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02 27 *2013 | Category 二次::バイオハザード・クリスレオン

ファイル 82-1.jpg

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 自分史上最高にエロ頑張りました。
 キャライメージはイラストにて。

続き





 レオンは二階の回廊を回り込み、奥の扉を開けた。怪我をした足が、ブーツの中で軽く熱を持っていた。
 この芝居がかった洋館の内部を、自分がどれだけ把握しているのかよく分からなかった。行動を共にしていたケネスが死に、単独での探索を余儀なくされて、十数時間経っていた。無線は使えない。生き残った隊員がいるかどうか分からなかった。
(この屋敷は────)
 レオンは、ほんの僅かな音も拾い出そうと、耳を澄ませた。
 聴力に優れた彼の耳は、建物のところどころに人の気配を捉えていた。
 感情を抑制しようとするが、皮膚が粟立つのを抑える事が出来ない。
 おそらくそれは生きた人間の気配ではないのだ。
 屋敷全体にへばりついているのは、小さな奇妙な物音だけではなかった。大抵の部屋に、ぞっとするような異臭がたちこめていた。ひどく肉の崩れた死体が、あちこちに転がっている。それは、何者かの弾丸によって倒れたものもあれば、共食いの末に運動機能を失い、ただの肉塊と化したものもあった。
 甘酸っぱい腐臭の混じった、独特のかび臭さは、彼等の身体から発せられるものだった。この広い建物には、巨大な空調があちこちに取り付けられているが、おそらく換気がうまく行われていないのだろう。ここの空気を呼吸していることさえ危険でないとは云えなかった。だが、屋敷の外には腹を空かした巨きな犬が何匹も徘徊していて、生身でなど歩けたものではなかった。無意識に腰に付けたバッグパックの感触を確かめる。弾丸が保つかどうか不安だった。
 ここはラクーン市の北部に位置するアークレイ研究所だった。全米で権勢を誇る企業アンブレラの研究施設だった。洋館にはあちこちに鍵がかかっており、まだ研究室には入れない。
 迷い込んだ彼等を出迎えたのは、施設の職員の変わり果てた姿だった。皮膚が無惨に崩れたその身体に白衣や警備員の制服を纏っていなければ、彼等が元々誰であったのかも知りようがなかっただろう。
 この屋敷の奇妙な点を挙げればきりがないが、あちこちの部屋に銃弾が置かれていることもその一つだった。最初は、得体の知れない弾丸を使うのを躊躇らった。だが、手持ちの弾はすぐに底をつき、結局は屋敷の中にある銃や弾丸を使わざるを得なかった。
 レオンは、ラクーン市警特殊部隊、S.T.A.R.S の隊員だった。尤も彼の警官としての経験は浅く、射撃と整備の腕を買われてラクーン警察の特殊セクションに配属されてからも、多くのミッションを経験したとは云えなかった。
 ラクーンシティ近郊で起こった三件の猟奇殺人。目も当てられないほど損傷した死体の傷口には生活反応があり、被害者が生きたまま喰われたことが分かった。この田舎町で過去起こった事件の中で最もむごたらしい、ショッキングな事件だった。
〈野犬の群れが人を襲うのを見た〉
〈服や顔に血をつけた男が、森の中を歩いていた〉
 信憑性の有無はともかく、周辺住民にも不安が広がっていた。神経質になった住民からの通報が相次ぎ、事件が回数を重ねるに至って、郊外の探索にS.T.A.R.S ブラヴォチーム六人全員の人員が割かれたのだった。
 だが率直に云えば、新入りのレオンにも、ベテランのメンバーにさえ、この作戦がどんな展開を迎えるのか、想像もついていなかった。
 ターゲットの定まらない広域捜査で、一度の作戦が充分な成果をあげるとは限らない。カルト教団か犯罪者の手がかりだけでも見出せれば幸いで、或いは気の荒い野犬を二、三匹撃ち殺して、数時間後には自分のアパートや宿舎で朝食を摂っていたかもしれなかった。隊長のエンリコだけが、報告書を書く分だけ面倒な思いをする、彼等にとってその程度のありふれた一日だったかもしれないのだ。
 ラクーン郊外の異変が、市警の特殊部隊の一チームの手に負えるものではないのだと、一体誰が知り得ただろう。 


 真紅の絨毯の敷き詰められた廊下が続いている。
 正直ここは通りたくなかった。階下に下りるための階段と踊り場に、死体がおびただしく積み重なっているのを知っているからだ。それらは全て、彼が仕留めた「動く死体」だった。彼はかすかに汗ばんだてのひらに、M92Fのグリップを握りしめた。
 階段の手前に立って、彼は、先刻の自分の仕事を目で確認した。黒ずんだ血を流して倒れている死体は階段の下に三体。廊下に二体。記憶通りだった。奴らの動作があれほどにのろのろと遅くなければ、ここに転がって血を流しているのはレオンの方だっただろう。
 中の一人に、ブーツのふちが千切れる程ふくらはぎを噛まれたが、血が滲むほど噛まれた割には、傷は痛まなかった。出血もパウダースプレーで止まった。歩き回れる程度の傷で済んだことをレオンは感謝した。
 彼は静かに息を吐き出した。吐き気を身体から逃がす。相変らず酷い匂いだった。
 レオンは、ここにやってきてから、確かに人間の形をしたものに向かって発砲した。しかも一度や二度ではない。彼は望んで発砲した訳ではなく、気が狂った訳でもなかった。歩き回り、襲っては来たが、『彼等』は既に生きてはいなかったのだ。最初、よろめいて歩いてくる姿を見た時は病人かと思った。考えるより先に保護の手を差し伸べようとした。悪臭を放つ液体で汚れたツイードの上着を身につけた男は、レオンの胸に倒れ込んできた。何とも云えない腐臭が鼻をつき、次いで、殆ど腐りかけた頭部に頭蓋骨が覗いているのが見えた。それでもレオンは、男を振り払わなかった。異様な力で男の指が彼の肩を握りしめ、明らかにある意図を持って口を開けるのを見るまでは。
 膨れた眼球が眼窩をあふれそうになっていた。
 焦点の合わない目がレオンを見ている。
 男は彼を喰おうとしたのだ。大きく開けた口の中に息が通っていないことに気づいた時、レオンは初めて撃った。頭部が半分崩れるまで男の動きはやまなかった。
 それが始まりだった。


 Bチームに配属されて間もないレオンには、S.T.A.R.S の普段の仕事は地味そのものだった。覚えている限り、あきらかに特殊なミッションと云えたのは、爆弾魔が念入りに仕掛けをして回ったビルに潜入して、処理班と共に、爆弾を片端から解除して回った時くらいだった。
 小さな街だからこんなものさ。エンリコは片目をつぶる。だが、ラクーンシティで手柄を立てることを夢見ていたわけではないレオンには、不満はなかった。
 子どもの頃は弁護士になろうと思っていた。親族に法律家が多いからだ。彼の両親もそれを望んでいた。ハイスクールを卒業する間際に警官になる道を選んだのは、特別なきっかけがあった訳ではなかった。強いて云えば、他人に感情移入しすぎる自分の性格を鑑みて、進路を決めたと云ってもいい。レオンは感情移入から他人のペースに引きずられる傾向があり、法律家としては、その気質は自分にとってプラスにならないと思ったのだ。
 それより、組織に明確な使命を与えられる職業の方が自分に向いていると思った。その結果選んだのが警察官だったのだ。
 ラクーンシティに配属されると知った時、警察学校時代に知り合った友人、クレア・レッドフィールドは目を輝かせた。
(「セクションは違うけれど、ラクーン市警には兄のクリスがいるの。貴方達の職場が一緒だなんて素敵だわ。兄に会いに行くのと友達に会いに行くのに、わたしは二カ所を訪ねる手間がはぶけるんだもの」)
 クレア・レッドフィールドは、彼の友人の中でも突出して興味深い存在だった。趣味でカラテや射撃を習い、居合わせた銀行強盗を取り押さえた経験のある女性だ。恋愛感情は持っていなかったが、レオンにとっては気になる存在だった。もっとも、クレア・レッドフィールドを気にしない男など、彼女の周りにはいなかった筈だ。飾り気はないが、クレアは美しい。赤みがかった見事なブロンドと、意思の強そうな青い目は、それだけで彼女を強く印象づけたが、その上彼女は聡明で、誰よりも勇敢だった。レオンはおそらく、彼女の親しい友人の一人だったが、彼女を女性として愛さない方が、二人の間で理想的な関係を保てるということを、本能的に悟っていた。クレアは強い。自分の庇護を必要としない男を愛することはない。レオンには彼女の激しい保護欲を満たす要素がなかった。
(「兄とわたしはそっくりなの。顔も性格もね」)
 クレアはそう云って笑った。
(「だからクリスと貴方はうまくやれると思うわ」)
 クレアの云った通りになった。
 ラクーン市警の特殊チームS.T.A.R.S は、チーム・アルファとブラヴォの二つに分割されている。S.T.A.R.S 自体、精鋭を集めたとは云え総勢十数人の小さな新しい組織だった。アルファとブラヴォはそれぞれ気性の違う隊長を戴いてはいるが、寄せ集めのチーム同士としてはうまくやっている方だ。レオンは欠員のあったBに配属され、Aのリーダー格であるクレアの兄とも、配属後間もなく知り合った。
 クリス・レッドフィールドは空軍上がりだということだったが、規則づめで、正誤が上下関係に支配される軍のシステムに馴染めなかったらしい。上官と衝突を繰り返して、要注意人物という扱いを受けていたということだった。結局は除隊して警察官になった。
 上下関係の激しい内部機構や官僚体質という点において、警察も似たり寄ったりだが、ストレートに正義を行使する建て前がある分、クリスも自分の価値観を預けやすかったのだろう。常にアウトサイダーだった彼は、癖のあるS.T.A.R.S の隊員の中でようやく羽根を伸ばしたのだった。
(「結局、おれは戦争屋にはなれなかったって事さ」)
 いつだったか飲みに行った時、クリスは無表情につぶやいた。その、よく光る青い目は確かに妹のクレアと似ていた。
 クレアも女性として背が高かったように、クリスも長身だった。底なしにタフな男だった。荒くれ者のように見えるが、彼はちょっとした正義漢で、優しさと大雑把さをうまく併せて兼ね備えた陽性の男だった。


 レオンは、死体を避けて階段を降りながら、こんな時に友人のクレア・レッドフィールドや、彼女の兄のことを思いだしている自分を不思議に思った。疲れと睡眠不足で自分が夢見心地になっているのに気づく。
 ラクーン市と連絡を取る方法はなかった。屋敷の中の電源は生きていたが、コンピュータのネットワークや電話線は全て切断されている。廷内に車が一台も無い。外には無数の野犬が徘徊している。この屋敷はまさに陸の孤島だった。たった数キロでラクーン市街に至るハイウェイに入れるのに、悪夢以外の状況ではなかった。
 自分が、彼の妹の話を肴にクリスと酒を飲むことが再びあるかどうか分からなかった。
 腐臭にはだいぶ馴れたが、微妙な吐き気が胃の底にわだかまっている。生還の確率はいったいどれだけあるのか。想像もつかない。
 この屋敷に駆け込んだ時、一緒だったのはケネスだけだった。他の隊員やエンリコの生死は分からない。屋敷に入って間もなく、遠くで銃声が聞こえた。屋敷の別の入り口から侵入した他のメンバーのものかもしれない。銃声の聞こえた二階の右翼は、鍵がかかっていて、入ることは出来なかった。鍵やIDカードはそこここで見つかり、自由に歩き回れる範囲は広がってきた。だが、その分、この屋敷の中に棲みついた者たちの姿をまざまざと見せつけられることになった。
 ほんの僅かな間別行動している間に、ケネスが死んだ。
 レオンが見たこともないような酷い死体だった。髪がむしられ、頭骨が見えるほど肉を囓られていた。ケネスは喰われたのだった。死体の目は見ひらいており、彼が酷い苦痛の中で死んだことを示していた。脂肪と千切れた皮膚、血にまみれたケネスの顔を、レオンは成る可く思い出さないように脳裏から消し去った。閉じてやるまぶたも残っていなかったケネスのことを思い出すと、叫びそうになる。叫ぶだけで済むかどうか分からない。
(生存者はいないのか?)
 呼吸しない死体の歩き回る音、足を引きずって歩くその重い足音は、大分聞き分けられるようになった。だが、まだ仲間の足音は聞いていない。
 コンバットブーツの踵が、慎重に絨毯を踏みしめる音を聞き逃すまいと、レオンは神経をはりつめていた。だが、自分の感覚が確実に鈍り始めているのを感じる。
 ほんの少しの時間休息出来る安全な場所を、まだ彼は見つけられないでいる。外庭に面した窓のある部屋は危険だ。犬が硝子を突き破って来る可能性がある。そして屋敷中は徘徊する死人たちで一杯だった。彼等は絶えず何かを喰っているようだった。仲間同士で貪り合う姿も見た。予想もしないホラームービーに投げ込まれたことへのパニックは消え、身体の震えも止まっていたが、逃れようのない疲労が込み上げて来ていた。
 そんなものがこの屋敷の中にあるとしてだが、安全な食物を摂り、少しでも休息する必要があった。


「!」
 一瞬にして全身が総毛立った。階段に折り重なった死体のうち、一体が身じろぎしたのだ。彼等を特徴づけるぎごちない動きで、体液の染みのついた上着の袖が上がった。まだ活動を止めていないのだ。動く死体は白衣をつけ、研究員のIDカードをつけていた。
 レオンは歯を食いしばって、数発、続け様に9ミリ弾を撃ち込んだ。反動が肩を揺るがす。頭をねらったつもりが当たらずに耳を跳ね飛ばした。「彼」の活動を止めるために発砲したにも拘らず、身体の一部分を破損することにはひどい抵抗を感じた。冷静でいようとしているが、疲労で照準がぶれがちになっていた。弾丸は、更に白衣の胸の真ん中に着弾した。低いうめき声と共に、ゾンビは動くのを止めた。レオンの足下でびくびくと痙攣し始める。
「……」
 不意にレオンは、研究員の姿をした死体の唇から、人の言葉を聞いたような気がして、耳を澄ませた。この屋敷に来てから、言葉を喋る者には出逢っていなかった。
「何だ?……」
 危険を承知で彼はかがみ込んだ。覗き込むと、動く死体の、ぽっかりと見開いた目から、透明なものが流れ落ちた。
 涙だった。
 レオンは異質な衝撃と共にそれを見下ろした。怪物と化した研究員は、眼架の中で白く濁った目を動かしてレオンを見た。目の上を涙の膜がゆるゆると動いている。唇が動いて、彼がやはり何かを云おうとしているのをレオンは知った。
「何だ、何を……?」
 その瞬間、彼の鋭敏な耳は、ゾンビの崩れかけた口の中で、泡のような音に混じって漏れた呷きを正確に聞き取った。
『Help me・・・』
「彼」は確かにそう云った。
 涙と、救いを求める呷きはそれきり途絶えて、首ががくりと崩れた。その首の中で有機的な嫌な音がする。喉の奥から腐りかけた肉が流れ落ちて、その奥に欠けて折れた骨が覗いた。
 レオンは立ち上がった。
 彼に、この屋敷に入って以来の恐慌状態が訪れた。黄色い目をした犬や、死体に襲われた時、また、ケネスの無惨な死体を目にした時でさえ訪れなかったパニックだった。
 ────彼等には意識があるのだろうか?
 喉元を灼きながら胃の内容物があふれて来た。彼は階段の中途にかがんで吐いた。吐き気は何度にも分けて、軽い痙攣を伴って込み上げて来る。長時間食物を摂っていないレオンの胃はほぼ空に近い状態であり、色の薄い胃液が少量吐き出されただけだった。
 彼は手すりを握りしめて、感情の爆発に耐えた。喘ぐように息をする。吐くものがないのにも拘らず、吐き気は断続的に彼の胃を締めつけ、ひきつれる痛みをもたらした。
「彼らがいつまで人間だったか」ということについて、レオンは今までなるべく考えないようにしてきた。
 この広い廷内にいる人間達がどんな理由で死を迎えたか、薄々は察していた。
 生きながらにして腐敗し、意識を消失するに至る病。
 おそらく広範囲でバイオハザードが起こったのだ。
 それを決定的に証拠づけるものはまだ見つからなかった。
 だがそれは、超自然的な原因があって死体が動いている、というよりも、遙かにこの状況に対しての説得力を有していた。それだけに、撃たざるを得ない相手に意識があるかないか、ということは、レオンにとっては大きな問題だった。
 心停止を経て身体の腐敗が始まっても意識がある、などということがあり得るだろうか。
 だが、彼等は歩き回る。喰らいさえする。屋敷のあちこちにしゃがんで共食いを繰り返す彼等に意識があるとしたら、自分がかつて「誰」であったのかを認識することが出来るとすれば。
 それは神の作り給うたものへの最大の冒涜と云えるだろう。
 それとも彼らに名があるとしても、その名はに過ぎないのか?

 助けてくれ、という呻きを遺して絶命した死体をレオンは見おろした。
 彼等が救われたがっているとして────、腐敗した目をひらき、瞬きすることもなく人肉を食らう者たちを、「救う」とは如何なる行為を意味するのだろうか。
 殺して塵に返してやることが救いなのだろうか。
 元の姿に回復させる方法はあるのだろうか。
 きっとそれは無理だろう。レオンは思った。彼等を襲った異変の正体は分からないが、あれだけの腐敗や変質を、すっかり治療する方法があるとは思えない。
 吐き気がすっかり去るのを、階段の手すりにもたれて待ち、息を整えたレオンは立ち上がった。訓練された身体は、わずかな休息で、再び活動するために呼吸や心臓のリズムを調整する。ベレッタのマガジンに弾丸を補填する。嘔吐に誘発されてにじんだかすかな涙を、手の甲で拭い取った。
 今はこうして、自分の感情を平静な状態に調えることが出来る。だが、こんなことが続けば、いずれ精神状態に変調を来すだろう。ここを脱出するための努力をし続けるのは、それほど容易なことではなかった。理性が機能している限り歩くのをやめないでいられる。だが、精神状態が不安定になった時、自分がどんな行動に出るかは分からなかった。
 吐き気と動悸が収まり、彼は階段下の廊下を曲がり込んだ。
 不意に、右手の部屋のドアが細く開いた。
「動くな」
 男の恫喝的な低い声が届いた時、もうレオンはベレッタを構えていた。薄暗い廊下の隅のドアの影から、五十口径の威嚇的な銃口が光っている。その銃を構えた男の、大きな身体がドアの隙間に垣間見える。
 予想外の場所で顔を合わせた二人の男は、一瞬、お互いに銃口を向けたまま睨み合った。洋館の中はどこも薄暗かったが、顔を見分けられないほどではなかった。だが、自分の目で見たものがにわかに信じられず、不審感がこみ上げてきた。
 何故彼がここにいるのだろう?
 相手の厳しい青い目を見ると、彼も疑念を抱いていることが分かった。
 レオンはそろそろと、ベレッタの引き金にかけていた指を外し、右手を下ろした。逆に左手を開いて上に挙げる。
 小部屋のドアを弾避けにした長身の男は、間違いなくクリス・レッドフィールドだった。
「────レオン?」
 男も、両手でレオンの胸に狙いをつけていたマグナムを下ろし、警戒するように囁いた。
「……そうだ。アルファチームも来てるのか? いつからだ?」
 救援が来たのか、という期待は、クリスの様子を見て吹き飛んだ。アルファがこの事態を予想して潜入したのでないとすれば、彼等の状況も、ブラヴォに比べてそれほどマシな状況にあるとは思えなかった。しかし、生きて呼吸する人間の顔を久し振りに目の当たりにして、安堵したのは本当だった。ましてやそれが信頼できる友人だとしたら、どれだけ心強いか知れない。
「三時間前だ。この屋敷に入る前にジョセフがやられた。隊長は無事だ」
「……心強いな」
 妙に皮肉な言い方になって、レオンは自分自身に驚いた。クリスは眉一つ動かさない。
 アルファチームの隊長、アルバート・ウェスカーが、異常に立身出世に関心の強い男だというのが、隊員の間での下馬評だった。頭脳を買われて任命された彼が、発足して間もないS.T.A.R.S の中で指揮力と器量の大きさを見せる機会は未だ少なかった。ホワイトカラーのウェスカーは、自分の得にならないことには動かない、得体の知れない男だと部下に思われている。
(「────こんな田舎警察で出世も何も、なぁ?」)
 隊員達が街のバーで一杯やりながら、隊長の上昇志向について云い合っているのを、レオンは一度ならず耳にしている。
(「せいぜい署長と懇意になっておこぼれを貰いたいんだろ?」)
 同様に上昇志向が強く、しかも色好みの署長と、ウェスカーの同調を彼等は嫌っていた。警察署長は、ラクーン市長のブロンドの娘に夢中なのだ。ベイ・エリアの大学を出て故郷に戻ってきた市長の令嬢は確かに素晴らしく美しかった。彼女の父親とほぼ同年齢の警察署長がのぼせ上がり、運転手よろしく、恭しくメルセデスのドアを開閉してやっているのを、S.T.A.R.S の隊員達は、ごみごみしたアッパータウンの警察署の窓から、嘲笑と共に見降ろしていた。
「お前達の連絡が途絶えて十二時間後、出動命令が出た。ただし、この研究所のデータは提示されなかった……ここに潜入した後も、隊長は落ち着いたものだったがな」
 クリスが言外に含ませたニュアンスをレオンは受け取った。
「ウェスカー隊長が、何か関係があると?」
「そんなことは思いたくないが……」
 クリスはいかついハンド・キャノンの安全装置をかけた。顎をしゃくる。
「入れ。この部屋には中から鍵がかかる」

「この階で見つけた、犬の飼育係の日記だ。どうやら遺書になっちまったらしいな」
 クリスが、汚れたノートを放って寄越した。
「この屋敷でうろうろしてる犬は、研究所で飼育されてたんだ。探せば犬舎が見つかるだろう」
 それは、この屋敷の中に寝起きしていた飼育係が、仲間との賭け事の勝ち負けについて書き記した備忘録だった。日付と金額を示す数字が並び、ところどころに、いかさまをはたらかれたことへの怒りや、狡猾な仲間への呪いの言葉がいりまじっている。
 その走り書きの様子が変ったのは、ノートが半ばを過ぎてからだった。自分の身に何かが起こる不安を感じるとき、多くの者が、誰にともなくその危険について書き残そうとする。自分にどんな災いがふりかかったのかを他人に知らしめようとするのは、人の本能的な行動だ。
 飼育係は、初夏の屋敷の中で、体調の不調を訴え始めた。
 ────研究所で事故があったらしい。
 そう書かれた数日後からだった。
「生物兵器だな?」
 顔色を変えたレオンに、クリスは肯いた。
「おれたちがこの目で見た通りだ」
 アンブレラは、表向きは製薬会社だが、政府の資金援助で細菌兵器を開発する研究所や実験所を多く抱えており、CIAとも繋がっていた。黒い噂は後を絶たず、人体実験や臓器の売買を囁かれていた。世間では物議を醸している人間のクローン技術も、この企業の研究所のシャーレでは、既に完成しているというもっぱらの評判だった。ラクーン市内にもアンブレラの施設が幾つかある。特に薬品工場は巨大で、この小さな街の住民の生活に大きく関わっていた。彼等の閉じこめられたここ、アークレイ研究所も、市の経済を支える上得意の一つだった。
 犬の飼育係は、研究所の事故についてはさほど関心を抱いていなかったようだ。だが、事故のせいで、宇宙服のような防護服の着用を義務づけられた不便を、日記の中でこぼしている。彼の身に何が起こったのか、その過程を、覚え書きは徐々に明らかにしていった。
 飼育係は、最初、皮膚の痛痒感に悩まされ始めている。
『気味の悪いできものが出来た』 
『痒くてたまらない』
『体調が悪い。だが、無闇に腹が減る。喰っても喰ってもおさまらない』
『傷口が腫れて、膿み始めた』
『とにかく、腹が減って仕方がない。苦しい────』
 そんなことが切れ切れに書き記されていた。思いついたことを書き殴っただけの文章で、記録としての価値は低い。だが、その稚拙な日記の中で、体調だけでなく、飼育係の心情に起こった変化が読みとれるようになった。
 最初は病気について不安になっている。医師に『もう防護服を着なくていい』と云われて、せいせいしながらも、自分が何か致命的な病を患っているのではないか、と不安になる。
 医師が逃亡をはかる。職員が銃殺される。男の字は乱れ、ペンを握りしめて書き殴った子どもの落書きのようになっていった。だが次第にその不安が消え、男の頭の中に、満たされない食欲のことだけが残ってゆくさまが手に取るように分かる。本当のことかどうかは分からないが、腹にすえかねていたポーカー仲間を「喰ってやった」という、ぞっとするような記録も残っていた。理性をもって文章を書き綴っているのではなく、部屋に帰ると日記を書くのは、単なる習慣になっていたようだった。
 最後には、スペルも字の形も無茶苦茶に崩れた文字が、空腹と痒みへの嘆きを訴えていた。
 今から一週間前の日付で、男の文は途切れている。
 慄然として顔を上げたレオンに、クリスはドアを指さした。
「このノートがあった部屋に一人いたな。日記を書いていた男かもしれない。クローゼットの中に『喰い滓』が山積みだった」
「空気感染するのか?」
「分からない。だが恐らく接触感染だろう。こいつはウイルスを媒介する犬に噛まれたんだろう。その上ここの職員は、共食いし乍ら汚染を拡散させたんだ。郊外の人肉事件も勿論無関係じゃないだろう。一見ホラームービー紛いの状況だが、呪いでも、死霊の仕業でもない」
 レオンの身体のそこここで、細かい震えが沸き起こった。自分の身体が揺れているように感じる。奴らに噛まれた足の傷が痛まない事実が、ある可能性を暗示していることに不意に気づく。
 ────彼等に意識はあるのか?
 その答がこのノートの乱れた文字の中にある。
 意識はあったのだ、無論。
 ウイルスに完全におかされて狂い、神以外の手による存在になるまで。
 自分の中に、何か奇妙なリズムがあるのをレオンは意識した。それは、先からの身体の震えが高じてのものだったかもしれないし、自分自身の鼓動に耐えられなくなった結果かも知れなかった。
 だが、彼は、どんな可能性が自分の中にあるのかを理解していた。
 彼は静かに銃の安全装置を解除した。
「OK、事情は分かった」
 彼の胸に向けて銃を突き付けると、クリスは目を見ひらいた。
「何のつもりだ?」
「────おれに近づくな」
 クリスは、銃を握りしめたレオンをいぶかしむように眺めた。
「おれが感染してると思ってるのか?」
 レオンを宥めようとするように手を挙げる。
「動くな」
 口の中に苦いものがこみあげてくる。また少し吐き気がした。レオンは、男の日記の中に、吐き気についての記述があったかどうかを思い出そうとした。感染しているとしても、まだ発病してはいないはずだ。奴らに噛まれてそれほどの時間は経っていない。今は腹が減るどころではないが、この吐き気がおさまった後、何がやってくるのかレオンには分からない。
「レオン、落ちつけよ」
「感染の可能性があるのはおれだ」
 レオンは明確に、ゆっくりとそう告げた。
「……何だって?」
 クリスの青い目が険しくなった。
「おれの耳がおかしくなったんでないとすれば────」
「あんたの耳は正常だ、クリス。感染者に足を噛まれたんだ。奴らの唾液が傷口に触れている。多分まだ発病はしていないが、おれがキャリアーだという可能性は高い」
 彼は、自分が向けた銃口を、クリスの胸から離さなかった。
「おれのこの行動の意味を分かってくれるだろうな? クリス」
「……ああ」
 少し間があったが、クリスは低く応えた。
「この日記に書いてあることを信じるなら、発病するまではもう少しかかると思う。おれは、感染していないと自分で確認するか、ワクチンを接種しない限り、ここを出て行くつもりはない」
 恐怖心はあった。だが、ゆらゆらと揺れながら自失して立つ感染者、倒れた死体に群がって肉を咬み続ける姿を思い浮かべると、頭が冷える。先刻のような恐慌状態が来るかと思ったが、感情の暴発は訪れなかった。自分でも意外に思うほど平静だった。あの姿を他人に晒すのは耐え難いと思う。無論、目の前にいるこの男にその徴候や結果を見られるのも御免だった。
 だが、プライドや自己保身だけではない、頭の中に別の回路が繋がったようだった。
 どれだけ時間があるかは分からない。だが今、何か耐えられない事があるとすれば、発病をおそれて、無為に嘆いて過ごす事だった。


 有史以来、自分の意のままになる怪物を作り出したいという欲望は、常に人類の夢と共存していた。
 自らの手で操作可能な、人間に持ち得ない能力を有した知能。
 改良を重ね、膨大に手をかけることによって、コンピュータは限りなくそれに近い存在になったが、それを小型の機体に組み込み、自由に操作することは容易ではなかった。そしてどんなに精密なプログラムも、反射や感情を備えた生物の神経細胞の複雑さには及ばない。
 ならば人間や動物を、既に完成された精巧なハードウェアとして、バイオテクノロジーのソフトウェアによって操作可能にすること。ゼロから創作することを思えば、生物の塩基配列をいじる技術を発展させることは、理論的にも効率がいい。
 だが多くの場合その行為は、生態系の螺旋を崩す許さざるべき汚染になる。

「おれは残って犯罪の証拠を探そうと思う。証拠をどうやって発信するかはその間に考える────ここは、屋敷ごと焼却するべきだ。滅菌して調査に入れるレベルじゃない。そうだろう?」
 レオンの言葉に、クリスはもう一度肯いた。
「────そうだな」
「クリス、おれのことは一度死んだと思って欲しい。あんたは無傷だし、脱出すればアンブレラを告発出来る」
 今度は、クリスは答えなかった。睨むようにレオンを見つめている。彼が何を考えているのか、推し量ることは難しかった。
 クリス・レッドフィールドは正義漢だ。レオンをここに残して脱出し、単独で調査させようなどとは、発想すらしないのかもしれない。
 どう云えばクリスを先に脱出させることが出来るだろう。
 銃を持った犯人を説得するのに似た心理になっているのが自分で分かった。だが、レオンは犯罪者と警察の間を取り持ち、再犯を防止するナゴシエイターのように心理学に通じているわけではない。第一クリスは犯罪者ではなかった。
 立場の入れ替わった状況に、レオンはふと一抹のユーモアのようなものを感じる。
 ウイルスに感染しているかもしれないのは自分だ。普通ならクリスが自分に、外に出てゆかないように説得するのが筋というものだろう。
「クリス、あんたが一時の感情で警察官としての義務を放棄するような男じゃないことを、おれはよく知ってるつもりだ」
 レオンは、心を決めた安らかさから、おだやかにクリスの説得にかかった。
「あんたが脱出してくれれば、おれのウイルスの潜伏期間に間に合うように、特効薬について調べることが出来るかもしれない」
 そんな可能性が無いことを承知で言葉を重ねた。
「それに、あんたに何かあったらクレアが悲しむだろう?────」
 彼がその言葉を口にした途端、部屋の中に電流のような緊張が走った。
 レオンは、その妹によく似た男が、挑戦的にぐいと顎をそびやかすのを見て、自分の失敗に気づいた。クレアの名前を出したのは望ましいことではなかったらしい。意志的で、人を惹きつけずにはおかないクリスの目が、憤りを示して光った。
 そのまま強い言葉でなじられるかと思った彼の予想は覆された。
 銃を構えたレオンの右手に、ごつごつと大きなてのひらが鞭のように飛んでくる。
 気さくで、酒を一緒に飲む相手としては申し分のないこの年上の友人のあだ名が何だったかを、レオンは我が身をもって思い起こすことになった。
 ────ならず者。
 ────トラブルメイカー。
 クリス・レッドフィールドはそう呼ばれていた。上官に対しても譲れない、潔癖な性格故にそんな風にからかわれるのだろうと、レオンは思っていた。仲間内で、空軍時代の不名誉なあだ名を引き合いに出されても、クリスは平然としていて、それを冗談の種にさえしなかった。
 だが、確かにクリスの中に破滅的な行動パターンがあることを認めざるを得ない。
 銃を握ったレオンの右手は、熱く乾いた手に強く握りしめられた。手首に跡がつきかねない力だった。それは、鍛えられた故に硬く厚い胼胝を作ったてのひらだったが、それでも生きた人間の柔らかな弾力とぬくもりがあった。全てが湿っぽく、冷たい腐臭を漂わせたこの施設の中で、その温かさは、レオンの中に瞬間的なこころよさをもたらした。
 皮膚同士の触れる温度に一瞬気を取られた彼は、間近に近寄ってきたクリスに息を塞がれるまで、何が起ころうとしているのか理解出来なかった。
 唇はぴったりと合さり、乱暴に舌が差し込まれた。自分と彼の間にある筈のない接触、しかも、たった今ウイルスの感染の可能性について話した自分に、クリスは何をしているのか。心臓が飛び跳ねるように打ち始める。強くもがこうとしたが、トリガーに指のかかったままの銃を握っていては、にわかに激しく動くことは出来ない。余り強く右手首を握られて、手から銃を取り落としそうになる。
「クリス!」
 首を振って唇をふりほどき、非難の叫びを上げると、間近で青い目が開くのが見えた。混乱しているとも思えない、充分に理性的な目だった。ごく当たり前のキスをするときと同じように、クリスは再び目を閉じる。ベレッタを握ったレオンの手首をとらえた左手はそのままで、その手以上に固く鍛えられた、無骨な右手がレオンの顎を引き上げた。もう一度左右に振って逃げ場を求めようとする顎に、締め付けるような力を加えて、もう一度男の唇が重なってきた。
 唇の中に展開する粘膜は驚く程熱く、荒々しくレオンの舌をからめ取った。自分と彼の舌が触れ合っているのを生々しく感じたレオンは、声を上げそうになった。絶望的な怒りがこみ上げてくる。もしもレオンがキャリアーだとすれば、今のキスでクリスにウイルスを感染させたかもしれないのだ。
 付け根に届きそうな程深く舌を差し込まれていても、刺激など感じる余裕もない。痛みでクリスを退けようと、掴まれた顎の中で歯をかみ合わせようとしたレオンははっとした。クリスの舌に傷をつけたら、感染の可能性を高めることになる。
 迷いのせいで、中途半端に開いたままの歯の間から、クリスの舌はダメージを受けることなくするりと出て行った。
 レオンは息を弾ませて顎を逸らした。身体をもぎ離して、震える手で銃の安全装置をかける。ホルスターに銃をねじ込んだ後、クリスの頬を力任せに殴った。こんなに遠慮のない力で人を殴ったことが、今までにあったかどうか思い出せなかった。その一撃を避けることなく、クリスは、レオンの拳を左頬で受け止めた。頬の肉が歯にあたる感触があり、犬歯の切っ先で唇が切れたのか、小さく血が飛び散った。
「頭がいかれたのか? クリス」
 彼は叫んだ。
「いったい何を考えてるんだ。おれが感染したかもしれないと云ったのを聞いてなかったのか?」
「聞いてたさ」
 クリスは切れた唇の左端をぬぐう。
「これで、お前とおれは対等な立場になったって訳だろう?」
 自分の耳を疑ったレオンは、茫然とクリスの言葉を繰り返した。
「対等な立場だって?」
「そうだ。おれたちは二人とも、ここをすぐに出て行くことは出来なくなったようだな」
 クリスはにこりともせずに云い放った。その落ち着き払った口調からも、彼が本気なのは明らかだった。
「おれが死んだらクレアが悲しむなんて、よく云えたもんだ。お前をここに残して一人で脱出したら、おれはこの先クレアの顔を見る度、さぞ愉快な気分になるだろうな」
「莫迦な」
 レオンは呆れかえって、自分を責める長身の友人の顔を見上げた。
「クレアだって、あんたとおれじゃ────」
 云いかけると、クリスは険悪な声で遮った。
「おれが生きてお前が死ぬ方が、その逆よりもクレアにとってマシだとでも思ってるのか。お前はあれをそういう女だと思ってるんだな?」
「クリス……」
「それ以前に、おれの気持はどうなるんだ? 感染したかどうかも分からないウイルスやクレアを楯にとって、おれに仲間を置いて出て行けというつもりか?」
「ちょっと────ちょっと、待ってくれ」
 突然疲れが出て、落胆のようなものがこみあげてくる。レオンは、毛布のかかった粗末なベッドに腰を降ろした。火照る額をてのひらで覆う。汗ばんだ自分のてのひらは酷く冷たかった。クリスの云っていることは無茶苦茶だ。しかし、それが彼の中では彼なりに筋が通っているのが分かった。
「お互い同じ立場になったところで、物わかりよく話をしようじゃないか」
 座り込んだレオンを見おろしたクリスは、得体の知れない平静さでそんなことを云う。そして、舌先で切れた唇の傷口を舐め取った。男臭い唇の口角で、傷口の周りが少し腫れ始めていた。
「殴って悪かった……だけど、あんたのやり方は乱暴過ぎるし、理屈に合わない」
 自分を丸ごと呑み込んでしまいそうな激しいキスが甦ってくる。クリスが彼自身の唇を舐め取る動きが、そっくりレオンの唇の上で動いていた感触と重なって、胸や喉元にむず痒い狼狽を呼び起こした。
「どうしてこんなことが出来るんだ────」
「手っ取り早いからだ」
 クリスは、横の薬品棚に背中を預ける。
「お前に物を理解らせるのにな。……それに、お前にとっても、ここが一番妥当じゃないのか?」
 クリスは自分の唇の上を、親指で軽く叩いた。
「何だって?」
 顔を上げて眉を寄せたレオンには構わず、クリスは視線を上げて、天井近くを見つめた。彼が何を見ているのかと視線を追ったが、何も見てはいないようだった。やがて彼は上の空といった風に言葉を続けた。
「体液同士が触れるのにな。……もっとも、唾液はそれほど効率の良い媒体じゃないそうだが……」
 内容の破天荒さに引き替え、クリスの口調に冗談を云っているような様子はなかった。
 彼は更に続ける。
「ああしたのは思いつきだが、まあ……悪くなかった」
 疲労で冷えた身体に、さっと温かい血が流れ始めたような感覚があった。
 同じ狼狽でも、羞恥心と、どこか甘い感覚のいりまじった動揺が自分を揺らすのをレオンは自覚する。頬が熱くなったせいで、自分の顔が紅潮したのに気づいた。ここは嫌悪感や怒りを感じるべき場面であって、顔を赤くしているというのはまともな反応ではない。
 この屋敷に来て、ずっと死の恐怖と嫌悪感にはりつめていた神経が、初めて他の方向に動いた。思わず、紅潮した顔を隠そうとして、座った自分の膝に目を落とした。ブーツの中で冷えた足の傷が血を滲ませているのが目に入っても、その浮き足立つような感覚は去らなかった。
 考え込むように中空を見ていたクリスの視線がふっと下がって、自分の上に止まったのを、まるで物理的な感触を味わうように、レオンははっきりと感じた。身体が固くなる。
 クリスの中で何かの衝動がゆるゆると動いているのが、酷くリアルに感じられる。下を向いたままレオンは凍り付いた。クリスとは何度も一緒に飲んだし、バーから出てどちらかの部屋に転がり込み、折り重なるようにして眠ったことも二、三度ある。だが、一度もクリスが男に興味があるような徴候を見たことはなかった。勿論自分もそんな様子を彼に見せたことはない。
 危機的な状況が、クリスと、そして自分を、異質な興奮に駆り立てているのだとしか思えなかった。しかし、このはりつめた高揚と危機感の間に、どうやって線を引けるというのだろう。
 自分がクリスの衝動に気づいているように、クリスがレオンの状態に感応していることも想像に難くなかった。クリスが唾液を飲み下し、彼の喉頭の中で軟骨が動くのが痛いほど緊張した空気の中で伝わってくる。感覚器官が普段の何倍も鋭敏になっているようだった。
 この場合も、緊張をあっさり断ち切ったのはクリスだった。肉厚のてのひらが無造作にレオンの顎に伸びて、先刻もそうしたように、顎を持ち上げて自分の方へ向ける。自分の気持を確かめようとするようにまじまじとレオンの顔を眺めていたが、やがてふっとクリスの唇から浅い息が漏れた。
「嫌ならそう云えよ」
 クリスは、おざなりにレオンの意思を確認する。息が耳元をくすぐり、視界がぐるっと回転して、レオンの目には、天井と、自分に覆い被さった男の髪の色が映った。髪の先は栗色だが、付け根はブルネットに近い、クリスの固い髪だ。少し荒げた呼吸と共に、クリスの唇が首筋に埋まる。身体が思わずびくつく程甘い感触が沸き上がった。
「クリス……」
 一体何故こんなことになったのか、クリスの名を呼ぶと、誘うように掠れた声が自分の唇から漏れてレオンは仰天する。
 味わったことのない類の興奮に背中がとろけそうになる。ベッドで女性を見おろすのと、固い胸に敷き込まれて天井を見上げるのとでは感覚が違った。うなじや首筋が甘く痺れ、熱が腹の底に駆け下りていく。俄に胸が高鳴り始めた。もっとも、それは彼に胸を押しつけたクリスも同様だった。スイッチを入れたような体温の上昇と興奮に、涙腺が刺激されて薄く涙が滲んだ。

「クリス、嫌だ────」
 NO、と云わない方がまだマシに思える濡れたささやきに、レオンは舌を噛みたくなった。彼の耳朶や首筋、顎に忙しなく唇を這わせていたクリスは、奇妙なものを見るような表情になった。片手を伸ばして、レオンの腰の上を探る。
「本気で云ってるのか?」
 反応したレオンを服の上から握った。だが、クリスの声にはそれでも揶揄するような調子はなく、どこか生真面目だった。
「……こんな事をしてる場合じゃないだろ?」
 たった一ミリも、逃れるために身体を動かすことが出来ないまま、レオンは必死に囁く。欲望を感じていないと云えば嘘だが、発情しているような状況でないのも事実だった。レオンがあおのいたベッドの端に腰掛けて身をかがめるような姿勢だったクリスは、片肘をついて、彼の上に身を乗り上げた。ゆるくグラインドするような動きで、自分の固くなった部分をレオンに押しつける。
「一度出すだけだ。その方が二人とも頭が冷えるさ、多分」
 彼には珍しく、云い訳をするような口調だった。こんな場面では誰でも大抵莫迦ばかしい事を口にするものだ。映画や小説のベッドシーンのように決まった台詞が出てくる筈もなく、恥をかいた挙げ句にようやくリラックスした関係になる。だが、そのプロセスが、この男と自分との間に訪れようとは思ってもみなかった。
「……!」
 嫌ならそう云え、と云ったじゃないか。
 レオンが口に出そうとした言葉は、クリスの唇に呑み込まれた。仰向けになったまま唇を開いている体勢をいいことに、いきなり深いキスをされた。唇から侵されているような錯覚を覚えるほど、深く、舌や口腔の中を隅々までクリスの舌で愛撫された。舌を強く吸われて、上顎から甘い刺激が全身に広がった。
 胸の上にまで刺激は電流のように伝わり、両側の突起を固く立ち上がらせた。それを読みとったように、熱いてのひらが胸をさする。服の上からでも分かるほど固くなった小さな突起が、爪の間に摘み上げられる。
 手を離されてしまった腰で、熱が小さく脈を打っている。服の上から触れられた手の感触が残っている。胸から受けた刺激はストレートに下腹に落ち、密着した腰の間でレオンの形を変えた。
 目に見える形で尖り、固くなる男の身体では、お互いに抱いた欲望をまるで隠せない。感覚器官が全て鋭敏になって、クリスの感触を味わおうとしている。男の体臭や、ごつごつした身体の感触を不快に思うどころか、もっと深く、闇雲に彼を受け入れたがっていた。
 はッ、はッ、という短い息が聞こえて来て、一瞬彼はそれが自分のものかと思った。だが実際にはレオンは息を殺していて、その吐息は、彼の喉元で唇と歯を往復するクリスのものだった。
 クリス・レッドフィールドは、自分が求める女性を手に入れるのがそう難しい男ではない。欲望を満たすためだけに男に触れる必要はないだろう。同じ事がレオンにも云えた。もっとも生きて呼吸する相手がお互いだけとあっては、常日頃の嗜好をどうこう云っても始まらないかもしれないが。
 自分があのウイルスの保菌者かもしれないということ、そして、この接触によってクリスに感染させるかもしれない、という事が、強烈な警告を発している。にもかかわらず、レオンは自分に身体を押しつけて息を弾ませる、この温かい男をはねのけることは出来なかった。疲労と安堵、緊張と弛緩が、身体の芯に火を点けて理性を蝕んでゆく。
 レオンの鎖骨に、自分が肩のベルトに装着したナイフがあたることに気付いて、クリスはもぎ取るようにベルトを外した。緩衝材を縫い込んだベストは、腰にがっちりと巻かれたベルトで止められている。レオンは、S.T.A.R.S の隊員に支給されたそのベストを身につけていなかった。感染者の口から吐き出される酸にやられたのだ。クリスは、自分のベストを脱ぎ捨てようとして、改めてそれに気付いたようだった。
 彼は、Tシャツの上から直接ホルスターをつけたレオンの身体にそっと触れた。
「ベストはどうした?」
「溶かされたんだ」
 そう云った後、説明が足りなかったことに気付いて、レオンは捕捉した。
「……酸を吐くだろう。彼等の一部だが……」
 死んだ男の涙を思い出して、気がふさいだ。自分の心に引っかかっているそれを、口にするかどうかで瞬間的に逡巡した。
「────さっき、おれが撃った中に、助けてくれ、と云い遺して死んだ男がいたんだ」
 クリスは手を止めて、愕然としたようにレオンを見降ろした。
「完全に発病した後も意識が残っていたのか?」
「個人差もあるかもしれない。だが、酸を吐いた内の一人だ」
「────そうか」
 クリスは目をきつくした。この男の目は、感情を映し出す青いスクリーンのようだ。
「……許せないな」
 彼は、レオンの髪に頬を寄せた。
「お前も辛かったろう」
「おれが?」
「助けてくれ、と云われても、殺すしかなかったんだろう?」
 レオンは虚をつかれた思いで、自分の視界の一角で光る男の髪を眺めた。あんな姿になった人間がまだ意識を持ち続ける可能性へのショックで、自分自身の心理の細かいところには思い及ばなかった。自分の中に、もやもやとわだかまっていたものの一つが、はっきりしたように思えた。
 体液や血の染みついた白衣を着た男の眼窩にたまる透明な液体。生前の声を伺わせない濁った声ではあったが、確かに彼は助けてくれ、と云った。最初、彼等をクリーチャーとしてとらえるしかなかったレオンは、死んでゆく男を救うことはおろか、彼の死に際に手向ける言葉さえなく、男を死なせてしまったのだった。
 その事実は確かに、彼の精神状態を不安定にさせている一因だった。クリスの言葉で初めてそれを気付かされる。
「絶対ここを出て、奴らに一泡吹かせてやらないことにはな」
 クリスの云う「奴ら」────糞ったれのアンブレラ、という言葉は、レオンの気分にも当てはまる。おきまりの罵声も、この男の口から出るとなかなかに勇壮で前向きな響きがあった。
「ああ、おれも脱出を諦めてはいない」
 レオンのかすれたつぶやきに、胸元に手を滑り込ませながらクリスはちらりと微笑った。
「何よりだ」
 一度手を止めたからと云って、クリスは行為を中断する気はないようだった。Tシャツの中に潜り込み、シャツを上まで引き上げて、固くなった胸の飾りを露わにした。女性に余りそこを触れられたことはない。自分でも身体を洗うとき以外に触れることはない。だが、充血のせいで敏感になっているのか、クリスの舌がそこをこねると、背中やうなじまで熱くなるような、鋭い快感が走る。その部分にこだわることが、クリスが元々男に興味がないのを示しているような気がして、安堵と不快感のまじった妙な気分がこみあげてきた。
 吸われる度に、痛みに似た刺激がピリッと走り抜け、そこは益々敏感になった。クリスは脇腹や胸の上をてのひらで撫でながら、レオンが時折身体をふるわせるのを楽しんでいるようだった。ざらざらした手に身体を撫でられ、胸を吸われていると、殆ど触れられていないままの部分がはりつめてくる。
 クリスも同様に興奮している。腰の前で押し合ったかたまりに、彼はやっと手を伸ばした。
「あんたは嫌じゃないのか、男と────」
 そう云いかけたが、全部口に出すことは出来なかった。ならお前は、と聞かれれば、嫌でない、と答えるしかなかったからだ。クリスは答の代わりに、レオンの腰のベルトを外して、ジッパーを降ろした。服を下着ごと降ろして、熱くなったレオンの性器を取り出した。てのひらで、そこが充分に高ぶっているのを確かめると、自分のそれも同じようにした。
 膝を折って、レオンに馬乗りになるようにのし掛かったクリスは、自分とレオンの熱を一緒にして大きなてのひらの中に握り込んだ。
「……っ……」
 なまなましい圧力と熱が腰一杯に広がった。てのひらの中で混ざる湿り気によって密着感が高まっている。
 シャツがずれて戻り、丁度敏感になった部分に、折りたたまれた布が当たった。クリスの唾液で濡れた突起が、服の裾で擦られる軽い刺激と、固いてのひらの中で揉み扱かれる刺激がいりまじって、声が出そうな快感が沸き起こった。
 クリスの手の上に自分の手を重ねたが、クリスは、レオンの指で刺激されることはそれ程期待していないようだった。二人分の熱を擦るクリスの手にてのひらを重ね、その動きを感じていると、リードされているせいなのか、女になってクリスに抱かれているような気分になった。
「イイか?」
 少し心許なげに訪ねられ、レオンは、声には出さずに肯いた。少し瞼が濡れて涙っぽくなっていた。レオンの無言でのいらえに安心したように、手の動きが少し早くなる。抜け出したがって疼く熱が、腰に集まり始めたのを感じる。余りもちそうにない。
 クリスの息が乱れて、レオンは、彼もまた同じような状態なのを知った。
「……っ」
 瞬間、歯の間に耳朶を挟み込まれて、体が跳ねた。灼けるような感覚と共に熱が抜け出して行く。肺の奥から、濡れた息が漏れて、レオンの羞恥心を刺激した。
「離せよ……」
 力の入らない声でつぶやいた。
 まだ下腹が熱く脈打っている。男のてのひらの中に吐き出してしまったことに、火がつきそうに顔が熱くなった。腰をよじってクリスの体の下から逃れようとすると、指が動いて、レオンの快楽の残りを吐き出させようと、ゆるく動き始めた。
「あ……っ」
 予期しない甘い残り火に体の芯を突き上げられて、彼は思わず上擦った声を漏らした。何もかもやりきれない程恥ずかしかった。だが、じれったい甘い陶酔感があるのも事実だった。乱れた息を閉じこめようと唇を固く結ぶ。一度離しかけた指を伸ばして、まだ吐き出せないでいるクリスのものに絡めた。輪の形に指を巻き付ける。今にもはじけそうな、ずっしりした熱がてのひらの中にある。ぬるりと手を滑らせる湿り気が、レオンの背中に新たな刺激を伝染させた。やるせない気分になって、彼はかすかに身もがいた。
「あんたもさっさとイけよ……」
 誘うような、かすれた声が出る。何て声を出してるんだ。そう思うが、クリスの速い呼吸にいりまじって、自分の醜態はそれほど気にならなかった。
「それとも、やっぱりおれ相手じゃ……」
 そう囁いた途端、クリスの汗の匂いが強くなり、彼を敷き込んだ重い背中がぶるっと震えた。レオンの指をかきよせるように堅い指が力を込め、クリスは一度放って勢いを失ったレオンに、自分を押しつけるようにした。粘膜同士の触れる一瞬の刺激に、レオンは声も出せずに身体をふるわせた。クリスは突き立てるような動きで数度腰を使い、やがて、触れ合った下腹に熱いものが広がった。深く吐き出したクリスの息がレオンの髪を揺らした。
 力が入って削げていた腹がリラックスする。服をずらして重なった裸の皮膚は、汗を介してぴったりと触れ合った。
(溶けそうだ────)
 精を吐き出しても陶酔感が醒めないのを不思議に思う。首筋や腹、関節に、手に握り込めそうなほどはっきりとした脈が打っている。微妙にずれて高鳴る鼓動が、次第に間遠くなり、静まって行くのを、二人は無言のまま味わっていた。
 どのくらいそうしていたのか、数十秒か、或いは数分間なのかは分からないが、レオンはようやくだるい腕を上げて、額の汗を拭った。彼の肩越しに、ベッドの上に額を伏せていたクリスが顔を上げる。心持ちおだやかな表情になっていた。瞳の色が、先刻より少しスモーキーになっている。興奮で瞳孔が開いていたため、色が濃く見えていたのだろう。本来のクリスの虹彩はそれほど濃いブルーではないことにレオンは気づいた。男の目に自分がうつりこんでいる。不意に居心地の悪さを感じて、レオンは彼の大きな身体から今度こそ逃れようとした。
「……あんたの頭は冷えたか?」
 声がまだ元に戻らない。こんな程度の行為で、声がまともに出なくなるほど感じたのは初めてだった。
「……?」
 質問の意味が分からないようにクリスが眉をひそめる。だが、すぐに自分がさっき云った言葉にかかっているのだと気づいたようだった。彼は起き上がった。切れた下唇をざらりと舌が舐め取る。
「思ったほどの効果じゃなかった」
 レオンは、訳が分からずにクリスを見上げた。いったいどんな効果を期待していたというのだろう。
 ベッドの傍らのサイドボードに畳まれていたタオルに目を止めて、クリスは自分とレオンを汚した体液をそれで拭い始めた。
「自分でやるよ」
「いいから、やらせておけよ」
「冗談だろう?」
 レオンは、身体を起こしてクリスの手からタオルをもぎ取った。身体を乱暴に拭い、服を引き上げる。不意に、噛み傷の熱を少しの間忘れていたことに気づいた。疼くような小さい痛みはあった筈だが、痛みを感じている余裕はなかったようだ。ウイルスのことを知ったショックがかすかに甦ってくる。しかも目の前の男は自分を通じて感染したかもしれない。
「さて、どうする?」
 ベストのテープを止め、ナイフシースの付いた肩のベルトを締め直しながら、クリスはさばさばとした口調で云った。
「先ずは、お互いの情報開示と行くか」
「……ああ」
 レオンは肯いた。


 クリスは地下のキッチンのテーブルの上で銃弾のストックを調べた。9ミリ弾には余裕があるが、ショットシェルは心許ない。50AE弾は十四発。無駄遣いは出来なかった。M92Fの威力では不安があるが、当分はこれで凌ぐしかない。尤も弾が充分にあったとしても、デザート・イーグルの重さは彼の頑丈な肩にも、多少荷が重かった。マグナムのハイパワーのおかげで筋を痛めたのだ。長時間撃ち続けたせいで首筋と肩が熱を帯び、腫れ始めていた。
 先刻まではぼんやりと痺れたような感じだったが、休息したことであちこちがむしろ鋭く痛み始めている。濡れタオルで覆っているが、腫れはにわかには引きそうになかった。シングルアクションのベレッタのトリガーでさえ重く感じるほどだ。
 軍にいた時すら、これだけの長時間銃を撃ち続けることはなかった。射撃訓練には厳しい時間制限が設けられている。たとえ戦争経験者であっても、あの吐き気のするような空軍の戦闘で、泥沼のように撃ち続けることはまずあり得なかった。警官になった後も、肩の筋肉が炎症を起こすまでトリガーを引く機会などなかった。
 警察官にとっては、通常銃撃戦になる場合、それが短時間で終る場面である事を暗示している。渦中に身を投じていれば異様に長く感じるが、実際にはそれほど長く戦闘状態が連続することは滅多にない。ある場所を奥へ奥へと分け入って粘着的に撃ち続けるのは、常習的な密猟者やハンターの方が得手であると云える。
 S.T.A.R.S は所詮田舎町の警察の所属機関で、Delta Forceや凶悪犯罪の多発するWAのS.W.A.Tとは訳が違う。
 ジョセフの死はこの目で確かめた。古なじみのバリー・バートンは研究所に一緒に入れなかった。ウェスカー隊長とジル・バレンタインは、行動を別にしたまま落ち合うのに失敗した。
「くそっ……」
 思わず独り言を云った。ブラヴォの隊員も生きて会えたのはレオンだけだ。彼がBの唯一の生き残りという可能性は高い。
 彼はキッチンの水で顔を洗った。水は安全なのか。疑問がちらりと頭をかすめるが、勿論答は無い。硬い髪の奥で頭皮が汗に濡れている。暑さのせいもあるが、冷や汗もかいているだろう。彼の堅固で熱い身体が、これほどあからさまな恐怖の汗に濡れたのは初めてのことだった。ついでに頭から水をかぶった。簡単に水気をふき取ると、少しすっきりする。
 胸と肩を冷やしたタオルを取り、服を身につけた。キャンバス地のポーチに弾薬クリップとマガジンを詰め直す。ベルトの腹側にヒップホルスターを通し、ショルダーホルスターのベルトを締めた。ベレッタをショルダーに、マグナムは腰につけた。ベストの上からナイフシースを着け、肩にショットガンを担ぐ。
 小さな棘に刺されたような苦痛に、腹と背中の筋肉が同時に締まった。
 ショットガンの革ひもが食い込むだけで肩に痛みがあるのだ。だが、暫く歩いているうちに痛みが麻痺して来るのは分かっていた。息を吐いて苦痛をやり過ごす。鎮痛剤は持っていたが、感覚が鈍る危険があるため使っていない。
 むしろ、今のクリスにとっては、この苦痛が別のものにとって代わる可能性、そしてその徴候を見逃すことこそが問題だった。ウイルスによる変調を見逃したくない。鎮痛剤が必要になる局面は、この先幾らでもあるだろう。
 少し前に、一階の部屋で別れたレオンも同じ事を考えていたようだった。レオンは足に傷を負っている。奴等の唾液を含んだ噛み傷だ。すりつぶすように肉に穴が開いている。気休め程度の手当が施されているだけだった。だが、彼もまた苦痛を和らげる薬を使おうとはしなかった。
 レオン・S・ケネディは、見た目は線の細い男だが、度胸が据わっていて、土壇場に強い。所属するチームが違うため、同じミッションを経験することは今まで殆ど無かったが、ブラヴォチームの他のメンバーから、優秀な新人として評価されていることは知っている。妹の親しい友人であることを差し引いても、興味の湧く男だった。最初は彼を妹の恋人かと思った。だが、レオンはクレアと友人以上の関係ではないらしい。彼がそうであればよかった、と思ったこともある。
 頬の内側で、レオンに殴られた時に切った傷がかすかに疼いた。
 動揺を押し殺して、ウイルスの感染を自分で食い止めようとしたレオンを、思慮分別のない方法で黙らせたのは、彼の目にそそられたからだ。
(「────おれに近づくな」)
 あの時のレオンの殺気は紛れもなく真剣だった。クリスが感染者だと疑われているようにしか思えなかった。
(「感染の可能性があるのはおれだ」)
 信じられない言葉を漏らしながら、トリガーにかかったレオンの指は、不思議なほど平静だった。銃口を挟んで自分を睨んだ、冷ややかな目を思い出すと、クリスの背中はぞくりと震えた。端整な甘い顔のなかで、薄いブルーの目が凍てつくように光っていた。レオンのあの目が、この洋館に潜入して数時間、初めて彼の神経をマイナスの興奮以外で高ぶらせた。
 冷静そうなことを云う、生意気な口をふさいでやれ。そう思ったのだ。
 クリスは、汗に濡れたレオンの髪の生え際や、噛みしめられて軽く赤味を帯びた唇、毛布の上で背中がうねる、刺激的な衣擦れを思い出さないように頭を振った。
 今はあのことを思い出している場合ではない。
 嵐だ。
 彼らがこの屋敷に入って来たとき、空は既に不穏な鈍色にたれ込めていた。雨になり、風と共に嵐が訪れたのは夜半過ぎからだった。古風な布の壁紙を貼った廊下の窓を雨粒が覆い、曇った視界に時折稲妻の銀色の亀裂が入った。
 キッチンの換気システムが吠えるような音をたてている。外につながったダクトから、嵐の気配が入り込んでいるのだ。
 クリスは、足許に転がっている死体を見おろした。それは、先刻向こう側から鍵を外して入ってきた、ウイルスの感染者だ。完全に心停止して、肉体の腐敗した状態でも動き続ける「歩く死者」だ。そして彼らは歩くだけではなく、貪り喰うのだった。血の匂いに敏感だ。生きる者、動く者は全て喰った。
(何故喰うんだ? 代謝してるのか?)
 あの姿からはそうは思えない。循環の必要も無く、同種を喰う理由が分からない。最悪の存在としか云えなかった。人間は元々同族殺しの資質を持っている。だが、気が遠くなるほど長い時間をかけて、それをタブーとする社会を作り上げてきたのだ。こんなウイルスを、生物兵器として役立つと思って研究している奴等がいるのだ。その結果がこの事故に繋がった。
 あちこちで、仲間の死体に群がる彼らの姿を目撃した。大抵は、作業員と研究員のいずれかの制服をつけている。
 嘗てこの職場で、立場や階級の差を持って働いていたであろう「彼ら」は、既に、完全に平等な存在となっていた。階級の上下も皮膚の色の違いへの差別もここでは関係がなかった。自分の飢えを癒すために血肉を探し求め、あらゆるものを貪り食う。おぞましい平等がこの館を支配していた。
 視覚や聴覚、嗅覚が彼らの中で生きているのは分かっていた。そして、鍵を外して部屋に入り、腐りかけた眼球で室内を見回すあの動作から考えてみても、一種の知性が残っているものと思わざるを得ない。
 クリスは洋館地下のキッチンを出た。地下の東の墓所を通って、館の一階に戻れる。彼はそこから、パスコードを入力しなければ通れない二階左翼の通路に向かう。研究者の覚え書きから、ようやくコードを入手したのだった。
 地下には少なかったが、今まで入れなかった建物の上層には感染者がいまだ溢れている可能性があった。歩きながら呼吸を鎮める。ホルスターからM92Fを抜き出した。
 死への危機感と、感染者になることへの恐怖とでは、どちらが強いだろう。クリスは自分の胸の内を振り返ってみる。今の気分では、どちらもそれほどマシとは云えなかった。
 いずれ見舞われるかも知れない感染への恐怖より、レオンを置いて脱出する事への反発が強かったというのは、クリス自身、驚くべき事実だった。
 生存者を捜してここを脱出することと、感染した可能性のあるレオンに触れることは、矛盾する行動かもしれない。だが、ここでレオンを切り捨てることは、どうしても感情的に納得出来なかった。彼自身を隔離しようと決心したレオンの方で譲る様子もなく、云い争っても埒が明かないことはすぐに分かった。長々と膝を交えて話し合う時間はない。答の出ないことなら直感に従うしかない。
 その末に自分がとった行動が最悪だったか、後で笑って済ませられるかどうかは結果次第だ。してしまったことを長い時間思い悩む習慣はなかった。クリス・レッドフィールドは恐慌状態を味わうことのない男だった。ただし、冷徹な気性というわけではない。怒りや恐怖を感じても、その針が限界を振り切るということがないのだ。気持を切り替えるのが早いことが、どんな時でも彼の苦境を救ってきた。
 彼は感染者の日記をまざまざと思い出した。感染した職員がウイルスの影響で起こした心身の変調が赤裸々に書き綴られた日記だ。痒みと食欲に支配された犬の飼育係。仲間を喰ったと書きながら、そのこと自体にはぞっとするほど無感動だった。
 だが、感染しても暫くは意識が残る。
 逆にチャンスがあるのだ。

 レオンと別れてそろそろ二時間経つ。そして、クリスがこの洋館に入って五時間経とうとしている。ただの五時間ではない。撃ち通し、走り通しの五時間だ。しかも、レオンはここに丸一日以上いたことになる。彼は何も云わなかったが、この緊張状態の中で、疲れがピークに達している筈だ。落ち合って、僅かな時間でも休ませなければならない。クリスは地下の倉庫から、未開封のステロイドの消炎剤を持ち出していた。傷が膿んでいなければ、腫れを和らげられるだろう。
 パスコードを入れて通路のドアを開けたクリスは、奥の展望室の窓からヘリポートの遠景を確認した。雨の向こうに霞んだヘリポートは小さな黒い森の向こうにあり、使えるヘリがあるのか、どんな経路でヘリポートに入ればいいのかは分からなかった。
 外に出て、森を潜ってヘリポートへ向かうのは無謀そのものだ。この施設の利用者も、いちいち森を通る筈はない。屋敷の中からヘリポートに出られる経路がある筈だった。
 屋敷の中には悪趣味な装飾と仕掛けが多数施されていて、殆どの部屋に鍵がかかっていた。その鍵もばらばらに分散して置かれ、廷内を歩き回ることすら容易ではなかった。
 奇想天外な仕掛けで閉ざされた部屋があると思えば、パスワードやコンピュータでセキュリティを管理されたドアもある。無茶苦茶だ。全てのセキュリティがコンピュータで管理されていれば、キーかパスワードを回収し、屋敷の中を自由に探索出来るようになっただろう。
 ヘリポートの位置を確認出来る廷内の地図を探したが、職員用の屋敷内の見取り図はどれも、この広大な洋館の構造の全貌を顕したものではなかった。
 レオンと落ち合わなければならない。先ずは退路を確保して、ワクチンを探すことに探索を絞り込むべきだ。
 ワクチンが完成しているとしても、研究内容の機密に関わるそれがおいそれと見付かるとは思えなかったし、精製されたものがあるとすれば、既に研究者達が使った可能性が高い。
 クリスは、蔦の絡んだ庭園のエレベータを思い浮かべた。地下で、停止した庭園のエレベータの補助電源と、端子位置の一致したバッテリーを見つけたのだ。これであのエレベータを動かす事が出来るだろう。図書室で見つけた屋敷の上空写真から、庭園の奥に更に広大な敷地や建物があることは確認済みだった。それが何の施設なのか、写真からは分からないが、彼はそれが、研究員の日記に書かれていた「地下研究所」ではないかと見当をつけていた。
(────地下研究所……)
 胸の中で反芻してみる。
 地下研究所。
 起こっていること全てが、まるで真実味がなく、騙されているような気分だった。
 今となっては、その極秘研究所で、何が研究されているのかは火を見るより明らかだった。人間の身体を生きながら腐食させるウイルス。合金のような強度を持った牙と爪で襲いかかってくる狂犬。他に何が隠されていても不思議ではない。膨大な職員を擁したこの大がかりな施設で、一体どれほどの期間、気味の悪い研究と実験を繰返していたのだろう。
 研究所の中枢に入れば、この屋敷を全滅させたウイルスの正体があきらかになる筈だった。運が良ければワクチンが手に入る可能性もある。有効抗原が保管されているだけでもいい。
 クリスは東側の二階の通路を抜け、二階の西側へ向かった。
 地下にいる時には聞えなかった雨の音、窓外の木立を揺らし、硝子にたたきつける風の音に耳を澄ませる。あれほど静まりかえっていた屋敷の中がむせび泣く女の悲鳴のような風でいっぱいになり、得体の知れない恐怖を引き起こす騒音が、廊下や広間に満ちていた。鼓膜が不快な刺激でぴりぴりした。
 のろのろと足を引きずってやってくる死者たちの足音や、小さな足裏で走って来る犬の足音を、嵐はかき消してしまう。奴等は、飼い主にはしゃいで駆け寄るありふれた犬達とまるで同じように軽やかに、静かに走ってくるのだ。
 彼は大食堂の二階の回廊に入った。
 レオンとこの時間、さっき別れたのと同じ部屋で落ち合う手筈になっている。
 隣接した寄宿舎に向かったレオンもまた、何かしら情報を持ち帰ってくることだろう。
 別行動を取って、それぞれ地下と宿舎を探索しようと云い出したのはレオンだった。ウェスカーやジルとはぐれた時のことを思うと、更にレオンと別れることには迷いがあった。だが、探索の時間を縮めるメリットがあるのも事実だった。別行動を主張するレオンの強固さに多少の不審感はあったが、結局クリスは承知した。彼の側にいない方が冷静になれる気もした。
 回廊を向こうに渡って階段を降りれば、レオンと先刻会った小部屋に戻れる。
 その時、奇妙な匂いに気づいたクリスは、ふと足を止めた。
 腐った魚のような匂いだった。
 感染者たちの身体から感じる腐臭とはまた違うものだった。
 この屋敷の中にいる生き物(?)は、不快な臭気を漂わせているものが多い。元来犬も体臭の強い生き物だが、ここで彼らを襲った犬の体臭は、普通の犬のそれとは比較にならなかった。腐った水と血が入り交じったような匂いをさせて走って来る。
 しかし、今クリスが感じているものは、今まで嗅いだ事のない臭気だった。しかし、紛れもなく生き物の身体から伝わってくるものだということも分かった。
 不意に、吹き抜けになった回廊の曲がり角、手すりの影になった部分に、何かがうずくまっているのが見えた。歪んで腐った人の身体の一部のようにも見えた。だが、身体の大きさはクリスよりも一回り大きい。こちらを向いて座り込んでいるが、身長が二メートル前後はあるだろう。
 クリスの耳は、不意に、その生き物の口から漏れる早く浅い息を拾い上げた。『それ』が自分を見ているのか、気づいていないのか判断出来なかった。
 彼は息を殺した。
 気づくな。そう祈りながら腰のホルスターにベレッタを滑り込ませる。9ミリ弾では歯がたたない相手だ。本能的にそう悟った。ショットガンの革紐に手を伸ばしかけ、思い直して腰からマグナムを抜き取る。
 グリップを握り込み、リアサイトの照準を定めたのと、異様な叫びと共に、対象の身体が跳ね上がってくるのとはほぼ同時だった。
 右肩に激痛が走った。
 肩にかけたままのショットガンを跳ね飛ばし、飛びかかって来たものの鈎爪を備えた巨きな手が、両肩を押さえ込んだのだ。
 マグナムは離さなかったが、セフティをかけていないベレッタと一緒に、クリスの背中は床に叩き付けられた。
 傷ついた肩と胸を強打して、息の止まるような苦痛が彼の身体を一瞬凍り付かせた。
 床の上で空しく銃を掴んだまま、彼は初めて襲撃者と相対した。
(!)
 そいつが笑っているように見えたのは、おそらくクリスの気のせいだった。短い、黄色い牙のずらりと並んだ口元が、半月型に耳まで裂けている。その形がグロテスクな笑いに似た表情を演出しているのだった。小さく開いた鼻腔の上には、薄い上下の瞼に囲まれた小さな目が赤く光っている。虹彩と水晶体の分かれ目がなく、真ん中に小さな黒い瞳を備えただけの真っ赤な眼球だった。
「っ……」
 叫びを漏らす余裕もなかった。耐え難い匂いが鼻を突き、クリスの首のほんの数ミリ手前で、ガチッと歯が噛み合わさった。銃を握った右手ごと、両手でその肩を押しのけようとした動きが、ようやく奴の歯を食い止めたのだ。
 歯の噛み合わさる鈍い音がクリスの鼓膜を刺激した。その音はエナメル質のものがぶつかってたてたとは思えない、生々しく鋭い音だった。まるで重い金属同士が噛んだような音だった。
 てのひらにぬるりと冷たいぬめりが触れる。同時に、びっしりと鱗に覆われた身体を包む、暴力的な筋肉の形を彼の指は感じ取っていた。
 獲物を噛み裂けなかったことをいぶかしむように、それはまた口を開け、真っ赤な舌をだらりと突き出した。そうすると尚更笑ったような顔になる。生臭い息が首筋を包んだ。
 全身の皮膚を粟立たせて、クリスは鉄のような指から逃れようとした。アドレナリンが大量に分泌されて痛みが急激に麻痺した。喉の奥から心臓がせり上がって来そうだ。
 再び彼の顔のすぐ側でガチッ、と音がした。
 二度も押しのけられた事を不快に思ったのか、それは荒い息を吐いた。瘤のような筋肉に鎧われた、緑色の右腕を上に振り上げる。その指先で光る長い爪と相俟って、一撃でもくらえば命にかかわるのが分かった。しかし銃を握った右腕は依然そいつの腕に押さえ込まれて、びくともしなかった。
 小さな歓喜の叫びを聞きながら、彼は反射的に死を覚悟した。
 流れこんできた汗に目をふさがれたせいで、その叫びが途中で怒りと苦痛のものに変わったことに気づくのが一瞬遅れた。
 叫びに混じって聞えた鋭い撃発と排莢の音に、クリスは瞬きして、目を開いた。
 クリスを押さえ付けた腕が唐突に離れ、そいつは血の凍るような叫びを上げて、血まみれの自分の顔を押さえてのけぞった。
 こんな奴にも赤い血が流れている。
 回廊の向かい側から、怪物を狙撃して自分を救った者の姿を確かめる余裕はなかった。
 足に力を込めて飛び起きる。
 膝をついたまま両手で肩を支え、そいつの喉元に向けて一気にマグナムの重いトリガーを引き絞った。
 再び、血の凍るような叫びを上げた緑色の怪物は、自分の顔を押さえた姿勢のまま、後に大きく反り返った。手すりを越えて階下の食堂へ転落する。
 凄まじい落下音と、その怪物が脊椎動物であることを示す、背骨の折れる鈍い音が響き渡った。
 回廊の向かい側で、レオンがライフルのスコープから目を外した。距離はあったが、灰色がかった薄青い瞳が輝いているのが目に入った。ブラヴォチームのルーキーが、チーム随一の射撃の腕を持っていることを思い出したのは、レオンがライフルを下ろした時だった。向かい側の回廊に立った細身の男は肩を落とし、大きく息を吐き出したようだった。
 クリスの腕からも力が抜ける。自分の膝が酷く震えているのに気づいた。汗が噴き出してくる。ショットガンを拾い上げ、手すりの下を覗き込んだ。
 大食堂のテーブルクロスの上に、あおのいた怪物が死んでいる。古風なキャンドルスタンドやグラスに囲まれて、真っ赤な血の染みの真ん中に横たわった長身の怪物の姿は、無人の晩餐に供されたグロテスクな進物さながらだった。
 額の汗を拭い、ゆっくりと足を踏みしめて、向かい側へ歩いてゆく。膝の震えがなかなかおさまらない。足を引きずりそうだった。クリスは呼吸を調え、みぞおちに意識を集中した。膝の上でぱっと熱気が散ったような感覚があり、震えが止まる。不意に大食堂に置かれた巨大な時計の音が耳についた。
 ライフルを降ろしたレオンが、同じようにして歩いてくるのが見える。足取りは静かでなめらかだった。クリスは思わず、傷を負った彼の左足を見つめた。異状があるようには見えない。だが、この事態で痛みを感じていないということがあり得るだろうか。

「助かった」
 声をかけると、レオンは曖昧な表情で肯いた。近づいてみると彼は髪を濡らしていた。金髪に艶やかな濃淡が現われている。元々色白のレオンの顔には血の気がなく、青ざめて見える。
「無事か?」
 思わずそう尋ねる。すると金褐色の眉がかすかに和んで、年下の男は微笑した。
「それはおれの台詞だろう」
 微笑うと唇にふっと血の気が昇った。人間の笑う顔を見たのはひどく久し振りに思えた。
 レオンは、手すりにライフルをたてかけた。静かな仕種だったが、彼がぴりぴりと張りつめていることにクリスは気づいた。この状況で、しかも彼は三十時間近くろくに休息していないのだ。無理もない。
 レオンは手すり越しに、階下の死体を見おろした。生気のない声で呟いた。
「研究者は、あれにハンターという名前をつけたらしい」
「ハンター?」
「あのかぎ爪が見えるだろう? 一発で首を落とす程の威力があるらしい。首狩りの名手といったところなんだろうな」
「資料があったのか?」
 頷くレオンは、彼自身半信半疑といった様子だった。
「所長室のデスクの中だ。鍵もかかってなかった。実験の『成功』についての、メールのプリントアウトがあったよ」
 バッグパックの上をてのひらで軽く叩く。
「入手したデータを、幾つかMOに入力したから見てくれ。クリス、あんたの持ってるデータもまとめておいた方がいいんじゃないか? コピーを作ってそれぞれ持ち歩こう」
 クリスは肯いた。先刻レオンと会った部屋に、幾つかのファイルや書類を置いてある。あれを全て持ち出すのは難しいだろう。
「手近な端末で作業するか……あいつは量産されてるのか?」
 レオンは肯いた。
「残念ながらそうらしい。下で何匹か殺したんだ。一階だけで三匹もいた。考えたくないが、まだまだいるんじゃないか?」
 クリスは、顎のすぐ側で噛み合わさった、重い金属のような歯列を思い出した。ぶるりと背中が震えた。
「何てこった。……お前、よく無事だったな」
 レオンは、さっき怪物を打ったライフルを持ち上げてみせる。
「これのおかげさ。これも所長室から拝借したんだ」
 それは、精巧にカスタマイズされた、多弾数のオートマティックだった。贅沢なデザインで、特注品のオリジナルかと思われた。バレルも木製のストックも使いこまれ、なめらかに磨きあげられていた。最新式のスコープが乗せられて、そこだけが真新しい銀色に輝いている。
「────いい銃だ」
「……ああ。所長はどうしてこれを使わなかったんだろう」
 銃身に指を滑らせて、レオンは低くつぶやいた。云い出しかねるように言葉を切った。
「妙だと思わないか」
 声を低める。階下の怪物を視線で指した。
「ここに一日いたが、こいつらには会わなかった。こいつらの飼育されていた場所のロックでも破れたか、────もしくは誰かが開けたかだ」
 二人は顔を見合わせた。お互いの頭の中に、共通した顔が浮かんだのが分かる。
 クリスは図書室のデスクの上に、整然と置かれていた研究所の上空写真を思い浮かべた。
「こんなに荒れてるのに、部分的に整頓された痕があった。……間違いなく、おれたち以外にも誰かがここで動いていると思った方がいいだろう」
 二人は階下に「ハンター」の死体を残したまま、どちらともなく赤い絨毯の上を歩き始めた。この洋館に入ってから、一カ所に止まっていると何かに襲われるような不安感が常にあった。
「……暫く、別行動はしない方がいいかもしれない」
 考え込むようなレオンの声に、クリスはちらっと彼の顔を眺めた。
「同感だ。それに、案外早く脱出出来るかもしれないしな。ヘリポートがあるんだ」
「……位置が分かったのか?」
 レオンの声は慎重だった。ウイルスの正体が分かるまでここを出て行かないという決心が変っていないのだ。脱出よりそれが困難である可能性は高い。
「廷内からヘリポートに出るルートはまだ分からない。だが、中庭のエレベーターはたぶん動かせるぞ」
 彼は思わず肩をすくめた。
「その先に地下研究所があるらしい」
「地下研究所?」
 レオンは口の中で小さく、畜生、と呟いた。端整な薄い唇が歪んだ。
「次は何が出てくるんだ? 古代遺跡の呪いか? チェーンソーを持った不死身の殺人鬼?」
「この屋敷の中に限っては、そいつらの出番はなさそうだな」
 クリスは、表情を強張らせたレオンの肩を叩いてやった。身体がびくりと揺れる。
「現実が悪夢以下ってのはよくあることさ。殺人現場も戦場もそうだ」
 髪よりも大分濃い色の睫毛が瞬き、レオンは視線を伏せた。目の下に濃い翳が落ちている。疲れがピークに達した顔だった。彼等は回廊の奥のドアから廊下に出た。そこはしんと静まりかえっている。絨毯が彼等の足音を吸い取った。鼻が馴れてしまったのか、黴くさい異臭を殆ど感じなくなっていた。外の嵐の気配もここには伝わらず、妙に静かだった。
 戦場に嫌気がさしたのに、何故自分は完全な平和を選択しなかったのだろう。クリスはふとそう考える。グランドキャニオンで観光用ヘリのパイロットになるのでも、一般人向けの射撃訓練所の教官になるのでもいい、とにかく生きた人間をターゲットにするのはもううんざりだと思った筈だった。だが、銃を取る生活から結局抜け出せなかった。自分の血の中には救いようもなく攻撃性が棲みついているのではないだろうか。
 同じ時期に除隊した男は、銃どころか、二度と飛行機に乗らないと云っていた。操縦桿を握るのも、旅客機のタラップを踏むことさえ嫌なのだそうだ。親類の農場を継いで農業をやるらしい。最新式の科学的なやつを。大学出で遺伝学を勉強した男だった。
 遺伝子組換え技術。世界を席巻するバイオテクノロジー。bioinformatics。増大する遺伝子レベルでの争い、環境を変化させる生体細胞。兵器工場に備蓄された、攻撃用のウイルス。同種族をマウスに使っての実験、研究、大いなる、短絡的な犠牲────。
 逸脱。脱ぎ捨てられない衣のように人間を覆った攻撃性。
 彼は頭を振った。
 実際、ナーヴァスになっているようだ。
 自分自身の性質を正義感に向けるか、攻撃欲に終らせるかは、あくまで自分の今後の人生の選択にかかっているのだ。
(もっともその人生が、どれだけ残っているのかは分からないが────)
 彼はそこで内省を打ち切った。
 レオンの目の周りの翳りと、叩かれて震えた左腕を交互に見比べる。
「また怪我をしたか?」
 腕の反応がおかしかった。レオンはシャツの上から、見覚えのないカーキ色の作業着を着ていた。どこかで調達したのだろう。洋館の中は空調のきいていない場所が多く、蒸し暑かったが、気休めでも袖の長い服を着ていた方が身体を保護することが出来る。
「いや……」
 ホルスターに銃をおさめてレオンの腕を掴む。袖口から赤く膨らんだ皮膚が覗いた。
「どうした?」
「蜂に刺されたんだ」
 レオンはクリスの指から自分の腕をもぎ取った。上着のポケットに手を入れ、握り取ったものを代わりに押しつける。
「新しい鍵だ」
「『兜』か?」
「ああ」
 短いいらえがあった。この屋敷のドアの鍵穴の下には、幾つかの紋章が刻み込まれている。剣、盾、鎧、兜。それぞれの紋章に対応した鍵があり、「剣」と「鎧」の鍵はレオンが、「盾」の鍵はクリスが持っていた。今まで対応する鍵が見つからなかったため、兜の紋章の刻まれたドアを開けることが出来なかったのだ。これでこの洋館の中で開かない扉はなくなる。
 何故洋館の鍵が寄宿舎にあったのだろう。レオンと二人で地図を並べて、開いたドアと開かないドアを書き入れて行った手間を思い浮かべる。これが、もしも宝探しのゲームだったら楽しめる趣向だっただろう。だが、神経をはりつめて銃を手に歩き回る者としては、不快な呪わしい仕掛けとしか云いようがなかった。
「よく見つかったな」」
 華奢なブランクキーに刻まれた紋章を目で確かめて、クリスは再びレオンの手を引き寄せた。
「手当はしたのか?」
「したよ、大丈夫だ」
 彼等は、小部屋のすぐ上の階段まで来ていた。
「蜂毒のアレルギーは?」
「……離してくれ」
 傷口を確かめようとするクリスの手の力が、触れられまいとするレオンの力と一瞬戦った。レオンは苛立ったように、数歩階段を降りかけた。階段の上に立ったままのクリスは、その腕を強引に掴んで引きずり上げた。無理矢理引き寄せると、互いの装備がぶつかりあって彼をひやっとさせた。肩の腫れが鈍く痛んでいたのが、感情の昂揚と共に再びゆっくりと遠ざかって行く。
 レオンはまだウイルスの感染を危惧しているのだ。レオンが感染しているかどうか、そして彼に触れたクリスの感染の有無も明らかではないからだ。先刻の接触でクリスが感染していない場合、今から接触を避ければ無事に済む可能性があると思っているのだろう。レオンの立場ならそれは無理もない。それがクリスの意思と食い違っているだけのことだ。彼は、レオンのこの件に関する一連の行動に、自分が何故こうも敏感になっているのか分からなくなっていた。じっくり考えれば答が出るかもしれないが、あいにくその時間はない。
 作業着の袖口のボタンをはじいて手首から肘に向かって袖を引き下ろす。刺された痕は腕の外側に一つだけで、それほど酷い腫れではなかった。毒がうまく吸い出されたようだ。
「どうやら、お前は心配事が多いらしいな」
「ちょっとしたトラブル続きでね」
 ストレートに労りの言葉が出てこないせいで堂々巡りになる。クリスは喋るのをやめて、蜂の刺し傷の上にそっと唇を這わせた。電流を流されたように腕に力が籠った。引こうとする腕を力一杯握りしめた。
「クリス」
 怒りの篭った声で名前を呼ばれる。レオンが苛立っているにも拘らず、彼に名を呼ばれると、妙に甘い感覚があることにクリスは気づいた。このミッションの前にはなかった現象だった。
(吊り橋効果ってやつか?)
 そう考えると少し可笑しくなる。男相手にもそんなことがあるのだろうか。
 レオンの腕から水の匂いがする。膨れた皮膚がかすかに熱を持っていた。彼の体熱を唇で味わう。動く死体に腕を掴まれた感触を思い出す。彼等の手はおそろしく冷たかった。クリスのてのひらの中の腕は、傷ついて疲れているが、温かなはりがあった。手首には確かな脈がある。脈は少し速くなっている。
 クリスは、手首の外側の傷から内側にするりと唇を滑らせて、手を離した。自由になった腕をレオンは力無く垂れ、ライフルを握った右手でぎごちなく袖を引き下ろした。
「……あんたのしてることは、おれたちの生還率を下げるかもしれないぞ、クリス」
 諦めたような低い声だった。だが、追いつめられたように光っていた目は静まり、表情もおだやかになっていた。
「そうかもしれないな」
 その言葉を反芻したクリスは、否定はしなかった。自分たち以外の気配が無いのを耳で確かめ、レオンの湿った髪を指で梳く。
 顔を近づけると、レオンは反射的に目を伏せた。整った瞼を、金茶色の睫毛が丁寧に縁取っている。触れそうな距離でレオンは何度か落ち着かない瞬きをした。
「髪が濡れてるな」
「水を被ったんだ。頭を冷やそうと思ってね」
 それが、数時間前に云った自分の言葉を皮肉っているのに気づいて、クリスは小さく笑った。
「お前もあれじゃ足りなかったのか?」
 今度ははっきりと、間近な位置からレオンの目が睨み付けた。
「自信家だな」
 しかしその色の淡い瞳には、球状に研磨した宝石のような、とろっと甘い光があった。怒りの中に肯定の感情がひそんでいるように見える。だが実のところ、レオンに云われるほどクリスは自信家というわけではなかった。
 近づいたクリスの目を見つめ返していたレオンは、その距離がつまると、諦めたように目を閉じた。乾いて荒れた唇同士が触れ合う。さっきは今にも舌を噛み切られそうだったが、今度はあきらかに合意のキスになった。レオンの中で何か心境の変化があったのか、彼の胸の中を覗き見たい、とクリスは思う。自分が感じているのと同じような甘さがあるだろうか。
 レオンが彼を閉め出そうとしたことへの意趣返しのように始まった、先刻の行為とは違った展開を、自分が期待していることに気づく。クリスは苦笑しそうになった。
 焦っても仕方がない。こんな状況の下で、自分とレオンがまともな感覚でいる筈はない。自分の気分の高揚についても、レオンの感情についても、無事に戻れた時にでも考え直してみることだ。
 それぞれがここに来る前に、個人的に言葉を交わしたのがどれだけ前だったのか、クリスの記憶の中でははっきりしなかった。最後に一緒に夕食を摂ったのは夏前だ。後は、警察署のS.T.A.R.S のオフィスで顔を合わせ、挨拶をする程度だった。だが、ここを無事に出られたとすれば、きっとレオンは自分にとって特別な男になるだろう。
 記憶よりもやつれた頬をてのひらで包む。髪をかきあげ、頬を撫でる。額は熱く、頬は冷えていた。
 ためらうようにゆっくり差し出された舌を甘噛みしていると、レオンの身体は熱を増したようだった。息が甘く、速くなる。毒の小さな刺し傷を受けた左手がかすかな震えを乗せて、静かにクリスの髪に触れた。
「あんたの髪も濡れてる」
 ほぼ唇が触れたまま、息のような声がつぶやいた。
「どうも、この屋敷は暑すぎるらしい」
 冗談交じりにささやき返したが、レオンは笑わなかった。
 目を伏せてクリスの首筋に腕を巻き付ける。うなじを引き寄せられると、クリスが顔を傾けることになった。彼はレオンより幾分背が高いからだ。レオンから仕掛けた来たキスは甘く官能的だった。自棄になったのだろうか? ただ「その気」になったのならいいが。
 クリスは目を閉じずに彼の様子を眺めた。眉根が寄り、なだらかな額にかすかな歪みが表れる。濡れて少しもつれた髪が額に幾筋かかかっている。胸が、形容し難い感情に疼いた。まともな世界に戻って、気持をはりつめる必要のない部屋で、熱いシャワーでも浴びて彼を抱きしめたい。
「……あんたが生き残っていてくれてよかった」
 低い声と共に吐息が唇に触れた。
「おれもそう思ってたところだ」
 ささやき返す。自分もよくやる。こんな化け物の巣窟で、汗まみれの身体で男とキスしている。しかも彼の全身は、それをかつて経験したことのない甘美なものとして味わっていた。耳の付け根の窪みに唇を落とす。レオンの脈が間近にあった。頸動脈ごと首筋に食いつきたいような衝動が胸をかすめた。それが危険な徴候かどうか、一瞬生真面目に考えた自分が可笑しく思える。欲望というのはとかく似た形になりやすい。どれも不足感からストレスをもたらすのだ。

「噛まれた傷はどうだ?」
 余韻を楽しむ余裕が無いのを残念に思いながら尋ねる。
 レオンの答までは間があった。
「────余り痛まない」
 早口に付け加える。
「まだ何の徴候もない。大丈夫だ」
「とりあえず下に行こう。傷を見せてみろ」
 レオンは妙な顔になった。傷を見られるのが嫌なのかもしれない。或いは自分でもその傷を見たくないのか。
 だがレオンは何も云わずに、クリスと連れだって階段を降り始めた。階段の踊り場から下は、「彼等」の死体で無惨な有様だ。だが、匂いは先刻ほど酷くなかった。感覚が馴れてしまったのかと思っていたが、明らかに腐敗臭が薄れているようだ。死体の表面がかすかに飴色を帯びて解けたようになっている。着弾した傷口が桃色にめくれて脹らみ、粘液で濡れそぼっていた。
「脳を破壊されると急速に分解が進むんじゃないか?」
 レオンが唐突に口に出した。彼も、その数体の死体をじっと見つめていた。この死体はレオンの撃ったものだ。この中の一人が、助けてくれ、と云って死んだのだ。それが、この男に酷く強いインパクトを残したことは知っている。
「余り歓迎出来る未来とも云えないな」
 クリスはそう答えるにとどめた。死体を青白い顔で見つめるレオンをいたましく思う。彼の情緒は酷い死骸にも強く反応しにくい。軍に入る前からそうだった。ある程度以上の事態になると、想像力がストップしてしまうのだ。自己防衛のために他人の痛みに鈍感になるのだろう。その傾向はクリスの役にたったが、それほど気分のいいものでもなかった。自分も死体から目を背け、レオンの腕を掴む。相変らず周囲に物音はなかった。不安を覚えるような静寂が辺りを包んでいた。
 その静寂に故意にひびを入れる気分で管理室のドアを開け、クリスはレオンを中に引きずり込んだ。

 薬品棚の脇に置かれたベッドのふちに腰掛けて、レオンは気の進まない顔でブーツを脱いだ。左足の脹ら脛についた噛み傷は、血が止まって周りがかすかに腫れている。だが、この傷自体は重症には見えなかった。こんな長時間、清潔さとも安息とも無縁の状況で歩き回って、彼の負う傷の状態が悪くないのが不思議だった。レオンに思ったよりもずっと体力があるとすれば僥倖だが、楽天的にはなりきれなかった。ウイルスのデータがすぐに必要だった。
 だが、先ずはレオンを少し休ませなければならない。
 彼を一度ここに置いて行くべきだろうか。
 そう思って、クリスは内心首を振る。
 駄目だ。レオンが大人しくこの部屋で横になって、クリスの帰りを待つとは思えなかった。今度こそはぐれてしまう恐れがある。
 クリスは彼の前に跪き、傷の手当てを始めた。床についた自分の膝の上に、レオンの傷ついた足を乗せる。頭の上から、疲れた浅い息が降ってきた。彼は、自分で手当をするとはもう云い出さなかった。
 傷口を消毒し、半透明の白いステロイドの軟膏を塗る。この薬には抗生物質が入っている。慰め程度には傷口を殺菌することが出来る。
「寄宿舎で何があった?」
 包帯を巻いてやりながら、レオンを見上げる。レオンの頬は部屋の薄暗い照明の下でなおさら削げて見えた。クリスの質問に一瞬頬をひきつらせ、レオンは表情を歪めた。
「具体的に進路を示すようなものはなかった。その鍵以外は」
 吐き出すように、低い声で続けた。
「だが、奴等が悪魔だと云うことは充分に分かった……国をスポンサーにして、あんなものを大量に飼ってるなんて」
 額をてのひらで覆った。
「人間の感染者は勿論いた────だが、それだけじゃない。ビリヤード台の上には毒蜘蛛、水槽には巨人みたいな鮫、一抱えもある蜂の巣、ホールの天井から伸びた巨大な植物────」
 詩を暗唱する学生のように、レオンは寄宿舎で見たものの名前を挙げた。途中から声が低くなる。彼の感じた恐怖心が伝染して、クリスの背中にさっと不快なざわめきが起こった。
「途中で、自分が何を見ているのか分からなくなったよ」
 クリスは沈黙した。
 アークレイ研究所で事故があった、という記録があったのは二ヶ月前だ。それから今までの間に、ここで研究されていたものが、パンドラの箱から飛散した災厄のように、この研究所を埋め尽くしたのだ。その威力が余りに凄まじかった故に、ここを脱出出来た者は殆ど無く、たった数キロ離れているだけのラクーン市が汚染されずに済んでいたのだろう。
(本当に汚染されていないのか?)
 それに気づいて慄然とする。既に近隣の住民が喰われているのだ。或いは見えない場所で、ゆっくりと汚染は始まっているのかもしれない。それは既に市中に到来して、ダウンタウンの閉じたドアの中で、郊外の公園で、屈み込んで何かを貪り食っているかもしれない。
 レオンは疲れた声で続けた。
「一秒でも早く脱出したい気分と、出て行くことへの恐さに、交互にやられてる。頭がおかしくなりそうなんだ。おれは、とんでもないものを街に持ち帰るかもしれない。ウイルスのデータもワクチンも無しに」
 クリスは首を振った。
「データも持ち帰るさ」
「地下研究所とやらに行って探すのか? 直接の研究施設でないここでさえ被害は甚大なんだ。当の研究所の中ではいったい何が起こってると思う?」
 クリスは、レオンの膝を軽く叩いた。レオンの不安が容易にはおさまらないことは分かっていた。包帯を巻き終り、服の裾を下げてやる。
「まず、二十分眠れ」
 レオンは緩慢に首を振った。ベッドの上に投げ出していたライフルを片手で探る。手当の終った足をクリスの膝の上から重い動きで下ろした。
「眠れるわけないだろう」
「とにかく横になるんだ。傍にいてやるから、目を閉じてろよ」
「傍に?」
 レオンは眉をひそめた。苦笑する気力さえ湧いてこないようだった。
「……あんたが傍にいるんじゃ尚更眠れない」
 クリスは、些か不躾なほどまじまじとレオンを眺めた。その視線が触感を伴うものであるように、レオンは腕を上げ、それを避ける仕種を見せた。
「……何故だ?」
 聞き返すと、レオンは眉をひそめた。
「おれに云わせるのか?」
 その場に沈黙が落ちた。だが、一瞬後に、その部屋の壁に掛けられた安物の時計が時を刻んでいるのが聞こえてくる。先刻も大食堂でこんな感覚があったことをクリスは思い出した。時間は容赦なく過ぎて行くが、人間がいつもそれを意識しているとは限らない。時計の秒針が動いて行く音を、無音として捉えることさえある。
 漠然としていた気持が固まって、胸の底に落ちてくる。
 どうしてもレオンをここから連れ出してやりたい。
 それに今は休ませてやりたくもあり────見境なく抱きしめたくもあった。
(いよいよおかしくなって来たな)
 正直に云えば、レオンがどう思っているかはお構い無しというところだった。
「眠らせてやろうか?」
 そろ、と髪を撫でた。乾き始めた金色の前髪の奥から、はっとするような端整なラインを描く目が、クリスを見つめている。
「二十分間?」
 疲れた声が問い返す。だが、今度は、先刻感じたかすかなサイン以上の甘さがそこに含まれていた。掠れた声の余韻の中に、レオンの欲情をようやくはっきりと感じ取れる。お構い無しと云ったところで、欲求が一致するならそれに越したことはない。
「それはお前次第だろうな」
 くたびれた毛布の上に座ったレオンの横に腰掛ける。唇を軽く啄む。非常事態の中でこんなことに体力を使うのは賢明ではなかった。それは分かっているがやめる気になれない。だから自分をおかしくなっていると思うのだ。

「眠らせてやろうか?」
 そう云われた瞬間、身体の中で何かが熱く疼いた。この小さな古ぼけた部屋で、さっきこの男と触れ合ってから、レオンはずっとその熱を隠し持っていたような気がする。この後先ずは地下に行く、と云った男に、単独行動で職員の宿舎を見てくる、と云ったのは自分だった。だが、本当は男と離れ難かった。熱は一度逃げ去ったようでいてどこか頭の奥底にくすぶっていた。
 宿舎を歩き回って、天井から伸びた巨大な花を硫酸弾で灼いた。蜂の巣を焼き払い、鮫を感電死させた。感染者も────何人撃ったかもう分からない。緊張にはりつめるほど、どこかやるせない欲望に侵される感覚があった。熱い身体を押しつけられた感触がよみがえり、恐怖心と一緒にレオンの身体を火照らせた。
 彼は目を上げ、男の目を見つめ返した。ブルーの虹彩の中で瞳が黒く光り、覚えのある濃い色になっていた。アグレッシブな行動に反して、いつもクリスの目は余り感情を顕わさない。怒りを感じているのか、考え込んでいるのか、それともレオン同様に欲望を隠しているのか、なかなか読みとらせない。だが、視覚的にあきらかに濃くなる瞳の色が昂揚を示していた。
「二十分?」
 自分がつまらない返事をしているのが遠く聞こえる。
「お前次第だろうな」
 ベッドの板が重みを受けてかすかにきしんだ。スプリングのない粗末な木製の寝台に、重い身体の男がもう一人座ったからだ。その重みの一部はレオンに流れ着き、熱と共に押し包んだかと思うと、今度は引き潮のエネルギーのように彼の身体を捉えて引き寄せた。
「あんたは、さっきも嫌なら云えと云って、やめなかったじゃないか?」
 云い返すと、クリスは濡れた音をたててレオンにもう一度キスした。
「さっきよりもう少し、双方の協力が必要になりそうだ」
 その声はかすかに笑っている。レオンはゆっくり男の肩に額を押しつけた。すぐにも眠り込んでしまいそうに全身が疲れきっていた。緊張の連続と睡眠不足で、手足は綿のように力が入らなかった。だが、白く皮膜のかかったような疲れの奥で、冷え冷えと醒めているものがあり、その周囲を更に粘液質の欲望に圧迫されている。リラックスしなければ、僅かな休息さえ取ることが出来そうになかった。
 もし自分が、そしてクリスがこの研究所の職員と同じウイルスに罹患したとして、発病するまでどれだけ時間があるだろう。せいぜい数日だ。ここで今過ごしている時間は、その貴重な数十時間の中の幾ばくかを消費することになるのだ。しかし、だからこそこの熱い身体をどうしても引き離せなかった。さっきもそうだった。彼に触れること以外どうでもよくなりそうになる。
 彼は銃のストックにかけていた指を外し、重い腕を上げてクリスのうなじを抱いた。
「協力するよ」
 短く刈り込まれた髪がてのひらを刺激して、皮膚に痺れたような甘さが沸き上がった。云い終るか終らないかのうちに、唇が重なってきた。熱いクリスの身体の中で、唇だけが少し冷たい。
「何だ? この匂い」
 首筋に顔を潜り込ませたクリスがつぶやいた。
「甘い匂いがするな」
 レオンは目を閉じて男の頬のざらついた感触を味わった。
「……花粉だ」
「花粉?」
「花だよ。寄宿舎のホールの天井から伸びてた、化け物みたいな代物だ。……ゴルゴンの髪の先に一本ずつ花が咲いてるところを想像してくれ。こいつも酸を吐くんだ」
 返す言葉がないような、うんざりしたため息が聞こえてくる。
「その酸にまじって、花粉が降ってくる。これはその花粉の香みたいだな」
 クリスは、彼の肩や首筋に指を這わせながら目を凝らしているようだった。
「花粉は無害なのか?」
「分からないが、だから髪を洗ったんだ」
「……ああ、そうか」
 クリスが、彼の髪を撫でつけている。首筋に鼻を近づけた。どうやらそこに香が一番強く残っているようだった。
 大広間を出た後、死体の転がる寄宿舎のバスルームで髪を洗ったが、金色の花粉は自分の髪の色と区別がつかず、落ちたかどうかもはっきり分からなかった。
「……赤い花だった」
 軽い感情的な麻痺を感じながら、レオンはつぶやいた。赤というよりは、乾いた血のような色の花だった。大蛇のような長い蔓の先に、釣り鐘型の巨大な赤い花が咲いている。軟体動物のような首をすぼめた途端、天井から花粉が金のウェーブになって降ってきた。
 レオンは首を振った。
「……いや、その話はいいんだ」
 クリスが自分の表情をいぶかしげに見守っているのが分かる。
「もし────あそこに行く前にあんたに会ってなければ」
 言い淀むと、クリスに促された。
「会ってなければ、何だ?」
 レオンは目を開け、深いため息をついた。
「絶対に生き残ろうって気分にはなれなかったかもしれない。誘惑に負けたかもしれない。銃を下ろしてしまおうっていう誘惑にさ」
 感傷的にならないように云ったつもりだったが、口から出ると、それはうまく行かなかったような気がする。クリスは答えなかった。鼻筋の通ったクリスの顔は、黙って唇を結んでいると親しみやすいとは云えなかった。彼の妹も、美しすぎて少し近寄りがたい雰囲気がある。だが、口をきくとさっぱりした陽気な女で、少し皮肉屋で話し上手で、すぐに人とうち解けてしまう。そういうところも兄とよく似ている。
 いつから、クリスがクレアに似ているのではなく、クレアがその兄に似ているという風に考えるようになったのだろう。少なくとも、アークレイ研究所に来る前でないのは確かだった。
 彼は、体内にため込んだストレスを逃がそうと、もう一度大きく息を吐き出した。
「こんなことを云うのも今更かもしれないが……一緒にここを出たい。自分一人で助かっても意味がない。クリス、これは仲間を見捨てられないなんて気持とは少し違う。どうしてもあんたに助かって欲しいんだ」
 クリスは呆気に取られたような顔になった。男が何をそんなに驚いているのか、レオンには分からない。
「何故そんな顔をするんだ?」
「……いや」
 クリスは首を振った。背中に腕を巻き付けられ、強く抱き寄せられた。
「お前はたいした男だ」
「……どういう意味だよ」
 それにもクリスは答えない。男の言葉の意味をはかりかねている内に、唇をふさがれる。レオンはこわばっていた身体の力を抜いて、クリスにそろそろと身を委ねた。何か回答を得ようとして云った言葉ではない。クリスがどう思っていても構わない。
 自分にキスする相手を支えるのではなく、もたれかかるというのは不思議な感覚だった。柔らかい弾力のある身体を胸に抱くのではなく、堅い身体に抱きしめられている。自分の身体は、目の前の男よりは幾らか細身だが、やはり固い骨と筋肉の感触を相手に伝えているだろう。
 ここに来てから何度目か分からないクリスとのキスだった。
 すくい取るようにからめ取られ、舌をじっくりと責められた。舌先や、付け根に近い奥が弱いのを知られているのだ。痺れるような感覚に擽られて、頭の芯が、染み出してきた昂奮でいっぱいになる。
 差し出した舌を吸い込まれ、歯まで使って刺激される。開いた口の中に、クリスの舌がゆっくりと押し入ってくる。口蓋や舌をなめ回されて、思わず背中が浮き上がった。男とキスしている違和感は、かたくななエナメル質に易々と噛み千切られてしまう。
「……ン、……」
 濃厚なキスに集中している時、服の上から前の脹らみに触れられた。自分がまた、キスだけで立ちあがりかけているのを知って、多少の羞恥と、そして覚えのあるやるせない欲望がこみ上げてきた。男の大きなてのひらの下で、そこは率直に熱くなり始めていた。布の上から軽く引っ掻くように、敏感な部分に爪がたてられた。
「……あ」
 ふさがれた唇の中で短い叫びを漏らす。甘い刺激が放射状に腰から背中に広がる。
 自分の興奮の度合いを一方的に楽しまれているようで、レオンはもどかしい気分になった。クリスの腕にかけていた手を下へ伸ばして、堅い腹に滑り込ませた。クリスの下腹も少し震える。獰猛なほどの熱と硬さが指に触れ、クリスも昂奮していることをレオンに教えた。
 座ったままキスしていた背中を、ベッドの上に押しつけられる。
 折り曲げた膝から下をベッドの外に投げ出したレオンに覆い被さって、クリスは改めて深くくちづけた。上から唇をふさがれると、その行為自体が交接であることを実感した。
 クリスのてのひらは、唇を合わせながら、膝からその奥までを漠然と往復していた。指先が太腿の上を動くたび、不可解な痺れが走ってレオンの背中を震わせた。
「……なあ」
 片膝で、組み敷いたレオンの両脚を割りながら、クリスはささやいた。
「こんな時に、頭がおかしいと思われても仕方ない」
 腰の熱を押しつける。 
「……お前の中に入れたいんだ」
 キスで濡れた唇を、髪に、こめかみに押しつけられる。
「無茶苦茶しちまいそうだ」
 その言葉を聞いた瞬間、レオンは背中が跳ねそうな程感じた。
「嫌か?────つらいか?」
「そんなの……やってみなけりゃ、分からない」
 声が益々掠れる。あえぐような答えになった。これを否定と取られる筈がないことを、レオンは分かっていた。
「協力するって云っただろ……?」
 つけ加える。
「だけど、無茶苦茶にされるのは困る……」
「自信がない」
 男の声は、彼と同様に変調をきたしている。クリスは余りにも易々と自分のペースを保ち、自由に振舞う男だ。好奇心や同情から手を伸ばされることはあっても、クリスが自分のために自己コントロール出来なくなる事があるとは、レオンは思っていなかったのだった。男の欲望に威嚇されて怯む。だが、彼が自分に感じていることを思うと興奮もした。
 部屋の外で何か気配がしないか、どこかで神経をはりつめながら、二人は服を脱いだ。その間離れているのがもの足りずに、何度も唇を押しつけ合う。過剰な装飾のように武器を下げたホルスターやベルトをもぎ取り、クリスはシャツを脱ぎ捨てた。電球形蛍光灯の、さほど明るいとは云えない灯の下でも、自分に屈み込んだ男の両肩が腫れているのがレオンの目に映った。先刻はクリスはシャツを脱がなかったのだ。
「……随分腫れてるな。……痛まないか?」
 腰のベルトを緩めていたクリスの視線が上がった。彼は僅かに口角を上げ、唇を舐めた。
「今は感じない」
 それを証明するように、荒い仕種で手が伸びてくる。シャツを荒っぽくたくしあげられた。胸に舌が絡まり、尖った部分をしゃぶられる。引き上げられるように強く吸われ、歯や舌が動く度に、そこは敏感になるようだった。
 もう片方に移った唇に置いてゆかれて、濡れた突起が空気に撫でられた。その上からそっと指でつまみ上げられた。
「……あっ……」
 上擦った声が漏れる。微弱な電流の流れるポイントが発生したようだった。腰に、背中に甘い熱がぴりぴりと通り抜けた。レオンは手のやり場を探して、男の髪を掴んだ。微かに湿っていた硬い髪はもうすっかり乾いている。
「さっきより敏感になってるな」
 胸元で囁かれる。息が触れる感触が、過敏になった部分にはつらいと云っていいほどだった。
「……気分のせいだ」
 喘ぎをこらえてそう返すと、胸の皮膚に触れた男の睫毛が、戸惑ったように数回瞬きした。
「嬉しいことを云ってくれるじゃないか。────最後にサービスしてやろうとか思ってるんじゃないだろうな」
「……そんな余裕あるもんか」
 胸の上を擽っていた髪はそのまま肌の上を滑り落ちた。ジッパーを下げた服を、大きなてのひらが引き下ろす。刺激に締まった腹を、斜めに走る腰骨を、かさつくてのひらがゆっくりと撫でた。やや薄い体毛に包まれた下腹に顎が触れ、その後から指と息が追ってきた。
「……っ」
 そこに唇で触れられることに抵抗を感じて、彼は思わず男の頭を押しのけようとした。だが、クリスは離そうとせず、逆に両腿の内側にてのひらを差し入れた。ただ前を刺激し合うだけなら必要の無いほど脚を押し広げられる。硬く成長しかけた性器や、皮膚の薄い付け根、人目に晒すことのない奥まった部分を空気が撫でた。
 擦りつけるようにしてクリスが下腹に顔を埋めた途端、耐えられずに先端が潤んだ。広い肩の下で脚を開いたまま、思わず見おろすと、赤く色づいた自分のそれと、濡れた男の舌が触れ合う瞬間が目に入った。舌にくるまれ、唇の中に呑み込まれる。
 レオンは、息を殺して顔を背けた。自分とクリスの汗の匂いがする。そして、汗の匂いの合間に、クリスの云った通り、濃厚な花粉の香がたちのぼってきた。蠕動する悪の華の香は、改良種の、真っ白な大ぶりの百合の花の香に似ていた。頭の芯までくらくらと痺れそうだ。
 一番敏感な部分のふちに、柔らかく吸引する力が加わった。舌と唇で締め付けられている部分から甘い切迫感が沸き上がってくる。彼の脚を押さえていた手が、そろりと腿の奥をなぞり、指先で熱く張り切った付け根の上をなぞり始めた。
「……っ、クリス……」
 彼は肩を捩った。
「一方的だ……」
 返事はない。敏感な部分に尚いっそう淫猥な刺激が加わっただけだった。彼は身体を震わせながら肘をついて身体を起こした。喘ぎをかみ殺して背中を折り曲げ、クリスの腰に手をかける。
(「……お前の中に入れたいんだ」)
(「無茶苦茶しちまいそうだ────」)
 あの言葉を思い出すと、まだ背中が痺れて来そうだった。てのひらの中の質感と、銜えられた腰からの熱で頭が霞む。男の器官に唇で触れることにも、興奮のせいか余り抵抗を感じなかった。自分を包んで吸う舌の弾力にのぼせそうになりながら、彼もクリスを唇の内側に受け入れた。
 むせるほどの大きさと共に男の味が広がった。
 中途半端に身体を折った姿勢で、切れ切れに息を継ぎながら、頬の内側で男を締め付ける。クリスの腹がふっと削げて汗がにじみ出してくる。それが自分の中に入ることを想像すると、不快感に似た、苦しい陶酔がこみ上げてきた。クリスが云い出す前から、彼はそれを予期して身体を疼かせていたような気がした。
 不意に膝を掴まれて引き上げられる。ねじっていた背中が浮き、彼は、ベッドの上にあおのいたクリスの顔の上で膝を開かれた。上下を入れ替えて腰を上げ、俯せに男の腰に顔を埋める姿勢になる。抑えていた羞恥心がこみ上げてきて、手足が少し震えた。
 身体の下から舌の鳴る濡れた音が響いて、彼は再びクリスの口の中に捉えられた。
「……ン、うっ……」
 逆さにクリスの上に伏せた腰を片手で掴まれる。もう一方の手が、そろそろと背中を撫でさすっていた。舌で責められながら、背筋をゆっくりと指が滑る度に、こらえられない甘い刺激が突き上げた。ぼうっと顔が火照る。クリスに与えられる感覚を返そうと、甘く痺れた顎を開いた。
 半ば朦朧としながら唇を往復させている内に、下腹を包んでいたなま温かい刺激が離れた。代わりに、腰の丸みの上をてのひらが動き始める。薄い筋肉を緩く揉みしだかれ、押し広げられた。繰返し刺激された付け根の奥に指が滑り込む。堅く引き締まった部分の形を確かめるように、指が円く撫でた。
 触れられると、そこは尚更緊張して、奥に絞り込むように堅く締まる。レオンは、口に含んでいたクリスを抜き出した。歯をたててしまいそうだった。
 思案するようにそこを撫でていた手が離れ、クリスがベッドサイドで何かを探し始めたようだった。やがて、金属と濡れたプラスティックが接触する粘液質の音が聞こえ、身体の奥に濡れた冷たい感触があった。
 レオンの脚の傷口に塗った、抗生物質の入った薬品だった。
 油性のクリームと同じような感触だ。なめらかな感触を与えられた途端、そこは拒む力を無くして、ぬるりとクリスの指を迎え入れた。
「……っ」
 膝を開いて男の上に這ったまま、レオンは身体を動かすこともままならなくなった。幾ら湿度を与えられても熱い痛みがある。指で貫かれたまま、息を殺して喘ぐ。薬の油分を借りて、指が繰返し浅く出し入れされた。喉に何か硬いものを通されたような感覚がこみ上げてきて、彼の呼吸を滞らせた。
 辛抱強く動き続ける指が中をぐるりと探り、小さく曲がって一カ所で止まった。内部を軽く押されて、レオンは再び電流を流されたようにすくみあがった。胸に触れられた時のような甘い小さな刺激ではなく、強引にあふれ出してくる、一気に周囲を充血させるような電流だった。内部でこごった小さな器官と指先が出逢ったのだ。唇から離されて僅かにおさまった熱が、抵抗しようもなく立ちあがってくる。
「んん、あっ……」
 そこを擦られると、異様な痺れが沸き上がった。その痺れは性器までつながり、全体が熱く硬くなった。
 彼は声を殺しきれず、クリスの厚みのある太腿に額を押しつけた。強く汗の匂いがたちのぼってきた。腕の力が抜け、腰を上げたままで、男の頑丈な下肢に胸や肩を預けてしまう。クリスの身体にあたった胸の上で、突起がはりつめて尖っている。身体の中の指が刺激をもたらすにつれて、そこも皮膚を剥がれたように鋭敏になるようだった。
 クリスも、先刻互いに指で触れた時より一際重さを増していた。指でこれだけ一杯になっているように思うのに、これを受け入れられるだろうか。息を乱しながら、もう一度唇を近づける。驚くほど熱くなった部分を口に含んで、膨らんだ部分に舌を這わせる。もう深く呑み込む余裕はなかった。
 指は温く溶け出した薬品と共に、繰り返してレオンの内部を往き来している。何度か冷たい感触があり、薬が足されたようだった。刺激に耐えかねて指をしめつけると、その度に身体中がこわばるような激しい快感があった。射精しないでいるのが不思議な程だった。快感の波が押し寄せる度にレオンは動けなくなり、指が逸れるとぎごちなく唇の愛撫を再開する。それを繰り返している内に、クリスのてのひらが伸びてきて、顔を押しのけられた。男の息も走った後のように乱れていた。熱を残して指が抜かれた。
「もういい。……顔見せろよ」
 肩を掴んで引き戻され、元のようにベッドに仰向けに押しつけられた。濡れた唇を乱暴に拭われる。
 クリスは、自分の身体の重みをかけ、膝とてのひらを使って、レオンの脚を胸につきそうなほど深く折り曲げた。酷い格好だが、そんなことはもうどうでもよかった。
 上り詰められないでいる部分は流れ落ちるほど濡れ、かき回されて開いた身体の奥と一緒に強く脈打っている。
「どんな顔してるか分かるか? 今……」
 昂った調子の声に首を振る。自分の身体をコントロール出来ないことへの、不安感に似たものがこみあげてくる。髪に染みついた花粉の香は、汗の匂いに紛れて消えるどころか、ますます強くなり、レオンの感覚を酩酊させた。片足を左の肩で押し上げたまま、クリスはもう一度彼の中に指を滑り込ませた。圧迫感と痛みが増して、指が二本入ってきたのが分かる。指はすぐに先刻見つけた内側の疼きを探し当て、そっと擦り始めた。
「あっ……あ、っ」
 長い指を繰り返して根元まで突き入れられると、唇が叫びに破られた。
「あ、あ、……っ、ンン、……」
 嘗て一度も自分の唇から出ていったことのない、鼻にかかった甘い呻きが漏れ出す。脚にあたったクリスは、その声を聞いてなお硬くなったようだった。探るように何度か突き入れた後、指を引き抜いた。汗に濡れて胸をあえがせている彼の脚の間に腰を割り込ませると、完全に高まった自分自身をあてがう。それは、凶器と云って云い過ぎではない感触だった。
 どうしようもなく高まり、熱くなった身体でなければとても耐えられなかった筈だ。
 身体を押し広げられた瞬間、レオンは声にならない叫びを上げ、クリスの肩を掴んだ。男の肩の腫れにも構わず、爪で掻きむしりたい衝動に駆られる。痛みと奇妙な陶酔感、押し破られそうな圧迫感があった。突然、涙腺から熱いものがあふれ出してくる。
「相当キツいな……」
 男のつぶやきにレオンは目を開けた。涙で視界が曇っているが、拭うために手を上げるだけのことが出来なかった。痛みと強烈な快感が自分の中で同居する状態を初めて味わって、ただ身体を強ばらせて耐えるしかない。クリスが押し進んでくる動きを一度止めるまで、永遠の時間が経ったように思えた。
「……よくない、んじゃないか……?」
 乾いてかさつく唇でそうささやくと、クリスは驚いたように彼を見おろした。額から汗が一滴したたり落ちて、目の中に流れ落ちるのを振り払った。
「これでも?」
 掠れた声と共に小さく一度突上げられて、その熱さにレオンは身体を震わせて喘いだ。苦痛と汗を、徐々に快感が蝕み始める。彼はきつく目を閉じた。涙が流れ落ちる。頬の上を汗ばんだ指がそっとぬぐう感触がある。
「……お前は?」
 低い声が聞こえてきたが、今度は更に深く突かれて、レオンは答えられなかった。


 プラント42。あの植物がそう名付けられているのは知っていた。研究課程をしるしたデータがあったからだ。最初レオンは、プラント42についての記述を、さほど重要なものだとは思っていなかった。アンブレラの研究するB.O.W.────Bio Organic Weapon────のデータは、些末なものしか入手していないのにも拘らず膨大だった。「ハンター」や「ケルベロス」、(あの犬にはそんな名が与えられていた)変種体のウイルスの感染者の報告に気を取られていたのだ。プラント42という素っ気ない名や、洋館の一室にはびこっていた不気味な植物の姿から、その姿を漠然と思い浮かべたが、それほど警戒が必要だとは想像していなかった。
 宿舎のホールの一階のドアを開けた時、その部屋は、むせかえるような甘い香で充満していた。強烈な香気が、足許に逆巻く甘い雲になって、廊下にまで流出してくる。ホールに並べられていた椅子やテーブルは倒れ、大窓と天井が何か長いものに覆い尽くされて、部屋は暗かった。
 最初、レオンは窓を見ていた。窓や壁に這った土色のものの正体を見極めようとした。それが、部屋一杯にはびこった、太い植物の根であるのに気づいた瞬間、頭上をかすめて、激しく壁にぶつかって行ったものがあった。
 不快な、粘つく音をたてて植物の根がざわめいた。レオンがたった今入ってきたドアの横に這っていた根が動いて、扉の前に垂れ下がった。再び彼のすぐ横を細長いものがかすめてゆく。
 透明な液体が降り注ぐのを、彼はかろうじてよけた。
 床が酸性の刺激臭と共に焦げ、上方で伸び縮みする影から、甘い香のする金色の粉が降ってきた。かすかに見える窓の外は嵐と暗闇に包まれている。廊下から入ってくる灯の形に区切られた、いびつな明るい四角形のなかに、酸の飛沫と花粉が輝いた。
 レオンは、強張る腕に銃を握りしめ、ホールの暗い天井に目を凝らした。そこには激しく伸び縮みし、うねりながら開閉を繰り返すものがあった。壁にぎっしりと這った根は上方に収束して、その中心から、巨大な袋のようなものが下がっていた。それは、このホールの天井を飾り、柔らかくうねる生きたシャンデリアのようだった。
 激しく伸び縮みする様子は、植物というよりは巨大な頭足類のようだ。その中心部から生えた、直径数十センチはある蛇のような蔓は、先端に大きな花を咲かせていた。
 眩暈のするようなこの甘い香の源だ。この屋敷でお目にかかったものの中で、多少なりとも快感のセンサーに触れる匂いをさせているものは初めてだった。酸の刺激臭と混じって、砂金のように輝く甘い香の花粉は、逆に、吐き気のするインパクトだった。
 彼をどうやって認識しているのか、すぐ横の床に花蔓が叩き付けられる。攻撃の意思があるのか、動くものを反射的に捉えようとする性質があるのか分からなかった。
 生き物の肉を食うのだろうか。蔓で捉え、あの頭部に運んで、酸で溶かして喰う。充分にあり得そうだった。
 食虫植物の溶解液に落ち込んだ虫のように、奴の体液で溶かされるのは御免だ。
 ようやく動くようになった足で、倒れたテーブルの影に駆け込む。焦る指でランチャーに硫酸弾を装填した。彼はこの武器を殆ど使った経験がないのだ。これは彼が持参したものではなく、館の悪意ある備品の一つだった。
 根元か、天井から膨らんだ頭状の部分を撃たなければならないだろう。相当な飛距離になる。彼はテーブルの影を抜け出し、ホールの二階回廊につながった階段を駆け上がった。音に反応するのか、にわかに蔓の動きが活発になり、彼の通り抜けた後を、鞭のように打ち据えてはたわみ、激しく酸を吐いた。
 階段の上は益々甘い香が強くなり、心なしか空気が薄く感じられた。
 レオンは、激しくうねりながら追って来る蔓の間をかいくぐって、中心部が視認出来る位置まで飛び込んでいった。植物の身体に殆ど隠れて見えないが、天井に小さなライトが一つ生き残っている。プラント42の巨大な体はその白いライトに照らされ、ぬめりを帯びて輝いている。あたりには花のまき散らす花粉がたちこめて金色のもやがかかっていた。吸い込まないようにしても、どうしても花粉は、器官に、肺に入り込んでくる。目の前に垂れ下がってくる自分の前髪の先にも、金色の粉が付着してきらきら輝いているのが目に入った。
 この甘い香は何のためのものだろう。
 足許が少しふらつくのは酸の刺激臭で息が詰まるせいもあるが、この香も作用しているのかもしれない。今にも足が萎えて膝をついてしまいそうだった。
 獲物を誘い込んで捕らえるための、麻酔的な成分を含んでいるのではないか。
 彼は、紗がかかったような視界の中で、粘液に濡れながら蠢く、このホールの支配者の姿を見つめた。蛇のような首を打ち振る、巨大な赤い花を間近に見た瞬間の、どうしようもない疲れと無気力感を、どう表現すればいいのか分からない。それは奇妙に甘美な色合いを帯びた、絶望感に近いものだった。
 紛れもない悪意に起因した人間の好奇心が、それを作ったのだ。
 悪夢と現実の境目に存在するような花だった。
 いったい何故、こんな人間の手に負えないようなものを作ろうとするのだ。
 ここに入ってきて、何度考えたのか分からないことを思う。
 クレイウィルスε変種体で脳を侵された人間。ホオジロザメにウイルスを投与して作られたネプチューン、金色の羽根のうなり声で一室を埋めたワスプ。同族の世界を侵すための兵器として隔離培養されるフィロ・ウイルス。絶えず強力な新発見のために科学者たちは地下に潜って実験を繰り返す。そして致命的な汚染が訪れる。
 何故人間はこれほどまで自他を殺戮する技術への情熱を失わないのだろうか。
 花粉の甘い香が頭の芯まで染み通ってくる。手足が酷く重くなってきた。視界がぼんやりと暗くなり、ひくつきながら開閉する赤い花で一杯になった。
 唐突に、目前で蠕動する植物に感じていた嫌悪感が薄れた。
 思考力ががくんと落ちる。ディスクの回転が狂ったような感覚だった。浮遊感に似た、不愉快な感覚のすり替えが起こり、彼は、人類の害意から生まれた、醜悪なその花を美しいとさえ思った。
 これに罪があるわけではない。
「これ」には何の咎もない。
 そればかりか、醜い人間の悪意の中から生まれながら、まがまがしい生命力を備え、花と毒で武装した姿は、雄々しく美しいとさえ云えるほどだ。
 レオンの胸の中に奇妙な疑問がひらめいた。
 おれがここで銃を取って、これに立ち向かうことは、整合性のあることなのか?
 むしろ、ここまで成長した新生の生物の連鎖の中に取り込まれることこそが、汚染と自死に向かってひた走る種族の本能として、正常なのではないか────?
 光りながら波打つプラント42の姿が目に甘く灼きつき、その中に身を投じることへのゆるやかな欲望が沸き上がってくる。
 銃を持っていることが殆ど苦痛に思えるほど、手に力が入らなくなった。彼の敵意が薄れたことに気づいたように、花をつけた蔓の動きは緩慢になり、凪いだ海のようになった。彼の周囲をとりかこむように静かに波打ち、酸を吐く勢いが弱まった。代わりに、どっとあふれ出すほど大量の花粉が吐き出された。霞んでいた視界は更に沈み、ダウン系のドラッグを摂取したような、おだやかな感情の麻痺が訪れた。朦朧とした気分の底では、身体の芯に痺れをもたらす、柔らかな欲望が疼いている。何とも云えない奇妙な気分だった。
 誘うように花芯を開いてゆらめく植物の赤い内部を目にした時、ふと、フラッシュを焚くように脳裏をよぎったものがあった。
(「────感染したかどうかも分からないウイルスを楯にとって、おれに出て行けというつもりか?」)
 先ずは、青く冷たく光る瞳が浮かび、次いで、静かだがエネルギーに溢れた男の声が甦る。
(「絶対ここを出て、奴らに一泡吹かせてやる」)
 何故その時、突然彼を思い出したのかは分からない。
 レオンの中に燻っている欲望と、彼がひそかにリンクしているせいかもしれない。
 催眠術のように甘く引き込む目前の光景から逃れるためには、別の誘引力に意識を委ねる必要がある。だとすれば、今はクリス以上の相手は考えられなかった。熱い指で腕を引き寄せ、ウイルスに感染したかも知れないレオンにキスした大莫迦野郎だ。
 彼がいれば、こんな人間の自殺願望を詰め込んだような場所からも、出てゆくことが出来そうに思える。
 失速しかけていた心臓がにわかに激しく打ち始める。急速に血圧が下がった身体がふっと温かくなり、手足に血液が流れこんで来たのを知った。
 自分が今にも前にのめりこみそうに階段の縁に立っていたことに気づく。
 疲れのせいか、この花の香のせいかははっきり分からないが、どうやら自失しかけたようだった。
 少しでも誘惑する香を閉め出すために息を止める。
 そして彼は、天井の奇怪な花に向かって、ここを出れば決して使うことはないだろう、強烈な殺戮兵器の引き金を引いた。


 表情から苦痛が薄れたことを確かめて、両膝の裏をてのひらで支え、大きく開かせた。レオンの頬に、汗で金色の髪がはりついている。薄く開いた唇の奥にかすかに舌が覗き、唇の乾きを舐め取った。クリスを受け入れた時は苦しそうだった呼吸が、甘い悲鳴のまじった喘ぎに変っていた。
 クリスも、きつく締められて敏感になってはいるが、昂奮が行き過ぎて、妙に長引きそうだった。レオンを余り苛みたくはない。だが、この時間を長く保たせたいと思っているのも本音だった。
 緩く腰を動かしながら、耳朶のやわらかい部分や首筋を吸った。遠慮無しに痕を残す。この場所で他人の目をはばかることに、そう意味があるとは思えなかった。
 首の付け根を舌で探ると、レオンの内側がきつく締まった。男にしては感じやすい身体だと思った。尤も、こんな風に抱かれて撫で回されていれば、感覚も普段と違ってくるだろう。
 S.T.A.R.S のオフィスで、レオンが、コーヒーのマグを傍らに置いて銃のカスタマイズ・パーツをいじっている姿を時々見かけた。女性警察官の時計を修理してやっていたこともある。手先が器用なのだ。射撃の腕は並はずれている。頭もいい。だが、エリート然とした洒落た外観に反して、レオンは特に要領のいいタイプではないらしかった。赴任の日、女との別れ話がこじれて大幅に遅刻をしたという噂も聞いた。そのせいかどうか、この街に来てから、特定の相手がいるという話は聞かない。警察署の女連中も、若いレオンを気の置けない友人のように扱っていた。クリスの知っているレオン・ケネディは、少しマイペースで女性に優しい、概ね普通の男だった。
 もし自分がレオンをこんな風に抱いているのを知ったら、S.T.A.R.S の連中はどう思うだろう。
 S.T.A.R.S の連中。
 この洋館の内外で結局何人死んだのだろう。ジョセフが死んだ。ジルとバリーの行方は分からない。華麗な美貌を持ったジルは、クリスが機会があれば口説きたいと思っていた、まばゆいような女だった。隊長の生死も不明だ。ブラヴォチームも何人生き残っているか分からなかった。博識だったケネスや、何度酒を飲みに行ったか分からないフォレストも死んだ。経験豊かな、円熟したブラヴォチームの隊長は、この研究所の中で脱出への道を見出しただろうか。それほど長い付き合いではないが、S.T.A.R.S のメンバーは、頭の切れる面白い奴ばかりだった。
 クリスは胸の中の痛みをやり過ごした。仲間の死体をまともに弔ってやれない苦痛を呑み込む。
 今、自分が抱いている若い男も、同じ苦痛を抱えている筈だった。だがレオンは何も云わない。ただ、青ざめた顔で必死になるだけだ。
 腰を使いながら、引き締まった身体を撫でてやる。薄く盛り上がった胸筋の上は、霧を吹いたように汗で濡れていた。尖った部分を指でつつくと、顔を背けたレオンの目許に血の気が差した。
 茂みの奥に指を這いこませ、そのまま奥に触れる。腰を押し開くと、結合部が真っ赤に充血しているのが見えた。出血している様子はない。一応怪我だけはさせないように気をつけたつもりだ。
「……うっ……」
 彼を受け入れて、薄く敏感に張った部分に指を軽く滑らせると、レオンは唇を噛んで、上擦った声を殺す。まだ彼の理性は充分に生きているようだった。自制が不可能なほど責めてやりたかったが、それでは本当に彼を壊してしまいそうだ。少し眠らせるだけでは済まなくなってしまう。
 深く、浅く突いて、指で探ったときと同様に、レオンが快感を感じる角度を探す。
 シーツの上で項が不安定に泳いだ。身体の脇に投げ出していた腕が上がり、顔を隠すようにレオンは口元を覆った。また息づかいが隠されて聞こえなくなった。
 レオンは隠そうとする。自分が暴こうとする。今日、自分たちの間で何度そんなことが繰り返されただろう。そう思いながら、クリスは懲りずに彼の腕を取りのけた。汗ばんだ腕にかすかに赤い歯形がついている。
「見るな……」
 レオンは喉に絡んだ声でつぶやいた。今にも堰を切りそうなほど目が潤んでいた。色白の皮膚が上気して、目元から頬にかけて薔薇色の血を透かしていた。
 レオンが感じたことをクリスが自分に絡みつく彼の反応で知るように、レオンもクリスの昂奮を体内で感じている筈だった。濡れた青い目を覗き込んだ瞬間、クリスは自ら痛むほど硬くなり、やっと馴染み始めたレオンの中を更に強く押し広げた。
「……クリス……」
 レオンは不規則な息に肩を喘がせながら、彼のうなじを引き寄せた。
「もう、……駄目だ……」
「我慢しろよ」
 耳の中に舌を差し込む。クリスを包んだ身体の内部も、シーツの上に投げ出された身体も、さざ波が立つように震えた。
「……無理だ……」
 語尾を浚うように突き上げた。腰を回し、軽く引き抜くと、レオンの感じる部分にクリスの先端があたったようだった。
「……ア!」
 跳ねるように顎を反らしてレオンは声を上げた。
 繰り返してそこを刺激する。
「……あ、あっ、あ、クリス……!」
 レオンは身もだえて、何度か髪を左右に打ち振った。敏感な部分を擦りながら抜き差しを繰り返す。レオンは身体を硬く強ばらせ、爪先をつっぱるようにした。腹の上に取り残された性器から少量の白いぬめりがあふれ出す。動けなくなるほど強く締め付けられた。胸が激しく上下して、痙攣が起きる。上り詰めたように見えたが、射精してはいなかった。
「……っ、どうして……」
 甘く上擦った声が飛び出した。
 一度弛緩しかけたレオンは、また緊張に襲われて身体を硬直させる。
「あ、っ……嫌、だっ……」
 顔を真っ赤に染めたまま喘いだ。そっと腰を使って中を擦ってやると、また繰り返して、同じような痙攣がレオンを襲った。直接刺激しないせいで達することが出来ないでいるのだ。
 額にはりついた髪をかき上げてやり、クリスは追いつめられたレオンの性器を握ってやった。火のように熱い息を吐いて、レオンは彼を抱き締めた。喉声を漏らしながらクリスの腰に長い足を絡め、腰を押しつけてくる。
 一度深く突上げた動きと、快感が上昇するタイミングが重なったようだった。
「……!」
 レオンは逃げるように背筋をねじり、クリスのてのひらの中ではじけた。散々焦らされた体液があふれ出す。先刻一度出しているせいか、量はそれほど多くなかった。中が波打つように動き、クリスは、自分自身の体液とレオンの内部に絡め取られ、締め付けられた。急激に息が上がり、体温が外に向かって吹きこぼれる感覚があった。彼は、レオンの震える身体の中から自分を抜いた。てのひらを伝って、白い腹の上に体液がこぼれ落ちる。びっしょりと汗をかいたレオンは、シーツの上でかすかに身体を丸めた。波打っていた胸が急速に静まるのが目に入る。
 クリスは、ようやく弛緩を許された男の顔を見おろした。
 すぐには息が調わないようだ。濡れた睫毛が何度か瞬きし、レオンは疲れたようにクリスを見つめ返す。
 嗄れた声がつぶやいた。
「……あんたは、意地が悪い……」
 それはまだ喘ぎに近かった。
「心外だな。……いったいどこが?」
 少し骨張った肩を引き寄せ、汗と涙に濡れた頬に荒っぽくくちづけた。
 レオンは、息だけで微かに笑ったようだった。


 壁に背をつけた椅子にかけて、クリスはドアを見つめていた。
 静かな寝息が聞こえてくる。部屋の洗面台の水で身仕舞いをした後、レオンは数分しない内に眠り込んだ。
(「必ず三十分たったら起こしてくれ」)
 真っ赤な目をしてそう念を押されて、クリスは肯いたが、もう少し寝かせておくつもりだった。三十余時間歩き回った後、受け身に徹して男と寝たのだ。数十分の睡眠で回復する状態ではない筈だった。
 疲労が溜まったとき、身体が深く眠る前の二、三十分で睡眠時間を抑え、脳だけを休ませるのはよくあることだ。だが、今は一度深く眠った方がいい。レオンは、クリスの調達した携帯食も殆ど口にしなかった。疲労のせいで胃が受け付けない様子だった。
 身体を拭いた後乾いた服を着け、上からホルスターを着け直そうとするのをクリスは止めた。
(「おれは絶対にこの部屋を出ない。短時間でもリラックスして眠れよ」)
 レオンは迷ったようだが、結局クリスの言葉に従った。ホルスターやベルトを着けずに、枕元に置いた銃に軽く手をかけて眠っている。
 その彼の寝顔を見ながら、クリスは壁際の椅子に座っていた。
 彼はレオンほど長時間ここにいたわけではなく、この作戦の前にも充分眠っている。眠らなくてもこうして座っているだけで充分に回復出来る筈だった。それに彼は五十時間程度なら苦もなく起きていられるのだ。
 ただ黙って待っていることへの焦りがないわけではないが、待つことそのものもそれほど苦手ではない。何時間でもタイミングが訪れるまで息をひそめて待つことにかけて、クリスは、その気になれば陸軍並みの忍耐力を発揮することも出来た。それは彼の本来の性質とはかけ離れているが、訓練で後天的に身につけたものだ。
 夏でよかった。薄い毛布の下で、寝返り一つうたずに眠るレオンの姿を見て、つくづくとそう思う。この蒸し暑さも体力を奪うが、トリガーにかける指がかじかむよりはマシだった。
 一階の廊下には生き物が動く気配はなかった。感染者の独特な足音も聞こえなかった。胸の悪くなる事実だが、おそらくこのあたりにいる者は殺し尽してしまったのだろう。だが、上階を重い、大きな身体のものが歩いている気配が天井を通してかすかに感じられた。おそらく二階に「ハンター」がいるのだ。自分の顔の間近で噛み合わさった歯列を思い出して、背中がそそけだった。
(あれを三匹殺ったと云ってたか?)
 天井に向かって嘆息する。レオンは精度の低いオートショットガンも、軍用ライフルも自在に使いこなす腕前を持っていた。射程距離の長い強力な銃を持っていたからこそ、あの化け物に立ち向かうことが出来たのかも知れないが、並はずれた精神力だと云うしかない。多くは云いたがらないが、寄宿舎でも楽しからぬものを見てきたようだ。彼が何を見たのかは、後でディスクのデータで確かめられるだろう。
 Bチームの甘い美貌の新入りが、これほど強いとは思ってもみなかった。半ば俯せてベッドに横たわった姿はすらりと細く、クリスの目から見て極めて頼もしいとは云い難かった。だが、この洋館に入ってから数十時間、数種類の銃を帯びて単独で探索し、戦い抜いてきたのだ。
(「────どうしてもあんたに助かって欲しいんだ」)
 再会したレオンは、青ざめた唇ではっきりとそう云った。
 彼の姿が目に甘くうつる理由は、ここを出て考えればいい。そう思っていたクリスに、レオンの言葉は妙に胸にこたえた。常々、逼迫した感情は全て後回しにする自分に恥じ入った。それまでは、どこかレオンに対して優位に立っているような錯覚を感じていたことは否めない。だが、あの言葉を聞いた瞬間クリスは完全に、この年下の男に負けた、と思ったのだ。
 傷を負いながら一人でここを歩く意地、持続する戦闘と殺戮に耐える気力。それに加えて、この緊張の中で自分の感情に向き合う柔軟さがまぶしく思えた。
 彼がここで何を見たのか、また何を思ったのかをすっかり尋ねたかった。余分なことを云いたがらない頑固な唇を開かせて、もっと多くの感情を引きずり出したい。
 だが、今は何よりもこの眠りが優先されるべきだ。
 クリスは銃を傍らに腕を組んで、彼が目覚めるまで待つ姿勢になった。
 ふと、肩の痛みを殆ど感じなくなっていることに気づく。腫れが単に和らいだのか、他に原因があるのか、或いは高揚のためなのかは分からない。
 最後の理由だったとしても驚かない。
 部屋の外の敵の気配に耳を澄ませ、同時に静かな寝息を聞きながらクリスはそう思った。


END

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