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ロスト・ペイン

02 21 *2013 | Category 二次::ベイグラントストーリー・アシュレイ×シドニー


続き










「この家は静かだな」
 眠っていると思っていたシドニーが不意に口を開いた。アシュレイは、背後の寝台にうつ伏せて横になったシドニーを振り返った。彼の眠りを妨げないように被せてあったランプの覆いを取り外す。小さな月を灯したようなランプは、窓から入る風にかすかに揺らぎ、寝台の上の男の、金の髪に柔かな光を投げかけた。
「……そうか?」
 シドニーの云う静けさが何を示すのか判断できずに、アシュレイは曖昧な答を返した。細く開いた窓の外からは、夜に啼く鳥の声や、木々のざわめきが聞えてくる。
「そうじゃない……何の気配もしないということだ」
 彼の心を読んだようにシドニーは微苦笑をまじえて答える。こうしてみると、彼が人の心を読むように思えたのは、「魔」の力を借りていたのではないことが分かる。シドニーは、背中の剣の文様と共に、全ての魔力を失った。自分が魔の供物として捧げた四肢の代わりに、元のそれ以上になめらかに動いた具足も、もう彼の身体に付けられていない。
 しかし、義足と義手を着けて寝台に伏せたシドニーの僅かな所作もやはり優美であったし、人の心を読みとったように先回りする言葉も、魔力を備えていた時そのままだった。
 シドニーの中に眠っていた魔力。レアモンデの胎内で育てられた強大な「魔」は、今はアシュレイが引き継いだ。メレンカンプの教祖だった男の、いわば遺産として受け取った。しかし、ぼろぼろに傷ついて全てを失ったシドニーとアシュレイの関係は変わらなかった。それは魔を操る者と学ぶ者としての力関係だ。いまだシドニーは師であり、アシュレイは魔に堪能な彼にどこか依存心を捨て切れない。
「そう云われてみればそうだな」
 アシュレイは辺りを見回した。ここはキャロ・メルローズの父の持つグレイランド郊外の別邸だった。裕福なバレンディア貴族の娘として生まれながら、治安維持騎士団に身を投じたメルローズは、家人との関係が良好とは云えないようだった。二人の傷を癒すために、父の目を盗んで別邸を明け渡したのだった。その心配りは女ならではのものだった。魔力を失い、背中にむごたらしい傷を負ったシドニーを抱えて、メルローズの助け無しにはどうなったか分からない。
 アシュレイ・ライオットは、強大な魔力を手に入れたが、それは傷を癒すためのものではなかった。シドニーの中に少しでも魔力が残っているなら、彼に魔力を供給するという形で傷の治癒の手助けをしてやれただろう。
 しかし、魔力で傷を癒すすべを失い、衰弱したシドニーの身体に、アシュレイがしてやれることは少なかった。メルローズの運び込む薬品や氷、果物やスープの効力は、レアモンデの魔の後継者の力より遙かに大きかった。
(いずれにしろおれは、いつも自分が無力だという感覚から逃れられないようだ)
 アシュレイはそんなふうに思う。
 しかし、以前のような、炙られる苦しみはなかった。気持ちはひやりと沈み、以前に比べて波が少なくなっていた。死んだマーゴとティアの記憶はいまだ苦痛を呼び覚ましたが、それですらどこか生々しさを失っていた。ギルデンスターンと剣を交えた時、彼らに決別を果たしたためかもしれない。
 妻と子の最後の日の記憶を全ての原動力にしてきたアシュレイには、それはどこかかすかな不安を呼び覚ました。あの苦痛は既に彼自身と切り離せなくなっていた。
 それが弱まったとき、自分自身のどこか一部が欠損するような不安感がある。
 自分の心境に変化が起きたのか、受け継いだ力のために精神が変質したのか、アシュレイには分からなかった。それを見極める必要も感じなくなっていた。
 魔を継承者に譲り渡したのち七日を置き、肉親に離別させる為にシドニーを公爵の元へ送り届ける事、それは、魔都レアモンデを譲られた者として、アシュレイがシドニーと関わりを持つ最後の仕事だった。その後は二人共別の道を歩むことになる。メルローズの別邸で過ごすこの七日間が、彼らの共有する最初にして最後の時間ということになる。
(時間を共有したことが全くなかった、というわけではないか。……)
 窓から差し込む月光と、室内でほのかな光をはなつランプの灯りとに背中を濡らしたシドニーを見おろす。
 二日前、羽虫の森の乳色の光の中で、フラムベルグを手に立っていたシドニーの姿を思い起こした。斬り合うのではなくゆっくりと言葉を交わしたのはあれが初めてだった。
 そもそも、シドニーと初めて相まみえたのはその日だった。
 バルドルバ公爵の館で、VKPのエージェントと、その捕捉対象として彼らは出会った。それから羽虫の森で再び言葉を交わしたのは、僅か数時間後のことだった。


 バルドルバ公爵の館に潜入したのちレアモンデへと向かい、シドニーからギルデンスターンの手に渡った、「レアモンデの大いなる魔」を手にするまで、数年もの時間が経ったように思えるが、それはたった一日の間に起こった出来事だったのだ。
 全てが終ってから今までに過ぎた時間も、まだたった二日間だった。


 包帯が目に滲みるほど白い。まだシドニーの傷は乾ききらず、彼は寝台に伏せて横になるのが精一杯だった。彼は、ギルデンスターンに、魔の印ごと背中の皮膚を掻き剥がされたのだ。
 なめらかで染みひとつなかった背中の傷は深く無惨で、貝殻骨の横から、ほぼ背骨の終着点にまで広がっていた。
 広間に灯された無数の蝋燭の中に寝かされたシドニーの身体の周りには、大きな血溜まりが出来ていた。魔力でつないでいた具足のつなぎ目ははずれかけ、ほぼ動くことも出来なくなったシドニーの姿は言葉に尽くしがたく無惨だった。
 身体をくるみこんでやろうにも、傷の痛みに触れるため、冷たい石畳の上に放置しておくしかなかった。アシュレイにとってシドニーは友ですらない存在だったが、かけがえのない感覚の共有者だった。
 その彼の痛ましい姿を置いて、ギルデンスターンと決着をつけにゆかなければならなかった。思い出すと左胸が小さく疼く。
 レアモンデの教会からシドニーを連れ出した後、メルローズの用意した館に移り、シドニーの治療をした。背中の傷の上に厚く薬を盛り、油を染ませた薄紙で覆う。綿や布を直接あてがえるような傷ではなかった。出血は止まっていたが傷は早くも膿み始め、シドニーの身体に高熱をもたらしていた。
 いったいどんな風に工面したものか、キャロ・メルローズはシドニーの四肢につなぐ義肢まで速やかに用意した。
 シドニーがそれまでつけていた具足が、失った手足を支えるため、義肢としての工夫をまるでされていないこと、中は空洞であり、切り取られた四肢に苦痛を与える鋭い金属のふちをそなえていることに気づいて、メルローズとアシュレイは慄然とした。
(今までは仕掛けなど必要なかったのでね)
 シドニーは汗に濡れた顔を振り向け、そう云って薄く微笑んだ。「魔」が全ての仕掛けを凌駕する働きをし、痛みを和らげる緩衝材としてシドニーの傷口をくるんでいたのだろう。
(これはもう役に立たないわ)
 メルローズは歯を食い縛るようにして呟き、その夜、一揃いの義肢を入手して来たのだった。彼女が治安維持騎士団の中で如何に優秀な新顔だったのか、アシュレイはエージェントの立場を離れて改めて知った。
 繊細なばねで肘や膝の関節を作り、表面をなめした革で覆った義肢は、美しくこそなかったが、シドニーが今までつけていたものよりも遙かになめらかに傷口に吸着した。すでにふさがった古い切断面と義肢の断面が押し合う陰圧によって、外れにくいよう工夫してあるのだ。その上から更にベルトで肩と腰に固定する。
(身軽ではないがよく出来ているな……)
 声にかすかな苦笑をまじえてシドニーは小さくつぶやいた。
 バルドルバ公爵の館で出会った時も、羽虫の森で彼と共に剣を取った時も、あの空洞の鋼鉄の四肢は、彼自身の手足として持って生まれたもののように動いていた。すべるように地を歩き、フラムベルグの炎のような刃を剣舞を舞うように使いこなした。
 こんな無骨で使い勝手の悪い義肢に縛り付けられてはさぞ不自由だろう。それに加えて彼の背中に刻まれた傷が癒えるのには、恐らく七日間では充分とは云えなかった。

「お前はレアモンデにはたった一日居ただけのことだが────」
 シドニーは低くつぶやいた。身体を起こし、寝台の上に坐った。
「あの街はおれには庭も同然の場所だった」
 身体を起こすだけでも痛みがあるはずだが、それは表情からは伺い知れなかった。
 メルローズは、傷の手当てをした後、シドニーの血に汚れた髪や肩を洗った。汗や血を拭い去られたシドニーは、暗い灯りの中で、何事もなかったように冷え冷えと美しかった。白い肩口にかかる髪は、金の粉を振ったように輝いている。胸から腰まで包帯に覆われ、四肢を失ったシドニーの本来の皮膚は、顔と首筋、なめらかな鎖骨が見えるだけだった。しかしそれだけでも、彼の冷たい肌の木目の細かさを見て取ることが出来た。
「……夜更けにあの街の中に入ると、昼には聞えてこなかった声が聞こえ、見えなかった光が見えて来た」
 シドニーは、彼独特の、詩を詠唱するような甘い声でささやく。
「長い間、あの砦に生きた人間は一人も立ち入らなかったが、賑やかなものだった────今は御前にも聞えるのだろう? あの声が」
「ああ」
 アシュレイは肯いた。シドニーの云うのが、人ならぬ者の達の気配だという事は分かる。叫びたてる魔物たち。錆びた剣を引きずって獲物を探す鎧の亡者、きらめく羽根を羽ばたいて上空を飛び交う人面のイービルスピリッツ。以前は彼らの声を聞き分けることは出来なかった。「魔」に対して目の開かない者にとっては、それらの異形の者たちは気配を持たないも同然だった。
 息が触れるほど近づくまでは無に近く、闇の中に突然出現する静かなる脅威だった。
 しかし、レアモンデの魔を内包した今、彼らの息づかい、血を欲して生々しく息づく好戦的な体臭、暗い歓喜の叫びがまざまざと聞えてくる。
 シドニーが昼の光の中では見えないもの、と云った言葉も理解できる。
 闇の中に立つ。
 空と街、地表、地下までが闇の絆で結ばれ、巨大な黒い球体となって、そこに立つ者を包み込む。遠く潮騒が聞え、黒い海の気配と汐の香が押し寄せてくる。
 するとやがて、闇の中に青くかがやく石をばらまいたように、「彼ら」のささやきが浮かび上がってくる。喘ぎながらレアモンデの石畳を這う者たちの気配が伝わってくるのだ。
 それはレアモンデだけで起こる現象ではなかった。グレイランドに戻ってきても、以前は感知できなかった者共が、水辺に、路地の影に潜んでいるのを感じるようになった。
 しかし、キャロ・メルローズの用意したこの館は、シドニーの云う通り静かだった。館を囲んだ木々の梢を風が渡る音、静かに闇をいとおしむ梟のくぐもったささやきは聞えるが、魔の気配はなかった。
「御前は『耳』を失わなかったのか?」
 アシュレイはふと違和感を覚えて、寝台に坐った男を見おろした。彼の身体の中にあったあの金色の魔の源泉は枯れ果てて、殆ど気配すら無かった。
「失ったさ」
「それでも聞えるのか?」
「耳を失ってもそこに人がいるかいないか、気配で分かるものだろう……あれほどに慣れ親しんだものであれば……」
 シドニーはゆっくりと唇を苦笑に綻ばせた。
「尤も、万能の知覚を得たばかりの御前には、そう云っても理解出来るとは思えないが……」
 アシュレイは彼の座る寝台の傍らにそっと跪いた。アシュレイは彼より大分背が高い。隣に坐っていたのでは表情を読むことが出来なかった。かろうじてランプで照らされた部屋の中で、金色の瞳が何を語っているのか読みとりたかった。この男は六日後に父と離別する。しかしシドニーが離別することになるのは公爵だけではなかった。アシュレイがこうして、彼の瞳をのぞき込むことが出来るのも後僅かだろう。
「おれに理解させたい事があるなら言葉にしてくれ」
 囁いた。
「万能の知覚と云うが、御前がかつて得たものと、おれのそれが同じものとは到底思えない。おれはいまだ愚鈍で、魔の力に盲いているように思える────」
 シドニーは驚いたように彼を見おろした。黄金色の瞳は、今は柔かな琥珀色に静まっていた。
「御前は感染者になる前から盲目などではなかった」
「おれが盲目でないなら、何故御前はおれの手を引いたのだ?」
「分からないことを云うな、ライオット……」
 シドニーはかすかに声をたてて笑った。その声を聞いて、シドニーの笑う声を聞いたのが初めてだということにアシュレイは気づいた。
「おれが目の見えぬ男を何故レアモンデに誘い込むと思うのだ?」
 そう云いながら、彼は静かに壁にもたれかかった。背中をつけることが出来ないために、肩からそっと体重をかける。
「手を貸せ」
 そう云われてアシュレイは手をさしのべた。彼はふと、自分の手に傷跡がまるで残っていないことに気づいた。レアモンデに潜入した一日で負った傷は勿論、既に云えて古い傷跡になったものまでが、綺麗に消え去っていた。
 てのひらを開く。そこに幾つか残った細い傷も跡形もなく消えている。バルドルバ公爵邸で、ボウガンで射抜いたシドニーの傷が、羽虫の森で出会った時には既に消えていた事をアシュレイは思いだした。
 それは、自分の生にまつわる記憶を黙って持ち去られたような不快な衝撃だった。身体の傷が癒える。それでは心の傷はどうだ? 個を維持するのに不要な心の傷、心臓を高鳴らせ、背筋を汗で濡らす心の痛みを、いったい今の自分の身体が放置しておくものだろうか?
 それもいずれ、古い傷跡同様、無かったもののように消し去られてしまうのではないか?
「或る意味でそれは正しい」
 不意にシドニーが切り出して、アシュレイはぎくりと背中を揺らした。
 またこの男は、魔の力も借りずに人の心を読む。
「おれの頬に触れてみろ、ライオット」
 彼を見おろしたシドニーにそう促され、アシュレイは白い頬の両脇に垂れ下がる金の髪をかきあげて、冷たい頬に触れた。
 シドニーは小さく息をついた。
「御前の手が頬に触れると、おれの指がふるえる……」
 彼は義手をかすかにかかげて、その無骨なかたちを眺めやった。
「この義手のことじゃない。おれ自身の指だ。もうそこにはない指が、頬に触れた御前の指を感じ取っているらしい……」
「どういうことだ?」
「これは魔とは関わりのないことだが、或る意味では最も人の中で、魔と密接な部分かもしれないな……この中で」
 彼は絹のような髪につつまれたこめかみを差した。
「何かがつながっているんだ。……いまだ、そこに腕が、指がないことを受け入れずに……何か別の場所で補おうとする。四肢が存在していた時にはない感覚だ。失ったものの代わりを、他の部分にさせようというのだ。肉体は心よりも率直だ。腕や足を失ったままで、平静ではいられないのさ」
 ゆっくりと義手をあげ、自分の頬に触れたアシュレイの指を、上から包み込む。
「頬がそれだ。頬に何かが触れる。すると肩の先が疼く。身体がかつてあった腕を思い出す。何か狼煙のようなものがあげられて、指先の感触までまざまざと思い出す」
 アシュレイは沈黙した。シドニーの操る義手から伝わる、不可解なぬくもりに戸惑っていた。
「人は、そんな代理人まで立てて、かつて自分の一部であったものを失うまいとするのだ、ライオット。腕や足を失ってさえそうだ。御前の中に棲みついた者達を殺せはすまい? 御前は光の差す丘に、木陰に、ワインに、痛みを思い出す。かつてそこにあったはずのものが不当に切り取られたという思いが、僅かに触れられただけで疼くだろう。案じることはない」
 シドニーは低く囁く。
「誰も御前からその痛みを取り上げることは出来ない。レアモンデでさえそうだ」
「シドニー」
 心を読みとられる甘さと苦痛に、アシュレイは小さく息を荒げた。心が波立つことがなくなったように思っていたが、それは誤りだった。シドニーの一言で、アシュレイの心はたやすく突き崩され、闇と涙に飲み込まれる。
 頬に触れると、そこから、失った指先の感覚がよみがえると云う。
 シドニーは、アシュレイにとってまさしくその幻痛を引き出すための部位だ。ワインや木漏れ日でさえ成し得ない、的確な痛みをアシュレイに運んでくる。
「……頬に触れられるのは苦痛か?」
 ただじっと触れていただけの指を僅かに動かし、シドニーの頬を撫でると、金色の睫毛が少しふるえた。闇夜に浮かび上がった月のような姿はふと不可思議に気配をなごませた。
「そうだな、苦痛だが……嫌じゃない」
「足は?」
 シドニーのいらえには具体的に反応せず、アシュレイは問いを重ねる。
「足は……とは?」
「どこかに触れれば、足に触れたのと同じ幻の触覚があるのだろう?」
「さぁ……」
 シドニーは物憂げに首を振った。
「分からないな……。今までは魔力が全てを補っていたから、幻痛にも縁がなかったが……これはおれにとっても馴染みの客というわけじゃない。いわば、付き合いの浅い、腹を探り切れていない相手のようなものだ……」
 アシュレイは跪いていた自らの身体を起こし、寝台に坐るシドニーの隣に腰を下ろした。シドニーの傷ついた、華奢な身体をゆっくりと腕の中におさめる。傷を帯びていない肩を抱き、頬に唇を寄せた。シドニーが目を閉じ、肩をふるわせる。今、シドニーの中で、失った腕が疼いているのだろうか。唇や首筋は、失った部分の触感を呼び起こす引き金にはならないのだろうか。
 彼は、柔らかい唇に触れた。自分の唇でその薄い肉を覆い、合わせ目からゆっくりと舌をしのばせる。うなじを支えてあおのかせると唇は大きく開き、内側への扉を開放した。
 口蓋や歯を辿り、舌のやわらかなぬめりを舐め上げる。
 羽虫の森でシドニーの唇に触れた。彼の言葉に耳を傾け、ほっそりした身体と腕を抱き、冷たい唇に触れて、魔を交歓した。
 魔に感染して体質の変わり始めたアシュレイにとっては、羽虫の森での一時は、乾いた大地に降り注ぐ慈雨に等しかった。シドニーに触れて以降の彼の魔力の伸びは、それまでと比べようがなかった。シドニーは、金色に燃える魔の苗床を体内に隠し持っていたのだ。
 しかし、供給する魔がなくなった今も、金色の男の唇は、さながら魔物じみた蠱惑的な甘さをもってアシュレイの愛撫を受け入れた。
 アシュレイは包帯の上から胸に触れた。厚く巻かれた布の上から、薄い胸郭を撫でさする。そこには、布を押し上げる小さな突起と、あたたかな鼓動があった。合わせた唇を通して、シドニーの息が荒れるのが分かった。幾ら胸に傷口がないとはいえ、すぐそばの背中の傷は膿んで発熱しているのだ。身体に触れられて苦痛でない筈がない。
 しかし、拒否の仕種はなかった。
 金の睫毛は堅く閉ざされ、青白いまぶたに淡く血のかげが浮かんでいる。熱や苦痛、快美感のいりまじったものがシドニーをやんわりとゆるがしているのが分かる。
 いたましくそげた下腹に手を這わせる。そこに触れるとシドニーはびくりと身体をふるわせる。腰から義肢まで、彼の下肢を厚い布で作られた長衣がすっぽりと包み込んでいる。アシュレイは、衣を止めた紐を解いた。腹か背筋か。どこに触れれば、シドニーの幻の脚に触れることが出来るだろう。
 頬に触れたときと同じ、シドニーの感覚器官をふるわせる、幻の手足に触れたかった。息苦しいように喘ぐシドニーの呼気を彼は解放する。代わりに、頬を唇で探った。
 アシュレイの意図を察したシドニーが濡れた目を開く。責めるような、それでいて少し面白がっているようなその目に、アシュレイは誘われた。
 紐を解き、布を取り去って、アシュレイは初めてシドニーの裸の下肢を目におさめた。腰骨が浮き出るほど彼の腰はほっそりと痩せている。淡い体毛に包まれた性器はまだ反応を見せていなかった。生殖能力を失っているのだろうか。細い足の付け根からてのひらひとつほどの長さで両脚は終っている。メルローズの持ち込んだ完全義肢がそこに取り付けられ、ずれて苦痛を与えないよう、柔かな革のベルトで何重にも固定されていた。
 下肢にてのひらを這わせると、そこは発熱のためか、驚くほど熱かった。まだ柔らかい性器をてのひらで包み、そっと扱いた。
「……っ」
 背中をシーツにも、壁にもつけることの出来ないシドニーは、義手を着けた両腕でゆっくりと壁にすがった。拒んでいるわけではないが、苦痛を感じているのだ。
 アシュレイは、寝台に坐ったシドニーの身体を引き寄せ、ゆっくりと脚をひらかせて、向かい合うように、自分の腰の上を跨がせた。彼が自分で身体を支えなくてもいいよう、片腕で肩を抱き寄せ、しっかりと支えた。シドニーは安堵したような吐息を漏らし、アシュレイの肩にぐったりと額をもたせかけた。絹のような髪の感触と、ひどく熱い額の熱が肩に触れる。
 快楽は少しでも彼の苦痛を紛らわせはしないだろうか。アシュレイは二人の身体の間にさらけだされるかたちになったシドニーの熱に指を絡めた。潤いが足りないために思うように動かない指に、自分の唾液を絡めて濡らし、堅く形を変えるまで辛抱強く愛撫した。
「……ライオット……」
 嘗て、彼がこれほど甘い声で自分の名を呼んだことがあったかどうか、アシュレイは思い出せなかった。答える代わりに耳元に、髪にくちづける。
「……アシュレイ」
 睦言のように響くその声で、シドニーは愛撫するようにアシュレイの名を呼んだ。先端の丸みを親指で繰り返してなぞると、そこはようやくぬめりを帯びて小さく震えた。息が浅くなり、時折肩にふるえが走り抜けてゆく。
 不意にシドニーは低く笑った。喘ぎと笑いがまじって彼の背中をふるわせる。
「どうした?」
 自虐的な笑いではなかった。アシュレイは意味をくみ取れずに不可解に思って、彼の伏せた顔をのぞき込む。笑いと一緒にあたたかな息がこぼれ、湿り気になってアシュレイの鎖骨を濡らす。
「そうであっても不思議はないが……」
 シドニーはまだ肩をふるわせて笑っている。
「御前がそこに触れる度に、おれの脚が動こうとして足掻く────ただ、こんなふうに支えられて、御前に任せているだけでは飽き足らないのだろうな……」
 アシュレイは瞬きした。シドニーが顔を上げる。睫毛と唇は湿り、熱した頬や額には薄く汗が浮かんでいた。その美しい顔には奇妙なつきぬけた明るさがあり、情欲に濡れた目には、小さな螢火をかくしたような光が同時に読みとれた。アシュレイは幾度か瞬きした。その度に視界に現われるその影像をこころの中に刻み入れた。
「いささか滑稽だが、本能というものは愛しくもある……」
 笑みを残してそう続ける。その唇に、アシュレイは触れるだけのくちづけを落とした。
「……少なくともおれは、滑稽などとは思わない」
 僅かに早口にそう囁くと、シドニーは微笑を消し、くちづけを返した。自分から唇を開き、舌を絡め合わせて、愛撫の続きを促した。
 アシュレイは止めた指をまた絡め、シドニーのどこか深い、不可解な部分につながった欲望を煽った。先を熱く湿らせた性器を握りしめると、アシュレイの作為が、シドニーのうなじに、背筋に、そして或いは切り離された脚のつま先に伝わってゆくのが分かった。
 そこにあるのは意味の有る行為ではなく生臭い欲望でありながら、てのひらを介して金色の魔を分かち合った時と同じ充足があった。
 空疎なまじわりでなければ、欲望の交歓は醜さや滑稽さを中和する。
 シドニーはぎごちなく両膝でアシュレイの腰をはさみ、彼の胸にすがって声をあげた。後ろの入り口に濡れた指を挿し入れて愛撫すると、その声はたまらなく甘くとろけた。
 声は、痛みと快楽の爪でかき鳴らされ、強く弱くふるえ、高低で彼の感覚を物語った。感覚を奏でる楽器の弦のようなものだった。中に入ることをためらったアシュレイを淫らに誘い込み、残った逡巡をかき消した。
 やがて熱を帯びた身体を貫いた快楽がアシュレイの目をくらませ、息を乱した。
 荒げた息と声は絡み、互いの中に巣くった快楽の高まりを教えた。

 風が冷たくなって窓を閉めた。使用人の出入りもない、二人だけの館の中はひっそりと静まり、時折、ランプのほやの中で芯がはぜて燃え落ちる音が聞こえてくる。
 シドニーの身体の汚れを、アシュレイは丁寧に湯で拭った。身体を上気させ、坐っているのもつらそうなシドニーを壁にもたれさせて、湿った包帯を取った。背中の傷はしきりに身じろいだにも拘わらず、昨日よりも乾いていた。苦しそうに上下する白い胸が現われ、アシュレイはそこに静かにくちづけを落とした。
 新しい包帯を巻き直すだけでなく、汗にほつれた髪を洗ってやりたかったが、メルローズがするように、傷に障らないよう巧みに仕上げられる自信がなかった。朝になればメルローズがやってくる。彼女がまたシドニーの傷を浄め、その時髪を洗ってくれるだろう。
 髪を洗う代わりに、うなじや額、首筋を丁寧に拭う。シドニーは無言でそれに任せていた。眠り込んでしまいそうに睫毛が伏せられている。
「御前の傷はどうだ、同じ痛みか?────」
 拭き浄めた下肢を、元通り長衣で覆ってやり、シーツに伏せるように身体を抱き下ろしてやると、シドニーは不意にそう訊ねた。
「おれの傷……か?」
 それが何を意味しているのか咄嗟に判断できずに、アシュレイは鸚鵡返しに答えた。そしてすぐにそれが、妻と子を失った日の悪夢が、永い間彼を傷つけていたことを指しているのだと悟った。
「痛みはあるが、紛れる瞬間もある。……」
 彼は躊躇いながら口にした。それは痛みが消えたこととは違う。しかし、二度と安寧が訪れないかと思っていた胸に、ふとあたたかな空白が訪れる瞬間がある。
 彼らを想う痛みへの執着と裏腹に、不意に、癒される事への渇望をつきつけられて、アシュレイは苦い矛盾を飲み込んだ。
 光の中で手をさしのべるティアの柔かな腕が彼の心に触れて、その優しい空白をもたらすのだ。そして、彼の心から苦痛を切り離す手の持ち主は、ティアやマーゴのものだけではなかった。
 その腕の持ち主は彼を抱きしめない。
 柔らかく撫でさすることもない。許すという仕種も見せない。
 柔かな皮膚の代わりに、軽木と皮革、樹脂で作られた無骨な男の腕だ。かつては鉄のかぎ爪を備え、アシュレイを弾劾し、打ち据えた腕だった。
 しかし、最も効果的な外科手術のように彼の胸を切り開いて、痛みを連れてゆく。細やかな技術を駆使して、アシュレイの心の深くに、おだやかな空白と甘い疼痛を植え込んだ。それは、アシュレイ自身が既に自分の中から死滅したと思っていた、人であることへの思慕を繰り返し蘇らせるのだ。
(牧場で育てられた魔を収穫し、貯蓄することが出来るのは、生きた人間の精神の土壌だけだ)
 シドニーはそう云った。
 その土は乾いて死んでいてはならない。
 或いは、シドニーはその為にアシュレイの心の痛みをいやしたのかもしれない。
 だとしても、それがどうしたと云うのか。アシュレイは静けさに息詰まる思いで窓をかすかに開ける。シドニーの身体が冷えないよう、あたたかな夜具で静かに背中をくるむ。
 いずれにせよ傷は癒されたのだ。認めようと認めまいと自分は苦痛から逃れる為に走っていた。
 傷に触れて、なつかしい痛みを確かめようとする行為そのものが、その証だった。
 彼は、はからずも自分の答が先刻のシドニーのものと似通っていることに気づいた。
(頬に触れられるのは苦痛か?)
 彼はそう訊ねた。
 シドニーは、苦痛だが嫌ではない、と答えたのだ。
 一体自分は、この男とどれだけのものを共有したのだろう。
 

 数日後にシドニーを失うことになると思っていた。しかし既に彼とアシュレイとの境目は曖昧なものになっている。このまま境界線を越え、シドニーが彼の中に流れこんでくるなら、彼の身体が熱と死に滅ぼされた後も、彼を失うことにはならないのだろうか。
 アシュレイは指先に絡む金の髪を静かに梳いた。それは滅びが訪れなければ分からないことだ。腕を切り離される前にその痛みと幻痛を想像することは難しい。
 背中で、天に向かって突き立った剣が疼いた。この男の傷が癒えたなら、腕に抱いて力任せに抱きしめたかった。
 ふと、静かな息が聞えた。アシュレイは髪を撫でる指を止めた。
 シドニーは眠りについたようだった。記憶や幻で再現することが出来るとは思えない柔かな髪の感触が、アシュレイの指に優しく絡みついている。
 彼はその感触を惜しみながら手を放した。
 沈黙の中で灯りを吹き消し、傷ついて眠る男の姿を、安らかなうす闇の中へ返した。

 

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