身動いだ。
その吐き気はアルコールのせいではなく、薬品のせいだということは想像がついた。まだ後頭部からこめかみにかけて痺れるような感覚が残っている。それと同時に、彼は、胸と腕を支えていたギブスの圧力がないことに気づいた。汗ばんで脈打つ身体は、浅い赤のベッドカバーの上に横たわっていて、完全に裸にされていた。衣服だけを取り去られたのではなく、無惨な傷口を隠したギブスが切り開かれて、全裸にされているのだ。あおのいているせいで、背中の火傷の跡がベッドカバーに押しつけられ、下の布に体液を滲ませているのが分かった。背中の傷は何度も治りかけたが、胸のギブスを固定するための包帯がずれて、繰返し傷が破れるのだった。彼は近頃、背中と胸の傷のため、身体を横向きに折り曲げて横になるか、肩だけを壁につけ、座ったまま眠るようになっていた。
彼は左手を挙げ、天井の灯から目をかばった。
「意識のない人間を玩具にするのが趣味ですか」
「それは時と場合によるね」
リチャードが足許に座っている。カーテンが少し開いている。男はのびのびとベッドの上に胡座をかいて座り、カーテンの隙間から覗く夜の空を眺めていた。
「君はよっぽど重宝されてたようだ。骨の欠けた部分を人工骨で埋める手術を受けたんだね?」
「実験を受けただけです」
彼は、目を閉じるのをやめた。目を閉じても眩暈がするからだ。闇が回転するよりも、実際に目に見えるものがふらつく方がまだましだった。
「最新技術だ」
リチャードは興味深げに彼の縫い合わされた腕を眺めた。
それが現在は違法技術であるが故に、彼は被験者となることが出来たのだ。
もう数年もすればその技術は認可され、恐ろしく高価な手術になることだろう。その技術が十年後合法になる頃、青年が生きていれば、欠損部分を埋めた補填剤は彼の身体に親和し、元から持って生まれた骨格のように彼の腕を支えている筈だった。
「さっきは僕の嫌いなものの話をしたけど、今度は好きなものの話をしよう。『最新技術』ってやつも、たまらなく好きだね。医療でも、機械でもいい。逆に、使い慣れて手になじんだ古い道具は最新技術と同じくらい、最高の贅沢品でもある。僕がこれから楽しもうとしてる幾つかのことには、両方が必要になる。最新技術と、完全に馴染んだ優秀なスタッフと」
青年は、怠い身体にむち打つようにして起き上がった。いったいどんな薬を使ったものかと思う。訓練のせいでもあるが、生来薬は効きにくいのだ。元々彼の身体に刻まれていた傷以外に、どこかを害された様子はなかった。性的な用途に使われた様子もない。リチャードが自分を全裸にしたのは、自分がどれだけの傷を負っているのか、彼自身の目で確かめたかったのだろう。
「君は、僕と一緒に来る意思があるかい? 君自身の意思が」
リチャードはベッドに手をつき、彼の顔を覗き込むように身体を近寄せてきた。男の、意外なほど高い体熱が、男の身に纏った薄い服を通して伝わってくる。ベッドの上で、青年は思案しながら、散らかされた服を手に取る。刃物で丁寧に切り開かれた、彼自身の腕の形を模した半透明のギブスが、グロテスクな様相でベッドの上に転がっている。彼は痛みを押し殺しながら、暗い色のシャツを羽織った。ギブスを剥かれた右腕が異様に痩せている。筋力を取り戻すのに少なくとも数ヶ月はかかるだろう。
「自分の意思────ですか」
低い呟きに、リチャードは満足そうに後を続けた。
「人形みたいに、あちこちをたらい回しにされて、先々で忠実にやっていく……それも一つの方法だろうね。だけど僕はそういう人は好きじゃない。でも、それは君の本来の性格じゃないね。君さえその気なら僕とうまくやれるだろう」
リチャードは手を伸ばし、彼の目元に触れた。奥二重の目に続く、鋭く切れ上がった目尻のラインをなぞった。
「自分の意思がない目だとは思えない────けど、ちょっと鋭すぎる。刃物は隠しておくものだよ。そのうち眼鏡でもかけておくといい」
青年は肯いた。自分の目が、ある種の人間の勘にはたらきかけるものであるという自覚はあった。同種の人間の警戒を呼び起こし、獰猛な人間の暴力の衝動を呼び起こし、女を怯えさせる彼の目。もっと無個性でおだやかな目をしていた方が目立たずにいられるのは確かだった。
身体中が心臓に変ったような、脈動する痛み、それをかすかに鈍らせる向精神薬の痺れの中で、青年はゆっくりと考えを巡らせた。
この場でこんな選択を要求されるとは思わなかった。
自分の意思などというものについて考えたことが最近あっただろうか。脱出までの何十日間、自分を正気に保っておくための聖句の合間に、相手を特定しない殺意を漲らせたこと以外には。
あの扉を開けさせた男の身体が痙攣を止めた後、彼はその服と銃を取り去って、その身体をドアの中に引きずり込んだ。ドアに左手で鍵をかけながら、光の中で見る自分の指の痩せようにぎょっとした。そして、狭い通路を通って階段を上り、上階に辿り着いた時、ようやく窓に出逢った。その日はやや曇り気味だったが、外界の光が青年の目を射るのには充分だった。雲の切れ間に薄青い空が覗いている。光の刺激に目を瞬きながら、彼が感じたものは、解放感より不快感に近かった。
自分の意思で、とリチャード・王は云う。
闇に馴れた目に、光の刺激を受け入れろと要求しているのだ。
彼は静かに息を吐いた。だが、自分は光が不快でもそれに馴れるだろう。そして、その光がもう一度闇に転じることがあれば、それにも馴れるだろう。今までもそうして生きてきたのだ。
「行きます」
連れて行ってくれ、とは云わなかった。そう云った方がリチャードの要求には敵うだろう。
「そう」
リチャードの笑みが深くなった。
「君、嫌いな色はあるかい?」
不意にそう訊ねられた。青年は再び戸惑った。色の好き嫌いなど特別に感じたことは無い。だが、リチャードがそれを許さないのが分かった。物事を、是非や、必要性の有無だけでなく、感覚によって選り分けることを要求されているのだと、彼は悟り始めていた。青年は、血をたらふく吸った収容所の外に見出した貧相な青空と、その前の数ヶ月間、自分に許された唯一の色だった闇を思い浮かべた。ため息をつきそうになる。
呼吸を押し殺すことに馴れた彼が、ため息をつくことなど久しくなかった。
「────黒です」
「そう。……それじゃ、君の新しい名前は、それにちなんだものにしよう」
そう云って、リチャードは、厚い背中を返し、窓の外の闇に視線を向けた。
「嫌いなものを自分のものにするのも、人生を楽しむコツだよ」
ささやくようにそう云った。
「ブラジルとは、念を入れられたものですね」
荷造りを煩わしがる内海のために、彼は内海のマンションに出入りして手を貸している。この部屋に残して行くものの中で、どれ一つとして、内海が欲しければ向こうで手に入らないものはない。この部屋そのものでさえそうだ。ここに内海がもう一度帰ってくる気があるかどうかも分からなかった。本当は荷造りなど必要ないのかもしれない。身一つで場所を変えても、内海はまた、静かにテリトリーを広げる細菌のように自己増殖してゆくだろう。
(おれたちは、課長の周りの細胞質膜ってわけか……)
どうでもいいことを考えながら、彼────黒崎は機械的に手を動かしている。下着を畳み、ワイシャツを束ね、気に入りの銘柄の煙草を入れてやる。ブラジルに移るのが冬でよかった。内海は寒がりだ。気候のいい土地で羽を伸ばし、イグアスの滝でも眺めて、また夏を追って日本に入ればいい。
彼に手伝わせている当の内海は、椅子のリクライニングを倒してひっくり返り、テーブルに足を載せて、部下が立ち働く様子を眺めていた。
「向こうでもそれなりに楽しむさ」
気の抜けたようなあかるい声が椅子の上から降ってくる。
内海のマンションの内装はホテルに似ている。香港時代も、彼は長らくホテル暮らしだった。よそよそしい内装の中に、彼の趣味を満たすための本やビデオテープ、様々なハード、ゲームソフトから、玩具のフィギュアまで、ごたごたと散らかっていた。
そのアンバランスさは、内海の全ての行動に共通していた。本来保身を考えるべき人間の執着すべきもの、立場や定住地、安全、そういったものに、内海は、終始関心を示さなかった。
内海は特殊なものにしか執着しない。それが他の人間から見ても重要なものとは限らなかった。棄てることこそが最善と云える下らないものに執着することも稀ではない。黒崎からすれば、その最たるものはバドリナートであり、七課が心血を注いだグリフォンでさえ例外ではなかった。
だが、この男にとって一番いいことは好きにさせてやることだ。内海は快楽に奉仕する。そして、結果、快楽は常に内海に奉仕するのだ。
彼は楽天主義という病に取り憑かれているが、その病は内海を活性化させ、その周囲にも恵みをもたらす。内海が病んでいるとして、その病による恩恵を最も多く受け取っているのは、黒崎や七課の面々だった。目の痛むほどあかるい場所に引きずり出されて、呆気なく自分がそれに馴染んだのは、内海の存在があってこそのことだと黒崎は自覚していた。
彼は内海というパスワード無しに、世界の光半球にアクセスすることが出来ない。内海がバドリナートに拘泥し、ASURAを再起動する為にグリフォンを不可欠とするなら、黒崎はそれに添って動くまでだ。
「君は何をやらせても手際がいいねえ」
感心したような声がついで背中に降ってくるが、黒崎は顔を上げなかった。自分が人の身支度を手伝ってやっていること、背広にネクタイを締め、定住する部屋を持ち、大手企業に社員として通っていること、それら全てが、光半球への不正なアクセスによるものだ。それが永遠に続くとは思っていない。永遠であれと思った瞬間、パスワードが書き換えられてアクセス不能になるのではないかと、黒崎は思っている。
「その調子でASURAの捜索も頼むよ」
「春には目処がつきますよ」
応えると、内海はうんざりしたようにぼやいた。
「春かぁ、長いな」
「気長に観光してきて下さい。ブラジルは広いですから」
「手足をもがれて行くんじゃ、不便で敵わないね」
黒崎は手を止めた。自分の唇がつり上がるのを自覚する。内海の病が感染したのか、彼はよく笑うようになった。
「貴方がその気なら、手足は何本でも生えてくるでしょうに」
数年前、自分を九龍のホテルでギブスから暴き出した男に云われた通り、彼は自分の瞳から消えない、剣呑な光を眼鏡で隠すようになった。
度の入っていない丸い硝子に、その時と殆ど変らない男の、笑った形に細められた目が映る。
「右手の君が云うのかい?」
「両効きの課長が云うんですか?」
そう返してやると、内海は声をたてて笑った。
「君のその嫌味が聞けなくなるのは寂しいね」
「ご希望なら国際電話で云って差し上げますよ」
彼はトランクの蓋を閉めた。
「課長代理の合間に、暇があれば、ですけどね」
「君は、傷心の僕を慰めてやろうって気にはならないのかい」
わざわざそんな悲壮な声を出してみせる内海の言葉を聞きながら、この声が聞こえないのは、自分にとっても物足りないだろうと黒崎は内心思った。立ちあがる。明日は一時に会社を退けて、この男を空港に送ってやらなければならない。その前に今日、社に戻って片づけておくべき用事が幾つもあった。もっとも、内海のいないところで何もかも進めては意味がない。働いているように見せかけて事態を停滞させる、というのもそれなりに神経を使うことだ。
「心の傷は、サンパウロでゆっくり癒して下さい」
「別れを惜しむ暇もないって?」
内海は、背もたれから起き上がって来る様子さえ見せなかった。背中を鷹揚に椅子に預けたまま、黒崎が近づいていくのを待っている。彼は、何年経っても年齢不詳の儘の男の姿を見おろした。内海が決して受動的でないのを知っている。自分で動き回りたい時は底なしのエネルギーを発揮する男だ。
たかだか自分の身体を手に入れようとした時でさえ、内海がどれだけ積極的だったか、黒崎ははっきりと記憶している。
今は、黒崎の方から歩み寄らせるというゲームを楽しんでいる。
だからこそ内海は動かないのだ。
黒崎は黙って、ごたごたと散らかった部屋のただ中に、ゆったりと座った男の傍に歩いていった。屈もうとはせずに立ったまま内海を見おろす。
黒崎は、心臓を締め付ける感情の圧迫をこらえた。自分は彼の進退について焦燥感を覚えている。そして、内海に執心されるバドリナートに嫉妬している。内海が香港時代に関係を持っていた日本人の女性警官にも嫉妬している。
それらの感情は、黒崎の情緒に覚えのない苦い甘みをもたらした。彼は馴れないその黒ずんだ薔薇のような舌触りを、長い間頭の中でじっくりと反芻している。焦燥も嫉妬も、内海に出逢う前には味わったことのない感情だった。記憶にない感情が分泌されることは、苦しいようでいて快感でもある。彼も人間である以上、快感物質に誘惑される。痛みに打ち勝つことは出来ても、快感を味わうことからはなかなか逃げられなかった。
────僕は貴方の相手として足りませんでしたか?
そう問えば、内海はどう答えるだろう。そんな問が浮かぶことそのものが異常事態だ。その異常事態を快感として認識することが、自分にとってプラスなのかマイナスなのか、それは分からない。
「別れを惜しむのもいいですけど、向こうでは大人しく遊んでて下さいよ。裏工作にも多少時間がかかりますから」
「答になってないよ、黒崎くん」
手招きすらしない男を相手に、彼は苦笑するしかない。
何故彼が自分にとって唯一のパスワードなのか。自分を日本に連れ戻した相手だからか。日本で一度捨てた名前以外の名付け親であり、自分の網膜に常に光の染みを与える相手だからなのだろうか。
一度ならず浮かんだ、彼にまつわる疑問に答が出たことはない。
内海の病を温床にして発生した、有機物と無機物の入り乱れる巨大なアミューズメントパーク。何故自分がその中におさまっていられるのか。笑顔の仮面を貼り付けた気まぐれな怪物に、不快感と痛みを耐えて、幾ばくかの夜を差し出しているのか。訳が分からない。それらの経緯が運んでくる、正体不明の快感物質に溺れているとしか云いようがない。
────貴方は、自分のために曲がらない道具は折ってしまう。
内海と自分を引合わせた男がそう云ったことが朧げに思い出される。もう彼の声を忘れてしまった。
自分は、内海のために曲がる道具であることを欲しているのか。
自分の気持すらあきらかではないのが、目の前の男の心理に至っては想像もつかなかった。
彼は上着を脱ぎ捨てて、眼鏡を外した。今では、服を脱ぐ以上に、目をさらけ出すことに抵抗を感じるようになった。
「夜の内に帰ります」
「冷たいね」
「僕を忙しくしたのは貴方ですよ」
「それじゃ、時間を無駄に出来ないな」
内海が立ちあがろうとするのを彼は片手で押しとどめた。意外に長身の内海と向かい合うと、僅かに視線を上げなければならない。彼は至近距離で人の目を見上げるのを好まない。上から顔を近づけられると、拷問された時の記憶が甦る。
長期間のリハビリを経て、彼の右手は以前以上に緻密に動くようになった。右手で自分の体重を支え、背中をかがめて、内海の肩に頬をつけた。丁度内海の口元に首筋を差し出す形になる。黒崎が、急所を差し出すことに心理的抵抗があるのを承知で、内海は喉元や首筋に歯や舌で触れるのが好きだった。ひやりとした感触があり、熱気が皮膚を湿らせた。やんわりと歯を立てられる感触に黒崎は中途半端な姿勢のままで耐える。喉の軟骨の上を舐められる。こんなことをして何が楽しいのか、と思う。内海も、そして自分もそうだ。内海に喉元をいじられていると、いつも胸の奥に丸い痛みの塊が出来る。とても飲み下すことの出来ない、時には喉の容量を超えて膨らむ痛みの塊だ。
だがそれも、唇を合わせることに比べればさほどの刺激ではなかった。初めて内海と寝た時は、どうしてもそれには耐えられなかった。あの時は内海に感覚的に馴染みきれず、男の歯列の中に舌を差し出すことに烈しい抵抗感があった。
今でさえ、噛み合わさった歯と歯の間で自分の舌の肉が、付け根からぶつりと食いちぎられる幻痛を感じることがある。喉元を、舌を、性器を触れるに任せることは、命を預けるのと同じ行為だ。いつ痛みが降りかかってもおかしくない、無謀な行為を内海と共有している。自分もまた、歯をかみ合わせれば内海の身体を食いちぎることが出来るチャンスを与えられているのだ。
神経をかき乱すような興奮と共に、内海にうなじを引き寄せられる。
自分から顔を被せて行くような形で、内海に口づけた。内海が容易く目を閉じるのが黒崎には不思議に思えてならなかった。内海は自分を信じてはいない。だが、恐れてもいない。
ざらついた舌同士が触れ、殊更にゆっくりと側面を愛撫される。そうしていると、麻痺に似た感覚が襲ってくる。内海と初めて会った日に味わった、バルビツール酸系の睡眠薬とアルコール度数五十パーセントの汾酒が作り出した、異様な眠りを思い起こさせる。痺れと共に、治った筈の全身の傷がうずき出すような感覚だ。
わたしを平和の道具にして下さい。
唐突に暗闇の中で唱えた言葉の断片が思い出される。更に一つ。
────想像の産物を抹殺せよ。衝動を抑えよ。指導理性を自己の支配下に置け。
アウレーリウスの自省録から抜き出した一文だ。これも牧師に教わった。
感情を刺激される言葉が、必ずしも行動を管制するとは限らないものだ。
口腔の中をかき回される感覚が快感に変るまでは、いささかの忍耐が必要になった。
息が詰まる。この段階になると余りまともに考えられなくなる。
内臓の中に異物を詰め込まれた違和感が消え始めると、摩擦が身体の内側から汗を吹き出させた。彼はシーツに額を押しつけて、腰の奥で動く快感と吐き気をやり過ごそうとした。吐き気が薄れるほど快感が強くなり、快感が薄れると吐き気がこみ上げてくる。これは大抵、吐き気と快楽が背中合わせで押し合うような行為だ。
苦痛も、快感も、自失に繋がるという意味ではよく似ている。だが、そこに付加された意味が両者を分かつ。たっぷりと濡れた刺激が自分に沈んで引き上げられる時、男の顎を伝った汗が背中に落ちてくる時、男と自分が、丁度同じような隙でつながっていることが分かる。冷静な時によく考えてみれば、全く無防備な瞬間を共有するということが、自分にとって何を意味するのかが掴めたかもしれない。
だが、圧迫と空白が反復されると、やがて胸の中までが、かき混ぜても手応えのない雲のようになる。俯いた自分の下睫毛に透明な滴が煌めいているのが見える。それが汗なのか、涙なのか、彼にはもう判別がつかない。どちらでもそれほど違いはなかった。涙が、或いは流れ落ちるほどの汗が、他人の干渉によって分泌されている。それが苦痛なら別段目新しいことではなかった。だが、苦痛以外の感覚で彼を自失させるのは、今、背中に覆い被さっている男唯一人だった。
男の名前が何だったのか、自分に何という名前が与えられたのか忘れかける。呼び掛けるべき名前もなく、彼は声をかみ砕く。奥歯の上でこなごなにしたそれを、唾液や、忙しない呼気に交ぜて深く呑み込み、自分の中に押し戻す。
男の名前を呼べば、知る必要のないことを知ってしまいそうだったからだ。即ち、自分がどれだけ彼の形に添って曲がろうとしているのか。一度掴んだ光への渇望がどれだけ深いのか。
耳鳴りがしている。SSSのキュマイラに吹き飛ばされて異状をきたしたグリフォンの、悪夢のような駆動音に少し似ていた。
彼は目を閉じない。シーツの上に落ちる染みを見つめる。それが目の中に流れこむ汗でぼやけ、形を歪める様を刻み込む。目に見えるもの以外を信じまいとする気持と、快楽に痙攣する身体を宥める苦しさで、自分を満たそうとした。
洗面所の自然電球は、無機質な蛍光灯よりもむしろ頬の線が削げているのを目立たせた。このところ激務が続き、満足な休息を取れなかった。そこに今夜のことが重なったせいで、タフな黒崎も疲れていた。目の下にも影が落ちている。眼鏡の曇りを拭ってかけ直す。手櫛で髪を整え、乱暴な扱いに多少くたびれたネクタイを締めた。上着はリビングで脱いだままだった。灯を消す前にちらりと視線を返すと、少し翳ってはいるが、いつもののっぺりと無感動な顔が映っている。そこに生臭い情事の名残はなかった。
それでようやく気の済んだ黒崎は洗面所を出た。これから社に戻って居残り組と顔を合わせることになる。社を退けた自分がどこに行っていたか全員が知っている。明日出発する内海とこんな行為に耽っていたことを感づかれるのは御免だった。内海と彼の関係について知っている者もいるかもしれないし、いないかもしれない。それは黒崎には分からなかった。だが、そのことで意識されたり、気遣われるのは疎ましかった。
彼はリビングに戻り、カーテンを引いて上着を拾い上げた。この部屋を再び訪ねることがあるとしても当分先だろう。見慣れた部屋だが馴染んではいない。その意味では、彼は自分自身が借りた部屋にさえ馴染んでいなかった。リビングを一瞥し、出て行く前に、と、寝室を覗き込んだ。
「起きてたんですか」
彼がベッドを抜け出した時、目を閉じていた内海は、薄暗い部屋の中でベッドに肘をついて横になっていた。ほぼ弱視に近い視力の目に、眼鏡をかけていなかった。だが、薄闇の中で目は黒々と光り、焦点が合っていないようには見えない。何かを考えている風だった。
「課長?」
声をかけて初めて、黒崎がそこにいることに気づいたようだ。口角がぐっと上がり、内海は投げ出していた手を振ってみせた。
「お疲れ様。ほんとにこれから会社に戻るの?」
「ええ」
「あんまり根を詰めて仕事をし過ぎちゃだめだよ」
二重の意味があるのを承知で黒崎は肩をすくめた。
「心がけます」
彼はもう部屋を出るつもりで軽く目礼した。
「ああ、それから」
「何です?」
「上から三番目」
「────どこから何を数えるんですか?」
また訳の分からないことを云いだした。そう思って振り返ると、内海はベッドの上で、自分自身のうなじの上を、てのひらでそろりと撫でてみせた。どうやら、内海の云っているのは、頸椎の上から三番目、ということらしい。
「何か、赤い痕がついてるよ。襟で隠れるかどうか、微妙な位置だから気をつけた方がいい」
黒崎は憮然とした。
「ついてるんじゃなく、つけたと仰るべきじゃないですか?」
もう一度洗面所に逆戻りだ。
彼はタイを緩め、襟のボタンを一つ外した。そして、身体をよじって首筋の裏側を眺める。確かに項よりもやや下部に驚くほど鮮やかな、鬱血の染みが赤い花を開いていた。
(やってくれたな……)
この位置では、真っ直ぐに背中を起こしていれば見えないが、座って少しかがめば、後を通り過ぎる相手には易々と目に入る。もっとも相手が黒崎のうなじなどを眺めていればの話だ。
彼は殊更にきっちりと襟元の乱れを整えて、内海の寝室に戻った。
「こういうのは謹んで頂きたいんですがね」
「何、数日で消えるだろう。ささやかな自己主張だよ。浮気防止策としては効果が短いけどね」
「浮気?」
黒崎はあきれてつぶやいた。
「その言葉に、そんなに多様な意味があったとは知りませんでしたよ」
「多様な意味があるさ。君が貞節を守る相手を覚えていてくれればそれでいい」
黒崎はぎくりとした。この男は、自分が彼の手足となって働いているこの最中も、自分の裏切りの可能性を易々と計算に入れる。数日で消える小さな鬱血は、今内海が口に出した暗喩とは直接的には何の関係もない。だが、その紅色の染みは、内海が黒崎を重用するのは、信頼しているからとは限らないのだ、ということを物語っていた。
「記憶力は悪くない方ですよ」
「知ってるよ。外は冷えるよ。気をつけて」
目を細めて笑うと、薄い、大きな口のかたち────刻み込んだ笑いだけが際だった。
「恐れ入ります。それでは明日」
「それじゃね、黒崎くん」
男はまた手を振った。
黒崎は目礼してドアを静かに閉めた。静かにリビングを通り、玄関先に向かう。
彼は自分をどれだけ曲げたのか分かっているのだろうか。
おそらく分かっているだろうと思う。項の上でかすかに疼く赤い痣になぞらえた牽制。浮気、という浅薄な単語になぞらえた警告。どれほど自分が曲がってもあの男が足りるということはないのだろう。そして自分も最後まで彼に添うことが出来るかどうかは分からないのだ。
彼はドアを開け、冷え冷えとした外気を吸い込んだ。
オートロックのドアが閉まる音を聞きながら、自分の名と同じ名前の色の冬空が、通路の向こうに広がっているのを見つめた。