デジモンアドベンチャー02・大輔×タケル。
原作終了三年くらい後で二人は中二くらい。
01:「あと1センチ」
大輔が、昇降口から屋上に出た瞬間、見渡す限りの薄曇りだった空の一カ所が突然裂けた。そこから、金色のカーテンのように光が下りてくる。こういう空を今までも見たことはあったが、光が降ってくる瞬間を目撃したのは初めてだった。
彼は、大学ノートを腕にはさみこんだまま、制服のズボンのポケットに手をつっこんで、背筋をのびのびと伸ばして、遠い空に見とれた。滅多に見られないものを見ると、何かいいことが起きるような気がするのだ。それに、雲の裂け目から光が差す様子を見ると、どことなくその向こうにデジタルワールドがあるような気分になる。彼等がデジタルワールドへのゲートをくぐったのは、決まって小学校のコンピュータラボのパソコンからだったけれど。
デジタルワールドは、小学生の頃の記憶のまま、大輔にとって未だにまぶしい光の国だった。電脳世界の中に存在する、データの集積なんて一言では片づけられない。生命と天地、心の明暗の神秘が花ひらく、天国のような場所だった。
彼は、今は滅多に行くことの出来なくなった国のことを考えるのをやめ、そこにいる筈のヒカリの姿を探した。
昨日ヒカリが英語のノートを貸してくれたのだ。五時間目はヒカリのクラスの英語の授業だった。四時間目が体育だったおかげでばたついて、午前中には返しに行けなかった。慌てて着替えて昼休みに探しに行くと、ヒカリのクラスの女子が、八神さんは屋上でお弁当を食べてるよ、と教えてくれた。
デジタルワールドが変らない光の国だとすれば、八神ヒカリは大輔にとっていつまでも価値を減じない女神だった。大輔は長いことヒカリに憧れていた。何故こんなにヒカリに惹かれるのかは分からない。恋なのかどうかも分からない。ただ、まぶしくて、水のようにひんやりと透き通っていて、目を閉じて深く沈み込んでいきたいような、不思議な感覚をもたらしてくれる人だった。英語のノートなんて、本当はクラスの奴のを適当に見繕って借りればいいだけの話だ。それを二つ向こうのクラスのヒカリに頼みに行ったのは、少しでも話をするきっかけが欲しいからだ。
そんなに広いとは云えない中等部校舎の屋上で、ヒカリの姿はすぐに見つかった。給水塔の影で、誰かと隣り合わせて座っている。もう食べ終わったらしい小さな弁当箱が、ピンクのチェックの布できちんと包まれて置いてあった。ヒカリは、花模様のカバーをつけた、ハードカバーの本を膝の上に立てて読んでいる。
「ヒカリちゃん!」
大輔は大声を出して呼んだ。手をいっぱいに伸ばして振る。ヒカリの前に出ると、彼はいつも自分が犬になったような気がする。別に嫌な感覚ではない。前はヒカリと身長が変らなかったけれど、今は大分背も伸びて、まるでヒカリを守れる大型犬になったような、晴れがましい気分になるのだ。
顔を上げて大輔の顔を見たヒカリが、し、と云うように指を立てた。そして、そのほっそりとした指で、彼女の隣を指差す。大輔の正直な胸の中で、心臓ががくんと失速した。信じられない。どこまでヒカリにつきまとえば気が済むのだろう。大体、屋上で昼ご飯を食べているというのは、こいつと一緒だったのか? それとも偶然に会った? 頭の中をお決まりになった文句がぐるぐると回転した。腹立たしいことに、大輔がこの類の疑問に悩まされる頻度は、我慢出来ないほど高かった。
ヒカリの華奢な身体とフェンスの間に、斜めにもたれかかるようにして眠っているのは、体育の紺のジャージを来て、細長く伸びた手足を投げ出した、高石岳だった。
「ヒカリちゃん、あのさ、タケ、岳の奴と昼メシ……」
思わずどもった。岳とヒカリがべったりなのもいつものことなら、それに飽きもせずに動揺する大輔もいつものことだ。ヒカリは特に慌てもせずに、もう一度静かに、という仕種をした。
「お昼御飯は京さんと食べたんだよ。それに岳くん、ずっと屋上で寝てたの。熱があるみたい」
「熱?」
「体育一緒だったんでしょ。気がつかなかった?」
ヒカリの透き通った目でじっと見つめられて、大輔は思わず後ろめたくなった。別に岳の体調に気づかなかったところで良心に恥じるところはないが、ヒカリにそんな風に云われるとつらい。
「え……っとさ。ヒカリちゃんはどうして分かったの、こいつの熱」
「だっておでこが凄く熱いもん」
ヒカリはさらっと云って大輔をまた落ち込ませた。それではヒカリは岳の額に触ったのだ。小さな爪が桜貝のようなあの綺麗な手で。
「岳くん膝が痛いんだって。背が伸びてるからだね、きっと」
ヒカリは静かに本を閉じた。
「ね。大輔くん、あたしと替わって?」
「ええ!?」
「あたしラボのスライドの当番だからもう戻らないと。大輔くんなら教室に一緒に戻れるでしょ」
ヒカリが、大輔の過剰反応をよく思わないことを知っているのに、彼は思わず顔をしかめてしまった。彼女が云おうとしていることは分かっている。昼休みが終るぎりぎりまで、岳に肩を貸せ、と云いたいのだ。面白くないことだが、大輔は岳と同じクラスだった。もう岳とは腐れ縁としか思えない。一年の時も、二年になってからも同じクラスなのだ。そのくせ二回とも、ヒカリとはクラスが別れてしまった。大輔の慰めと云えば、岳もまたヒカリとクラスが別れたことくらいだった。
「ちぇっ」
彼はそれでも控えめに舌打ちした。
「ヒカリちゃんが云うならしょうがねーな。いいよ。替わるよ」
大輔の言葉にヒカリはにっこりした。丸い目を細めたその微笑みに、大輔は少し報われたような気がした。ヒカリは手に持っていた本をそっと下に置き、彼女の支えをなくして揺れる岳の身体を細い両手で支えた。本当に眠ってるのか、と大輔は思わず疑った。屋上なんかでそんなに深く眠れるものだろうか。
「大輔くん」
うながされて、彼はヒカリのいたところに滑り込んだ。岳がもたれかかってくるのを自分の肩で支えた。その身体が予想以上に軽いのに少し驚く。先が金色っぽい、色の薄い髪が、少し湿った風に揺れ動いて、大輔の肩にかかった。肩の位置は殆ど変らなかった。身長は岳の方が高いのに、座高は変らないのだ。彼には西洋人の血が少しまじっているから、と思うのだが、口惜しいものは口惜しかった。
ヒカリは大輔に英語のノートを受け取り、可愛いサイズの弁当箱の包みを手に立ちあがった。腕時計で時間を確かめる。右腕に巻かれた腕時計のリストバンドは、鮮やかなビタミンカラーのピンクだった。制服のブレザーの緑の袖口との取り合わせは何とも云えない。思えばヒカリは昔から、少しサイケデリックな色が好きだった。
「ヒカリちゃん、本忘れてるよ」
コンクリの床に置かれた花模様のカバーの本を差し出すと、ヒカリは首を振った。
「岳くんのなの、それ」
「ええ、これが?」
彼は急に怖いものを見たような気分になって、ブルーとセピア色の薔薇のプリントされた布カバーを見下ろした。
「黙って読んじゃ駄目よ。岳くんの日記だから」
ヒカリは、大輔にはとても抗いようのない、白い花のような笑顔を向けた。
「あたしたちのことが書いてあるんだよ」
大輔は、ヒカリの云った「あたしたち」が誰のことを指すのかを考えていた。ヒカリと岳のことなのか、それとも、デジタルワールドで一緒に冒険をした何人かのことを指すのか。だが、前者である可能性は殆どないと思った。ヒカリはそういう思わせぶりな、意地の悪いことは云わないだろう。黙って読んじゃ駄目、ということは、岳に断れば読んでもいい可能性があるのかもしれない。
(ああ。わっかんねー)
彼の頭の中は、疑問や、微妙な嫉妬や、好奇心がぶつかりあって不協和音を奏でていた。
それでいて、隣で寝ている岳を振り落としたり、揺り起こしたりするほど胸がむかつくかと云われれば、そこまでではない。要するに、大輔は岳に腹をたてることに馴れてしまったのだ。岳の寝息が聞こえてくる。そう云えば少し呼吸が速い。それに、もたれてきた身体は本当に熱かった。ジャージ越しにでもその身体が孕んだ熱が分かった。
だが、さっきの体育の時間は普段通りの岳に見えた。跳び箱のクラス新記録の十二段を易々と飛んで、周りの男子を悔しがらせたが、特に自慢する訳でもなく、涼しい顔をして笑っていた。熱があるなんて思いもしなかった。
────背が伸びてるからだね。
スポーツで負担をかけた太腿の筋肉が、成長期の膝の関節と折り合いがつかなくなって腫れることがあるのを、大輔も知っていた。オスグットというやつだ。彼はその痛みに縁がないが、サッカー部の先輩の中には、成長痛の痛みに耐えかねて、部活を長期で休む人もいた。岳は部活でバスケをやっているので、きっと膝を余計に傷めてしまうのだろう。その痛みがひどくなると熱を出すということも分かっていた。
縦にばっかりどんどん伸びるからだ。
もう一つ身長に伸び悩む大輔は腹立ち紛れに思う。
俺は大器晩成型なんだ。そんなことも思った。
(岳のやつ、ポイントガードって云ったっけ?)
バスケのルールには大輔は明るくない。ポイントと名がつくのでシューターなのかと思っていたら、実のところ岳は、試合運びを制御してシューターにボールを回す、サッカーで云えばMF的な役回りなのだそうだ。八分のクオーターを四回で構成する試合は、サッカーよりずっと体力的に楽なような気がするが、それを口に出した時は、普段のつかみ所のない岳に似合わず、ひやっと冷たい目で見られた覚えがある。
もっとも、岳が終始貫いている、にこやかな表情以外の顔があることは知っていた。詳しいことは云いたがらなかったが、賢もちらっとそんなことを云っていた。デリケートで思いこみの激しい賢は、一時期デジタルワールドで自分の方向性を歪めてしまったことがある。その時にどうやら岳と何かあったらしいのだ。口を滑らせたついでに賢にすっかり喋らせようとしたが、彼は、岳とどんなやり取りをしたのか、頑として打明けようとしなかった。
どうしてヒカリに会いに来たのに、こんなに岳のことを考えなければならないのだろう。
岳をもたれさせて、彼が目を醒ますのを待っている時間はほんの数分でしかないのだが、それは妙に長く思えた。
彼が目を醒ましたら、恩を着せてやろうかと思う。それとも日記の薔薇の花模様についてからかってやるか。大輔はため息をつく。どれも何となくヒカリに抵触するような感じがして気が進まなかった。
その時、浅く早い息をして眠っていた岳が身じろぎした。やっと起きたのか、と心底ほっとして顔を覗き込むと、岳はまだ目を開けていなかった。表情が歪む。眉をひそめて、唇を噛みしめるのが分かった。優しく整った、顔立ちだけなら好感度の高い岳の顔を、大輔はまじまじと眺めた。
(苦しいのか?)
病人を相手にするのは馴れていないので、彼は内心慌てた。だが、相手は岳なのだ。なまじ気を遣うと、目を醒ました後に笑って、大輔くん意外と心配性なんだね、などと云われかねない。そんなことをこいつに云われるのは屈辱的だ、と思った。
その時、間近に閉じた岳の睫毛の間に、淡く光るものが薄くあふれた。さっきヒカリの隣に岳がいるのを見たとき、心臓がローテンションになったのと、丁度逆のことが起こった。大輔の心臓が締めつけられ、跳ねるように走り出した。それは、曇り空が一部切れて、光が射し込むのと同じようなインパクトだった。髪や眉の色の淡い岳も、睫毛の色は濃い色だった。そんなことも初めて知る。そもそも彼にこんなに顔を近づけたのは初めてだった。亜麻色の睫毛の間から柔らかく涙が盛り上がる。熱のせいか、頬の奥に淡い血色をひそませた顔と、ひそめた眉、そして思いがけなく美しい涙のしずくは、大輔を、訳の分からない胸苦しい気分にさせた。
(いてーのか?)
(夢、見てんのか?)
軽いパニック状態に陥って大輔は岳の肩を掴んだ。
「おい、岳!」
今度こそ彼を揺り起こそうとする。
その途端、不意に岳の両腕が伸びて来た。
大輔の胸にふわっと身を投げかけるようにして岳の身体が飛び込んでくる。大輔のうなじに両腕が回り、細いが、しっかりした長い腕に抱きしめられて、大輔は目を白黒させた。間近に、柔らかい髪が光って見える。遂にあふれ出した涙が滑り落ちた。顎に、驚くほどなめらかな岳の頬の感触を感じる。大輔は身体をよじって岳の顔を覗き込んだ。唇に噛みしめた歯の跡がついて薄赤く染まっている。引き離されるのをいやがるように、岳が腕に力を込めたので、唇が触れそうな位置にまで近づいた。その柔らかく濡れた表面から目を離せなくなる。
「た、岳、お前────」
今や心臓を破裂しそうに高鳴らせた大輔が、力の入らない声でつぶやくと、その唇から、すすり泣くような声が漏れた。
「……ン……」
かすれた声に、大輔の身体は妙な具合にかっと熱くなった。
「な、何、だよ」
思わず声が上擦る。息が上がり、その唇に落ちていきそうになった。
すると、閉じた目を涙で濡らした岳は、はぁっと大きなため息をついてもう一度つぶやいた。
「────パタモン……」
大輔の顔に、今まで全身を激しく駆けめぐっていた血が、一気に集まった。
パタモンかよ!!
彼は、発光するように熱い岳の身体を受け止めて、がくんとフェンスに寄り掛かった。そういえば太一に、五年前に岳がパタモンと別れる時、花畑の真ん中に二人して座り込んで、声を上げて泣きじゃくっていたのだ、とこっそり聞かされたことがある。小さかった頃の岳は気は強かったが泣き虫だったのだそうだ。転校してきた頃から、人を食ったような笑顔の岳しか見たことのない大輔には、泣き虫の高石岳というのは想像もつかなかった。
彼は、岳に負けずとも劣らないため息をつき、彼を揺すった。
「おい、岳! 起きろ!」
薄赤い岳の項が、その大声にかすかに反応した。
「てめえ、保健室に行け!」
その瞬間、有り得ないほど近づいていた、濡れた睫毛が開く音を、大輔の耳は確かに聞いた。
「……あれ?」
寝起き特有の、そしてあるいは熱のせいでかすれてはいたが、いつも通りの岳の声が聞こえた。
小学生の時にさっさと声変わりしたくせに、いまだに高めの、甘くなめらかな声だ。
「大輔くん?」
「パタモンじゃなくて悪かったな」
岳は、大輔の首に巻き付けていた腕をほどき、そろそろと身体を後に引いた。そして、自分が泣いていることに気づいたようで、てのひらで頬を拭った。
「僕、泣いてた?」
「おう」
彼はぶっきらぼうに答えた。
「泣きながら寝てるなんて、お前もいい加減ガキだよな」
心臓が弾けそうな思いをさせられた悔し紛れにそう云ってやると、岳は傍にぐったりと座り込んで笑った。
「ほんとにそうだね」
少しだるそうな顔でもう一度頬を拭う。
「すごくいい夢見てたんだよ」
「パタモンの夢だろ?」
そう返すと、岳はそれ以上は云わずに、黙ってにっこりと笑った。その微笑はヒカリの、有無を云わせない、ひっそりと白い顔を輝かせる微笑に似ていないこともなかった。
「!」
ほんの数分前までは思うはずのないことを思った自分に気づいて、大輔はにわかに立ちあがった。こいつの笑った顔をヒカリちゃんに似てると思うなんて、絶対に今日の俺は異常だ。腹の底に力を入れてそう思う。どこかがおかしいから、さっき、岳の唇から目を離せなくなったのだ。異常だとしか思えない。
あと数センチ。
いや、ほんの一センチも近づけば、岳の唇に触れてしまいそうだった。
「とにかくお前は保健室に行け」
彼は、ぐいと岳の腕を掴んだ。今は彼に触れたくない気分だったが、実力行使せずにいられなかった。
「ふらふらしてる奴は公害だ」
「公害って」
岳は戸惑ったように笑う。掴まれていない右手でジャージの膝を払い、ヒカリの置いていった花模様の日記帳を拾い上げる。その花模様にもとてもつっこめなかった。
「ひどいなあ」
ふらふらしているやつが公害なのではない。
ふらつく高石岳が、本宮大輔に、個人的に害を及ぼすのだ。
正直には云えない大輔は、赤くなった顔を見られないよう顔を背けた。
そして岳の腕を乱暴に掴んだまま、先に立って歩き始めた。
※お題02に続きます。
※バスケットボールの公式ルールは1クオーター10分ですが、中学生の試合では1クオーター8分で、一試合の合計が32分になります。
TITLE:+++01「あと1センチ」 +++
DATE:2005/06/28 23:17