もしも彼が重しをつけて水中に身を投じても、沈むことなく水に浮かぶのなら、我々は彼をこう呼ぶだろう。
彼は紛れもなく「魔」である、と。
森を包むほの白い霧の中に、風に乗って飛ぶ羽虫の群が、虹色に甘く輝いていた。空気の流れに沿ってゆらめく虫の羽根のきらめきは、この薄暗い森の中にも、太陽の光がかろうじて届いていることを示していた。
虹色とも金色ともつかない光沢の羽根を持ったこの無数の小さな虫は、光の塔を意味するミナレットという名で呼ばれ、バレンディアではこの地方にしか生息しなかった。この森が羽虫の森と呼ばれる所以だ。
廃都レアモンデの南西に位置するこの森は、隣接する都がバレンディアの民からうち捨てられていることになど構わず、瑞々しく豊かな下草を生やし、澄んだ水の流れを内包して、静かに息づいていた。一見この森には滅びの指が届いていないようにも見える。もっともその森の中には、以前には確かに棲むことのなかった異形のものが多く棲みついているため、この地方全体に異変が起こっていることは明白だった。
ただし、この森の中に足を踏み入れる者はもう殆どいない。羽虫の森に異変が起きているか否かを気にかける者などいようはずもなかった。何らかの使命をおびて潜入する工作員以外には。
羽虫の森の土の上に膝をつき、体勢を崩したまま、アシュレイ・ライオットは息を乱して立ち上がれずにいた。
彼はついさっきまで、強敵を前にして剣をふるっていた。だが、その一戦がアシュレイの四肢を萎えさせたわけではなかった。彼はもとより強健な男だったが、このレアモンデに潜入してからは、不思議なほど疲れを感じなくなっていた。まるでレアモンデの地が、彼の手に、足に、尽きないエネルギーを供給しているように思えた。
彼の手足を倦怠感に冷やし、胸に激しい痛みを与えるのは、今までに何百回見たか分からない、過去の悪夢の続きだった。
それは数年前、アシュレイが妻と子供を失った日の夢だ。
悪夢に変わった今も、その日の映像は輝かしかった。清潔な緑に包まれた丘、妻の作った昼食の入ったバスケット。封を切ったワイン。初夏の光が丘に降りそそいでいた。妻の着ていた白いドレスの膝に、家族の座った木陰の木漏れ日が映って、やわらかに踊る陰影を作り出していた。
(アシュレイ)
彼の名前を呼び、微笑んで伸び上がってくるティアの柔らかな唇の感触がまざまざとよみがえって来る。そして幼かった息子、マーゴの父親を信頼しきった瞳……。
しかしその甘い夢は、ただ一人の男の手によって突如として悪夢に変えられたのだ。
男は大柄で、片手におそろしく切れる片手剣を帯びていた。夏の野の光を受け手、刺客の振りかざした剣が輝いた。男は影のようになめらかに、平凡な家族連れに近寄って、若い夫以外の者の命を、一人ずつ着実に絶ち切ったのだ。
光の夢は一瞬にして真っ白に塗り潰され、それは虚無のカンバスにおびただしい血痕を浮かべた、鈍痛を伴う悪夢になった。
若く、望みに溢れた夫であり父親であったアシュレイにとって、それは何年たっても自分自身を飽かず復讐に駆り立てる、聖なる悪夢となった。夢は夜昼となく訪れて、彼の胸を復讐の意志に煮やした。何度日を、年を重ねても夢は忠実に彼のこころの中に訪れて、空虚な神殿を築いた。そこは何者も立ち入ることを許さず、共有することもない、力の暗い源であり、生活の全てを変え、世界を愛する望みを捨てさせるに至った邪教の聖地だった。
しかし「彼」だけは例外だった。
シドニー・ロスタロット。カルト教団の教祖だ。女のようにたおやかな姿をした、若く美しい男だ。彼は現在のアシュレイの標的でもある。不可解な力を持った男だったが、しかし「標的」以上のものではなかったはずだった。少なくとも、シドニーがアシュレイの夢の中に入り込んでくるまではそうだった。治安維持のためのエージェントであるアシュレイの標的であり、犯罪者であり、追いつめて捕らえ、議会へ連行すればそれでアシュレイとは再び関わりを持たなくなる、そういった相手であるはずだった。
しかし、シドニーが夢の侵入者になった時、事情は変った。彼は明確にアシュレイと関係を持ったのだ。
バルドルバ公爵邸で、シドニー自身口からレアモンデへ向かうという情報を得て、アシュレイは彼を追って、二十五年前の大地震で半ば廃墟となったレアモンデへとやってきた。南西の森で、ようやく彼の足跡に出会ったのだ。
彼にとってシドニーは標的でしかなかったが、どうやらシドニーにとっての自分が、唯の追跡者ではないということを、この森に入る前から既にアシュレイは気づいていた。それはシドニーが、彼の行く先々に仕掛けておく「罠」のためだ。
シドニーが自分の手足のように使う「魔」によって命を吹き込まれた異形の怪物が、アシュレイの進路を見計らったようにところどころで待ち受けていた。
(シドニー・ロスタロットは、追跡者に必ず、ここまでもてなしをするのか?)
アシュレイはいぶかしく思った。
しかし答は否、だった。
シドニーが、魔を扱うことに関して、並々ならぬ力を持っていることは分かった。しかしそれでさえ、これだけの罠をしかけて力を使うことは、彼の逃亡にとっては必ず不利益になるはずだった。シドニーが、アシュレイを逆に標的に定め、正しい道に目印を付けるように、怪物を残していっているのは確かだった。
そして、「魔」はそれに触れることによって感染する。魔力によって醸造された怪物を戦いを繰り返すことで、アシュレイ・ライオットは、すでに手のほどこしようもなく魔に感染していた。
しかもシドニーは、今まで誰一人足を踏み入れることのなかった、アシュレイの過去の夢の中にまで入り込んできたのだ。
アシュレイは森の深部で、聖印騎士グリッソムと戦った。グリッソムは感染者だった。彼を葬り去ると、唐突に「夢」は訪れた。目の前に厚く白い布をかぶせたように過去の映像が目を灼き、いつもの緑の丘が出現する。これが、誰か他の者と一緒にいるときに訪れることは今までなかった。胸に痛みを覚えてアシュレイは狼狽した。シドニーがその場にいる。彼を確保するどころか、白昼夢に襲われたままで命を奪われかねない。
振り払おうとしても夢は覚めなかった。馴染んだ焼かれるような苦痛と共に、妻と子の命の絶たれた木陰を、アシュレイは茫然と見る。そして不意に、この暗い聖地に立つ者が、自分一人ではないことに気づいたのだ。
しなやかな細い身体がするりと忍び寄って、夢の苦痛にふるえるアシュレイの背後にそっと立った。
甘く静かな声で彼はささやいた。
「目を開けて、暗殺者の顔を見てみろ、ライオット。その手際のよさと、傷口の美しさを見てみろ。それが暴漢の仕事か?」
「……何?」
「耳を澄ませて聞くんだ」
シドニーはゆっくりとうたうように唱えた。
「息づかいや、鞘を払う時の小さな音の癖や、草を踏む足音を、自分の耳を澄ませて聞いてみろ、ライオット────」
そしてアシュレイは聞いた。
暗殺者の完全に押し殺した息づかい、訓練された機能的でなめらかな足取り。あたたかな心臓に着実に潜り込み、全てを断ち切る静かな刃の正確さ。悲鳴もあげずに倒れた妻の最後の息。それはアシュレイにだからこそ意味を成す言葉で、はっきりと何事かを訴えかけてくる。
彼は大きくふるえた。
その息づかいには憶えがあった。あまりに慣れ親しんだ音、慣れ親しんだ気配だった。
「……それが暴漢の仕業か?」
シドニーは彼を見下ろした。
「その男は余りに貴様に似てはいないか?」
アシュレイは汗の流れ込む目をしばたたき、膝をついた自分の傍らに立つ、なめらかでほっそりした姿の男を眺めた。森の中で、彼の肩まで伸びた美しい金髪は、知りたくもない真実を照らすランプのようにほのかに光っている。
「……どういう意味だ……」
しわがれた声が出た。シドニー・ロスタロットは哀れむように眉をひそめた。
「……怒りはお前の行動原理だが、それは本来自分に向けられるべきものだと、おれはそう云っているんだ」
ささやくようにシドニーは言葉を紡いだ。茫然と背中を喘がせるアシュレイの頭上から、再び深々と、言葉の切っ先で差し貫いてきた。
アシュレイは目の中に流れ込んだ汗を瞬きで振り払い、追っていた獲物が自分を弾劾するさまを見上げた。
だがそれは、弾劾ではなかったのかもしれない。弾劾とはそれぞれのこころの中に他人に強制すべき正義があってこそのことだ。シドニー・ロスタロットは己のこころの中に、偽りの正義などというものを持たない男のように思えた。
「そんなところにへたりこむな、お前らしくもない、無様だぞ、リスクブレイカー。……そんなところ、とおれの云うのが、この森の話だと思うのか?……」
微笑みを含んだ声が彼の耳元に低くささやいた。
「違う。……おれは、貴様がことあるごとに逃げ込む、その感傷と欺瞞に満ちた、追憶の夢の話をしているのさ」
自分の差し貫いた傷の深さを確かめるように、シドニ-・ロスタロットは、そっと身を寄せてきた。柔らかな髪の先が彼の背中に触れ、ごく静かな息が聞こえてきた。シドニーのほっそりした身体には剣を持つ男の放つ殺気がなく、あたかも彼の苦痛をかばうように静かでなめらかだった。ささやくために開いた唇は、触れそうな近さにある。
アシュレイは怒りを込めて静かに男を押しのけ、かすかにふるえる指に剣を握り直して立ち上がった。
立ち上がると、シドニーが、自分よりもはるかに小柄なのが分かる。
彼は、外気に晒されたシドニーの胸に目を留めた。半日前、ボウガンを使ってアシュレイがつらぬいた胸だった。陶器のようになめらかな皮膚には染みひとつなかった。
シドニーの声は、身体の中に凝ったものを全て忘れさせ、痺れさせるような甘い声だ。メレンカンプ教の信者たちが、この若い教祖の声に熱狂するのが分かる。そして声だけではない。この男は存在そのものが奇跡の因子をはらんでいるのだ。アシュレイは静かな恐慌状態の中でそんな風に思った。
「おれの傷を思い遣ってくれているのか?」
彼の目に気づいたシドニーは、揶揄うように微笑する。
「おれを傷つけてとらえたければ、魔の力を借りることだな」
アシュレイは目をあげた。
「魔の力?」
「単純な死の手などもうおれには届かないのさ」
金色の瞳がアシュレイを見つめた。シドニーはその腕に、火炎のような波形の刃を持った抜き身のフラムベルクを握っている。柄には、小枝をかたどった金色の飾りがあしらわれて、シドニーのかぎ爪を備えた具足で隠された手指を包んでいた。装飾的な黄金の剣は、満月のような金色の髪と瞳を持ったシドニーによく似合う。しかし薄青く冷たく光るその刃は、研がれたばかりのように清潔で、何者の血を吸った様子はなかった。こんな華奢な剣を一ふり携え、裸の胸を無防備に晒して、レアモンデの廃墟を歩き回っていても、彼には誰も傷ひとつつけられないのだ。
「おれを捕らえたいなら魔に近づけ。そうすれば、貴様にも聞えてくるはずだ」
シドニーは、かぎづめを備えた指をかかげて森の上空を指し、血の気の薄い唇を開いた。
「目を閉じて聞いてみろ。魔の向こうから自分自身が何をささやいているのか」
アシュレイ・ライオットの記憶の中では、妻と子を殺されたのは彼が近衛騎士だったころの、初夏の休日だった。
彼はろくな武器を帯びてはおらず、鋭い剣を備えた敵に抗することができなかった。近衛騎士の仕事にも家庭にも充足していた、或る意味で平凡な一兵士だったアシュレイ・ライオットの中には、妻と子の血に触れた時から深々と闇が巣くうようになった。彼のこころは粉々に壊れた。
近衛騎士の受け身の仕事に生き甲斐を見いだすことが出来なくなった彼は、半年後、自らバレンディア治安維持騎士団に身を投じた。同じ騎士とはいえ、近衛騎士がバレンディアの光の部分を司るとすれば、治安維持騎士団、VKPは闇の部分を象徴する。内部事情は、VKPで活動するエージェント自身も、自分の与えられた任務以外には知らされない。VKPはバレンディアの歴史の中で、常に幾重にも厚いヴェールで覆われてきた。
(「貴様等はバレンディアを守護する手足だ」)
アシュレイがリスクブレイカーの任を負うことになった時、彼を目の前にして、VKPの総括を担うリサイト長官の云った言葉だ。リスクブレイカーとか、治安維持騎士団の中でも更に奥のセクションに属するエージェントたちのことだ。危険請負人と呼ばれ、重犯罪者の確保や、他騎士団との軋轢を避けるための工作を引き受けることもある。
(「エージェント・ライオット、貴様の腕は物を考えるか?」)
これは質問なのか。そう思いながらアシュレイは、いや、と答えた。
(「脚はどうだ」)
(「……いいや」)
(「そう、手足とは物思わぬものだ。ここから」)
そう言いながらリサイトはこめかみに、自分の指を押し当てて見せた。
(「使命を与えられるまでは沈黙し、命令があれば速やかにその意志のみのために動く、貴様等はそういった存在なのだ。自ら目的について考える必要はない。頭が考えるその通りに剣をふるい、敵地へ向かい、反逆者を仕留めるがいい」)
VKPはエージェントに思考しないことを要求しているのだと、リサイトは云っているのだ。やけに芝居がかった言い回しをするものだ、と、アシュレイは思った。しかし、久しい苦痛に蝕まれたアシュレイ・ライオットにとっては、それは好都合だった。彼の怒りを癒す水は犯罪者の粛正に限られており、その機会を無尽蔵に供給してくれるVKPは、アシュレイの、人生に対する復讐の対象を、肩代わりして探索してくれる、不可欠の存在だった。
近衛騎士の仕事は、ことが起こるまでは決して剣を抜くことができない。そこでは決して与えられないもの、重犯罪者を自ら追ってゆき、その罪の業績にとどめを差す、アグレッシブな追跡者としての仕事をアシュレイは望んだのだった。
カルト教団メレンカンプの教祖、シドニー・ロスタロットがバルドルバ公爵邸を襲い、多量の人質を取って立てこもっているという報せが入ったのは昨夜のことだった。
バルドルバ公爵は内戦の絶えないこの国において、表向き、調和の立て役者だった。豊富な財力を惜しみなく使い、彼はバレンディアに或る一定の平和を作り上げた。しかしこれは半ば周知の事実であるが、公爵が財力を投じたのは光の部分のみにではなかった。彼が犯罪的要素の強い教団メレンカンプのパトロンであり、メレンカンプを操作してバレンディアの裏世界を牛耳っていることや、シドニー・ロスタロットと公爵の穏やかならざる裏の関係も、議会や、他の騎士団の知るところだった。
(仲間割れというところか)
炎上したバルドルバ公爵邸を眺めてアシュレイは思った。権力者である貴族たちが、裏世界の強欲な支配者であることにも、さらにその裏の騒動を表社会に持ち込んでくることにも、彼は烈しい嫌悪を抱いた。
(「一人で潜入するなんて危険だわ────応援が来るのを待つべきだわ、エージェント・ライオット」)
彼のパートナーとしてVKPから派遣されてきた、情報分析官のキャロ・メルローズが、彼の単独行動を制止しようとしているのに気づいて、アシュレイは酷い煩わしさを感じた。
彼はただ、濁った水の中に潜って底に沈んだ水門を探し出し、腐りかけた水と新鮮な水を入れ替えたい。それだけだった。実際に剣をふるうことのない情報分析官には分からないことかもしれないが、単独行動を恐れていては、リスクブレイカーの任務はつとまらない。
(「おれがその応援だ」)
素っ気なく云い残して、アシュレイは剣を握り、聖印騎士団の突入の混乱の中を公爵邸に滑り込んでいった。聖印騎士たちよりも早く、シドニー・ロスタロットを捕捉しなければならない。
不安そうに彼を見守るキャロ・メルローズの学生のように若い顔が印象に残る。少し後味が悪いのを、アシュレイは自分自身不可解に思った。
バルドルバ邸に単身潜入したアシュレイ・ライオットが、メレンカンプ教の教祖、シドニーと出会ったのは、潜入から数十分後の事だった。
彼がシドニーだ。
柱の影に身を潜ませたアシュレイは、男の姿を一目見てすぐにそう思った。その男は公爵邸の広間に、玩具のように華奢なレイピアを一ふり携えて、無防備に立っていた。
シャンデリアの灯が降りそそいで、男の、純度の高いなめらかな金髪を輝かせていた。髪と同じ色の睫の中から、更に濃い、蜜のような黄金色の瞳が覗いている。
腕と足に奇妙なはがねの具足をつけているのが目に焼き付いた。それは腕と足をすっぽりと付け根から頑丈に覆って、男の、少年のように細い手足を守っているかのように見えた。
しかしその胸と背中はむき出しになっている。痛ましいほどほっそりと薄い白い胸と、黒光りしてかぎづめを生やした具足の対象が奇妙なものに見えた。
アシュレイは、二本の剣のほかにボウガンを携えていた。彼の放つボウガンは、鎧の上からでも楽々と敵の心臓を捕らえ、ましてや裸の胸であれば、背骨さえ突き通して確実に息の根を止めることの出来る強力なものだ。
「シドニー・ロスタロットだな?」
よけいなことを云うつもりはなかった。アシュレイは勝利に酔う習慣がない。仕事の成功は彼にとっては常に、幾ら飲んでも酔わない苦い酒のようなものだ。
「動くな」
正確にシドニーの左胸にねらいを定めて、アシュレイは降伏を要求した。しかし、男は彼の言葉を意に介した様子はなかった。ただ、珍しいものを見るようにゆっくりと瞬きして、彼を凝視した。何かを見いだしたように、ふと口元をほころばせる。
(何だ?)
シドニーの手が彼の背後に置かれた剣に伸びるのが見えた。しかしそれは無謀としか思えない行為だった。ボウガンを持ったアシュレイはシドニーと十分に距離を保っている。シドニーが持ったレイビアでいかに迅速に斬り掛かってきても、ボウガンにかなうはずはなかった。
議会がシドニーを生かしたまま捕らえたがっているのは分かっていた。しかし、シドニーが大人しく降伏するつもりがないならば殺すしかない。アシュレイは任務を完全なかたちで遂行できないことを残念に思いながら、シドニーの指がレイピアにかかった瞬間に、ボウガンの矢を正確に心臓部へ打ち込んだ。
ボウガンの特色である、自らの指で相手の心臓を貫いたような奇妙な手応えが確かにあった。シドニーは無言で倒れた。あおのいて倒れた華奢な背中が、彼の身体を貫通したボウガンの矢の高さの分、わずかに反り返っている様をアシュレイは見下ろした。殆ど閉じた睫の間に、蜜の色の瞳がかすかに覗いている。唇の端から血の筋が静かにあふれ出してくる。彼は男の首筋に指を押し当て、鼓動が止まっていることを確認した。
どうするか。アシュレイは思案する。シドニーは死んだ。邸内にいるメレンカンプのメンバーは残り約十数人。シドニーが死んだことを何らかの方法で彼らに知らしめれば殆どが戦意を喪失するだろう。あくまで抵抗するのはおそらくわずかな数に違いない。
キャロ・メルローズの話では、シドニーの側近のジョン・ハーディンがこの館の中にひそんでいるはずだ。彼が残りのメレンカンプの団員の中でもっとも危険な存在だ。実力者であると同時に、シドニーに心酔している。シドニーが死んだとあれば、自らの命を賭してでも目的を遂行しようとするだろう。
(ハーディンは、シドニーの死を報せる前に仕留めた方がいいかもしれないな……)
そのとき、彼の視界の隅で、完全にこときれていたシドニーの黄金の睫が不意にふるえたように見えた。
(?)
アシュレイは再びシドニーに近づき、その様子を愕然と見守った。細い血の流れを作っていた唇が動き、塊のような血が激しくあふれ出してくる。呼吸が通っているのだ。
身体の中を不快な戦慄が走り抜けた。
彼は、手足を投げ出して倒れたシドニー・ロスタロットの死体……もしくは、数秒前まで死体であった身体に屈み込んだ。
その瞬間、シドニーの瞳ははっきりと開いた。大広間の天井のステンドグラスに描かれた絵、それに跳ね返るシャンデリアの灯を、その美しい瞳は、黄金を貼った鏡のように映しだしていた。
羽虫の森の奥に分け入って、聖印騎士のグリッソムと相対するシドニーに遭遇したとき、アシュレイは安堵に似た思いを抱いた自分をいぶかしんだ。
やはり生きていたのか。
シドニーの胸は生まれてこの方傷など受けたことがない者のようになめらかに整って、相変わらず無防備にさらけ出されていた。
しかしアシュレイは、すでに彼の無防備さの理由を知っていた。無防備なのではなく、シドニー・ロスタロットはその存在そのものが堅固に『不死』に守られているのだ。大袈裟な鎧で守る必要がどこにあるだろうか。しかし、相も変わらずシドニーの手足を覆った具足は気にかかった。心臓の眠る胸をあんなふうにさらしておけるなら、手足をあれほどに守る理由は何だ。あの下には何が隠されているのだろうか。何か人の目に触れてはならないものが隠されているのではないか。
グリッソムと、グリッソムに呼び出されたイービルがシドニーに近づいて行った時、アシュレイが剣を握ったのは、シドニーを救おうと思ったわけではない。魔に感染したグリッソムのまがまがしさ、そして巨大な剣を持った黒いイービルの姿は、アシュレイにとって処分するべきものに映っただけだ。彼らとシドニーが敵対していることそのものには意味を見いださなかった。
しかし、アシュレイが、自分とイービルの間に割って入ったとき、シドニーの瞳は一瞬燃えるような金色に光った。そして彼は唇にあきらかに微笑を浮かべた。
それはバルドルバ公爵邸の大広間で彼と初めて会ったとき、シドニーが浮かべたものとよく似た表情であり、それよりも更にはっきりとアシュレイへの関心を映し出した表情でもあった。
イービルの握った長剣がアシュレイの頭上に振りかざされ、彼がそれを受け止めたとき、不意に、体中を巻きしめるように、熱いものが彼を包み込んだ。魔の気配だった。シドニーが自分に魔法を施したのが分かった。そしてそれが、全身のダメージをかばい、防具をプロテクトするものだということも、剣をひらめかせて突き進みながら、アシュレイには分かっていた。
彼自身も同じ魔法を使うことが出来るが、しかしシドニーの使うそれの威力は桁違いだった。
イービルの剣が彼の肩から胸を切り下げた時も、その剣の巨大な力と切れ味にも拘らず、肉は断ち切られずに、蚯蚓腫れを残すのみにとどまった。
(これがシドニーの使う魔力か)
アシュレイは剣をふるいながら思った。シドニーが使うと、魔というものの意味はより深く浸透してくる。魔の力をこごらせて、牧場のように育て上げるというレアモンデ。その力を議会が、法王庁が欲しがるのも無理はないと思えた。
しかもその力は、アシュレイの使う片手剣の威力を、イービルの用いる大剣なみのものに変えていた。手応えはいつにもまして強く、魔に感染したために石のように冷たく硬くなったグリッソムの胸に、その剣は深く潜り込んで、腕と胸とを切り離した。
グリッソムの目が戸惑ったように赤くうるみ、彼は、自分の胸元から赤い輝きが漏れだしてくるのを見て叫びをあげた。それは血ではない。血のように赤く染まった魔の光だ。グリッソムは叫びながら、紅い光と共にもろもろと崩れ出す傷口を押さえようとした。魔に感染した者の辿る不完全な死については、グリッソムも聞き及んでいるのだろう。
魔の感染者は死ぬことが出来ない。肉体が滅びても、なまなましく意識を残したままで、レアモンデの中に取り残されることになるのだ。
グリッソムの肉体が完全に崩れるのを確かめて、今度は黒い鎧を身に纏ったイービルに剣を向ける。シドニーは自分では戦おうとせず、アシュレイの背後に立っていた。イービルにもアシュレイにも手を出そうとはしなかった。森の中を吹き抜ける風に髪をなぶらせながら、何かに耳をそばだてるように、羽虫の群を眺めている。
シドニーのその行動に反感はなかった。それどころか、シドニーを背にしたアシュレイは奇妙な感覚に陥った。それはまるで、自分が背中でかばったような形になっているその男と、以前から共通の目的を持って戦っているような、不可解な仲間意識だった。
シドニーに傾倒する者は、おそらくこの奇妙な感覚に、徐々にこころの深部まで蝕まれてゆくのだろう。
彼の姿を背に、たった二人の敵と剣をまじえただけの自分にこんな錯覚を起こさせるほど、シドニーの存在は強烈だった。
アシュレイの寝床を数え切れない後悔と憎しみの汗で濡らした過去の夢。イービルを倒して二人きりで相対した瞬間、シドニーはそれを誘発して、夢の扉を侵して入りこんできた。
「何を聞けと云うんだ……俺が────二人を殺したとでも?」
そう問い返した彼の声に、シドニーはふと微笑みを唇から消し、アシュレイを見守った。その瞳の奥に、かなしみに似たものがちらりと動いた。
「そうだ」
「……なぜ俺がティアとマーゴを……」
「その名は真実、貴様の妻と子の名前か?」
シドニーは云いながら、かすかに首をかしげるようにした。また何かに耳を傾けているような仕草にも見えた。
彼は全てを知るのではなく、聞こえるのだと云った。
レアモンデを吹き抜ける、たっぷりと魔を含んだ風が、この男の耳に何事かをささやくのだろうか。
「エージェント・ライオット。お前はあのとき、任務中に誤って見も知らない家族連れを殺したんだ」
今まで、アシュレイ自身の記憶を辿ることを要求したシドニーは、不意に突き放すように云った。
「お前は失敗した。正義の御旗の許に仕込まれた暗殺のための技術を使って、罪のない親子を死に追いやった」
「……」
アシュレイは口も利けずに茫然と立ちすくんだ。シドニーが何を云っているのか一瞬理解できなかった。不快な波が胸の中に押し寄せてくる。
(愛してるわ、アシュレイ)
死んだ妻の柔らかな声が耳元をくすぐった。
(マーゴにワインなんて飲ませないでね)
そして口づけした。彼女の肩を支えると、絹の混じった布で作られた夏のドレスの生地がてのひらにふわりと柔らかく触れた。
繰り返し思い出す記憶だ。しかし、何故自分はあの日のティアとマーゴの姿をしか思い出せないのだろう。そして、彼は犯罪者であり、自分は彼を追う議会のエージェントでありながら、何故自分の私的な事情にまで足を踏み込ませるのを許し、あまつさえ、彼の言葉に耳を傾けているのだろう。
「貴様の価値観は崩壊した。リスクブレイカーともあろうものが、無抵抗の一般市民を殺してしまったのだからな」
残酷な言葉を吐き出しながら、シドニーの顔にはしかし嘲笑するような色はなく、その金色の瞳は益々哀しみに似たものに暗く沈んで行った。それは、日没間際の太陽が寂しく輝いているさまを思わせた。
「貴様は義務感の強い男だ、ライオット。価値観の崩壊は、すなわち剣を握ることの放棄につながる。貴様のリスクブレイカー生命を、議会は惜しんだのさ。たかだか平凡な夫婦と子供一人の命で、お前のような優秀なエージェントを失うまいとした。だから洗脳して、お前の記憶を入れ替えた。妻と子を殺され、その怒りによってこれからお前は戦ってゆくのだと」
アシュレイの震えはもう止まっていた。彼は森の上空に白く渦巻く霧と、金緑色に光りながら飛んでゆく無数の羽虫たちを眺めた。
「お前の記憶の食い違いをただすような友人もなかった」
シドニーはささやく。
アシュレイの喉は不意に解放されたように楽になった。
彼はシドニーの顔を見下ろした。自分にそんな記憶をつきつけながら、シドニーが辛そうなのが何故なのか分からなかった。太陽と月が人の愚行を全て見つめていながら、さしのべる手も持たず、血のような光の涙を流して夕刻の上空をすれ違うように、この男は自らの手で、魔を制したいという過分な望みを抱く者たちを戒めることは出来ないのだ。
「おれに真実を見せてくれようという心遣い痛み入る」
彼は力を込めて低く云った。自分の心に言い聞かせるような気持だった。
「……だがそれが真実であれ、お前の見せた邪悪な幻であれ、俺は剣を二度捨てることはしない」
シドニーの唇に、再び不可解な笑みが昇ってきた。
「……そうか」
彼は剣を握った手を身体の脇に垂れて、アシュレイがほんの一瞬前にしたように羽虫のきらめきに視線を向けた。
「真実が知りたくはないか」
「知りたいさ。真実ならばな」
アシュレイはつぶやいた。マーゴの小さなてのひらのあたたかさ、ティアの口づけの優しさがよみがえってくる。しかし、それ以外の記憶はまるで霧に包まれるようにして消え去っている。だが、彼のこころの中でその記憶の優しさや妻のドレスの白さはなまなましく煌めいていた。それは羽虫の羽根のきらめきに、太陽の光の存在を知ることと等しかった。彼らの記憶のきらめきが、アシュレイに、その過去が実在したものだということを、もの柔らかに示唆しているように思える。それ以上にアシュレイを支えるものはなかった。
しかし、自分の中に、暗い森の深部のような記憶の欠損があることは認めざるを得なかった。
「知りたい……が、お前を信じてはいない」
確認するようにつぶやくと、シドニーは彼に近寄ってきた。
「魔に心を開け。そうすれば貴様はさまざまなものを手に入れることが出来る」
「おれは何も欲しくない」
云い放つと、優美な唇の乗せた笑みは濃くなった。
「たった今真実が知りたいと云ったのは貴様だ、ライオット。なくした記憶を取り戻したくはないか? おれの云うことが虚言だとして、あの裁きの日よりも前の、掛替えのない記憶とやらが?」
アシュレイは自分がこの男に対して戦意を失っているのか、それともそうでないのかを判断しかねた。
しかし二度と剣をふるって、不死の鎧を纏ったこの優美な罪人の胸を貫こうとは思わなかった。
上空にゆるやかな風が起こり、乳色の霧と、こがね色に、薄紫に、みどりいろに輝く羽虫たちが大きく渦をえがいた。レアモンデの上空にそれは絶えず呪符を書き替えているようだった。
「お前は……俺の記憶を取り戻す手助けをしているように見えるな」
皮肉な気分でアシュレイはため息をついた。
「礼を云わなければならないのか?」
「くだらないことは云うな」
シドニーは苦笑した。
しかしアシュレイは引かなかった。
「……お前の忘れ物にあちこちで出会う。……そのたびに俺は『感染』し続けているわけだからな」
魔に感染するということは、すなわちシドニーの云うところの、魔に心を開くということでもある。実際に、シドニーが彼の許に送り込んだ魔物を倒し、その血しぶきを浴びるたびに自分の中に異変が起こっていることを、アシュレイは気づかないではいられなかった。魔物に触れるだけでも感染は起こるのだ。そして、シドニーの身体に巣くった不死を目の当たりにして、レアモンデに潜入することを決めたとき、アシュレイはもうバレンディアに戻ることが出来なくなる覚悟を固めた。
魔に触れれば感染者となる。そして感染者であるアシュレイをVKPが元通りに受け入れるとは思えなかったからだ。
彼の顔を見上げたシドニーは、彼のこころを読みとったような表情を見せると、左腕を伸ばした。その仕草に敵意は感じられず、思わずアシュレイは反応し遅れた。
アシュレイのうなじに無骨な鉄の具足をつけたままのシドニーの片腕がまきつき、長身の彼がかがむ姿勢になるように引き寄せられた。
冷たいものが唇を覆うのを感じて、アシュレイは目を見開いた。彼に唇を押しつけたシドニーは唇の合わせ目から柔らかな舌をアシュレイの内側に忍びこませた。
先刻、防具をプロテクトする魔法をシドニーにかけられた時と同じ、強烈な『魔』の波動が押し寄せてきた。既に感染者となったアシュレイの身体の細部までそれは忍びこみ、かすかな疲れを残した四肢に熱く巡り、強い酒のように五感を高揚させた。それは紛れもない悦楽であり、魔に触れた快感に加えて、ある種の肉体的興奮を触発した。
「……何をしている」
唇が離れた隙間に問いかける。『魔』とシドニーの口づけの双方に自分が駆り立てられているのをはっきりと自覚する。
「魔に効率よく感染する相手として、おれ以上のものはいない」
シドニーは微笑を含んだ声でささやいた。そして再び伸び上がるようにしてアシュレイの唇に自分の唇を押しつけた。
その口づけは、数年前の事件以来初めて、アシュレイにティアとの優しいキスを完全に忘れさせる口づけとなった。どんな女を腕に抱いても蘇ってこなかった欲望が、『魔』の力を借りるせいか、烈しく彼の背中を揺らした。
左手をあげてシドニーの背中を探る。そこには不可解な文様が入れ墨で刻まれていた。てのひらから心地よく強烈な魔の気配が伝わってくる。背中を撫でると、アシュレイのてのひらにおさまってしまいそうに小さな貝殻骨に触れることができる。
そのままの指で背骨の上を辿ってなで下ろしてゆくと、絡めたシドニーの舌がびくりと引いた。
唇を濡らしたままでシドニーから離れ、具足をつけた肩の付け根に歯を立てると、シドニーが首を振ってそれから逃れようとした。なつかしい欲望に駆られてそこに口づけする。
具足の継ぎ目に舌で触れたアシュレイは、不意にぎくりとして顔を上げた。
そこには当然あるべき隙間や、具足を止める革紐や留め金がなかった。まるで金属の皮膚がそこにつなげられているように、皮膚と具足はなめらかに溶け合って一体化していた。
上気した顔でアシュレイを見上げて、シドニーは薄く笑った。
「その中には何もない」
うたうようにささやきかけてくる。
「空洞だ」
アシュレイは、華奢な肩に続いたその鋼の腕を眺めた。呪術的な仕掛けがそこに施されていることが察せられる。麻薬を焚いた香のようにそこから魔の気配が立ち上ってくる。
アシュレイはそこに再び顔を埋め、芳醇な魔が自分の中に流れ込んでくるのに任せる。シドニーも動かず、奇跡を分け与える者のように沈黙して立ったまま、アシュレイに任せていた。
納得しがたいことだったが、シドニーの中からあふれ出してくる魔は果実酒のような金色を帯びており、先刻グリッソムの中に見られた、どろどろとまがまがしい魔とは根本的に異なっていた。
(どういうことだ?)
アシュレイは唇を離し、男の身体を自分の腕の中に引き寄せた。抱きしめると、一瞬前に感じた微量の黄金の輝きを含む魔力を、シドニー・ロスタロットの全身がにじませているのを知る。あちこち傷ついた自分の傷や、打撲につぶされた筋肉が、その魔力でほのかに温められ、楽になってゆくのを感じ取った。
(グリッソムが感染した『魔』と、この男の持つ『魔』とはどういった違いがある?)
それは不可解な感触だった。ひやりと冷たいシドニーの肌が、アシュレイ自身の熱い胸の皮膚と触れ合っている。アシュレイの体温に出会っても、シドニーの皮膚はあたたかに和まなかった。鼓動は平静であり、彼はたった今水にひたして引き上げたばかりの果物のように冷たく清潔だった。
汗の気配ひとつなく、アシュレイの胸と触れ合う冷たい胸のなめらかさと、アシュレイの全身を温める『魔』の、金色の水が吹きこぼれてくるような熱さのアンバランスに戸惑いを感じる。
議会の連中が今の自分を見れば、自分がシドニーに籠絡されたと思うことだろう。しかし彼は溺れてはいなかった。自分の腕から、胸から流れ込んでくる魔の気配を探り、その性質を見極めようとしていた。
息を殺すようなその感覚は、はからずもシドニーの云った、「耳を澄ます」という行為に似通っていた。
「お前の疑問はもっともだ、ライオット」
彼の胸の中におさまったシドニーが、低くささやいた。アシュレイはぎくりと身体を揺らした。そうだった。この男は人のこころを読めるのだ。
シドニーはするりと彼の腕を抜け出し、アシュレイと向かい合った。鋼の具足に包まれた左腕をかかげ、五本のかぎ爪で構成された凶器のようなてのひらを差し出した。
「ここに貴様の左手を合わせてみろ」
アシュレイは、それ自体が魔物の腕のように見えるシドニー・ロスタロットの左腕を眺め、剣を握った右腕を垂れて、左腕をあげた。てのひらを広げ、シドニーのそれとぴったりと触れ合わせる。
その瞬間、彼の身体の中に、揺れる地を踏んだような不安定な感覚が沸き起こった。それはシドニーと触れ合った左手を通り、彼の左胸で鼓動する心臓に届いた。心臓を柔らかな金色の絹糸のように巻きしめたかと思うと、(それはどこか、この男の肩先で揺れる艶やかな金髪のイメージと似通っていた)突然なめらかに血管や骨の間をくぐって、全身に届き始めた。
「これは……」
うめくようにつぶやく。自分の身体の中に、既に魔が行き渡っていることと、そしてその葉脈のような感染の経路を、目に見えるように詳細に感じ取ることが出来る。
シドニーは彼に左手を預けていたが、喋るな、というように、右手の人差し指をあげて唇にあてがった。目を伏せる。美しい曲線を描いた瞼に備えた金色の睫が、青白く小さな顔に濃密な影を落とした。
シドニーの血の通わない鋼のてのひらと触れ合った部分が、ほっと熱くなった。最初は蝋燭の灯のように小さくあえかなものであったその熱は、目に見える赤みを帯びた金色の光の球となってふくれあがり、ついには双方のてのひらの大きさを凌駕して、イトスギの梢のように高くあがる輝かしい炎となった。
「……分かるか?」
シドニーが、その炎を自分たちの手元から、華やかにたなびく火の穂の先まで視線で辿り、アシュレイにもそうするよう、視線でうながした。
「魔は感染する。しかし、感染した魔を自分の中でどう処理するかは、個々の資質に依る。グリッソムの中には黒い魔の苗床があり、そこに蒔かれた種は黒い花を咲かせる。そういう黒い花は、発芽から開花までの勢いは激しいが、すぐに枯れてしまう……」
アシュレイは、目を瞠る思いでその所々にルビーのような紅の炎を交えた、金色の光の奔流を眺めた。それは、正直な気持ちとして酷く美しく、輝かしかった。魔の放つ光だとはにわかに信じがたいほどだった。
「黒い苗床に咲く一代限りの魔に比べて、こういった魔は長く保つ。……それにもちろん感染力も高い……」
シドニーは口角をあげて唇だけで微笑んだ。
「お前とおれの『魔』の性質が似ているのが分かるだろう?」
「……ああ」
慎重に振る舞うべきであること、この男がメレンカンプ教の教祖であることは分かっている。だがアシュレイは頷いた。やはり自分は籠絡されているのかもしれないと思った。
「……どうやら、限りなく同じものに近いようだな」
「貴様のそれは微弱だがな。……いまだに感染者の域を超えてはいない」
シドニーはてのひらを降ろそうとはせずに、羽虫の森の低木の梢を突き通すように伸びた、『魔』の炎を眺めた。
「これではのろしをあげているようなものだな……」
苦笑するようにつぶやいて、腕を降ろす。その腕をアシュレイはとらえた。空洞だ、とシドニーは云ったが、その軽さは、シドニーの身体の作りが華奢なせいなのか、あるいは彼が云ったように本当にそこが空洞であるためなのか、アシュレイには分からなかった。
「一時に触れても感染の速度を早めることは出来ない。焦ると、貴様もグリッソムのように苗床を黒く汚すことになる」
シドニーがそう云った唇をアシュレイはゆっくりとふさいだ。感染を強めたいのか。そう自問すると、肯定するとも、否定するともつかない感情がこみ上げてくる。
魔に触れることが、目を開くことになるというなら、魔を食らってみようと云う気持ちもあった。しかし、シドニーに触れようとする衝動が、必ずしも『魔』の感染を求めてのことであるとは思えなかった。
そうして、自分のこんな衝動もまた、シドニーに読みとられているのかと思うと、自分がかすかに昂るのを感じる。そこには、複雑な甘みをおびた嫌悪のようなものも同時に含まれている。
シドニー・ロスタロットを抱く自分は、まるで美しい死骸に欲情してでもいるようだ。そんな気持ちが胸の中をかすめた。
舌に触れる。軽く吸うと、やわらかな肉は求められるままに、アシュレイの歯と舌にくるまれて侵入を許した。屍でない証拠に、そこは熱くはなかったが、ほのかにあたたかく、清潔でやわらかな湿り気を備えている。
男の唇の内側を許されて探っているということが、アシュレイに、女の身体の深くに自分を押し入れた時に等しい興奮を与えた。
目を薄く開いて、金色の睫が目の前でふるえるのを見守りながら、アシュレイは、シドニーの唇と、彼そのものが放つ魔の気配に酔った。
「……離せ、ライオット」
やがてシドニーはかすかに笑って彼の身体を引き離した。唇は扇情的に濡れて、赤味を増していたが、それを彼はぬぐい去ろうとはしなかった。
「たどり着こうと思うなら、もっと回り道をすることだ」
シドニーは目を伏せてため息をついた。かすかに頬に血の気が差している。
アシュレイの腕が、脚が、不足に一瞬疼いた。彼の身体は魔となめらかな身体に触れて、快楽の供給に喜びの声をあげており、シドニーの身体が自分から離れて行ったことをあきらかに不満に感じている。
アシュレイは深くゆっくりと呼吸し、今すぐに再びシドニーを引き寄せて、あの身体の中に渦巻く魔と、痛々しくなめらかな肌を貪りたい衝動を押しとどめた。
「お前はもう信じ始めているだろう?……」
そうつぶやいて、シドニーは歩き始めた。ゆっくりと足を運んで、霧の中に消える森の道を辿り始める。
「待て、シドニー」
制止しながら脚は動かない。回り道をしろ、と云う、シドニーの言葉が、意味のないものではないことを、彼は知っていた。ここでシドニーを捕捉しても、彼の欲しいものは手に入らないのだ。この、迷路のような魔窟を辿り、レアモンデの深部へ足を踏み入れることが、白黒いずれにせよ、真実へ届く唯一の方法に違いない。
「……知りたければおれを追ってこい」
シドニーの唇からゆっくりと笑みが消えた。彼は歩き出した。一歩踏むごとに数歩遠ざかるように、瞬く間に遠ざかってゆく。水の上を歩むような優美なその足取りを、アシュレイは見守った。
金色の髪がゆるやかに霧に紛れ、はがねの具足に守られた足が不思議なほど静かに森の中に消えていった。
魔のもたらした口づけを反芻する。ティアの唇のあたたかさと、シドニーの冷えた唇は、相反しながらアシュレイの上で燃え、彼の感覚を揺るがした。
彼は剣を握り、休息と魔の供給に力を取り戻した足で、シドニーの消えていった道を辿った。追ってももう追いつけないことは分かっていた。彼に再び会うためには、最深部に至る必要があるのだろう。急がなければならない。彼を追っているのはアシュレイだけでも、まして議会だけでもない。
真実などという無意味に思える言葉が、こんな風に彼の中で重みを持ったのは初めてのことだった。それは妻や子のあたたかさでもあり、いまや、シドニー・ロスタロットの冷ややかな金色の瞳でさえあった。
森は梢を揺らし、昨日までは意味を持たなかった何事かをアシュレイにつぶやいた。
(耳を澄ませて聞いてみろ、ライオット)
自分が無意識に、シドニーの云った通りにしていることに気づいて、アシュレイは複雑な気持ちを抱く。
森の土には羽虫の死骸がふりつもり、土に独特の光沢を与えている。目を凝らすとそこには極彩色の羽根の破片が粉塵となっていりまじっている。蓄積した静かな死の語る真実がそこにあった。
取り返しのつかないものを足下に踏み下しているような不安定な思いを抱いて、その微弱な輝きに目を凝らす。
そして魔に汚染されたリスクブレイカーは、暗殺者のように息を殺し、静かな足取りで、暗い森の出口へ向かったのだった。